生誕80周年の赤塚不二夫にまた伝説、アラーキー撮影で“本番”男優を! 現場で「タモリより大きい」と自慢

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『破壊するのだ!! 赤塚不二夫の「バカ」に学ぶ』(ele-king books)
【本と雑誌のニュースサイトリテラより】  今年、2015年は『天才バカボン』『おそ松くん』『もーれつア太郎』『レッツラゴン』『ひみつのアッコちゃん』など、数々のヒット作を生み、現在でも「ギャグ漫画の王様」と讃えられる赤塚不二夫の生誕80周年にあたる。  ご存知の通り残念ながら赤塚不二夫は2008年に逝去してしまっているが、そのメモリアルイヤーを祝い今年は数々の記念企画が用意されている。『秘密結社 鷹の爪』で脱力系コメディの新たな道を開いたFROGMAN監督による、『天才バカボン』と『フランダースの犬』の異色過ぎるコラボ映画『天才バカヴォン 蘇るフランダースの犬』が5月に公開。また、10月からはテレビ東京系でアニメ『おそ松さん』の放送も予定されている。  また、関連書籍もいくつか出版され、赤塚不二夫の漫画家としての天才ぶりはもちろん、ハチャメチャな私生活や酒場でのバカ伝説も、改めて、クローズアップされている。  たとえば、『破壊するのだ!! 赤塚不二夫の「バカ」に学ぶ』(ele-king books)では、70年代に日本におけるフリージャズの第一人者として活躍したミュージシャンの坂田明がこんなエピソードを語っている。 「「ひとみ」(赤塚不二夫が毎晩飲み明かしていた伝説のお店「ひとみ寿司」のこと)の二階かどこかで宴会をやっていたとき、クマ(篠原勝之)さんに取材しに来た編集者がいたのね。その記者が緊縛の話をしてきてね、そうしたら、赤塚先生が「これからみんなで裸になろう」「お前はあっちで脱げ」って言ってね。で、ひとりで素っ裸になった編集者を「よし、こいつを縛ろう」ということになって「ひとみ」のおばさんに「おばさん、ロープない?」って。「いや、ロープはないんだけどガス管があるよ」って(笑)。ガスのゴム・ロープね。「これでいいや」ってその編集者を縛っちゃった(笑)。仕事に来た編集者だよ。ぐるぐる巻きにして、それで転がしてね。赤塚先生は外の窓向かって、「おねぇちゃん、いまからオシッコするから見て!」とか言っちゃって、「やめなよ先生、そんなこと」って(笑)。それから、ねぇちゃんが通ってるところに上から小便しちゃってね」 また、娘の赤塚りえ子も同書で父親のとんでもないバカエピソードを紹介している。 「父の担当編集だった五十嵐(隆夫)さんから聞いたんだけど、パパと一緒にバーかなんかで餃子を頼んで食べてたら、「イガラシ、チンポコ出せ」って言われたんだって。そしたらパパのはもう出てて、それで何をやったのかっていうと、ラー油を塗って我慢するっていう(笑)。でもそこは、ちゃんと自分を笑われるように自分もやるんだよ」  ところが、赤塚不二夫にはこうした書籍などにも出てこないもっとすごい伝説がある。  それは"本番"ポルノ男優として雑誌に出演していたという過去だ。しかも、カメラマンはアラーキーこと荒木経惟というのだから、二度驚きだ。  その"本番"写真は2004年に休刊したスキャンダル雑誌「噂の真相」が1982年に別冊として出版した「荒木経惟の真相」の特別企画として収録されたもの。たしかに、現物を見ると、モノクロながら赤塚不二夫がモデルと全裸でからみセックスをしている写真がはっきりと写っている。  これはいったいどういう状況で撮られたのか。その現場の裏話が「噂の真相」本誌82年8月号におさめられていたので、記事をところどころ引用しつつ、ここからはその衝撃的な過去をご紹介していきたい。ちなみに、現場レポートを書いたのは、「ほとんどビョーキ」の風俗レポートで一世を風靡した山本晋也カントクである。  時はまだヘアヌード解禁前。男優が赤塚不二夫であるという以前に、まず"本番"をプロのカメラマンが撮るという時点ですでに衝撃であった。実際、山本晋也カントクも、レポートの序文のなかで〈ボクは200本以上のポルノちゃんを撮ってるわけスけど、モノホンのポルノは知らんわけですよ。(中略)いつも前バリでアソコを隠してる女優さんばっかりでしょう〉と綴っている。  そんな、時代を先駆けた衝撃の現場は最初から不安要素を抱え込み始まったという。当然ながらポルノ男優としての現場は初体験の赤塚不二夫。心配と興奮のあまり、撮影前から「心配なのボーク、ほんとはね、昨夜さァ、止むに止まれずねェ、しちゃったのねェ」「だってサァー、心配だったンだモン、立たなかったら困るでしょー、だから前の晩にたしかめたかったンだよねェ」と語ったという。  そんな状態で大丈夫だったのだろうか? しかし、そこは今まで紹介してきた通り、人前で裸になることには慣れている赤塚不二夫。アラーキーの提案で女優をパイパンにしたりするうちに先生のモノはしっかり仕事ができる状態に。そして、そこではこんな会話がなされたという。 〈もしかすると、タモリさんのより大きいかもしれないのだ! というのも、タモさんのも立派でして、双子みたくセンセーのと似ておるのですよ。 「センセー、大きいスよ、ボクもセンセーの立ってるの初めて見たスけど、タモさんのより大きいみたい!」  もう、ニコニコしちゃうのです。タモさんのより大きいといったら、 「タモリいィ、あいつのより大きいよォ、ボクのは、アイツのはさァ......」とタモさんのアレのゴシップ。こっから先は、ちょっといえない、ボクもタモさんのをいろいろ知ってるけど、男は口が固くないと友情に傷がつく、クローズ〉  タモリの「アレのゴシップ」とは何なのだろう? 先日、『ヨルタモリ』(フジテレビ系)でタモリが包茎手術で有名な上野クリニックのCMのパロディコントをやっていて話題になっていたが、もしかして......。  これ以上はタモリの名誉に関わるので置いておいて、先を読み進めていこう。タモリの下半身事情を暴露した後、いよいよ本格的な性行為に。赤塚不二夫のテクニックはこれいかにと思うと、意外(?)にも上手いらしい。赤塚不二夫がクンニに励むなか、山本晋也カントクが女優にインタビューしたくだりはこのように描写されていた。 〈「どう、センセーの上手かい、ナメ方は?」  これはナイショで、耳もとに囁くボク。 「うまーい、今、黙ってて、イキかけて...」  またもや、コクンとそっくり返る。いきかけてるって、チクショー〉  そして、女優をアクメまで導いた後は、遂にこのような展開に。 〈不二夫ちゃん、のしかかり挿入したですよ。いいッスねェ、男と女の真剣なサマは〉  なんと、赤塚不二夫、最後まで仕事をやり遂げたのである。周囲を人に囲まれた状態で事に及ぶのは緊張するもので、本職のAV男優でも勃たないときも珍しくない。そこをきちんとやり遂げるとは、さすが「ギャグ漫画の王様」である。  ここまででも十分すごいが、実はこの話には後日談もある。なんと、この1年後には、「週刊宝石」83年7月8日号(光文社/休刊)で、自分の恋人とアラーキーの恋人を交換してお互いの彼女のヌードを撮影した、スワップ熱写グラビアまで掲載しているのだ。赤塚不二夫、恐るべし。  手塚賞のギャグ漫画部門として74年から始まった新人ギャグ漫画家たちの賞である「赤塚賞」には90年以来入選となる作品が選ばれておらず、ギャグ漫画の低迷が長く叫ばれている。近い将来、赤塚不二夫のように、作品でも、スキャンダラスな私生活でも、両方で読者を楽しませてくれる規格外な作家が生まれてくれることを願って止まない。 (田中 教)

スヌープ・ドッグ、マリファナをテーマにしたウェブサイトを開設

スヌープ・ドッグが大麻をテーマにしたライフスタイルサイトを開設するという。マリファナ好きを公言しているスヌープはテッド・チャンとタッグを組み、マリファナを意味するスラングをもじったメリー・ジェーンというサイトを開設した。大麻とポップカルチャーの中心としてのメディア基盤とされた同サイトでは、マリファナ関連商品や販売薬局の位置情報などが提供されることになるようだ。「デフラワード」と名付けられたセクションでは、マリファナを愛用する革新的な人々に迫るインタビューが掲載されるという。 このサイトについてスヌープは「潜んでいる人がたくさんいるだろ。だから俺たちはその人たちがカミングアウトしてただマリファナを吸うのが好きだと認める機会を提供したいのさ。俺はスヌープ・ドッグ、マリファナを吸う人間であり常習者だってね」「俺にとってはこれは平和的な状況なんだ。大麻があることでたくさんの素晴らしいことが起こるのを目にしてきたからね」「俺たちは大麻界の百科事典的存在になるのさ」と展望を語っている。 このサイトにはほかにもマリファナ好きとして知られるセス・ローゲンやマイリー・サイラスらも関与しているようだ。サンフランシスコで開催されたテックチャーチ・ディスラプトでこのプロジェクトを発表したスヌープは、10月の公式オープンに先駆け1日420ユーザーを受け入れることを同時に明かしている。

朝ドラ『まれ』はなぜ批判されたのか? 映像と脚本からその真価を検証

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『まれ』公式サイトより

【リアルサウンドより】  NHKの連続テレビ小説(以下、朝ドラ)は、近年もっとも注目されているドラマ枠だ。それだけに毎回、激しい賛否が巻き起こるのだが、今週最終回を向かえる『まれ』は、主に物語のわかりにくさと登場人物の一貫性のない行動が、激しい批判にさらされた朝ドラだった。  しかし、『まれ』は本当に不出来な作品だったのだろうか? そして何故、これほどまでに批判されたのか? 映像面と脚本面から総括してみたい。  『まれ』は、能登で暮らす夢嫌いの少女・津村希(土屋太鳳)が、パティシエ(菓子職人)を目指す物語だ。物語は1994年からはじまり、2000年代を経て、2015年の現在に辿り着く。『ごちそうさん』『花子とアン』、『マッサン』と戦前・戦中・戦後(昭和)という時代を描く物語が三作続いた朝ドラだが、2013年の『あまちゃん』以来、久々に登場した現代が舞台の作品だ。  『まれ』で秀逸なのは、パソコンや携帯電話などといった00年代以降、誰もが安価で使えるようになったデジタル機器の描写である。例えば、希の弟子である沢沙耶(飯豊まりえ)は、希が菓子を作る場面をスマートフォンで動画撮影する。おそらくこの場面は、若い人ほど当たり前の行為として受けとめただろう。実際、こういう形で動画撮影を利用することは多い。しかし少し前だったら、もっと異様なシーンとして映ったはずだ。  これはあくまで一例だが、こういったデジタル機器の扱いから見える現代の切り抜き方が実に秀逸なのだ。これは劇中の映像にも強く反映されている。  『まれ』を見ていてもっとも驚いたのは小型カメラを駆使していると思われる映像だ。特にそれは室内のシーンにおいて発揮されており、ホームドラマではやり尽くされた食卓を家族が囲む場面も、レイアウトに凝った躍動感のある映像となっている。  こういった斬新な映像はNHKドラマの伝統で、『あまちゃん』でもすでに試みられていたものだ。しかし『あまちゃん』の映像が、斬新であるがゆえに作り手の意図を超えて、強い意味を持ちすぎていたのに対し、『まれ』の映像は女子高生がスマホで撮影したような気軽さがあり、その気負いのなさが、より現代的に感じる。  つまり、かわいい女の子が最先端の映像で綺麗に撮られているという意味において優れたアイドルドラマだった。というのが、『まれ』に対する最大の評価だ。  では、物語面ではどうだったのか?  朝ドラは、週6日×15分×6か月という長きにわたって放送されるために登場人物も多く描かれる要素も多岐にわたっているが、ほとんどの作品は女の一生を描いたものとなっている。  『まれ』も幼少期からはじまり、学生時代、就職、恋愛、結婚、出産といった、女性が人生で出会う様々な出来事が描かれている。  近年では様々な女性が登場しているが、朝ドラヒロインは基本的には明るくまじめな優等生だ。希も「夢嫌い」と口では言いながらも、パティシエという夢に向かっていく。  ただ、希の行動は紆余曲折が激しく、公務員をやめてパティシエになったかと思ったら、結婚相手の都合で仕事をやめて女将の修行をしたり、自分の店をはじめたかと思ったら、妊娠して産休に入ったりと、すべての行動が行き当たりばったりに見える。また、本来丁寧に描くべき場面を省略してしまうので、一話だけ抜き出すと、実に中途半端な作品に感じてしまう。  これが脚本上の狙いなのか、力量不足による構成力の不備なのかが、わからないため、多くの視聴者は序盤でイライラしてしまい、その印象が最後まで払拭できなかったことが『まれ』に対する批判の根底にあるのだろう。  実は、僕も当初は脚本を評価しておらず「お話はダメだが太鳳ちゃんがかわいいからOK」という、やや消極的な動機でドラマを見ていた。  そのため、録画で2~3週分をまとめてみるということを繰り返していたのだが、まとまった話数を連続で見ると、中途半端に見えた脚本が、実は入念に伏線を張ったドラマだとわかってくる。同時に行き当たりばったりにみえた一見わかりにくい人物描写こそが、脚本の篠﨑絵里子が描きたかった「人間の奥行き」だと気付かされる。  例えば、希の師匠となる池畑大悟(小日向文世)は最初から最後まで口が悪く、希に対して辛辣だ、しかし、ずっと見続けていると辛辣な口調の裏側にある弟子としての希への期待や思いやりが透けて見えてくる。それは他の登場人物も同様で、最後の一か月となる9月の放送では、今まで散りばめてきた人物描写の伏線を回収している。  その意味でも実に見事な脚本である。しかし、その力量が一般視聴者に理解されなかったのは、朝ドラというフォーマットの限界ではないかと思う。  近年の朝ドラは、『純と愛』の遊川和彦、『あまちゃん』の宮藤官九郎、『ごちそうさん』の森下佳子といった民放ドラマで活躍した脚本家を積極的に起用することで、15分の中に民放ドラマ一時間分の密度を持ち込むようになってきた。  『まれ』も、また物語の密度が濃く展開が速いのだが、人物や物語の一貫性がないように見えてしまう副作用が生まれてしまった。  朝ドラは毎日放送されているため、即座に感想がSNSに書き込まれて盛り上がる。しかし、その弊害として脚本家が起承転結でいうと承や転として書いた話が、結として受け止められてしまうことが多い。  篠﨑の脚本は、6か月を通して起承転結を組み立てたものだ。しかし、物語が終わってから語られる映画とは違い、リアルタイムの視線に常にさらされ続けているために全体を通しての評価が語られにくいのが、テレビドラマの難しさである。 ■成馬零一 76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)がある。

嵐・大野智が“同棲報道”否定も、不誠実すぎ!?「人としてクズすぎる」の声も……

オタクに"なるほど"面白い!オタクニュース・ポータル「おたぽる」より

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嵐・大野智
 18日発売の写真誌「フライデー」(講談社)で元女優との同棲愛が報じられた、人気アイドルグループ・嵐の大野智が、同棲を否定するとともに「友人の1人。お付き合いもしてません」と熱愛を否定した。19日から開催中の同グループの野外イベント『ARASHI BLAST in Miyagi』の開演前の会見でのことだったが、大野は自身の軽率な行動でファンを悲しませたと謝罪し、元女優とは「もう会うことも一切ございません」とも。 「『フライデー』の直撃取材には、『自分、何も言えないっす』と明言を避けていましたが、ウワサになった女性をバッサリ切り捨てることに決めたようですね。本当にただの友人なら、『もう会うことも一切ない』なんて言う必要はないのですが……。売れっ子アイドルの非情さを示せた格好です」(スポーツ紙記者) 「おたぽる」で続きを読む

話題沸騰! 芸術と評価されている「春画」はやっぱり当時のAV、エロマンガだった? こんなエグい作品も

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「美術手帖」2015年10月号(美術出版社)
【本と雑誌のニュースサイトリテラより】  9月19日から東京・永青文庫で始まり、連日大盛況とのニュースが報じられている「春画展」。  今の日本人の観点から見ると春画は「単なるいかがわしい絵」といったイメージで捉えられがちだが、2013年にロンドンの大英博物館で行なわれた「春画――日本美術の性とたのしみ」は、なんと9万人近くの来場者を記録し、そのうち半分は女性であったという。 単なる「エロ絵」ではなく、芸術としても世界で注目を集める「春画」の魅力とはいったいなんなのか? この機会に簡単に紹介してみたい。  まず、春画が世界で「芸術」として見られる理由、それは春画を描いている絵師たちが超一流の浮世絵師であったということがあげられる。日本史の教科書でも出てくる菱川師宣、喜多川歌麿、鈴木春信など、有名絵師たちはほぼ全員が春画を描き残した。これがいかに特異なことか、「美術手帖」(美術出版社)15年10月号のなかで、日本近世文学を専門とするロンドン大学教授のアンドリュー・ガーストルはこう語る。 「キリスト教の影響で中世以降、一流の画家が性表現を積極的に描くことはなかった。一方で春画には質の高い、一流の美術品が残されているのが非常に特異な点です」  また、一流作家がこぞって春画を描いたのには、宗教上の理由の他にもう一つ理由がある。国際浮世絵学会の会員で浮世絵展の監修などにも関わる車浮代氏が著した『春画入門』(文藝春秋)には、以下のような記載がある。 〈ここが今の感覚と大きく違うところですが、現代では、エロティックな作品や商業物は低俗と見られがちなのに対し、春画錦絵に関しては全く逆でした。絵師も彫師も摺師も「版元から春画の依頼を受けてこそ一流」とみなされたのです。  その証拠に、現在名が知られている浮世絵師たちは、わずか十ヵ月弱の作画期間で消えた写楽を除いて、全員が春画を手がけています〉  なんと、当時の絵師たちにとって、春画の依頼が来るということは誉れなことだったのである。  とはいうものの、春画は題材が題材であるがゆえに幕府から規制を受ける。とくに、八代将軍・徳川吉宗の時代には春画は発売禁止のお触れを受けてしまう。しかし、皮肉にもこのことが逆に春画の芸術性を高めることにつながっていく。  当時、一般に流通する普通の浮世絵は「贅沢禁止令」により使用する色数に制限があったり、時事問題は扱わせないなどの幕府による検閲があったのだが、もとより発売を許可されておらず地下で秘密裏に取引される春画は、幕府の検閲による色数制限や題材の制限も関係なく、豪華さと芸術性を極めていく。 〈検閲を受けないことを逆手に取って、色数や画題の制限を全く無視した贅沢な作品が作られることになります。後には二十色以上も摺り重ねたものや、金・銀・雲母摺りにきめ出し(エンボス加工)などを施した、一流の彫摺職人による技術の結晶が、高額で取引されました。また、それだけの作品を制作するには、絵師も一流でないと作る価値がありません〉(『春画入門』より)  ここで、一流の絵師たちに春画の依頼が集まってくるという、先ほどの話につながってくるのである。  では、そのようにしてつくられた春画は民衆たちにとってどのようなものだったのだろうか? それは現在のエロ本のように一人で楽しむ"オカズ"としての役割のみならず、嫁入り道具に用いられるような"おめでたいもの"としての役割も担っていた。 〈大名家や裕福な商家の娘の嫁入り道具として、肉筆の春画絵巻を持たせる習慣がありました。これは春画を観ることによって房中術を学び、性欲を奮い立たせ、子づくりに励むようにとの親心です。  また、春画は勝絵とも呼ばれ、お守りの役割も持っていました。商家は火災除けのおまじないに蔵に春画を置いたり、虫除けに長持ちに入れることもあったようです。武士は武運長久を祈って具足櫃に春画を忍ばせました  この慣習は日露戦争の頃にも残っており、弾除けのまじないに、ヘルメットの裏に春画を折り畳んで仕込んでいた兵士もいたと聞きます〉(『春画入門』より)  前出の「美術手帖」では、グラフィックアーティストの枠を超え60~70年代サブカルチャー全体に影響を与えた画家の横尾忠則が春画についてこんな思い出を語っている。 「死んだ母の躯の胴巻きから、汗でぐっしょり濡れた4枚の春画が出てきました。嫁いだ日から胴巻きの中にずっと仕舞われていたのでしょうか」  横尾忠則の証言は、かつて日本人にとって、春画はそれだけ親しみ深いものであったということの証左なのであろう。  また、春画には「笑い」の要素も大事だった。春画は「笑い絵」などと呼ばれることもある。その笑いのもっともたる例が「パロディ」の多用だ。忠臣蔵や千本桜のような歌舞伎から、伊勢物語などの古典、当時のベストセラー本まで、ありとあらゆるものがパロディのネタにされる。とくに、月岡雪鼎は、そういった作風を得意とした作家であった。 〈雪鼎が手がけた春画本はパロディものが多く、『女大帝楽宝開』(宝暦5〈1755〉年頃)は、良妻賢母を目指す女性の心得を書いた、『女大帝宝箱』(享保元〈1716〉年)が元本となっています。他にも『艶道日夜女宝記』(刊行年不明。明和年間)は、按摩、漢方、鍼灸等、東洋医学全般の治療法を示した当時の健康本『医道日用重宝記』(本郷正豊著 元禄5〈1692〉年)のパロディ(中略)  雪鼎の手にかかると、全てが性生活の手引書となってしまいます。人生に於いて性生活がいかに大切か、どうすれば異性の気を引けるか、閨房術や性具の使い方など、どれもとんちが効いていて、大変ユニークな作品です。元本と比べて読むと面白さが倍増します〉(『春画入門』より)  まるで、『世界の射精から』『それいけ! パイパンマン』『マゾの宅急便』など、流行ものに乗っかって次々と秀逸なパロディ作品を生み出してユーザーを笑わせてきた現代のAV業界のようだ。もしくは、パロディに面白さを見出す方向性は、現在の二次創作文化の源流ともいえるかもしれない。  また、現代のエロ文化と春画に共通性を見出せる点は他にもある。最近のエロマンガは、ボーイズラブの隆盛をはじめ、"男の娘"などのトランスジェンダー、果ては"触覚と人間"など人ではない生物(地球上に存在しない生物含む)との交わりなど、あらゆるマッチングで作品が描かれているが、それらは春画でもすでに描かれている。  歌川國貞『春色恋の手料理』での男と男の交わりをはじめ、歌川豊國『絵本開中鏡』では骸骨と人間、喜多川歌麿『歌満くら』では河童と人間、そして有名な葛飾北斎『喜能会之故真通』では大ダコと人間、もうこれ以上のマッチングはどうやっても思いつかないのではというほど。我々日本人の考えることは江戸時代から変わらないということなのだろうか......?  さらに、歌川国芳『妖怪見立陰陽図』にいたっては、頭部に性器・股間に顔がついた"男根人間"のような化け物まで登場する始末。現代の多様な性表現を見慣れた目で見ても、ちょっと衝撃を受けてしまうような作品まで存在している。  先ほども述べたように、当時の人々はそういった作品群を皆で笑いながら鑑賞した。幕末に来日した西洋人たちはその姿に驚いたという記述も残っている。  開国から150年あまりの時が経ち完全に西洋化された現代の日本人の感覚では、皆で春画を見て笑うというのはちょっと理解しがたいが、銭湯では混浴が当たり前、男女とも暑ければ上半身ハダカでそのあたりをウロウロするのもさほど珍しい光景ではなかった当時としては、皆で春画を見て笑い合うという感覚も至極当然のものだったのであろう。  時代劇や大河ドラマでは味わえない、ちょっぴりアングラな江戸ロマンを味わいたい方は是非とも春画に触れてみてはいかがだろうか? きっと、その表現の多様さ、豪奢さなど、現在の日本人はあまりにも違う当時の日本人たちの感性に驚かされるはずだ。 (田中 教)

アリアナ・グランデ、ドーナツ店での出来事を謝罪

アリアナ・グランデが今年7月にドーナツ店で起こした出来事について謝罪した。ドーナツ店に陳列されていた商品を舐めたり、アメリカが嫌いといったような発言をしたりしたことで大問題となっていた一件について、アリアナは自身の行動がとても不快なものであったことを認めた。 アメリカの朝の情報番組『グッド・モーニング・アメリカ』に出演したアリアナは「まず最初に私のあの行動はとても不快なものであったことを謝罪したいわ。言い訳なんてないし、正当化するつもりもないの。1人の人間として、私たちが言ったりやったりすること全て意味があるとは言えないわ」「そうやって人間は成長するもので、今回の事で私は愛する人達や私の事を信じてくれている多くの人達をがっかりさせてしまったときの気持ちを学んだし、それは本当に苦しかったわ」と語った。 事件が起きたカリフォルニアにあるウルフィー・ドーナツのオーナーであるジョー・マリン氏は当時、アリアナの行動について「アリアナは店を見回して、2つのドーナツを舐めたのを私は見たんです。それから彼女はショーケースの上段にあった粉砂糖がかかったドーナッツがのっている別のトレーのところに行きました。だから私は彼女の口の部分と粉砂糖がかかったドーナツにカメラをズームしてみたんです。彼女はこのドーナツを舐めてはいませんでしたが、唾を吐きかけていました」「アリアナはドーナツの1つに唾を吐きかけたあと、彼女が付き合っている男性(ダンサーのリッキー・アルヴァレス)にもそうするようにけしかけ、彼も同じように唾を吐きかけていました。彼らは店から追い出されていましたね」と話しており、店員に向かっても失礼な態度をとっていたことなどを明かしていた。

速水健朗が考察する、『進撃の巨人 後篇』で描かれた「壁」の意味

【リアルサウンドより】  劇場版『進撃の巨人』前篇(「ATTACK ON TITAN」)は、謎の巨人たちが壁の外から侵入してきて人類の日常を破壊する怪獣映画だった。  これが近未来なのか、過去なのか、そのどちらでもない架空の場所なのか、始めはその世界観を推測しながら観ることになる。  人々が市場でものを売り買いしている場面からは、市場経済が機能していることがわかり、人々が逃げ込む宗教施設が存在するということからは、宗教も存在するということがわかる。巨人に立ち向かう軍隊と、敵に対抗する技術(起動装置)も存在する。壊れた壁の修復という作戦遂行のために集められた新米兵士たちは、出稼ぎ、口減らし、孤児、シングルマザーであったりと、それぞれに訳ありだが、その理由は前近代的なものと現代的なものが混ざっていておもしろい。こうした具合に、世界観の細かい部分が次第に見えてくる。  ただし、前篇はあくまでもグロテスクな巨人が人を喰らう怪獣、または巨大ゾンビ映画だった。特撮やアクション、グロテスク描写などが好きであれば、どうやら楽しめる内容であるようだ。「どうやら」という注釈付きの評価をするのは、僕個人は、その手の映画が苦手だからである。  それが、後篇になると打って変わり、壁の内部の闘争が描かれるようになる。前篇が正統派怪獣映画だとすると、後篇は、人間対人間の闘争が描かれるポリティカル・サスペンスだ。内容の変化に伴い、読み解くべき要素が急に増える。  巨人の襲撃に遭った人類は、3重の壁を築き、その中で限られた資源を分け合って生きることになった。かつてばらばらだった人間社会は、巨人という共通の敵ができることでひとつの共同体として結束する。  人々の争いの種なんて知れている。人種、宗教、国境を巡る紛争、経済イデオロギーの対立などだ。それらを巡る争いは、築かれた壁の内側では消失する。人々は限られた土地、食糧、資源を分け合って生きるようになった。つまり、この世界ではそれらを平等に分配する機能を持った中央集権的な政府が存在し、それはうまく機能している。
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 後篇の冒頭で登場する言葉「特定知識保護法」は、書物を所有できなくするための法律のようだ。人々は、100年かけて書物をこの世から葬った。この世界の文明は、巨人によって滅ぼされたのではなく、壁の中で人間が、自主努力で捨てたのである。「知識、科学、技術」は、人のいがみ合いや争いの元であるとされた。政府はこれらを法と権力で規制した。  権力への不満は、外敵である巨人への恐怖心に向かうことでごまかされている。実際、こうした外敵をつくり、不満をそらすやり方は、一党支配、独裁制の国ではよく用いられるものだ。  こうした壁の内側の統治状況が理解できたところで、その中央政府の政治体制にたてつくクーデターの物語が始まる。  そのリーダーは、前篇では巨人との戦いにおける最大の功労者として登場したシキシマ隊長(長谷川博己)である。彼は、巨人という外敵を利用して自らの権力の正統性を付与するというマッチポンプの構造を告発し、反旗を翻す。それが後篇の物語だ。 「狼を怖がって柵の中にいるのは家畜」  つまり、壁とは巨人から身を守るためのものではなく、家畜の自由を奪うための檻である。それに気がついているシキシマは、主人公エレン(三浦春馬)にそれを説き、自ら率いる反乱軍に誘うのだ。  主人公のエレンは、この世界のマッチポンプの有り様に関しては、多くの知識を有していない。ただ、壁の外にある世界に関心を持つ、自由への憧れを秘めた存在である。   本来、共闘が可能なはずのシキシマとエレンだが、二人は対立する。シキシマは、内側の壁を破壊し、巨人たちを内部に引き込むことで、政権の崩壊を目論んでいる。家畜を目覚めさせるためには、多くの犠牲が必要であると考えているのだ。一方、エレンはそういったエリートの傲慢さが許せないのだろう。二人は、対立する。また、互いの間にいる女・ミカサ(水原希子)の存在も、いがみ合いの素となっている。「壁の破壊」を「コロニー落とし」に「ミカサ」に「ララァ」 を代入すると、もしかしたら理解の助けになるかも知れないが、まあ余計なお世話だろう。
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 まだ物語が続いている原作とは別の形で、「巨人とは何か?」という謎に答えを出さなくてはいけなかったという「劇場版」の制作環境において、「壁」の内部における人間同士の政治を本筋にした本作は、ここまではかなり成功しているように思える。   その成功は、「壁」を多重に解釈することで生み出されている。第一義には、巨人対策のための防壁。だがそれは、文明の発達を妨げる壁となり、エレンのような若者たちにとっては、好奇心を押しとどめる檻でもあった。そして、権力側にとっては、恐怖を煽り人心をコントロールするための道具が壁なのだ。巨人から の防備という名目の壁によって市民の自由を奪い、家畜化したのだ。  前篇が巨人の映画であるなら、後篇は壁の映画だ。壁を多重に描くことで、権力構造と描くべきドラマがいくつも生まれた。ここまでは成功している本作だが、その先は残念ながらポリティカル・サスペンスとして成功しているとは思えなかった。   壁の映画であればこそ、その組織や権力の有り様を、きちんと描く必要があったのではないか。例えば、権力の存在が、クバル(國村隼)が長官を演じる軍隊組織という形でしか描かれない。僕としては、壁の最も内側で生活している人々(他の人々よりも、やや裕福だったり?)の生活や、そこに建っているであろう政府の建造物が見たかった。そういった描写を通じて統治のスタイルや思想が伝わってくるような映画(『ブレードランナー』とか『ロボコップ』など)が好きだからだ。  権力と壁。この対比を考える上で、思い浮かべるのは村上春樹がエルサレム賞を受賞した際の「卵と壁」のスピーチだ。「もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ」と(春樹は、このスピーチを分離のための巨大な壁を建築した国家イスラエルで行った)。おそらく、シキシマの隠れ家として登場する「白い部屋」は、春樹の代表作『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で描かれたパラレルワールドを意識して描かれたものだろう。この場面の持つ意味も、いまいち伝わりづらかった。  物語としては、シキシマのクーデターが、エレンたちの活躍でごく初期にあっさりつぶれてしまうことも疑問だった。これによってシキシマのカリスマ性や思想性にも疑問符が付いてしまった。このクーデターは、もっと物語の中核に置かれるべきだった。  まあこれは、巨人同士のバトルなんていらないよねという『進撃の巨人』を観に行く人間としては、やや特殊な部類の人間の批評でしかないが。  人と壁を巡る物語。登場人物の心の中にも、心の壁が築かれている。エレン視点では、壁の向こう側を見つけようとする青春ドラマ。シキシマ視点では、自分の中の壁に気づく「自分探し」のドラマだ。ミカサの中の壁が描かれなかったことは悔やまれる。  こうした「壁」の解釈で見えてくるものが違ってくる。観る人がどれだけ壁の意味を見つけられるか。「バカの壁」を試すような作品でもある。 ■速水健朗 コラムニスト、ライター。著書『フード左翼とフード右翼』『1995年』ほか。メディア出演『TIME LINE』(TOKYO FM隔週火曜)、『あしたのコンパス』(フジテレビ「ホウドウキョク24」月曜)、『シューイチ』(日本テレビ)、『文化系トークラジオLife』ほか。 ■公開情報 『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』 全国東宝系にて超大型ロードショー 原作:諫山創(講談社「別冊少年マガジン」連載中) 監督:樋口真嗣 特撮監督:尾上克郎 脚本:渡辺雄介 町山智浩 音楽:鷺巣詩郎 扮装統括:柘植伊佐夫 出演:三浦春馬 長谷川博己 水原希子 本郷奏多 三浦貴大 桜庭ななみ  松尾諭 渡部秀 水崎綾女 武田梨奈 / 石原さとみ / ピエール瀧 國村隼 (C)2015 映画「進撃の巨人」製作委員会 (C)諫山創/講談社 公式サイト→http://shingeki-seyo.com/ 公式Facebook→https://www.facebook.com/shingekimovie 公式Twitter→https://twitter.com/shingeki_movie

博多華丸が“娘の目は偽装”発言! 将来的に、レディー・ガガと共演の可能性も?

オタクに"なるほど"面白い!オタクニュース・ポータル「おたぽる」より

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『さくら学院」公式ページより。
 16日、都内で行われた『福岡よかもん市場・福岡よかとこ旅行券』のPR会見に、福岡県出身の博多華丸・大吉が登場。記者からの囲み取材では、最近発覚し話題となった、アイドルグループ「さくら学院」に所属する、博多華丸の次女・岡崎百々子に関する質問が飛び交い、「目が似ている」と記者から指摘されると、「(娘は)ものすごく目を見開いて撮ってますね。偽装です、偽装」と、照れ隠しなのか冗談を交えて笑いを誘った。 「2012年に放送された『アメトーク』(テレビ朝日系)では、『娘デレデレ芸人』として出演し、娘への溺愛ぶりを披露していました。会見では『共演は自宅だけ』と否定していましたけれど、今後、岡崎との共演が実現する可能性はありそうですね。業界が放っとかないでしょう」(芸能関係者) 「おたぽる」で続きを読む

佐野研二郎だけじゃない、師匠の佐藤可士和にもパクリ疑惑の過去! クールジャパンロゴにコシノジュンコが激怒

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佐藤可士和オフィシャルサイトより
【本と雑誌のニュースサイトリテラより】  東京オリンピックエンブレム白紙撤回後も、いっこうに収束する気配のない佐野研二郎のデザイン盗作問題。  そんななか、サノケンが師匠と仰ぐ広告デザインの第一人者・佐藤可士和が、2016年5月に行われる伊勢志摩サミットのためのロゴマーク選考委員座長に就任するとのニュースが報道された。  佐藤可士和といえば、ユニクロ、楽天、TSUTAYA、森永製菓の「ウイダーinゼリー」など、普段の生活でも目にする数多くの商品や広告を手がけたトップデザイナー。サノケンも佐藤可士和がキリンビールの発泡酒「極生」を手がけていたときは、彼の下でデザイナーとして働いていた。  そんな輝かしい経歴をもつ、師匠・佐藤可士和だが、「女性セブン」(小学館)15年9月24日号によれば、彼も過去に弟子のサノケン同様パクリ騒動を起こしているらしい。  事件は、11年、佐藤が「クールジャパン」政策のロゴを手がけたときに起こった。元ネタとして告発したのは、パリコレへの参加など華々しい経歴をもつファッションデザイナーのコシノジュンコであった。  当時、「産経新聞」11年9月18日朝刊では以下のように報道されている。 〈アニメやファッションなど日本発の文化産業を海外に売り込む政府の「クールジャパン」戦略の一環で、知的財産戦略推進事務局が発表したロゴマークが、日本オリンピック委員会(JOC)のエンブレムとの類似性を指摘されていることが17日、分かった。  ロゴマークはユニクロのロゴマークなどを手掛けたアートディレクター、佐藤可士和さんのデザイン。公募で集まった99案から絞り込み、野田佳彦首相が最終判断した。  ところがロゴを発表した13日以降、同事務局に「JOCのエンブレムに酷似している」との指摘が寄せられた。似ているとされたのはコシノジュンコさんがデザインしたもので、JOCは対策を協議するという〉
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左・佐藤可士和の「クールジャパン」のロゴ/右・コシノジュンコのJOCの第二エンブレム
 類似性が指摘されたのは、1993年にコシノジュンコがデザインしたJOCの第二エンブレム。98年の長野冬季オリンピックに向けての商業ロゴとしてつくられたものだった。  前出の「女性セブン」によれば、コシノジュンコは11年に騒動が勃発した当時、大変に憤り、以下のようなエピソードもあったという。 〈あるパーティーで、コシノさん本人が、時の首相だった民主党の野田佳彦氏がクールジャパンのバッジをつけているのを見て大激怒。“これはどういうこと?”と大変な騒ぎになったのです〉  この件を受けて、筆者も二つのロゴを確認してみた。日の丸の左側に躍動感を表現したと思われる“尾”があつらえられている点はどちらも共通している。佐藤可士和の方は“尾”が9本、コシノジュンコの方は“尾”が11本という違いこそあるものの、パッと見はよく似ている。少なくとも外見だけ見ると、パクリという声があがっても仕方がないだろう。  では、ロゴをつくるにあたっての「考え方」はどうか? サノケンの一件では、エンブレムについて「(リエージュ劇場のロゴとは)考え方がまったく違う」として、パクリではないと釈明していたのが印象的だった。しかし、この佐藤・コシノの一件は「考え方」までよく似ている。  コシノジュンコはデザインコンセプトについて「動く太陽を表すことで、躍動するこれからの日本を打ち出した。シンプルで強い印象を心掛けた」(「読売新聞」93年10月21日朝刊)と説明。  一方、佐藤可士和は「日本が前へと進んでいく瞬間を押さえた躍動感のあるデザイン(中略)「次の新しい日本」へ向けたもの」(「Fashionsnap.com」11年9月13日配信)と、東日本大震災からの復興を背景としたロゴメッセージを発表している。ようは、両方とも「日の丸の前進」を表す“尾”が「日本の未来」を象徴する記号として使っていたというわけだ。  もっとも、この、クールジャパン政策ロゴマークとJOC第二ロゴの件は、前述の通り新聞沙汰にまでなるが、サノケン事件のように社会問題化することはなく、うやむやのうちに収束していったので、これが本当にパクリだったのかどうか、真相は藪の中だ。  ただ、かつてこのような問題を起こした人物が、サノケン騒動冷めやらぬこの渦中にサミットロゴマークという大仕事に携わって大丈夫なのだろうか。  9月2日に開かれた伊勢志摩サミットロゴマーク選考のための第一回会合では、『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)『ワイドナショー!』(フジテレビ系)などテレビ出演も多い社会学者・古市憲寿が「プロセスを透明にして、人々が納得できるロゴを選びたい。東京五輪と同じような“炎上”騒ぎは絶対すべきではない」と発言した。佐野研二郎エンブレム撤回による損失は5700万円にもおよび、国民から大変な批判を浴びている。同じ轍は二度と踏んではならない。  いや、しかし考えてみれば、そもそも一般の国民の目にはほとんど触れないであろうサミットのロゴにそんな一流デザイナーや有名な社会学者を呼ぶ必要があるのだろうか? 佐藤可士和とコシノジュンコの一件にしても、一時話題になったもののすぐに収束したのは、クールジャパン政策のロゴ自体がそもそも一般の国民の目に触れるようなものではなかったからだ。血税の無駄遣いはこういうところから是正されていけば良い。今回の騒動ではあまり議論の対象になっていないが、公共のイベントに関するロゴマーク制作のあり方そのものにも今後はメスが入っていくことを期待する。 (井川健二)

リアム・ギャラガーと元妻、金銭的な争いでそろって出廷

リアム・ギャラガー(42)と元妻ニコール・アップルトンが16日(水)、金銭を巡る裁判にそろって出廷した。1年以上前に破局した2人は、ロンドンのセントラル・ファミリー・コートで行われた未公開の審問に出席した。証拠を検証するマーティン・オドワイヤー裁判官がこの訴訟ついての内容の公表について制限を設けているものの、ニコールが訴えを起こし、2人は金銭的なことで争っているようだ。まもなく判決と同時にその詳細が明らかになると見られている。 2008年のバレンタインデーに結婚し、14歳になる息子をもうけた2人は、アメリカ人ジャーナリストのリザ・ゴルバーニとの隠し子、さらには現在共に暮らしている元マネージャーのデビー・グィザーとの浮気が発覚したことで2013年に破局している。ニコールがリアムが「全国紙が発行される前に浮気を認めていた」と発言した後、昨年4月に離婚仮判決が下されていた。 リアムはリザとも2歳になる隠し子の養育費を巡る裁判を繰り広げていた。