結成4年で東京グローブ座を埋めたお笑いコンビ・ラブレターズが確かににおわせる「来てる感」の正体

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塚本直毅(左)、溜口佑太朗(右)
 11月27日、ラブレターズにとって初めてのDVD『ラブレターズ単独ライブ LOVE LETTERZ MADE 「YOU SPIN ME ROUND」&ベストネタセレクション』(コンテンツリーグ)がリリースされる。このDVDには、8月に東京グローブ座で行われた単独ライブ「YOU SPIN ME ROUND」に加えて、これまでのベストネタが収録されている。  「キングオブコント2011」では決勝に進み、東京グローブ座での単独公演は大盛況。新世代コント芸人として進化を続けるラブレターズの2人を直撃した。 ――東京グローブ座という大きな劇場で単独ライブを行ったきっかけは、なんだったんですか? 溜口 最初は、事務所の社長に言われたんです。それで、このタイミングでやらせてもらえるなら、やるしかないな、と。やっぱり僕らは「来てる感」をどんどん出さないといけないなと思っていて。ライブシーンで勝っていくのはもちろん大事なんですけど、自分たちからいろいろ仕掛けていって、“あっ、なんかこいつら勢いあるな”っていうのを見せないといけない。 ――確かに「来てる感」は大事ですよね。 溜口 周りにそういうふうに思わせることができたら、自分たちのやる気にもつながるし、頑張れる。そこを出したかったんで、グローブ座では絶対やりたいなと思いましたね。 ――でも、そんなに大きな箱で客席が埋まるかどうかという不安はありませんでしたか? 塚本 めちゃくちゃ怖かったですね。僕は消極的な部分もあるので、“えっ、そんなに入るかな?”って思ったんですけど、相方が「いや、そこはやったほうがいい」って。 溜口 僕も怖かったですけど、事務所が「やってみればいいじゃん」と言ってくれたので。たぶん、失敗しても失敗にならないような気がしたんですよね。たとえお客さんが入らなくても、ああ、こいつら無茶したな、っていう笑いにもなりますし。どっちにしても、面白くはなると思うんで。僕は、自分たちのハードルをどんどん上げたいんですよね。僕らは2人とも、プレッシャーがないとだらけちゃうんで。 ――私も伺いましたが、結果的には大盛況でしたね。 塚本 はい、ありがたいことに。まさか、ですよね。埋まるとは思ってなかったですから。 ――ライブの準備は大変でしたか? 塚本 そんな大きいところでやったこともなかったので、だいぶしんどかったですね。 溜口 本番の1週間前に事務所の人とかスタッフさんに通し(稽古)を見せるんですけど、そのとき本(台本)があまり上がっていない状態で。それを見せたら、いろいろなスタッフさんからバーッと意見を言われたんです。「演出が全然ダメだ」「今までの小さい小屋のスケールでやってるから面白くない」とか。社長からも「このままじゃ、絶対失敗する」って。 塚本 今までの単独ライブと違って、関わる大人が一気に増えたんですよ。 溜口 今までは3~4人くらいしかいなかったのに、今回はDVD収録もあったりして、裏方さんの人数も莫大に増えていて。次の日の稽古場で2人きりだったんですけど、塚本がパイプ椅子をぶん投げてキレてましたね。 塚本 そのときは「あの人たち、なんなんだよ!?」って思ってました。でも、僕、今まで椅子なんか投げたことないんで、緊張しちゃって……(笑)。上手に投げられてなかったでしょ? 溜口 ダサかったよ。 塚本 うまく投げられなかったんです。投げる瞬間の3秒くらい前から心臓もバクバクいってて、緊張しちゃって。 IMG_41249.jpg 溜口 それで2人で大げんかして。僕もどちらかというと社長側というか、そういう意見を持ってたんで。 塚本 それまでの単独をやるときには、結構僕らに委ねてくれてたんですよ。でも、1週間前になって、社長とかがバーッと意見してくれたときに、一気に相方がそちら側の意見に同調しだして。“お前までなんなんだよ!?”ってなった。あれはびっくりしたなあ。 ――溜口さんは、そのときはどういう心理だったんですか? 溜口 何よりも丸く収めて成功させたいっていうのはあったんですけど、でも、“今言わないとこのライブ自体がぐちゃぐちゃになるだろうなあ、って。僕もやっていて気持ち悪い部分があって、どこが面白いのかわからない状態だったので、ここで一度スッキリさせて2人の意見を言い合わないと、本番でただ恥かくだけだな、って思って。それで1回ケンカしてリセットさせたんです。 塚本 そこからの1週間はスムーズにいきました。 ――このライブでやったネタの中で、印象に残っているものはありますか? 塚本 そうですね、「My name is...」っていうキラキラネームのネタとか。キラキラネームって、今あふれてるじゃないですか。僕はバイトでお店の受付みたいなのをやってるんですけど、本当に全然わかんない名前の人が来るんですよ。それを見るたびに「なんなんだよ」って思うんですよね(笑)。「月」と書いて「ライト」と読む、みたいな。キャバクラ嬢とか、ホストの名前みたいなのが多いから。社会派コントを作りたかったんです。そういえば、今回は社会派のやつが多いですね。パンツのネタ(「秘密の青春~僕らのPNT大作戦~」)とか。 溜口 パンツ? 塚本 やっぱり男子はみんな、パンツが見たくてしょうがないでしょう。で、見られる方法を必死で探すじゃないですか。……あれ、これ僕だけなんですか? 溜口 いや、お前の趣味だよ。社会は関係ないよ(笑)。でも、パンツのネタは2人で作っていてすごい盛り上がったんです。学生時代、僕らはイケてなかったんですけど、イケてるやつらって、冗談で女子のパンツを見ようとできる人たちなんです。 塚本 あー、わかるわかる! 溜口 同じクラスの女の子が階段上ってるときに、イケてるやつってこうやって(かがんで)覗けるじゃないですか。それで女の子もそれを見て「ちょっと、やめてよ!」みたいな。僕らもそれをやりたかったんですよ。 ――同じことを自分たちがやったら、本気で引かれてしまうと。 塚本 そう、“何あいつ!?”みたいな感じになるので。 溜口 それで実際パンツを見てるわけだから、イケてるやつはいい思いしかしてないんですよ。その分、僕らは頭を使って、どうにかしてパンツを見ようと。そこは2人の意見が一致したよね。 ――お2人のイケてない学生時代の経験が、ネタに反映されてるんですね。そう言われてみると、ラブレターズは学生コントが割と多いですね。 塚本 そうですね、結構多いですね。学生時代より、コントで学ラン着てたほうが楽しいですからね。いつも高校当時の学ランを着てるんですけど、学ランも喜んでますよ。 ――お2人とも学生時代は、そんなにイケてなかったんですか? 塚本 高校はまだマシだったんですけど、中学がつらくて。そのために一生懸命勉強して、ヤンキーのいない高校に行ったんです。 溜口 僕らは、どっちかがイケてたらたぶん長続きしなかったでしょうね。 塚本 そうだね。イライラするだろうし。 IMG_14248.jpg ――そういうところで話が合うんですね。 溜口 ありますね。こういうやつ嫌いだよね、とか。 ――ラブレターズのネタの特徴を一言で表すとしたら、どういう感じになりますか? 塚本 どうなんだろう、えーっと……「ねじれた青春コント」ですかね。明るい青春ではないです。 ――ちょっと心の闇を感じさせるような。 溜口 共感してほしい部分があるんです。僕らはこんなやつなんで、どうか皆さん応援してください、って。笑わせたいっていうより、こういう人もいるよ、僕らを見てくれよ、っていう感覚のほうが強い。教室の隅っこで頑張ってるやつもいるんだよ、っていうのをアピールしたいためのコントなのかもしれないですね。 塚本 だからやっぱり、僕らを好きって言ってくれる人はどこかねじれてるんですよ。 溜口 ネタを書くとき、「ラブレターズっぽい」とか考える? 塚本 考えるよ、一応。行きすぎたら、ああ、やばいやばい、ってなるし。ネタを考えるときには、溜口佑太朗というフィルターを通してどれだけマイルドに届けられるかな、っていうのを考えるんですよ。たぶん、ほかの人がこのセリフを言ったら引くだろうな、っていうところを溜口さんがキャラとか演技で笑える感じにしてくれるんで。それに頼りつつ、自分の言いたいことを代わりに言ってもらおうと思ってるんですけど、たまに「あっ、これを言わせたら、いよいよ僕は人としてダメだな」っていうのがあって。たまにあるでしょ? 溜口 あるね。マジでやばいよ、って。このDVDに収録されているネタでいうと「あの娘ぼくが笑顔見せたらどんな顔するだろう」とかは、特にそうですよね。 ――そのネタは、台本を渡されて溜口さんがドン引きしたそうですね。 溜口 ドン引きしました。ああ、もう終わりだな、って。行くとこまで行ったな、っていうのがありますよね。僕のフィルターをどんなふうに見てるのかわかんないけど、僕もそんなに分厚くないですから。 ――まあ、でも、かなり分厚いほうだと思いますよ。何を言ってもちょっとかわいく見える、みたいなところがありますからね。 溜口 いやいや、そのフィルターも今はこしすぎてカスカスになってますよ(笑)。 ――でも、「あの娘ぼくが……」のネタは、キングオブコントの予選でも披露されていたし、そこでも爆発的にウケていたし、結果的にラブレターズの代表作みたいになってますよね。 塚本 そうですね。だからもう、味しめちゃいますよ。 溜口 こういうのでお客さんが笑うからダメですよね。そうすると、塚本がまたこういうのを書いちゃいますから。お客さんも笑わずに、これはダメなんだって思わせないと。ああ、やっぱポップじゃないとダメなんだ、っていう考えにしないと。 ――最後に、このDVDのおすすめポイントを教えていただけますか。 溜口 100%ラブレターズのDVDなので、これで面白くないって言われたらそれはもうしょうがないな、っていう感じです。ハマる人はかなりハマってくれるという自信はあります。面白いっていうか、こういう人たちもいるよ、って伝えたいですね。 塚本 親戚がみんなDVD買いたいって言ってくれてるんですけど、ちょっと怖いんですよね。僕のヤバいとこがバレちゃうよ、って(笑)。 (取材・文=お笑い評論家・ラリー遠田/撮影=名鹿祥史) ●ラブレターズ 塚本直毅と溜口佑太朗からなるお笑いコンビ。2009年結成。活動2年目の「キングオブコント2011」でファイナル進出、7位入賞。

格闘ゲーム世界一の男が見る世界の風景とは? ウメハラが『勝負論 ウメハラの流儀』に込めたメッセージ

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“世界で最も長く賞金を稼いでいるプロゲーマー”梅原大吾氏。
 16歳で格闘ゲーム『ヴァンパイアセイヴァー』全国チャンピオンとなり、17歳で格闘ゲーム『ストリートファイターZERO3』の日米大会「STREET FIGHTER ALPHA3 WORLD CHAMPIONSHIP」で優勝。若くして世界チャンピオンの座に就いて以降、数々の格闘ゲーム大会で好成績を残し「世界で最も長く賞金を稼いでいるプロゲーマー」としてギネスにも認定されている男・ウメハラこと梅原大吾。  2004年にアメリカで開催された対戦格闘ゲームの祭典・Evolution2004の『ストリートファイターIII 3rd STRIKE』部門で見せた、「背水の逆転劇」をはじめ、数々の名勝負を繰り広げてきた彼の「勝負哲学」をまとめた新著が『勝負論 ウメハラの流儀』(小学館新書)だ。ウメハラはいかにして「勝ち続ける自分」を作り上げていったのか? そして、一体何を考えながら日々の勝負に挑んでいるのか――? 世界最強の称号を持つ彼に、話を聞いた。 ■のびのびと生きるための「成長」 ──梅原さんの半生をまとめた前作『勝ち続ける意志力』に続く本作『勝負論 ウメハラの流儀』は、梅原さんがどういう意志を持って勝負に臨んでいるのかがうかがえる一冊になっていますね。 梅原大吾(以下、梅原) 前作は、自分が生きてきた道のりや考えていることを正直に書いてみようという内容でした。格闘ゲームファンにはそれなりに楽しんでもらえるとは予想していたんですけど、いざ出してみたら一般の人にも受け入れられたみたいで、小学館さんから「第2弾もいかがですか?」と提案されて今回の企画がスタートしました。自分としては、前作では言い足りなかった、勝負事というか、何かに取り組むときに何を大事にしているのかという部分を書いたつもりです。 ──本作を通して語られているのは、一つ一つの勝敗に一喜一憂するのではなく、長期的に見た時にいかに成長できるか、という点を重視するという梅原さんの思想です。梅原さんにとって成長することとは、どういう価値を持っていますか? 梅原 もともと自分は怠け者なんです。子どもの頃から楽しくないことはやりたくないし、嫌なことがあったら投げ出してしまう。学校の宿題はまともにやらないし、授業中も眠ければ寝るという不真面目な性格だったんですが、何かに取り組みたいというエネルギーは余っていて、ゲームだけはずっとやり続けていました。ただ当時は格闘ゲーム、というかゲームがどれだけうまかろうが認められないという時代だったので、10代で世界チャンピオンになった時も全然満たされることがなかったんです。その時に、ずっと勝ちたいと思って結果を出し続けてきたけれど、それだけでは自分が満たされることはないんだって気づいたんですよ。その後、プロ雀士を目指して麻雀の世界に入ったり、介護の仕事を始めたりするんですけど、結局自分がなぜゲームや麻雀を頑張るのかと考え直した時に、自分が少しずつよくなっていくからだと思うようになったんです。 ──自分の成長のために勝負し続けるわけですね。 梅原 そうですね。子どもの頃の自分にはコンプレックスがあって、人前に出たり、ゲーム仲間以外の前では自分の言いたいことが言えないというのが恥ずかしくて、“この気持ちを抱えているうちは、俺の人生はずっとこんな嫌な感じを抱えていかないといけないんだな”と漠然と感じていたんです。そんな気持ちを少しずつ和らげてくれたのが、「俺は成長している」という実感だったんです。そこで、自分が成長を実感できていれば、子どもの頃みたいに嫌な思いをせずに人生を送ることができると気づいたんです。だから、自分にとって成長とは誰かに見てもらうとか、それによってお金とか名誉を得るということではなく、のびのびと生きていくためのものですね。 ──今年で梅原さんは32歳で、自分も33歳ということでほぼ同世代なんですが、30歳過ぎになると社会的に中堅どころというポジションになりつつある年齢かと思います。そこで「まだ成長しきっていない」「完成していない」ということに焦りを覚える人も、少なくはないのではないかと思います。その点、梅原さんは自分が未完成で、成長しきっていないということに楽しみを見だしているように感じます。 梅原 成長というものに関して、他人の価値観はどうだっていいんです。自分がどれだけ成長して、どれだけ素晴らしいかなんて、時代や国、接している人によってその基準は変わってしまいます。自分にとって成長する目的は、負い目を感じないように生きていくことです。それを一番に考えると、人の目を気にしないというよりは、気にしていられないんですよね。他人の評価を基準にしてしまうと、目的を達成するのは無理だと思います。自分の内面から聞こえる「お前は成長してないんじゃないか」という声にはすごく敏感なんですけど、世間からくる圧力に関しては、ほとんど影響を受けないようにしています。 ──本書では、毎回の勝負が特別な舞台と思わないように意識したり、勝ってもその余韻に浸ったりしない、といったセルフコントロールを心がけていると書かれています。成長に対する意識も含めて、梅原さんは非常に自己を客観視されていますよね。その目線は、いつ頃から生まれたと思いますか? 梅原 子どもの頃から、けっこう普通にやっていました。12~13歳くらいからずっとゲームセンターにいたんですが、対戦ゲームとはいえそこに人間同士が関わっているので、反面教師になることや、勝者と敗者のデータやサンプルがいっぱいある場所なんですよね。自分は人間観察が好きだったので、どうすれば自分のモチベーションや強さを維持できるかというのはずっと考えていました。  そこで出した結論としては、一回一回の勝負で集中力を途切れさせないことが一番だということです。一回勝ったから休もう、となった時に、じゃあ次はいつから始めるのか、次に始める時は前と同じくらいやる気があるのかなど、いろいろな問題があることが分かったので、勝とうが負けようが一定のペースでやることを心がけて実践しています。 ──自己の成長を最大の目標にした時に、勝負の大小やイベントのステージ上かどうかはもはや関係なく、いずれも等しく一つの通過点でしかないということですね。 梅原 そういうことです。 ──もしかしたら梅原さんは、周りの人はおろか、自分すらも分析の対象なのかもしれませんね。 梅原 はい。昔からそうなんですけど、「この人はこの人だから」「これはこういうものだから」とは、あまり考えないんです。学校の先生とかがよく言う「これはこういうものとして覚えなさい」「偉い人が考えた法則だから覚えなさい」というのが大嫌いだったんです。人間に対しても同じで、「あの人はああいう人だから」っていうのが嫌で、あの人はなぜああいう人なのか、なぜ勝っているのか分析するのがすごい好きなんです。それで分析していくと、すべてが分かるわけではないけど、やっぱり「ここは間違いないな」とか「勝つ上で、ここは絶対に外せない」という法則みたいなものがいくつか見えてくるんです。だから、自分はそういう「ここは間違いない共通点ですよ」ということだけを言っているつもりなんですよね。 ■ウメハラのプレーが感動できる理由 ──梅原さんは、紆余曲折を経て、現在のプロゲーマーという仕事にたどり着きました。世界チャンピオンの地位まで上り詰めたゲーマーとしての地位を捨てて、ゼロの状態からプロ雀士を目指すべく麻雀の世界に入り、再びその道を捨てて社会人としての生き方を選んだ末に、あらためてプロゲーマーとしてゲームの世界に戻ってきました。この時の年齢が30歳前ということで、勇気をもらった同年代の人も多いのではないでしょうか。 梅原 そうですよね。いざ“この仕事をやる”と決めても、不安な気持ちが先に立って、なかなか別の世界に行くというのは難しいと思います。ただ、きっと自分は己の感情に敏感なんですよね。今、自分はすごく嫌な我慢をしてるんじゃないかとか、ここに希望を感じてないなとかね。でも、食べていかなきゃいけないという理由で、その感情に目をつぶってしまう人が多い中でも、自分にとってはこの我慢を続けるほうが不幸せなんです。世間から見たら生き方を間違っているとか、恥ずかしい選択をしているのでは、と頭をよぎるんですが、間違いなくこっちの生き方のほうが充実しているし、長い目で見れば自分にとっては楽しい人生になるに違いないと思ったら、行動しちゃうんです。でも、さすがにプロゲーマーになる時はちょっと考えました。ゲームは好きでずっとやってきたし、間違いなく自分にとって一番得意なことだけど、どう考えてもそれは仕事にはなり得ないだろうと一度は確信したから、ゲームをやめたんです。プロは存在し得ないと自分の中で何年か前に結論を出しているから、たぶん他の人よりもプロゲーマーという仕事に対して否定的な気持ちが強かったんです。でも10年だか20年だかたった時に、当時、自分しかできなかったはずのプロゲーマーという仕事をしていたらどうなっていたんだろうと後悔するのは嫌だなと思ったので、プロゲーマーになることを決意しました。 ──プロゲーマーの日常は、どんな毎日なんでしょうか? 梅原 人それぞれだと思います。プロといっても、それだけで食べているわけじゃない人もいますし。自分の場合は、ジムに行ったり、一日10時間くらいひたすらゲームの練習をしています。そのゲームに関しても、いろんなゲームをやるプロもいますが、自分は一つのゲームをやり込んで、見た人が驚くプレーをすることを一番に心がけています。 ──勝つことではなく、ギャラリーを驚かせたい? 梅原 もちろん、勝ち負けを度外視してプレーすることはないですよ。ただ、ゲームというのは人間が作るものなので、たまにすごく簡単に勝つことができるキャラクターや戦法が見つかる場合があるんです。でも、それが非常に効率的だからといって、そういう戦い方をして連勝したり大会で優勝したとしたら、見ている側としては「プロがやっても結局同じなんだ。だからこのゲームはつまらないから、やらなくていいよね」って結論になると思うんですよね。そうなると、ゲームがどんどん売れなくなって、周辺機器も売れなくなる。僕についてくれてるスポンサーってゲームの周辺機器を作ってる会社なので、そうなったら結局困るのは自分じゃないですか? だからもちろん全力で勝ちにいくんですけど、これはやっちゃいけないとか、このキャラを使っちゃいけないというルールは自分の中に明確に持っています。自分の中にそういった制限をつけながら、それでも勝つことをあきらめないでプレーしていると、自然と周りが驚くプレーになるんです。こんなキャラで勝てるんだっていうことがまず驚きだし、みんなが知らないような戦略を考え付いて実践できるからこそ、誰もが思いもよらなかった勝率を出せたりするわけです。だから自分が驚かせたい、というのはそういうことです。例えば、アマチュアの賞金稼ぎならみんながシラケちゃうプレーをするのも、百歩譲ってありだとは思うんですけど。ただ、それも長い目で見ると、自分自身にとってはマイナスだと思います。 ──プロだからこそ、誰もが気づかなかった価値を提示してみせると。 梅原 そうですね。こういうふうにやるともっと面白いよ、という勝負を見せていくということが大事なのかなって。やっぱり、当たり前の結論には誰も感動しないですからね。一番強いって思われているキャラで、一番強いと思われている戦法を使って勝っても、それはそうだよねとしか思われないですからね。 ──梅原さんの戦いぶりや試合を見ていると、しばしば昭和プロレスに通じるドラマ性を感じてしまうんですが、その理由は、梅原さんの勝負に向き合うその姿勢にあるのかもしれませんね。 梅原 ただ、それでも勝てなきゃ相手にされない世界なので、難しいことを要求される世界だと自分では思っています。なんでもありだとシラケちゃう。だから、何をやっても勝つっていう人の何倍も練習しないといけないんですよね。でもそれは企業にスポンサーについてもらってやらせていただいている以上、当然の義務だと思っています。 ──ゲームをやっていてうれしかったと感じるファンの感想とは、どんなものですか? 梅原 「こんなキャラでも頑張ればこう戦えるんだ。じゃあ俺も仕事を頑張ろう」とか「俺もあきらめかけていたことを一からやり直してみようかな」といった感想ですね。「そうそう! そういうメッセージを俺は伝えたいんだよ!」って。当たり前の結論に負けない姿を、ゲームを通して見せていきたいと思っているので。  うちの姉が、何かと要領のいい人だったんですよね。それを見た時に、要領の悪い自分が普通に生きてたら、こういう人には絶対に勝てないっていうのが子どもながら直感的に分かったんです。その後、ゲームなり麻雀で努力していくわけだけど、その間も子どもの頃に感じた「俺は要領が悪い」という意識がずっと残っているんです。格闘ゲームの世界チャンピオンになっても、要領の悪さは変わりません。だから、自分は要領が悪いってあきらめている人も、本当はあきらめる必要はないと思います。確かに生まれつき、要領の良し悪しの差はあるんだけど、自分のペースで頑張り続ければ「ここに関しては、あいつに負けねえ」っていうものが持てるということをみんなに知ってもらいたいです。みんなが努力しても、当然勝者と敗者が生まれます。じゃあ努力しても成果を出せなかった人は、次から努力しても無駄ということなのかというと、そうではないと思います。敗者に楽しむ権利はないとは思わないし、いつまでも負けっぱなしでもないと思います。 ──すごく勇気をもらえる力強い言葉です! 梅原 だから、この本は要領のいい人は読まなくてもいいかなと思います。あと、プロゲーマーを目指している人にも、特に言うことはありません(笑)。ただ、それ以外にこの本を読んでみようかなという人がいるんだったら、さっき言ったように、何事もあきらめる必要はないんだよ、ということを伝えたいです。自分のペースでいいから成長を実感できてれば、少しずつでも努力していくことが楽しくなってくるし、結果として自分に自信がついて、人付き合いも堂々とできるようになるので、いいことずくめだと思いますよ。 (取材・文=有田シュン)

自称“クズ”芸人コンビ・スパローズ新作DVDは「出しても売れませんよ」「断ったほうがいい」

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撮影=名鹿祥史
 自らを「クズ」と称する自虐ネタが業界内で評判を呼んでいるスパローズ。借金を重ねて地獄を見た、芸歴19年なのに売れていない、ネタ作りもサボりまくる……。ただクズに生きることを突き詰めた彼らは、漫才、コント、フリートーク、すべての分野でクズな笑いをもぎ取る「クズのスペシャリスト」となった。  そんな彼らが11月8日、初のDVD『ビジネスクズ』(三栄書房)をリリースした。自他ともに認める「キング・オブ・クズ芸人」の2人がクズの生き様を語る。 ――DVDが出るという話を初めて聞いたとき、どう思いましたか? 森田 「出しても売れませんよ」って、はっきり言いました。 大和 「いざ出して売れないとなると、僕らのことを応援してくれてる数少ないファンの人たちにも迷惑をかけることになるから、断ったほうがいい」って、マネジャーにも言ったんです。 森田 最初はスタッフの人にも「これはとりあえず出すだけで、売れるかどうかは関係ないから」って言われてきたんです。でも、発売1~2週間前あたりから急に、「○○枚は売ってもらわないと……」とか生々しい数字を突きつけられて(笑)。まあ、出していただけるのはありがたいので、どんな汚い手を使ってでも売っていこうとは思ってます。 ――このDVDには、今年5月に行われた単独ライブ『ビジネスクズ』が収録されていますね。このライブをやるにあたっては、初めからクズをテーマにしてネタを作るという気持ちがあったんでしょうか? 森田 いや、別にそういうつもりもなかったんですけどね。僕らが作ったネタを周りが見たら、クズに見えただけなんです。 大和 普通にやってるネタに「クズ」という言葉があとからついてきた感じなんで。 森田 ショックだったのは、前売チケットが即完(即日完売)で、追加公演までやったんですけど、4公演で当日キャンセルが70枚。お客さんのほうがクズだったっていう(笑)。 大和 まあ、これも僕らが、ローソンチケットに頼むお金をケチったせいなんですけどね。メール予約のみ、っていう人間を信じたやり方をしたんです。でも、大勢キャンセルが出たから、結局、手数料を払ってでもローソンチケットに頼んだほうがよかったんですよ。次からはローソンチケットを使います。 森田 お客さんが空席を見て「即完って、ウソだったんだ」って言いだしましたからね。 大和 やっぱり来なくてもいいから、お金だけは払ってもらわないと困るんで。そのためには、ローソンチケットは必要なんですよ。 森田 何回ローソンチケットって言うんだよ! ――いまや都内のお笑いライブシーンでは「クズといえばスパローズ」というイメージがありますが、お二人はもともと、ご自分たちがクズだとは思ってなかったそうですね。 森田 そうですね。もともと僕らは福岡でお笑いを始めたときに、芸人だったら借金しろ、酒飲め、ギャンブルしろっていう教えを受けて育ってきたので。それをそのまま続けていたら、東京に来てから周りの芸人に「それはおかしい」って言われて。福岡にいた頃は、僕らなんかよりもっとすごい先輩がいたので。車に住んでる40過ぎのおじさんとか。 大和 遅刻をごまかすために、車に飛び込んだことがある人とか。 IMG_0953.jpg 森田 “遅刻で怒られるぐらいなら、はねられたほうがいい”って(笑)。あと、ボートレース場に行って、お金がないからずっとボートのエンジン音だけ聞いてる人とか。そういう人たちの中で育ったんで、自分たちがクズだとは一切思ってなかったんですよ。でも、最近急に、周りからひどい、ひどいって言われ出して。 ――最近の若手芸人には、真面目な人が多そうですよね。 大和 お笑いの学校ができたからじゃないですか。みんな高校とか大学を卒業して、そこからまたお笑いの養成所に入るじゃないですか。だから、真面目な感じが多いですよね。 森田 僕らが芸人を始めた頃は、大卒もほとんどいなかったですからね。今はもうみんな大学行ってて、1年養成所行って、23歳ぐらいから始めるでしょう。人間ができあがってから、お笑いを始めてるんですよね。 大和 そういう人は、努力の仕方を知ってるんですよ。大学受験とかを乗り越えた人って、ネタ作るための頑張り方を知ってる。僕らは乗り越えられなかったから、寄り道しちゃうんです。その寄り道の部分がネタになってる。 森田 僕らの場合は「ラクしたいからお笑い始めた」みたいなところもありますからね。 大和 ラクしたくて始めたことで苦しめられてる。そこから生まれたクズなんです。 ――お二人がネタにしている「クズ」とは、わかりやすく言うと、どういうことなんでしょうか。 森田 僕が思うに、僕らのクズはファンタジーなんです。例えば、うちの大和さん、携帯電話の料金をどのぐらい滞納してたんでしたっけ? 大和 15年。 森田 たぶんこれが3年滞納だったら、「なにこの人、ひどい!」になるんだけど、15年って聞くと、お客さんの想像を超えてるから、ファンタジーになるんですよ。そんな世界があるんだ、っていう。 大和 想像できる範囲だと引かれちゃうんですよ。「あの人、友達に1万借りて返してないらしいよ」って言われたら「ひどいやつだな」ってなるけど。 森田 大和さん、バイト先の人にいくら借りてるんでしたっけ? 大和 45万。 森田 そうなると、もうファンタジーなんですよ。 大和 45万までどうやって借りたんだろう、っていうことがわからないから、もう笑っちゃってるんですよ。 森田 あと、ちょっと「すごい」になるんです。15年滞納とか45万借りてるとかになると、私には真似できない、すごい、っていう方向になってくるんで。 大和 自虐ネタも、コツは一緒なんですよね。「俺たち売れてませんから」とかちょっと言うより、売れなさすぎて吉本興業っていう大きな組織にまで文句を言うくらいめちゃくちゃだと、もう誰も怒らないんですよ。自虐もぶっとんだ感じにして、行き着くところまで行けば笑えるんだな、っていうのを学んだのかもしれないですね。 ――クズも自虐も、笑える・笑えないのラインがありますよね。 大和 あります。だから、クズなことを言うときも「みんなが引くんじゃないかな」って思わずに、もっと上を行ってしまえば笑いになるんですよ。もう意味がわかんないから。 ――最近、ウーマンラッシュアワーの村本さん、ドランクドラゴンの鈴木さんなど、クズキャラを売りにして活躍する芸人さんが増えていますね。この「クズブーム」の風潮については、どう思いますか? 大和 面白いと思います。それぞれ種類が違うんですよね。 森田 村本くんはファンに手を出すとか、女性関係のクズ。鈴木さんは本当に何もしない、やる気がないタイプ。 大和 僕らはお金がない、ネタ作りもあんまりしない……手持ちのクズのパターンは多いと思いますよ。女性関係でクズな部分もありますし。 森田 借金に関しては、これから出てくる若手には負けないと思います。今の時代はもう、大和さんほど借金できないんで。 ――法律が変わりましたからね。 森田 最後のサラブレッドだと思いますよ。 大和 たぶん、この感情をリアルに伝えられる人は、もう生まれないんじゃないかと思います。これだけ借りてる人は、犯罪やらかすぐらいの追い込まれ方しますから。 ――借金の額は、ピーク時にいくらぐらいだったんですか? IMG_0924.jpg 大和 消費者金融に借りたのは四百何十万で、あとは家賃を何カ月か滞納して、人からも借りていて……本当にやばいときはもう、総額を計算できないんですよ。2日に1回くらい返済日があって、15社にいくらずつ返す、っていうのを考えないといけないので。  でも、本当に追い込まれたら芸人辞めることも考えないといけないんですけど、僕はなんとか踏ん張ったんです。これ以上だと親に連絡が行くな、と。そこで初めて努力の大切さを知るんです。もう、この人には言いづらいけど言わなきゃいけない。言うためにはちゃんとした格好しないといけない、とか。ギリギリのところで今度はまともな人間に変わっていくんですよ。そこを乗り切るために努力しました。芸人続けるために、なんとか踏みとどまったんです。逃げることもできたんですけど、逃げたらお笑いができなくなるので。 ――最近は『カイジ』など、ギャンブルにのめり込んだりするクズの心理を描いたマンガも多いと思いますが、好きなマンガはありますか? 森田 僕が一番好きなのはやっぱり、福本伸行先生の『最強伝説 黒沢』ですね。あれの人間模様の描き方はすばらしいなと思って。工事現場で周りから好かれるためにアジフライを買ってきてこっそり弁当に入れるところとか、たまらないですよ。 大和 『カイジ』でいうとやっぱり、一番わかりやすいのは地下帝国のところなんですよね。節約するつもりだったのに、ビール1杯飲んだら崩れていくとか。 ――『闇金ウシジマくん』なんかはどうですか? 大和 『ウシジマくん』は、読み終わった後に暗い気持ちになるじゃないですか。ひどいマンガだな、って。で、そこでふと気付いたのが、あっ、2~3個は自分のほうがひどいのあるな、って。『ウシジマくん』のエピソードに勝ってるんですよ。 森田 たぶん普通の人は、『ウシジマくん』を非現実的なものとして見てるじゃないですか。でも、僕らにとっては現実なので。 ――リアルなものとして楽しめる、ということですか。 大和 いや、僕は楽しめなかったですね。すぐそこにある現実のような気がして、ただ重い気持ちになりました。マンガに出てくるめちゃくちゃひどい状況の人も、それにかするくらいの人には実際に会ってたりするんですよ。お金がなくて行った日払いのバイト先には、そういう人の予備軍がいっぱいいますから。あれはやっぱり楽しめない。僕にとっては、ファンタジーではないですね。 ――DVD『ビジネスクズ』はどういう人に、どういうふうに見てもらいたいですか? 森田 気楽な感じで、たれ流しで見てほしいですね。じっくり見なくていいと思います。ろくでもないやつらがなんかやってんな、っていう感じで。 大和 あと、自分は普通だと思ってる人とか。普通に学校入って普通に就職して、っていう人が見たら、ああ、こういう世界があるんだ、って新鮮に思えるかもしれないですね。 ――それとは逆に、クズな人にもおすすめですか? 大和 そうですね。『ウシジマくん』とかだと生々しくて引いちゃうかもしれないけど、これは笑いにしてるんで。本物のクズの人が見ても「浅いよ」とは絶対思われない自信があります。ちゃんと攻めてるのもありますから。クズな人から真面目な人まで楽しめると思います。 (取材・文=ラリー遠田) ●スパローズ 森田悟、大和一孝の2人から成るお笑いコンビ。共に福岡県出身。11~13年には3年連続で「THE MANZAI」認定漫才師に選ばれている。 オフィシャルブログ <http://ameblo.jp/asai-sparrows/> ●イベント情報 11月17日(日)DVD発売イベント開催! 詳細は以下のURLにて。 <https://ssl.bsfuji.tv/form/jj/form/sparrows_form.html>

「今こそ業界をバッサリ改革すべき」“黒のカリスマ”蝶野正洋が、プロレス界の暗部に斬り込む!

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撮影=尾藤能暢
“黒のカリスマ”こと、プロレスラー・蝶野正洋。武藤敬司、橋本真也とともに「闘魂三銃士」と呼ばれ、ベビーフェイス(善玉)から「狼軍団」でヒール(悪役)ターン、以降も「nWo ジャパン」、「TEAM2000」を結成し、一大ムーブメントを築いた男。常にプロレス界をリードし、その頂点を極めたカリスマは、業界全体が衰退している今、一体どんなことを考えているのだろうか。著書『プロレスに復活はあるのか』(青志社)で、これまでタブー扱いされていた現役レスラーによる業界への苦言を呈した彼の真意とは? ――まずは、本書『プロレスに復活はあるのか』を出版しようと思ったいきさつを教えてください。 蝶野正洋(以下、蝶野) 今年9月で50歳という節目を迎えたのが理由のひとつ。それまで新日本プロレス(1984~2010年まで所属)で選手兼フロントの立場でやってきて、デビューから10~15年で(自身やプロレス界の)状態がすごく上がっていたんですけど、20年目くらいから下降してきて。それを止められたし、業界全体をもっと上昇させられたはずだという思いがあったんです。 ――2000年頃までのプロレス人気をもっと維持、上昇させる手段はあったと? 蝶野 ええ。オレがこれまで蓄えた知識や経験を、プロレス業界全体で共有したほうがいいと思ったんですよ。プロレス団体は昔から分裂を繰り返してきて、新日本プロレスも、今自分がアドバイザーとして携わっている全日本プロレスも、経営陣がもともとプロレス業界じゃない人たちになっている。新日本にいたときも、ユークスさんが経営に入って、現場のことをゼロから教えなきゃいけない状況でした。これは残して、これは切り捨てるという判断は、業界外には分かりづらいし難しいんです。それなのに業界はそのままで進んでしまって、無駄な時間があったなと感じて。ほかの団体もそうですけど、他業種からオーナーが入って来たときに、同じことを繰り返さないように注意したいんです。そうすれば業界はもっとよくなるはずです。 ――著書の中では、業界に対して苦言を呈していますが、当の業界関係者からの反響はありましたか? 蝶野 業界に古くからいる人たちからは「本当にその通りです」ってことを言われてますよ(笑)。ただ、それがわかる人たちが、どんどん業界から排除されているのが現状なので、残る人たちにも最後の投げかけになるのかもしれないですね……。新日本プロレスも、上層部はほとんど変わっていますし。 ――そんな状況の中で、特に危惧している点はなんですか? 蝶野 業界の、悪い意味でのビジネステクニックがあって、過去を見渡してもそれがトラブルの原因になってることが多いんですよ。そこはやめていくべきだと思っています。 ――悪いビジネステクニックといいますと? 蝶野 例えば、チケット販売ですね。チケット=金券(カネ)ですから、そこはしっかり管理しなくちゃいけない。ところが、今でも営業の人間が自分たちで勝手にチケットを発行して、売掛を作っては回収できないってことが多いんですよ。自分で金券を発行しているようなものですから、そこは曖昧にしないで、バッサリ改革するべきです。それを続けていると変な欲がでてくるから、そんな材料なんか持たせないほうがいい。これから業界に入ってくる新しい人たちのためにもね。 ――それが、団体が分裂したり揉めたりする原因にもなっていると? 蝶野 新しく入ってくる営業の人が、そういうのを見るのは嫌気が差すと思うんです。それに、チケットのノルマを与えられて、どっかで行き詰まってしまったときに、自分で金券を作れるというのは、なんかの間違いのきっかけになっちゃうし、やる気や正義感のある若い人たちを変な方向に持っていっちゃう可能性も大きいですから。 B8411291.jpg ――蝶野さんの目にも余る悪習だったんですね。 蝶野 みんな、言われればわかるんですけどね。営業の人間が分裂を繰り返していくうちに、根本の原因を忘れて、人同士のケンカになっちゃって。何が最初のケンカのきっかけだったのかっていったら、カネなんですよ。本にもそのことを書いているので、業界の古い人たちからの反響がしっかり来るのではないかなという感じはしてますね。 ――ところで、新日本プロレスがブシロードの子会社になってから、集客数が2~3割伸びているそうですけど、蝶野さんはどう感じていますか? 蝶野 先日、久しぶりに新日本の会場に行ったんですけど、オレたちがいた頃に少しずつ近づいている気がしますね。プロモーターと話したんですけど、全盛期の3分の1、最近ようやく2分の1くらいの集客に戻ってきたように感じます。長州(力)さん、藤波(辰爾)さんの時代はテレビのプロレス、オレたちの世代は紙=週刊誌のプロレスで、今はSNSをはじめとするITの時代。その攻め方が世間とうまくマッチングすれば、全盛期の2~3倍の集客も可能だと思います。 ――そこまで集客を伸ばすために、今プロレス業界がするべきことはなんでしょうか? 蝶野 今、プロ野球全試合で、半年間で864試合(リーグ戦のみ)ありますよね。今のプロレス団体の規模でやったら、とてもそこまでの試合数はできない。それに、例えばゴールデンウィークなら、どの団体も東京、大阪、名古屋など人が多い都市で試合をやりたがるから、そこで客の奪い合いが起きるんです。日本全国どこへ行ってもゴールデンウィークなんだから、最低でも西と東、その中でもさらに3ブロックに分かれて、それぞれが興行をしなきゃいけないんですけど。それは、業界としてスケジュールを組まなきゃいけないし、そうすると団体数も多くなきゃいけない。そこが全然発展していないので、それができる興行体制、選手体制を作らなきゃいけないんですよ。 ――それを難しくしている要因は、どこにあるんでしょうか? 蝶野 「あの団体とは一緒にやりたくない」っていう上層部同士のぶつかり合いもありますし、会場の問題もそうですね。会場となるホールや体育館は1年前に押さえて、2~3月前までキャンセルを受け付けるんですよ。だけど、それが今では大きい会場でもイベントが少なくなってきて「半年前に確定の内金を入れてください」という状態。興行は変更になることも多いから、なおさら業界全体で年間スケジュールが立てづらいんです。でも、今の業界が衰退しているときこそ、お互いが歩み寄って全体の管理ができる時期だとは思っているんですけどね。 ――今の若い選手に対して思うところはありますか? 著書の中では「怒りが足りない」とおしゃってましたけど。 蝶野 今の選手もオレらの若い頃もそうでしたけど、キレイな試合を組み立てたい、競技を見せたいっていう意識が強いんですよね。先日、全日本の解説に行って、ドリー&テリー兄弟のザ・ファンクス対淵(正信)さんと西村(修)の試合を見たんですけど、最初はザ・ファンクスの二人とも自分のいいところを見せようとしていて。もういい年なんで、それでいいと思ったんですよね。ところが、淵さんのキックがドリーの口に入って出血した途端に、ドリーの戦い方が変わったんですよ。ドリーはもう72歳なのに、カーっとなっちゃって(笑)。 ――ドリーほどの技術と経験を持っている選手でもそうなってしまうのが、プロレスなんですね。 蝶野 もうジジイなのに(笑)。現役選手には勝てないけど、相手に立ち向かっていくあの気持ちはプロだと思いましたね。闘争心に火が付いたところで初めて戦いが始まるのがプロレスなんですよ。 B8411279.jpg ――近年、蝶野さんは試合への出場を控えめにしていますけど、その怒りやフラストレーションはどこで発散しているんでしょうか? 蝶野 今は若い選手の相談に乗ったり、攻防面でのアドバイスをしたり、選手を焚きつけることで発散してます。「ここはチャンスだぞ、やってしまえ!」と(笑)。 ――蝶野さんが若い頃も、そうやって焚きつけられてたんですか? 蝶野 オレは焚きつけられた選手を仕向けられるほうだった(笑)。三銃士は好き勝手にやってたから、上の人からしてみたら押さえつけるのが大変だったって。だからマサ(斉藤)さんなんかが、(ビッグバン)ベイダー、(クラッシャー・)バンバン(・ビガロ)、(スコット・)ノートンら外人選手をけしかけてたみたいで。相手に「マサが『あいつらは若いから何やってもいいぞ!』って言ってたぞ」って聞いて、「マサさんが!? なんだとコノヤロー!」って感じで、滅茶苦茶やられては、やり返して(笑)。 ――確かに、その当時は激しい試合が多かったですね! 蝶野 ノートンなんか腕力はあるけど経験がないから、まともにやったらプロレスにならない。それでマサさんが「おいノートン、お前は力が強いんだから腕力だけでぶん殴ってこい!」なんて焚きつけてさ。武藤さんなんて、それでケガしちゃって。 ――武藤選手とノートン選手の試合はすごい試合が多かったですが、マサさんが後ろで糸を引いていたんですね! その武藤選手とは最近、やりとりはあるんですか? 蝶野 最近はないですね。武藤さんが全日本を辞める騒動のちょっと前に、彼の右腕である内田(雅之)さんを通して、「現場ではここに気をつけないと、足元をすくわれるぞ」っていうアドバイスをしたりはしてたけど、結局、現場じゃなくて上層部と揉めちゃったから、そこはノータッチでした。 ――武藤選手は独自路線、自分の思った道を突っ走る人ですよね。 蝶野 それはそれでいいと思いますよ。武藤さんの全日本は、彼をトップにキレイな縦社会が形成されていて、とてもよくまとまっていましたし。ただ、縦社会になりすぎると、下の選手がいつまでも上に行けないんですよ。オレたち三銃士は自分たちの意見を出して、その上を倒していったんですけどね。今の若い奴らは、手を上げて物を言わない。アンダーテーブルで意見交換をし合って、ヘタしたらみんなで手を上げて意見を言うような感じ。それは時代の風潮なのかもしれないけど、オレは自分から手を上げて、前に進んで行きましたから。 ――蝶野さんは本当にいろんなことをしていますよね。プロレス以外でも露出が多いですし。それもプロレス人気復活のためにやっていることですか? 蝶野 いや、そこらへんが難しいところで。(月亭)邦正をビンタするのは、プロレスにつながってないような気がしてきて(苦笑)。プロレスを知っている人は「お、蝶野が出てる」って注目してくれるけど、若い人には違ったイメージが付いちゃったみたい。それはしょうがないですけどね(笑)。まぁ、プロレスラーとして見てくれる分にはいいかなと。 ――十分、プロレスラーの強さは伝わっていると思いますよ(笑)。最後に、本には書ききれなかったこと、あえて書かなかったことってありますか? 蝶野 それはプロレス界が次のステップに移行するための方法論です。各団体、関係者には提案していますけど、それはオレのライフワークとしてこれからやろうとしていることだから。ファンにはその活動に注目してほしいし、期待していてほしいですね。 (取材・文=高橋ダイスケ) ●ちょうの・まさひろ 1963年9月17日、アメリカ・シアトル生まれ。84年10月、新日本プロレスでデビュー。海外修行から帰国後、武藤敬司、故・橋本真也とともに「闘魂三銃士」を結成、一躍看板選手へと成長を遂げた。とりわけ96年以降、一大ムーブメントとなった「now」の総帥として絶大な存在感を発揮。その後、「TEAM 2000」を結成。10年2月に、デビュー以来26年所属していた新日本プロレスを離れ、現在フリーランスとして活動中。

「家族サービスは小倉競馬場だった」“テレビ界最後の大物キャスター”草野仁の知られざる亭主関白時代

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撮影=尾藤能暢
先日、著書『話す力』(小学館)を上梓したテレビキャスターの草野仁氏。近年は“肉体派キャスター”として、マッチョな伝説が注目を集めているが、本職はご存じの通り、元NHKの売れっ子キャスター。その経験を生かし、自分の思いを言葉にして伝える術や、よいスピーチのコツなどを、実際に自分が聞いて感心したエピソードや、タレント、芸能人たちの話術をもとに解説している。読みやすい文体に、分かりやすい例え話が多く、すぐに実践できそうな話し方のコツが綴られ、ビジネスマンも重宝しそうな一冊だ。そんな本書を書くこととなったいきさつや、亭主関白時代のちょっとヒドいエピソードとは……!? ――実際にお会いすると、体つきがたくましいですね! どんなトレーニングをしているんですか? 草野仁(以下、草野) いやいや、トレーニングというほどのものではないですが、ストレッチ、ダンベルを使った運動、エアロバイクなどは日課にしていますね。もうすぐ70歳になりますし、自分の思った通りに体が動くように、ある程度は鍛えたいと思ってはいますね。 ――そのお年で、その体つきはヤバいですよ! やっぱり、自分の体を眺めたり、露出したりするのは好きなんですか? 草野 はっはははははは(笑)。そこまでナルシストではないですよ! ――いろいろな番組で披露しているので、てっきりお好きなのかと思いました! いきなり脱線してすみません……。で、本題の『話す力』ですが、本書を執筆しようと思ったきっかけを教えてください。 草野 欧米人は話し上手で、日本人は口ベタという構図が常識になっていますよね。それはなぜなのかと自分なりに考えてみたのですが、欧米人というのは、昔から肌の色、髪の毛の色、目の色も違う人たちが集まって、ひとつの共同体を作っているじゃないですか。そこで、何か問題があって、話し合いをしなければいけないときに、自分の意見を分かりやすく、明快に伝えられないと、構成員としては認めてもらえないはず。だからこそ、彼らは自分の思いを言葉に託して、ちゃんと話すような習慣がついたのではないか。それが、ギリシア時代から続き、雄弁術や修辞学という学問も発達するようになったんだと思うんですね。 ――違う人種の人たちと意思疎通するには、言葉でしっかり伝える必要があった、と。 草野 ええ。日本人の場合は、封建社会が長く続いて、お上の意思が下々の人たちに自然に伝わる上意下達のシステムができていた。さらに江戸時代になると、儒教の精神が浸透してきて「男でペラペラしゃべる奴にロクなのはいない」とされ、不言実行がよしとされていましたから、あうんの呼吸で、息遣いで理解しようとする。歴史的に見て、日本人はしゃべって自分の考えを伝えるという経験を、ほとんど持っていません。 ――欧米では教育段階でしっかりカリキュラムを組んで、ディベートなども活発に行っているそうですね。 378A0190.jpg 草野 そうなんですよ。日本ではそのへんがまだまだで、圧倒的に彼我の差がある。「そこを埋めるためには、どうしたらいいだろうか? どうしたら我々の考えたことを、言葉に託して言えるようになるのか?」を考えていたら「そうだ、私自身が46年間放送の世界にいて培った、自分流の話し方や表現方法が使えるんじゃないか」と思ったのが、本書を書くきっかけになりました。 ――草野さん自身、欧米人と差を感じた経験は何かありますか? 草野 経験ではないのですが、我々アナウンサーは大卒で入社すると、話すことの修練をさせられるんです。それで、ある程度そのスキルがついたところで「○○の番組で読め」と言われてアナウンサーとしてデビューするわけですが、欧米のテレビでは「アナウンサー」という職種はないんですよ。つまり、ちゃんと教育を受けた人は誰でもしゃべれるという考え方で、最初からブロードキャスターとして採用されるんです。そして、ニュースをただ読むのではなく、いろいろな問題や事件を自分で取材して、自分の考えで報道できるようなシステムになっているんです。 ――そこまで、力量が認められているんですね。本書『話す力』は、さまざまな方のエピソードや、実際のスピーチなどを織り交ぜて、非常に読みやすく、分かりやすい内容でした。書くにあたって、気を配った点はなんですか? 草野 職業柄、いろいろな会場でスピーチを聞く機会が多いのですが、そこで実際に聞いて、すごいなぁ、いいなぁと感じたエピソードを紹介しようと思いました。プロゴルファー・石川遼選手が青木功選手へ贈った見事なスピーチ、映画監督の松山善三さんが結婚披露宴で述べた祝辞など、今でも一言一句思い出せるような印象深いエピソードを紹介しています。 ――また本の中で、雑談力をつける方法として、ニュースや新聞などをチェックして一般的な話題を取り入れる「横軸」と、この話題ならいくらでも話ができるという「縦軸」のジャンルを日頃から勉強するようにしましょうと書いてらっしゃいましたが、草野さんの「縦軸」ってなんですか? 草野 仕事としてスポーツ放送を担当していて、実況中継でいえばNHK時代に30競技くらい担当したので、スポーツに関してはお話しできると思います。あとは、映画、音楽……のジャンルは限られるけど、古いタイプのジャズは、ある程度はついていけますね。それと、競馬が大好きなので、それはまったく話が尽きないくらいです(笑)。 ――競馬といえば、本書でも触れてましたけど、家庭サービスで家族を競馬場に連れていったそうですね。 草野 ええ(笑)。家内に、何か家庭サービスをしろと言われましてね。最初は車で5分くらいの公園に連れていったんですよ。そしたら「あれは家庭サービスのうちに入らない」と言いだしましてね。“ああ、近いからダメだったんだ。じゃあ、今度はもう少し遠いところに行くか”と思いまして、当時は福岡にいたので、自宅から車で1時間のところにある小倉競馬場に、家内と家内のお母さん、息子2人を連れていったんですよ。 ――時間の問題じゃないでしょう(笑)。まして、その頃の小倉競馬場なんて、女子どもの行くところじゃなかったと思うんですが……。 草野 今でこそキレイになりましたが、当時はね……。そんな中で、日よけも何もないベンチに家族を放り出して、自分は一日中馬券を買っているという(笑)。 ――それは家庭サービスじゃないですよ。ずいぶん亭主関白だったそうですね。 B8411239.jpg 草野 福岡放送局の同僚の間では「いかに女房を粗末に扱っているか」を自慢し合っていましたからね。「このままではいけない!」と気づいたのが、なんと結婚17年目ですよ。NHK時代は「オレは働いているからいいんだ!」って威張ってるわりに稼ぎが少なくて。当時のNHKは本当に給料が安くて、民放の50~60%くらいだったと思います。 ――意外に安かったんですね……。 草野 ええ。それからフリーになって、朝の番組の担当をしたんですね。朝3時半くらいに起きて、準備をして、4時過ぎに家を出て、5時に局に入るという毎日を送っていました。そんなある日、朝起きてハッと気づいたんですよ。家内は僕より30分~1時間前に起きていて、冬は部屋を暖めたり、お茶を入れたりして、準備をしてくれているわけですよ。「そうか、敵も結構大変だな」と、その時初めて思いまして。 ――敵ですか(笑)。 草野 そこからは相手の立場を慮って、威張り散らさなくなりましたね。40歳くらいのことです。家内にしてみれば、そういう変化は喜ばしい、夫としてちゃんと更生の道を進んでいるそうです。ふっふふふふふふ(笑)。 ――人間は、いくつになっても更生できるということですね。お年でいえば、みのもんたさん、久米宏さん、松平定知さんは同い年なんですが、お互いを意識することはありますか? 草野 昭和19年生まれ組は、いまだにみんな頑張っていますよね。私の場合は、ほかの方がみんな大きい存在だったから、みのさんや久米さんを意識するようなことはなかったですね。ただ、久米さんが『ニュースステーション』(テレビ朝日系)でやっていた、最後に軽い皮肉を込めて言い抜けるテクニックとか、参考にしたりしていましたよ。 ――それが『世界ふしぎ発見!』(TBS系)で回答者をたぶらかす司会ぶりに生かされているんですね! 草野さん、最近は、真面目に見えて実はマッチョだったり、ちょっとダーティーだったりするところが注目されていますね。 草野 『草野☆キッド』(テレビ朝日系)で浅草キッドのお2人と共演してからですね。私のそういう部分を、見事に引き出してくれて。NHKにいたころはカッコつけてましたけど、そりゃ人間ですからバカバカしい部分もありますよ(笑)。 ――そういう部分も、草野さんが親しまれている大きな要因ですよね。 草野 ただ、家内にはなんと思われているか。これからも真面目に、夫として更生の道を歩んでいこうと思います(笑)。 (取材・文=高橋ダイスケ) ●くさの・ひとし 1944年満州生まれ、長崎育ち。テレビキャスター。東京大学卒業後、NHKに入社。主にスポーツ・キャスターとしてモントリオール五輪、レークプラシッド五輪の実況中継やロサンゼルス五輪のスタジオ総合司会を務める。85年NHKを退社し、フリーのテレビキャスターとなる。現在、『世界ふしぎ発見!』(TBS系)、『主治医が見つかる診療所』(テレビ東京系)などに出演中。

「ウケるようになって、戸惑ってる……」気鋭の女性コンビ・日本エレキテル連合の“コント道”

nihonele01.jpg  今、お笑い界を震撼させている1組の若手女性コンビがいる。アウトローな関西人カップルの逃避行を描いた「ナニワシンドローム」など、過剰なまでにディテールにこだわったコントを演じる日本エレキテル連合だ。彼女たちは今年の「キングオブコント」でも準決勝に進出。『爆笑レッドカーペット』(フジテレビ系)、『ぐるぐるナインティナイン』『芸人報道』(ともに日本テレビ系)などにも出演経験があり、業界内での評価は高い。  あの独創的でどぎつい世界観のコントはどこから生まれているのか? 普段は何をしているのか? すべてが謎に包まれている2人の素顔に迫る。 ――コンビを組んだきっかけは? 中野 私たちはもともと関西のお笑い養成所に通っていて、そこで知り合ったんです。初めはそれぞれがピンで活動してました。私の相方に対する第一印象は最悪で「こいつ、売れないな」って思ってました。 ――どう悪かったんですか? 中野 本当に寒かったんです。面白くなくて、イタい感じだったんで。同期で女の子は私たち2人だけだったんですけど、こいつとだけは絶対やりたくないなあと。どうせすぐ結婚して辞めるんだろうなあ、って思ってました。 橋本 めっちゃ言うやん!(笑)ピンで活動していたときは、同期で女の子が2人しかいなかったので、お互い意識はしていたんです。でも、中野さんのほうがライブに出てもウケるし、お客さんの投票でどんどん上の方のライブに昇格していって。私はずっとスベってたんで、そこは差がありました。 ――コンビを組もうと切り出したのはどちらからですか? 橋本 私からです。1人でやっててもらちが明かないので、「どうかコンビを組んでください、お願いします」って、土下座して。 中野 そのときに「なんでもするから」って言われたんですよ。それで「なんでもするなら組んでやるよ」って。いまだにその約束は続いてます。 橋本 いま一緒に住んでるんですけど、毎朝モーニングコーヒーを入れて起こしてあげたりとか、なんでも言うことを聞いて、中野さんの世話をしてます。 中野 パジャマののり付けまでさせてますから。 ――橋本さんとしては、そこまでしてでも組みたかった、と。 橋本 はい、私は中野さんがすごく面白いと思っていたので、この人の力を借りてなんとかやっていこう、って思いまして。 中野 私はこの人の我(が)を出さないようにして、一から作り上げていきました。この人が私のキャンバスなので。コンビを組んで育てていくのが楽しかったですね。 ――実際に組んでみてからはどうでしたか? 中野 本当に苦労しました。なんでも言うこと聞くって言ったのに何もできなくて。例えば、ボケとツッコミっていう役割があるのに、そんなにボケないし、かといってツッコミもできない。あと、買い物を頼んでも間違えたりとか。 ――別のものを買ってきちゃうとか? 中野 それもありますし、何を買うか忘れて「んあんだっけ?」って電話かかってきたり。 橋本 そうね、買い物に行っても中野さんに5回ぐらいは電話かけたりしてましたね。今はちゃんと学習をして、メモを取るっていうことを覚えたので。 ――取ってなかったんですね! 橋本 でも、私は私で、中野さんが人見知りで人付き合いが苦手っていうのはわかってるので、そこはがんばってフォローするようにしてます。この間、中野さんが先輩の長井秀和さんとしゃべっていて。人見知りすぎて何を話したらいいかわからなくて、血液型を聞いてましたから(笑)。 nihonele02.jpg ――コントの衣装と小道具へのこだわりが強くて、大量に持っているそうですね。 中野 はい、ネタで使ってない衣装も多いです。私たち、コントのネタは30本くらいしかないんですけど、衣装だけで300着ぐらいあります。そのために家を一軒借りました。あと、ガレージも借りたりして、そういうところにもお金がかかってます。 ――一度買ったものは捨てられない、っていう感じですか? 中野 そうですね、ゴミ屋敷です。 橋本 モノが多すぎて管理ができないのがつらいですね。本当はもっといっぱいいろいろ欲しいのに、どこにしまっていいかわからない。だから、コントで「これが欲しい」って思ったら、準備のために3時間ぐらい前から探し始めないといけないんです。 中野 一応、1つの部屋に3本物干し竿をかけて、そこに衣装がバーッとかけてあるんですけど、それでも足りなくて。メガネだけで50個ぐらいあったりして、それがいろんなところに散らばってます。 ――普段はどうやって衣装や小道具を探してるんですか? よく行く店とかありますか? 中野 あります。近所に行きつけの店が4つ。そのうちの1つのリサイクルショップはすごいですよ。今そこで狙ってるのが、でっかいお琴。ゴルフクラブが1本100円だったりとか、とにかく格安なんです。 橋本 あと、作業服・作業用品の専門店。あそこは楽しいですね。 中野 私たち、ルミネとか行って買い物するよりキャッキャ言ってますね。「ゴム手袋がある!」とか「どのヘルメットにしよう?」とか、そういうのが楽しいです。 橋本 「胸に差すボールペンは何色にする?」とか、いろいろアイデアが膨らんで2人でテンション上がっちゃいますね。あと、フリーマーケットとか骨董市は必ず調べて、時間があるときは遠出してでも行こうって決めていて。それと、市のリサイクルの掲示板みたいなのがあって、そこに「燕尾服譲ってください」っていうのは出してます。探してるんですよ、燕尾服。 中野 あと、十二単。 橋本 なかなかないんですよね。 ――でも、そういうやり方で衣装や小道具を買ったりしていると、さすがに出費がかさみそうですね。 中野 でも、見ちゃうと欲しくなるんです。「あのときあれを買ってなかったからこのネタができない」ってなる方が怖い。 橋本 その辺は2人で意見が一致していて、お金を惜しまず買うようにしてます。最近、こんな(両腕で抱えるくらいの)でっかい鈴が欲しいって言ってて。 中野 何に使うかっていうのは決めてないんですけど、でっかい鈴は探してます。 ――ご自分たちの普段着は買わないんですか? 中野 そうですね。相方は今年の夏、Tシャツ2枚だけで乗り切りました。 橋本 帰ったらすぐ洗って、干して。 中野 自分たちの服なんてもう何年も買ってないですね。興味がないわけじゃないんですけど、そのお金があるなら衣装を買いたい。 ――衣装と小道具にそこまでこだわるのはなぜですか? もともと買い物好きなんですか? 中野 いや、違います。コントのためです。女子だから、変身願望があるというか、違う人になれるのが楽しくて。アクセサリーとかまでこだわっちゃうんです。別の役なのに同じ衣装を着てるっていうのがすごく嫌で、変えちゃったりとかするんです。いろいろなネタをやるけど、メガネやネクタイも一度もカブってないです。そんなとこ誰も見てないんですけど。 nihonele03.jpg ――お2人がコントで演じるキャラは、しゃべり方などにもクセがあって、アクが強い人が多いですね。それはどうしてですか? 中野 最初はおとなしいんですけど、キャラを入れていくうちにだんだんおかしくなるんです。初めは普通だったのに、完成したら全然違う。 橋本 だんだん盛っていって、原型をとどめてない。最近はキャラを演じながら、お互いを笑わせようっていう感じでやってるので、楽しいですね。 中野 見ている人の中には原型の方が好きだったっていう人もいますね。最近はだんだんわけわからなくなってきて、抽象絵画みたいになってるので。 橋本 「最初こんなんだったっけ?」って言われます。 ――ネタはどうやって作ってるんですか? 中野 いろいろなパターンがあるんですけど、衣装を着て鏡の前に立って、さあ、何しよう、って考える場合もあります。あとは、街を歩いていて「あの人、やりたいなあ」って思いついたり。 橋本 ネタは全部中野が書いてるんですけど、「このせりふが言いたい」っていうところから作っていったネタもあります。 ――例えば? 中野 「政治家の愛人やるんだったら、本妻が訪ねてきたときにお茶出すぐらいの器量ってもんを持っときなさいよ」って啖呵(たんか)が切りたい、とか。私が政治家の妻という役柄でそのせりふを言いたくて、そこからネタを作ったりしましたね。 ――ネタの発想はどこから来ているんでしょうか? 橋本 ネタが始まって板付き(演者が舞台に立っている状態)で明転(舞台が明るくなること)したときに「こいつら何やるんだろう?」って思わせるようなことを考えます。 中野 一番最初の印象でウケないと最後までウケないんです。最初に明転したときに2人を見て笑いが起きたら、だいたい最後まで行ける。 ――ネタを見ているときのお客さんの反応はどうですか? 笑われる以外にもあります? 中野 悲鳴があがることもありますね。あと、「何やってんだ」という感じでにらみつけてくる人もいます。そういう反応には慣れてますけど。かといって、あまりに笑われるとこっちが戸惑うんです。笑ってくれるのはありがたいんですけど、自分たちも探り探りやってるので、ああ、こういうのがウケるんだ、とか思ったり。 ――最近はテレビに出る機会も増えてますね。 中野 本当にありがたいんですけど、「世も末だな」って思います(笑)。私たち、ずっと「何してるの?」って言われてきて、全然ウケなかったのに。だんだん認められて、ウケるようになってきて、ありがたいんですけど戸惑ってます。私たちにみんなが合ってきてるっていうのが今度は怖くなってきて。逃げなきゃ、って思いますね。 橋本 何が目的なの?(笑) ――今後の目標はありますか? 橋本 とにかくコントで認められたいっていうのがあるので、「コントが面白いやつといえば、日本エレキテル連合」とみんなに認識されるようになりたいです。 中野 コントでは「見た目が中身を邪魔しない」っていうのを目指してます。見た目も中身のディテールも両方成立してるのって、歌舞伎ぐらいだと思っていて。それをやっている芸人さんがほかにまだいないので、できるようになりたいです。 (取材・文=お笑い評論家・ラリー遠田/撮影=名鹿祥史) ●にほんえれきてるれんごう 橋本小雪と中野聡子からなるお笑いコンビ。2007年結成。 https://twitter.com/elekitel_denki http://ameblo.jp/elekitel/

「狙うはオネエハーフタレント枠」“オネエすぎる一流イケメンモデル” IVANって何者!?

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 毎回、大御所芸能人や文化人、一流スポーツ選手などが自らの過ちを告白し、悔い改める人気バラエティ番組『有吉反省会』(日本テレビ系)。これまでにも、さまざまな著名人が衝撃の告白を行い、話題を振りまいてきた同番組から、またニューカマーが誕生した。  パリコレ経験もある超一流トップモデル・IVAN(アイヴァン)が、オネエであることをカミングアウトしたのだ。スペインと日本人のハーフである父親とメキシコ人の母親を持つ、その端正な顔立ちと抜群のスタイルからは到底想像もつかないオネエしゃべりや仕草だけでも驚きだが、さらに番組内でぶっちゃけた“元彼”をめぐって、放送後はネット上がお祭り騒ぎに。“オネエハーフタレント枠”を狙うIVANとはいったい何者なのか、本人を直撃した。 ――こう見ると、本当に女性っぽいですね。 IVAN あはは。ありがとうございます。普段はだいたいこんな感じです♪ メンズの服着る時は男装だと思ってますから。 ――『有吉反省会』出演後の反響はいかがでしたか? 特に女性ウケがよかったみたいですが。 IVAN 想像以上に反響がありましたね。ブログのコメントもすごかったです。街を歩いてても、「有吉反省会?」ってひそひそ声が聞こえたり……。おかげさまで、その後も番組に呼んでいただいています。 ――オネエに目覚めたのは、いつ頃なんですか? IVAN 物心ついた時からですね。“なんで男の子の列に並んでいるんだろう”とか、プール入る時に“女の子はかわいい水着なのに、なんで自分はパンツなんだろう”みたいな違和感はありましたね。女の子として扱われたい、という思いが常にありました。 ――初恋も男性……? IVAN もちろんでございます! 同じ小学校だった、サッカー部のカワマタくん♪ 勉強はできるし、サッカー部のキャンプテンだし、学校のアイドルだったんです。私が彼のこと好きっていうのは友達伝いになんとなく広まっていたんですが、卒業式の時に名札もらったんです。こないだの同窓会で会うまで、ずっと好きでしたね。あんまり変わってなくて、やっぱり思い出って色褪せないからドキドキしちゃって……。まぁ、彼には奥さんも子どももいたんですけど。でも私、実は同窓会では一番モテたんです。「ちょっとホテル行こうよ」とか、「今日は俺がIVANを持って帰る!」とか(笑)。 ――女性と付き合ったことはあるんですか? IVAN カモフラージュとして、何人かありますよ。でも、大変でしたね。やっぱり最終的には友達みたいになっちゃうし、同性の感覚になっちゃうので、女の子に言い寄られても「ごめんね、あたしレズじゃないんだ」って。 ――チューとかエッチは? IVAN うふふふ……Bくらいは頑張ってするんですが、ビジネスみたいな感じ。抵抗はすごくありましたね。これが女にモテないオネエだったらいいんですけど、私モテちゃうの! ごめんなさい、自分で言っちゃって……。当たりが優しいから、中性的な人に見られちゃうみたいで。毎回、別れる時は結構大変でした。 ――『有吉反省会』では、俳優の鈴木亮平さんやサッカーの内田篤人選手、やり投げのディーン元気選手といった和風顔が好みだと言っていましたが、いま恋人は? IVAN いないです。仕事と事務所マネジャーさんたちが恋人です! ――アイドルみたいな発言ですね(笑)。そもそも、デビューのきっかけはなんだったんですか? IVAN 子どもの頃から子役のタレントアカデミーに入ったり、沖縄アクターズスクール(東京地区1期生)でレッスンを受けたりしていたんですが、本格的にお仕事として始めたのは18歳の時ですね。カリフォルニアの高校を卒業して、日本に帰ってきてすぐにスカウトされたんです。 ――モデル時代は、オネエってことを隠していたんですか?
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“男装”すると、こうなります。
IVAN はい、最初は言わなかったですね。男性モデルとしてお仕事いただいていたので、絶対オネエだなんて言えない雰囲気でした。 ――男性として誌面を飾るのに、抵抗なかったんですか? IVAN 自分が男だというのは中学校くらいの時に認めたことだし、“しょうがないな”“いつか体もちゃんと変えられればいいな”って思って生活していたので、そういった抵抗はなかったです。モデルで仕事ができるなら、これでやるしかない。男らしくしなくちゃ、って気が張っていましたね。 ――そんな中、カミングアウトしようと思ったきっかけは? IVAN ちょうど自分がモデルやってる時のファッションの流行が、グラムロックだったんですね。メイクしたり、髪の毛伸ばしたり。だんだん、自分のオネエの部分をポッケから出せるようになったんです。細いデニムにハイヒール履くとか。「よっしゃ、これこれ!」って。で、徐々にレディースのショーに出てみないかって話が来たり、そこから少しずつ扉が開けるようになりました。モデル業界では、みんな知ってたんじゃないかな。 ――IVANさんはわずか3年のモデル活動の中で、パリコレまで行っちゃったわけですが、トップモデル業界はオネエって多いんですか? IVAN う~ん、基本的には女好きな遊び人ばっかりですけど、バイセクシャルな人は多かったですね。私みたいに、あからさまにオネエオネエしている人はいなかったですけど、知ってるモデルの中にはちょこちょこいましたね。私が初めてお付き合いした男性も、モデルちゃんでした。 ――へぇー! 彼もバイだったんですか? IVAN 私もともと、付き合う男はみんなストレートな人なんです。ノンケ食いってやつです。ゲイの人とはぜんぜん付き合ったことがなくて、むしろモテない……。だいたい最初にモーションかけるとわかるんです。「この人、イケるかも」って。ダメそうだったらまったくアプローチしないし。イケそうな人にはガンガン行きますね。彼の場合も「これ、絶対食える」と思ってモーションかけたら、案の定、コロコロコロって……。そこで味占めましたね(笑)。 ――狙った獲物は、だいたい落とせる? IVAN はい、だいたい(笑)。気になった男性には、得意の腰フリダンスで迫ります♪ ――07年にはPENICILLINのHAKUEIさんプロデュースで歌手デビュー。グラムロック歌手としてご活躍され、その後、突然失踪。ホームレス生活を送っていたというウワサは本当ですか? IVAN はい。歌手活動は方向性が違ったり金銭トラブルがあって、ある日不満が爆発して、荷物まとめて、当時住んでいた事務所の寮から飛び出したんです。一度フェイドアウトしようと思って。今振り返ると、身勝手で申し訳ない気持ちでいっぱいなんですが。行く当てもなく、とりあえず隅田川のホームレスが集まっているところに行って「すいません、ホームレスになったんですけど、派閥があるみたいなんで、教えてください!」って弟子入りしたんです。そこでワンカップ飲みながら、いろいろ教えてもらって。  その後、一旦、兄の紹介で建築現場で働かせてもらったんですが、こんなだから「はぁ~~」とか言ってコンクリートパレットも持てないし、足場も「きゃ~!」って言いながら歩いてるし、無駄にデカいからヘルメットもゴンゴンぶつかるし。“もうダメだ、私どこで生きていけばいいんだろう”って……。で、再びホームレスに戻ったんです。それで今度は、新宿西口公園に行って。ブルーシートまではいきませんでしたけど、炊き出しもらって、そのへんで寝起きしてました。そんな生活が1カ月くらい続きましたね。 IMG_5890_.jpg ――そこからどう立ち直ったんですか? IVAN ちょうど母が海外からビザの申請で日本に来ていて(※IVANの母親はメキシコ人)、私がいなくなったって聞いて、あちこち探し回っていたみたいで。その頃、母の知人の家の近くの路上で寝泊まりしていたので、ばったり道端で再開して……。2人とも号泣でしたね。それで一緒に海外に行って、2年くらい生活していました。 ――やっぱり、ホームレスはつらかったですか? IVAN つらいというより、“ここまで落ちたか”という絶望のほうが大きかったです。モデル業界で頂点を見て、華やかなところにいて、着るものにも食べるものにも困らなくて。輝いている時って、周りってすごいんですよ。「姫、姫」ってもてはやされて、何をやってもOK。それとホームレスという境遇が本当に真逆すぎて……。モデル時代のいい思い出を思い出しながら、日々過ごしてました。フランス行った時に食べたクリームブリュレ思い浮かべながら、そのへんの草食べたり……。そこまで落ちたっていう自覚はあったので、あとは死ぬか上がるしかないと思っていました。絶望と希望の狭間って感じでしたね。もし母と会わなかったら二丁目で働いてるか、ヘタしたらホストになってたかも。 ――芸能界に戻ったワケは? IVAN やっぱり業界に未練があったので、最後のチャンスだと思って日本に帰ってきたんです。友達のカフェで働きながら基盤を作り、今の事務所を紹介してもらいました。今後はバラエティを中心に、とりあえず目の前にある仕事を一つひとつこなしていけたらなと思っています。将来的には、セルフプロデュースできるようになりたいですね。IVANというブランドを発信していきたいなって。それがどういう形になるか、まだわかりませんが。 ――マツコ・デラックスさん、IKKOさんをはじめとするオネエタレントの方たちとは交流があるんですか? IVAN いや、実はまだないんです。周りから派閥がすごいとか、あーだこーだ言われるので、ちょっと今から不安なんですけど……。先輩方、お手柔らかにお願いします! (取材・文=編集部) ●アイヴァン メキシコ人の母と、スペイン人と日本人のハーフの父を持つクォーター。メキシコ生まれ。2歳の時に奈良に移住。1998年に沖縄アクターズスクール東京地区第1期生に選ばれ、約1年間、歌やダンスのレッスンを受ける。その後渡米し、カリフォルニア州の高校に進学。卒業後帰国し、モデル活動を始める。04年にはパリコレのモデルに選ばれ、世界のトップモデルとしても活躍。07年からPENICILLINのヴォーカリストであるHAKUEIの全面プロデュースによる音楽活動も始める。 あいばんのオフィシャルブログ <http://ameblo.jp/ivan0209/> ●出演情報 ・11/1(金)発売 雑誌「月間デ・ビュー」(オリコン・エンタテインメント) ・11/3(日)OA 『行列のできる法律相談所 親泣かせな芸能人はじめての親孝行SP』『有吉反省会』(ともに日本テレビ系) ・11/12(火)OA 『今夜くらべてみました』(同)

「ムルギーランチは、ただの“料理”じゃない」東京カリ~番長が語る、ナイルレストランの美学

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左から3代目のナイル善己氏、水野仁輔氏。
 店のガラス戸を開けると、インド人の店員・ラジャンが大きな目でじろりとこちらを睨みつけてくる。メニューも見せず、「ムルギーランチでいい?」と一言。しばらくすると、チキンとキャベツ、ポテトがトッピングされたカレー「ムルギーランチ」が運ばれる。客の目の前でチキンから骨を抜き取り、お馴染みのフレーズ「カンペキに、混じぇて食べて」と言い残して去っていくラジャン。ウワサによれば、ここで、混ぜなければ怒られるらしい……。  「ナイルレストラン」は、おそらく日本で一番愛されているインド料理店だ。インド独立運動に携わっていた革命家であるA・M・ナイルが創業した日本初のインドレストラン。東銀座・昭和通り沿いに店を構え、歌舞伎座楽屋口の向かいにあることから、故・中村勘三郎をはじめ、数々の歌舞伎役者に愛されるばかりでなく、タモリや関根勤などの芸能人、また松竹や電通に勤めるビジネスマンにまで愛されている。  いったい、ナイルレストランは、ほかのインド料理店と何が異なっているのか? 「東京カリ~番長」としても活躍し、『銀座ナイルレストラン物語』(小学館)の著作がある水野仁輔氏に、そのナイル愛を聞いた! ――水野さんがナイルレストランに初めて入ったのは、いつ頃ですか? 水野仁輔氏(以下、水野) 大学生の頃だから、もう20年くらい前になります。カレーを食べ歩く中で、名店のひとつとして食べました。その頃は、創業者のA・M・ナイルさんが、お店に立っていたかいないかという時期。2代目のG・M・ナイルさんが店を切り盛りしていました。
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看板メニューのムルギーランチ
――当時、ムルギーランチを食べた感想は? 水野 ナイルレストランの看板メニューであるムルギーランチは、おいしいと思っていました。けれども、自分でカレーを作ったり、いろんな店に行ったりもしていますから、ムルギーランチよりもおいしいと思うカレーもいっぱいあって、ムルギーランチが一番、というわけではありませんでした。 ――決して「ムルギーランチ信者」というわけではなかった。ではなぜ、ナイルレストランに関する本を執筆するくらい、どっぷりと漬かってしまったんでしょうか? 水野 「カリ~番長」の活動を開始し、雑誌やガイド本などで文章を書く中で、「お店の常連に勝てないのではないか」というジレンマがありました。僕の記事を読んで「店のよさがわかっていない」と思う常連はきっといるはず。そこで、どこかの店舗の常連になり、常連がどういう気持ちでお店に通うのかを知りたかった。それを踏まえれば、また別の文章が書けると思ったんです。そこで、ナイルレストランの常連になろうと思った。  ナイルレストランは1949年に創業した日本で最も古いインド料理店ですから、常連になる価値はあります。何十回も通って、顔を覚えてもらい、声をかけてもらえるようになり、ようやく名前を呼んでもらうところまで行き着きました。初めて店主のG・Mナイルさんから「水野くん」と呼んでもらったときは、うれしかったですね。 ――常連になると、味も変わってくるのでしょうか? 水野 常連になることによって、ムルギーランチが別物のカレーになりました。 ――「別物」……というと? 水野 それまではムルギーランチを料理として客観的に分析していましたが、常連になってからはただの「料理」としては味わえなくなった。店に入り、ナイルさんやラジャンと言葉を交わし、2階に上がって、ハーフライスのムルギーランチを食べる。それらの一連を含めた主観的な「体験」がナイルレストランです。客観的な評価はできません。 DSC_0333xx.jpg ――客観から主観へ。ある意味、「お袋の味が最高」という感覚に近いものがありますね。 水野 そうですね。例えば、初めて来た人が口コミサイトで星をつけるのも指標として意味があるものですが、食べる楽しみは決してそれだけではない。「いつもとちょっと味が違う」「シェフが挨拶してくれた」というような体験を含めて、常連客は楽しんでいるんです。それが味に直結し、お店を楽しむことにつながります。 ――確かに、「料理以外の楽しみ方」は、特にメディアにいると見落としがちになってしまいます。 水野 味覚は好みの問題で十人十色。一人の人間の中でも、時期によっておいしいと感じる味は違います。店で提供されるカレーを楽しむだけでは、受動的な楽しみ方にすぎません。料理をもっと「能動的に食べる」ということをナイルレストランに教わりました。  もしも、料理が口に合わなかったら、もしかしたら自分の努力が足りないのかもしれません。もう少し努力してお店との関係を築けば、より料理がおいしくなるかもしれない。人間関係でもそうですよね。嫌いだと思っていた人でも、意外な発見でいい奴になることもあります。以前は、そういう向き合い方で、カレーに向き合ってこなかったんです。 ――数多くの人が、水野さんのように、「ナイルレストランは特別だ」と語ります。では、いったい、どうしてナイルレストランだけが特別なインド料理店になり得たのでしょうか? 水野 店主のG・M・ナイルさんが、誰よりもこの店とこの味を愛しています。それが最大の理由でしょうね。取材では、何時間も自慢話が続くことがある。でもそれは、自慢じゃなくて自信なんですね。以前、ナイルさんは「自分の店で作った料理に絶対的な自信を持って出す。『お口に合うかわからないけど……』なんていうスタンスで出すなら、店なんてやらないほうがいい」と熱弁していました。ナイルさんは誰よりもナイルレストランを愛し、ムルギーランチが日本一だと思っています。 ――創業者のA・M・ナイルさんから2代目のG・M・ナイルさんに代わっても、ムルギーランチの味はまったく変わっていません。それも自信の証しでしょうね。 水野 そうですね。それにナイルさんは、クレバーな経営者でもあるんです。代々のレシピを変えないことがブランディングにつながる、ということを見抜いています。ナイルさんは「預金通帳の金額が増えるのが楽しみ」と語るんです。普通、そんなことを取材であっけらかんと語る人はなかなかいませんよ(笑)。 ――その自信が嫌みにならないのも、ナイルさんの明るいキャラクターがあって成立するものですね。 水野 本を執筆するにあたって、常連客に「ムルギーランチのどこがおいしいのか?」という質問をぶつけました。少し意地悪な質問ですが、すると、みんなきょとんとするんです。質問の意味もわからないくらい、常連客にとって、ムルギーランチがおいしいというのは当然のことなんです。 ――すっかりみんな「ムルギーランチ信者」なんですね。水野さんは、今後、ナイルレストランにはどうなってほしいですか? 水野 常連として100周年を祝いたいですね。50周年の時はホテルでパーティをしたそうですが、100周年パーティには参加したいです。あと35年です。その頃には、僕もムルギーランチを食べられないかもしれませんが、まだ70代なのでぎりぎり生きていると思います(笑)。 ――その頃には、3代目のナイル善己さんも70歳を超えています。100周年を迎えるためには、4代目の育成が必須です。 水野 大丈夫。誰も後継者がいないならば、僕が必ず見つけてきます! (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●みずの・じんすけ 1974年、静岡生まれ。99年に結成した男性8人組の出張料理集団「東京カリ~番長」の調理主任。全国各地のさまざまなイベントに出張して、テーマに合わせたカレーと音楽を提供している。2008年にインド・スパイス料理を研究する男性4人組の日印混合料理集団「東京スパイス番長」を結成。編集長としてカレー本の制作に没頭している。カレーに関する著書は15冊以上。

尾崎豊、BOOWY、ブルーハーツが豪雨の中で競演! 地獄の第1回フジロックよりヒドい、史上最低のロックフェス

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(C)2013 映画『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD 1987』製作委員会
 その場にいる7万2000人が、ほとんど遭難同然。断続的に降りしきる雨は誰しもの身体を芯から冷やし、体力と気力を奪っていく。観客にはサンダル履きやTシャツ程度の軽装も目につく。緑の傾斜の上からはとめどなく泥水が流れ、それがスタッフルームにまで押し寄せる。強い風雨の前には、持参した傘もロクに役に立たない。近隣の学校の体育館には、体調を崩した500人が緊急搬送されたという。  しかし、出演者には当時を代表するロック・アーティストがズラリ。尾崎豊、BOOWY、佐野元春、HOUND DOG、RED WARRIORS……それにTHE BLUE HEARTSに、岡村靖幸も。天国と地獄が背中合わせのまま、夜通しで続いた12時間の宴。1987年8月22日に阿蘇のふもとで行われたこの野外音楽フェスティバル<BEATCHILD>を映画化したのが『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD1987』である。 「記憶のある部分と、まったく忘れている部分と、ありましたね。まるで失った記憶を取り戻すような感じで見ていましたけど……見終わった印象は、いろんな意味で<すごいな>ということでした」
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上から佐野元春、尾崎豊、THE BLUE HEARTS
(C)2013 映画『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD 1987』製作委員会
 感慨深そうに語るのは、当日の出演者のひとりだった白井貴子。80年代屈指の女性ロック・ヴォーカリストであった彼女は、このフェス<BEATCHILD>の前半でステージに立った。朝から昼にかけて強風や豪雨に見舞われた会場は、夕刻の開演時からは小雨程度に落ち着いていたのだが、白井の出番直前からドシャ降りになってしまう。すでに濡れネズミの観客たちをさらにビショビショにしていく雨は舞台上にも機材関係の混乱を引き起こし、スタッフたちはてんやわんや。白井はそんな極限状態でマイクに向かわなければならなかった。カメラが収めた舞台袖で待機する彼女の横顔は、明らかに脅えている。 「やっぱり不安でしたね。あの時は、来てくれた人を守ってあげたい、雨の当たらない、暖かいところに連れていってあげたいという気持ちと、いやいや違う、こんな豪雨を克服するライヴをすべきなんだと思う自分とがありました。あともうひとりの自分は<誰か中止って言ってくれないかな>と思ってましたね。どんなライヴができるだろう? という不安もあったし……いろんなものが相まって、あんな顔になっちゃったんだと思います。でも映像を見ると、意外と朗らかに歌っていたので、うわぁよかった、と思いました(笑)」  とはいえ、映像で確認する限りでも、尋常でない状況は伝わってくる。ステージ上は屋根もないので、豪雨はすべて白井とバンドの上に直接降り注ぐ。そのため、すぐにギターの音が出なくなるトラブルが発生、バンドはドラムセットの上に急遽組まれたテントの下で演奏することになる。さらに強まる雨の中では、感電の恐怖だってあっただろう。それでも気丈にパフォーマンスを続ける白井は、どうにか観客の頑張りに応えようと、バケツの水をかぶったりする。 「目の前からバンドメンバーがひとり消え、またひとり消え、最後にはモニターもなくなりました。ひどい状況は慣れっこでしたけど、あそこまでひどいことはなかったですね。特に私の時は豪雨だったし……こんな状況だから<もう裸一貫、やるしかない>という思いでした。あの大変な中、ファンの人たちはじっとこらえて私たちを待ち続けてくれたし、ライヴを成立させるために裏方スタッフは死にもの狂いで動いてくれていたわけですからね。舞台に飛び出してからは、やめようとは、これっぽっちも思わなかったです。アンプもダメになったけど、よそのバンドのを借りてきてくれて、音が出るようになったし。あの時のファンの人とスタッフには、頭が上がらないです」
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撮影=後藤秀二
 映画では、このあとも悪条件下でのパフォーマンスが続いていく。BOOWYのギタリスト・布袋寅泰は立てていた髪が、豪雨で見事にズタズタ。それでもギターをかき鳴らす。尾崎豊は渾身の歌の中で、ステージの床にキスをしている。スタッフの決死の尽力のおかげか、音響面でのトラブルはかなりの部分で対応されていったようだ。それについて、白井が微笑みながら語る。 「私、ロック業界では、特に女の子に関しては<線路引き>だと言われてたんですよ。それである人が『この時の天候や出演順が神の配剤のようだった』とおっしゃったんですけど、すごく言い当ててるなと思いましたね。線路引きの私の時は豪雨になって、それが(渡辺)美里ちゃんの頃からは雨がやみ始め、トリの佐野(元春)さんの時には、みんな晴れ晴れとした笑顔になって(笑)。朝日も上がる中<SOMEDAY>が響き渡って……すごいなって思いました」  こうしてフェスは、そして映画は感動的なクライマックスに向かっていく。ただ、映画の観覧に際しては、当時の時代状況を踏まえておいたほうが、理解と認識をより深められるはずだ。  まず感じるのが、当時のフェス文化がいかに未成熟だったかということ。もっとも80年代には「フェス」という呼び名自体がなく、音楽ファン全般のそれに対する思い入れも今ほど強いものではなかった。ちなみに映画のキャッチコピーは「史上最低で、最高のロックフェス」だが、劇中で「フェス」という呼び方は一度もされていない。代わりに場内アナウンスで「ロック・イベント」と言われるシーンがある。
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豪雨の中で歌う、白井貴子。
(C)2013 映画『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD 1987』製作委員会
 そしてこの頃は主催者も参加者も、さまざまな面で意識が浅かったのだろう。冒頭で書いたように、観客の多くは軽装で、傘を使用。あらかじめ荒天が予想される可能性があれば、今であれば主催者側は来場者に注意を促す告知をするものだが、そうした動きもなかったようだ。そして映画のナレーションの中には「中止はありえない」というひとことがある。こんなにまで過酷な状況になっても開催を強行するしかないイベントだったということ自体が、今では考えられないし、ありえない。 「なんで中止にしなかったかは諸説あるんですよ。まずは3万人のはずが、7万2000人という予想を上回る数のお客さんが来てしまったこと。あとはオールナイトだから(客を輸送する)バスの運転手さんは熊本市内に戻ってしまって、朝まで戻ってこない。携帯電話もない時代だから、深夜には連絡も取れないんです。それに、仮にお客さんが市内に戻ったとしても泊まるところもないから、ここにいてもらうしかない。今なら考えられないですよね」  ほかにも、これも現在では通例になっているタイムテーブルの発表が行われておらず、観客は次に誰が出てくるのかを知らずに、お目当てのバンドをひたすら待つしかなかった。とはいえ、これは当時のイベント文化がそうしたもので、タイムテーブルを客側に伝えておくという常識自体がなかったためだ。現に、富士の天神山で行われた第1回目のFUJI ROCK FESTIVALでも、タイムテーブルは事前にしっかりとした形で観客に周知されていなかった。  そう、この映画を見て多くの人が連想するのが、やはり悪天候に見舞われ、2日間のうちの1日が中止になった初回のFUJI ROCKのことだろう。その開催は、このBEATCHILDのちょうど10年後である1997年のこと。思えばFUJI ROCKはその初回の反省があるからこそ、第2回以降から今に至るまで、日本の音楽フェスを牽引する存在となっていけたわけだが……。ひとつ感じるのは、このBEATCHILDの失敗をちゃんと踏まえていれば、日本のフェス文化はもっと早く定着し、FUJI ROCKの苦々しい第1回目もなかったのではないかということ。それだけBEATCHILDのことは当時あまり報道されなかった。筆者もこのイベントの惨状は時々話に聞く程度で、現実的にどれだけひどい状況だったかを伝えたメディアは極めて少なかったと記憶している。 IMG_7603.jpg 「いや、メディアの方々もBEATCHILDのことは知っていたし、取材にも来てたんだけど、みんな雨でカメラがダメになったり、ライヴを1本(1アーティスト)撮ってしまったら仕事終わり、みたいな感じだったんです。豪雨に恐れおののいて、帰ってしまったんですね。それに人って、すごいショックなことがあると口をつぐんでしまうじゃないですか。あの時は、みんながそうだったんじゃないかと思いますね。だけど今こういうことがあったら、すぐにネットに載って、誹謗中傷が始まったり、重箱の隅をつつくような状態になりかねない。でもBEATCHILDは幸か不幸かそんな状況にさらされることもなく、封印され、守られ、タイムカプセルに入った状態で、こうして映画になったんだと思います」  ところで、この映画で違和感を覚えるのはナレーションだ。これは制作サイドの意図なのだろうが、26年前の映像に、やれロックの魂だとか7万2000人の思いがどうとか、クサすぎるほどの美辞麗句を乗せているのが、どうにも引っかかるのである(監督は、数々のCMや、音楽畑ではビデオクリップやドキュメンタリーなどの秀逸な作品を残してきた佐藤輝)。何しろ実際の現場は、どう見てもロックとか魂どころではない過酷さで、それを今の視点でヘンに美化しているように思えて仕方がない。もっともあの頃の音楽シーンにそうした過剰な熱意があったのは確かだし、それを持つ人間たちがいたからこそ、こうした無謀な状況での一大イベントが奇跡的に完遂されたのだとも思うのだが。 「<ロックは心構えだ>みたいなセリフがあって、私もすごいなと思いました(笑)。あの信じがたい状況と、しかも26年も前、重さあっての言葉だと。私のパートでは、舞台からバンドのメンバーもモニターさえも何もなくなっても歌ったことを今回の制作スタッフにお伝えし、その状況を伝えるコメントを付け加えていただきました」  ともかく、80年代後半のメジャーなロック・シーンの一断面がこの映画にあることは間違いない。イベントの序盤に登場するTHE BLUE HEARTSや岡村靖幸はオーディエンスにまだ完全に認知されていない初期のライヴだし、今では音楽以外の場で見かけることも多いDIAMOND☆YUKAIが艶やかにシャウトするRED WARRIORS、雨に濡れてもクールなTHE STREET SLIDERS、翌年に解散するBOOWYといったバンドの演奏シーンには圧倒される。DVD化される予定のない本作品を見に映画館に足を運ぶメイン層は年配の音楽ファンであろうが、若い人たちでもなにがしかの感慨を覚えるのではないだろうか。 「私は今あらためて、あの時来てくれた7万2000人の方に、感謝の気持ちでいっぱいです。それは多くのアーティストが同じ気持ちだと思います。会場周辺の学校の子どもたちにはBEATCHILDに行かないように指導があったそうですし、とにかくあの場所にいてくれたみんな、そしてライブを見たくても寒さに倒れ、見られなくて悔しい思いをした人にも、ぜひ見てもらいたいですね」 (取材・文=青木優) ●『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD1987』 監督/佐藤輝 音楽監督/佐久間正英 出演/THE BLUE HEARTS、RED WARRIORS、岡村靖幸、白井貴子、HOUND DOG、BOOWY、THE STREET SLIDERS、尾崎豊、渡辺美里、佐野元春(出演順) 配給/ライブ・ビューイング・ジャパン、マイシアター 10月26日(土)よりイオンシネマ、TOHOシネマズ、Tジョイほか全国ロードショー (c)BEATCHILD1987製作委員会 <http://www.beatchild.jp>

「漫才とは、2人の掛け合い……じゃなかった!?」まったく新しい漫才コンビ・ウエストランドに迫る

westland01.jpg  漫才は時代と共に進化する。その進化の最前線にいるのがウエストランドの2人だ。ボケの河本太が一言つぶやくたびに、ツッコミの井口浩之が早口で長々と言葉を浴びせていく。「漫才は2人の言葉の掛け合いである」という定説を覆す、1:100の一方的なやりとり。この斬新なスタイルが評価されて、『THE MANZAI』では2年連続で認定漫才師に選出。今年4月には『笑っていいとも!』(フジテレビ系)の準レギュラーにも抜擢された。新世代漫才師の代表である2人に、話を聞いた。 ――10月23日にお2人にとって初めてのDVD『漫才商店街』が発売されます。ここに収録するネタは、どうやって選ばれたんですか? 井口 まあ、最近やってる長いツッコミのやつと、そうなる前の昔のネタ。それも入れないと、見る方も疲れちゃうと思うんで。こいつに聞いたら「なんでもいい」って言ったから、じゃあこっちで決めようと。 河本 そうですね。僕はDVDのタイトルすら知らなかったです。収録の当日に聞きました。 ――収録では、河本さんがミスを連発していたそうですが。 井口 本当にそうですよ。できあがったDVDをチェックしたら、9本中7本はミスってましたから。せりふが出てこないとか、ありとあらゆるミスをしてますよ。その辺も楽しんでもらえることを祈るしかないですね。 ――では、このDVDの収録以外でもミスをすることが多いんでしょうか? 井口 そうですよ、ミスしかしてないです。『オンバト+』(NHK)でも、ミスしたままオンエアを勝ち取ったこともありますし。「今日、牛丼屋……じゃなかった、ファーストフードの店員やりたいんだけど」って。芸人が「じゃなかった」って言います!? もともとめちゃくちゃな漫才なので、僕らだから許された、みたいなところもありますけどね。 河本 最近、特に(ミスが)多いですね。2回に1回ぐらいは間違えます。 ――それは、ご自分ではどうしてだと思われますか? 河本 ……待ってる時間が長くて。 井口 いや、あれは待ってる時間じゃないんだよ。 河本 次のせりふまでの間に違うことを考えちゃうんですよ。 井口 でも、最初のせりふでいきなり間違えることもありますからね。こいつは、とにかく余裕ぶっこくんですよ。DVD収録のときも、後輩が見に来てたから格好つけてネタの練習をしないんですよ。それで本番でミスる。舞台袖に来て出番直前になってから、事の重大性に気付いて震え出すんですよ。『THE MANZAI』の予選のときもそうでした。 ――昔のネタをやってみた感想は? 井口 楽しかったですね。DVDの収録がなかったら、一生やらなかったかもしれないので。思い出す、いいきっかけになりました。 westland04.jpg ――河本さんも、昔のネタでは結構しゃべってますよね。 河本 楽しかったですけど、ずっとラクしてきたので、昔のネタやるのか、みたいないらだちはあります。仕事増やされた感が。 井口 最低の人間だな! ――井口さんが長いツッコミをする、今の漫才が生まれたきっかけは? 井口 昨年の元旦の『新春レッドカーペット』(フジテレビ系)のオーディションのときですね。僕らはそれまで、民放の番組のオーディションは全部落ちてたんです。「特徴がないからダメだよ」って言われていて。それでもうやけくそになって、ネタ考えずにアドリブで、1個だけボケて長くつっこむみたいなのを悪ふざけでやったんです。それがたまたま引っかかって番組にも出していただいたので、味をしめて、これはいけるわ、って。 ――そのスタイルが、お2人には合ってる感じがしますね。 井口 そうですね。前の形で普通に漫才やってるときにも、もともとツッコミが長かったんですよ。台本では一言なのに延々とつっこんだりしてたので。あと、こいつが2行以上のせりふをしゃべれないっていう、特殊な病気で。 ――覚えられないんですか? 河本 はい、覚えられない。 井口 すごいできないやつなんですよ、信じられないくらいに。そういう意味では、今の漫才の形は合ってたんでしょうね。 河本 楽ですよ、すごく。でも、今はそれに慣れすぎてそれが普通になってるので、これ以上増やされると、ちょっとイラッとしますね。 westland03.jpg ――もともと井口さんは目立ちたがり屋で、たくさんしゃべりたいタイプなんですよね。 井口 そうですね、無理してないですから。こいつがしゃべり出すのは、本当に嫌ですね。2人とも楽屋のテンションのままって感じなので。漫才は、そのほうがいいのかなっていうのがあります。そういう意味では、こいつができなくてよかったのかもしれないですね。普通の漫才ができなさすぎてこうなりましたから。落第生の究極形というか、落第しすぎていいことになったのかも。 ――そのせいで誰も見たことがない漫才が生まれた、と。 井口 だからおそらく、こいつほどできない人はいないんでしょうね。みんなもう少しできるんでしょうね。 ――河本さんは、これだけ「できない」と言われても全然悔しがらないですね。 河本 悔しくはないですね。お笑いにまったくプライドがないので。よほどのことがないと怒らないです。 井口 ヘタに何か言ってくるよりは、僕としてはやりやすいです。 westland02.jpg ――井口さんは最近の若手芸人の中では珍しく、バラエティ番組などでも積極的に前に出ていきますね。 井口 そうですね。あとから考えると怖いんですけど、その瞬間は目立ちたいと思ってるだけです。 ――河本さんは中学時代から井口さんを見てきていると思うんですが、その頃から目立ちたがり屋なところはあったんでしょうか? 河本 性格は……リーダーですよね。実は気が強いし、すごく真面目。なんでもちゃんとしてないとダメなところがあって。 井口 前に出る話と全然関係ねえよ! 河本 自分が全部把握していないといけないタイプで。時間にも厳しくて、ちゃんと時間通りじゃないといけないんです。 井口 だから、前に出る話はどうなったんだよ! 質問に対する受け答えじゃないだろ。 河本 ああ、目立ちたがり屋でした。 井口 無理くり着地したな! ――井口さんはこれだけ背が低いのに、周りから「かわいい」とはあんまり思われていないみたいですよね。 河本 そうなんですよ。 井口 「何くそ感」が出ちゃってるんでしょうかね。モテない、人気ない、お金ない、っていうのがあって。そういうことで「何くそ」って思ってないと力が出ないタイプなので。 ――『いいとも』の準レギュラーでありながら、今もアルバイトをされてるそうですね。 井口 はい、今テレビに出るギャラだけじゃ食っていけないですから。お金がない分、頑張るしかない。僕らはどこに行っても常にアウェーですからね。何を言ってもウケるようなところでやったことがないんで、そういう意味では頑張れますよ。 ――事務所の先輩である爆笑問題のお2人から、何か言われたりすることはありますか? 井口 お2人ともすごく優しいですね。太田(光)さんは、僕らがやってるようなめちゃくちゃなネタもいいって言ってくれてるし、こいつが「せりふ間違えちゃってすいません」って言ったら、「別にいいんだよ、お前がどんどん間違えて、井口が慌ててるのが面白いんだから」って。 河本 太田さんには「あんまり練習するな」って言われました。 井口 「予定調和になると面白くないから、何も考えずにやれ」って。そうやって節々でありがたいことを言っていただけるので、うれしくなりますね。ほかに誰に何を言われてもいいや、っていうふうにプラスに捉えられますから。 ――今後の夢は? 井口 人気番組には普通に出たいですし、王道を行きたいですね。でも、やっているうちにまた、これもできない、あれもできない、っていうふうになって変わっていくかもしれないですけどね。 (文=お笑い評論家・ラリー遠田/撮影=名鹿祥史) ●うえすとらんど 井口浩之、河本太からなるお笑いコンビ。2008年結成。 <http://ameblo.jp/westland-iguchi/> <https://twitter.com/westiguchi>