綾瀬はるか主演ドラマで話題! 急増中の高齢処女が見る夢とは?

【本と雑誌のニュースサイトリテラより】
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日本テレビ『きょうは会社を休みます。』番組サイトより
 小栗旬主演の『信長協奏曲』(フジテレビ系)や、関ジャニ∞丸山隆平主演の『地獄先生ぬ〜べ〜』(日本テレビ系)など、多彩な作品が揃った10月スタートのドラマ。中でも目玉といえるのが、綾瀬はるか主演の『きょうは会社休みます。』(日本テレビ系)だ。同作は、マンガ家・藤村真理の同名作品の実写版で、綾瀬が“高齢処女”を演じることに話題が集まっている。7月期ドラマ『昼顔』(フジテレビ系)で不倫する人妻を演じた上戸彩同様、キャスティングにばかり話題が集まっているが、この作品は昨今の女性マンガ界においてブームとなっている、高齢処女が主人公の作品として女性たちに支持されているのだ。  主人公・花笑は、33歳の誕生日を迎えた高齢処女。誕生日の夜に行きがかり上、会社の飲み会で大学生アルバイト田野倉と酒を飲んでいるうちに記憶が飛び、目を覚ますと隣にはベッドで眠る田野倉の姿! ひと回り以上年下の田野倉との関係に不安を覚えつつも、勇気を振り絞って彼との交際をスタートさせた花笑は、年下とは思えないほどの包容力を持つ田野倉にどんどん魅かれ、恋愛の楽しさに目覚めて行く。  花笑の場合は、学生のときに一度だけあった脱処女のチャンスを「門限」を理由に断ってしまい、その後チャンスが訪れなかったというパターン。真面目で不器用な花笑に共感する女性も多く、同作が支持を得ている理由でもあるだろう。

乃木坂46のアンダーライブに見えた希望の兆し 伊藤寧々卒業と研究生活動辞退に寄せて

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乃木坂46『何度目の青空か?(DVD付C)』(ソニー・ミュージックレコーズ)

 2014年の乃木坂46は、かつてなくライブへの注目度が高まっている。もちろん、神宮球場に3万人を動員してファイナルを迎えた夏の全国ツアーも大きかったが、今年の乃木坂46のライブを象徴するのは、なによりアンダーメンバーによる連日のライブだ。そのアンダーライブは現在、六本木ブルーシアターで上演中のセカンドシーズンが折り返しを迎えている。昨今のグループアイドルシーンの趨勢にほとんど逆行するように、乃木坂46というグループはライブ活動にかける比重が小さい。そのこともあって、ライブパフォーマンスは今もってこのグループの弱点といえる。アンダーライブは、その弱点を地道に解消していくような頼もしさをもって、日々充実の度合いを増している。  ところで、このアンダーライブにはもうひとつ、先月グループからの卒業を発表した伊藤寧々の、活動の集大成としての意味も込められている。単独ライブを日常的に行なうことのなかった乃木坂46にあって、連続するライブがメンバー卒業へのラストスパートになることは稀有だ。彼女の所属期間最後の日々をライブ活動で締めくくれることは、メンバーにとってもファンにとっても得難いものであるはずだ。  しかし、この伊藤寧々の卒業が、理想的なお膳立てのもとに迎えられているのかといえば、そうすっきりとした感慨を抱けないのが実情でもある。率直に言えば、どこか不完全燃焼の部分を抱えているように見えてしまう。連日のライブによってメンバーたちがパフォーマンスを向上させていく充実感の中に、そんな彼女の卒業をめぐる物寂しさが交錯する。それが、現在のアンダーライブセカンドシーズンである。1期生伊藤寧々の卒業とアンダーライブの意義、今回はここを基点に乃木坂46の現在地を考えてみたい。  あるメンバーが、次なる目標のためにアイドルグループから「卒業」するとき、基本的にそれはポジティブなものとして受け止められるべきだろう。特にAKB48系の場合、グループでの活動は、メンバー各人が次の段階に向かうためのステップとして明確に位置づけられている。だからこそ、それぞれの志向に応じた活動への道はグループ所属時から多く設けられているし、その中で彼女たちはグループとしての活動と、卒業後の姿を模索するための活動を並行して行なう。もちろん、48グループ自体のダイナミズムが、エンターテインメントとして当初の予想をはるかに超えて世に浸透していることで、各人のステップの場というコンセプトはともすれば見えづらくなっている。しかし、48グループ自体のエンターテインメントとしてのネームバリューはまた、各メンバーに将来への種を蒔くための機会やコネクションを多くもたらし、彼女たちはその機会を利用していく。このサイクルが48グループの強みと言っていい。  しかし、「48グループ」には通常含まれない、別働隊のような立場にある乃木坂46の場合、その条件はちょっと違う。伊藤寧々が卒業発表に際して、「次のやりたいことが見つかった」という前向きな言葉を伴っていたにもかかわらず行き詰まりの感を拭えなかったのは、所属時にパフォーマーとして自らを試す場を、十分に与えられていなかったためだ。この傾向は彼女に限らず、乃木坂46が総体として持っている課題である。  ひとつには、選抜メンバー枠の多くが事実上固定されていることで、そこから漏れたメンバーはマスメディアで活路を見出す機会がなかなか持てないことが原因である。もっとも、グループ自体が認知されるために、ある程度同じメンバーが顔になることは必然でもある。問題は、メディア露出の少ないメンバーが自身をアピールし試す場が、乃木坂46の場合、著しく乏しいことの方だ。その結果、所属はしているものの、パフォーマーとしてファンの目に触れる機会も少なくなる。その難しさは、昨年から加入した2期生になるとさらに顕著だろう。伊藤寧々の卒業発表にあわせて、2期生の矢田里沙子、米徳京花二人の研究生の「活動辞退」も発表されている。研究生の立場にある二人の決断に関して、「卒業」という言葉さえ与えられないことに、ファンからは不満の声も大きかった。それは、単に言葉だけの問題ではなかったはずだ。上が詰まっていると同時に、日常的にファンやスタッフにアピールする機会もなく、正規メンバーへの道も不透明。一年以上、乃木坂46の一員として過ごしてきた二人に向けられた「活動辞退」は、この閉塞した状況を象徴するような言葉だったのだ。  そんな中で、現在行われているアンダーライブは、この状況に新鮮な光を差し込む予兆を見せている。アンダーライブとはその名の通り、目下の選抜メンバーから外れたアンダーメンバーおよび研究生が出演するライブではある。とはいえ実際のところ、これは選抜から漏れたメンバーにあてがわれた単なる代替活動ではない。センターとしてチームを引き締める井上小百合や伊藤万理華、ムードメーカー的立場から良い空気作りを促す永島聖羅、「制服のマネキン」の中心に立ち、この曲の見え方さえ変えてしまう川村真洋らがアンダーライブで放つ輝きは、選抜メンバーとして活動してもなかなか発揮できない類のものだ。ここに生まれているのは、選抜漏れしたメンバーに用意された活路という以上の、ライブパフォーマンスを通じた乃木坂46の新しい武器である。  しかし考えてみれば、ライブパフォーマンスによる魅力の発揮は、アイドルというジャンルにとってきわめてオーソドックスなもののはずだ。それが新鮮に映る、というのが乃木坂46の特性である。こうしたグループの性格は、半ば意図された方針の結果といえる。今月刊行のムック『OVERTURE』(徳間書店)で、乃木坂46運営委員会委員長の今野義雄が、「一線級の役者と並んでも遜色がないように羽ばたいてほしい」とメンバーの将来像を語るように、乃木坂46は「芝居ができるアイドル」を確立しようとしている。年間を通じての一大イベントである舞台公演『16人のプリンシパル』はそのための核である。アンダーライブが勢いを見せつけているのと同時進行で、選抜メンバーからは生田絵梨花が今月上旬、ミュージカル『虹のプレリュード』に主演し、その豊かすぎるほどの素質を堂々と見せつけた。今週16日からは若月佑美が劇作家・前田司郎の岸田國士戯曲賞受賞作『生きてるものはいないのか』に出演、25日からは衛藤美彩と桜井玲香がスーパー・エキセントリック・シアターの舞台に立つ。『プリンシパル』から繋がるメンバーの将来像が、少しずつ具体的な形になろうとしている。これらは乃木坂46の方針だからこそ具現できたことであり、このグループの大きな誇りになるものだ。  音楽中心のライブを絶対的な核に置くわけではない乃木坂46は、今日のアイドルシーンの中では実は、一風変わった毛色を持っている。そこに、アンダーライブという新鮮かつオーソドックスな武器が備わったのが現在のグループの姿である。芝居への志向を根幹に持ちながら音楽ライブのレベルも高めつつある今、パフォーマーとしての充実度と将来性にはこれまでにない期待が込められる。  一方で、世間的な認知としてはもちろん48系のグループのひとつだし、だからこそ先ごろ松村沙友理に関して報じられたスキャンダルも、これまで繰り返されてきた48グループの「事件」の流れで大々的に扱われる。周知のように、48グループはそんなスキャンダルを自前の「物語」の中にしたたかに取り込んできた。それと同様の基準で、乃木坂46がこの件をどう扱うかに注目が向けられるだろう。しかし、「芝居ができるアイドル」としての側面とライブパフォーマンス向上の側面、そのいずれにも手応えがあらわれてきた現在、グループ全体を覆う空気がスキャンダル発の「物語」に回収されるのはあまりに惜しい。それよりも、実を結びつつある希望の兆しの方にこそ目を向けたいし、いうまでもなくそちらの方が誰にとっても意義深いはずだ。  もちろん、現在のような兆しはグループ結成当初から見えていたものではない。ここに至るまでに十分に自分を試す機会を得られなかったメンバー、元メンバーもいる。アンダーライブで見る伊藤寧々の姿が最後になってしまうのは正直惜しいし、まして矢田や米徳にはその手前の機会さえ十分にあったとは思えない。やるせない手触りはいまだ残る。  けれども、グループでの経験を卒業後すぐさま芸能として形にあらわすことばかりが所属することの意義ではなく、また所属時の経験をその後の糧にするのはフロントメンバーとして華々しく卒業したメンバーだけの特権ではない。メンバーが卒業し表舞台から姿を消すことが何かの「終わり」に感じられたとしても、それはファンの側の勝手な切り取り方でしかないのだ。受け手がどう切り取ろうが、彼女たちの日々は続くし、彼女たちが見据えるのは常にその時々の「現在」だ。彼女たち全員にとって、このグループに所属することが糧に繋がればそれ以上のことはないし、今グループに見えている希望の兆しがその環境を用意するものであると願いたい。 ■香月孝史(Twitter) ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。

やっぱり編集者が必要? 竹熊健太郎が語る「オンラインマガジン『電脳マヴォ』の挑戦」

オタクに"なるほど"面白い!オタクニュース・ポータル「おたぽる」より

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竹熊健太郎「オンラインマガジン『電脳マヴォ』の挑戦」の様子。
 9月6日から28日まで北九州市漫画ミュージアムにて初開催された北九州国際漫画フェスタでは、文化庁メディア芸術祭北九州特別企画『越境するマンガとメディア』内にて14日に吉浦康裕『サカサマのパテマ』トークと上映会、15日に原正人「グローバル化するMANGAとバンド・デシネ」、23日に竹熊健太郎「オンラインマガジン『電脳マヴォ』の挑戦」が実施された。  今回は先に公開した14日、15日のレポートに続いて、23日の竹熊健太郎「オンラインマガジン『電脳マヴォ』(以下、マヴォ)の挑戦」をお届けしよう。  話は編集家の竹熊健太郎さんによる、第17回文化庁メディア芸術祭(以下、メ芸)で新人賞を受賞したマンガ『夏休みの町』から始まった。もともと本作は、作者である町田洋さんのサイト「夜とコンクリート」に全て掲載されていたものだが、2013年より「マヴォ」での掲載、祥伝社による単行本化などを遂げた(現在、サイト上では一部掲載)。  町田さんが『夏休みの町』を自身のサイトで描いていたのは2008年。しかし、イラスト投稿SNS「pixiv」などをやっていなかったため、『夏休みの町』はほとんど誰からも見られていない状態であったという。竹熊さんは13年に「マヴォ」のタレコミフォームから本作の存在を知り、なかなか凄いと思ったことから、同年に「マヴォ」で掲載。今回のメ芸での受賞の経緯については、メ芸から「マヴォ」に作品を応募するよう依頼があり、町田さんが自身で応募したそうだ(ちなみにメ芸では過去作品の応募も可能である。以前に応募歴がなければ、その年に商用化された作品だけでなく、同年にバージョンアップなど、リニューアルされた作品も対象)。 「未だに個人ページのみでの公開である場合、そうした作品を知る方法はタレコミしかない」と竹熊さん。知られざる才能が眠っていても、編集者や読者が掘り起こすにしろ作家自身が売り込むにしろ限界がある。pixivでも時流からズレていたりすればランキングの上位に入らず、優れた作品が埋もれてしまうこともある。ネットでの才能発掘の難しさを吐露する。 「おたぽる」で続きを読む

乃木坂だけじゃない!あの大物も!編集者と芸能人の熱愛・不倫列伝

【本と雑誌のニュースサイトリテラより】
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熱愛スキャンダルが発覚した乃木坂46の松村沙友里(乃木坂46公式サイト「メンバー紹介」より)
 恋愛は御法度のはずなのに次々とスキャンダルにまみれて行くAKB48。今度は、その姉妹グループの乃木坂46の人気メンバー・松村沙友里のスキャンダルが「週刊文春」(文藝春秋)10月16日号でスッパ抜かれた。松村と30代の男性が、新宿の小さな公園で熱烈な路チューを繰り返し、翌週、翌々週もデートを重ねていたと報じられたのだ。  しかも、松村のお相手は大手出版社・集英社の編集者で、妻子持ちだった。清純・清楚をウリにブレイクし、今年の紅白初出場も視野に入っている乃木坂にとって初のスキャンダル。密会・路チューだけでも痛いが、“不倫”というのは相当なダメージだ。また、相手の編集者が今春まで「ヤングジャンプ」に在籍しグラビアを担当していたことから、“枕営業”の可能性も取りざたされる事態となった。    松村は「男性とはナンパで知り合い、妻子持ちなのはもちろん素性や名前も知らなかった」などと釈明したが、そんなことを信じる人は誰もいないだろう。相手の編集者・S氏がグラビアを担当していた「ヤングジャンプ」で、乃木坂46は表紙に登場したこともある。松村は白石麻衣らと並び「御三家」と称される中心メンバーの1人。無名メンバーならともかく、知らないなら逆にグラビア編集者失格だろう。当然、仕事上で知り合ったと考えるのが普通だ。

『ホットロード』主題歌の尾崎豊はアリかナシか? 不良文化と音楽の関わりを再考

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映画『TOKYO TRIBE』公式サイトより

【リアルサウンドより】  音楽ライターの磯部涼氏と編集者の中矢俊一郎氏が、音楽シーンの“今”について語らう新連載「時事オト通信」第2回の中編。前編【ヒップホップとヤンキーはどう交差してきたか? 映画『TOKYO TRIBE』と不良文化史】では、今夏に公開された映画『TOKYO TRIBE』を軸に、90年代のヒップホップ文化やチーマー文化について掘り下げた。中編では、引き続き『TOKYO TRIBE』に見られる不良文化について考察を深めるとともに、同時期に公開された『ホットロード』についても議論を展開。両映画の音楽との関わりについても、話題が広がった。(編集部)

磯部「映画『TOKYO TRIBE』は、ヤンキー的なバッド・センスに満ち溢れていた」

磯部:映画『TOKYO TRIBE』で面白かったのは、下世話で過剰な、齋藤環が言うところのヤンキー的なバッド・センスに満ち溢れていたところ。原作者の井上三太は90年代のいわゆる裏原系に連なるようなグッド・センスのひとだと思うけど、園子温は映画化にあたってそれを反転させてしまったという。そして、そのことは、原作が日本のヒップホップと距離があったのに対して、映画版は最近のラップ・ミュージックのノリをちゃんと描けてるってことも意味している。前回、「『TOKYO TRIBE』は今っぽくない。モデルにしているのが80年代末から90年代頭にかけてのチーム文化全盛期だから」って言ったけど、映画版の方は“ヤンキー的なバッド・センスに満ち溢れている”って点では今っぽくもあるんだよね。何故なら、今、ラップを始めとしてまた様々な方面でヤンキーなセンスが復活している。 中矢:確かに。今のヤンキーというと、たとえばオラオラ系みたいなスタイルが挙げられると思いますけど、80年代からの流れを磯部さんの視点で整理してもらってもいいですか? 磯部:順を追って説明すると、やはり前回に紹介した書籍『YOUNG BLOOD~渋谷不良(カリスマ)少年20年史』(少年画報社、09年)でZEEBRAが語っていたように、そもそも、チーム文化は80年代半ば、都内の私立中高生がアメリカのサブ・カルチャーに倣った最新の輸入文化として始まっており、以前のヤンキー文化のバッド・センスとは断絶している。でも、80年代末になるとそのスタイルがメディアに取り上げられたことで、郊外の不良が流入し、次第に初期の洗練された雰囲気はなくなっていく。だからこそ、ZEEBRAはいち早く離脱し、初期チーム文化と同じような最新の輸入文化だったハードコア・日本語ラップのシーンの成立に力を注ぐ。  そして、90年代半ばになるとチーム文化は、杉並区や世田谷区でヤンキー≒暴走族の伝統を受け継いでいたオーセンティックな不良である関東連合と対立を深めていく。さっきも言った通り、当時のチーム文化では、初期の洗練された雰囲気はなくなっていたものの、ZEEBRAが「チームのカルチャーとファッションは切り離せない。そこが、前の世代までの(暴走)族なんかと違うところ」(『YOUNG BLOOD』より)と語ったような特徴は健在で、関東連合の元リーダー・工藤明夫の回想録『いびつな絆~関東連合の真実』(宝島社、2013年)には、それを、まさにバッド・センスな自分達のスタイルと比較した以下のような記述もある。  「私たちにとって、このチーマーというジャンルは非常に気に入らない存在だった。杉並区の不良少年にとって、不良少年の世界で食物連鎖の頂点にいるのは暴走族、すなわち関東連合という意識が強かったのだ。ナンパな服装をして、ファッション誌に出たり、たむろしている場所に女の子を連れているような彼らのことは、不良少年として認めることができなかったのだ。  彼らに比べて、関東連合の服装は特攻服かスラックスに暴力団風のブルゾンやセーター。髪型はニグロパンチかスキンヘッド、あるいは“ブラックエンペラー”あたりなら、チームの看板である逆マンジを模(かたど)った“卍刈り”というニグロパンチの髪の毛を卍型に残す髪型にする者もいた」 (『いびつな絆』より)  そして、工藤によると、関東連合のチーマー狩りによって、「間もなくチーマーは下火になっていく」(同上)。かと言って、不良少年たちの間でチーム文化の代わりに、また単純にヤンキー文化が主流になったわけではない。「もっとも(引用者注:自分たちの)服装については、渋谷に出てくるようになって少しづつ変わっていった」「あるストリートファッション・ブランドの展示会には、いまでも関東連合のメンバーが大勢で顔を出し、大量の服を注文していく。関東連合が好んで着るブランドは、いつの間にか少しづつワイルドなテイストに変化していった気がする。そのブランドはそのまま街の不良少年たちが好んで着るブランドになった」(同上)と書いているように、関東連合もまたチーム文化を取り入れ、そうやって現代化したバッド・センスが不良少年の間で流行っていく。ここで、工藤が言う“ワイルドなテイスト”はいわゆるオラオラ系のことかなって思うんだけど。  一方、チーム文化から離脱したZEEBRAも、戦略的にヤンキーなセンスを取り入れていく。USのラップ・ミュージックを直訳しているだけでは地方の不良少年たちには届かないと思ったんだろうね。例えば、第1回でも言ったように、「Greatful Days」(DRAGON ASH feat.ACO, ZEEBRA、99年)の「俺は東京生まれHIP HOP育ち 悪そうな奴は大体友達」というラインでは、“ニガ”なノリが“ヤンキー”なノリに、見事に意訳されている。つまり、チーム文化とヤンキー文化が合流して新しいバッド・センスになり、それが今の不良少年の主流になっていると。 中矢:やはり、「Grateful Days」でヒップホップの認知度が飛躍的に上がったように思います。個人的な皮膚感覚に頼った話になりますが、当時、名古屋の高校に通っていた私のまわりでは、Hi-STANDARDのようなメロコアを聴いていたルーディな高校生が急にBボーイになったりしたので(笑)。それまで、愛知県常滑市をレペゼンするTOKONA-Xが〈さんピンCAMP〉に出たりしたこともあったけど、その存在を知るクラスメイトはほぼおらず、日本語ラップは“東京の文化”という印象だった。 磯部:「Grateful Days」のせいで、ZEEBRAは「悪そうな奴はだいたい友達って誰のことだ? 俺はお前なんかと友達じゃないぞ!」(『いびつな絆』より)なんて絡まれることになるわけだけど、彼はあの曲で“「悪そうな奴はだいたい友達」だ”と自慢しているだけではなくて、“「悪そうな奴はだいたい友達」になれる”って、日本中の不良少年に語りかけたんだと思うんだよね。そして、ANARCHYや、BAD HOPのYZERRはそのメッセージを少年院の中のテレビでキャッチして、退院後、本格的にラップに打ち込んだ。それは素晴らしいことだよ。 中矢:『TOKYO TRIBE』に出演しているラッパーは、あの曲以降に頭角を現した人たちばかりですよね。漢、D.O、ANARCHY、SIMON、Y's、YOUNG HASTLE、KOHH……。そして、彼らはスワッグを体現しているラッパーたちでもある。ただ、映画のストーリーとしては、鈴木亮平が演じるメラとか、竹内力が演じるブッバとか、ぶっ飛んでいる本当にスワッグなキャラクターは観ていて楽しいんだけど、そのなかで比較的常識があるようなYOUNG DAISが演じる主人公・出口海が最終的にプロップスを集めて異なるトライブを束ねます。それは、第1回の対談で磯部さんが言っていた「全体を支えた上での杭」という日本的なスワッグのありかたとも通じるんじゃないかと。  あと、今は『TOKYO TRIBE』の“TRIBE”という単語からどうしてもEXILEを連想しちゃうんですけど、映画の公式サイトに「HIP HOPの魂がたくさんのフィルターを通して表現されていてワクワクしました。そして僕もHIP HOPな映画を創りたくなりました…」とHIROがコメントを寄せているんですよね。LDH制作のヒップホップ・ムービーがどんなもになるのかちょっと気になりますが……とにかく今回の『TOKYO TRIBE』は地方のヤンキーにも受け入れられる余地があるのかもしれませんね。一方、『ホットロード』には三代目J Soul Brothersの登坂広臣が出演しているわけですが。

中矢「『ホットロード』エンディングの後、不幸な運命の連鎖を想像した」

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『ホットロード』公式サイトより

磯部:『TOKYO TRIBE』も『ホットロード』も興業成績は順調みたいだけど、自分が観に行った回にしてもどちらも若い観客が多くて、上映後、話に花が咲いている感じが良かった。『TOKYO TRIBE』は男の子が女の子を連れて来てる感じで、「シンヂュクHANDSのボスをやってた漢はほんとに新宿で活動してるラッパーでさぁ……」とかウンチクを語ってたり。一方、『ホットロード』は女の子が男の子を連れて来てる感じで、女の子はボロ泣きしてるのに、男の子はわざと退屈そうに「しょんべんしてくるわ」とか言って何度も席を立ったり(笑)。 中矢:女子高生コンクリート詰め殺人事件(88~89年)で知られる足立区綾瀬に在住している私は、最寄りの亀有にあるシネコンで真っ昼間に『ホットロード』を観たんですけど、まだ授業中のはずの女子高生のグループが観ながら泣いていたりしましたね。あるいは、その女子高生たちの親の世代に当たり、原作である紡木たくの同名マンガ(86~87年)にかつてハマったと思われる40代くらいの女性が一人で観ていたり……。そういった、いわゆるマイルドヤンキーな環境で観たこともあって、家庭環境が複雑とはいえ、木村佳乃みたいな母親とあんな小洒落たマンションで暮らす能年玲奈のような女の子が暴走族にコミットすることは現実的にあり得るのだろうか……とやや疑問に感じてしまって。 磯部:いや、金持ちの子がグレるのは基本でしょう。初期のチーム文化にしても、比較的裕福で最新の情報にアクセス出来る子たちが中心だったわけで。ただ、映画版『ホットロード』の和希の母親はヒステリックだけど、原作はもうちょっと不思議ちゃんな感じで、和希に対する態度も言ってみれば放任主義なんだよね。親子がまるで友達みたいな関係である一方で、娘は母親が構ってくれないことに不満もあって、当て付けのように夜遊びをするという。そして、その関係が映画ではネグレクトに置き換えられている。それはそれで現代的だと思ったけどね。  まぁ、僕は『ホットロード』に関しては『TOKYO TRIBE』と違って原作の大ファンなんで、映画化にあたっての違和感は幾らでも挙げられるんだけど……まず、良かった点を言っておくと、実写を観て、紡木たく作品に漂う清潔感というか、その雰囲気を醸し出している彼女の絵のホワイトアウト感は、なるほど、湘南地区特有の、太陽と、それが反射する海面という、上下2方向から来る光を表現したものだったのかというのは、改めて気付いたことだったね。 中矢:確かに、空と海を映したシーンは象徴的に使われていましたね。 磯部:そして、早々と良くなかった点を言うと(笑)、映画では和希は暴走族の世界に、まるで、春山に強引に引っぱり込まれていくかのように描かれているんだけど、僕が原作でいちばん好きな台詞が、和希が集会に行き始めた頃の「耳を つんざくよーな この音が好き」っていうモノローグなんだよね。要するに、和希は暴走族にフェティッシュな魅力を感じて、自発的にその世界に入っていく。  もちろん、彼女のバックグラウンドも影響はしていて、初対面の春山が和希に言う「おまえんち/家テー環境わりいだろ?」っていう台詞は原作でも映画でも重要だけど、その後、原作では和希がバイクに乗った少年たちを羨ましそうに眺めている姿が何度も登場するんだよね。彼女にとっては、バイクは家庭だったり学校だったり、窮屈な環境から脱出させてくれる装置に見えた。でも、14歳の女子中学生っていう身体的、あるいは、社会的な制約からそれに乗ることは出来ないっていう。そして、和希は春山に、自分の「自由になりたい」という想いを仮託していく。  それが、映画では、和希は自分勝手な春山に引っ張り回されているかのように描かれているから、DV的な関係に巻き込まれる女の子の典型的なタイプに見えちゃうんだよね。エンディングのモノローグを聞きながら、「このカップル、絶対別れるだろ」と思っちゃうという……。 中矢:エンディングの後、和希は春山の子を早々に身ごもるものの、春山のDVに耐えきれずに別れ、生まれてきた子どもは和希と同じ運命をたどり……というのは勝手な想像ですが、春山が和希に冷たくしたりする一方で時折甘えた表情を見せたりするのは完全にDV男の行動パターンだと思ってしまいました。ただ、そういう男にばかり引っかかる女の子も一定数いるかと。 磯部:確かにそれもリアルなのかもしれないし、紡木たくは『ホットロード』の6年後の作品であり、休筆する前の最後の連載である『かなしみのまち』(93年~94年)で、まさにネグレクトをテーマにしている。その頃には和希も母親になっているかもしれないし、親子の問題は連鎖していくのかもしれない。思わず、そんなことを考えてしまうような重い作品だったんだけど、映画はともあれ、原作版『ホットロード』のエンディングの、障害を抱えた春山と、それを支える和希にかけられる、「がんばってね 和希/あたしたちの 道は/がんばってね/ずっと つづいてる」っていう、未来の和希からの、あるいは和希と似た境遇の女性たちからの応援の声は、2人の未来は決して安泰ではないことを示唆していたと思うな。要するに、「このカップル、絶対別れるだろ」みたいな斜に構えた視点は織り込み済みなんじゃないかと。  そういえば、映画が終わって灯りが付いた瞬間、後ろの女子高生2人が「春山、超オラオラだったね……」って呟いてたのが印象に残った(笑)。映画版の『ホットロード』は時代考証も割とちゃんとやっていて、江ノ島の展望台も02年に立て替えられる前のものがCG合成されているんだけど、当時の暴走族を、現代の女子高生は“オラオラ”っていう今の言葉で普通に受け入れるんだなって。Twitterで“ホットロード”って検索すると、若い女の子たちが映画を観たあと写メとかプリクラとかを撮って「泣いた…」みたいな感想を書いてるツイートがいっぱい出てくるんだよね。当たり前だけど、ネタじゃなくて、普通に観られてる。ほら、ちょっと前まではヤンキーってパロディの対象だったじゃない。『ホットロード』を引用してる氣志團がまさにそうだけど、“あえてヤンキーをやりますよ”みたいな断りが必要だった。それが、今はまた完全に“アリ”になってるんだなと。そこには『TOKYO TRIBE』との共通点も感じたな。  それと、連載の趣旨でもあるので『ホットロード』と音楽の関係についても触れておくと、原作では音楽にまつわるシーンはほとんど出て来ないよね? 映画では和希をナンパしたチャラい大学生たちの車の中でブラコンがかかってるシーンがあるけど。だから、さっき引用した「耳を つんざくよーな この音が好き」っていうモノローグの通り、『ホットロード』では、バイクの音がいちばん魅力的な“音楽”として描かれている。そして、それを「ポピュラー・ミュージックに置き換えると何になるか?」と映画化にあたって考えた時に、選曲されたのが尾崎豊の「OH MY LITTLE GIRL」だったっていうのは、僕はなかなかいいチョイスだと思う。

磯部「主題歌に尾崎豊を選んだというのは、それだけで批評的だし的確」

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尾崎豊『ALL TIME BEST』(SMR)

中矢:ただ、エンディングでしか流れなかったですよね。監督の三木孝行は『ソラニン』(2010年)を撮っている人で、あの作品では劇中のバンドが奏でる曲をASIAN KUNG-FU GENERATIONが提供していました。映画としての評価はさて置きますが、そこには、浅野いにおの原作も含めたいわゆる厨二病的な表現とそれらを支持する若者たちの存在意義を確かめられる、音楽的な仕掛けがあったように思うんです。だから、今回の『ホットロード』で「OH MY LITTLE GIRL」を主題歌にすることに異論はないものの、「なぜヤンキーは尾崎豊に惹かれるのか」がもう少しわかるような、あの曲のより効果的な使い方があったんじゃないかと。 磯部:実際、尾崎豊の曲を使ったことに関しては賛否両論あるよね。「当時の暴走族は尾崎なんて聴いてない」とか「『ホットロード』に影響を受けて藤井郁弥が詞を書いたチェッカーズ“Jim & Janeの伝説”の方が良かった」とか。ただ、尾崎自身、紡木たくのファンだったんだよね。『机をステージに』が本棚にあったっていうし。同作で重要な曲として登場するのは、RCサクセションの“スローバラード”だけど。  そういえば、11月に、僕が監修を、中矢が編集を務めた『新しい音楽とことば~13人の音楽家が語る作詞術と歌詞論』(SPACE SHOWER BOOKS)っていう書籍が出るんだけど、そこでインタヴューさせてもらった湘南乃風の若旦那も、不良だった高一の時に尾崎豊を聴き始めて、今でもカラオケで歌うって言ってた。そして、そんな彼は尾崎の魅力を以下のように語っている。 ――尾崎豊の引っかかる部分というのは何だったんですか? 若旦那 それは完全に詞ですね。まあ、メロディもすごく美しかったけど……、なんだろう、尾崎豊をカラオケで歌ってると、尾崎豊になれちゃう自分がいて。 ――尾崎の詞の一人称に自分を重ねっていたと。 若旦那 自分から尾崎の世界観に入り込んでいくというか……。俺は不良だったから、強さにメチャクチャこだわってたガキだったんです。でも、どこかで弱い自分を探してたんだと思うんですよね。たぶん、尾崎豊に自分を投影することで、「自分の弱さって何なんだ?」とか、仲間には見せられない部分と向き合えたんじゃないかな。で、俺はいろんな歌詞を「ここは共感できる」とか「ここは共感できない」とか聴き分けたりするんだけど、「この尾崎は好き」「この尾崎は嫌だ」みたいな感じで聴いてましたね。 ――普段、見ないフリしているような自分の弱さに、尾崎豊を聴いたり歌ったりしているときは向き合えたと。 若旦那 そうそう。普段はジャイアンみたいな感じで生きてきたから。でも、やっぱり喧嘩とか暴力とかの中には恐怖があるじゃないですか。あと、社会に出ていく恐怖。社会的地位とカネにものすごく翻弄された高校生だったので、「自分はこれから何者になるんだろう?」と。それは尾崎豊も悩んでたことだから、オレも一緒に苦しんでるような感覚だった。 (『新しい音楽とことば』より)  若旦那は尾崎豊を聴くことで、強がっていた自分の弱さと向き合えたと。そして、紡木たくも、まさに当時のヤンキーというか社会から外れて生きている若い子たちの弱さに寄り添うような作家だったよね。だから、『ホットロード』の映画化にあたって、主題歌に尾崎豊を選んだというのは、それだけで批評的だし的確だと思うんだよな。 中矢:尾崎豊は92年に亡くなってからもファンを抱えていると思いますけど、愚直に社会への反抗を表した彼の歌詞は、スノッブな人たちやコアな音楽リスナーの間では“恥ずかしいもの”や“前時代のもの”として相手にされず、長らく正当に評価されなかった印象があります。 磯部:僕が00年代前半に尾崎豊についての原稿を書いた時も、「尾崎が如何に時代的に“アウト”か」っていうようなテーマだったな。当時のバンドにしても、ガガガ・SPがその名も「尾崎豊」(01年)って曲で「お前の歌はバカバカしいんだよ/自由が欲しいとバカバカしいんだよ/ライヴで骨折した所で/自由なんて来やしない/盗んだバイクで走る前に/割ったガラスを弁償しろよ」なんて歌ったりしてる。ネットでも厨二病の代表みたいに扱われてたし、氣志團の引用も“アウト”だからこそ効果的だったんだろうしね。ただ、それがいつの間にかまた“イン”になったような感じがあるんだよね。個人的には、79年生まれのシンガーソングライターで、00年代後半から人気が出始めた前野健太から、ネタとかじゃなく、真剣に尾崎の良さを説かれて、改めてその才能に気付いたんだけど。  例えば、セカンドの『回帰線』(85年)に入ってる「ダンスホール」とか今聴いても、というか今聴いてこそハッとするようなところがある。同曲は、ディスコで夜遊びをする不良少女の哀愁を歌った、まさに『ホットロード』的な名曲で、よくカヴァーもされてるけど、あれって、現在のクラブ規制に繋がる84年の風営法大改正のきっかけのひとつにもなったと言われる、いわゆるディスコ殺人事件っていう、家出少女が繁華街でナンパされた末に殺された実際の事件がモデルなんだよね。そう考えると、曲の中の、フロアで踊る少女を見つめている視点は犯人のものなんじゃないかってゾッとするでしょう。

中矢「若旦那はあえて『マイルドヤンキーみたいな層に目がけて曲をつくってきた』戦略家タイプ」

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若旦那『WAKADANNA 3~絶対に諦めないよ、オレは! ! ~』(徳間ジャパンコミュニケーションズ)

中矢:なるほど。ちなみに、先程、若旦那や前野健太の話が出ましたけど、尾崎豊は日本のラップ・ミュージックに影響を与えていないんですかね? 同じような青臭い音楽という意味では、D.Oがザ・ブルーハーツの曲をサンプリングしたりしましたけど(発売中止になった09年の『Just Ballin’ Now』収録「イラナイモノガオオスギル」で「爆弾が落っこちる時」をサンプリング)。 磯部:ブルーハーツも、彼ら自身はヤンキー的な人間ではないのに、やけにヤンキーに好かれる音楽だよね。ヤンキーマンガというジャンルにおける代表的な作品である森田まさのりの『ろくでなしBLUES』(集英社、88年~97年)にメンバーを模したキャラが登場したり……。そういえば、中矢が住んでるのが綾瀬ってことで思い出したけど、女子高生コンクリート詰め殺人事件についてのノンフィクション『少年の街』(教育史料出版会、92年)で、作者の藤井誠二が獄中の容疑者グループのひとりにインタヴュー出来たのは、藤井が『僕の話を聞いてくれ』(リトル・モア、89年)っていうブルーハーツに関するエッセイ集に寄稿した文章に、その容疑者が共感したからだったな。ゴンゾージャーナリスト・石丸元章の『スピード』(飛鳥新社、96年)にも、元祖ギャル男のピロムこと植竹拓の『渋谷(ピロム)と呼ばれた男』(鉄人社、13年)にも、クラブでブルーハーツがかかって暴動状態になるっていうシーンがあった。  それと、不良に好かれる音楽と言えば、ラッパーの般若は長渕剛からの影響を常々語ってるよね。長渕の『しあわせになろうよ’04』って曲は00年代の「We Are The World」というか、MVはスタジオに若手のミュージシャンたちがやって来るところから始まるんだけど、みんな、パイセンに呼び出された感がハンパない(笑)。でも、般若はノリノリっていう。ちなみに、同曲にはZEEBRAも参加していて、般若が鉄砲玉みたいなラップをしているのに対して、彼は若頭というか、パイセンをばっちり立てるヴァースをキックしている。それにしても、ZEEBRAは長渕についてはどう思っているんだろう? 『ZEEBRA自伝』(ぴあ、08年)には、前の奥さんが尾崎豊の元カノだったってエピソードが出てくるけど、長渕に関しては桜島のオールナイト・ライヴにゲストとして呼ばれた際の感想として、「ハンパじゃなかった。/人口が5000人のところに、7万5000人。/まだまだそんなところでできない自分たちが悔しいよねって話になった」「単純に、オレもいつかあれを超えたいと思ったよね。/長渕さんの歳になって、同じようなことをやったら、集めたい。/代々木公園に7万5000人」と特に興行主としての側面に着目してるから、音楽的に……というよりは、さっき話に出たように、戦略的にヤンキーなセンスを取り入れていく上で参考にしたところはあったのかもしれない。  ちなみに、若旦那は尾崎豊の後、何とさだまさしにハマるんだよね。ソロ・アルバム『あなたの笑顔は世界で一番美しい』(11年)では、「雨やどり」のカヴァーもしてるけど、彼は尾崎とさだの違いについて以下のように語っていた。 ――尾崎豊からさだまさしという流れは、ちょっと意外な感じもしますが。 若旦那 さださんとの出会いは一九歳ですね。「関白失脚」(九四年)という歌があって。 ――「関白宣言」(七九年)の続編ですよね。 若旦那 これはさださん本人にも言ったんだけど、俺が一〇代の頃、自分の親を「ああいうふうになりたくねぇ」ってすごく反面教師にしながら生きていた中で、「関白失脚」を聴いたら親のことがちょっと好きになれたというか、「大人っていろいろあるんだな」って思えたんですよ。その前に聴いてたブルーハーツと尾崎豊とかって、「満員電車に揺られながら夕刊フジを読んでるようなオヤジなんかには絶対なりたくねぇぜ」みたいな歌でしょう。それって、まさにウチの親父のことだったから、オレも「あんなふうにはなりなくねぇ」って言ってたわけだけど……。 ――たとえば、尾崎豊は「卒業」(八五年)で「夜の校舎 窓ガラス壊してまわった」と歌いましたが、そのガラスを片づける人もいるわけですからね。 若旦那 そうそう。さだまさしの歌は、片付けてる人側の歌なんですよね。 ――庶民の視点ですよね。 若旦那 うん、そこに対してオレは泣いちゃったんですよね。ドバッと感情が溢れ出てきて。で、一時期ひたすらさだまさしを聴いてました。 (『新しい音楽とことば』より)  つまり、尾崎豊は子供のまま死んでしまったけど、若旦那はさだまさしを聴くことで大人になったんだと。ちなみに、「不良でさだまさしを聴くって、他にも例があるんですかね?」って訊いたら、「運転免許を更新するときの違反者講習で(さだまさしの)“償い”(八二年)を聴かされるじゃないですか。あの歌って結構エグいんですよね。人を轢き殺しちゃったのを懺悔する歌だから。あれにヤラれてる人はいると思うなぁ」「しかも、初心者講習じゃなくて、免停になった人が受ける二日間講習とかで聴かされるんですよね。だから、よりコアな人たちが……」(『新しい音楽とことば』より)って言ってたのも興味深かったな。盗んだバイクで走り出して事故を起こして、違反者講習でさだまさしと出会うという(笑)。 中矢:若旦那は湘南乃風のメンバーでは唯一、東京出身で、私立の中学・高校に通っていたような人なんですよね。美大に行って、最近は七尾旅人やジュークに興味を示すようなセンスもある。一方で、青春時代はいろいろ悪さをしていたとも本人は公言していて、同年代の不良仲間には、例えばかつてMSCが在籍していた〈Libra Records〉の社長もいる。彼から、『TOKYO TRIBE』にも出ていた漢を紹介してもらって、「ジャパニーズ独自のラップをやったのは川上(引用者注:漢のこと)」(『新しい音楽とことば』より)というぐらい評価しているけど、今、〈Libra〉の社長と漢が揉めていることに関しては悲しんでいましたよね。あと、湘南乃風は「まさにマイルドヤンキーみたいな層に目がけて曲をつくってきたようなところはあります」(『新しい音楽とことば』より)とはっきり言ったり、戦略家タイプという印象でした。 磯部:そうそう。彼らの大ヒット曲である「純恋歌」(06年)も、よくネットで歌詞をネタにしているひとがいるけど、あれも、“DQN”とか“マイルドヤンキー”とかラベリングされている層にとってリアルなラブ・ソングとは何か? っていうことを考え抜いてつくった曲なんだよね。あと、彼はいまエイベックス内で自分のレーベル〈Tank Top Records〉を運営していたりもする。まぁ、若旦那の話は、詳しくは11月に出る『新しい音楽とことば』を読んでもらうとして、EXILEやZEEBRAがいるような音楽業界にしても、あるいは、ネット業界にしても、アダルト業界にしても、80年代から90年代にかけて不良だったひとが起業して活躍するというケースは凄く多いから、不良とビジネスというテーマについてもこれからもっと考えていきたいよね。 (構成=編集部) ■磯部 涼(いそべ・りょう) 音楽ライター。78年生まれ。編著に風営法とクラブの問題を扱った『踊ってはいけない国、日本』『踊ってはいけない国で、踊り続けるために』(共に河出書房新社)がある。4月25日に九龍ジョーとの共著『遊びつかれた朝に――10年代インディ・ミュージックをめぐる対話』(Pヴァイン)を刊行。 ■中矢俊一郎(なかや・しゅんいちろう) 1982年、名古屋生まれ。「スタジオ・ボイス」編集部を経て、現在はフリーの編集者/ライターとして「TRANSIT」「サイゾー」などの媒体で暗躍。音楽のみならず、ポップ・カルチャー、ユース・カルチャー全般を取材対象としています。編著『HOSONO百景』(細野晴臣著/河出書房新社)が発売中。余談ですが、ミツメというバンドに実弟がいます。

「マネージャーと付き合っているアイドルはいます」 色恋沙汰もある!? リアルなマネージャー事情

オタクに"なるほど"面白い!オタクニュース・ポータル「おたぽる」より

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私は付き合ってなかったけど……。
 2012年にアイドルとしてデビューし、現在はアイドルの振付師として活躍する加藤未来が、現役アイドル&アイドル志望者に伝えたい業界裏話を暴露!? 第2回は「マネージャーとの付き合い方」。マネージャーがアイドルに色目を使う!? 本当にあったマネージャーとの色恋沙汰から悪徳マネージャーの実態まで、アイドル業界のリアルをレクチャー! ――今回のテーマは、“マネージャーとの付き合い方”ですが、そもそもアイドルのマネージャーはどんなことをしているのですか? 加藤未来(以下、加藤) 担当するアイドルにあった仕事やオーディションをスケジューリングしたり、一緒にDVDの制作会社などに売り込みにいったりというのはもちろんですが、水を買ってきてくれたり、ライブの音源を主催者に提出したり、物販のグッズを運んだり、チェキの撮影をしたり、観客にチラシを配って宣伝したりと、その子の身の回りのことを全部やります。仕事に関してはどこにでもついていくので、お世話係というと語弊がありますが、“つねにアイドルと一緒に行動する人”ですね。 ――アイドル一人に対して、必ず一人のマネージャーがつくのでしょうか? 加藤 アイドルにはソロとグループがあるので、ソロの場合はアイドル一人に対し一人のマネージャーさんがつくことがありますが、グループの場合は一人のマネージャーさんが、グループのメンバー全員の面倒をみることが多いです。小さい事務所の場合は、一人のマネージャーさんが何人ものアイドルをみるのがほとんどですね。だけど、マネージャーがつかない地下アイドルもけっこういます。自分にきちんとマネージャーがつくということは、それだけ事務所が売り出そうと目をかけているということなので、本来ならアイドルにとって、とても幸せなことなんです。 「おたぽる」で続きを読む

森、中曽根、菅…政治猫・まーごが嫌った政治家は誰だ!?

【本と雑誌のニュースサイトリテラより】
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『テレビねこ まーごのお仕事』(宝島社)
「昨日夜9時、視聴者のみなさまをはじめゲストの方々に愛されてきました、番組の仲間のまーごが亡くなりました。8歳と7か月、突然の死でした」  先週末、まさかの訃報にネット上が騒然となった。あの「まーご」が、亡くなったのだ。  まーごというのは、テレビ東京系で毎週土曜の午前11時30分から放送されている『田勢康弘の週刊ニュース新書』の看板猫。政治ジャーナリストで元・日経新聞記者である田勢がホストとなり政治家をはじめとするゲストを招いてトークを繰り広げる“お堅い”番組なのだが、なぜかスタジオを猫が自由に歩き回っていることでも有名で、ネット上では「猫を愛でる番組」として親しまれてきた。そんな人気猫が突然死したことが、11日放送の番組内で公表されたのである。

『親のための新しい音楽の教科書』は教科書にふさわしいか 先生、西洋音楽ってイケナイものなの?

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若尾 裕『親のための新しい音楽の教科書』(サボテン書房)

【リアルサウンドより】  タイトルに「教科書」と謳われているものの、いわゆる教科書のような体裁はしていない。むしろ「音楽」というものを考え直すことを目的とした本である。ここで「音楽」と呼ばれているものは「西洋近代音楽」のことだ。  「考え直す」といっても、著者の中には確固とした結論があらかじめ用意されている。いちおう音楽教育を問うた体の本ではあるので、音楽教育に対する見解としてもそれは披露される。著者は要するにこういいたいようである。 「音楽教育なんか全部無駄、むしろ害悪だからやめてしまえ」  もう少しひもといてみよう。結論にあたる第8章は、モーツァルトを例に早期音楽教育を論じた部分だ。  いうまでもなくモーツァルトは至上の天才として音楽史に刻まれており、早期教育の成果は申し分なく発揮されている。だが、親の想定を超えて「モンスター化」し、親と故郷を捨てて、非常に低い収入で暮らすうちに若くして死んでしまった。  そんなエピソードを示して著者は「こどもは親の思ったとおりには育たないようですね」と、音楽教育が思うままにならないものであることを強調する。  まあ、ここまではいい。でもここから導き出されるのはこんな結論なのである。 「音楽教育というのはそれがうまくいけば、後世に残る音楽家になる代償として親を裏切り、一生貧乏のうちに死ぬことになる。うまくいかなければ、音楽からはさっさと足を洗ってサラリーマンになって安定した生活を送る。ということでしょうか」  これ、おかしくない?  どうして「音楽教育を受けたおかげでそこそこ立派な音楽家になりぼちぼち幸せに暮らす」とかそういう可能性がすっかり省かれているのか。そんな人もいっぱいいるでしょうに。  だが、モーツァルトなんていう特殊な例に、こんな極論を一般論であるかのようにくっつけて、それで終わりなのである。  これが著者の音楽教育に対する思想ということなのだろうが、しかしなぜこんな歪な話になるのか。

日本の音楽教育と西洋中心主義批判

 実はこの本、前回か前々回かに取り上げる予定で、書評も途中まで書いたのだけれど、読めば読むほど疑念が深まってしまい頓挫、急遽別の本に差し替えたという経緯がある。この欄の原稿料もそう高くない、というよりだいぶ安いので(笑)、「実に刺激的な問題提起であり議論を呼ぶことであろう」とか適当なオチでお茶を濁して済まそうかとも思ったのだが、ちょっと無理だった。  発売前から一部で評判で、わがTwitterのTL上でも、信頼できると思っている人たちがみんな褒めていたもので、まあ、ハズレということはないだろうとパラパラと斜め読みしただけで候補リストに入れてしまった自分のせいではあるのだが、なぜみなさん、こんなきわどい本を諸手を挙げて絶賛しているのか謎だ。  その後、大谷能生とやっている「ニッポンの音楽批評」というイベントで話題に出てdisっていたら(ちなみに大谷は「でもまあいい本ですよ」と褒めていた)、そうとは知らなかったのだが客席に版元であるサボテン書房の浜田淳氏が来ておられて、終了後に話したところ「批判でもいいから書いてほしい」といわれた。リアルサウンド編集部からもやっぱり取り上げてほしいという要望が出たので、うーん、気乗りがしないが、あらためて批判を前面に出して、こうして全面的に書き直している次第である。  さて、この本の主題は、近代化以降の日本における西洋音楽の受容にまつわる問題と、受容があまりに性急だったがために今日まで尾を引いている音楽の土壌の歪みを指摘し、「もうすこし健全な音楽のあり方」の模索を示唆することにある。音楽教育に焦点が当てられているのは、明治期の西洋音楽の導入が教育から始められたためだ。  明治において日本の急務は近代国家の体制を整えることだった。近代化は西洋化とほぼ同義だが、そこでの最重要課題は、それまで日本人には無縁だった「国家と国民」という意識を確立し植え付けることにあった。  日本政府は国民教化に注力することになるのだが、そこでとりわけ重視されたのが音楽教育だった。具体的には西洋音楽を叩き込むための唱歌教育なのだが、当時の音楽教育は、単なる情操教育に留まらない、多面的な目的を備えたものだった。  日本国民として持つべき意識をインストールし、身体の律し方を矯正し(その頃の日本人は行進もできなかった)、発声と発音をコントロールして標準化された言葉をしゃべれるようにすること。  民衆を「国民」という枠に填めて社会を形成するためのツール、それが音楽教育にまず求められたことだったのである。  本書は次々に、音楽教育と音楽にまつわる、当たり前と思われているけれど、よくよく考えるとおかしいような事柄を指摘していく。  音楽は楽しいものと思い込まれているが本当か。幼稚園、保育園ではなぜ子供に怒鳴るような大声で歌わせるのか。子供用の音楽はなぜハ長調ばかりなのか。人前で下手な歌を歌ったり演奏したりするのが恥ずかしいのはなぜか。そもそも音楽がヘタクソであるとは何か。難しい音楽が偉いと思われているのはなぜか。音楽教育が情操によいというときの「情操」とは何か。  こうしたことのことごとくは、明治にそれ以前の日本をリセットするように一気呵成に整えられた音楽教育と、音楽教育を支配してきた西洋近代音楽中心主義によってもたされた弊害なのだと著者は指弾していくのである。

相対主義とソーカル事件

 世界にはいろいろな文化があって、それらに優劣はないんだから、西洋中心主義的なものの見方や考え方は改められねばならない。本書を貫いているのはそういう考えだ。この考え方は文化相対主義というもので、それは全体の総括と背景の解説をした終章にも書かれている。文化相対主義はカルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズムなどへと展開していき、日本でも90年代に盛んになったものの、ソーカル事件(知らない人はググってね)を境に2000年代には下火となっていった印象がある。  カルスタの特徴は何より、たいていの事象や現象を社会的に構築されたものと見なすところにある。むろん音楽もそうだ。これは相対主義とセットである。  ソーカル事件はポストモダン思想を批判したものだというのが一般的な理解だと思われるが、ソーカルがでっち上げ論文を送り付けたのは、権威あるとされるカルチュラル・スタディーズの学術誌であり、ソーカル事件は背景に「サイエンス・ウォーズ」と呼ばれる論争を含み持っていた。  サイエンス・ウォーズは一言でいうと相対主義批判である。ポストモダン~カルスタ系の相対主義が科学にまで及び「科学的真理は構築物に過ぎない」と言い出していたことに科学者たちがぶち切れたのである。ソーカルのでっち上げ論文は、量子力学の理論は社会的コンテクストによって決定されているのだという出鱈目な主張を、科学用語を適当に使ってポストモダン風に粉飾したものだった。  ソーカル事件でポストモダン~カルスタは葬られたと評価する人もいたが、少なく見積もっても、ひとつのメルクマールになったことは間違いない。  アルテスから『音楽のカルチュラル・スタディーズ』という論文集の翻訳が出たのは2011年のこと。原著の出版は2003年だ。監訳者は本書の著者である若尾裕である。監訳者あとがきで若尾は「筆者の感覚では、この書の新鮮な刺激にとんだ魅力はいまだ衰えていないように思えます」といっているのだが、この本が出たとき、正直「なぜ今頃カルスタ?」と思ったものだ。掲載されている論文も、総花的ではあるが新味があるとは言い難い。

西洋音楽=資本主義!?

 『親のための新しい音楽の教科書』の議論も、大体カルスタの成果に依ったものだ。西洋近代音楽中心主義批判、文化帝国主義批判、上位文化による下位文化の抑圧批判、イデオロギー永続装置である学校教育批判、マイノリティ擁護などなどの定型化した感のある議論を、日本の音楽教育と、著者の専門である音楽療法を題材に平易に説き直したものが本書であるといっていいだろう。  カルスタというのは、文化の価値決定に潜む政治性を暴き出し、価値ヒエラルキーの解体を目論むことを中心原理とするといえると思うが、本書の主張もそこにきれいに収まっている。  ひとつ例を見てみよう。  「楽しい音楽」批判の中身は、実は機能和声批判である。和声進行の技法は19世紀のロマン派のあたりで今日に通じるかたちがほぼ出来上がり、同時に感情の表現も担うことができるようになった。機能和声の情動に働きかける効果は産業と結びつき洗練され、「現代ではさらに、あるコード進行が「胸キュン」などと呼ばれ、感情を操作するテクノロジーのようなものにまでなっています」。  社会的ドグマになってしまった「楽しい音楽」はその最たるものだとされている。機能和声により喚起される感情、嬉しいとか楽しいとか悲しいというのは、特定の文化の約束事として受け取り方が決まっているものに過ぎず、約束事を共有しない他文化の人が同じように聴くとは限らない。にもかかわらず「音楽は万国共通」と考えてしまいがちなのは、音楽のグローバリゼーションおよび西洋中心主義によって引き起こされた錯覚なのである。とまあ、そういった趣旨だ。  読んでいて、実は議論そのものよりも、機能和声が感情と結び付いたこと自体を悪玉視しているような論調が気になった。別の本『音楽療法を考える』(音楽之友社、2006年)を読んだら、若尾は機能和声についてこんなことを書いていた。  和声進行の基本運動「期待と解決」について、ドゥルーズの哲学を援用した「欠乏の充足という原理」という見方があることを紹介し、それをマックス・ウェーバーに接続してこういうのである。  「この原理は、よくみるとマックス・ウェーバーが指摘した資本主義におけるプロテスタンティズムの意義を思い起こさせる。音楽の欲動やエネルギーを経済的に管理し、抜け目なく投資しながらクライマックスへと向かう、あの機能和声の音の流れは、資本主義的な欲動のあり方をベースになりたっていると考えられるのだ」  いかにも危うい議論だ。若尾はこれを「西洋音楽に潜んでいたイデオロギー」とまで言い切るのだが、つまり著者の思想においては「西洋音楽と資本主義は同じイデオロギーの上に立つ本質的に同じシステム」なのである。  カルスタはマルクス主義の批判的展開という面を持っており、やってる人は大抵左翼なので、資本主義やグローバリゼーションには否定的である。文化相対主義を掲げながらこの『親のための~』に、西洋音楽を根本的に否定したいという意志が強く滲んでいるのが不思議だったのだが、西洋音楽=資本主義と見なしているらしいことがわかってようやく合点がいった。  カルスタ的相対主義、構築主義に対する批判的潮流として大きいのは、『音楽のカルチュラル・スタディーズ』でも批判的に言及されているが、認知科学だろう。そのイデオローグで進化心理学のスティーヴン・ピンカーは『心の仕組み』(NHKブックス、2003年)で、音楽が喚起する情動について「普遍的ではないが、任意でもない」といっている。音楽イディオムにある程度慣れ親しんでいる必要はあるが、情動と結び付けるために「楽しい気分や憂うつな気分のときに聴いたりして、パブロフ風の条件づけをする必要はない」のだと。  フィリップ・ボール『音楽の科学』(河出書房新社、2011年)では、西洋音楽にまったく触れたことのない民族に西洋音楽を聴かせたところ、偶然より明らかに高い確率で、その音楽が喜びと悲しみのどちらを表しているか言い当てたという実験が紹介されている。  ただし、フィリップの紹介にはたくさんの留保が付いている。音楽と情動というのは社会的に構築された側面を多分に持つ問題であることも含んでいる。それだけ一筋縄ではいかない問題だということだ。対して若尾の議論は、機能和声の喚起する情動はほぼ完全に社会的構築物であるという前提で進んでいる。なぜそう言い切れるのか、単純にそう言い切ってしまっていい問題なのだろうか。

理想的な音楽教育は「何もしないこと」

 この本で若尾は、文化相対主義的な立場を取っているはずなのだが、どうにも西洋音楽の否定ないし排除を目指しているようにしか見えないのだ。  若尾のいう「もうすこし健全な音楽のあり方」とは、したがって、西洋音楽の支配から脱した音楽ということになるだろう。12音技法やセリエリズムのような音楽は、支配からの逸脱ではなくて、西洋音楽的イデオロギーである「むずかしい音楽」の内部における尖鋭化だから失格である。  若尾が称揚するのは、「生の芸術」を提唱したデュビュッフェが趣味で自分勝手にやっていたアウトサイダーアートのような音楽であり、パンクやオルタナティヴ・ロックである。特にパンクやオルタナは、ヘタクソでも構わないという価値観の転倒を広め、完全であることを価値とする西洋音楽中心主義を転覆した点で、音楽史に特記されるほど重要であると評価している。  ポピュラー音楽を取り入れるなどだいぶ相対化されたとはいっても、根本的には西洋近代音楽中心主義にいまだ留まっている音楽教育が、こういった基準からいえばまったく無価値としてしりぞけられるのは道理で、事実そう書いている。  バンドなど学校外で自主的に行われる「インフォーマル・ラーニング(非正規の学習)」こそリアルで本質的な学びであると若尾は評価する。親が子に施せる理想的な音楽教育とは、とどのつまり、何もしないこと、子供の勝手にさせておくこととなるわけだ。  若尾はそもそも学校や教育というもの自体、近代の「発明」に過ぎないとして、アリエスの『〈子供〉の誕生』を引き合いに出している。「子供」という概念は近代になって発明されたものであり、それ以前は「子供」はおらず「小さな大人」がいただけだと説き大きな衝撃を走らせた、60年発表の本だ。アリエス説には異論や批判が出ているが(ポロク『忘れられた子どもたち』、森洋子『子供とカップルの美術史』など)、若尾は故意か過失かそういったものをネグレクトして、あたかも確定した史実であるかのように書くのである。

自分が「親」なら……

 どうも著者は、批判や異論、対抗言説があることを承知しながらそれらを振り切り、話を単純にして、あえて極論へ極論へと傾けるように本書を構成しているように思えてならないのだ。その動機には、著者の経歴が影響しているように見える。  著者の若尾裕は、芸大で作曲を勉強したバリバリの西洋音楽エリートなのである。大学院を卒業して教育系の大学に就職した後、アメリカの音楽療法士ポール・ノードフに出会い音楽療法に転じるのだが、そこから西洋音楽というものへの懐疑を抱くようになったようだ。  若尾の西洋音楽に対する絶望がいかほどであるかは、「アルテスウェブ」の連載「反ヒューマニズム音楽論」(http://www.artespublishing.com/serial/archives/wakao/)に縷々述べられている。こちらの文章のほうが若尾の西洋音楽に対する考えがよくわかる。  機能和声についても、「人の情動を社会的に管理するための一種のツール」になった、フーコーのいう「生政治」的な現象として考えるべきものであると、より直截にその危機が述べられている。 「あたかもポピュラー音楽は消費者の意向投票によって決まっているかのように論じられることが多いのだが、じつは消費者が反映させたい情動は、社会という管理のフィルターを通過してできあがったものなのである」 『音楽療法を考える』のあとがきによると、若尾がポストモダン思想やカルスタに開眼したのは2000年を過ぎてからのことらしい。2011年にカルスタを「新鮮」といった理由がうかがえる。  繰り返すが本書は、日本の音楽教育を題材に、カルスタの定番言説を、平易にかつ極論に振り気味に再説したものだ。  たとえばこれが『音楽教育のカルチュラル・スタディーズ』みたいなタイトルであれば「ふーん」とやりすごしただろうが、ところが『親のための新しい音楽の教科書』なのである。自分が「親」だとして、このアナーキーな本を「教科書」にするかといわれれば、しないだろう。  若尾さんは、ポピュラー音楽とリスナーの関係を、入力される刺激とパブロフ反射くらいにしか考えていないみたいだけど、おれがこれまで歌謡曲に流してきた涙は、断じてそれだけのものじゃないのである。 ■栗原裕一郎 評論家。文芸、音楽、芸能、経済学あたりで文筆活動を行う。『〈盗作〉の文学史』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『石原慎太郎を読んでみた』(豊崎由美氏との共著)。Twitter

『親のための新しい音楽の教科書』は教科書にふさわしいか 先生、西洋音楽ってイケナイものなの?

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若尾 裕『親のための新しい音楽の教科書』(サボテン書房)

【リアルサウンドより】  タイトルに「教科書」と謳われているものの、いわゆる教科書のような体裁はしていない。むしろ「音楽」というものを考え直すことを目的とした本である。ここで「音楽」と呼ばれているものは「西洋近代音楽」のことだ。  「考え直す」といっても、著者の中には確固とした結論があらかじめ用意されている。いちおう音楽教育を問うた体の本ではあるので、音楽教育に対する見解としてもそれは披露される。著者は要するにこういいたいようである。 「音楽教育なんか全部無駄、むしろ害悪だからやめてしまえ」  もう少しひもといてみよう。結論にあたる第8章は、モーツァルトを例に早期音楽教育を論じた部分だ。  いうまでもなくモーツァルトは至上の天才として音楽史に刻まれており、早期教育の成果は申し分なく発揮されている。だが、親の想定を超えて「モンスター化」し、親と故郷を捨てて、非常に低い収入で暮らすうちに若くして死んでしまった。  そんなエピソードを示して著者は「こどもは親の思ったとおりには育たないようですね」と、音楽教育が思うままにならないものであることを強調する。  まあ、ここまではいい。でもここから導き出されるのはこんな結論なのである。 「音楽教育というのはそれがうまくいけば、後世に残る音楽家になる代償として親を裏切り、一生貧乏のうちに死ぬことになる。うまくいかなければ、音楽からはさっさと足を洗ってサラリーマンになって安定した生活を送る。ということでしょうか」  これ、おかしくない?  どうして「音楽教育を受けたおかげでそこそこ立派な音楽家になりぼちぼち幸せに暮らす」とかそういう可能性がすっかり省かれているのか。そんな人もいっぱいいるでしょうに。  だが、モーツァルトなんていう特殊な例に、こんな極論を一般論であるかのようにくっつけて、それで終わりなのである。  これが著者の音楽教育に対する思想ということなのだろうが、しかしなぜこんな歪な話になるのか。

日本の音楽教育と西洋中心主義批判

 実はこの本、前回か前々回かに取り上げる予定で、書評も途中まで書いたのだけれど、読めば読むほど疑念が深まってしまい頓挫、急遽別の本に差し替えたという経緯がある。この欄の原稿料もそう高くない、というよりだいぶ安いので(笑)、「実に刺激的な問題提起であり議論を呼ぶことであろう」とか適当なオチでお茶を濁して済まそうかとも思ったのだが、ちょっと無理だった。  発売前から一部で評判で、わがTwitterのTL上でも、信頼できると思っている人たちがみんな褒めていたもので、まあ、ハズレということはないだろうとパラパラと斜め読みしただけで候補リストに入れてしまった自分のせいではあるのだが、なぜみなさん、こんなきわどい本を諸手を挙げて絶賛しているのか謎だ。  その後、大谷能生とやっている「ニッポンの音楽批評」というイベントで話題に出てdisっていたら(ちなみに大谷は「でもまあいい本ですよ」と褒めていた)、そうとは知らなかったのだが客席に版元であるサボテン書房の浜田淳氏が来ておられて、終了後に話したところ「批判でもいいから書いてほしい」といわれた。リアルサウンド編集部からもやっぱり取り上げてほしいという要望が出たので、うーん、気乗りがしないが、あらためて批判を前面に出して、こうして全面的に書き直している次第である。  さて、この本の主題は、近代化以降の日本における西洋音楽の受容にまつわる問題と、受容があまりに性急だったがために今日まで尾を引いている音楽の土壌の歪みを指摘し、「もうすこし健全な音楽のあり方」の模索を示唆することにある。音楽教育に焦点が当てられているのは、明治期の西洋音楽の導入が教育から始められたためだ。  明治において日本の急務は近代国家の体制を整えることだった。近代化は西洋化とほぼ同義だが、そこでの最重要課題は、それまで日本人には無縁だった「国家と国民」という意識を確立し植え付けることにあった。  日本政府は国民教化に注力することになるのだが、そこでとりわけ重視されたのが音楽教育だった。具体的には西洋音楽を叩き込むための唱歌教育なのだが、当時の音楽教育は、単なる情操教育に留まらない、多面的な目的を備えたものだった。  日本国民として持つべき意識をインストールし、身体の律し方を矯正し(その頃の日本人は行進もできなかった)、発声と発音をコントロールして標準化された言葉をしゃべれるようにすること。  民衆を「国民」という枠に填めて社会を形成するためのツール、それが音楽教育にまず求められたことだったのである。  本書は次々に、音楽教育と音楽にまつわる、当たり前と思われているけれど、よくよく考えるとおかしいような事柄を指摘していく。  音楽は楽しいものと思い込まれているが本当か。幼稚園、保育園ではなぜ子供に怒鳴るような大声で歌わせるのか。子供用の音楽はなぜハ長調ばかりなのか。人前で下手な歌を歌ったり演奏したりするのが恥ずかしいのはなぜか。そもそも音楽がヘタクソであるとは何か。難しい音楽が偉いと思われているのはなぜか。音楽教育が情操によいというときの「情操」とは何か。  こうしたことのことごとくは、明治にそれ以前の日本をリセットするように一気呵成に整えられた音楽教育と、音楽教育を支配してきた西洋近代音楽中心主義によってもたされた弊害なのだと著者は指弾していくのである。

相対主義とソーカル事件

 世界にはいろいろな文化があって、それらに優劣はないんだから、西洋中心主義的なものの見方や考え方は改められねばならない。本書を貫いているのはそういう考えだ。この考え方は文化相対主義というもので、それは全体の総括と背景の解説をした終章にも書かれている。文化相対主義はカルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズムなどへと展開していき、日本でも90年代に盛んになったものの、ソーカル事件(知らない人はググってね)を境に2000年代には下火となっていった印象がある。  カルスタの特徴は何より、たいていの事象や現象を社会的に構築されたものと見なすところにある。むろん音楽もそうだ。これは相対主義とセットである。  ソーカル事件はポストモダン思想を批判したものだというのが一般的な理解だと思われるが、ソーカルがでっち上げ論文を送り付けたのは、権威あるとされるカルチュラル・スタディーズの学術誌であり、ソーカル事件は背景に「サイエンス・ウォーズ」と呼ばれる論争を含み持っていた。  サイエンス・ウォーズは一言でいうと相対主義批判である。ポストモダン~カルスタ系の相対主義が科学にまで及び「科学的真理は構築物に過ぎない」と言い出していたことに科学者たちがぶち切れたのである。ソーカルのでっち上げ論文は、量子力学の理論は社会的コンテクストによって決定されているのだという出鱈目な主張を、科学用語を適当に使ってポストモダン風に粉飾したものだった。  ソーカル事件でポストモダン~カルスタは葬られたと評価する人もいたが、少なく見積もっても、ひとつのメルクマールになったことは間違いない。  アルテスから『音楽のカルチュラル・スタディーズ』という論文集の翻訳が出たのは2011年のこと。原著の出版は2003年だ。監訳者は本書の著者である若尾裕である。監訳者あとがきで若尾は「筆者の感覚では、この書の新鮮な刺激にとんだ魅力はいまだ衰えていないように思えます」といっているのだが、この本が出たとき、正直「なぜ今頃カルスタ?」と思ったものだ。掲載されている論文も、総花的ではあるが新味があるとは言い難い。

西洋音楽=資本主義!?

 『親のための新しい音楽の教科書』の議論も、大体カルスタの成果に依ったものだ。西洋近代音楽中心主義批判、文化帝国主義批判、上位文化による下位文化の抑圧批判、イデオロギー永続装置である学校教育批判、マイノリティ擁護などなどの定型化した感のある議論を、日本の音楽教育と、著者の専門である音楽療法を題材に平易に説き直したものが本書であるといっていいだろう。  カルスタというのは、文化の価値決定に潜む政治性を暴き出し、価値ヒエラルキーの解体を目論むことを中心原理とするといえると思うが、本書の主張もそこにきれいに収まっている。  ひとつ例を見てみよう。  「楽しい音楽」批判の中身は、実は機能和声批判である。和声進行の技法は19世紀のロマン派のあたりで今日に通じるかたちがほぼ出来上がり、同時に感情の表現も担うことができるようになった。機能和声の情動に働きかける効果は産業と結びつき洗練され、「現代ではさらに、あるコード進行が「胸キュン」などと呼ばれ、感情を操作するテクノロジーのようなものにまでなっています」。  社会的ドグマになってしまった「楽しい音楽」はその最たるものだとされている。機能和声により喚起される感情、嬉しいとか楽しいとか悲しいというのは、特定の文化の約束事として受け取り方が決まっているものに過ぎず、約束事を共有しない他文化の人が同じように聴くとは限らない。にもかかわらず「音楽は万国共通」と考えてしまいがちなのは、音楽のグローバリゼーションおよび西洋中心主義によって引き起こされた錯覚なのである。とまあ、そういった趣旨だ。  読んでいて、実は議論そのものよりも、機能和声が感情と結び付いたこと自体を悪玉視しているような論調が気になった。別の本『音楽療法を考える』(音楽之友社、2006年)を読んだら、若尾は機能和声についてこんなことを書いていた。  和声進行の基本運動「期待と解決」について、ドゥルーズの哲学を援用した「欠乏の充足という原理」という見方があることを紹介し、それをマックス・ウェーバーに接続してこういうのである。  「この原理は、よくみるとマックス・ウェーバーが指摘した資本主義におけるプロテスタンティズムの意義を思い起こさせる。音楽の欲動やエネルギーを経済的に管理し、抜け目なく投資しながらクライマックスへと向かう、あの機能和声の音の流れは、資本主義的な欲動のあり方をベースになりたっていると考えられるのだ」  いかにも危うい議論だ。若尾はこれを「西洋音楽に潜んでいたイデオロギー」とまで言い切るのだが、つまり著者の思想においては「西洋音楽と資本主義は同じイデオロギーの上に立つ本質的に同じシステム」なのである。  カルスタはマルクス主義の批判的展開という面を持っており、やってる人は大抵左翼なので、資本主義やグローバリゼーションには否定的である。文化相対主義を掲げながらこの『親のための~』に、西洋音楽を根本的に否定したいという意志が強く滲んでいるのが不思議だったのだが、西洋音楽=資本主義と見なしているらしいことがわかってようやく合点がいった。  カルスタ的相対主義、構築主義に対する批判的潮流として大きいのは、『音楽のカルチュラル・スタディーズ』でも批判的に言及されているが、認知科学だろう。そのイデオローグで進化心理学のスティーヴン・ピンカーは『心の仕組み』(NHKブックス、2003年)で、音楽が喚起する情動について「普遍的ではないが、任意でもない」といっている。音楽イディオムにある程度慣れ親しんでいる必要はあるが、情動と結び付けるために「楽しい気分や憂うつな気分のときに聴いたりして、パブロフ風の条件づけをする必要はない」のだと。  フィリップ・ボール『音楽の科学』(河出書房新社、2011年)では、西洋音楽にまったく触れたことのない民族に西洋音楽を聴かせたところ、偶然より明らかに高い確率で、その音楽が喜びと悲しみのどちらを表しているか言い当てたという実験が紹介されている。  ただし、フィリップの紹介にはたくさんの留保が付いている。音楽と情動というのは社会的に構築された側面を多分に持つ問題であることも含んでいる。それだけ一筋縄ではいかない問題だということだ。対して若尾の議論は、機能和声の喚起する情動はほぼ完全に社会的構築物であるという前提で進んでいる。なぜそう言い切れるのか、単純にそう言い切ってしまっていい問題なのだろうか。

理想的な音楽教育は「何もしないこと」

 この本で若尾は、文化相対主義的な立場を取っているはずなのだが、どうにも西洋音楽の否定ないし排除を目指しているようにしか見えないのだ。  若尾のいう「もうすこし健全な音楽のあり方」とは、したがって、西洋音楽の支配から脱した音楽ということになるだろう。12音技法やセリエリズムのような音楽は、支配からの逸脱ではなくて、西洋音楽的イデオロギーである「むずかしい音楽」の内部における尖鋭化だから失格である。  若尾が称揚するのは、「生の芸術」を提唱したデュビュッフェが趣味で自分勝手にやっていたアウトサイダーアートのような音楽であり、パンクやオルタナティヴ・ロックである。特にパンクやオルタナは、ヘタクソでも構わないという価値観の転倒を広め、完全であることを価値とする西洋音楽中心主義を転覆した点で、音楽史に特記されるほど重要であると評価している。  ポピュラー音楽を取り入れるなどだいぶ相対化されたとはいっても、根本的には西洋近代音楽中心主義にいまだ留まっている音楽教育が、こういった基準からいえばまったく無価値としてしりぞけられるのは道理で、事実そう書いている。  バンドなど学校外で自主的に行われる「インフォーマル・ラーニング(非正規の学習)」こそリアルで本質的な学びであると若尾は評価する。親が子に施せる理想的な音楽教育とは、とどのつまり、何もしないこと、子供の勝手にさせておくこととなるわけだ。  若尾はそもそも学校や教育というもの自体、近代の「発明」に過ぎないとして、アリエスの『〈子供〉の誕生』を引き合いに出している。「子供」という概念は近代になって発明されたものであり、それ以前は「子供」はおらず「小さな大人」がいただけだと説き大きな衝撃を走らせた、60年発表の本だ。アリエス説には異論や批判が出ているが(ポロク『忘れられた子どもたち』、森洋子『子供とカップルの美術史』など)、若尾は故意か過失かそういったものをネグレクトして、あたかも確定した史実であるかのように書くのである。

自分が「親」なら……

 どうも著者は、批判や異論、対抗言説があることを承知しながらそれらを振り切り、話を単純にして、あえて極論へ極論へと傾けるように本書を構成しているように思えてならないのだ。その動機には、著者の経歴が影響しているように見える。  著者の若尾裕は、芸大で作曲を勉強したバリバリの西洋音楽エリートなのである。大学院を卒業して教育系の大学に就職した後、アメリカの音楽療法士ポール・ノードフに出会い音楽療法に転じるのだが、そこから西洋音楽というものへの懐疑を抱くようになったようだ。  若尾の西洋音楽に対する絶望がいかほどであるかは、「アルテスウェブ」の連載「反ヒューマニズム音楽論」(http://www.artespublishing.com/serial/archives/wakao/)に縷々述べられている。こちらの文章のほうが若尾の西洋音楽に対する考えがよくわかる。  機能和声についても、「人の情動を社会的に管理するための一種のツール」になった、フーコーのいう「生政治」的な現象として考えるべきものであると、より直截にその危機が述べられている。 「あたかもポピュラー音楽は消費者の意向投票によって決まっているかのように論じられることが多いのだが、じつは消費者が反映させたい情動は、社会という管理のフィルターを通過してできあがったものなのである」 『音楽療法を考える』のあとがきによると、若尾がポストモダン思想やカルスタに開眼したのは2000年を過ぎてからのことらしい。2011年にカルスタを「新鮮」といった理由がうかがえる。  繰り返すが本書は、日本の音楽教育を題材に、カルスタの定番言説を、平易にかつ極論に振り気味に再説したものだ。  たとえばこれが『音楽教育のカルチュラル・スタディーズ』みたいなタイトルであれば「ふーん」とやりすごしただろうが、ところが『親のための新しい音楽の教科書』なのである。自分が「親」だとして、このアナーキーな本を「教科書」にするかといわれれば、しないだろう。  若尾さんは、ポピュラー音楽とリスナーの関係を、入力される刺激とパブロフ反射くらいにしか考えていないみたいだけど、おれがこれまで歌謡曲に流してきた涙は、断じてそれだけのものじゃないのである。 ■栗原裕一郎 評論家。文芸、音楽、芸能、経済学あたりで文筆活動を行う。『〈盗作〉の文学史』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『石原慎太郎を読んでみた』(豊崎由美氏との共著)。Twitter

“会いに行けるイケメン”『書店男子』がなぜモテるのか…ようやくわかった!

オタクに"なるほど"面白い!オタクニュース・ポータル「おたぽる」より

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右から2番目がイケメン書店男子・内田裕也さん。
 満を持して9月に発売となった写真集『書店男子~メガネ編~』(リブレ出版)。昨年発売された『書店男子』に続く第二弾である。通常、第二弾とか続編というものはパワーダウンしがちだが、この本はメガネというアイテムを足してパワーアップしている。さらに書店男子に夢中になるコも増えているというじゃないか! そんな書店男子の現場を取材してきたゾ。  さる10月4日、土曜日午後1時半。乙女たちの聖地・池袋にそびえるアニメイト池袋本店前に、大勢の人々が三々五々集まってきた。ほとんどは若い女のコが中心なんだけど、男のコの姿も混じっている。みんなが見ているのは店の窓ガラスのところ。そこには机とマイクが置かれていて、これから彼ら彼女らが愛して止まない人物がやってきて、イベントが始まるということがひと目でわかる。  時間となり、そのステージに登場したのは4人の男性。“イケメン”という言葉が似合う若い男性が3人。そして、ロマンスグレーの紳士が1人。全員の共通項は、メガネをかけているということ。そんな4人に対し、待っていた男女たちは熱い視線を送るのである。いったい、彼らは何者なんだ……?  何を隠そう、この4人こそ『書店男子~メガネ編~』に登場した書店男子たちである。 「おたぽる」で続きを読む