
日本の尖閣諸島購入で一気に火がつき、中国全土へと広がった反日デモは、一時、日中国交正常化以来最大といわれる規模にまで達したものの、次第に収束へと向かいつつある。
そんな中、くすぶる人民の反日感情を刺激してビジネスへと結び付けようという動きが活発化している。
旧暦8月15日(2012年は9月30日)の中秋節に、親戚や知人と月餅を贈り合う習わしがある中国では、目下、月餅商戦真っただ中だ。そんな中、広西省のある菓子店が、日本への罵詈雑言を書き込んだ月餅を販売し、話題になっている。
問題の“反日月餅”は、1箱4個入りで、価格は500円前後。一見するとなんの変哲もない月餅に見える。しかしよく見ると、月餅の表面にはそれぞれ「小日本を恨め」「小日本を打倒せよ」「小日本を噛み殺せ」「小日本を追い払え」という穏やかならぬ言葉が刻まれているのだ。これが、このところの反日感情の高まりと相まってネット上で話題となり、全国から注文が殺到。これまでに、すでに数千個を販売したというから、菓子店の思うツボといったところであろう。
ほかにも、浙江省杭州市のスポーツジムが「体を鍛えて日本の尖閣侵略に抵抗しよう」をキャッチフレーズに宣伝活動を展開したり、陝西省西安市にあるホテルが「釣魚島ホテル」と改名したりと、企業が人民のナショナリズムの高まりに便乗する例は枚挙にいとまがない。デモ参加者の中には、理性を失って暴徒化する者も少なくなかったのとは対照的に、そんな彼らをしたたかにもカモにしてしまう中国の商売人たちは、ある意味、理性的にすぎる……。
今後は、こうした“愛国商法”に味を占めた中国企業の扇動による反日デモが、頻発することになりかねない!?
(文=牧野源)
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「秋葉原事件は止められた」加藤智大の手記から読み解く、現代社会の生きづらさ

『解 』(批評社)
2008年6月、秋葉原で起こった無差別殺傷事件は、7人の死者と10人の負傷者を出した。この事件から4年を経た今年の9月12日、東京高等裁判所は容疑者の加藤智大に対して死刑を言い渡した。
この判決に先行し、今年7月、加藤智大が執筆した手記『解』(批評社)が刊行された。これまでの生い立ちから、事件に至るまでの経緯、そして、事件を起こしてから考えたこと……。本書の筆致からは、事件に対して驚くほど真摯に向き合った容疑者の姿が浮かび上がってくる。事件から4年を経て、私たちは加藤智大の手記から、何を読み取ることができるのだろうか? 『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』(朝日新聞出版)の著書もある北海道大学の中島岳志准教授と共に、改めてこの事件を振り返ってみよう。
――7月に加藤智大の手記『解』が発売されました。事件を追い続けてきた中島さんとしては、本書をどのように読まれたのでしょうか?
中島岳志氏(以下、中島) 事件を起こしたことについて、彼なりに向き合っているように感じましたね。世間的な常識や遺族感情を考えると「なんだコイツは」と思う部分はあります。しかし、事件を起こした理由を探してしっかりとアプローチをしているなと感じました。けど一方で、ごまかしている部分もあるように感じます。
――どういった部分でしょうか?
中島 彼は、ネットで知り合った群馬の女性の元に宿泊し、彼女と強引に性的関係を結ぼうとするのですが、本書では「甘えて抱きついたものを犯そうと誤解」されたと書いています。法廷で彼女が証言している通り、彼は馬乗りになって腰を振っており、コンドームも持っていたんです。あるいは、自分の人生のこれまでの歩みや、友人との関係についても書かれていない部分が多い。おそらく、そのあたりは彼のぼかしたい部分だったのでしょう。
――事件の当初から、この原因として派遣労働や格差社会などが語られてきました。しかし、本書を読み、事件までの彼の行動やその思考を追っていくと、そういった要因は一面的なものでしかないのでは、と思えてきます。
中島 事件当時、原因としてリーマン・ショック直前の派遣労働の問題や、“つながり”に代表されるような社会的包摂の問題、ネット社会の問題などが語られました。それらは、決して間違っているとは思いませんが、論者が自分の語りたいことを、この事件に仮託して語っていたにすぎないように思います。だから、彼が裁判で証言した、ネット掲示板の「なりすまし」に腹を立てて事件を起こしたという理由に誰もが納得できない。論者の側が設定した物語が完結しない。だから、誰も秋葉原事件を論じなくなってしまいました。おそらくなりすましに対するイラ立ちが、彼の直接的な動機であることは間違いないでしょう。この動機を受けて、この事件を解釈しなければならないと思います。
――なるほど。本書では「孤立」を極端に恐れる加藤の心理が綴られていますね。中島さんは、この「孤立」をどのように解釈しますか?
中島 加藤は、地元の青森や仙台に中高からのゲーム仲間がいて、しかもメーリングリストでつながっている。友達と呼べる人がたくさんいたんです。もしかしたら、私が教えている学生の方が友達がいないかもしれません。しかも、勤務していた関東自動車の同僚を連れて、秋葉原ツアーを行ったり、伊豆にドライブに行ったりもしています。
――いわゆる“リア充”のような生活ですね。
中島 彼よりもコミュニケーションが下手で、友達がいない若者なんてたくさんいます。加藤はうまくやっている方なんです。なのに、彼は孤独だった。問題は友達がいないことではなくて、友達がいるにもかかわらず孤独だったことです。同じように、本書で加藤は「本音と建前」という言葉を何回も使います。現実は建前で、ネットは本音の場だと言っているんです。少し話は難しくなるんですが、これはジャン・ジャック・ルソーの問題に近いのではないかと思います。
――『社会契約論』を記したルソーのことですか?
中島 ルソーによれば近代人は内面と外観の世界の間にヴェールがかけられており、心と心でつながっていない状態です。私たちは内心ではものすごく怒っていても表面的に笑ってみたり、ものすごく愛しているのにすましてみたり、内と外が分断されていますよね。ルソーはそこに近代人の疎外を見だしました。この疎外感は他者と透明な関係でつながっていないという不全感と共に、自分自身を本当の自分から疎外しているという考えにつながっていきました。そこで、彼が理想とするのが「未開人」とされる人々。そして「子ども」。あるいは「古代人」です。つまり、近代の外部ですね。怒りたい時に怒り、笑いたい時に笑う。人間として、どちらが優れているだろうか……と彼は言います。
――加藤の目指す「本音の場」とは「未開人」のような関係だった。
中島 建前という外観を超えた関係ですね。心にかぶせられているヴェールをはぎ取った関係。彼は、ネットで同じネタを共有できれば、心と心の透明な関係を結べると思っていました。事件の大きな要因となるネット上の掲示板は、彼にとって心の関係を結ぶことができる場所だと思えたんです。彼はそこを「素の自分でいられる」「開放感があり、楽な場所」と書いています。
――しかし、心と心で結び合いたいというのは、加藤だけでなく、誰しもが持つ普遍的な感情ですよね。
中島 例えば自殺した上原美優は、ブログで「心友」という言葉を使っていました。彼女は心と心でつながり合った「心友がほしい」と書いていたんです。一方、自分に対しては「本当の美優はヤバイ」と自己嫌悪に陥っている。自殺との因果関係はわかりませんが、「心と心の透明な関係」や「本当の自分」という、加藤のような問題を抱えていたのは事実ではないでしょうか。こういった問題は、現代では普遍的な問題だと思います。
――しかし、現実では「心と心の関係」や「本音で話す」ということは、とても難しいですよね。そのための処方箋もないのではないでしょうか。
中島 私は「透明な関係」なんて不可能だと思うし、実現しようとすればファシズムのような危うい全体主義になっていくと思います。だから、私たちはどこかで孤独を背負って生きるしかない。しかし、自分の本音をすべて封印して生きることは、あまりにもストレスが多く、どこかでイライラが爆発してしまうと思います。そこで、仕事や家族、地域の枠にとらわれない「ナナメの関係」が重要になると思います。人は親しいからといって、なんでもしゃべれるわけではありませんよね。母親が夜泣きする子どもを殴りたいと思ってしまっても、母親という立場が邪魔をして、夫にそんなことは言えなかったりします。けれども、同じ悩みを共有する母親になら言うことができる。だから子育てサークルのような存在が必要なんです。利害関係の伴わない他者とのつながりですね。そういった関係が、現代の日本社会はすごく希薄になっています。
――加藤は「社会との接点を確保しろと言われてもどうしたらいいかわからない」と書いています。今の話にリンクしますね。
中島 他人との接点が、この社会ではとても見つけにくいんです。新自由主義と呼ばれる価値観は、さまざまな関係性を市場的にしていきます。これまでは「お世話になっているから、商店街の○○さんのところに頼もう」というつながりがあった。けれども、今ではネットで一番安い店を探して買うことが当たり前になっている。これまであったはずの、市場価値を超えた「贈与」的な関係が希薄になっている。それが、他人を必要とする場や必要とされる場を奪い、私たちの社会を生きづらいものにしている。
――そんな社会を、どのようにすれば改善することができるのでしょうか?
中島 以前のインタビューでも触れましたが、青森で加藤と一緒に仕事をしていた藤川さん(仮名)は、加藤に「なに勘違いしてんだ!」と怒鳴り、しっかりと向き合ってくれた。他人と関わることは面倒くさいし、リスクもある。けれども、そこに踏み込むことが第一歩だと思います。
――ナイフで人を刺した時を振り返って、加藤は「目が合っていたら殺さなかった」と記しています。まさに、今、中島さんがおっしゃられているのは、他人と「目を合わせること」の必要性ですよね。
中島 そうですね。私は、秋葉原事件をきっかけに、札幌のシャッター通りとなっていた商店街にコミュニティカフェを作りました。人々がナナメの関係を構築できる居場所を作ろうと思ったんです。もちろん、カフェを作るなんていう大きなことでなくてもいい。例えば、ホームレスが販売している「ビッグイシュー」を買うこともそうです。ビッグイシューを一冊300円で買うと、うち160円はそのホームレスのものになり、購入者とホームレスとの間に市場的関係を少しだけ超えた関係が生まれるんです。そうやって、新自由主義的な市場をずらしていかなければならないと思います。
――ただ、秋葉原事件から4年を経て、新自由主義的な価値観が強くなってきているように感じます。
中島 新自由主義的な価値観を推し進める橋下徹市長が率いる、維新の会の勢いも増していますしね……。しかし、一方で、相互扶助的な考え方に賛同する人も多くなっていると思います。特に若い層でボランティアに行ったり、社会のためになりたいという人は増えています。ただ、そういう善意をどのように発揮したらいいのかよくわかっていない。地震が起こったら被災地に行けばいいけど、日常の中ではどうしたらいいのかわからないという人が多いんです。そういった人に、その善意を発揮する回路を提示していかなければならないのではないかと思います。
――12日には、東京高裁から加藤智大に対する死刑判決が出ました。私たちは、今、秋葉原事件から何を学ばなければならないのでしょうか?
中島 例えば、池田小事件を起こした宅間守の犯行を止めることができたかと言われると、私自身は正直なところ自信がありません。カウンセラーや宗教者のような方々だったら可能だったかもしれませんが、少なくとも自分の能力では難しかったと思ってしまいます。しかし、私は秋葉原事件は止めることができたと思っています。近所に加藤の居場所となるカフェがあって、彼のネット上でのトラブルの話に「そうなんだ」とうなずいてくれる人がいれば、彼に小さな共感を示してくれるナナメの関係があれば、加藤はこんな事件を起こさなくてすんだ。もちろん、加藤自身は極めて身勝手な人間で、どうしようもない部分を持っています。しかし、今の日本社会にはそういった人間をつなぎ留める方法が欠如してしまっているんです。
彼は「誰かのために何かをさせてほしい、その『誰か』になってくれる人がほしい」と書いています。加藤が抱えているような感情は、誰の中にもあるものではないでしょうか。だから、この事件を加藤の個別的な問題に終わらせることなく、私たちが何をくみ取るかが問題なのではないかと思います。
(取材・文=萩原雄太[かもめマシーン])
●なかじま・たけし
1975年、大阪府出身。99年、大阪外国語大学外国語学部卒、2004年、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究科博士課程修了。現在、北海道大学公共政策大学院准教授。学術博士(地域研究)。専門は南アジア地域研究、日本思想史。05年、『中村屋のボース』(白水社)で大佛次郎論壇賞を受賞。10年より朝日新聞書評委員を務める。
「秋葉原事件は止められた」加藤智大の手記から読み解く、現代社会の生きづらさ

『解 』(批評社)
2008年6月、秋葉原で起こった無差別殺傷事件は、7人の死者と10人の負傷者を出した。この事件から4年を経た今年の9月12日、東京高等裁判所は容疑者の加藤智大に対して死刑を言い渡した。
この判決に先行し、今年7月、加藤智大が執筆した手記『解』(批評社)が刊行された。これまでの生い立ちから、事件に至るまでの経緯、そして、事件を起こしてから考えたこと……。本書の筆致からは、事件に対して驚くほど真摯に向き合った容疑者の姿が浮かび上がってくる。事件から4年を経て、私たちは加藤智大の手記から、何を読み取ることができるのだろうか? 『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』(朝日新聞出版)の著書もある北海道大学の中島岳志准教授と共に、改めてこの事件を振り返ってみよう。
――7月に加藤智大の手記『解』が発売されました。事件を追い続けてきた中島さんとしては、本書をどのように読まれたのでしょうか?
中島岳志氏(以下、中島) 事件を起こしたことについて、彼なりに向き合っているように感じましたね。世間的な常識や遺族感情を考えると「なんだコイツは」と思う部分はあります。しかし、事件を起こした理由を探してしっかりとアプローチをしているなと感じました。けど一方で、ごまかしている部分もあるように感じます。
――どういった部分でしょうか?
中島 彼は、ネットで知り合った群馬の女性の元に宿泊し、彼女と強引に性的関係を結ぼうとするのですが、本書では「甘えて抱きついたものを犯そうと誤解」されたと書いています。法廷で彼女が証言している通り、彼は馬乗りになって腰を振っており、コンドームも持っていたんです。あるいは、自分の人生のこれまでの歩みや、友人との関係についても書かれていない部分が多い。おそらく、そのあたりは彼のぼかしたい部分だったのでしょう。
――事件の当初から、この原因として派遣労働や格差社会などが語られてきました。しかし、本書を読み、事件までの彼の行動やその思考を追っていくと、そういった要因は一面的なものでしかないのでは、と思えてきます。
中島 事件当時、原因としてリーマン・ショック直前の派遣労働の問題や、“つながり”に代表されるような社会的包摂の問題、ネット社会の問題などが語られました。それらは、決して間違っているとは思いませんが、論者が自分の語りたいことを、この事件に仮託して語っていたにすぎないように思います。だから、彼が裁判で証言した、ネット掲示板の「なりすまし」に腹を立てて事件を起こしたという理由に誰もが納得できない。論者の側が設定した物語が完結しない。だから、誰も秋葉原事件を論じなくなってしまいました。おそらくなりすましに対するイラ立ちが、彼の直接的な動機であることは間違いないでしょう。この動機を受けて、この事件を解釈しなければならないと思います。
――なるほど。本書では「孤立」を極端に恐れる加藤の心理が綴られていますね。中島さんは、この「孤立」をどのように解釈しますか?
中島 加藤は、地元の青森や仙台に中高からのゲーム仲間がいて、しかもメーリングリストでつながっている。友達と呼べる人がたくさんいたんです。もしかしたら、私が教えている学生の方が友達がいないかもしれません。しかも、勤務していた関東自動車の同僚を連れて、秋葉原ツアーを行ったり、伊豆にドライブに行ったりもしています。
――いわゆる“リア充”のような生活ですね。
中島 彼よりもコミュニケーションが下手で、友達がいない若者なんてたくさんいます。加藤はうまくやっている方なんです。なのに、彼は孤独だった。問題は友達がいないことではなくて、友達がいるにもかかわらず孤独だったことです。同じように、本書で加藤は「本音と建前」という言葉を何回も使います。現実は建前で、ネットは本音の場だと言っているんです。少し話は難しくなるんですが、これはジャン・ジャック・ルソーの問題に近いのではないかと思います。
――『社会契約論』を記したルソーのことですか?
中島 ルソーによれば近代人は内面と外観の世界の間にヴェールがかけられており、心と心でつながっていない状態です。私たちは内心ではものすごく怒っていても表面的に笑ってみたり、ものすごく愛しているのにすましてみたり、内と外が分断されていますよね。ルソーはそこに近代人の疎外を見だしました。この疎外感は他者と透明な関係でつながっていないという不全感と共に、自分自身を本当の自分から疎外しているという考えにつながっていきました。そこで、彼が理想とするのが「未開人」とされる人々。そして「子ども」。あるいは「古代人」です。つまり、近代の外部ですね。怒りたい時に怒り、笑いたい時に笑う。人間として、どちらが優れているだろうか……と彼は言います。
――加藤の目指す「本音の場」とは「未開人」のような関係だった。
中島 建前という外観を超えた関係ですね。心にかぶせられているヴェールをはぎ取った関係。彼は、ネットで同じネタを共有できれば、心と心の透明な関係を結べると思っていました。事件の大きな要因となるネット上の掲示板は、彼にとって心の関係を結ぶことができる場所だと思えたんです。彼はそこを「素の自分でいられる」「開放感があり、楽な場所」と書いています。
――しかし、心と心で結び合いたいというのは、加藤だけでなく、誰しもが持つ普遍的な感情ですよね。
中島 例えば自殺した上原美優は、ブログで「心友」という言葉を使っていました。彼女は心と心でつながり合った「心友がほしい」と書いていたんです。一方、自分に対しては「本当の美優はヤバイ」と自己嫌悪に陥っている。自殺との因果関係はわかりませんが、「心と心の透明な関係」や「本当の自分」という、加藤のような問題を抱えていたのは事実ではないでしょうか。こういった問題は、現代では普遍的な問題だと思います。
――しかし、現実では「心と心の関係」や「本音で話す」ということは、とても難しいですよね。そのための処方箋もないのではないでしょうか。
中島 私は「透明な関係」なんて不可能だと思うし、実現しようとすればファシズムのような危うい全体主義になっていくと思います。だから、私たちはどこかで孤独を背負って生きるしかない。しかし、自分の本音をすべて封印して生きることは、あまりにもストレスが多く、どこかでイライラが爆発してしまうと思います。そこで、仕事や家族、地域の枠にとらわれない「ナナメの関係」が重要になると思います。人は親しいからといって、なんでもしゃべれるわけではありませんよね。母親が夜泣きする子どもを殴りたいと思ってしまっても、母親という立場が邪魔をして、夫にそんなことは言えなかったりします。けれども、同じ悩みを共有する母親になら言うことができる。だから子育てサークルのような存在が必要なんです。利害関係の伴わない他者とのつながりですね。そういった関係が、現代の日本社会はすごく希薄になっています。
――加藤は「社会との接点を確保しろと言われてもどうしたらいいかわからない」と書いています。今の話にリンクしますね。
中島 他人との接点が、この社会ではとても見つけにくいんです。新自由主義と呼ばれる価値観は、さまざまな関係性を市場的にしていきます。これまでは「お世話になっているから、商店街の○○さんのところに頼もう」というつながりがあった。けれども、今ではネットで一番安い店を探して買うことが当たり前になっている。これまであったはずの、市場価値を超えた「贈与」的な関係が希薄になっている。それが、他人を必要とする場や必要とされる場を奪い、私たちの社会を生きづらいものにしている。
――そんな社会を、どのようにすれば改善することができるのでしょうか?
中島 以前のインタビューでも触れましたが、青森で加藤と一緒に仕事をしていた藤川さん(仮名)は、加藤に「なに勘違いしてんだ!」と怒鳴り、しっかりと向き合ってくれた。他人と関わることは面倒くさいし、リスクもある。けれども、そこに踏み込むことが第一歩だと思います。
――ナイフで人を刺した時を振り返って、加藤は「目が合っていたら殺さなかった」と記しています。まさに、今、中島さんがおっしゃられているのは、他人と「目を合わせること」の必要性ですよね。
中島 そうですね。私は、秋葉原事件をきっかけに、札幌のシャッター通りとなっていた商店街にコミュニティカフェを作りました。人々がナナメの関係を構築できる居場所を作ろうと思ったんです。もちろん、カフェを作るなんていう大きなことでなくてもいい。例えば、ホームレスが販売している「ビッグイシュー」を買うこともそうです。ビッグイシューを一冊300円で買うと、うち160円はそのホームレスのものになり、購入者とホームレスとの間に市場的関係を少しだけ超えた関係が生まれるんです。そうやって、新自由主義的な市場をずらしていかなければならないと思います。
――ただ、秋葉原事件から4年を経て、新自由主義的な価値観が強くなってきているように感じます。
中島 新自由主義的な価値観を推し進める橋下徹市長が率いる、維新の会の勢いも増していますしね……。しかし、一方で、相互扶助的な考え方に賛同する人も多くなっていると思います。特に若い層でボランティアに行ったり、社会のためになりたいという人は増えています。ただ、そういう善意をどのように発揮したらいいのかよくわかっていない。地震が起こったら被災地に行けばいいけど、日常の中ではどうしたらいいのかわからないという人が多いんです。そういった人に、その善意を発揮する回路を提示していかなければならないのではないかと思います。
――12日には、東京高裁から加藤智大に対する死刑判決が出ました。私たちは、今、秋葉原事件から何を学ばなければならないのでしょうか?
中島 例えば、池田小事件を起こした宅間守の犯行を止めることができたかと言われると、私自身は正直なところ自信がありません。カウンセラーや宗教者のような方々だったら可能だったかもしれませんが、少なくとも自分の能力では難しかったと思ってしまいます。しかし、私は秋葉原事件は止めることができたと思っています。近所に加藤の居場所となるカフェがあって、彼のネット上でのトラブルの話に「そうなんだ」とうなずいてくれる人がいれば、彼に小さな共感を示してくれるナナメの関係があれば、加藤はこんな事件を起こさなくてすんだ。もちろん、加藤自身は極めて身勝手な人間で、どうしようもない部分を持っています。しかし、今の日本社会にはそういった人間をつなぎ留める方法が欠如してしまっているんです。
彼は「誰かのために何かをさせてほしい、その『誰か』になってくれる人がほしい」と書いています。加藤が抱えているような感情は、誰の中にもあるものではないでしょうか。だから、この事件を加藤の個別的な問題に終わらせることなく、私たちが何をくみ取るかが問題なのではないかと思います。
(取材・文=萩原雄太[かもめマシーン])
●なかじま・たけし
1975年、大阪府出身。99年、大阪外国語大学外国語学部卒、2004年、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究科博士課程修了。現在、北海道大学公共政策大学院准教授。学術博士(地域研究)。専門は南アジア地域研究、日本思想史。05年、『中村屋のボース』(白水社)で大佛次郎論壇賞を受賞。10年より朝日新聞書評委員を務める。
作品人気を証明しただけ? 「小6女児監禁男はプリキュア好き」報道は怒るだけムダ?

『ふたりはプリキュアSplash☆Star
DVD-BOX vol.1』
( ポニーキャニオン)
今月4日、広島市の小学6年生の少女を旅行カバンに押し込み連れ去ったとして、監禁の疑いで成城大2年の男が現行犯逮捕された事件。この事件を日刊スポーツが「小6カバン監禁男はプリキュア好き」と報じたことで、大きく波紋が広がった。
これに対して、ネット上では「関係ないだろ」「オタク叩きか?」といった怒りの声が噴出。『ふたりはプリキュア』などに出演し、成城大に在学経験のある声優・池澤春菜氏は自身のTwitterで「私、成城大。で、プリキュア出てた。だから私も犯罪を犯す可能性が高いかと言うと、そうではない つまりそこ全く関係ないよね」と発言し、支持を集めている。
振り返れば、オタク趣味と犯罪を結びつけた報道の歴史は長い。そして、オタクを称賛する記事と入れ替わり立ち替わり現れてくる。オタクと犯罪を結びつける報道の嚆矢は、いわゆる「宮崎勤事件」が知られている。だが、実際にこの事件を遡ること半年前に、すでに報道は存在する。週刊誌「SPA!」(扶桑社)の1989年3月23日号に掲載された「麹町小学校4年生殺人事件 増加するゲーム世代“オタク族”のやっぱりおこった『倒錯殺人』」が、これだ。これは、東京都麹町でゲーム機やミニ四駆などを多数所有する22歳の青年が、自宅に遊びに来ていた男児を殺害したもの。
この事件の後、8月に宮崎勤が逮捕されると「ロリコン」「オタク(あるいは、おたく・おたく族)」を「病理」ととらえて犯罪の原因とする報道が、頻出するようになる。
ところが、この報道は数カ月程度で収縮し、年が明けると、今度はオタクを称賛する記事が次々と登場していく。象徴的なのは「SPA!」90年3月7日号に掲載された「『おたく』が日本を動かす」という記事。この記事は、前年とは一転して、オタクを称賛するものであったのだ。また、90年8月に開催された同人誌即売会・コミックマーケットは、参加者20万人あまりと、前年比で倍となった。この要因として挙げられるのは、宮崎勤の事件を通して、オタク、そして宮崎が参加していたコミックマーケットが一般メディアに初めて登場し(大宅壮一文庫で検索すると一目瞭然だが、89年に一般誌でオタクやコミケを扱う記事は、ほとんどない)、存在を知った人々が参加するようになったことだ。当時、中高生だったマンガ・アニメ愛好家の中には、この時期に学校や家庭で肩身の狭い思いをしたと証言する者が多い。ところが、その原因である忌まわしい宮崎勤事件が、皮肉にもコミックマーケットの参加者を倍増させ、現在に連なるオタクの隆盛を生み出したのである。
2000年代に入ってから、オタク文化は国内のみならず海外も巻き込んで、愛好者を増やしているわけだが、一方でオタクと犯罪をイコールにする、あるいはにおわせる報道も繰り返されてきた。04年に発生した「奈良小1女児殺害事件」では、ジャーナリストの大谷昭宏氏がテレビ出演した際に「フィギュア萌え族(仮)」なる言葉を用いて、多くのオタクやフィギュア愛好家から怒りを買った。筆者がこの件を取材したところ、大谷氏が「オタクを批判する気はない」と繰り返し主張したことは印象に残っている。この発言は「SPA!」05年1月25日号で「誤解と偏見の『オタク迫害』に異議アリ!」という特集が組まれたり、大谷氏が出演したシンポジウムの席上で「権力の行う危ないヤツへのレッテル貼り」と同一であると批判されるなど、たぐいまれな規模に拡大した事例である。
ただ、オタク文化の愛好者たちが、オタク=犯罪報道にいつも怒り狂っているかと思えば、そうでもない。05年に発覚した、いわゆる「監禁王子事件」では、犯人宅から1万本ものエロゲーが発見されクローズアップされたが、「1万本も買ってるなんて、どれだけ金持ちなんだ?」とむしろ、愛好家を爆笑の渦に叩き込んだ。
大谷氏の事件の後に最も世間を騒がせたのは、07年9月に京都府の京田辺市で発生した14歳の女子中学生が斧で父親を殺害した事件だ。この事件をめぐっては、当時放映されていた『ひぐらしのなく頃に解』と『School Days』が外部からの圧力や報道もないうちに、多くの放送局が放送中止を決定し注目を集めたものだ。むしろ、これによって、作品のタイトルが知られるようになったからか、その後の報道を追ってみると、やたらと事件の犯人が『ひぐらし』を所有していた事例が見られるようになる。
08年1月に青森県八戸市で発生した母子3人放火殺人事件では、犯人宅から『ひぐらし』の漫画版が押収されたことが一部の新聞で報じられている。同年の3月に、茨城県土浦市で発生した連続通り魔殺人でも、犯人の趣味として、格闘ゲームと共に「ひぐらし」を記す報道が見られた。この月には、岡山駅構内で突き落とし殺害事件が発生しているが、少年宅から『ひぐらし』や『DEATH NOTE』などの漫画本が押収されたことも報じられている。さらに探すと、7月に埼玉県川口市で発生した女子中学生の父親殺しでも『ひぐらし』の単行本が押収されたと報道されている。08年の6月には、秋葉原連続殺傷事件が発生しているが、犯人の加藤智大に至っては、犯行直前に携帯サイトに「ひぐらしとか買っておけばいいのか」と書き込んでいたことも報じられている。なぜ、『School Days』ではなく『ひぐらし』ばっかりかと考えると、エロゲーゆえに販路が限定されている『School Days』に比べて、そこらへんの書店でも棚に並んでいて、手に入りやすかったからという、穿った見方もできなくもない。
こうなると、オタク=犯罪をくくる記事で「犯人に影響が」と名指しされる作品は、それだけ知名度がある、あるいは、大手マスコミの勝手な報道によって、知らないうちに「炎上マーケティング」に参加させられていると見ることもできるだろう。
しかし、宮崎勤の事件から数えても20年あまりの間にさまざまな事件が発生しているにもかかわらず、これらを時系列でまとめて記した文献は少ない(マスコミのオタク観をまとめた文献として松谷創一郎氏の「<オタク問題>の四半世紀」(『どこか<問題化>される若者たち』所収 恒星社厚生閣、08年)があるが、失礼だがマイナーな書籍のため、読んでいる人は少ない)。
正直、今回の「プリキュア」報道からは、“またか”というよりも“懐かしさ”のような感覚すら覚えてしまう。過去を経験している立場からは、Twitterなどで怒りを露わにしている人々よりも、失笑している人のほうが多いのではないかと思うのだ。
まあ、それだけ「プリキュア」シリーズが、おっきなお友達にも大ウケしていることを、世間は知っているということか。
(文=昼間たかし)
まるで5つ星ホテル!? 薄熙来夫人が投獄される刑務所が豪華すぎる!

※イメージ画像 photo by Jorge Lascar's
from Flicker
人治国家といわれる中国には、法の下の平等など存在しないようだ。
重慶市トップの薄熙来の妻で、英国人実業家を毒殺した罪に問われ、執行猶予付き死刑判決が下された谷開来被告が服役予定の刑務所が、まるで5つ星ホテルのようだと話題になっている。
安徽省合肥市の拘置所に収監されている谷受刑者の身柄は、まもなく北京市内の秦城刑務所に移送されるといわれている。しかしこの刑務所は、一般の犯罪者は服役することがない、政府高官用の刑務所として知られている。
驚くべきは、刑務所の設備と服役者の待遇だ。服役者はトイレ付の個室が与えられ、毎日一流シェフによる食事が供され、飲酒や喫煙も許されている。さらに、フィットネスルームや健康診療所なども利用することがで きるのだという。また、事前に届け出れば、刑務所の敷地外に出かけることも可能だ。
こうした豪華刑務所について、中国版Twitter「微博」では「これのどこが懲役なんだ!?」「喜んで身代わりになりたい」などといった批判が寄せられている。
地獄の沙汰も階級次第といったところだが、執行猶予付き死刑という厳罰に処された受刑者に5つ星ホテル級の待遇が許さ れる理由について、広東省ブロック紙の社会部記者はこう話す。
「中国の高官はみんな同じ穴のムジナで、互いの汚職に関する情報を握っている。そのため、汚職事件で死刑判決の実刑が下された高官は、余計なことをしゃべらないうちにすぐに死刑が執行される。一方、執行猶予付き死刑や禁固刑などとなった場合は、服役中の待遇をある程度保障することで、自暴自棄になって自分たちの汚職まで暴露させないようにし ているんです。クリーンなものなど一人としていない高級官僚たちが一斉に泥仕合をはじめたら、共産党は終わりですから」
中国の汚職官僚に「囚人のジレンマ」は起こりえない!?
(文=牧野源)
『ガレキ』──日本を席巻した200日の瓦礫問題が投げかけた震災後の「当事者性」【後編】
前編はこちらから
■データ開示と議論の客観性
丸山 被災した自治体の方でも、できる限り自分たちで瓦礫を処理しようとしていたのと、想定よりも瓦礫の量が少なかった地域もあったので、当初予定していた県外受け入れが不要になったケースも出てきました。そうなると反対運動は、結果的に右往左往しただけで終わったものもある。その時に、反対運動が正しかったと考えている人もいれば、反対の声を上げたことをなかったことにしているような人も見受けられました。一過性の祭というか、声を上げることに意義を見出したような感じの人もいる。そうした人たちの中には、大飯原発再稼働反対など、別の市民運動に行動を移していった人もいます。
萱野 やはり広域処理反対派だった人たちは、再稼働反対、反原発といった立場の人が多いのでしょうか。
丸山 そういう印象を受けました。とはいっても、瓦礫処理のプロセス、行政、民間の携わる範囲を把握して反対活動をしている人は少ないです。ピックアップしてくる情報に偏りが生じてしまうことも多い。
萱野 政府に対して情報を隠しているんじゃないかという批判の声があがる一方で、都合のいい情報を共有する空間がメディアの中に生まれてしまったりする。そうなると客観性も損なわれてしまいますね。
丸山 各首長に話を聞くと、政府についてはともかく各自治体レベルではもう持っているデータは開示しきっているといいます。そうしたデータは「県政だより」のような媒体で公表している。県知事の名前で出したデータで県民に不利益が出るようなことがあれば、当然県が補償をすることになります。各首長はその覚悟でデータ開示をしている。そうである以上、データ開示や信憑性に関しては落ち着いて受け止めてもいいのではないかと思います。
■ケガレとしての「ガレキ」
丸山 本書の中では震災瓦礫を“ガレキ”とカタカナで表記しています。一連の広域処理問題の中で、瓦礫という言葉には「ケガレ」の意識が含まれるようになってきたと捉えているためです。それはイメージの中で作られた「ガレキ」、イメージの中で作られた「放射能」です。実態と離れた「ガレキ」はケガレの概念が生み出した産物となってしまい、それゆえに感情的な拒絶に繋がってしまっている。
萱野 人間は日々暮らしている中で、それほどクリーンな存在でいられるわけではありません。生活習慣にせよ摂取するものにせよ、日々健康を侵すようなリスクを気にしないで生きていたりする。いわばケガレた存在であるとも言えるわけです。体に良くないものも食べるし、酔っ払って街を歩きもする。それらにだって充分リスクがある。けれども放射性物質の一点にだけ過剰に注目し、さらにその過剰な反応が道徳的に正当化されてしまっているところがありますね。
丸山 リスクの点で言えば、福島第一原発で働くような場合は別にして、多くの人にとっては放射線の問題で懸念されるのは発がんのおそれですよね。がんであれば初期段階ならば対応できるものも少なくない。そう考えると、転居を繰り返すよりも、定住していた方が、医療ケアなど自治体からの補償も求めやすいのではないかと思います。
萱野 低線量被曝についてはわかっていないことも多いですが、低線量であるぶん、事後対策に費用や時間をかけることが建設的でしょう。今後の長期的な健康診断などを整備する方が、リスクのことを考えるならばよっぽどいいはずです。
■問われたのは自分自身だった
丸山 市民が声を上げることにはもちろん意味があります。ただそうした声には代案が伴わないことが多い。脱原発、クリーンエネルギーへの移行を唱えつつ、同時に不景気を拒否し、生活レベルの維持を求めていては、リスクも背負わず代案も提示しない文句になってしまう。
萱野 文句を言うだけの立場は政策決定に責任をとらなくていい。しかし決定をする側に立つと、自分がクリーンな立場にいられるかどうかだけでは物事が進められません。責任を負うには、あっちを立てればこっちが立たずという中で、ベターな道を選んでいくしかない。
丸山 陸前高田市の戸羽太市長は、市長選に当選して一ヶ月後に震災に遭い、ご夫人も行方不明になってしまいました。取材でお会いした時には、ご夫人のことは整理がついたと仰っていました。それでも、お子さんたちに何もしてあげられていないということについて、何度か涙ぐまれていました。お子さんたちが市長の苦悩を悟って我慢している姿を見た時に、情けなくてしょうがなかったとも仰られていました。そういうことも抱えながら責任を持ち決定する任にあたっている。「何かあった際に責任をとるといっても、職を辞するだけだろう」などとよく言われますが、当人のその後の人生を考えたら、責任をとって公の職を辞めるというのは結構なダメージであるはずです。
萱野 いろんなことを背負いながら任務にあたっている人たちがいます。福島の遺体捜索が遅れた地域でも最後まで捜索にあたったのは、現地の警察官。彼らは被曝するのを覚悟の上で、身を呈して活動している。
丸山 今回の本では求職中の若者にもインタビューしています。はたから見れば無職の青年ですが、彼は被災時には臨時職員として働いていました。身分としてはアルバイトになるわけですが、職員と同じように働いて、それこそ遺体をケアしたり避難所の運営にあたったりしていました。自分の家も被災した状況でそういうことをやっている。それだけ公に尽くした果てに、今は無職なわけです。そういった人たちの声がもっと届けられていいはずなのですが、瓦礫の受け入れや原発再稼働に反対するような大きな運動の声の方ばかりに注目がいってしまう。
萱野 震災瓦礫の危険性に過剰反応してしまうとそれしか見えなくなって、冷静になれずに声を上げてしまう。瓦礫受け入れ反対の運動が、被災地に心理的なダメージを与えていることに思い至らない。そしてそのことが“クリーンな言葉”で正当化されてゆく。客観的に測れないのがリスクなので、それぞれの反応が主観的な要素に左右されてしまうのは仕方がありません。けれども主観的なものが入るだけに、そこには各人の人間性などが反映されることになります。
丸山 震災瓦礫問題で問われたのは、自分自身でもあったということですね。浮き彫りになった自分を見つめることは大事です。それが、どんな姿であっても変えることはできませんから。最後に被災地の取材をするたびに思うことがあります。離れていて、どんなことを言っても、しょせん他人事だと思ってもいいから、震災に無関心になることだけは避けて欲しい。極端かもしれませんが、それだけは本当に強く思います。
(取材・構成=香月孝史 http://katzki.blog65.fc2.com/)
●まるやま・ゆうすけ
ジャーナリスト、ノンフィクション作家。1977年宮城県仙台市生まれ。考古学を専攻し國學院大學大学院修了後、日雇いや派遣労働などを経てビジネス書出版社に勤務。その後、フリージャーナリストとなる。裏社会の要人や犯罪者へのインタビュー、国内外の危険地帯への潜入取材を得意とし、これまで週刊SPA!、週刊現代、FLASH、週刊アサヒ芸能、日刊サイゾーなどの各媒体で北九州連続企業テロ事件、東日本大震災の火力発電所原油流出事故、避難所の性問題、福島原発5km圏内の被災動物などのルポを発表している。
●かやの・としひと
1970年、愛知県生まれ。03年、パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。哲学博士。津田塾大学准教授。主な著書に『国家とはなにか』(以文社)、『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、『権力の読みかた』(青土社)など。近著に『最新日本言論知図』(東京書籍)、『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)など。
「愛国」という名の自爆スイッチ!? 反日デモで露見した中国最大の弱点

尖閣諸島問題に端を発した中国の反日デモは、激しさを増しながら60都市以上に広がっている。日本製品の不買運動や暴徒化したデモ参加者による日系工場の襲撃なども併せて行われており、日本経済に及ぼす影響も無視できない事態となってきている。
ところが「今回の反日デモで、一番ショックを受けているのは中国政府」と明かすのは、広東省ブロック紙社会部記者だ。
中国人の反日感情が慢性的なものとなり、日系の企業やその関連工場が撤退や閉鎖に追い込まれることになれば、最大1000万人の労働者が職を失うことになるともいわれている。日中関係の悪化が、両国経済にとって痛み分けとなることは明白である。
しかし同記者は、経済のみならず、中国の国際社会での立場すら危うくなる可能性を指摘する。
「当初、反日を叫んでいたシュプレヒコールはいまや政府批判へと変わりつつあり、現政権に不満を持つ保守派の旗印である、毛沢東の肖像などが掲げられるようになった。それまでは『飽きるまでやらせよう』というスタンスだった政府も、その時点でデモ隊の抑え込みに動き始めたが時すでに遅し。暴徒化したデモ隊にもはや手がつけられなくなり、泣く子も黙る武装警察も、彼らを前に後退を余儀なくされている。ここまでの事態になることは、政府にとっても想定外だった。最大の不覚は、世界に中国政府のガバナンスの弱さを露呈してしまったこと。日本をはじめとする諸外国に、『中国を攻撃するのに戦争などは必要なく、人民の愛国心を刺激すれば勝手に自滅する』という弱点を握られたことにな る。『人民の愛国心を刺激する』という外交カードは今後、中国と交渉の場につく多くの国に利用されるだろう」
国際社会において、これまで我が物顔の振る舞いを続けてきた中国が、これで少しはしおらしくなるのだろうか? ただ、反日人民からの無謀な開戦要求すら政府が抑え込めないという事態だけは勘弁してほしいものだ……。
(文=牧野源)
「愛国」という名の自爆スイッチ!? 反日デモで露見した中国最大の弱点

尖閣諸島問題に端を発した中国の反日デモは、激しさを増しながら60都市以上に広がっている。日本製品の不買運動や暴徒化したデモ参加者による日系工場の襲撃なども併せて行われており、日本経済に及ぼす影響も無視できない事態となってきている。
ところが「今回の反日デモで、一番ショックを受けているのは中国政府」と明かすのは、広東省ブロック紙社会部記者だ。
中国人の反日感情が慢性的なものとなり、日系の企業やその関連工場が撤退や閉鎖に追い込まれることになれば、最大1000万人の労働者が職を失うことになるともいわれている。日中関係の悪化が、両国経済にとって痛み分けとなることは明白である。
しかし同記者は、経済のみならず、中国の国際社会での立場すら危うくなる可能性を指摘する。
「当初、反日を叫んでいたシュプレヒコールはいまや政府批判へと変わりつつあり、現政権に不満を持つ保守派の旗印である、毛沢東の肖像などが掲げられるようになった。それまでは『飽きるまでやらせよう』というスタンスだった政府も、その時点でデモ隊の抑え込みに動き始めたが時すでに遅し。暴徒化したデモ隊にもはや手がつけられなくなり、泣く子も黙る武装警察も、彼らを前に後退を余儀なくされている。ここまでの事態になることは、政府にとっても想定外だった。最大の不覚は、世界に中国政府のガバナンスの弱さを露呈してしまったこと。日本をはじめとする諸外国に、『中国を攻撃するのに戦争などは必要なく、人民の愛国心を刺激すれば勝手に自滅する』という弱点を握られたことにな る。『人民の愛国心を刺激する』という外交カードは今後、中国と交渉の場につく多くの国に利用されるだろう」
国際社会において、これまで我が物顔の振る舞いを続けてきた中国が、これで少しはしおらしくなるのだろうか? ただ、反日人民からの無謀な開戦要求すら政府が抑え込めないという事態だけは勘弁してほしいものだ……。
(文=牧野源)
「メンバー」「司会者」とは違う!? NHKが逮捕時から内柴正人被告の肩書を“元選手”にしている理由

酒に酔って寝ていた女子柔道部部員の10代少女を暴行したとして、準強姦罪で逮捕・起訴されたアテネ・北京両五輪の柔道金メダリストで元九州看護福祉大柔道部コーチの内柴正人被告の初公判が12日、東京地裁で行われた。同被告は「関係を持ったことは事実。(部員は)酔って寝ておらず、起きていた。合意の上だった」などと起訴内容を全面否認。内柴被告は閉廷後、弁護人を通じて「名誉のために、裁判を最後まで闘い抜きたいと思う」とするコメントを発表するなど、徹底抗戦の構えを見せた。
同日、テレビ各局は各ニュース番組で大々的に内柴被告の公判を報じたが、NHKのニュースでは画面のテロップに「内柴被告」ではなく、「内柴元選手」と表示され、おそらく、違和感を覚えた視聴者もいたに違いない。
「NHKは昨年、内柴容疑者が逮捕されてから、テレビやネットのニュースで一貫して『元選手』にしている。ニュース原稿や、ネットニュースの文章の中に『容疑者』や『被告』の表現がうかがえるものの、あの肩書だけ見ればただの引退した選手みたいで違和感がある。まさか、金メダリストだから尊敬の念を込めてそう呼んでいるわけではなさそうだが」(週刊誌記者)
著名人の不祥事の報道に関する違和感たっぷりの肩書で思い出されるのが、SMAPの稲垣吾郎と、昨年、自ら暴力団関係者との交際を明かして芸能界を引退した島田紳助だ。
「稲垣は2001年8月に駐車禁止をとがめた女性警官のヒザに車で接触したとして公務執行妨害で逮捕されたが、SMAPのレギュラー番組『SMAP×SMAP』を放送していたフジテレビは『稲垣吾郎メンバー』で統一していた。紳助は04年10月に所属していた吉本興行の女性社員に暴行し傷害容疑で書類送検されたが、民放キー局は『容疑者と報じた局もあったが、腰が引けた局は『島田司会者』『島田紳助司会者』『タレント島田紳助さん』。NHKが最も意味不明で『吉本興業の島田紳助所属タレント』と報じていた」(スポーツ紙デスク)
NHKの「内柴正人元選手」も稲垣や紳助のケースと同様の“自主規制”かと思いきや、どうやらこちらはしっかりと同局の規定通りの報道だったようだ。
「『疑わしきは罰せず』ではないが、NHKは公共放送として国民の受信料で運営されていることもあり、刑が確定するまでは犯罪者扱いしないというのが建前。そのため、ニュース画面のテロップは『容疑者』や『被告』とはせず、『元社長』『元議員』など前職の肩書で扱い、アナウンサーがニュースを読み上げる時には『容疑者』や『被告』を使う。確かに、人権を配慮する意味ではバランスが取れていると思われるが、局の上層部は視聴者の違和感まで考慮していないようだ」(NHK関係者)
犯罪者の人権を考慮したNHKからは判決確定まで「元選手」と呼ばれ続ける内柴被告だが、「複数の余罪もささやかれ、地元ではそのご乱行は有名だった」(先の記者)というだけに、果たして今後、身の潔白を証明することはできるのだろうか?
「メンバー」「司会者」とは違う!? NHKが逮捕時から内柴正人被告の肩書を“元選手”にしている理由

酒に酔って寝ていた女子柔道部部員の10代少女を暴行したとして、準強姦罪で逮捕・起訴されたアテネ・北京両五輪の柔道金メダリストで元九州看護福祉大柔道部コーチの内柴正人被告の初公判が12日、東京地裁で行われた。同被告は「関係を持ったことは事実。(部員は)酔って寝ておらず、起きていた。合意の上だった」などと起訴内容を全面否認。内柴被告は閉廷後、弁護人を通じて「名誉のために、裁判を最後まで闘い抜きたいと思う」とするコメントを発表するなど、徹底抗戦の構えを見せた。
同日、テレビ各局は各ニュース番組で大々的に内柴被告の公判を報じたが、NHKのニュースでは画面のテロップに「内柴被告」ではなく、「内柴元選手」と表示され、おそらく、違和感を覚えた視聴者もいたに違いない。
「NHKは昨年、内柴容疑者が逮捕されてから、テレビやネットのニュースで一貫して『元選手』にしている。ニュース原稿や、ネットニュースの文章の中に『容疑者』や『被告』の表現がうかがえるものの、あの肩書だけ見ればただの引退した選手みたいで違和感がある。まさか、金メダリストだから尊敬の念を込めてそう呼んでいるわけではなさそうだが」(週刊誌記者)
著名人の不祥事の報道に関する違和感たっぷりの肩書で思い出されるのが、SMAPの稲垣吾郎と、昨年、自ら暴力団関係者との交際を明かして芸能界を引退した島田紳助だ。
「稲垣は2001年8月に駐車禁止をとがめた女性警官のヒザに車で接触したとして公務執行妨害で逮捕されたが、SMAPのレギュラー番組『SMAP×SMAP』を放送していたフジテレビは『稲垣吾郎メンバー』で統一していた。紳助は04年10月に所属していた吉本興行の女性社員に暴行し傷害容疑で書類送検されたが、民放キー局は『容疑者と報じた局もあったが、腰が引けた局は『島田司会者』『島田紳助司会者』『タレント島田紳助さん』。NHKが最も意味不明で『吉本興業の島田紳助所属タレント』と報じていた」(スポーツ紙デスク)
NHKの「内柴正人元選手」も稲垣や紳助のケースと同様の“自主規制”かと思いきや、どうやらこちらはしっかりと同局の規定通りの報道だったようだ。
「『疑わしきは罰せず』ではないが、NHKは公共放送として国民の受信料で運営されていることもあり、刑が確定するまでは犯罪者扱いしないというのが建前。そのため、ニュース画面のテロップは『容疑者』や『被告』とはせず、『元社長』『元議員』など前職の肩書で扱い、アナウンサーがニュースを読み上げる時には『容疑者』や『被告』を使う。確かに、人権を配慮する意味ではバランスが取れていると思われるが、局の上層部は視聴者の違和感まで考慮していないようだ」(NHK関係者)
犯罪者の人権を考慮したNHKからは判決確定まで「元選手」と呼ばれ続ける内柴被告だが、「複数の余罪もささやかれ、地元ではそのご乱行は有名だった」(先の記者)というだけに、果たして今後、身の潔白を証明することはできるのだろうか?