宮台真司の『バケモノの子』評:言葉ならざる親子の関係を描く、細田守監督の慧眼

【リアルサウンド映画部より】

ポイントは「渋谷」と「渋天街」の対比

 細田守監督は、概念的に徹底的して物事を考え、シナリオに落とし込むタイプなのかもしれません。あるいは、実在の父親にかけてほしかった言葉がたくさんあったのかもしれない。シナリオには「言葉が多すぎる」ことを中心に、注文をつけたい部分があります。でも、この水準の映画はなかなか作れないと思います。いい映画だと思います。  本作のポイントは、現実を精確にトレースした「渋谷」と、バケモノ界の「渋天街」の対比にあります。「渋谷」はわれわれがよく知る看板にあふれ、文字に満ち満ちていますが、「渋天街」に入れば、文字がありません。そして主人公の九太(蓮)と熊徹の擬似的な親子関係はすべて、文字のない渋天街で行われます。  なぜ「文字に満ちた街」と「文字が一切ない街」を対比させたのか。僕がいろいろなところで書いているように、最近の若い人は「言葉にならない」ものを恐れる傾向が強い。統計データに従えば、この二十年間の、若い世代の性的退却は実に著しい。これも「言葉にならないもの」=エロス的なものを、忌避するからだと、僕は考えています。  性愛関係だけでなく、親子関係も、感情で動くエロス的なものです。精神分析家ジャック・ラカンの言い方では「想像的なもの」。つまり「言葉にならないもの」が多くを占めます。にもかかわらず、言葉にしがみつく人は、言葉の外側にある否定的メッセージを見ないようにします。だから、かえって潜在的不安が大きくなるのではないか──。  これはグレゴリー・ベイトソンに大きな影響を与えたR・D・レインという統合失調症の専門家が言っていたことです。言語以前的な世界を忌避して言語にしがみつくと、親子関係も性愛関係も不安定ゆえに怖いものになるのです。言葉を使って生活しながら「言葉の世界なんて本当はどうでもいい」というトーンをどう発するかがポイントです。  ヒトがチンパンジーから分岐して500万年くらいですが、音声言語を使い始めてからは5万年、文字言語を使い始めてからは大抵の地域で5千年以下。それに鑑みれば、僕らの心の動きは、基本的にエロス的なものの領域にあって、言葉の概念的な使用は「かさぶた」のようなものに過ぎないだろうと考えなければなりません。  かさぶたの下に血や肉がある。かさぶたに執着するのは血や肉を見ないこと。フランスの思想家ジョルジュ・バタイユはその血や肉を「呪われた部分」と表現しました。社会学者マックス・ウェーバーが言うように計算可能性を高めるべく文字言語に専ら傾斜した近代社会であっても、家族と性愛の世界は今でも言語外の感情に支配されるのです。  だから、近代社会では、人は家族の中で育つことで、概念的な言語世界(象徴的なもの)の外にある言語以前的なもの(想像的なもの)に免疫をつけていきます。古い社会では家族の外にもそうした免疫化の機制がありました。それが祝祭です。言葉は不完全で世界を覆えないから、原点に戻るために祝祭で「呪われた部分」を噴出させるのです。  ギリシャ史を遡ると、紀元前五世紀前半までのギリシャ----プラトン前期に当たる----までは、言葉の概念的使用への依存を、絶対神への依存と同様に、徹底的に却けて、かわりに、言葉にならない理不尽や不条理に心身を開くことを推奨してきました。ホメロスの叙事詩もソフォクレスのギリシャ悲劇も、そうした推奨に向けたメディアでした。  ところか、ペロポネソス戦争でアテネがスパルタに負け、状況が変わります。貨幣経済の浸透と共に奴隷がのし上がり、市民が金を奴隷に借りて甲冑を買って戦争に出かけるようになります。異邦人も増えて、市民の共通感覚や共同身体性が通用しなくなります。それゆえ、かつてと違い、言葉を概念的に使わなければ統治ができなくなりました。  ペロポネソス戦争後の後期プラトンも考えを変え、言葉の概念的な使用にこだわるようになって、イデア概念に行き着きます。非言語的な佇まいやオーラは極めて近接的で文脈依存的です。音声言語はそれに比べれば非近接的で非文脈依存的です。それでも音声言語は文字言語に比べればずっと近接的で文脈依存的です。そうした階梯があります。  プラトンが文字言語に専らの重きを置くようになったのは、統治において、文脈依存性や近接性をできるかぎり排除しなければならなくなったからです。ちなみに、前期プラトンの時代まで----初期ギリシャと言います----、教育も娯楽も布告も伝承もすべて、韻律と挙措を伴う音声言語で行われていました。今でいうラップに相当するでしょう。  哲学史家のエリック・A・ハブロックによれば、音声言語につきものの韻律と挙措は、記憶の内部化に向けたメソッドです。しかし近接性と文脈依存性が高い。複雑な社会ではこうした状況依存性から脱する必要があります。そのためには記憶を外部化しなければなりません。そうした記憶の外部化に向けたメソッドが文字言語なのだと言います。  翻って現在、資本主義・民主主義・国民国家が、両立しなくなりました。グローバル化(資本移動自由化)を背景に中間層が分解、格差化と貧困化が進んでいます。社会がダメになりつつあるのです。だからこそ、もともとのアテネのようなマイクロ・エリアで「言葉にならないもの」----共同体感覚----を復権することが課題になっています。  そんな中、「絆がないと、何かあったときに助からない」という損得勘定に由来する概念的な話をするバカがいます。これがまるでバカなのは、絆とは、助かりたいがゆえに追求する「手段」ではなく、何があっても助けるという「目的」だからです。言い換えれば、損得勘定の「自発性」を超えた、内から湧き上がる力の「内発性」だからです。  このバカこそ、言葉の概念的な使用への固着を示します。そうしたバカが蔓延しつつある時期に、細田監督が「親子」モチーフにこだわり、その関係を文字言語以前の何かとして見出したことが、素晴らしい。監督自身が前作『おおかみこどもの雨と雪』の公開後に父親になったということもあるのでしょうが、慧眼だと言うほかはありません。

脚本から透けて見えた、細田監督の"自信のなさ"

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 ただ惜しい点があります。今日的な大テーマとして「言葉にならないもの」を愛でているのに、言葉による説明が多過ぎることが、引っ掛かるのです。百秋坊や多々良などの舞台回し役が「ようやく熊徹も△△になって来たな」などと喋り過ぎですし、「心の闇」が爆発して突如ヒール(悪役)として登場する一郎彦も、描き方が概念的に過ぎます。  「心の闇」という言葉が連発されますが、概念的には分かるけれど、腑に落ちません。幼少期の一郎彦は、いじめられっ子だった九太を救ったいいヤツでしたが、ここまで変わってしまったのは、人間につきものの「心の闇」のせい。そんなバカな。言葉にならない感情的な思いの渦巻きを描かないで、「心の闇」が覚醒したなんて、バカげている。  生煮えの概念的言語でしか示せないものは、映画から省いた方がいいです。だってそれがテーマなんだからね。【幼少期の九太の引っ越し場面での「しろくじら」→女子高生・楓との交流場面での「白鯨」→「心の闇」が覚醒した一郎彦が変じた「白くじら」】という連想ゲームも、概念的過ぎて、まったく同じような意味で、バカげています。  楓が「説明」してくれます。エイハブ船長と白鯨との戦いは、実は自分自身との戦いなんだよと。エイハブ船長と同じように九太も一郎彦も「心の闇」を抱えていて、それとの戦いが「白くじら」との戦いとして象徴されているんだよ、という「説明」です。こんな「説明」で納得する大人はいませんし、まして子供には完全に意味不明でしょう。  生煮えな概念言語の"おかず"が溢れるのを見ると、脚本に自信がないのかもしれません。それは、彼自身の父親としての振る舞いへの自信のなさに由来するかもしれず、それはまた、彼と彼の父親との関係に由来するのかもしれません。原案は素晴らしいので、概念言語の"おかず"をきちんと省ける優秀な脚本家を立てるべきだったかもしれません。  とはいえ、熊徹の身体挙措を九太が完コピする場面を典型に、言語よりも身体性、象徴界よりも想像界、といった対比は随所に展開されていて、納得的です。女子高生・楓との出会いのエピソードについて「あんなものなくてもいい」という議論もなされていますが、これも「言葉/言葉にならないもの」というモチーフにうまく収まっています。  良家の娘である楓は進学校に通い、親にそれこそ概念的な意味で褒められるために日常を送るものの、誰とも気持ちを通じ合えたことがない。概念言語が支配する人の世で、そのことに疎外され、適応できない女の子が、まだ文字も読めない概念言語以前の九太と出会い、気持ちを通じ合うという展開は、非常に自然で、モチーフが一貫しています。  また、「九太と熊徹の会話が少なすぎる」という声もありますが、間違いです。他のキャラクターの言葉による説明が多すぎるからバランスが崩れているだけです。「言葉ならないもの」が互いの関係を支えているバケモノ界で、九太と熊徹がいつもべらべら喋っていたら、主題が壊れてしまいます。ことほどさように、批判の多くは的外れです。  作品全体の方向性は正しいです。だから、的外れな批判はもとより、「言葉にならないもの」を擁護する映画に言葉が多すぎるのは変だという批判も、それを言い立てて作品を貶めるほどのことじゃない。僕のおさなごたちは、もちろん「心の闇」うんぬんなんて完全にスルー、というか胸のところに展開するCGのことだと思っていましたから。  昔『崖の上のポニョ』を当時四歳だった長女と観たとき、僕は「ポニョは海で生きて来たのに、バケツの水道水に入れたら死んじゃないか」と突っ込みたくなったけれど、長女が通路に出てエンドロールの歌に合わせてブイブイ踊っているのを見て、別に細かいことはどうでもいいやと思い直したことがありました。今回もそれを思い出しました。

宮﨑駿には描けない人の絆=共同体感覚を描く、達人の領域

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 この映画を観たおさなごたちと、そのあと一緒に、渋谷の街を散歩しました。「麗郷」という台湾料理屋の裏辺りが、熊徹の家に続くと思しき坂の分岐路あたりでしょうか。おさなごたちは、スクリーンで観た風景に似ているので大喜びしていました。もっともあの辺はラブホ街なので、妻には「あんな場所を連れ回して」と怒られましたが(笑)。  そもそも、渋谷はかつて色街でした。1973年にパルコ開店に合わせて公園通りができるまで、そこは区役所通りと呼ばれる風俗街でした。スペイン坂終点のシネマライズも1980年頃までラブホテルで、丸井の裏もラブホ街でした。その意味で、渋谷はエロス的なものがむき出しの街で、拡張現実的にスキンがかぶさって今に至った印象があります。  そうした歴史を生きた僕からすれば、本作は、渋谷のスキンを剥ぎ取って見せたように感じます。もともと芝居街と色街を合わせて悪所と言います。眩暈やトランスが起こる場所という意味です。眩暈が起こるから日常の時空を前提とした概念言語は通用しない。その意味で、"文字のないバケモノの街"が「裏渋谷」だというのは妥当な設定です。  細田監督の実存に関係するのでしょうが、彼の作品に一貫しているのは、家族や恋人という絆の関係、この人のためなら死ねるという関係、あえて言えば宮﨑駿が描くのを不得意としていたものです。特に男の子と女の子の会話での微妙なニュアンスは宮﨑駿を逆さに振っても出て来ません。アニメーターには珍しいとても素晴らしいセンスです。  心理学者アルフレッド・アドラーが言う「共同体感覚」を描くことにかけては、達人の域だと言えます。その能力は、本作でも遺憾なく発揮されています。監督自身がそれをもっと強く自負すれば、不要な概念言語の"おかず"を付けなくても済んだのではないかと思います。まあ、自分のどこが優れているのかを自覚するのは難しいかもしれない。  その点では『おおかみこどもの雨と雪』の方が少し出来がよかった気がします。絆/共同体は危機を前にして際立ちます。そうした危機としては、本作のような「市街で暴れる鯨とのバトル」より、『おおかみこども』で描かれた「自然のなかの嵐」の方が、ナチュラルで説得的です。ゆえに見終わった後の余韻も前作の方がすっきりしています。  「市街のバトル」では「危機」が抽象的になって、作劇上の装置に過ぎないものに頽落します。「剣を収め、二度と戦わない」ことを象徴するラストも、ヤクザ映画やカンフー映画で描かれてきた、概念的なパッケージでした。素晴らしい作品でしたが、先ほどお話しした細田監督のポテンシャリティをより活かした次回作を、大いに期待します。  さて、同じく"父と子"というモチーフが登場する作品で非常に出来がよかったのが、『マッドマックス 怒りのデスロード』でも主役を演じたトム・ハーディが主役を演じる、リアルタイムサスペンス『オン・ザ・ハイウェイ』です。ミニマムで、特別なことを一切描いていない映画ですが、それゆえに素晴らしかった。(後編に続く) (取材=神谷弘一) ■宮台真司 社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter ■公開情報 『バケモノの子』 2015年7月11日より、全国東宝系にてロードショー 【声の出演・スタッフ】 役所広司/ ※宮崎あおい 染谷将太 広瀬すず/ 山路和弘 宮野真守 山口勝平 長塚圭史 麻生久美子 黒木華 諸星すみれ 大野百花/津川雅彦 リリー・フランキー 大泉洋 監督・脚本・原作:細田守 作画監督:山下高明 西田達三  美術監督:大森崇 高松洋平 西川洋一 音楽:高木正勝 (C)2015 THE BOY AND THE BEAST FILM PARTNERS 公式サイト

西野カナも激怒!? フジテレビ“暴走女子アナ”に『めざましテレビ』自粛命令か

オタクに"なるほど"面白い!オタクニュース・ポータル「おたぽる」より

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「アナマガ 」(フジテレビアナウンサー公式サイト)内の三上真奈ページより。
 朝の情報番組で、耳障りな歌を聴かされたらどんな気分になるだろうか? ましてや、それが自分の好きなアーティストの歌だったとしたら……。 「音痴! 歌うな!」 「カナちゃんに謝ってよ!」 「もともと音痴なうえに、笑わそうとして、わざとおちゃらけて歌ってるところが腹立つ」 「通勤前に、あんな不快なもの聴きたくない」  批判の的となっているのは、フジテレビアナウンサー三上真奈が、『めざましテレビ』(フジテレビ系)番組内の音楽配信ランキングで、西野カナの「もしも運命の人がいるのなら」を紹介する際、サビの部分を歌い上げた時のこと。  あまりの音痴っぷりに加え、他のアナウンサーやスタッフのウケがいいのに味をしめたのか、同曲を紹介するたびに、ふざけたようにノリノリで歌ったのだ。 「おたぽる」で続きを読む

「戦争に行きたくないのは自己中」武藤議員に聞かせたい、蛭子さんの“究極の自己中”反戦論 

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上・自民党 衆議院議員 むとう貴也オフィシャルサイトより/下・蛭子能収『蛭子能収のゆるゆる人生相談』(光文社)
【本と雑誌のニュースサイトリテラより】 「戦争に行きたくないのは自己中で利己的個人主義」――。自民党の武藤貴也議員のトンデモ発言に非難が集まっているが、しかし、これはある意味、自民党=安倍政権の本音でもある。  実際、安倍首相をはじめ、党三役や閣僚に名前を連ねている連中は、今でこそ政権をとって安保法案を通すためにトーンダウンしているが、これまでみんな武藤議員と似たようなことを主張してきた。  日本国憲法や戦後教育のせいで国民に公に貢献する精神がなくなった、愛国教育や徴兵制で国民の精神を叩き直すべきだ――。  麻生太郎副総理が武藤議員に対して「自分の気持ちは法案が通ってから言ってくれ。それで十分間に合う」と思わずポロリと漏らしたことが報じられたが、おそらく、安保法案が成立した次は「戦争に行きたくないのは自己中」と批判されるような教育、社会の空気づくりが本格化していくのだろう。  そのとき、いったい私たちはこの乱暴な全体主義にどういう言葉で対抗すべきなのか。実は、そのヒントを与えてくれそうなイデオローグがいる。それは、あの蛭子さん、蛭子能収だ。  蛭子さんといえば、バラエティや旅番組などでもまったく空気を読まないマイペースな発言を連発している“ミスター自己中”。本人も常々「誰かに束縛されたり、自由を脅かされることが何よりも大嫌い」と公言していて、自著『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)では、「長いこと、自由であることを第一に考えていると、いわゆる“友だち”と呼ばれるような人は、あまり必要でなくなります。」とまでいっている。    そんな蛭子さんが「女性自身」(8月18日・25日合併号)の戦後特集「私の70年談話」に登場して、戦争について語っているのだが、これがなかなか説得力のある内容なのだ。  原爆投下された2年後、長崎に生まれた蛭子さんは「小さいときから、戦争は嫌」だと思っていたという。その原点になっているのは死ぬことへの恐怖。蛭子さんは小学生の時、一瞬で消えてしまう流れ星を見て、人間のそして自らの“死”を実感した。 「人の一生も同じなのかと思ったら、すごく恐ろしくなって。以来、死なないことが人生の目標になったんです」  人生の目標が「死なないこと」となった蛭子はその目標を第一優先にして行動してきた。それが「怒りを表情に出さない」そして「暴力に頼らない」ことだったという。  中学時代、パシリにされたりイジメを受けた蛭子は内心では腹が立ったというが、それを抑えることで、理不尽なものに対処していく。 「怒りを表情に出すことはしませんでした。もしオレが手を出せば、相手は殴ってくるかもしれません。ちょっとの憎しみでもたちまち大きくなります。その憎悪の連鎖が、しまいにはナイフで刺されることにつながるかもしれませんからね」  挑発に乗って、感情を爆発させれば自分にも暴力が向けられるし、やり返せば憎悪の連鎖も起こる。だから蛭子は考えた。 「とにかく相手から嫌なことをされても、怒りの感情を出さない。暴力に頼らない別の対処法を考える。それが憎しみの連鎖を断ち切る唯一の方法。これは大人になった今でも変わりませんね」  そして、蛭子さんはこうした体験をふまえて、戦争の動きについてこう批判している。 「オレは好戦的な発想は好きではありません。最近、中国や韓国との関係がギクシャクしてからの、相手の攻撃的な言動により攻撃的な態度で返しているような人たちを見ていてそう思います。(略)向こうが高圧的に来ても、受け流しておけばいいんですよ。その間に、歴史や法律を勉強したり、戦争をしなくてもすむ仕組みを調べたりするほうがいいんです」 「国同士だとちょっとした『憎しみ』が戦争につながるんですから、その連鎖を早い段階で断ち切ることが大切。それができるのは「弱さ」を武器にすることだと思うんです。」  どうだろう。安倍首相による例の「トモダチのアソウくんが不良仲間に喧嘩を売られたら、一緒に戦う」といったたとえ話よりも、はるかに現実的で説得力のある言葉ではないか。  実は蛭子さんは少し前から、安倍政権の戦争できる国づくりにしきりに異を唱えていた。  昨年6月24日には「朝日新聞」で、集団的自衛権を「正直、難しいことはよく分かりませんが、報復されるだけなんじゃないですか。 『集団』っていう響きも嫌いですね。集団では個人の自由がなくなり、リーダーの命令を聞かないとたたかれる。自分で正しい判断ができなくなるでしょ」と批判したし、前述の『ひとりぼっちを笑うな』でも「ここ最近の右翼的な動きは、とても怖い気がします。安倍首相は、おそらく中国と韓国を頭に入れた上で、それ(集団的自衛権)を通そうとしているのでしょうけれど、僕はたとえどんな理由であれ、戦争は絶対にやってはいけないものだと強く思っています」と警鐘を鳴らしている。  おそらく安倍政権を支持する連中は、蛭子さんのこうした反戦の主張に対しても「自己中」という言葉を投げつけるのだろう。しかし、蛭子さんはただの「自己中」ではない。 「僕自身が自由であるためには、他人の自由も尊重しないといけないという信念であり、それが鉄則なんです。人それぞれ好きなものは違うし、ライフスタイルだって違う。そこをまず尊重しない限り、いつか自分の自由も侵されてしまうような気がしてなりません」 「戦争ほど個人の自由を奪うものなんて、他にはないんですよね。誰かの自由を強制的に奪うようなものは、いかなる理由があっても断固として反対です」 (『ひとりぼっちを笑うな』)  蛭子さんは何よりも自由を大事にし、そして自分が自由であるために、他人も尊重するし、多様性を認める。だからこそ、「自由」を奪う戦争には、徹底的に反対していく。しかも、そこにはたんなるエモーショナルな思いではなく、どううやったら生き延びることができるのかという冷静な計算、「弱さを武器にする」というしたたかな戦略がある。    一方、安倍政権とそれを支持する連中はどうだろう。自分たちのグロテスクなプライドを慰撫するために歴史をつくりかえ、国民に「国のために命を捧げる」という価値観を強要し、戦争のできる国にするためにわざわざ緊張関係をつくりだす――。いったい、どっちが「自己中」で「非現実的」なのかは火を見るより明らかだろう。  蛭子さんは「女性自身」のインタビューで「弱いことを武器にすることは、本当は強い者にしかできないことですよね」とも語っているが、私たちは安倍政権やネトウヨ政治家ががなりたてる「見せかけの強さ」でなく、蛭子さんのような「しなやかな強さ」を求めるべきなのだ。 (伊勢崎馨)

ロバート・ダウニー・Jr、最も稼いだ男性俳優1位に!

ロバート・ダウニー・Jr(50)が最も稼いだ男性俳優1位に輝いた。フォーブス誌が毎年発表する高額出演料ランキングにおいてロバートは、2014年6月から2015年6月の一年間で8000万ドル(約99億5000万円)を稼ぎ、2位のジャッキー・チェンに3000万ドル(約37億円)の差をつけて3年連続の1位を獲得した。 3位に躍り出たのは4700万ドル(約58億5000万円)を稼いだ『ワイルド・スピード』でお馴染みのヴィン・ディーゼル、そして4位には4150万ドル(約51億6000万円)でブラッドリー・クーパー、5位には4100万ドル(約50億1000万円)でアダム・サンドラーが名を連ねている。 来日したばかりの『ミッション:インポッシブル』主役を務めるトム・クルーズは4000万ドル(約49億7000万円)で6位となった。 フォーブス誌は今年度よりランキングの規定を世界中の映画業界で働く男性俳優陣という枠にまで広げたため、トップ10には3350万ドル(約41億7000万円)で共に7位となったアミタ・バッチャンとサルマン・カーン、3250万ドル(約40億4000万円)で9位のアクシャイ・クマールとインドの映画産業で活躍する3人がランクインしている。 そして10位には今月28日の日本公開が迫る『テッド2』に出演しているマーク・ウォールバーグが3200万ドル(約39億8000万ドル)でその栄冠に輝いた。 フォーブス誌による世界で最も高額出演料を得た男性俳優トップ10 1.ロバート・ダウニー・Jr 8000万ドル(約99億5000万円) 2.ジャッキー・チェン 5000万ドル(約63億2000万円) 3.ヴィン・ディーゼル 4700万ドル(約58億5000万円) 4.ブラッドリー・クーパー 4150万ドル(約51億6000万円) 5.アダム・サンドラー 4100万ドル(約50億1000万円) 6.トム・クルーズ 4000万ドル(約49億7000万円) 7.アミタ・バッチャン 3350万ドル(約41億7000万円) 7.サルマン・カーン 3350万ドル(約41億7000万円) 9.アクシャイ・クマール 3250万ドル(約40億4000万円) 10.マーク・ウォールバーグ 3200万ドル(約39億8000万ドル)

「おっぱい見せろ!」「痴漢!」“アイドルオタクvs演歌オタク”新橋駅前の地獄絵図

オタクに"なるほど"面白い!オタクニュース・ポータル「おたぽる」より

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多様なオタクたちと酔っ払いサラリーマンたちで大賑わいに
 7月23日から新橋駅前で2日間にわたり開催された「第20回新橋こいち祭」。その2日目は、アイドルの篠崎愛、Ru:Run、演歌歌手の山口瑠美らのライブや、浴衣美人コンテストで盛り上がったが、篠崎らが登場した18時はちょうど新橋のサラリーマンたちが酒を飲みはじめる、あるいは帰宅しはじめるために駅に殺到する時間帯とあって、現場はカオスな空間と化した。 「脱げ~!」 「おっぱい見せろ~!」  熱心なファンが集うアイドルのライブならまず聞かれない、下品なセクハラ野次。猛暑の中、ドリンクの出店では「売り始めて2時間で500本以上の缶ビールが売れた!」と店員は大喜びしていたが、現地では悪酔いした観客のマナー違反の振る舞いが目立ち、駅周辺ではタバコのポイ捨て、酔った客のおう吐も見られた。 「おたぽる」で続きを読む

シキシマって誰? 映画『進撃の巨人』で“リヴァイの代わり”が大炎上! リヴァイがいないのはやっぱり腐女子対策だった?

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映画『進撃の巨人』公式サイトより
【本と雑誌のニュースサイトリテラより】  映画『進撃の巨人ATTACK ON TITAN』が8月1日に公開されたが、興行収入は1、2日の土日2日間で『HERO』『ミニオンズ』を抑えて首位を獲得。興行収入50億円超も見込める好スタートを切った。原作である『進撃の巨人』(諫山創/講談社)は累計発行部数4200万部を突破するほどの人気作だが、公開前から特に注目されていたのが、映画のオリジナルキャラ・シキシマについてだった。実際、映画が公開されてみると、シキシマに対してはこんな声が多くあがっていた。 「シキシマキモすぎ」「好きになれない」「シキシマが壊滅的に魅力に欠けてたのは気になったかな」「シキシマ…たかが映画キャラに強い殺意を抱くなんて…」「シキシマが死ぬなら後編見てもいいかな」  と、散々なもの。なかには、映画を見た人ですら「シキシマって誰だよ」とつぶやいており、原作ファンからすれば不満の残るものだったようだ。まあ、マンガの実写化で原作と異なるものは多々あるし、批判の声があがるのもいつものことだが、今回、これほど多くの不満の声が出たのには理由がある。それは、主人公エレンの上司で、作中でもっとも人気のあるキャラ・リヴァイ兵長が登場しないからだ。彼は、壁の外に出て巨人と戦う調査兵団の一員で、身長160cmにも関わらず、人類最強と言われる潔癖症で三白眼の兵士。だが、実写映画ではその代わりのようにシキシマが登場しており、人類最強の肩書きや白いハンカチで潔癖症なところを表現するなど、ところどころ出てくるリヴァイの要素から、拒否反応を起こす人が多く現れたようだ。  だが、そもそもなぜ映画にリヴァイが登場しないのか? 実写映画『進撃の巨人』最大の謎でもあったこの“リヴァイが登場しない理由”だが、「映画秘宝」(洋泉社)9月号に掲載された脚本家・町山智浩のインタビューでは、こんなことが明かされている。 「リヴァイとエルヴィンは、「ヴ」というアジアにない発音がある。アジア人なのになぜそんな名前なのか説明が必要になってくる」 「というわけで、リヴァイとエルヴィンは泣く泣く最終的にあきらめた」  しかし、本当にこれだけの理由なのだろうか? じゃあ、エレンはどうなんだという疑問が出てくる。実際「キャラ名をすべて完全に日本人らしい名前に変える」か「開き直って、全員原作通りのドイツ名のままでやる」か町山も最後まで迷ったらしいが、「主要キャラは原作通りいきたいというのがプロデューサーの意向なので、こんな屁理屈を考えた」と語っている。 「紗々(サシャ)って子は実際にいる。エレンは漢字で江連とか書けるからアリだと。ジャンも『鉄鍋の醤』ってマンガがある(笑)。アルミンは苦しいけど、有海とか有美の愛称と考える(笑)」  いや、もうここまできたら「もろにドイツ人の名前だから」なんて関係ないし、愛称がアリならどうにでもできただろう。やはり、もっと何か別の理由がある気がしてならない。というのも、同じように「ヴ」という発音や「ドイツ人の名前でしかないから絶対使えない」という理由だけで消されてしまったエルヴィンやライナー、ベルトルトといったキャラには、ある共通項があるからだ。それは、軒並み腐女子人気の高いキャラばかりということ。  実は、本サイトでは以前にもある指摘をしていた。それは、腐女子に熱狂的な支持を獲得しているリヴァイを出さないことで、腐女子に叩かれることを避けたのではないか。つまり、腐女子対策なのではないかというもの。リヴァイだけでなく、そのほかの腐女子人気の高いキャラまで登場しないとなれば、ますますこの説の信憑性が増してきたではないか。  原作は少年マンガなのに、腐女子対策のためだけにそこまでするなんてあり得ないと思うかもしれないが、諫山は「BRUTUS」(マガジンハウス)12月1日号でインタビュアーからリヴァイの腐女子人気について「最初からそこを狙ったわけではありませんよね?」と聞かれた際、次のように答えている。 「お姉さま方をがっかりさせてしまうかもしれませんが、自分の中にも腐女子がいるのかもしれないというか、これは腐女子にウケる気がする、というセンサーは働きました。『幽☆遊☆白書』の飛影みたいな雰囲気を狙っていて、造形ができた瞬間に「これはイケる」と確信したんです」  つまり、リヴァイは腐女子を意識して作られたキャラでもあるということ。実際、原作には腐女子が喜ぶ仕掛けがたくさんある。  たとえば、人気なのが審議所で拘束されているエレンをリヴァイ兵長が観衆の前で容赦なく蹴りまくる場面。しかし、腐女子はただ目つきの悪い人類最強のチビがドSっぷりを発揮していることに萌えているわけではない。実はこれ、解剖されそうになっていたエレンを救い、彼の希望通り調査兵団に入れるための芝居だったのだ。目つきも口も悪く、感情が読みにくいので一見冷徹に見えるが、実は仲間思いで不器用なだけという彼のギャップは、腐女子に妄想の余白を与える。  もうひとつ印象的なのが、お掃除シーン。始めは潔癖のリヴァイに「全然なってない すべてやり直せ」とダメ出しされていたエレンだが、その後はほかの隊員にこんなことを口にしている。 「お前ら…家に入る前にちゃんと埃や泥を落として来たか?」 「……まだわかんねぇのか? そんな意識でリヴァイ兵長が満足すると思うか? 今朝だってオレがお前のベッドのシーツを直していなかったらなー」  この間に2人の間ではどんな“調教”が行われたのか妄想する腐女子が大勢現れた。そして、作中リヴァイが命懸けでエレンを救ったのは1度や2度ではない。上司や監視役としてだけでなく、リヴァイはエレンを信頼し、対等にも見ている。この信頼関係が腐女子センサーに反応したのではないか。  実写化するにあたり、脚本家の町山には「原作どおりにしなくていい」「まったく違う話にしてほしい」(「映画秘宝」9月号)と言っていたという諫山。これほど腐女子のツボがよくわかっている彼なら、腐女子対策としてあえて作品の人気を支えるリヴァイを出さないという選択をしてもおかしくない。なにせ、諫山の腐女子センサーはたしかなもの。  ただ、冒頭でも紹介したが、公開後のシキシマの評判を見てみると批判のほうが多く、リヴァイの代わりにシキシマを出したのは失敗だったのかと思うかもしれない。しかし、シキシマ自体は好きになれないという人のなかにも、こんなコメントをしている人たちがいた。 「名前を兵長じゃなくてシキシマにしたのは英断だったと思う。あれリヴァイですって言ったら映画館何個か破壊されそう」 「リヴァイ出してたらシキシマさんのやる事をやってた訳で炎上への燃料提供になるというか油田になるでしょう」  やはり、諫山の選択は正しかったようだ。でも、「映画秘宝」9月号の記事によると、諫山から「ジャンを主人公にしてくれませんか」という提案もあったという。腐女子人気の高いキャラで、唯一実写映画にも登場するジャン。もしかすると、諫山はジャンを主役に据え、がっつり腐女子向けの作品にするという方向性も考えていたのかもしれない。そしたら、リヴァイだけでなく、エルヴィンやベルトルト、ライナーも登場したのではないか。まあ、諫山の腐女子力があれば、それもうまくいったのかもしれないが、今回、こうした腐女子要素を削った結果が吉と出るか、凶と出るか。ただし、映画を観る際は「シキシマ=リヴァイではない」ということだけはよーく頭に入れておいた方がいいだろう。 (田口いなす)

標的のアルマジロに銃弾を跳ね返されて自らが怪我!

アルマジロを銃で撃とうとしたアメリカ人男性が病院送りになってしまったようだ。テキサス出身のこの男性は、午前3時頃に自宅の敷地内をうろついていたアルマジロに38口径リボルバーの銃口を向けたが、アルマジロの強硬な殻に跳ね返されて自身が怪我を負うに至ってしまったのだという。 地元カス郡警察の保安官は「彼の奥さんは自宅にいました。彼はこの38口径を手に外に出て、アルマジロに 3発撃ち込みました」とその状況を説明しているが、このアルマジロは発見されていないという。 4月にもある男性がアルマジロに向けて銃を放ったところ、それが跳ね返されてその男性の妻の母親に当たってしまうという似たような事件があった。

★STARGUiTARの新作が示した、マイペースで奔放なダンス・ミュージック

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【リアルサウンドより】  日本の、そして世界のクラブでEDMが席巻する近年。もちろんそれに呼応する音楽もあれば、独自路線を突き進むクラブミュージックも数多く存在する。AAA、西野カナ、倖田來未といったアーティストを手掛けつつ、ドープなトラックメイクも行ってきた“SiZK”が、2010年にスタートさせたソロ・プロジェクト・★STARGUiTARの最新作『Wherever I Am』がまさにそう。近年の時流などお構いなしに、奔放でマイペース、かつウィットの効いたクラブミュージックに仕上げてきた。  といっても、彼の音がポップスとしての強度を持ち始めたのはここ最近のこと。以前はループを多用したアッパーなダンスミュージックを展開しており、常に“新しい音“を提案する音楽作家・トラックメイカーとしての一面を強く打ち出していた。そんな★STARGUiTARに変化があったのは2014年9月。H ZETT M やMELTEN (JABBERLOOP, fox capture plan)、Hidetake Takayama、世武裕子、Schroeder-Headz、Chieko Kikuchi (KAGERO) といった、豪華なピアニスト陣が参加したコンセプトアルバム『Schrödinger's Scale』をリリースしたときから、明らかにメロディの作り方が変わった。  数々のピアニストと共演することにより、改めて鍵盤の楽しさや使い方を知った彼は、“ループミュージックからの脱出”を試みたようだ。最新作は前作と違い、ゲスト・ピアニストの参加は1曲のみ。その1曲も、前作に参加したMELTENが自身のバンドfox captured plan名義で参加したもの。すでに公開されているMVは、★STARGUiTARが同バンドの手練3人をコントロールするような映像に仕上がっており、生音の良さとエディットの快感が同居した楽曲に仕上がっている。

★STAR GUiTAR「The Curtain Rises feat. fox capture plan」Music Video

 また、「detour feat. LASTorder」は、★STARGUiTARの作ったであろう原型を、客演のLASTorderが徹底的に壊して刻んだ形跡が随所にみられるし、ほかにもジャジーヒップホップライクな「I Spell You」やFuture Baseのような音作りでしっかりトレンドを回収する「knowledge」など、クラブミュージックシーンの“次”を見据えた構成も目を引く。

★STAR GUiTAR「Be The Change You Wish」

 それでいて重すぎず、オーガニックなエレクトロサウンドにまとめ上げているあたりは、生来のポップセンスが効いているからだろう。事前に公開していたデモ版より、全体的にローを抑え目にしてメロディを立たせていることからも、1万枚のセールスを超えた前作を踏まえ、★STARGUiTARが本作をさらに多くのリスナーに届けようとしていることは明らかだ。  “シーンに迎合しない”という言葉は、ともすればポップであることを放棄するという意味合いを持つ。しかし、都会の喧騒から少し離れ、ヒップなやり方を提示する『Wherever I Am』のような作品であれば、この言葉のポジティブな面が感じられるのではないだろうか。 (文=中村拓海)
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★STARGUiTAR『Wherever I Am』

■リリース情報 『Wherever I Am』 発売:8月5日(iTunes Storeで一週間先行配信中) https://itunes.apple.com/jp/album/wherever-i-am/id1019058909?app=itunes&ign-mpt=uo%3D4 <収録内容> 1.Everyday is a new day 2.Be The Change You Wish 3.The Curtain Rises feat.fox capture plan 4.Journey to Nothing 5.I Spell You 6.detour feat.LASTorder 7.One more thing 8.knowledge 9.Mind Float 10.before dark 11.inherit

SKE48・松井玲奈は「卒業が待ち遠しい」!? TIFで見せた“晴れ晴れしすぎる”笑顔の裏側

オタクに"なるほど"面白い!オタクニュース・ポータル「おたぽる」より

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足取りも軽く見える松井玲奈。(撮影=岡崎隆生)
 1日にお台場・青海周辺エリアで開催されたアイドルの祭典「TOKYO IDOL FESTIVAL(TIF)」にSKE48が登場。今月いっぱいで卒業が決まっている松井玲奈は、SKE48として今回が最初で最後のTIF出演となり、12日発売のシングル「前のめり」(avex trax)をセンターで披露するなど、9曲を熱唱して会場を沸かせた。  そんな彼女の表情がいつになく晴れ晴れとしていたことから、「SKE48卒業が間近に迫り、肩の荷が下りて清れ晴れしているのでは?」と一部で話題になっている。  松井玲奈といえば、SKE48の1期生として松井珠理奈とともに「W松井」としてグループを牽引。第1回選抜総選挙から第6回まで着実に順位を上げ、一度も順位を下げていない唯一のメンバー。それだけに仕事量もメンバー内随一で、去年2月には乃木坂46との兼任も引き受けた。 「おたぽる」で続きを読む

黒柳徹子が『徹子の部屋』Xデイを語った! 引退勧告役はマッチ、最終回ゲストは…

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テレビ朝日『徹子の部屋』番組ページより
【本と雑誌のニュースサイトリテラより】  日本を代表する長寿番組『徹子の部屋』(テレビ朝日系)が今年40周年を迎えた。この番組に出演することは芸能人や著名人にとって一種ステイタスとさえ言われているが、同時に懸念されるのが司会の黒柳徹子の年齢だ。  40年間一度も番組に穴をあけたことのないという黒柳だが、今年8月9日には82歳を迎える。また7月29日には予定していた「日本・カー・フレンド賞」への出席を体調不良で急遽キャンセルするという心配な情報も。  そんな黒柳が自ら『徹子の部屋』のXデイについて言及し話題をよんでいる。「週刊新潮」(新潮社)8月6日号に「『徹子の部屋』1万回の余話」と題された黒柳のインタビュー記事が掲載されているのだが、そこで黒柳はこれまでの番組秘話と共に、Xデイについて意外な“キーパーソン“の存在を語ったのだ。  その人物とはジャニーズ事務所の大御所、近藤真彦だ。 「引退するにあたっては決めていることがあります。それは、私の首に鈴を付ける役を、1万回の時にも出演してくれたマッチ(近藤真彦)がやるということです」  一体、どういうことなのか? 黒柳によれば、黒柳ほどの大ベテラン、年齢になると周囲は気を遣って引退勧告はできないだろうと近藤から言われたことがあったという。 「だから、私が番組で同じ質問を繰り返していたり、お芝居でセリフに詰まったりしているのに気が付いたら、マッチが『そろそろ引退したほうがいい』と言ってくれることになっているんです」  確かに黒柳と近藤は、黒柳が『ザ・ベストテン』(TBS系)の司会、近藤がトップアイドルだった十代の頃からの付き合い。近藤の母親が交通事故で逝去して以降、近藤は「芸能界のお母さん」と黒柳を慕い、毎月のように食事をしたり、時には旅行を共にすることもあったという。また近藤が結婚する際、これに反対していた相手女性の両親に黒柳は手紙を書いて説得を試みたというエピソードも。  そして番組スタートから1万回だった今年5月27日には、後輩の東山紀之とともにゲスト出演するほどの“仲”だ。  東山紀之と故・森光子の親しい関係が取り沙汰されたのと同様、ジャニーズの大物接近術といえなくもないが、いずれにしても、マッチが黒柳の引退勧告という大役を担うことになっているらしい。  このインタビューではもうひとつ、最終回についても語られている。 「『徹子の部屋』の最終回には、ユーミンさん(松任谷由実)がゲスト出演してくださることになっています。彼女とは20年来の付き合いで、一緒にお散歩したりする関係です」  黒柳とユーミンが一緒にお散歩とは、なんともシュールな光景だが、これまで『徹子の部屋』に出演したことがないユーミンに、黒柳が出演を打診すると「最後の日に出演します」との返事をもらったのだとか。  黒柳の口からは興味深いXデイ証言が次々飛び出すのだが、インタビューではその他、戦争体験者には必ずそのエピソードを聞くという黒柳が長谷川一夫から聞いた軍隊時代の話、池部良が乗った輸送船が爆撃を受けた話等、平和についての黒柳の“思い”も吐露されている。  最近でもローラの“ため口トーク”に寛容に対応し、辻仁成がゲストの回では辻をそっちのけで同じ事務所の日本エレキテル連合について熱く語るなどまだまだ話題性に事欠かない『徹子の部屋』。この調子だと、マッチが引退勧告をするのはまだまだ先の話のような気もするが……。 (林グンマ)