『ザ・ノンフィクション』勤務初日で辞めたいと言う18歳「新・上京物語 前編 ~煙突とスカイツリーと僕の夢~」

 日曜昼のドキュメント『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)。3月28日は「新・上京物語 前編 ~煙突とスカイツリーと僕の夢~」というテーマで放送された。

あらすじ

 2020年6月、北海道、製紙工場の煙突が立ち並ぶ苫小牧市から料理人を目指し上京した18歳の一摩。就職先はかつて人気テレビ番組『料理の鉄人』(同)にも出演した洋食の巨匠・大宮勝雄シェフが経営する浅草の名店「レストラン大宮」だ。

 一摩は幼い頃に両親が離婚。父親も若くして亡くなったため、祖父母に育てられた。祖父の美智男は料理人で、天皇陛下の皇太子時代に料理を提供したこともあるという。美智男は肺がんを患い2年前に現役を引退したが、今も家ではシェフコートを着て家族に本格的な料理を振る舞う。

 美智男は東京で修業時代を共にした大宮シェフに一摩を託す。一摩は一流の料理人になりたいと祖父母や友人にも話し、その姿は自信がみなぎっているが、自分で料理をしたことはほとんどない。

 新型コロナウイルスの感染拡大の影響もあり、2カ月遅れでようやく上京できた一摩は、東京駅の目の前にある新丸ビル内の、レストラン大宮の支店で働くことになる。しかし勤務初日、一摩の包丁を持つ手つきはおぼつかず、右も左もわからない厨房の中で、それまでの意気揚々とした様子から一変、見るからにションボリとしていき、賄いの昼食もろくに喉を通らない。

 そしてその晩、大宮シェフに初日にして辞めたいとまで伝えてしまう。大宮シェフの説得もあってまずはとどまった一摩だったが、疲れた様子で勤務初日を終える。

自信満々に見えた18歳、勤務初日でつまずく

 人には、見るからに貫禄を感じさせるタイプや、逆に頼りなく見えてしまうタイプなどがあるが、一摩は典型的な前者だ。体格の良さや顔立ちも相まって、18歳にして一摩はすでに貫禄があった。

 番組の冒頭で地元、苫小牧の友人と話すシーンでは、一度も行ったことのない東京に一流シェフになるべく上京する一摩を、友人はしきりに感心していたが、そのときも一摩は謙遜したり照れたりせず、どうってことない感じでさらりと受け流す。そんなところも、なんとも18歳離れしていた。「俺は大丈夫」という、自負心が強いタイプなのだろう。

 また、祖父母に育てられた影響もあるのか、年配の人とも臆せず堂々と話せるのも一摩の「18歳にしてはしっかりしている」感を後押しする。若手スタッフの離職に悩む大宮シェフも、堂々たる一摩を見て期待のルーキーだと本当に思ったことだろう。

 しかし、そんな強い自負心、鼻っ面がボキボキ折られるのが社会というものだ。勤務初日、銀色の厨房の中で一摩は何もできない自分に固まりに固まり、早くも心が折れてしまい、辞めたいとまで大宮シェフに伝えてしまう。

 それまでの自信満々な様子から、いくらなんでもずいぶん振れ幅が激しいと思ってしまったが、そもそも一摩が上京以前に醸し出していた「自信」は、料理をろくにしたことがないのに一流の料理人になりたいと語ってしまうような、ずいぶんふわふわとしたものだったのだ。

 一摩に限らず、誰でも社会では冷や汗や恥をかきながら成長していくしかないのだと思う。そうやって時間をかけて身についていったものが、真の自信になっていくのだろう。

 仕事は「はじめはできなくて当然」だ。一方、一摩のように初日で見切りをつけそうになる若者も少なからずいる。見切りをつけるのがいくらなんでも早すぎるのだが、そういう若者は「はじめはできなくて当然」という言葉を聞いたことはあるものの、実際の体感覚としてまるでわかっていないのだと思う。

 徐々にやれるようになっていくことをわかっていないから、すぐ「向いていない」「辞めたい」と言い出してしまったり、実際に逃げてしまうのだろう。しかし私自身も18歳の頃を振り返ると、一摩のことを言えないくらい右も左もわからない若者だった。

 18歳は選挙権もあるというのに、なぜ、こうも右も左もわからないくらい「幼い」のか。それは、若者がそれまで過ごす学校社会と実際の社会が分断されすぎているせいもあるように思う。多くの高校が学業優先のもと、アルバイトを禁止している。

 そのため、一摩のように多くの若者が「できない自分が情けなくて恥ずかしい」と思いっきり冷や汗をかくのは、高校を卒業し大学生や専門学校生になりアルバイトをしてから、もしくは、高校を卒業し就職し社会に出てからと、高校を卒業してからなのだ。

 個人的に、これは遅いのではないかと思う。学校の勉強をいくら頑張ったところで身に付かない、社会特有の「はじめはできなくて当然」の感覚を、もっと早くから体でわかっていたほうが、「はじめはできなくて当然」を「人生の挫折」や「自分は社会生活や働くことに向いていない」とまで大げさに勘違いしてしまったり、働くことに対し不必要に怯えずに済むのではないだろうか。

 なお、厚生労働省が2020年10月に公表した「新規学卒就職者の離職状況」によると、新規大卒就職者の就職後3年以内離職率は、32.8%だという。実際の仕事や職場の人間関係がイヤだったのなら仕方がない離職だが、このうち、一摩がそうなりかけたような「はじめはできなくて当然」がわかっていないうえでの離職も少なくないように思う。これは本人にもそうだし、雇用する側にしてもとても不幸なことだと思う。

 次週の『ザ・ノンフィクション』は今回の後編。東京で修行を続ける一摩だが、北海道で暮らす祖父のガンの病状は悪化していってしまう。

『ザ・ノンフィクション』勤務初日で辞めたいと言う18歳「新・上京物語 前編 ~煙突とスカイツリーと僕の夢~」

 日曜昼のドキュメント『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)。3月28日は「新・上京物語 前編 ~煙突とスカイツリーと僕の夢~」というテーマで放送された。

あらすじ

 2020年6月、北海道、製紙工場の煙突が立ち並ぶ苫小牧市から料理人を目指し上京した18歳の一摩。就職先はかつて人気テレビ番組『料理の鉄人』(同)にも出演した洋食の巨匠・大宮勝雄シェフが経営する浅草の名店「レストラン大宮」だ。

 一摩は幼い頃に両親が離婚。父親も若くして亡くなったため、祖父母に育てられた。祖父の美智男は料理人で、天皇陛下の皇太子時代に料理を提供したこともあるという。美智男は肺がんを患い2年前に現役を引退したが、今も家ではシェフコートを着て家族に本格的な料理を振る舞う。

 美智男は東京で修業時代を共にした大宮シェフに一摩を託す。一摩は一流の料理人になりたいと祖父母や友人にも話し、その姿は自信がみなぎっているが、自分で料理をしたことはほとんどない。

 新型コロナウイルスの感染拡大の影響もあり、2カ月遅れでようやく上京できた一摩は、東京駅の目の前にある新丸ビル内の、レストラン大宮の支店で働くことになる。しかし勤務初日、一摩の包丁を持つ手つきはおぼつかず、右も左もわからない厨房の中で、それまでの意気揚々とした様子から一変、見るからにションボリとしていき、賄いの昼食もろくに喉を通らない。

 そしてその晩、大宮シェフに初日にして辞めたいとまで伝えてしまう。大宮シェフの説得もあってまずはとどまった一摩だったが、疲れた様子で勤務初日を終える。

自信満々に見えた18歳、勤務初日でつまずく

 人には、見るからに貫禄を感じさせるタイプや、逆に頼りなく見えてしまうタイプなどがあるが、一摩は典型的な前者だ。体格の良さや顔立ちも相まって、18歳にして一摩はすでに貫禄があった。

 番組の冒頭で地元、苫小牧の友人と話すシーンでは、一度も行ったことのない東京に一流シェフになるべく上京する一摩を、友人はしきりに感心していたが、そのときも一摩は謙遜したり照れたりせず、どうってことない感じでさらりと受け流す。そんなところも、なんとも18歳離れしていた。「俺は大丈夫」という、自負心が強いタイプなのだろう。

 また、祖父母に育てられた影響もあるのか、年配の人とも臆せず堂々と話せるのも一摩の「18歳にしてはしっかりしている」感を後押しする。若手スタッフの離職に悩む大宮シェフも、堂々たる一摩を見て期待のルーキーだと本当に思ったことだろう。

 しかし、そんな強い自負心、鼻っ面がボキボキ折られるのが社会というものだ。勤務初日、銀色の厨房の中で一摩は何もできない自分に固まりに固まり、早くも心が折れてしまい、辞めたいとまで大宮シェフに伝えてしまう。

 それまでの自信満々な様子から、いくらなんでもずいぶん振れ幅が激しいと思ってしまったが、そもそも一摩が上京以前に醸し出していた「自信」は、料理をろくにしたことがないのに一流の料理人になりたいと語ってしまうような、ずいぶんふわふわとしたものだったのだ。

 一摩に限らず、誰でも社会では冷や汗や恥をかきながら成長していくしかないのだと思う。そうやって時間をかけて身についていったものが、真の自信になっていくのだろう。

 仕事は「はじめはできなくて当然」だ。一方、一摩のように初日で見切りをつけそうになる若者も少なからずいる。見切りをつけるのがいくらなんでも早すぎるのだが、そういう若者は「はじめはできなくて当然」という言葉を聞いたことはあるものの、実際の体感覚としてまるでわかっていないのだと思う。

 徐々にやれるようになっていくことをわかっていないから、すぐ「向いていない」「辞めたい」と言い出してしまったり、実際に逃げてしまうのだろう。しかし私自身も18歳の頃を振り返ると、一摩のことを言えないくらい右も左もわからない若者だった。

 18歳は選挙権もあるというのに、なぜ、こうも右も左もわからないくらい「幼い」のか。それは、若者がそれまで過ごす学校社会と実際の社会が分断されすぎているせいもあるように思う。多くの高校が学業優先のもと、アルバイトを禁止している。

 そのため、一摩のように多くの若者が「できない自分が情けなくて恥ずかしい」と思いっきり冷や汗をかくのは、高校を卒業し大学生や専門学校生になりアルバイトをしてから、もしくは、高校を卒業し就職し社会に出てからと、高校を卒業してからなのだ。

 個人的に、これは遅いのではないかと思う。学校の勉強をいくら頑張ったところで身に付かない、社会特有の「はじめはできなくて当然」の感覚を、もっと早くから体でわかっていたほうが、「はじめはできなくて当然」を「人生の挫折」や「自分は社会生活や働くことに向いていない」とまで大げさに勘違いしてしまったり、働くことに対し不必要に怯えずに済むのではないだろうか。

 なお、厚生労働省が2020年10月に公表した「新規学卒就職者の離職状況」によると、新規大卒就職者の就職後3年以内離職率は、32.8%だという。実際の仕事や職場の人間関係がイヤだったのなら仕方がない離職だが、このうち、一摩がそうなりかけたような「はじめはできなくて当然」がわかっていないうえでの離職も少なくないように思う。これは本人にもそうだし、雇用する側にしてもとても不幸なことだと思う。

 次週の『ザ・ノンフィクション』は今回の後編。東京で修行を続ける一摩だが、北海道で暮らす祖父のガンの病状は悪化していってしまう。

『ザ・ノンフィクション』2万1,701人の、日本で就学不明の外国籍の子ども「ふたりの1年生 ~新米先生と海の向こうから来た女の子~」

 日曜昼のドキュメント『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)。3月21日は「ふたりの1年生 ~新米先生と海の向こうから来た女の子~」というテーマで放送された。

あらすじ

 2019年4月に中国から東京の小学校に転校してきた1年生のナイヒ。クラス担任は教師になって1年目の23歳の橘川先生だ。ナイヒは日本語がほぼわからず、橘川先生も「まさか(言葉のわからない児童が自分のクラスに)いるとは思わなくて」「どうしようかな」と率直な思いを番組スタッフに話す。橘川先生も懸命に指導するものの、半年ほどたった19年9月においても、ナイヒはクラスになじめず、授業もわからないままで、学校では固まった表情だ。

 ナイヒは、日本で自分の店を持ちたいという母親と共に中国からやってきたが、母親は仕事に専念すべく職場の近くで暮らし、ナイヒは先に中国から来日していた叔父夫婦の家に預けられる。中国語が飛び交う叔父一家で、ナイヒはいとこたちと楽しそうに遊ぶが、母親を恋しがる。

 2学期の後半の「学芸会」で、橘川先生はナイヒに3つのセリフを割り当てる。日本語を口にするのが怖いナイヒは、練習中、小さな声でたどたどしくしかセリフを言えなかったが、橘川先生、級友のサポートや、家で叔母やいとこたちと特訓することで、学芸会当日は堂々とセリフを言うことができた。

 翌年、20年2月に行われた公開授業で、母親は来ないだろうと諦めていたナイヒのもとにサプライズで母親が現れる。橘川先生の告げた時間通りに、時計の針を合わせる授業で正解するなど、日本語の理解も深まっていた。

 授業が終わった後、ナイヒは日本語で「橘川先生大好きありがとう」とお礼を告げる。それから1年後、ナイヒは母親が家を買ったことで転校したが、日本語漢字検定の10級を取得し、スタッフとの挨拶などもスムーズになっており日々の努力がうかがえた。

 私は、 思春期以降に自国で母国語以外の外国語を習得した人たちのことを 全員尊敬している。「言いたいことはあるのに伝える手はず、 技術がない」ゆえに悔しい、恥ずかしい、 怖い思いを何度も何度もしながら、 それでも諦めずに挑戦し続けるという、 途方もない努力を成し遂げた人たちだからだ。

 一方のナイヒは、「帰国子女」枠ともいえる。7歳ならまだ頭も柔らかいし、「恥」などの意識も思春期よりは薄いだろうし、労せずペラペラになれるのでは……? 7歳なら海外生活のスタートとして割と理想的な年齢では……? とすら思っていたが、今回ナイヒの苦労やつらそうな姿、それでも努力する姿を見て、考えを改めることにした。

 小学1年生でも、すでに「できない自分が悔しい、恥ずかしい、話すことが怖い」という気持ちは当然ある。小学校入学当初のナイヒはおそらく、さっぱりわからない授業を前に固まっていたが、2年後となる番組の最後では、日本語漢字検定の10級を取得していた。番組スタッフへ向ける表情も明るくなっていて、言葉に自信がついたことがうかがえる。ナイヒの頑張りを尊敬する。

 また、番組でいいな、と思ったシーンはナイヒの中学生のいとこ、コウキの中学校でのシーンだ。コウキが日本に来た時期については触れられていなかったが、中国の学校を転校するときの映像から、小学校中~高学年くらいで来たように見える。

 小学校入学のタイミングで転校したナイヒでも苦労するのだから、コウキの日本語習得はさらに厳しいものだったと思う。それでも勉強を続けるコウキは、中学校で同級生に話しかける。その会話がよかった。まず互いに「こんにちは」とあいさつし、「1年〇組の〇〇(名前)です」と紹介しあったあと、こんなやりとりをしていた。

コウキ「席が変わったので、よろしくお願いします」
友達「おう、そうなの?」

 話しかけようとトライするコウキも前向きだし、それを「おう、そうなの?」と明るい感じで返す同級生も優しい子だなあ、と思った。伝える側が一歩踏み込む勇気を持つことと、受け取る側が想像力という優しさを働かせることがコミュニケーションの本質なのだと思う。

 2人の中学生の短いやりとりにはそれが良く出ていた。私も仕事で一度英語のプレゼンをしたことがあり、外国語の勉強は苦労だらけと言っていいくらい大変なことだと、そのとき痛感した。一方で、外国語の勉強は、母国語だけで生活しているとつい見落としがちな、人とつながる喜びも教えてくれる。

「就学不明」の外国籍の子供は2万1,701人

 番組では日本で暮らす外国籍の小、中、公立学校に在籍している児童生徒は年々増加傾向にあり、8万2,000人いると伝えられていた。

 ナイヒの母親は、来日当初は仕事に専念すべく職場のそばで暮らし、ナイヒはすでに日本で生活している叔父夫婦に預けられ、親子別々に生活していた。学校では1日中固まったままで過ごしているのに、母親にも甘えられないナイヒの状況は気の毒だったが、一方叔父夫婦の家では中国語が飛び交い、ナイヒはいとこと楽しそうに遊んでいたし、いとこや日本人の叔母と日本語の勉強もできるなど、孤立しない環境はあったと思う。

  一方で、中学校に通う年齢にありながら、学校に通っているかを確認できない「就学不明」の外国籍の子どもが、2万1,701人に上ることが国の全国調査でわかっている(※1)。

※1:外国籍の子、就学不明2万2000人 国が初めて全国調査(毎日新聞)

 ナイヒとナイヒの母親も、もし「日本ですでに暮らしていた叔父夫婦」という頼れる存在がなかったら、日本での生活は全く違った過酷なものになっただろう。頼れる血縁者や同じ国の出身者のコミュニティがないまま日本で暮らす外国人の孤立が、就学不明の2万1,701人という数を映しているように思う。

 法律上、「教育を受けさせる義務」の対象は自国民のみで外国人の子ども(日本国籍を持っていない者)に就学義務はない(※2)。しかし、公立の義務教育諸学校への就学を希望する場合には、国際人権規約なども踏まえて、日本人児童生徒と同様に無償で受け入れができるよう、文部科学省は全国の教育委員会に通知しているとのこと。

 だが現実問題として、外国人向けのプログラムなどない公立学校では日本語についていけず孤立し、そのまま学校に通えなくなる外国籍の子どもも多いという。

 一方、日本語がわからない子どもに配慮があり、子どもが通いやすいであろう外国人学校は、授業料が高額という問題もある(※2)。日本は人口が減る一方で、社会が外国人抜きでは成立しなくなっている。孤立した2万1,701人は社会問題だと思う。

 次週の『ザ・ノンフィクション』は「新・上京物語 前編 ~煙突とスカイツリーと僕の夢~」。製紙工場の煙突が立ち並ぶ北海道・苫小牧市から料理人を目指し上京する18歳の一摩。就職先は洋食の巨匠・大宮勝雄シェフが経営する有名店「レストラン大宮」だ。夢と現実の間でもがく18歳の姿を見つめる。

※2:外国人は「対象外」ってどういうこと? 外国人”依存”ニッポン(NHKの特集サイト)

「宣言解除したら月に1,000人死にますけど」「淳さんのせいで聖火ランナー辞めた」ひろゆき氏、『グッとラック』で発言

 3月17日放送の『グッとラック!』(TBS系)に出演した、「2ちゃんねる」の創設者で実業家の“ひろゆき”こと西村博之氏の放埒な発言が、この日スタジオに響き渡った。

 1都3県に出されている緊急事態宣言について、政府は今日17日にも、予定通り21日の期限で解除する方針を関係閣僚らに確認する見通しだ。だが2週間前、首都圏に先立って緊急事態宣言が解除された大阪では繁華街などで人出が急増。現地の医療現場は危機感を募らせているという。

 そんな中、スタジオでも“宣言”を解除すべきか話し合われていた。NON STYLE・井上裕介は政府に対し「今の現状が想定内なのか、想定外なのか教えてほしい」と、現在の感染状況をどう認識しているのか示すべきと訴え、さらに「専門家の方も、言う人で意見が全然違うから、誰を信じればいいかわからない」と不満を口にした。

 すると井上の意見に、ひろゆき氏はすかさず、「未来予測を含むので、誰を信じる、誰が正しいとかではない」とピシャリ。 その上で「感染者数を見るよりは、病院のひっ迫度」と問題点を述べ、「あと20人でも重症者が出たら『まずいよね』という場所もあれば、あと50人ぐらいは『大丈夫』という場所もある」と話し、地域医療の現場は状況に差があるとした。

「さらにひろゆき氏は『ただ、このまま「解除しました」と言ったら、日本中、飲食店に行ってお酒飲んで好きにやってくださいとなってしまう』と気の緩みを危惧。『そのときに「月に1,000人ぐらい死にますけど、それはいいですよね?」と、政府はちゃんと言っておいたほうがいい』と強い言葉で求め、『みんな営業したいです、解除したいです、というのであれば、その副作用として、「大体高齢者の人が月に1,000人ぐらい亡くなっちゃいますけど、それは皆さんが望んだことですよね」って言わないと』と投げかけました。しかし、この後、誰もこの言葉に触れることはなかったです」(芸能ライター)

  その後、ロンドンブーツ1号2号・田村淳が東京オリンピック・パラリンピックについて「オリンピックを開催したら気持ちが上がってしまう気もする」「国民の命を考えたら、どう考えればいいのかな」と、開催への懸念を口にすると、ここでもひろゆき氏は「だって、淳さんのせいでみんな聖火ランナー辞めてる」と発言。淳は先日、聖火ランナーの辞退を発表したが、ひろゆき氏の言葉に苦笑いしながら、「あの方々は、前もって辞退を表明してる方々なんで、俺のせいじゃないから」と、いさめていた。

 そんな『グッとラック!』も今月26日をもって終了。ネット上では、ひろゆき氏と淳の続投を望む声も見受けられるが、2人の共演が地上波でかなうことはあるのだろうか。
(村上春虎)

『ザ・ノンフィクション』東北出身者に「地震のとき大丈夫でしたか?」と聞くことの重さ「わすれない 僕らが歩んだ震災の10年<後編>」

 日曜昼のドキュメント『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)。3月14日は「わすれない 僕らが歩んだ震災の10年<後編>」というテーマで放送された。

あらすじ

 東日本大震災による津波の被害で全校児童の約7割にあたる74名もの子どもと教員10名が命を落とした宮城県石巻市の大川小学校。当時小学5年生だった哲也は山に流され助かるも、同じく大川小学校に通っていた妹と、母親、祖父を喪い、学校の近くにあった自宅も津波で流されてしまう。

 奇跡の子、として哲也のことを多くのマスコミが注目する。なお、大川小学校の児童で当時マスコミの取材に答えていたのは哲也だけだった。「全国のみんなに東北はこれほど被害を受けたので知ってもらいたいと思った」と小学生の哲也は話すも、父親の英昭は「あんまり出来過ぎた哲也を演じるのは、あいつにはものすごく苦痛だと思う」と案じる。哲也に対し出たがり、目立ちたがり屋という声もあったといい、普段は明るい様子の哲也もこのことを話すときは顔を曇らせる。

 21歳になった現在の哲也は当時を「(大人に)気は使ってたんじゃないですかね。俺もそうでしたけど、子どもながらに大人の表情とか雰囲気って。子どもって敏感じゃないですか。大人が嬉しい、悲しい、怒ってるとか。喜怒哀楽ってすごく伝わってくるんですよね。大人が大変だから自分たちが迷惑かけちゃいけないって」「震災当時の子どもは子どもじゃいられなかったんじゃないですかね」と振り返る。

 震災翌年の2012年から、地震直後の大川小学校の教職員側の対応を問題視する声が高まっていく。すぐ裏手に山がある立地にもかかわらず、児童たちは津波到着直前までの51分間校庭に待機させられていた。遺族の3分の1が県と市を提訴。原告団の中には英昭もいた。英昭は夜勤もある仕事と大川小学校のガイド、裁判の準備にと多忙な日々を送る。

 また、大川小学校は訪れる人が絶えない震災の象徴的な場所となっていったが、遺族の中には学校自体の取り壊しを望む声もあった。哲也は思い出のある学校を残したく、東京で開催されたシンポジウムにも参加するも、そこで、亡くなった友人の母親が取り壊しを希望している声を聞き、「すごく申し訳ないというか、みんなどういう気持ちで亡くなっていったのか考えてしまって、そこからいろいろ連想してしまって。重くなってきた」と沈痛な面持ちで胸の内を話す。

 その後、卒業生を中心に校舎を残すことを望む声が集まり、2016年3月、大川小学校は震災遺構として保存することが決まる。なお、遺族の県と市を訴えた訴訟も2018年4月、仙台高等裁判所、原告側が勝訴(のちの19年10月、最高裁でも遺族側の勝訴が確定)した。哲也自身は裁判を「好きじゃない」と話していたが、裁判を終えた英昭について「(今後は)自分の時間をしっかり取ってもらえればいいんじゃないかなって思います」と話した。

 そして震災から10年の2021年。哲也は番組スタッフに対し取材は今回きりにしてほしいと切り出した。自分自身が大川小学校の哲也であることを演じていた、と話し、「誰かのためじゃなくて自分のために時間を使わないといけない時期にきてるんじゃないかなと」と話す哲也の意思を番組スタッフも尊重。震災から10年にわたる哲也への取材が終了した。

 哲也と、また、先週放送の前編で出てきた福島県、南相馬市の絵里奈の2人は22歳、21歳だが、自分の思いを冷静に伝えるその姿はとてもしっかりしていて、大人びていた。現代日本に生きる、まだ社会に出ていない学生の22歳、21歳ならもっと浮ついてるくらいが普通だろう。

 哲也は、震災を経験した子どもは子どもではいられなかったと話していた。子ども時代を唐突に諦めなくてはいけなかった震災時の子どもたちの心境を思うと切ない。なので、哲也が中学生のときに反抗期で父、英昭と険悪な雰囲気になっているのを見て、逆にそういう子どもっぽい感情を出せるのだと、ほっとしてしまった。

 この放送の前編で、取材を受けた過去が重荷になっている哲也が気の毒だと書いたし、その思いは後編を見た今もあるが、過去はもう変えようがないことだ。哲也は自分が発している危機感に耳を傾け、そこから今後は取材を受けず自分のことを考えていくと決断し、さらにその決断を感じよくスタッフに伝えることができる。賢くて優しい青年だと思った。

 スタッフと哲也が別れるところで番組は終わったが、哲也は大丈夫だろう、と思える別れだった。

東北出身の人に「地震のとき大丈夫でしたか」と聞くことの重さ

 私は宮城県出身で、震災時は東京で生活していたが実家は今も宮城だ。出身や実家の話になると「震災の時にご実家は大丈夫でしたか?」とかなりよく聞かれる。3分の1くらいの人は聞いてきたのではないかと思うくらい聞かれた。

 相手に悪気はないのはわかるのだが、聞かれるたびにモヤっとしていた。「家族や友人を亡くしました」「家を失いました」と返ってくるかもしれない質問を、なんでそんなに軽く聞けるのだろう。そう返ってきたら、どうするつもりだったのだろう。

 今までは仕方なく話していたが、今回の前後編を見て「地震のことはあまり話したくないです」と、これからは気まずくなってもいいので言おうと思う。哲也を見て、私も哲也のように正直でありたいと思った。私が地震のときに感じたさまざまな気持ちの中には、今も残る強い憎しみもある。世間話のような状況で話せるようなものではない。

 この春、東北から上京してくる人も多いかと思うが、たぶん、そのほとんどの人が「地震のとき大丈夫でしたか?」と悪気なく聞いてくる人に会うと思う。悪気がないというより、あまりにも聞かれるので、聞くのが気遣い、マナーみたいに思っているフシすら感じる。もうちょっと想像してほしい。ここに書くことで少しでもそういう人が減ってくれればと願う。

 次週の『ザ・ノンフィクション』は「ふたりの1年生 ~新米先生と海の向こうから来た女の子~」新米小学校教師、橘川先生のクラスには、日本語が話せない中国からの留学生、ナイヒちゃんがいた。新米教師と日本語がわからない2人の「1年生」の2年の記録。

『ザ・ノンフィクション』震災の取材に応じた過去が重荷になる『わすれない 僕らが歩んだ震災の10年<前編>』

日曜昼のドキュメント『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)。3月7日は「わすれない 僕らが歩んだ震災の10年<前編>」というテーマで放送された。

あらすじ

 2011年3月11日に発生した東日本大震災。そのとき宮城、福島にいた2人の小学生の10年を見つめた、前後編からなる放送の前編。

 1人目は哲也。当時小学5年生で、宮城県石巻市、北上川の真横にある大川小学校で被災した。大川小学校は避難の遅れもあり、全校児童の約7割にあたる74人の子どもと教員10人が犠牲となっている。哲也は山に流され生き残るも、母、妹、祖父を喪い、今は父と祖母と団地に住まいを移して暮らしている。

 哲也のことを「奇跡の子ども」として多くのマスコミが取材し、哲也も被害の状況を知ってもらいたい、という思いで取材を受ける。なお、番組内では大川小学校の子どもで取材に応じていたのは哲也だけ、と伝えられていた。

 カメラの中の哲也は明るい少年で、大川小学校の被災後、20キロ先にある転入先の小学校へ、父親に送られ通っていた。2021年、21歳になった哲也は、番組スタッフに今回で取材は最後にしてほしい、と気を使った様子で切り出した。

 2人目は絵理奈。福島県南相馬市、小高区で暮らしていた。絵理奈の暮らす地域周辺は津波の影響はなかったようで、地震発生直後もクラスの男子が、「遊ぶ約束してたけど、きょう遊べなくねぇ」と話す、どこかのんきな様子だったという。

 しかしその地震で東京電力福島第一、第二原発事故が発生。半径20キロ圏内に避難指示が出て,、小高区は「人が住めない町」になる(現在は解除)。絵理奈は「さよなら」すら言えないまま、同級生たちと離れ離れになってしまう。

 絵理奈一家は、避難所や親戚の家を転々とし、4月に福島県の二本松市に移る。地震から1カ月にして引っ越しは6回目。仲の良い友達もできるが、放射線量についての報道を受け、母親は親戚のいる埼玉へ「子どもだけは」と引っ越しを切り出す。

 地元愛の強い絵理奈は顔を曇らせるも、12年1月、仕事のある父親だけ福島に残り、埼玉へ転居する。絵理奈は「私たちが使っていた電気じゃないのに、なんでそれのためにこんなにいろんなところに行ったりしなきゃいけないのかな」と思いを話す。

 中学校途中からの転居で、うまくなじめないところもあり、高校は父親のもとで福島の高校へ通うことを希望していたが、「お父さんとお母さんが考えてここ(埼玉)に連れてきたのに、そいういうこと(福島への進学)を言うのはやっぱりわがままかなと思ったし」と話し、埼玉の高校に進学、今も埼玉県で暮らしている。

 今、21歳となった哲也は、かつて取材を受けたことに後悔があったように見えた。苦悩している哲也を見ると、取材を受けないほうがよかったのかもしれない、と苦しくなった。幼い頃の哲也の映像は、当時の人たちを知ることができる貴重なものだと思うし、震災直後、週3〜4回も葬式や通夜が続いていたという話は壮絶だった。しかし、それで今の哲也が苦しいのなら、取材映像を残すことの必要性とは? と、考えさせられてしまった。

 まだまだ成長途上で、環境や人生が大きく変わっていく10代の子どもの気持ちは移ろっていくのが自然なことだと思う。当時最善を尽くした決断であっても、その気持ちは変わるものだと、自分自身の子ども時代を振り返っても思う。

 ましてや、哲也のした体験は「家族や友人を天災で喪う」という壮絶なものだ。大人であっても、このような経験をした際に、その思いを話したくない人だって大勢いるだろう。このような出来事への思いが、自分の中で1カ月後、半年後、1年後、10年後にどう変化していくかなど、わかりようもないことだと思う。

 今、新型コロナウイルスに対して、どういった決断や行動が果たして正解なのかわからないという難題が、社会に暮らす全員に降りかかっている。10年前、哲也は同じように「一つの正解がない難題」について向き合わざるを得なかった。

 当時は使命感で取材を受けた過去が、おそらく今、哲也の重荷になっているであろう。マイクやカメラを向けた大勢の人は今、どう思っているのだろう。

 次週の『ザ・ノンフィクション』は今回の後編。哲也の10年間の歩みを見つめる。

『ザ・ノンフィクション』震災の取材に応じた過去が重荷になる『わすれない 僕らが歩んだ震災の10年<前編>』

日曜昼のドキュメント『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)。3月7日は「わすれない 僕らが歩んだ震災の10年<前編>」というテーマで放送された。

あらすじ

 2011年3月11日に発生した東日本大震災。そのとき宮城、福島にいた2人の小学生の10年を見つめた、前後編からなる放送の前編。

 1人目は哲也。当時小学5年生で、宮城県石巻市、北上川の真横にある大川小学校で被災した。大川小学校は避難の遅れもあり、全校児童の約7割にあたる74人の子どもと教員10人が犠牲となっている。哲也は山に流され生き残るも、母、妹、祖父を喪い、今は父と祖母と団地に住まいを移して暮らしている。

 哲也のことを「奇跡の子ども」として多くのマスコミが取材し、哲也も被害の状況を知ってもらいたい、という思いで取材を受ける。なお、番組内では大川小学校の子どもで取材に応じていたのは哲也だけ、と伝えられていた。

 カメラの中の哲也は明るい少年で、大川小学校の被災後、20キロ先にある転入先の小学校へ、父親に送られ通っていた。2021年、21歳になった哲也は、番組スタッフに今回で取材は最後にしてほしい、と気を使った様子で切り出した。

 2人目は絵理奈。福島県南相馬市、小高区で暮らしていた。絵理奈の暮らす地域周辺は津波の影響はなかったようで、地震発生直後もクラスの男子が、「遊ぶ約束してたけど、きょう遊べなくねぇ」と話す、どこかのんきな様子だったという。

 しかしその地震で東京電力福島第一、第二原発事故が発生。半径20キロ圏内に避難指示が出て,、小高区は「人が住めない町」になる(現在は解除)。絵理奈は「さよなら」すら言えないまま、同級生たちと離れ離れになってしまう。

 絵理奈一家は、避難所や親戚の家を転々とし、4月に福島県の二本松市に移る。地震から1カ月にして引っ越しは6回目。仲の良い友達もできるが、放射線量についての報道を受け、母親は親戚のいる埼玉へ「子どもだけは」と引っ越しを切り出す。

 地元愛の強い絵理奈は顔を曇らせるも、12年1月、仕事のある父親だけ福島に残り、埼玉へ転居する。絵理奈は「私たちが使っていた電気じゃないのに、なんでそれのためにこんなにいろんなところに行ったりしなきゃいけないのかな」と思いを話す。

 中学校途中からの転居で、うまくなじめないところもあり、高校は父親のもとで福島の高校へ通うことを希望していたが、「お父さんとお母さんが考えてここ(埼玉)に連れてきたのに、そいういうこと(福島への進学)を言うのはやっぱりわがままかなと思ったし」と話し、埼玉の高校に進学、今も埼玉県で暮らしている。

 今、21歳となった哲也は、かつて取材を受けたことに後悔があったように見えた。苦悩している哲也を見ると、取材を受けないほうがよかったのかもしれない、と苦しくなった。幼い頃の哲也の映像は、当時の人たちを知ることができる貴重なものだと思うし、震災直後、週3〜4回も葬式や通夜が続いていたという話は壮絶だった。しかし、それで今の哲也が苦しいのなら、取材映像を残すことの必要性とは? と、考えさせられてしまった。

 まだまだ成長途上で、環境や人生が大きく変わっていく10代の子どもの気持ちは移ろっていくのが自然なことだと思う。当時最善を尽くした決断であっても、その気持ちは変わるものだと、自分自身の子ども時代を振り返っても思う。

 ましてや、哲也のした体験は「家族や友人を天災で喪う」という壮絶なものだ。大人であっても、このような経験をした際に、その思いを話したくない人だって大勢いるだろう。このような出来事への思いが、自分の中で1カ月後、半年後、1年後、10年後にどう変化していくかなど、わかりようもないことだと思う。

 今、新型コロナウイルスに対して、どういった決断や行動が果たして正解なのかわからないという難題が、社会に暮らす全員に降りかかっている。10年前、哲也は同じように「一つの正解がない難題」について向き合わざるを得なかった。

 当時は使命感で取材を受けた過去が、おそらく今、哲也の重荷になっているであろう。マイクやカメラを向けた大勢の人は今、どう思っているのだろう。

 次週の『ザ・ノンフィクション』は今回の後編。哲也の10年間の歩みを見つめる。

『ザ・ノンフィクション』医者にはなれないけど「声優」にはなれると思っている「声優になりたくて ~カナコとせろりの上京物語~」

 日曜昼のドキュメント『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)。2月28日は「声優になりたくて ~カナコとせろりの上京物語~」というテーマで放送された。

あらすじ

 俳優、声優の事務所『俳協』の練習生、唐崎圭那子(30)と松元せろ里(22)。半年間の練習期間の終了後、選抜試験が行われるが、志願者200人に対し、合格者は15人という非常に狭き門だ。なおこの選抜で選ばれたら俳協に所属できるというわけではなく、さらに半年のレッスンのあと最終的に俳協に声優として所属できるかどうかが判断される。

 圭那子は大阪で会社勤めをしながら、27歳で劇団に入る。声の演技をほめられたこともあり上京し声優を目指す日々だ。生活のあては失業保険だがそれも期限がきれてしまう。一方、せろ里は新卒の就職活動においてテレビ局を受けたが採用されず、一般企業からは内定をもらったものの、声優の夢を諦めきれず鹿児島から上京。声優や俳優を目指す人専用のシェアハウスで生活し、バイトを3つかけもちしながらカラオケボックスで発声練習に励んでいる。

 俳協の選抜試験の結果は、せろ里は合格、圭那子は不合格。せろ里の父親は番組の取材に対し「何年かしたら『帰ってくる』って言うでしょ。キリがないというか、悟るでしょう」と話し、そういった苦労も人生のためになる、と冷静だ。

 一方で諦めきれない圭那子は、演技指導の教師から「(声優の)マネージャーなら紹介できる」と裏方の仕事を勧められるも、オーディションを受け続ける。惨敗が続く中、無給ではあるがラジオドラマのオーディションに受かる。圭那子は東京でパン屋の仕事をしつつ、声優への道に挑み続ける。番組では毎年声優を目指す人は3万人いると伝えられていた。

「医者や弁護士にはなれないが、声優にはなれると思っている」

 圭那子が声優事務所、ケッケコーポレーションのオーディションに落ちた理由を尋ねた時、同社の坂本和也氏は「声優って名前が欲しいとか、肩書が欲しいとか(という人は大勢いる)、でも(声優は)『職業』なんだ」「医者や弁護士は頭良くないとできないってみんなうっすらわかっているのに、声優だったらなれるってみんな思っているんだよ」と諭していた。「なぜかなれると思っている」若者たちを坂本氏は星の数ほど見てきたのだろう。厳しい言葉だが、現実を伝えており、「夢はいつかかなう」なんて言葉よりもずっと誠実な言葉に思えた。

 「医者や弁護士にはなれると思っていないのに、声優にはなれると思っている」――これは声優に限らず、俳優もそうだし、さらに演じることに限らず、絵、文章など、「人文、芸術系」の仕事を目指す人に見受けられる傾向だろう。免許や資格がいらないので「もしかしたら私だって」「あのくらいなら私だって」と、言葉を選ばずに言えば「舐められがちな仕事」でもある。だからこそそこに夢を見る余地がじるのだろう。

しかし坂本氏は、声優は夢ではなく「職業だ」と説く。職業として、それを生業としていくならば覚悟しないといけない。圭那子にしてみれば、きっと十分覚悟をしているのだろうが、その覚悟のレベルが、まだまだ数段階違う、ということなのだろう。つくづくシビアだ。

 圭那子は学校を卒業し会社に就職し、特に会社に不満はないがこのままではイヤだという気持ちが芽生え、27歳で働きつつ劇団に入り、30歳で上京する。おそらく最初は趣味程度の位置づけだった演劇が、圭那子の中で大きくなっていったのだろう。

 圭那子に限らず、「卒業して働いてみたけど、なんだかこのままじゃイヤだ」とくすぶる思いを抱える人は多いだろうし、そこで道を変える、という人も普通にいる。声優を目指していたが、諦めて勤め人に戻ると話していた圭那子の友人は、29歳と30歳の間には壁がある(30になると就職で苦労する)と話していた。

 30歳という年齢はまだ、覚悟があればいろいろなことを新たに始められる「若者」だと思う。しかし、それはやはり都市部に限ったことであり、また声優という仕事においては、30歳は若者の部類には入れないのだろうと、声優業界に疎い私ですら察する。

 30歳前後の声優を調べてみると、若手というより実績を積んだ中堅の顔ぶれが並んでいて、特に女性声優はその傾向が強い。子役出身の声優も多く、キャリア=ほぼ人生という人すらいる。30歳という年齢は、声優を目指すならかなりシビアな年齢だ。

 声優になるには、「普通に高校、普通に大学、普通にお勤め、そこから」という歩み方では遅いのだろう。残酷な業界だ。逆に言えば、「エイジズム」という言葉が出てきだした今ですら、いまだそれが極めて強い業界で、それでも「声優を職業にする覚悟はあるのか」ということなのだろう。せろ里と圭那子の今後もぜひ見たいと思った。

 次週のザ・ノンフィクションは『わ・す・れ・な・い あの日10歳だった僕は…前編(仮)』。2011年3月11日の東日本大震災で、全校児童の約7割、74人の幼い命が津波で犠牲になった大川小学校。家族や仲間の多くを失いながら生き残った哲也を「奇跡の子」としてメディアは取り上げるが……。

『ザ・ノンフィクション』令和にスマホ没収、丸刈りの過酷な修行生活「ボクらの丁稚物語 ~泣き虫同期 4年の記録~ 後編」

日曜昼のドキュメント『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)。2月21日は「ボクらの丁稚物語 ~泣き虫同期 4年の記録~ 後編」というテーマで放送された。

あらすじ

 社員を怒鳴りつけようものならパワハラ、モラハラと騒がれるこの令和のご時世に「丁稚制度」を敷く、横浜の秋山木工。一点物の高級家具を手掛ける秋山木工に入社すれば、ケータイも恋愛も、酒もタバコも禁止で、家族との連絡も「手紙」だけになる。さらに男女の区別なく、みんな丸刈りだ。しかしそのような厳しい条件の中でも秋山木工の門をたたく若者は後を絶たず、2017年は5人が入社したが、その競争率は10倍だったという。しかし入社後は半数が脱落してしまうという。

 厳しい秋山木工の丁稚制度だが、これは昭和18年生まれの秋山利輝社長自身が丁稚奉公で鍛えられた経験による。秋山は戦中戦後の混乱期において、鉛筆やノートが買えない貧しい家庭で育ち、自分の名前が書けるようになったのは中学2年生だったという。その後秋山は、16歳から5年間丁稚修行し家具職人となり、皇室の仕事を請け負うまでに職人としての技術を極めていった。なお、秋山木工は「一人前の職人になる」のがゴールであり、会社にいられるのは8年までとなる。

 2017年春に秋山木工に入社したのは5人。入社半年で1人が脱落し4人になっていた。優秀でリーダー格ながらも、短気な久保田。佐藤は家族思いの涙もろい性格で、幼少期にI型糖尿病を発症し、パイロットの夢を諦め家具職人を目指す。加藤は代々続く造園業の跡取りだが、自分より年の若い同期・久保田から叱られることもある。内藤は家具屋の家で育ち、京都大学で建築を学ぶが勉強の意義を感じられず、引きこもりになり休学。父母の勧めで秋山木工へ進む。

 久保田は1年半で退職を選ぶ。その約2年後にスタッフが尋ねると交際中だった女性と結婚し子どももでき、今は家具の取り付け職人として働いていた。佐藤は若手職人が腕を競いあう技能五輪に出場。年齢制限で技能五輪に出場できない加藤と内藤も、佐藤をサポートする。

 技能五輪の全国大会当日、佐藤は糖尿病による低血糖でめまいを起こす。審判員が気づくほどつらそうな様子だったが、チョコレートを食べてしのぎ、制作に打ち込む。技能五輪の入賞は叶わなかったが、2017年組の佐藤、加藤、内藤は今も秋山木工で修行の道を歩んでいる。年に一度、秋山木工が行う展示会では、それぞれの家族が訪れ、作品に見入っていた。

 番組の最後で秋山木工が年に一度行う展示会の様子が伝えられ、佐藤、加藤、内藤の家族が秋山木工を訪れ、はにかむ本人たちとうれしげな家族たちが印象的だった。

 学生時代は入学式や参観日など、家族が立ち会えるさまざまな行事が存在し、その都度自分の成長を家族に見せることができる。これは本人だけでなく、見る側の家族にとっても張り合いのあることだったのではないかと思う。

 一方、大人になればこういった節目はほぼなくなってしまう。家族に仕事を知ってもらう場所として展示会を設けるとは、秋山社長の計らいは粋だなと思った。大人になってからはなかなか得難い、本人にも家族にも忘れられない1日になったのではないだろうか。

 こういった会社が増えてくれればとも思ったが、なにもこういったイベントに限らなくてもいいだろう。仕事でこんなことがあった、と話したり、聞ける機会や人間関係があれば、仕事に張り合いを持ちやすくなるのではないだろうか。

 しかし現実は、仕事の話となるとどうしても「愚痴」などの形をとりがちだ。こんなことをやり遂げた、みたいに話すと自慢、マウンティングととられるから避けよう、という日本人の奥ゆかしさが根底にあるのかもしれない。

 一方、SNSは、実際に顔を合わせず、かつ、匿名の人間関係で話すこともできるため、仕事の話をする場所としては敷居が低い傾向がある。しかしこれもSNSによって文化が異なり、facebook、インスタグラムは「キラキラさせる」一方、ツイッターは真逆で「労働は地獄だ」と悪しく言うのが「お作法」状態になっているように思う。

 こういったことが「そのSNSにのっとった作法、振る舞い」だとわかっている大人ならともかく、あまり免疫のない若い世代がその価値観に染まってしまい、必要以上にキラキラしないといけないと焦ったり、必要以上に厭世的になるのは社会の損失のように思う。

 そう考えると、秋山木工の若い世代にスマホにうつつを抜かさせず、一方で展示会という場を設け、成長を身近な人に披露する機会を作る、というのは、相当過酷ではあるが、一つのバランスのようにも思った。

 番組内で、秋山木工で技能五輪を目指す2人の佐藤が紹介された。17年組の佐藤と、その先輩にあたり、技能五輪で通算二回銅賞を受賞した実力派の伸吾だ。佐藤と伸吾先輩は醸し出す雰囲気がどこか似ていた。

 言葉にすると「実直」「浮ついてない」「物静か」「根気」「マイペース」などで、いわゆる「職人」というイメージに近いと思う。職人を目指しているからそういう顔つきになっていったのか、もともとそういう顔つきだったのかはわからないが、「一点ものの家具職人」としての適性を素人ながらに感じた。

 一方、秋山木工を退職した久保田は、反応が遅めな同期に露骨に苛立ったりなど明らかにせっかちな若者で、信吾先輩や佐藤の雰囲気とは異なる。久保田が、じっくりと取り組む「一点ものの家具職人」から、仕事のスパンはそれより短いであろう「家具の取り付け職人」に転職したのは、性格に合ったよりよい選択に見えた。

 営業、看護師、キャビンアテンダント、寿司職人など、その職業ならではのイメージする顔つき、雰囲気というのはある。もちろん、そのイメージに近くなくても優秀な人もいるため一概には言えないが、「っぽさ」というのは侮れないと思う。自分の顔つきと、自分の目指す道を先に行く人の顔つきに共通点があるか、雰囲気が異なりすぎないか、というのは、適職を探す一つのヒントになるのかもしれない。

 次週の『ザ・ノンフィクション』は「声優になりたくて ~カナコとせろりの上京物語~」。30歳と22歳、声優を目指す2人の女性の、夢と現実の間で揺れる心を見つめる。

『ザ・ノンフィクション』スマホ没収、丸刈りの過酷な修行生活「ボクらの丁稚物語 ~泣き虫同期 4年の記録~ 前編」

 日曜昼のドキュメント『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)。2月14日は「ボクらの丁稚物語 ~泣き虫同期 4年の記録~ 前編」というテーマで放送された。

あらすじ

 社員を怒鳴りつけようものならパワハラ、モラハラと騒がれるこの令和のご時世に「丁稚制度」を敷く、横浜の秋山木工。一点物の高級家具を手掛ける秋山木工に入社すれば、ケータイも恋愛も、酒もタバコも禁止で、家族との連絡も「手紙」になる。さらに男女の区別なく、みんな丸刈りだ。しかしそのような厳しい条件の中でも秋山木工の門をたたく若者はあとを絶たず、2017年は5人が入社したが、その競争率は10倍だったという。しかし入社後も半数は脱落してしまうという。

 厳しい秋山木工の丁稚制度だが、これは昭和18年生まれの秋山利輝社長自身が丁稚奉公で鍛えられた経験による。秋山は戦中戦後の混乱期において、鉛筆やノートが買えない貧しい家庭で育ち、自分の名前が書けるようになったのは中学2年生だったという。その後秋山は、16歳から5年間丁稚修行し家具職人となり、皇室の仕事を請け負うまでに職人としての技術を極めていった。なお、秋山木工は「一人前の職人になる」のがゴールであり、会社にいられるのは8年までとなる。

 2017年春に秋山木工に入社したのは5人。入社半年で1人が脱落し4人になっていた。年若ながら優秀でリーダー格の久保田は、シングルマザーの家庭で育ち、最初に作った家具は母にプレゼントしたいと話す。涙もろい佐藤はI型糖尿病を幼少期に発症。低血糖状態になると意識が混濁してしまうことがあり、パイロットの夢を諦め、手先の器用さを生かし職人を目指す。

 加藤は代々続く造園業の実家を継ぐべく、職人を引っ張る人間性を身につけようと修行に打ち込むも、ミスで叱られがちなところもある。内藤は京都大学で建築を学ぶが勉強の意義を感じられず、引きこもりになり休学。自分を変えるために中退し、父母の勧めで秋山木工へ進む。

 濃密で過酷な丁稚生活は時に軋轢を生む。1年後、4人に浜井という後輩の女性丁稚ができるが、浜井は1年たたずに退社。さらに久保田も退社を選んでしまう。

丁稚のストレスライフは、スマホがないから?

 17年に入社した5人の丁稚は、今回の番組終了時点(おそらく入社から1年と少し)で、半数近い2人が退社している。過酷な競争をくぐり抜け入社できたのに、辞めてしまった背景には修行そのものの厳しさもあったと思うが、個人的には「携帯を持てない」ことも大きかったのではないかと思った。

 丁稚は共同生活で、スマホは没収、家族との連絡は「手紙」のみになる。昭和18年生まれで、そんな家電などない時代に鍛えられた秋山社長にしてみれば、それは当然のことだろうが、今のデジタルネイティブ世代が「スマホ抜き」で生活をするのはかなりしんどいように思う。

 17年入社組では、久保田が加藤に対し厳しめに当たり、加藤がむっつり押し黙るなど「じっとりと険悪」な雰囲気が伝わってきた。こんなときスマホがあれば、互いにSNSで愚痴をこぼしておくなどの息抜きはできたかもしれない。スマホとは関係のない回だったが、スマホが現代生活に果たす役割の大きさを逆に感じてしまった。もちろん、スマホがあればあったで、生活がだらけてしまう、里心がついてしまうなどの弊害もあるのだろうが。

 なお、秋山木工のホームページを見ると、この過酷な丁稚制度について詳細な説明がある。それでも入社は過酷な競争をくぐり抜けないといけないほどの高倍率だ。これは入社する側にとってのネガティブ要素も包み隠さずに書く秋山木工の姿勢が誠実だと評価されているのもあるように思う。

 一方、世の中のたいていの企業の採用情報は、建前やきれい事ばかり書かれており、入社してみたら「こんなはずでは」というギャップは大なり小なりつきものだ。しかし秋山木工の場合、そのギャップはないといっていい。

 もっといろいろな企業が、秋山木工のように労働環境をありのままきちんと伝えたほうが、入社後にギャップを感じて辞めることも少ないだろうし、会社も従業員も互いに不幸にならずに済むのではと思った。

優秀だったのに辞めてしまった久保田の「待てなさ」とは

 優秀で同期のリーダー格ながら、入社1年と少しで退職を選んだ久保田は、苛立ちなどの感情がすぐ顔にでてしまうことを先輩社員に指摘されていた。そんな久保田は、私には「待てない」性格に見えた。

 その「待てなさ」は、裏返せば「(自分自身は)テキパキできる」ことでもあり、良い方向では飲み込みの速さ、頭の回転の速さといった仕事上の優秀さにもつながっているから同期のリーダー格だったのだろう。しかし、この「待てなさ」は悪い方向にも働いている。

 番組内では久保田が加藤に対し、同期に言うというより大人が子どもを叱るような感じで叱責し、加藤がそれに押し黙ってしまうシーンが放送されていた。この時、「待てない」久保田が、加藤の「黙り込む」という反応の遅さにイライラしているように見えた。「待てない」人は待てなさゆえに、気が短くなりがちだ。さらに、「待てない」タイプは見切りも早いため、物事が長続きしない傾向もあるように思う。最終的には退社を選んだ久保田の行動は、長所にも短所にもなる「待てなさ」が根っこにあるのではないだろうか。

 「頭は悪くないのに、どうもぎくしゃくしがちでうまくいかない」人の中には、「待てない」人も結構いるように思う。「待てない」人ほど、物事をテキパキこなせるといった「速さ」に価値を置きがちなので「待つ」能力を軽視しがちに思う。

 しかし「待つ」とは「テキパキやる」と同等の偉大な能力だ。しかし、のんびり屋の人に「急げ」というのが酷なように、待てない性格の人に「待て」というのも無理なのは、私自身非常にせっかちなのでよくわかる。

 来週の後編では辞めた久保田のその後の生活も放送されるようなので、注目したい。