AKB48メンバー襲撃事件をどう考えるか 岡島紳士が語る“接触系”アイドルの課題と今後

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AKB48-『ラブラドール・レトリバー Type-K(通常盤)(多売特典生写真なし)』(キングレコード)

【リアルサウンドより】  AKB48が5月25日に岩手県で行った握手会で、メンバーの川栄李奈と入山杏奈、スタッフの男性1名が無職の男に刃物で襲われ、負傷するという事件が発生した。3人の命に別条はなく、5月26日の夕方には退院。容疑者も殺人未遂容疑で現行犯逮捕された。  アイドル界だけでなく社会全体に衝撃を与えたこの襲撃事件について、アイドル専門ライターの岡島紳士氏は次のように語る。 「3人の容態がまず何よりも心配ですね。また、事件に関しては捜査の推移を見守る必要はありますが、現時点では容疑者はAKB48のファンではないようで『相手は誰でも良かった』と供述しています。このことから、今回の事件はアイドルとファンの間に固有の事件というよりも、有名人すべてが持っている危険性を改めて知らしめた事件であるといえそうです」  AKB48の握手会について、ネット上では「もう開催不可能なのではないか」との声もある。同氏はこの点に関して、今回は「セキュリティ強化という対応策を打ち出すのではないか」と語る。 「握手会や劇場公演に関しては、厳重な警備をした上で、徐々に復活させていくのではないでしょうか。今のライブアイドルシーンは“接触”が基盤になっているので、それを無くしてしまったら、途端にビジネスとして回らなくなっていくと思います。しかし、同様の事件が続いてしまうと、運営側も責任を逃れられないので、カバンの中のチェックだけではなく、ボディチェックや金属探査など、警備が厳しくなるのは間違いないし、必要な措置といえるでしょう」  また、今回の事件は他のアイドルにどのような影響を与えるだろうか。同氏はこう続けた。 「アイドルシーンが握手会をベースにしたビジネスである以上、今すぐ他のアイドルがそれをやめることは考えにくいですね。AKB48などの大手資本のところは厳重な警備を行うという形になるでしょうが、他の小資本のアイドルはそこまでの余裕がないので、まずは様子見という形になるのでは。幸いなことに地下アイドルなどでは、ファンやスタッフが顔見知りとなっているケースが多いため、知らない顔がいると『あいつ誰?』となり自浄作用が働く面もあります」  最後に、岡島氏は“接触型のビジネス”については今後も続いていくと前置きしたうえで、今回の事件についてこう意見を述べた。 「接触型のアイドルビジネスにはタレントを消耗させる側面がありますが、彼女たちはそれを踏まえた上で有名になりたいという意思があって頑張っているのが、アイドルシーンの現状だと思います。今回はそのリスクが顕在化した形ではないでしょうか。現在は小規模の現場であればあるほど、そういった事件が起こりにくい環境にはなっていますが、“接触型のビジネス”も継続しつつ、長期的には、非接触型のアイドルのあり方も平行して模索する必要があるのかもしれません。そもそも女の子自身がアイドルというものに『なりたい』と思える環境でなければ、アイドルシーン自体が成り立たないものなので」  現時点では、AKB48グループからの公式見解として「メンバーのケアを最優先に行う」との発表がなされている。負傷したメンバーや、現場を目撃し心に傷を負ったメンバーの早期回復を祈るとともに、今後の経過を見守りたい。 (文=編集部)

地下アイドルライターが国内最大級の地下アイドルグループの女性限定ライブに行ってみた!

【オタクに"なるほど"面白い!オタクニュース・ポータル「おたぽる」より】

 こんにちは。売れずに6年目、地下アイドルの姫乃たまです。今回は恥ずかしながら、生まれて初めて自分が出演していないアイドルライブに行ってみました。
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 私がアイドルライブバージンを捧げたのは、私と同じく、時に蔑称ともされる「地下アイドル」を自ら名乗る、国内最大級の地下アイドル集団アリスプロジェクトです。  去る2014年5月24日、秋葉原にあるアリス常設劇場P.A.R.M.S.にて、その女性限定ライブ「アリス☆女祭りvol.2」は開催されました。  フロアは彼女たちや筆者と同年代の女の子たちに埋め尽くされ、黄色い歓声が……と、思いきや、とても女子とは思えない声量のコールの嵐! そうでした。女というのは、男性がいないと力強さを存分に発揮する生き物だということを、すっかり忘れていました。 【「おたぽる」で続きを読む】

“アーティスト”から“パフォーマンス”へ さやわかが「一〇年代音楽」のモード転換を語る

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さやわか『一〇年代文化論』(星海社新書)

【リアルサウンドより】  ライター・物語評論家のさやわか氏が、自身三冊目の単著となる『一〇年代文化論』を、4月24日に上梓した。『一〇年代文化論』は、「次の10年のコアとなるものは、その直前にある」という見立てのもと、2007年頃のカルチャーの変化に目を向けることによって、現段階で2010年代のカルチャーの本質を捉えようとする意欲的な書物だ。「残念」という言葉の意味の移り変わりから、アイドルやライトノベルのあり方の変化を鋭く評した本書は、10年代の音楽シーンを語る上でも示唆に富む内容となっている。そこで当サイトでは、特に音楽シーンにおける10年代の変化について、表現方法やその内容、評価のあり方といった側面から分析してもらうとともに、同氏の書き手としてのスタンスや方法論まで詳しく聞いた。

「残念」なものが、世の中で大事だと思われるように変わった

――本書では「残念」という言葉の意味合いが、2007年頃からポジティブなニュアンスを含むものに変わってきたことから、10年代のカルチャーの本質とは何かを考察しています。その言葉の変化に気付いたのはいつ頃でしょうか。 さやわか:そう思うようになったのは本当に最近ですね。ここ2、3年くらいで「残念な美人」とか「残念なイケメン」とか、そういう表現をよく見るようになり、これは意味が変わっているのかな?と関心を持ちました。僕はもともと言葉の意味の変遷に興味があって、とくにネットスラングなどがすごく好きなんですね。価値が揺らぐというか、意味が移り変わってしまうのがネット用語の面白さだと思っていて。もちろん自分の原稿ではちゃんとした言葉使いをするけれど、そういう風に言葉の意味合いが壊れるのを観察するのは好き。言葉ってもともとルーズなものですから。で、最近の「残念」の使われ方で象徴的なものを探していて、2009年に公開されたITmediaのインタビュー記事「日本のWebは『残念』梅田望夫さんに聞く」に行き当たりました。そこで使われている「残念」は従来の意味合いでしたが、今現在、この言葉がポジティブな意味合いに変わっているとすれば、梅田さんが指していた「残念」なもの、つまりはサブカルチャー的なものが、世の中で大事だと思われるように変わったといえるのではないかと。そういうアクロバティックな思考の転換が期待できそうだと思い、この本を書くきっかけになりました。 ――実際に言葉の意味合いが変化し始めた時期は? さやわか:たとえば2007年にテレビ番組『人志松本のすべらない話』の中で、千原ジュニアが兄の千原せいじを「残念な兄」として、そのエピソードを紹介していたことですね。その「残念」には、単に貶めるだけじゃなく、おもしろおかしい意味合いが含まれていて、割とポジティブに使われていました。これが新聞報道などにもそのまま使われていて、言葉の意味合いが少し変わったのを感じさせる。お笑いの世界ではそれ以前にも、2004年に波田陽区の「残念」という言葉が流行語大賞に選出されていますが、その時はぜんぜん違う意味合いです。だけど2007年の千原ジュニアの頃には、次第にポジティブな意味を含むように変わっているわけです。 ――本書で指摘する新しい「残念」は、清濁併せ呑むというか、良いところも悪いところもひっくるめて対象を愛する態度が生まれてきた、ということでしょうか。 さやわか:そうですね。そもそもこの本で何を書きたかったかというと、日本文化について、最近は従来的な意味での「良さ」や「悪さ」という価値体系が壊れている、ということなんです。そのキーワードとして象徴的に使えるのが「残念」という言葉だったんですね。たとえば音楽でも、もともと「価値がある」ものと思われていたものがだんだん廃れてきて、逆にそんなによくないと思われていたものが評価されるようなことはよくありますよね。ロックに限っても、価値の転倒というのは何度も起きてきた。90年代の「オルタナティブ」「ローファイ」なんていう言葉はまさに価値の転倒によって生み出される概念です。だけど最近は、それをさらに越えた感じで、必ずしも「良い」「悪い」という嗜好性だけが大切ではなくなっている。2007年頃はマッシュアップの曲がたくさん作られていて、その考え方ってもう「良い曲同士を繋げる」「楽曲的に親和性があるから組み合わせる」といった、従来のミックスの考え方を逸脱してしまっているんですよね。ドラえもんの曲とガバ(ハードコアテクノの1ジャンル)の曲をとりあえず繋いでみた、ということが普通に行われるようになった。それは単に「できるからやる」っていう発想に近くて、良い悪いで括れる話ではないと思うんです。それから、MADのような形で全く無関係な音楽と映像が組み合わされることも非常にポピュラーになった。それまではクラブVJのような即興的なスタイルを除くと、音声と映像が的確に結びつけられたものが「公式PV」として作られているだけなのがポピュラー音楽の状況だった。つまり固有性があったわけですよね。だけど今は、音楽が好き勝手な素材と組み合されるのが当たり前のものとして捉えられるようになりました。

総合芸術としてのパフォーマンスを提示した、Perfumeの重要性

――本書では、Perfumeが時代の変化を象徴するアーティストとして取り上げられています。 さやわか:Perfumeは重要なアーティストだと思っていて、彼女たちは総合芸術という形での、音楽偏重以降のリスニングスタイルのヒントになるんですね。たとえば今やそんなことを気にする人はあまりいないと思うんですけど、彼女たちが出てきたときは、ライブで実際に歌っていないことを指摘する声が多く、ネットでも揶揄的に評する人がそれなりにいた。しかし、そもそもあれはオートチューンをかけている音楽だからライブで歌わないのは当然だと言えるし、逆にいえば、オートチューンがかかっているのにライブを重視して活動しているところが面白いグループなんです。つまり、音と動きを同期させていくライブパフォーマンスがPerfumeのやり方なんですね。音楽を流して、その歌に合わせて口も含めた全身の繊細な動きを見せることによって、あたかも歌っているかのようなパフォーマンスをする。これは極めて演技的な発想で、僕は実際のところ00年代の流れは、音楽も含めて演技的なものが台頭してきた10年だったんじゃないかとも思っています。そして、同期させるという発想は先ほどのMADの話と通じるものがあるんですね。MADは音と映像を同期させていましたけど、Perfumeの場合はそれを身体でやる。流れている歌とリップシンクすることによって、あたかも臨場感があるように見せる。ライブの現場ではその臨場感が立ち上がることに、人は感動してしまうんだと思います。AKB48は2005年に結成され、今のアイドルシーンでは代表的なグループとなっていますが、その前段階としてはPerfumeのブレイクはあったし、彼女たちが「今のアイドルがするべきことはパフォーマンスであり、演技的に臨場感を生み出すことなんだ」ということを広く知らしめたのはその後のシーンに大きく影響を与えたのではないかと思います。 ――Perfumeブレイク以前のJPOP界では、シンガーソングライター的な創作姿勢を良しとする風潮が強かったように思います。つまり、確固とした思想や自我をもったシンガーが、自身の声や演奏でメッセージを伝達していくのが「本当のアーティストの姿である」という。Perfumeのようなパフォーマンス性の高いユニットが台頭してきたことによって、そうしたクリエイター像に変化が生まれたと? さやわか:僕は「従来とは違うモードに変化した」という風に捉えています。宮台真司さんの『サブカルチャー神話解体』という書籍では「自作自演」という言葉がキーワードになっていて、シンガーソングライターがスピリットを作品に込めて、それが匂い立つものが「創作」であるという考え方が、フォーク以降の日本の音楽シーンの中では支配的だったと指摘しています。かつては、日本の音楽シーンにもいわゆる芸能界的な、作詞家がいて歌い手がいるという分業のスタイルもあったはずなんだけど、とりわけ80年代後半から、その人の主張をその人の声と楽器で演奏するのが、作曲家としての矜持になるという心理主義的な「アーティスト」性が重視されるようになった。僕はその到達点にいるのが宇多田ヒカルや椎名林檎といったミュージシャンだと思うんですよ。彼女たちがブレイクするのは98年で、ここが90年代の「アーティスト」路線のピークなんですよね。個人的には、宇多田ヒカルは若い時にデビューしているので、本当は新世代的な感覚を持っていたと思うんですよ。彼女はゲームやマンガも大好きで、もっと広い考え方で音楽に向き合える人だったのではないか。でも結果的にそうした時代が彼女に求めたのは「アーティスト」的なものなので、キャリアとしては安定していくというか、あまりリリースしない大家のようになってしまった。これは音楽メディアの問題としてもしばしば指摘されることなんですけど、音楽家はリリースするたびに毎回、人生のなんたるかを込めるわけではなく、本当は何も込めないで自由に創作したっていいはずなんですよ。しかし、それを良しとしない空気がメディアの後押しもあって作り上げられてしまった。それでヒット作を飛ばす人ほど高尚な「アーティスト」化して作品をリリースしなくなり、シーンとしても動きがゆったりしていってしまった。そういう風潮に対するオルタナティブとして、パフォーマンスが台頭してきたんじゃないかと思います。つまり、歌を歌うっていうのには「心を込める」ということとはまた別のレイヤーがあって、技術というものがちゃんとあるんだと。 ――パフォーマンスの鑑賞を通して、技術的な面への注目が進んだということですね。パフォーマンス自体の台頭は2000年代以前からあったようにも思いますが――。 さわやか:たしかにそうなんですが、たとえば90年代末からは『ASAYAN』なんかであからさまにリスナーも教育されていった面があるんじゃないかと思います。たとえばモーニング娘。なら「恋はダイナマイト」と歌わないで、「ザイナマイト」と歌う方がかっこよく聴こえるとか、ギターを持つときに下の方で持った方がかっこよく見えるとか、そういうことがテクニックとしてあって、それをうまくやるために精神的な克己があるんだということにみんなが気付いていった。昔はテクニックよりも単純に「私は魂を込めて歌っている」という方が良いとされていたんだけど、90年代後半あたりから一般のレベルで改めてパフォーマンス性が見直されたんだと思います。本書の中で「次の10年のコアとなるものは、その直前にある」ということを指摘していますが、98年に宇多田ヒカルら「アーティスト」が90年代的な路線を極めてから00年代的な「パフォーマンス」の時代が台頭するというのは、わかりやすいのではないでしょうか。

パフォーマンス系ミュージシャンは、「彼ら自身の物語」を持っている

――では2007年辺り、Perfumeのブレイク以降は、そういったパフォーマンス化がさらに進んだと? さやわか:2007年以降は、パフォーマンスを中心にして作品作りがさらにシステマティックになったんだと思います。今回の本でも指摘しているのは、Perfumeは誰がコントロールしているのかわからないものだ、ということなんですね。これは最近のアイドルもそうだし、ボカロPとかもそうなんですが、アマチュアのレベルでも非常に分業化が進んでいて、曲を作る人、歌詞を書く人、ジャケットを作る人、ミックスだけをやる人、という感じで、みんなで一つの作品を作り上げるスタイルが増えている。Perfumeもそうで、MVを撮る人はMVしかとらないし、音楽を作る人は音楽しか作らない。僕の本ではそれらのハブというか、最終的な依り代となって作品を下ろすのが、あの三人の女の子のパフォーマンスという考え方をしています。以前だと、ある程度は誰かがコントロールしているという発想だったと思うんですけど、そうじゃなくなった。なぜそうなったかというと、先ほどの同期の話とも繋げて言えば、音と映像というものがむしろ分離可能になったからなんですよね。要は、デジタルフォーマット的な考え方が多くの人に理解されて、たとえばDVDなら、音楽や映像や字幕がひとつのコンテナの中でくっついて、1ファイルとして再生されているということがすんなりわかるようになった。だから字幕や音声部分だけをすげ替えて別言語に対応させることだってできる。複数の要素が同期再生されることでひとつの作品になるんだっていう感覚が一般にも浸透してて、それに合わせた創作スタイルによって生まれているのが、Perfumeとかボカロ以降のエンターテイメントなんだと思います。 ――本書ではシステムの変化だけではなく、さまざまなエンタメ作品の変遷を追うという形で、特にライトノベルにおける内容の変化について書かれています。では音楽に関して言うと、どういった内容的な変化が見られるとお考えですか。 さやわか:僕がいま「パフォーマンス系」として触れたミュージシャンには、ジャニーズやAKB48といったアイドルはもちろん含まれるけど、彼らが一様に持っているものがなにかというと、結局のところ「彼ら自身の物語」だと思うんですね。たとえば今のモーニング娘。'14もそうで、彼女たちに勢いがあるのは曲の内容がどうこうというだけでなく、何作連続一位を目指すとか、作品の外部に強い物語を持っているせいもあると思います。つまり90年代的な「アーティスト」ではないから、歌詞の中に心情が直接的に歌われているか否かということじゃなくなっている。ももクロやAKB48の場合は自分たちの物語――つまり「成り上がって行こう!」みたいな感じを隠喩的に歌詞に盛り込むことで、ファンの側がそれを彼女たちの物語を彩る劇伴のように解釈する、ということが行われている。こういうのはアイドルだけじゃなくて、たとえばEXILEとかゴールデンボンバーとか、今どきの人気ミュージシャンはたいがい含まれますよね。それで、つまり、人気ミュージシャンは往々にしてパフォーマー化しており、場合によってはそのパフォーマーとしての生き様を想起させるような楽曲が作られるようになってきているということは言えるんじゃないかと思います。それは、シンガーソングライターが心情を込めた歌を作り魂を込めて歌うというのとは、近いようで遠いですよね。もちろん、そうじゃない音楽もたくさんあると思いますが、チャートの上位を見るとそういう傾向はある。 ――なるほど。パフォーマンスとして「自己の物語」を演じるのと、「魂を込めて歌う」というのは似て非なるものだということですね。ただ、そのどちらも「本当の自分」のようなものを前提にしている気がするのですが、そのあたりはいかがでしょうか。 さやわか:この本を読んで「みんながパフォーマンス的にキャラを演じるようになって本当の自分がいなくなったから、僕らは楽に生きられる」とか、もしくは「本当の自分が持てない時代だから辛いね」みたいな解釈をする方もいらっしゃるのですが、どちらも半分だけ正しいと僕は思います。つまり役者がどのように役柄を演じるのかということが問題となっているだけで、役者の実存がなくなることが可能になったわけではない。これは本書でも触れていますが、そういう意味では「本当の自分」というポジションは、そんなものがあるかどうかはともかくとして、まだ意識されていると思います。「キャラを演じるために頑張る自分」みたいな感じで。結局、若者の悩みや辛さのあり方は昔と大して変わっていないんだと思いますよ。ただそれがひたすら固有の自分というものを追い求める中で生まれるのか、キャラを演じるための努力の中で生まれるかの違いだと思います。シンガーソングライター的な固有の内面を求める物語が好きな人は、パフォーマンス系の人を見下したりもするけれど、どちらも根底では似たような感性にドライブされる物語ですよね。

情報過多の中で音楽を流通させるには、キャラクターとか強いエモーションが有効

――物語を駆動させる装置として、主体性のようなものも生き延びているということですね。2000年代前半には社会学者の北田暁大さんが「歌詞フォビア」という言葉を使って議論していましたが、当時は一部の音楽ファンが「歌詞は音楽の本質ではない」「物語から離れて音そのものを聴くべきだ」という風に語っていて、実際にそういった志向性を持つ優れた作品も生まれていました。「音響派」と呼ばれる音楽ジャンルも発展しましたけど、さやわかさんは今その流れをどう整理していますか。 さやわか:前著である『AKB商法とは何だったのか』もそうですが、『一〇年代文化論』を書くにあたっても、音響的なアプローチについて考えざるを得ない場面がありました。音響系は、一言で言うと音そのものに収斂させていくことが音楽にとって重要なことだという考え方で、それをさらに掘り下げて解釈すると、音というのは「私の鼓膜(もしくは身体)に響いている何か」であって、つまり音楽というものは極めて個人的な体験である、ということだと思います。それは煎じ詰めれば料理のようなもので、たとえばカレーを食べて「辛い」っていっても、その「辛さ」というのは本当は誰にも共有できていない、というところにまで至ってしまう。つまり、かつてのDJブームあたりから始まるリスナーズミュージック――ミュージシャンではなくて、私たち音楽を聴いている側にイニシアチブがある、という考え方の極北に、音響というものはあったのだと僕は思います。ところが、そういう風になると音と人は、一対一の関係にならざるを得ないので、解釈の娯楽としては楽しめるかもしれないけれど、シーンとしては動かなくなりますよね。というかブームやシーンという考え自体が成り立ちにくくなる。だからリスナーズミュージックの流れのひとつの完成形を生んだ先には、個々のリスナーのレベルにまで細分化され拡散したシーンしかなくなってしまう。 ――確かに、音響的な動きの中にはシーンという概念自体を良しとしない面はあったかもしれません。 さやわか:ただ僕がやりたいのは、今さらそうした音楽のあり方を否定することじゃなくて、その後で何が起きたかを知ることです。先日ちょうど渋谷慶一郎さんに取材したときにお訊きしたのは「情報がすごく増えたし、情報が錯綜するようになったから、情報に記号性とか具象性を含ませないと認識してもらいにくくなった」ということなんですよね。だから渋谷さんは初音ミクを使ったと仰った。その通りなんだと思います。情報過多の中で音楽を流通させるにはキャラクターとか強いエモーションが有効だし、それこそマッシュアップじゃないですが、素材としても手に取れる場所にあるから、ならば使おうということになる。単純に音響が退潮したというよりも、そういう風潮になっているのではないでしょうか。言い換えれば各人にとってのものとして拡散した音楽を、初音ミクなどのキャラクターを中心に置くことによって再統合する。この本でも音楽が共有されるものに変わってきている、といった指摘をしています。音楽が中心的なハブになって人々を繋げているんだと。そういう状況に対して、「音楽そのもの」が重視されていないじゃないかと批判する人もいるかもしれないけれど、僕はそれは考え方が違うのだと思います。音楽がリスナーに行き渡らないと、「音楽そのもの」について考えることも難しくなっていく。だから今が音楽にとって敗北かというと、そうではない。むしろ音楽はあらゆるメディアのハブになって、遍在するような状況になっている。先ほどのPerfumeの話もそうでしたが、要は、なにが頂点かというヒエラルキー的な考え方自体が否定されている状況なんだと思います。そこで音楽こそ至上なのかどうかと、いちいち再確認する必要がなくなっている。 ――音響はある意味ではテクスト論的なアプローチというか、音を構造分析的に聴くという方法論でもあったと思います。この本もテクスト論的な面があり、分析の対象は文献から事象に広がっていますが、さやわかさん自身の体験などは可能な限り排して分析するというスタイルで書かれています。 さやわか:そうですね。僕は媒体によって書き方を変えるので、カルチャー誌のルポルタージュやレビューなら、自分の体験や主観に基づいたものも書きます。でもその書き方だと、その体験に共感できるか否かという読み方をされがちなんですよ。要するに「お前はこれを好きだからホメているが、それは真実ではない」とか「お前は現場を見て書いているから正しい」とか、そういう価値観で判断される。僕はそれに疑問があるので、自分の本では、なるべく自分の体験や主観を切り離して、誰から見ても説得性の高い本にしようとしている。正直、どっちの書き方にも良さがあるので、僕はそこで正誤がわかれるとは思ってないですね。それに仰るとおりテクスト論にも音響の話と似たようなワナがあって、なんでも構造のレベルに置き換えてしまいがちなんですよね。書き方というのはバランスが大事で、体験だけに依るのでもなく、テクスト論に終始するのでもなくて、ちゃんと補完できるような要素を用意しておくのが大事だと思うんです。だから僕は構造分析のように見せかけつつ、本全体としてはひとつの物語性を持たせるというか、エモーションに駆動されるようなやり方を著作では必ずやっています。同じライターだと僕は磯部涼さんの書き方とかが好きで、彼はライブ評などでも分析的な視点を挟みつつ、同時に「すれ違った女の子の汗がベタっとしていて気持ち悪かった」みたいなことも書くんですね。分析的な視点と個人的な体験を渾然一体にして書いていて、そういうスタイルを好ましく思っています。

「残念」という価値観が別の価値観を駆逐する訳じゃない

――さやわかさんが文章を書く際のベースとなっているのは、現代思想や社会学などの学識でしょうか。 さやわか:そうですね。しかしベースにしつつ、僕はそういう書き手がパフォーマティブには何をやってきたのかを参考にしているつもりです。たとえば現代思想というと浅田彰さんとか柄谷行人さんとか、蓮實重彦さんとか、あるいは『批評空間』みたいな思想誌とか、そういう名前が出てくると思うんですけど、東浩紀さんとかはそのシーンに宮台真司さんや大塚英志さんを引き入れることで、現代思想のパースペクティブのあり方を変えた。僕はオタクとかサブカルとか、そういうジャンルの評論を書き継いでいきたいというよりは、その「位置付けを変える」というやり方、そういうアティテュードを面白いと思うし、影響を受けていると思います。それまであった言説をうまく利用しながら、でも見取り図をまったく変えてしまうということ――たとえば地図を逆さに置くとか、そんなことがやりたいんですよね。 ――最後に、さやわかさんは「残念」を象徴するカルチャーというのは、2017年頃には終わるかもしれないと書いていますが、その後はどんな動きが台頭するとお考えですか。 さやわか:まず宇野常寛さんが2008年に『ゼロ年代の想像力』という本で「決断主義」という考え方を示されていました。宇野さんは1995年『エヴァンゲリオン』の分析を通して、「何も選ぼうとしないという碇シンジ的な思想では00年代を生きられない」っていうことを言っているんだけど、実はその碇シンジの態度も含めて、00年代というのは何かを選ぶことが重視された10年だったという話になっている。そんな流れと比較して言うなら、善し悪しを判断してどちらかに決断する時代から、残念の時代、つまり善し悪しを決めてどちらかを捨てるのではなく、ダメなことを単にダメだとして受け入れる時代に変わったのだと、この本では指摘しました。なにかを決断することのしんどさ、辛さみたいなものが明らかになったから、ダメなものも積極的に受け入れる時代になったんだと思います。しかしその次にくるものは何かと言われると、おそらく繰り返しになるんじゃないかな、と最近は思っています。受け入れてばっかりじゃダメだ、何かを決断せよとか。つまり僕は「残念」という価値観が別の価値観を駆逐すると考えている訳じゃないんですよ。この本は全く、一〇年代の文化が過去を葬り去るからすげえだろうとか、そういうものじゃない。というか、この本でも書いているんですけど、いつも前の世代の人たちは、新しく出てきたものを「こんなのは全然話にならない」っていうじゃないですか。音楽とかでも、自分自身も恐らくそうなんですけど、新しいものが出てきたときに「こんなもの価値ないよ」「クズだわ」「これは音楽じゃない」なんて言いがちで(笑)。でも、それって自分も上の世代から言われ続けてきたことじゃないですか。そして下の世代は下の世代で、上の世代はダメだとばかり言っている。結局みんな自分の生を絶対的なものにしたいから「上の世代はダメ、下の世代もダメ、俺自身が正しい」って言いたいんですけど、そういう考え方自体がサイクル、ただの繰り返しだと思うんです。僕はそういうのが好きじゃないというか、飽きてるんですよね。カルチャーというのは結局、「残念」という言葉の意味のように絶えず変わっていくものだという気持ちでこの本を書いた。それを読んで、このループを抜ける人がもうちょっと増えたらいいなと思っているんですよ。そうなれば、今は僕が『一〇年代文化論』とか言って、ボカロとかラノベとかアイドルの構造分析を書いたりしているけれど、別に僕が書かなくてもよくなるんだろうと思います。そうなったら僕は他のものを書くので、それでいいんですけど、でも今はまだそうじゃないので、書き続けている感じですね。 (取材=神谷弘一/構成=松田広宣) ■さやわか ライター、物語評論家。『クイック・ジャパン』『ユリイカ』などで執筆。『朝日新聞』『ゲームラボ』などで連載中。単著に『僕たちのゲーム史』『AKB商法とは何だったのか』『一〇年代文化論』がある。Twitter
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さやわか『一〇年代文化論』(星海社新書)

■書籍情報 『一〇年代文化論』 版元:星海社新書 著者:さやわか 定価:¥820(税別) 発売日:2014年4月24日 サイズ:新書判

『オトナ帝国』と『戦国大合戦』が“傑作”の理由 映画『クレしん』シリーズの魅力【原恵一/後編】

【オタクに"なるほど"面白い!オタクニュース・ポータル「おたぽる」より】

――この時期に観たいアニメとしてお勧めの劇場版『クレヨンしんちゃん』。そんな劇場版『クレしん』の魅力を監督別に特集。第3回は、原恵一が監督を務め、シリーズ最高傑作との呼び声も高い『嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』『アッパレ! 戦国大合戦』の2作品で、こんなところを知っていると観方が変わって面白いという見どころを紹介していこう! 第1回【本郷みつる編】はこちらから。 第2回【原恵一編(前編)】はこちらから。 【原恵一編(後編)】 ■『嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』
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 本作は大人向けに振り切った作品だと原監督は語っている。原監督作品で小出しにされてきた要素がここにきて、ようやく凝縮された形で表出した。それが『オトナ帝国の逆襲』である。  大人が童心に帰って、20世紀を追体験し、自分自身の思い出に出逢えるテーマパーク・20世紀博。日本各地で開催されている20世紀博に、ひろしとみさえはご執心だが、しんのすけとひまわりは、親たちだけが楽しんでいる状況にうんざりしていた。そんな20世紀博からのお知らせがTVで流された。「明日、迎えに上がります」これを見た大人たちは家事や仕事、子供たちを放棄して遊び惚け、20世紀博からの迎えに喜び勇んでついていく。しんのすけら子供たちは置いてけぼりにされてしまった。これは秘密結社イエスタデイ・ワンスモアの陰謀だった。首謀者のケンとチャコは大人たちを古き良き時代“昭和”のニオイで洗脳し、懐かしい過去に回帰させようとしていたのだ。これを知ったしんのすけたちは両親を取り戻そうと行動を開始する。  それまでの劇場版クレしんでは、日常を非日常が浸食していく過程が描かれてきた。しかし、本作では20世紀博という非日常がすでに浸食している姿から物語が始まっている。昭和の町並みを再現した20世紀博の夕日町銀座商店街の佇まい、ジャイアント馬場VSデストロイヤーの試合(毎回、三菱電機製の掃除機「風神」がマットを掃除した)、ウルトラマンを思い起こさせるヒーローSUNや魔女っ子(魔法少女ではなくてあえて魔女っ子)を思わせる魔法少女みさりん。ケンとチャコは人気を博した子供向けドラマ『チャコちゃん』『ケンちゃん』シリーズからであるし、挿入歌はBUZZ「ケンとメリー 愛と風のように」、ベッツィ&クリス「白い色は恋人の色」、ザ・ピーナッツ「聖なる泉」、吉田拓郎「今日までそして明日から」と、当時を生きた大人ならば、何かしら琴線に触れるものばかりが登場している。  本作が支持される一番の要因は、本当の敵がイエスタデイ・ワンスモアのケンでもチャコでもなく、“懐かしさ”であることに尽きるだろう。 【「おたぽる」で続きを読む】

「もっと恐ろしいものを表現したい」坂本慎太郎が追い求める“一線を越えた”音楽とは?

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【リアルサウンドより】  2ndアルバム『ナマで踊ろう』を5月28日にリリースする坂本慎太郎のインタビュー後編。「人類滅亡後の音楽」をテーマとした新作について語った前編に続き、後編では音楽における歌詞の役割から、作者と作品の関係、さらには表現のリミットをどう認識するかまで、聞き手の小野島大氏と大いに議論してもらった。(編集部)

「時間がたつことの恐怖のようなものも入れたかった」

ーー「人類滅亡後の地球に流れる常磐ハワイアンセンターのハコバンの音楽」というコンセプトは、歌詞がなくても成り立ちますよね。 坂本:うん、成り立ちますね。 ーー実際、前作もそうでしたが今作もインストのCDが同梱されるわけですよね。にもかかわらず歌詞をつけたというのは、音だけでは伝えきれない思いがあるということなんでしょうか。 坂本:いや、そうではなくて…日本語の歌詞にこだわって音楽をやるのが自分のテーマで。日本語の歌詞がちゃんとのってる良い曲を作るというのが、自分のやることだって、どこかで思ってるところがあるんですね。インストの音楽とか…聴きますけど、自分がやらなくても誰かほかの人がやるだろうって思いがあったりします。曲を作るって行為は、日本語の歌詞がついてる曲を作る、ってことになってますね。 ーー歌詞があるとそこには意味が出てきますし、聴き手はそこからなんらかのメッセージを読み取ろうとするわけですが、そこも含めて歌詞を書きたい、と。 坂本:そうです。言葉の意味とサウンドの組み合わせから生じる表現ということですね。歌詞で何かを言いたいというのではなくて、この言葉とサウンドが一緒になった時に出てくるもので、何かを伝えるということをずっとやってるつもりなんです。今回はこういうサウンドに、こういうストレートな歌詞が乗った時に出てくるムードがおもしろいと思ったってことですね。 ーー今回の歌詞はかなり強いですよね。裏読みの余地がないぐらいストレート、という話もありましたが、これが、ある種のどかな音楽と組み合わされた時の違和感がすごく強烈ですね。 坂本:ほんとの意味で恐怖感を与えるような音楽をやりたいっていうのがありましたね。 ーー全体を象徴するのは一種の終末思想的な。 坂本:ありますね。あとは…すごく時間がたつことの恐怖というか。そういうのも入れたかったですね。 ーーそれは「死」ということですか。 坂本:もちろん「死」も含まれるんですけど、個人的な死とかじゃなくて、もっとスケールの大きい…ただ時間が流れることへの恐怖っていうか。身近なことでいうと、昔のマイナーなソウルのコンピレーションとか買うと、当時のレコーディング風景の写真が載っていて、みんな20歳ぐらいですごく楽しそうに録音してる。昔は何も思わなかったんだけど、最近見るとすごく怖くなったりするんです。この人たちはもういないんだけど、その念だけがレコードに閉じ込められている。当時のムードなり空気なりが時空を超えて自分の部屋にやってくるわけで。で、プレイするとそのムードが立ちあがってくる。そのへんに音楽の重要な要素もある気がしますね。それってミュージシャンが目の前で演奏してるのとまったく違う感覚じゃないですか。もう死んだ人の声が生々しく聞こえる。かければ当時の雰囲気がそのまま自分の部屋で再現されるっていうのも、考えるとちょっと怖い…それは死が関係してるんですけど。道を歩いてると、この道も江戸時代はちょんまげ結った人が歩いてたんだなと思うと(笑)。すごい不思議なのと同時に怖くなる。そういう感じを全体的に入れたかったんですよ。 ーーなるほど。 坂本:あと自分が死んでーー自分が死ぬのはもはやどうでもいいんですけどーー死んだあともそのまま何万年も時が流れていく感じ。そういう途方もない感じというか。 ーー普通の人だったら、死んだらそれでオシマイですけど、クリエイターの人は死んでも作品が残りますよね。それは意識することはあります? 坂本:意識することはないですね。自分が死んだら終わりだと思ってるんですけど、今言ったことは作品を作る原動力にはなるっていうか。 ーーそういうことを想像することが。 坂本:そうですね。 ーーある音楽家がね、10年後20年後に自分という存在が忘れられても、自分の曲なり作品なりが残ってくれればいいと言っていたんですが、その気持ちはわかりますか。 坂本:う~~~~~~ん………そうですねえ……わかるとこもありますけど…うーん…わかんないとこもありますねえ。 ーー自分が死んだらあとはどうでもいいっていう感覚。 坂本:うん、その感じもすごくありますねえ。自分を出すんじゃなくて作品だけ世に出て、自分は消えたいとか、そういう思いもあるんで、半分わかるとこもあるんですけど。
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「自分が聞きたいレコードを作りたいってことだけ」

ーー作品だけあって自分は消えたいっていうのは、自分をアピールするために作品を作ってるんじゃないってことですよね。自分の存在証明のためとか、そういう意識ではない。 坂本:うーん…まあそれもねえ…掘り下げていくとどんどん矛盾が生じてくるんですけど(笑)。作品を出して、もちろんそれは評価されたいんですけど…当然ですが、いわゆるロックスターとか芸能人になりたいとか、そういうのはないってことですかね。 ーーゆらゆらをやめてからの坂本さんは、なるべく自分の存在も音楽も透明なものにしたいというような意志があるように感じるんですが、透明だからこそ伝わってくる強烈な個性や念の強さのようなものが…今作はすごくわかりやすく出てますね。そういうある種の矛盾というか葛藤が坂本慎太郎なのではないかと。 坂本:ああ、それは狙ってやってる部分と、無意識にやってる部分があると思うんです。僕の音楽を作る原動力って、完全に自分が聞きたいレコードを作りたいってことだけで。そうした時に、自分が好きな(ほかの人の)レコードと並べて聞けて、同等かできればそれ以上のものを作りたいと、それだけを考えてやってるんですね。そうすると、たいがいはもう死んだ人の音楽だったりして(笑)。そういうのも関係してるのかなって思うんですけど。 ーーほとんど表に出なくなっちゃったじゃないですか。ライヴもやらない、メディアにも滅多に出てこない。となると純粋に作品だけの評価になるわけですが、それはご自分の望むところなわけですか。 坂本:ええと、今の時点ではそうですね。あと、とくに今回のアルバムの曲はライヴをやらないから作れるようなところもあるんですよね。ていうのは、すごいストレートな歌詞だけど、自分が発してるんじゃない、どこか違う所から来ているように響かせる、ということが狙いなんですね。それは出来てる気がするんですけど、ライヴで自分の口で目の前で歌っちゃうと、どう考えても僕のメッセージになるし。そうするとこのアルバムでやりたかった一番重要な部分が台無しになっちゃう。ものすごい恐ろしい世界を作ったんだけど、最後に種明かしするみたいになりそうで。緞帳が開いて、キャストが全員出てきて、挨拶するみたいな。聞く人に安心感を与えることになりそうな気がするんですよね。なんかね、得体のしれない感じを出せたと思ってるんですよ今回。ちょっと気持ち悪いっていうか不安になるというか。 ーーありますね、すごく。 坂本:それはすごくうまく出来たと思うんで、これをライヴでやっちゃうと、みんな安心しちゃいますよね。 ーーひとつの普通の歌として受け入れるでしょうね。 坂本:ええ。だったら、作った人がいるのかどうかも怪しい、っていうほうが、音楽の価値はあがるんじゃないか、とは思いますけどねえ。 ーーすごく仰りたいことはわかりますが、でもそれでも、ここから坂本慎太郎というアーティストの個性や存在が透けて見えるのが面白いところですね。 坂本:うん…うん。そうかもしれないですね。 ーーこういう作品を作っていて、昔のゆらゆら帝国のころのように、爆音でギターをかき鳴らしたいとか、そういうロック的な愉悦みたいなものに対する思いみたいなものは、残ってないわけですか。 坂本:ああ、爆音でギターというのはまったくないですね。 ーーあ、まったくない? 坂本:ええ。全然ないです。今回レコーディングのために久しぶりにスタジオに入って、3人で演奏してたら、演奏したり歌ったりするのは楽しいんですよ。でもいざライヴをやるとなったら、その場が自分が思ってるものと違うものになるのは目に見えてるので、その途端にやる気がなくなるっていう。たとえば誰も知らない世界で3人で演奏して、みんなが踊ったり酒飲んだりしてたら、それは素晴らしいと思いますけどね。 ーーある種の記名性が邪魔になる。 坂本:それはありますねえ。ちょっと自意識過剰かもしれないですけど(笑)。 ーーライヴではレコードとは違う期待をするでしょうからね。お客さんも。 坂本:たぶんライヴで、「期待されて期待に応える」みたいな過程の中に、自分が音楽に求めている要素が、もう、ないんだと思うんですよね。

「この世界で一番あってはいけないことは、例えば観葉植物が話しかけてくること」

ーー私がゆらゆらの取材をやらせてもらったのは、ゆらゆらがメジャーに行ってすごくポップになった時期だったんですけど、その時話していただいた、ポップになった理由もすごく納得のいくものだったんで、そのあたりのことは解決されているのかと思ってました。 坂本:ああ、どうなんでしょうね。やってる時は解決してたのかもしれないけど。後期はまたちょっと違ってきたと思うし。すごく簡単にいうと、初期のお通夜みたいなライヴがあって(笑)、メジャーで出したら、普通にわーっと騒いだり暴れたりする人がライヴに来るようになって、それが当初はすごく面白かったんですよ。それがしばらくするとまた初期のお通夜に戻っていったんです。巨大な(客の人数の多い)お通夜(笑)。全員がすごい集中力で一挙手一投足を見逃さないようにしてる。一緒に歌う人がいると怒られちゃう、みたいな。踊ったりすると、静かにしろ、ぐらいの雰囲気があったり。それは、それだけ真剣に聴いてくれているということでもあるんですけど、、、、そういう感じがあったと思うんですよね。 ーーそれに違和感を感じはじめた。 坂本:それはあります。でもそれって全部自分のせいなんですけど。もちろんバンドを辞めたのは、それだけが理由じゃないですけど。 ーーとすると、坂本さんってもともとロックに向いてなかったんじゃ…(笑)。 坂本:(真顔で)それはあるんですよね…。 ーーええっ、いやいや冗談ですけど(笑) 坂本:だから…なんでしょうね…個人に向かう音楽が好きなんですよね、たぶん。みんなで一体感を求めるようなヒッピーっぽい感じとか、ハンド・イン・ハンド的な。絆とか。そういうのが昔からほんとに苦手で。でもロックでも個人に向けた音楽もいろいろあると思うんですよね。 ーーそれは今のライヴ事情だとなかなか実現しにくいかもしれませんね。みんながライヴやフェスで受けるような音楽を目指しているみたいな状況もあります。 坂本:うん…でもね、ライヴやらなきゃいけないって法律でもできたら、僕はそういう音楽やりますよ(爆笑)。今回のアルバムの曲をライヴでやっても意味がないって思ってるだけで。だからもしライヴをやらなきゃいけないんだったら、ダンスバンドとか盛り上がるような音楽をやりますよ。それはそれで嫌いじゃないですから。 ーーでも法律がなきゃやらないんでしょ(笑)。 坂本:うん、まあそうですね(笑)。 ーーライヴもやらなくなったし、音楽的にもゆらゆら時代とは変わってしまったかもしれないけど、もともと坂本さんの音楽にあった強烈な違和感や一種の気持ち悪さのようなものは、今の音楽にもちゃんと残ってますね。 坂本:うーん、そこのみかもしれないですね、こだわってるのは。激しくないから毒がないとか、鋭くないとは思わないし、自分の音楽に限らず。社会の仕組みとか法律とか、その枠の中の危険なことじゃなくて、もっと恐ろしいものを表現したいというのがあるんですよね。それはさっき言ったような、時間の流れであったり。死もそうですけど。昔読んだ本ですごく印象に残ってるんですけど、この世界で一番あってはいけない、許されないことは、殺人とかではなく、例えば観葉植物が話しかけてくることだっていうんですよ。法律よりももっとベーシックな世の中の決まり事があるじゃないですか。植物は話しかけてこない、イカは喋らない。その一線を越えてくるのは、あってはならないことだと。自分の音楽でそういう恐怖心を与えられるとすごいなと思ってるんです。大前提の約束事があって、それはふだん意識もしないしあえて見ないようにもしてるけど、そのへんを目の前に突きつけられると、やっぱり怖いし、気分悪いですよね。楽しくないかもしれないけど…。 ーー楽しくもないし、安易なカタルシスがあるわけでもない。なんとなくもやもやとした気持ちの悪さ、割り切れなさを抱えて聞くような。そんなアルバムですね。 坂本:うん、音楽の感動って、その要素はちょっと入ってると思うんですよ。 ーー割り切れない部分があるからこそ、何度も聞き返すし、繰り返しの鑑賞にも耐えうる。 坂本:そうですよね。あと、今回は特にロック好きでもなんでもない普通の小学生とか中学生に聞いてもらって「これ面白い」とか言ってもらえるほうがいいな、と思いましたね。「およげたいやきくん」みたいに普通に歌っちゃうんだけど、大人になって初めて、あれはこういう意味だったんだ、怖い曲だったんだと気づくような。そういうアルバムになってくれるといいなと思います。 (取材・文=小野島 大/撮影=金子山)
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坂本慎太郎『ナマで踊ろう(通常盤)』(zelone records)

■リリース情報 『ナマで踊ろう』 発売:5月28日 価格:初回限定盤 ¥2,600+税(紙ジャケ仕様/2枚組/BONUS CD付)    通常盤 ¥2,600+税(2枚組/BONUS CD付) <収録内容> 01. 未来の子守唄 (Future Lullaby) 02. スーパーカルト誕生 (Birth of The Super Cult) 03. めちゃくちゃ悪い男 (Extremely Bad Man) 04. ナマで踊ろう (Let's Dance Raw) 05. 義務のように (Like An Obligation) 06. もうやめた (Gently Disappear) 07. あなたもロボットになれる (You Can Be A Robot, Too) 08. やめられないなぜか (Why Can't I Stop?) 09. 好きではないけど懐かしい (Never Liked You, But Still Nostalgic) 10. この世はもっと素敵なはず (This World Should Be More Wonderful)

表現規制反対派の勝利か敗北か?いよいよ「児童ポルノ」所持規制が導入へ

【オタクに"なるほど"面白い!オタクニュース・ポータル「おたぽる」より】

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『マンガはなぜ規制されるのか』(平凡社/長岡義幸)。
「児童ポルノ法」改定をめぐり、与野党による実務者協議が合意に達したことを大手メディアが報じている。条件付きとはなるものの、“単純所持の規制”はもはや避けられない見通しだ。  消息筋によれば、合意案では“所持の規制”を導入するために「児童ポルノ」の定義に踏み込んでいる模様だ。ただ、幾人かの関係者に情報の提供を求めたところ、「実務者協議のレベルなので、報道されるわけにはいかない」と資料の提供は拒絶。口頭で、説明をするにとどまっている。口頭での説明によれば、条文にもかなり手をつけられる見通しだ。  一方、かねてより懸念されていた「二次元規制」については、削除される公算が強まっている。  こうした情勢に対して、業界関係者の意見はさまざまだ。マンガ・アニメなど「二次元規制」の問題を重視する人々の中では、その危機が去りつつあることをもって「なんとか勝利した」という声もある。一方、出版業界などでは「本丸であった所持の規制が盛り込まれてしまった」ことを取り上げて、言論・表現の自由の新たな危機が始まったと見る向きもある。 【「おたぽる」で続きを読む】

ターゲットは“同人”を盾にするサークル ブロッコリー『うたプリ』同人サークルへの警告の目的

【オタクに"なるほど"面白い!オタクニュース・ポータル「おたぽる」より】

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「株式会社ブロッコリー」の公式HPより。
 株式会社ブロッコリーの管理本部が、ツイッター上で同社の作品『うたの☆プリンスさまっ♪』の同人グッズや音源の交換を行っている人物に対して、警告を行っていることがネット上で注目を集めている。  この警告はすでに2012年の5月から始まっていたもので、当初は音源の交換を行っている人物に対して行われていたが、6月頃からは同人グッズに関する警告が行われている。  同社の警告文は、以下の2種類のテンプレートに即している。 「㈱ブロッコリー管理本部です。権利者の許諾なく音源を交換することは著作権法に違反する行為に該当しますのでご注意ください。」 「㈱ブロッコリー管理本部です。当社は、当社の権利の保全のため、貴殿に対し、本件著作に関連する配布を即時に中止することを求めます。上記対応をいただけない場合には、法律に従って適切な措置を採りますので、あらかじめご承知おきください。」  これに伴って、警告を受けた人物にはツイートを非公開にする者、あるいはツイッターのアカウントを削除する者もいる。  同社が、このような措置を行っている理由はなんなのか? 同人誌業界に詳しい人物は、「今回の騒動は、以前から行っていたことがニュースサイトに取り上げられて注目されているに過ぎない」とした上で、次のように語る。 【「おたぽる」で続きを読む】

坂本慎太郎はなぜ“人類滅亡後の音楽”を構想したか「全体主義的なものに対する抵抗がある」

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【リアルサウンドより】  2010年3月に惜しまれつつ解散したゆらゆら帝国のフロントマンであり、2011年よりソロ活動を展開している坂本慎太郎。5月28日にリリースするソロ2ndアルバム『ナマで踊ろう』は、「人類滅亡後に流れている常磐ハワイアンセンターのハコバンの音楽」というテーマで制作されたという。ベースを軸とした浮遊感のある楽曲に、アイロニカルで寓話的な歌詞が乗り、終末的でありながらも、どこか明るい雰囲気を生み出している。今回のインタビューでは聞き手に音楽評論家の小野島大氏を迎え、本作の制作プロセスから楽曲に込めたイメージ、さらにはライブを行わずに独自のペースで活動を続ける理由について、じっくりと語ってもらった。(編集部)

「曲がほとんどベースで決まるんだなっていうのが改めてわかった」

ーー2年半ぶりの新作です。構想2年ということなんですが、どういう形で今作の制作は始まったんでしょうか。 坂本:1曲ずつ作っていって…特にアルバムの制作期間だから曲を作り始めるとか、そういうのではなく、日常的にギターで曲を作っていった中で、ちょっと面白いなと思えるのが出来て、それが2曲目の「スーパーカルト誕生」って曲なんですけどね。そこからアルバム全体に繋がるイメージみたいなものが浮かんできて。それを時間をかけて、妄想を熟成させて…って感じですかね。 ーー最初に浮かんだアルバムのイメージというのは、「人類滅亡後の地球で鳴り響く音楽」という歌詞のテーマも込みで? 坂本:いえいえ、歌詞は最後のほうに作るんで。最初に曲だけ作っていって、レコーディングする時点で(歌詞は)あるって感じですね。 ーー前作のあとで反省点とか、次はこうしよう、というようなものはあったんですか。 坂本:それはないんですけど、前作では自分でベースを弾き始めて、ベースラインからアレンジするっていうのを初めてやって。それがすごく面白かったんですけど、そのあとのシングルとかで、その手法はだいたい見えてきたところがあって。次やるならベースは人に頼んで、バンド形式で録ろうと思ったんです。それぐらいですかね。 ーーふたつお聞きしたい点があるんですが、ひとつは、ベースで曲を作ることで何が変わってきたかという点。もうひとつは、前回はほとんどおひとりで作られていたと思うんですが、今回はきっちりとメンバーを決めてリハーサルも積んでレコーディングに臨まれたんですよね。なぜそうしようと思ったのか。 坂本:バンド(ゆらゆら帝国)の時はギターで曲を作って、それをスタジオに持っていってドラムとベースが合わせて、っていう作り方で。基本的にはパートを任せるという感じですね。でもベースで曲を作り始めると…曲がほとんどベースで決まるんだなっていうのが改めてわかったんです。たとえば…抜くタイミングとか。コードに沿って弾かないで、歌メロと、もうひとつ対になるようなベースラインが縫うように来る、っていうアレンジの仕方をやるようになって。あとは、コードがあって、コードの中の一番低いルートの音をベースが弾くっていうのが普通なんですけど、違う音から入って、ギターもコードを弾かないで、鳴ってないんだけど変なコード感が出るとか。ベースだけ聴くと違うコード進行に聴こえるんだけど、歌と、ギターの単音と、3つがあわさってコードになるとか。そういう出来上がりをイメージして、ここはギターが入るからベースを抜いておこうとか。そういう作り方ができるようになったってことですかね。 ーー作り方の自由度が増したということと、鳴らさなくても想像させる、というような考え方ができるようになった。 坂本:そうですね。あとは…曲の完成形が頭にあって、それに向かってどうすればいいか、いろんな方向から、自分の思い通りに考えられるようになったっていうか。 ーーバンドだと自分の思い描いていたものとは違う方向にいくことがあって。それがバンドの醍醐味でもあると思うんですけど…。 坂本:はい、そうですね。その通りですね。一人でやるとそういう細かいところまで自分で考えられる。それって、面白さと同時に仕上がりも見えすぎるところがあって。で、今回ベースは違う人にお願いしようと。バンドでやったのは、スタジオで一緒に練習することで出てくる人間のノリみたいなやつを記録したかったというのがあります。 ーーこういう風に弾いてくれ、という指示は全部坂本さんが出されるわけですよね。 坂本:今回もデモテープを自分で作って、そこには基本的なドラムのパターンと、べースラインは入っていて。それをもとにスタジオに入るんで、全然違うものにはならないんですけど、タイム感が違うので、自分でベースを弾くものとはやはり違ってきますね。 ーー自分の構想した通りのものができるんだけど、最終的な演奏の段階を人に委ねることで、違うニュアンスもそこに加わってくる。 坂本:ああ、そうですね。自分以外の要素をちょっと増やしたかったというか。1枚目はあまりにも「隅々まで自分」だったんで。それをちょっと薄めたい、というのもありました。
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「人類が滅亡した地上で、ハトヤのCMがただ流れている、みたいなイメージ」

ーー1枚目に関しては、長年バンドでやってこられたから、「全部自分の世界」というのをやってみたかったんだろうな、というのは感じました。 坂本:あ、そうですね。そうですそうです。一回やったんで気が済んだってところもありますね(笑)。 ーーじゃあ今回のアルバムは「バンドもの」だと思っていいんですか。 坂本:あのう…そこで…いわゆるロック・バンドの感じにはしたくなくて。それはメンバーにも言ったんですけど、ステージに立ってロック・コンサートで演奏しているようなロック・バンドのテンションじゃなくて、もっと寂れたホテルのラウンジとかフィリピンパブのハコバンとか…。 ーーああ、わかります。ビヤガーデンで演奏してるみたいな。 坂本:そうそう。そういうバンドのテンションと空気感の演奏にしたい、と説明して。その感じは出てるかな、と思ってるんですけど。 ーーなぜそんなことをやろうと思ったんですか。 坂本:ええと…それはコンセプトの話に戻るんですけど。2曲目(「スーパーカルト誕生」)が出来た時に考えたイメージっていうのが、昔の常磐ハワイアンセンターとか、ハトヤ温泉とか、ファミリーランドみたいな遊園地でもいいんですけど、そういう人工的な楽園みたいなものを作ろうと思った人達…その人達はもう死んじゃってるんだけど、その人たちの意志や志みたいなものだけが、まだふわふわとこのへんに漂っているような、そんなイメージなんです。人類が滅亡してもその気持ちや魂だけが残って、誰もいない宇宙に漂っているっていうのが、すごいかっこいいと思ったんですね。もっと具体的にいうと、人類が滅亡した地上で、ハトヤのCMがただ流れている、みたいな。 ーー星新一っぽいイメージですね。 坂本:ああ、そうですね。子供のころ読んでたSFマンガやSF小説にも通じるような、そういう世界観をイメージしたんですけど。そこに出てくるバンドってことなんですけどね。それはロックじゃなくて…。 ーー滅亡したあとに流れているのはゆらゆら帝国のような音楽じゃなくて。 坂本:もっとムード音楽みたいな…いろんなロックがありますけど、今の規模の大きいロック・コンサートの、一致団結・連帯、みたいな、ああいうのと真逆の感じがやりたかった。 ーーものすごくわかります(笑)。ゆらゆら帝国でも、特に後期はそういう路線でしたよね。共感とか一体化した熱狂を拒否するような方向。 坂本:僕はずっと、そういう「連帯」とか、「ひとつになる」っていうのがいやで、こういうバンド始めたはずなんですけど、気が付くといつのまにか巨大なステージの中心にいたりして。ふと、こんなはずじゃなかっていうのがよぎったり。 ーーそういうことを感じつつ、どこかで開き直ったのかと思ってましたけど、そうではなかったんですか。 坂本:うーん、今となってはもう覚えてないですねえ。でも…ロック・コンサートの宗教的なノリっていうのは、逃げたい要素ではありますよね。 ーーソロになってからライヴをされてないですよね。それはそういう理由もあるんですか。 坂本:それもありますね。 ーーゆらゆらの『空洞です』の当時のインタビューで、ライヴで盛り上がらない曲ばかりなんでライヴをどうしようか悩んでる、みたいなことをおっしゃってたのが印象的でした。 坂本:曲作りの方向性とかはその当時から変わってないと思うんですけど、一番大きな違いはライヴやってるかやってないかで。レコーディングしたあとにライヴ用にアレンジし直したりするし、やっぱり大きな会場で演奏すると演奏自体も変わってくるから。そうすると意味が変わってきたりとか、ありますよね。同じ曲でも。

「さすがに、メッセージ的なものが何もない音楽って、今どうなんだろうって」

ーー今回はバンドとしてちゃんと練られたものとは言っても、ライヴを前提としては考えてないってことですか。 坂本:そうですね。ただあるとしたら、さっき言ったみたいな、ホテルのラウンジとかビアガーデンとか。お客さんがいて、いい感じの音楽が流れていて、音楽をみんなで共有はしてるんですけど、それぞれ全然別の方向を向いて喋ってたり、あるいは音楽を聴いてのったり踊ったりしてる人もいて、という。いろんな人がバラバラに共存してるところに、バンドの音楽がいい感じで流れている、というイメージなんです。そんな感じでライヴができるなら、ライヴもアリなんですけど(笑)、絶対無理なんで(笑)。 ーー人類滅亡後に流れている常磐ハワイアンセンターのハコバンの音楽、というテーマなんですが、音楽は言ってみれば楽園的な--幻想上の楽園かもしれないけど--のどかなものだけど、歌詞は逆にディストピア的なダークなものになってますね。 坂本:人類が滅亡したあとに、かって人類が目指そうとした楽園を作ろうとした人たちの、意志だけがあるって妄想した時に、なんでかわかんないけど、自然とこうなりましたけどね。ストーリーを作ってそれに沿って作詞したんじゃなくて。 ーーそこには文明批判的なニュアンスはあるんですか。 坂本:文明批判というよりは、今現在生きてて感じているような…さっき言ったような、巨大なロック・コンサートの宗教的なノリもそうですけど、なんかこう、全体主義的なものに対する抵抗とか…それが一番大きいですね。あとは、宗教的な陶酔とか熱狂とか、そういうものに対する恐怖もありますし。 ーーそういう宗教的な同化指向とか全体主義的な同調圧力とか、日々暮らしていて感じることが多いわけですか。 坂本:そうですね。 ーー坂本さんはもともと、そういう皮膚感覚というか、社会的な事象に対しての自分の感じ方や考え方を作品に反映させていきたいと考えるほうなんですか。 坂本:いや、考えない方です。 ーーですよね。 坂本:政治的な発言もしないですし、社会的なメッセージみたいなものも--もちろん普通に生きているんで、ありますけど--それを音楽で表現しようとは思わない。思わないんですけど、今回は作品をSF的な設定にしたことによって歌詞を--深読みできないぐらいストレートだと思うんですけど--ストレートに言っちゃったほうが、単純に面白い、というのと、あと…意外と生々しくないっていうのを発見して。僕個人の叫びに聞こえないっていうか。歌詞を単純化することによって、CMのコピーとか標語みたいな感じになる気がしたんですよね。それは強烈だし、なんか面白いなと。今まで自分がとってきたスタンスと矛盾するとは思わなかったし。 ーーなるほど。 坂本:あと、さすがに、メッセージ的なものが何もない音楽って、今どうなんだろうって、ちょっと思いますね。 ーーあ、思いますか。 坂本:はい。歌詞で言うとか言わないとかじゃなくて。なんでしょうねえ…ただ楽しければいいとか、おしゃれだからいいとか…そういうのを今作ろうとは思わないですね。 (後編へ続く) (取材・文=小野島 大/撮影=金子山)
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坂本慎太郎『ナマで踊ろう(初回盤)』(zelone records)

■リリース情報 『ナマで踊ろう』 発売:5月28日 価格:初回限定盤 ¥2,600+税(紙ジャケ仕様/2枚組/BONUS CD付)    通常盤 ¥2,600+税(2枚組/BONUS CD付) <収録内容> 01. 未来の子守唄 (Future Lullaby) 02. スーパーカルト誕生 (Birth of The Super Cult) 03. めちゃくちゃ悪い男 (Extremely Bad Man) 04. ナマで踊ろう (Let's Dance Raw) 05. 義務のように (Like An Obligation) 06. もうやめた (Gently Disappear) 07. あなたもロボットになれる (You Can Be A Robot, Too) 08. やめられないなぜか (Why Can't I Stop?) 09. 好きではないけど懐かしい (Never Liked You, But Still Nostalgic) 10. この世はもっと素敵なはず (This World Should Be More Wonderful)

『進撃の巨人』ゆかりの地をめぐる大分・日田から熊本・阿蘇への“進撃”ルートとは?

【オタクに"なるほど"面白い!オタクニュース・ポータル「おたぽる」より】

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映画『進撃の巨人』公式HPより。
 2015年の公開を目指し、樋口真嗣監督により実写映画化が進む『進撃の巨人』。長崎県の「軍艦島」でのクランクインが話題となった一方(参照)、5月18日に熊本県内でも撮影を行ったことを樋口監督とスタッフが県に報告した。報道によると「押戸石の丘」や「らくだ山」などでロケが行われたという。 「押戸石の丘」は阿蘇郡南小国町にある。南小国町は『進撃の巨人』の作者・諫山創さんの故郷である大分県日田市から国道212号線で結ばれている。日田市内では昨年秋に大山ダムを劇中の“壁”に見立てた有志によるコスプレイベントの開催、年末に一部のローソンでコラボが行われて賑わっていた。また212号線沿いには道の駅・水辺の郷おおやまがあり、そこでは同作とコラボした梅酒を買うこともできる。 【「おたぽる」で続きを読む】

AKB48が出演番組の“問題点”を討論 島田晴香「若手メンバーばかり推すのをやめるべき」

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AKB48『AKB48 リクエストアワーセットリストベスト200 2014 (200~101ver.) スペシャルBlu-ray BOX (Blu-ray Disc5枚組)』(AKS)

【リアルサウンドより】  『AKBINGO!』の5月21日放送回にて、AKB48のメンバーが同番組の改善案を考える企画「AKBINGO!総点検プロジェクト」が放送された。  6年半の歴史を持つ同番組を良くするための改善案を各メンバーが提出し、その案について反対派と賛成派に分かれて討論し合うという今回の企画。  1つ目に読み上げられたのは島田晴香の「『AKBINGO!』は若手メンバーばかり推すのをやめるべきである」というもの。この案に対して”賛成”の意を表明したのは、MCのバッドボーイズ清人と島田、北原里英と内田眞由美の4人。残りの11人は全て”反対”に移動してしまった。これについて島田が「毎週『AKBINGO!』を録画予約してたんですが、若手メンバーが推されすぎてて、録画予約を止めました。30分の番組で、岡田奈々ちゃんの”真面目企画”を3週分、つまり1時間半ですよ! 西野未姫の”泣き虫キャラ企画”は2週分......。取り過ぎでしょ! 尺!」と”三銃士”など、12期以降のメンバーが多く取り上げられていることに対し、怒りを露わにした。この怒りに対し、バッドボーイズ佐田が「でも面白かったもん」と若手メンバーへのフォローを入れると、すかさず島田が「面白くなかったな~」と返し、これには若手メンバー一同も苦笑いするしかなかった。  その後、島田への反論として、岡田が「キャラ作りはAKB48にいるうちは大事だと思うので......」と、自身のキャラクターをアピールするために必要な時間だったことを説くと、西野が「島田さんは”ごっつい”キャラが付いてるからもう出なくてもいい」と島田に攻撃を加える。内田が「何年もやって来て(キャラを)付けられた。早くからキャラを欲しがるのは欲張りなんじゃないか」と、ベテランならではの意見を述べると、北原が「キャラ付け企画は分かるけど、三銃士のゴルフ企画は何?」と語り、2013年7月23日に放送された映像を再度確認。室内用のパターゴルフで遊ぶ3人が淡々と放送されただけの映像に対し「地上波とは思えない」と辛口コメントを述べた。この問題について、担当ディレクターが「何の目的があるとおっしゃいますけど、画が持つんですよね。オチなんかいらないんですよ」と語ると、北原「いつの間にそんな甘くなったんだ『AKBINGO!』は!」と 番組に喝を入れた。  また、”画が持たない”側の島田は「私、ネット上で小嶋に顔が似てるって言われてるんですよ」と、突然語りだし、実際に画像を検証。誰の目から見ても似ていない画像に対し、込山が「似てたら島田さんはもうちょっと人気あると思う」と、毒舌を吐いた。  そして、特別ゲストとして番組を見学していた”大人AKB”の塚本まり子が登場。これまでの意見に関して「私は37歳なんですが、AKB48の中では若手になるんでしょうか?」と質問。「芸人と同じで年齢関係無く、入った順番で先輩後輩になる」というルールの為、”若手”になることを告げられた塚本は「そうですね......。あれ、どんな議論でしたっけ?」と、天然ぶりを見せつけ、番組の空気をリセットした。  この議題に対して、総監督である高橋みなみは「時代の流れですから。若手達が目立って行かないと、AKB48の今後に繋がらない。中堅や先輩は、出たいなら自分で来ること」と総括し、この案は不採用になった。  2つ目の意見として読み上げられたのは、岡田の「バラエティー班じゃないメンバーにモノボケをやらせるのはやめるべきである」というもの。岡田、西野、内田、清人と、またも賛成派が4人という事態になるが、岡田はこのことに対し、「モノボケが苦手で、その回をお母さんと見ながら『面白くないね』って言われて心が折れて......。私はバラエティー班ではないので」と語ると、佐田が「そもそも”バラエティー班”って何なん?」と質問。これに対し岡田は「バラエティーを中心に活躍されている先輩方で、島田さんや北原さんなどです」と答えると、”女優志望”の北原は「私バラエティー班なんだ......」とショックを隠しきれない様子を見せた。  同じ若手メンバーからの意見として、田野が「真面目にやってる子がモノボケで頑張ってる姿を見るのが、ファンは嬉しい」と語り、他メンバーから感心されると、込山が「西野さんは罰ゲームのゲテモノを食べない」と暴露。これに対し高橋は「これは難しい。食べて面白いやつと食べない方が面白いやつがいるから。西野は食べなくて泣いてるのが面白いんだけど、この番組はチャレンジできる場所だから、ちゃんとやっていった方がいい」と金言を授けた。  また、大阪で修業を積んだ横山が「早い段階から”バラエティー班”とかそうでないとか決め過ぎ。私はNMB48との兼任で殻が破けた。他の番組やったらもっとシビアにカットされるし」と、”笑いの本場”大阪で知ったバラエティーの厳しさを語った。最後に、この日の司会を務めた菅谷大介アナから「AKB48にとってバラエティーとは?」と聞かれた高橋は「可能性です」と答えた。彼女の言葉に心を動かされた4人は”不採用”の札を挙げ、満場一致で”モノボケを頑張っていく”という結論になり、番組は終了した。  AKB48内での番組への取り組み方がはっきりと見えた今回の放送。次回5月28日の放送では『総点検プロジェクト』の後半を放送する予定だ。 (文=向原康太