どんな学校、会社、コミュニティにもいる、「とにかく男にチヤホヤされたい女」。一般的には男女問わずほとんどの人間から嫌悪される存在だが、彼女たちが本当に欲しいものが単に「モテたい」という承認欲求ではなく、「無条件に愛されたい」という純粋な愛情だとしたら、少し状況は変わってくるのかもしれない。
先日、イラストレーターのあらいぴろよ氏が、実話コミックエッセイ『“隠れビッチ”やってました。』(光文社/16日に電子書籍も刊行)を刊行した。男にチヤホヤされ、告白されることが生きがいだった自身を振り返り、男に依存する“女”の自分と向き合い、毒親との関係を見直しながら1人の“人間”として自立していくさまを描いている。あらい氏が実践していた「隠れビッチ」とは、肌を露出したり簡単に体の関係を持ったり、特定のコミュニティ内で恋愛を繰り返すのではなく、ファッションや振る舞い等を清純派に見せることで、内面やチヤホヤ欲をひた隠し目的を遂げるという、いわば擬態の状態。
そのあらい氏の擬態は徹底しており、相手に応じて3系統の男ウケ服を着回していただけでなく、絶対に生活圏内の男性をターゲットにせず、また絶対にヤラせないなどの独自の手法を確立。とにかく好意を持たれ、デートに誘われて「好きです」と告白されることで心が満たされていたという。もちろん、その後付き合うということはなかったそうだ。
3年間で200人もの男性とデートを重ねてきたというあらい氏に、「隠れビッチ」時代に培ったノウハウや、男性から好意を寄せられることに執着していた理由、またそこから自分を見つめ直した現在の心境について聞いた。
■女子アナ、堀北真希っぽさ、蒼井優っぽさは必勝法
――本には、あらいさん独自の統計に基づいた、男ウケするファッションや振る舞いなどが紹介されていますよね。これらは何を参考にしていたのでしょうか?
あらいぴろよ氏(以下、あらい) 自分の経験から精査された部分もありますし、図書館に行ってあらゆる女性誌やモテ特集本を片っ端から読みました(笑)。そして実践をしてみて、「こういう人にこれをやってみて、うまくいったからこうだな」と分析していましたね。すると、だんだん女子アナみたいな格好が、やっぱり大多数に人気だとわかっていったんです。だから、あれだけテレビに出てお茶の間に愛されるファッションなのか! と納得がいくことも多かったです。
――雑誌以外で参考にしていたものはありましたか?
あらい 恥ずかしい話ですが、マリリン・モンローやオードリー・ヘップバーンが映画でやっていたような所作です。横を見る時の目の動かし方だけでも、男性の心がくすぐられるのはこうだな、とか鏡の前で研究していました。本にも書きましたが、やっぱり堀北真希ふうの持つ力はすごいです。「私は堀北真希だ、堀北真希だ」と思い込んで男性と話していると、だんだん相手も私のことを堀北真希に接するように、紳士的な態度を取ってくれている……? と感じたことがありまして(笑)。
また、蒼井優っぽさも有効でした。カフェの窓側の席に座っていた時に、通りがかった男性に対して蒼井優っぽい空気感を出しながら、ため息をついて本を読んだりしてアピールしていました。私の外見では残念ながら一度では効かないので、毎週同じ時間にそこを通る男性をターゲットにして蒼井優っぽさを炸裂させていたら、「一緒いいですか?」と、念願かなって声をかけられることもありました。
■体の関係も女同士の自慢もいらない、ただ男性から愛されたかった
――あらいさんは男性からの好意や告白に気持ち良くなっていたそうですが、そこに体の関係がゼロだったのはなぜでしょうか。
あらい 本にも出てきますが、高校生の時、小・中学校の同級生だった女の子に、「男ヤラせてあげる私ってすごいでしょ、価値があるのよ」みたいに言われ、私自身が未経験というのもあって、気持ち悪さやバカにされた悔しさを強く感じました。その時に「私はこんな人と同じ土俵には立ちたくない」と思ったのが大きかったです。私は別に、その同級生のように同じ女性と競い合ったり見下したりしたいわけではなく、ただ誰かから愛されたいだけでしたから。実際は私の方が、男性からしたら悪意が多くタチが悪いと思いますけど。
それに、「あの子ムカつく」とか「あの子なんでこのコミュニティにいるの?」と思われて女同士の競走や嫉妬をつくってしまうと、本来の目的が遂行しづらくもなりますので。私の土俵には、チヤホヤしてくれるけどヤラない男しかあげたくありませんでした。私は、基本的にはヤリマンを否定しません。相手に見返りを求めなかったり、自分に否定的な感情を持たなかったり、純粋に快楽を求めるならアリだと思います。ただ、体には気を付けてほしい、と強く思います。
――「愛されたい=肌のぬくもりが欲しい」となる女性は多いと思いますが、あらいさんはそこがハッキリ線引きされていたのですね。デートをしていて相手から体を求められる場面も、少なくなかったと思うのですが。
あらい 幼い時に父親から暴力を振るわれていたので、男性と狭い空間に2人きりなのが怖かったというのはありました。でも最初の頃は、上がりはしませんでしたが何度か男性の家に行ったことがあったんです。雨が降ってきた時に、「傘貸すよ」と言われてついていった際にそういう雰囲気になり……。どうにか逃げ出しましたが、それでよくわかったので、そこからは二度と相手の家には行かなくなりましたし、2人きりならば車に乗ることは避け、デートも明るい道を行くようにしました。部屋に誘われて断ったらキレられることもありましたが、そういう時は「行かねぇよ!」と、そこで本性を出して関係を切っていました。そういう人はチヤホヤもせず、ただヤリたいだけなので、私にとってはどうでもよかったんです。その人に執着する理由もないので、すぐに次の相手を探していました。多分それは相手も同じなので、深追いされることもありませんでした。
■男からチヤホヤされることで本当に求めていたもの
――「男にモテたい、チヤホヤされたい」という願望を持って自分なりの努力をしても、あらいさんのようにはいかず、報われない女子もいると思います。
あらい そういう方は、きっと好きな人やモテたい対象がちゃんと決まっているのではないでしょうか。本当に失礼な話になりますが、容姿や性格はまったくどうでもよいと思えば、不特定多数にモテるのは簡単なんです。私の目的は自分がチヤホヤしてもらえることなので、そこに合わせて、いくらでも相手のレベルを下げられたので……。
それを思うと、隠れビッチの男性版はヒモだと思います。尽くしてくれる相手から何の罪悪感もなく、奪えるところは奪える人。本来、“人は人の鏡”なので、一緒にいる人のレベルや扱い・性格などから自分を見つけられると思うのですが、ヒモの場合、相手は自分と不釣り合いな人なので、相手が自分の“鏡”にならないんです。だから、自分がどれだけのことをしているのかまったく気付かない。私はそれに加えて、自分の目的のためにこだわりのない相手を探していたことから、相手の“鏡”に映る気はなかったんだと思います。それは「報われている」よりも、結果として「自分を軽視」していた状態だと思います。
――隠れビッチな女性かそうでないかは、嗅ぎ分けられるものですか?
あらい 女性ならみんな、そういう女性には違和感や嫌悪感を覚えると思うので、わかると思います。それこそ、すれ違っただけでも。でも、私自身が今を振り返ると、決して褒められることでも推奨することでもありませんが、あの隠れビッチ時代があってよかったと思います。心のどん底から自分の本当に求めているものを見極めて、変わるべく行動し続けることで、今は穏やかな生活を手に入れることができましたので。
変わりたいと行動することは、恋人でも親友でも仕事仲間でも、自分のことを本気で見つめてくれる人、深くつながれる人と引き合わせてくれると思います。本にも出てきますが、「自分に自信がないからと男に逃げるな。女ではなく人間として生きろ」と言ってくれた友人の言葉は、深くつながった人がくれたものだからこそ真に迫ってきました。でも、私が本気で変わろうと努力しなければ、そういう言葉をかけてくれた方全てが離れていったと思います。万人に受け入れられることは難しいかもしれませんし、失敗もあるかもしれません。でも行動し続ければ、どんな隠れビッチ時代を送っていたとしても、良い方向に変われると信じています。
■「私は女、相手は男」性別に固執してた
――「女ではなく、人間として生きる」とは、どういうことだと思いますか?
あらい 隠れビッチ時代は、「可愛いね」「付き合って」「ヤリたい」なんて言われても何も感じず、とにかく「好きです」がうれしかったんです。それは、今思えば結局親に求めていたこと。親という存在は、自分に自信がなくてもありのままを認めてくれて、無償の愛で全肯定してくれる、と思い込んでいたんです。私はそれがもらえなかった、かわいそうな存在なんだと。それを癒やしたくて、男性に全肯定を求めてしまっていました。
でも同時に、隠れビッチ時代は、自分を偽って清純派に擬態した姿に「好きです」と言われることが、「私ではないものに向けられた言葉」と理解もしていたので、自分のしていることに矛盾があると気付いていました。歳を重ね、多くの方が望むような愛を受け取ってきたわけでもないことにようやく気付きましたが、当時の私はまだ気付いていませんでした。
あくまで私にとって「女として生きていた」状態というのは、理性ではなく本能や欲望だけで生きていたということだと思います。親から愛されなかった分、愛されたい! という欲望が暴走しているというか。その生き方は相手のことをなにひとつ尊重もせず、楽しいことだけ、自分に都合のいいことだけ、それも女の良い部分だけを享受し、「恋愛のようなもの」を通して奪うだけの生き方でした。人間として生きる、というのは、自分が本当に何を求めているのか、本能や欲望とじっくり向き合い、これからどう生きていけばいいのかを理性や心をもって、考え生きていくことだと思います。
(石狩ジュンコ)