今年も大盛況のうちに幕を閉じた“夏コミ”こと「コミックマーケット88」。本稿は、秋葉原の話題を中心としたWEBニュースサイト「1UP情報局」から届いた美麗レイヤーさんの写真を一挙放出!【14日・1日目】
※以下、『作品名』キャラ名/コスネーム(@TwitterID)と表記
『刀剣乱舞-ONLINE-』次郎太刀/由麻さん(@yuma6101)
『スーサイド・スクワッド』ハーレイ・クイン/繭子さん(@myksan1717)
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【本と雑誌のニュースサイトリテラより】 いま、世間では空前の“こじらせ”ブームである。能町みね子、久保ミツロウ、峰なゆか、犬山紙子、ジェーン・スー……、“こじらせ女子”とカテゴライズされる文化人が次々とブレイクし、それぞれ著作はヒットを連発。また、彼女らの勢いは活字メディアにとどまらず、能町・久保の『久保みねヒャダこじらせナイト』(フジテレビ系)、ジェーン・スーの『ジェーン・スー相談は踊る』(TBSラジオ)など、テレビやラジオの世界へも続々と進出している。メディアでも“こじらせ女子”を特集した企画が急増するなど、“こじらせ”が何かオシャレにさえ感じてしまうようになった昨今だ。 しかし、“こじらせ”はけっしてファッションではない。具体的に彼女たちの人生を見聞きすると、よるべなき存在の不安や身を引き裂かれるような苦悩の末にいきついた言葉だということがよくわかる。 たとえば、その“こじらせ女子”なる言葉をつくったオリジネイターでもある、AVライター・雨宮まみが今年、新著『東京を生きる』(大和書房)を上梓したが、そこにはこんな一節がある。 〈東京に出てきて、私はいつも、セックスに飢えている気がする。してもしても、まだ足りない気がする。過激なことを望んでは、ほんとうに満たされることを、もしかしたら自分は知らないのかもしれない、知らないからこんなに求めてしまうのかもしれない、と不安になる。 それで満たされることを知ることが、この世でほんとうの贅沢を知ることのように思えてくる。それを知っている人間だけが、貴族のような階級にいて、自分はそこには行けないのではないかと思う。それについて語る資格など、ないような気がする。私のそれなど、ひどく浅瀬にあるものなのではないかと思えるのだ〉 『東京を生きる』では、故郷を離れて“東京”に暮らし、“AVライター”という女性としてはかなり珍しい仕事のなかで、自らの“女性性”と格闘することになった日々の思いが生々しく綴られている。 そもそも彼女がエロ業界に飛び込んだのも、自分の“性”との折り合いがつかなくなったからだった。そのことは、4 年前に雨宮が出版した自伝的エッセイ『女子をこじらせて』(ポット出版)に書かれている。 〈じゃあなんで、仕事にするほどAVに深入りしてしまったのか。 それはひとえに私が、「女をこじらせ」ていたから、と言えるでしょう。AVに興味を持ったとき、私は自分が「女である」ことに自信がなかったので、AVに出ている女の人たちがまぶしくてまぶしくてたまらなかった。「同じ女」でありながら、かたや世間の男たちに欲情されるアイコンのような存在であるAV女優。かたや処女で、ときたま男に間違われるような見た目の自分。そのへだたりは堪え難いほどつらいものでした〉 そんなにも自分に自信をもてなくなった理由、それは雨宮の青春時代にあった。中学・高校時代を、いわゆるスクールカーストの最底辺で過ごし、容姿のコンプレックスに押しつぶされそうな彼女は、イケているクラスメイトのように“モテ”を追求することができなかった。 “自分はかわいくない”“女として価値がない”、その確信が興味関心を“サブカル”に向かわせることになる。岡崎京子を読みあさり、雑誌「CUTiE」(宝島社)を読みふけり、団鬼六でリビドーを昂ぶらせ、ますます“モテ”からは遠ざかっていく。そんな毎日が彼女の青春であった。 そして、そんな日々のなか培われた思いは、福岡から単身上京した後、“田舎者”という劣等感が加わることで、ますます“こじれて”いく。 〈「男にモテたい」なんて、思う余裕もなかった。それ以前に服すら似合わない。オシャレにすらなれない。恋愛や男のことなんて、そういうことをクリアしたあとで考える、雲の上の出来事に思えました。 一日8回オナニーしては、虚しさに泣きました。自分はこのまま誰にも触られずに死んでいくんだと思うと、悲しかった。けど勇気を出すことなんてできなかった。自分には恋愛とか、そういうことは許されていない。そういうことを話題にすることすら気持ち悪い人間なんだと思っていました。そんなに性欲が強かったのに、セックスするなんて考えられなかった〉 そんな鬱屈とした日々を過ごしていたある日、彼女の人生に転機を与えてくれる存在が現れる。 平野勝之監督の『わくわく不倫講座』、そして、カンパニー松尾監督の『私を女優にしてください』。一般的なAVとは一味違う、生々しくむきだしの“性”を描いた、今でも語り継がれるアダルトビデオの名作たちである。 〈松尾監督のAVに出ている女の人は、自分にとって、理想の女の姿に見えました。エロくて、性欲に素直で、撮られても堂々としている。私は自分の欲情している姿が男の人にとって見苦しいみにくいものだと思い込んでいたので、この「堂々としている」というところがもっともすごいと思ったし、憧れました。憧れたけど、AVは現実をしっかり映すものでもあります。自分が堂々としたところで絶対にこんなふうにエロくも、キレイにもなれない。そう思いました。 ものすごい絶望感でした。畳をかきむしる思いでオナニーしてました。フローリングだったけど。でも、ここに何か、今までずっと苦しんでどうしようもなかったことに対する答えがあるのだという気持ちがありました。ここで逃げたら一生このまま卑屈な気持ちで、自意識をもて余したまんま、キレイにも、堂々とした女にもなれず、びくびくした一生を送るしかないんだと、なぜか強烈にそう思いました〉 彼らの作品に刺激を受けた雨宮は、エロ本編集者を経て、AVライターへの道を歩みだすことになる。しかし、ここからがさらに“女をこじらせる”地獄の日々の始まりだった。 いくら真剣に仕事をしても、編集部が彼女に文章を発注する理由は「女がAV観てるって思うだけで興奮する読者もいるから」という甘い発想ばかり。たまに仕事をほめられたとしても、それは「女の視点が面白い」という評価。真面目にAVのことを書いて「女でもこいつは違う、わかってる」「女だけど、AVのことよくわかってる」と認められたいと強く願っても、それは叶えられない。 挙句の果てには、“美人ライター”と呼ぶ人も出てきて、「寝て仕事取ってる」「ヤッたからほめられてる」とすら言われる始末。 これまでの人生ずっと“ブス”と呼ばれていたのに、手の平を返したように“美人”と言われる矛盾と、そこから感じる絶望。今まで“女”であることにさんざん苦しめられたのにも関わらず、どこまでも自分が“女”であることから逃げられない。 〈ライターとしての自分に価値があると思っていたわけではありません。でも、求められた価値がよりによって「女」だとは。自分は、女なのにちっとも女らしくなく、女の服やおしゃれや髪型が似合わない、女失格な女だと思っていた。「女」としての自分は、私の中では何の価値もないどころか自分を果てしない劣等感で苦しめるものでした。なのに求められるのは「貧乳だろうが顔がまずかろうが色気がなかろうが、とりあえず20代でAVとか出てない素人女」としての価値だけだった〉 だが、雨宮のこの苦しみは、“AV業界”という、圧倒的に女性がマイノリティになる特殊な環境だから起こるものではなく、実は、社会に出て働く女性にとって普遍的な悩みであり、苦しみなのではないだろうか? 男社会のなか、どんなに努力しても、成果を出しても、評価のなかに“女性”という観点が入ってくる。それは、女性がいまの社会で働こうとする限り必ずついてまわる問題だ。 AV業界という特殊な社会のなかで、普通の女性よりも強く、その“社会で働く女性”としての悩みに直面した雨宮。そして、彼女はのたうち回るような苦しみに耐えた末、ゆっくりとその矛盾に対する答えを見つけていく。 〈いろんな出来事に揉まれてるうちに、自分の価値を他人の価値観に委ねてたら、これはもう、簡単に死ぬな、と思ったんですよね。〉 〈自分の価値を決めるのは自分自身で、決してそれを他人の手に委ねてはいけない。〉 〈自分自身を自分の手に取り戻す、というのは、他人の介入を許さない、ということではありませんでした。それは、どう見られてもいいや、と解き放っていくことでもあるし、どう見られてもいいやと思うためには、意志や安心感が必要でもありました。〉 彼女が苦悩の末に見つけ出したのは、「自分の価値を決めるのは自分自身」という考えだった。 男であろうが、女であろうが、イケメンであろうが、美人であろうが、ブスであろうが、関係ない。“自分の価値”を決めるのは、他人ではなく“自分自身”――。この発想を見つけてから、雨宮は少しずつ楽になっていったという。 社会のシステムが男に都合の良いようにつくられている限り、抜本的に変わることは難しいかもしれない。しかし、自分の気持ちならゆっくりと変えることができる。「自分の価値を決めるのは自分自身」と心に刻むことで楽にもなれるし、自分に自信をもつこともできる。 みんながみんな、雨宮のような過激な生き方ができるわけではないが、しかし、そこには“男だから”“女だから”といった価値判断から私たちを自由にしてくれるヒントが詰まっている。そう考えると、“こじらせ女子”の人気を支えているのは、この社会で生きづらさを感じている人たちの救いを求める声なのかもしれない。 (新田 樹)左『東京を生きる』(大和書房)/右「モチイエ女子web」連載コラムのプロフィールより

(C)タナカケンイチ
7日に行われた日本テレビ主催のイベント『ZIP!夏まつり』で、女優の北乃きいが見事にMC役をこなし、閉幕の際には観客席から拍手が起こった。 今回の夏まつりは、情報番組『ZIP!』のスペシャルライブイベントにあたり、北乃は同番組MCを2014年から務めている。前MCである関根麻里が結婚を発表した為の交代となったわけだが、当初不安視されていたMC力も、今では関根と比べても遜色ないほどに向上している。 そんな北乃も、女優としての活動は、デビュー時の期待に沿うほどの活躍には至っていないようだ。その原因としては、俳優・佐野和真とのお泊りデートや路上キスが報道されてしまい、それまでの清純派女優としてのイメージが一気に崩れてしまったことが挙げられる。その代償は高くつき、北乃は今でもスキャンダルのイメージを払拭できずにもがいている。 「北乃だって1人の女性ですから、恋の1つや2つはするでしょうけど、ファンからしたら裏切られた感が半端なかったのでしょうね。今でもネット上では恨みつらみを書きこんでいる元ファンの人もいますし」(芸能関係者) 【「おたぽる」で続きを読む】「北乃きい(きたの きい) avex official website」より。
【本と雑誌のニュースサイトリテラより】 〈私はオネエではありません〉──。エッセイストの能町みね子氏が日本テレビの番組にTwitterを通じて抗議した件が、いま、大きな話題となっている。 発端は、今月4日に放送された『今夜くらべてみました』の企画「新世代オネエ ニューキャマーSP」。この番組では「華麗なるオネエ史」が作成され、それを紹介したのだが、「2000年代以降のオネエ」として、マツコ・デラックスやはるな愛、假屋崎省吾、クリス松村、ミッツ・マングローブ、佐藤かよ、IVANらとともに、「東大卒オネエ」として能町も取り上げられていたのだ。 これを知った能町は、Twitterに〈なんか今夜くらべてみましたに私の名前が出たみたいだけど、出ることも聞いてないしその紹介のしかたはもっと聞いてません〉と投稿、〈私はオネエではありませんので日テレの人は訂正してください。〉と抗議した。14日には日刊スポーツの取材に応じ、能町は訂正を求めた理由をこう話している。 「オネエという表現は、差別に受け取れます。割り切ってオネエを受け入れて仕事されている方もいらっしゃいますが、私は違います。ひとくくりにしてほしくありません」 この報道によって今回の問題は広く知れ渡ったわけだが、ネット上では「能町みね子って男だったの?」という感想も多く見られた。実際、能町は2007年に性別適合手術を受け、戸籍も女性に変更し、その経験をエッセイにもしているが、能町はそれを「売り」にはしていない。そもそも、戸籍を変更している能町を「オネエ」と括るのは間違いだ、という声もある。 しかし、能町が怒っているのは、戸籍うんぬんの問題ではない。〈私が持っているのはオネエに対する偏見ではなくて、「オネエ」という雑なくくり方そのものについての嫌悪感〉だからだ。 〈例えばテレビ番組で「デブ史」とか勝手に作られて、その中に許可もなく名前を載せられたら、その人が太ってるかどうかとはもはや関係なくものすごく失礼じゃないですか。そういうことです〉 〈ざっくりホモとかオカマとかオネエとかに分けることによって植えつけられる偏見とか先入観とかをぶち壊したいと思ってやってますんで、絶対に許しません。〉(Twitterより) “セクシュアルマイノリティ”とひとことで言っても、そこには一括りにできない性自認や性的指向・嗜好がある。また、能町が指摘するように、「ホモ」や「オカマ」「オネエ」という言葉には、社会からの偏見や先入観も含まれている。 そういう意味で、今回、能町が乱暴なカテゴライズを問題視して社会に投げかけたことには大きな意味がある。しかし、ここでさらなる問題が生まれてしまった。というのは、今回の騒動が「オネエ差別」という別の問題にかたちを変えてしまったからだ。 たとえば、「J-CASTニュース」は〈今回不満を述べたのは、もはや男性ではなく、オネエの分類には入らないということを言いたかったようだ〉と解説。能町は「オネエ」と括る行為自体を批判しているのに、これではまるで“内輪揉め”のように受け取られてしまう。さらに、前述した日刊スポーツの記事タイトルが「Yahoo!トピックス」に掲載された際、「オネエは差別」と短縮され、能町が声をあげた理由がまったく間違ったかたちで解釈される問題を起こしてしまった。 その例が、クリス松村の反論だ。クリスは今回の騒動を「自分のしてきたことを全否定されているような哀しさを感じた」と言い、「マイノリティがマイノリティを傷つけるという、新たな差別が始まったと感じています」とブログに綴った。 だが、繰り返すように、別に能町は「オネエ」を否定したり差別したりなどしていない。能町も〈クリス松村さんは報道記事しか読んでないんじゃないかなあ〉とTwitterで感想を述べているが、クリスに能町の真意が正しく伝わっていない可能性は高いだろう。 ただ、クリスの反応もわからなくもない。〈私たちマイノリティと呼ばれる人たちが社会に出ていくのは大変なことでした〉と綴っているように、さまざまな「オネエ」たちが、偏見と闘い、葛藤しながらも「オネエ」を自認することで、社会にその存在を“ポジティブに”広めてきた歴史があるからだ。 実際、あの美輪明宏も「オネエ」肯定派だ。美輪は2007年、『金曜日のスマたちへ』(TBS系)に出演した際、明らかにおすぎとピーコを示すかたちで、「(自分は)同性愛に対する差別に対して闘ってきたのに、あの二人はテレビで自分から“オカマ、オカマ”という言葉を連呼して、同性愛者への偏見を助長している」と厳しく批判したが、その際、「オネエ」という表現については、好意的に語っている。 さらに、その美輪に攻撃されたおすぎとピーコにしても、けっして卑屈になって「オカマ」を受忍してきたわけではない。むしろ、侮蔑的な視線を送る社会に抗いながら存在をアピールするために、当時、差別語としてあったこの「オカマ」という言葉を意図的に用いてきた部分もある。 ちなみに、能町も自らを「オカマ」と称していた時期がある。10年前、能町の存在を有名にした彼女のブログのタイトルは『オカマだけどOLやってます。』だった。2006年、最初に出版された本のタイトルも同名で、あとがきには〈私はあえて自分のことを「性同一性障害」じゃなくて、「オカマ」と呼んでます。〉とある。(ただし、その後性転換手術をしたのを機にブログのタイトルも変更。文庫のあとがきにも〈オカマじゃなくてOLやってません〉とした)。 そして、この「オカマ」という言葉をめぐっては、いまから14年前の2001年に、今回のオネエ批判の原点になるような論争が起きている。 それは、ゲイ雑誌の発行人であり、性差別の撤廃と反天皇制を掲げた活動家・東郷健(2012年に逝去)のインタビュー記事が論争のはじまりだった。記事のタイトルは「伝説のオカマ 愛欲と反逆に燃えたぎる」。「週刊金曜日」2001年6月15日号に掲載されたものだ。 「伝説のオカマ」という言葉は、しばしば東郷を指して使われる言葉であり、何より本人が「オカマ」を自称していた。記事内ではインタビュアーも〈東郷さんは“オカマ”という。同性性愛者にたいして差別的にも聞こえる言葉をなぜ使うのですか、自分のことをなんでオカマと言い続けるのですか〉と問いかけており、「オカマ」という言葉を差別的に使用してはいない。だが、この記事に対し、「同性愛に関する正確な情報を発信している当事者団体」から抗議が編集部に寄せられた。「オカマ」という言葉がタイトルで用いたこと、記事内の「オカマ」の解説が間違っていることなどがおもな抗議理由だった。 当事者が「オカマ」と言っても、差別的な意味を含むそれをタイトルに使うのはおかしい──。この団体が主張したのは、「差別で傷つく痛みには個人差がある。一番傷つく人を基準に考えてほしい」ということだ。この抗議を受けて「週刊金曜日」は、「性と人権」を特集した。しかし、この特集が抗議団体の意見を取り上げる一方で、ちがう意見をもつ人びとの“異論”にふれることがなかったため騒動は拡大。ついには『「伝説のオカマ」は差別か』と題したシンポジウムが開かれるにいたった。 このシンポジウムでは「差別の判定は被差別者だけのものでいいのか」という問題が提起され、差別を論じる上で重要な指摘がなされているが、同時に、今回の「オネエ」問題にも通じる“一方的なカテゴライズ”の暴力性も語られている。 たとえば、伏見憲明は、「同性愛」という分け方それ自体を、「性科学、精神医学がそういうふうに性的指向で人を分類した時点で、すでに差別と排除が始まっている」と論評する。 「逆に言えば、差別と排除の眼差しによって、言説の権力が多様な性現象の中から「同性愛」を切り取ったわけです。つまり、分類された時点で言葉の中に差別が刷り込まれている」(『「オカマ」は差別か 『週刊金曜日』の「差別表現」事件 VOL.1 反差別論の再構築へ』ポット出版) 「同性愛」は、精神医学のなかで「異常」「精神疾患」と位置づけられた過去がある。これは異性愛至上主義を基準にした、まさしく「排除」の論理だ。同じように「オカマ」や「オネエ」といった言葉も、圧倒的に異性愛者たちが自分をスタンダードにし、差別的な意図をもって使ってきた言葉である。 そうしたなかで逆に、差別語である「オカマ」や「オネエ」を戦略的に用い、侮蔑的な視線を送る社会に抗いながら存在をアピールしてきたのが、東郷健であり、おすぎとピーコやといった人たちだ。もちろん、東郷たちの存在を「不快」に感じてきたゲイも多かった。そこにあるのは、“自分とは違うのに、全部同じにされる”という抵抗感だ。しかし一方で、「オカマ」も「オネエ」も肯定的に使用されるのであればOKと考える当事者もいる。捉え方も人によってそれぞれ違うのだ。 「言葉のリアリティは個別的なもので、誰の感覚が一番正しいということではない。だから、どれが差別語でどれならクリーンなんてことは本当のところないんです」(伏見氏) 同様に、「ホモ」という言葉が差別的に使われてきたことから言い換えられるようになった「ゲイ」という言葉を嫌う人もいれば、セクシュアルマイノリティが“自覚的・自己肯定的”に使うようになった「クィア」も、「風変わりな」「いかがわしい」という意味をもつことから抵抗を感じる人もいる。あるいは、ゲイが「オカマ」という言葉に敏感に反応するとき、そこにはミソジニー(女性嫌悪)があるのではないかという指摘もある。 そして、「オネエ」という言葉についても、今回の能町のように、あるいはそう呼ばれることを回避するために「女装家」と自称したミッツ・マングローブのように、違和感を表明する人がいる。 伏見の言うように「どれが差別語でどれならクリーン」なんて、誰にも決められないのだろう。 では、なにが問題になるかといえば、その言葉を使う意図だ。伏見は言う。 「言葉自体が「悪」なのではなく、問題は文脈です」 今回の能町が「オネエ」と括られた問題は、「オネエ」という言葉が悪いのではない。番組制作者が十把一絡げで「オネエ」と括った、乱暴な「文脈」にある。こうした問題は、メディアで、日常で、つねに発生しているものだ。たとえば、「男性が好き」という男性に対し、質問者が性的な話題ばかりを振る場面がよくあるが、そこには「ゲイは性欲が旺盛だ」という勝手な決め付けによる「文脈」が見てとれる。 もしかすると、問題となった日本テレビの番組制作者は、悪気などなかった、「オネエ」という言葉を肯定的に捉えていたつもりだ、と言うかもしれない。しかし、「雑なくくり方」という指摘がなされたことをどう考えるのか、その回答を知りたいと思う。それはきっと、セクシュアルマイノリティを何かに括って語ることが孕む暴力性に、多くの人が考えるきっかけにもなり得るはずだからだ。今回の能町の提起を、当然、本サイトも含め、メディアは無駄にしてはいけないだろう。 (酒井まど)フジテレビ 『久保みねヒャダこじらせナイト』番組HPより

(C)映画『at Home』製作委員会
10日に34回目の誕生日を迎え、その翌日、自身のオフィシャルブログにコメントを寄せた歌手の安倍なつみだが、コメントと共に投稿された写真が波紋を呼んでいる。 「嘘だ! おれのなつみはこんなに老けてない!」 「なっちのおばあちゃんの写真だろ? 冗談はほどほどにしてくれよ」 「肌からすっかり水分が奪われてしまっている……時の流れは残酷だね」 などと、ホウレイ線の目立つ彼女の顔に、ファンならずとも衝撃を受けているようだ。 【「おたぽる」で続きを読む】安倍なつみオフィシャルサイト内「ブログ」より。

「高校野球ドットコム」インタビュー記事より
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