共働き家庭に中学受験は無謀なのか? 管理職の母が、「辞職決意」の果てに気づいたこと

“親子の受験”といわれる中学受験。思春期に差し掛かった子どもと親が二人三脚で挑む受験は、さまざまなすったもんだもあり、一筋縄ではいかないらしい。中学受験から見えてくる親子関係を、『偏差値30からの中学受験シリーズ』(学研)などの著書で知られ、長年中学受験を取材し続けてきた鳥居りんこ氏がつづる。

 中学受験は「親子の受験」であるため、親の出番が否応なく多い。例えば「塾への送迎」「お弁当作り」「塾との面談」「保護者会」「志望校の学校説明会」などが挙げられるが、これに加えて「勉強の伴走」「子どものスケジュール管理」なども日々の重要な仕事となる。

 共働き家庭の場合、この“親のサポート”というタスクをどう夫婦で分担していけるのかが、非常に大きな問題になってくるのだ。
みゆきさん(仮名)一家の場合はこうだった。息子の悠人君(仮名)は小学4年生から中学受験塾に通い出した。みゆきさんはあるIT企業で勤続20年。会社は「女性活躍推進施策」を掲げ、女性管理職を増やす方針だとかで、みゆきさんに白羽の矢が立ったそうだ。

 みゆきさんは日々の業務に管理職研修が加わり、精神的には一杯いっぱい。定時に帰れるなんてことは、夢のまた夢になったという。
頼みの夫・隆さん(仮名)も、ちょうどその頃午前様帰宅は“当たり前”という部署に栄転したばかり。夫婦のワークライフバランスは中学受験参入と同時に危うい綱渡り状態になってしまったそうだ。

 みゆきさんは当時のことをこう振り返る。

「私たち夫婦としては、ずっと共働きということもあり、親のサポートなしには乗り切れないという“ウワサ”の中学受験には、どちらかと言えば消極的でした。ところが“小4の壁”と言われている学童問題に見事にぶち当たってしまって……。とにかく、悠人を長時間預かってくれるところを探さないといけなくなり、そうなると、『安心安全の場は中学受験塾』という結論になったんです」
悠人君は嫌がらずに受験塾に通うようになったものの、なかなか成績は上がらない。一度やり始めたのならば、それなりの成果を上げるのは当然という意識が強いみゆきさんは、自己嫌悪を募らせていき、家庭もドンドンと暗くなっていったという。

「オーバーワーク気味の私は、専業主婦のいるお宅のように勉強をみることはできないし、ましてや夫に頼むことも無理。塾の保護者会で、先生から『(大量にある)プリント管理は親の仕事です』と言われると、サポートがうまくできない私は“ダメ親”なんじゃないかと心底落ち込み、一時は辞職も真剣に考えたんです」

 しかし、みゆきさんは結果として、辞職せずに中学受験もやり遂げた。

「5年生の秋頃でしたかね? 悠人に聞いたんです。『ママ、仕事辞めようかな?』って。そしたら、悠人が言うんですよ。『俺のせいにすんなよ!』って……。『ずっとプライド持って続けてきた仕事を簡単に手放すの? ママにとって仕事ってそんなもんなの?』って言われて、気が付きました。共働きで、確かに悠人には寂しい思いもたくさんさせてきたとは思うんですが、でも息子はこんな母親のことをずっと応援してくれてたんだなって。だったら、私は仕事を辞めずに、悠人のサポートもできる限りやるんだ! って決意しました」

 それからみゆきさんは、中学受験をマネジメントすることにしたそうだ。

「今まで、『母親だから、これをしないといけない、あれもやらないといけない』って勝手に自分を縛り付けていました。例えば、栄養価のあるお弁当が作れないとか、そういう細かいことも含めて、ドンドンと自分をマイナス評価していることに気が付いて、まずはその思考をやめることにしたんです」

 そこで、みゆきさんはアウトソースを最大限利用するという方針に切り替えたという。すなわち、塾弁は作らず、軽食を買うお金を悠人君に渡して、帰宅後、一緒に軽い夕食で食卓を囲むといった具合だ。また、みゆきさんが自分を責め続けたプリント管理については、悠人君を「塾のための塾」に通わせること(悠人君自身が希望したという)で対応。そこで「親の仕事」と言われた、プリント整理や苦手問題の補強をじっくりとやってもらったそうだ。

 一方、人に任せられない塾の保護者会については、もし仕事で出席できなかった場合、「後日、塾に電話をして内容を確認する」ことにしたという。要は、自分でなければできない仕事と、ほかの人でもできる仕事に分け、その優先順位を確認。うまくいかない部分は原因を分析し、都度、柔軟に考えるという作戦に切り替えたという。

「私って完璧主義の気があって、なんでも自分がやらないと気が済まなかったんですね。それで、今までバランスを取ってこられたから、なおさら中学受験も絶対に自分だけで大丈夫! って思い込んだんです。でも、現実はオーバーワークになって、思うように動かなかった。それで、全部をなかったことにして、辞職まで考えちゃって……。もっと、できない自分を認めて、協力者を募ればよかったと思います」

 みゆきさんの覚悟が決まってから、不思議なことに、まず夫である隆さんの変化が見られたそうだ。休みである土日は隆さんの当番。学校説明会への出席、塾の送迎、模試の付き添い、その後の見直しなども含めて、全面的に協力してくれるようになったという。隆さんは息子と二人だけの「男同士」の時間を特に大切にしていたらしく、これが悠人君にも好循環になっていったと聞く。
悠人君にこの頃の印象的な話を聞いたら、こういうことを教えてくれた。

「父は時々、僕が好きな車両基地とかに連れてってくれたりして、息抜きを率先してやってくれました。母はそういうことが苦手なんで……(笑)。あと、父はエンジニアなんですが、街で父の会社の製品を見つけると、説明してくれたりして、単純に『エンジニアってカッコいいな』って思いました。父が『今やっている学習は将来的には、こうつながっていく』みたいな話もしてくれたので、その時はまだよくわからなかったんですが、受験勉強は自分にとって意味があるものなんだってことだけは、わかっていたと思います」

 共働き家庭の方が、筆者に「子育て人生の中で最大の負荷は中学受験」と教えてくれたことがあるが、負荷はあるものの、良いこともたくさんあると思う。みゆきさんはこう言っていた。

「今、私は無事に管理職として業務を続けているのですが、部下たちから『丸くなった』って言われるんです(笑)。中学受験を通して、『自分が! 自分が!』ではなく、皆で協力して、どうにかやっていくってことが大事だって心底わかりました。それが中学受験の効能の一つです。もちろん、家庭内の空気もすごく良くなったと自負しています」

 中学受験に向かっている共働き世帯は、常に時間と体力の葛藤だ。その配分は家庭ごとに違うのは明白だが、問題ができたら、その都度、臨機応変に考え、頼れるものは存分に頼り、軌道修正していくことが成功への道筋なのかもしれない。悠人君は現在、中学2年生。あこがれ続けた名門校の鉄道研究会部員として張り切っている。
(鳥居りんこ)

共働き家庭に中学受験は無謀なのか? 管理職の母が、「辞職決意」の果てに気づいたこと

“親子の受験”といわれる中学受験。思春期に差し掛かった子どもと親が二人三脚で挑む受験は、さまざまなすったもんだもあり、一筋縄ではいかないらしい。中学受験から見えてくる親子関係を、『偏差値30からの中学受験シリーズ』(学研)などの著書で知られ、長年中学受験を取材し続けてきた鳥居りんこ氏がつづる。

 中学受験は「親子の受験」であるため、親の出番が否応なく多い。例えば「塾への送迎」「お弁当作り」「塾との面談」「保護者会」「志望校の学校説明会」などが挙げられるが、これに加えて「勉強の伴走」「子どものスケジュール管理」なども日々の重要な仕事となる。

 共働き家庭の場合、この“親のサポート”というタスクをどう夫婦で分担していけるのかが、非常に大きな問題になってくるのだ。
みゆきさん(仮名)一家の場合はこうだった。息子の悠人君(仮名)は小学4年生から中学受験塾に通い出した。みゆきさんはあるIT企業で勤続20年。会社は「女性活躍推進施策」を掲げ、女性管理職を増やす方針だとかで、みゆきさんに白羽の矢が立ったそうだ。

 みゆきさんは日々の業務に管理職研修が加わり、精神的には一杯いっぱい。定時に帰れるなんてことは、夢のまた夢になったという。
頼みの夫・隆さん(仮名)も、ちょうどその頃午前様帰宅は“当たり前”という部署に栄転したばかり。夫婦のワークライフバランスは中学受験参入と同時に危うい綱渡り状態になってしまったそうだ。

 みゆきさんは当時のことをこう振り返る。

「私たち夫婦としては、ずっと共働きということもあり、親のサポートなしには乗り切れないという“ウワサ”の中学受験には、どちらかと言えば消極的でした。ところが“小4の壁”と言われている学童問題に見事にぶち当たってしまって……。とにかく、悠人を長時間預かってくれるところを探さないといけなくなり、そうなると、『安心安全の場は中学受験塾』という結論になったんです」
悠人君は嫌がらずに受験塾に通うようになったものの、なかなか成績は上がらない。一度やり始めたのならば、それなりの成果を上げるのは当然という意識が強いみゆきさんは、自己嫌悪を募らせていき、家庭もドンドンと暗くなっていったという。

「オーバーワーク気味の私は、専業主婦のいるお宅のように勉強をみることはできないし、ましてや夫に頼むことも無理。塾の保護者会で、先生から『(大量にある)プリント管理は親の仕事です』と言われると、サポートがうまくできない私は“ダメ親”なんじゃないかと心底落ち込み、一時は辞職も真剣に考えたんです」

 しかし、みゆきさんは結果として、辞職せずに中学受験もやり遂げた。

「5年生の秋頃でしたかね? 悠人に聞いたんです。『ママ、仕事辞めようかな?』って。そしたら、悠人が言うんですよ。『俺のせいにすんなよ!』って……。『ずっとプライド持って続けてきた仕事を簡単に手放すの? ママにとって仕事ってそんなもんなの?』って言われて、気が付きました。共働きで、確かに悠人には寂しい思いもたくさんさせてきたとは思うんですが、でも息子はこんな母親のことをずっと応援してくれてたんだなって。だったら、私は仕事を辞めずに、悠人のサポートもできる限りやるんだ! って決意しました」

 それからみゆきさんは、中学受験をマネジメントすることにしたそうだ。

「今まで、『母親だから、これをしないといけない、あれもやらないといけない』って勝手に自分を縛り付けていました。例えば、栄養価のあるお弁当が作れないとか、そういう細かいことも含めて、ドンドンと自分をマイナス評価していることに気が付いて、まずはその思考をやめることにしたんです」

 そこで、みゆきさんはアウトソースを最大限利用するという方針に切り替えたという。すなわち、塾弁は作らず、軽食を買うお金を悠人君に渡して、帰宅後、一緒に軽い夕食で食卓を囲むといった具合だ。また、みゆきさんが自分を責め続けたプリント管理については、悠人君を「塾のための塾」に通わせること(悠人君自身が希望したという)で対応。そこで「親の仕事」と言われた、プリント整理や苦手問題の補強をじっくりとやってもらったそうだ。

 一方、人に任せられない塾の保護者会については、もし仕事で出席できなかった場合、「後日、塾に電話をして内容を確認する」ことにしたという。要は、自分でなければできない仕事と、ほかの人でもできる仕事に分け、その優先順位を確認。うまくいかない部分は原因を分析し、都度、柔軟に考えるという作戦に切り替えたという。

「私って完璧主義の気があって、なんでも自分がやらないと気が済まなかったんですね。それで、今までバランスを取ってこられたから、なおさら中学受験も絶対に自分だけで大丈夫! って思い込んだんです。でも、現実はオーバーワークになって、思うように動かなかった。それで、全部をなかったことにして、辞職まで考えちゃって……。もっと、できない自分を認めて、協力者を募ればよかったと思います」

 みゆきさんの覚悟が決まってから、不思議なことに、まず夫である隆さんの変化が見られたそうだ。休みである土日は隆さんの当番。学校説明会への出席、塾の送迎、模試の付き添い、その後の見直しなども含めて、全面的に協力してくれるようになったという。隆さんは息子と二人だけの「男同士」の時間を特に大切にしていたらしく、これが悠人君にも好循環になっていったと聞く。
悠人君にこの頃の印象的な話を聞いたら、こういうことを教えてくれた。

「父は時々、僕が好きな車両基地とかに連れてってくれたりして、息抜きを率先してやってくれました。母はそういうことが苦手なんで……(笑)。あと、父はエンジニアなんですが、街で父の会社の製品を見つけると、説明してくれたりして、単純に『エンジニアってカッコいいな』って思いました。父が『今やっている学習は将来的には、こうつながっていく』みたいな話もしてくれたので、その時はまだよくわからなかったんですが、受験勉強は自分にとって意味があるものなんだってことだけは、わかっていたと思います」

 共働き家庭の方が、筆者に「子育て人生の中で最大の負荷は中学受験」と教えてくれたことがあるが、負荷はあるものの、良いこともたくさんあると思う。みゆきさんはこう言っていた。

「今、私は無事に管理職として業務を続けているのですが、部下たちから『丸くなった』って言われるんです(笑)。中学受験を通して、『自分が! 自分が!』ではなく、皆で協力して、どうにかやっていくってことが大事だって心底わかりました。それが中学受験の効能の一つです。もちろん、家庭内の空気もすごく良くなったと自負しています」

 中学受験に向かっている共働き世帯は、常に時間と体力の葛藤だ。その配分は家庭ごとに違うのは明白だが、問題ができたら、その都度、臨機応変に考え、頼れるものは存分に頼り、軌道修正していくことが成功への道筋なのかもしれない。悠人君は現在、中学2年生。あこがれ続けた名門校の鉄道研究会部員として張り切っている。
(鳥居りんこ)

ホストにハマる女は「まじめ」になる。引きこもり風俗嬢が出会った「ホスト・コミュニティ」

 ホストにハマりすぎている女たち――通称“ホス狂い”。「ホストに多額のカネを貢ぐ女」というイメージだけが横行する中、外の世界からはわからない彼女たちの悲喜劇がある。「ホストにハマらなかったら、今頃家が建っていた」という、新宿・歌舞伎町では名の知れたアラサー元風俗嬢ライター・せりなが、ホス狂いの姿を活写する。

「ホストに行っていなかったら、私死んでいたと思う」

 元ホス狂いの友達ユカ(仮名)は、たまにそんなことを言う。

 ユカはもともと、「ホストに行かなかったら家が建っていた」レベルの重課金プレイヤーであった。このように、「ホストにハマらなかったらそのお金で、あれやこれやができたのではないか」と考える読者は多いと思う。実際に、ホストにお金を使ったことを人に話すと、そういった反応をされることが多々あった。
しかし私が見てきた限り、その実「ホストに行っていなかったら、そもそもそこまで働くことはなかった」という女の子がほとんどなのだ。この齟齬を解消するため、ここで一つの回り道をしてみたい。

 前回、ホストクラブでお金を使って得られる「体験」について話した。私たちはブランドバックそのものではなく、「ブランドバックを好きな人からプレゼントされる体験」がほしいのだ、と。そういった疑似恋愛的な体験を買えるという魅力は、「ホストクラブ」「ホスト」そして「ホス狂い」で構成された「システム」を回転させる一要素――それも極めて華やかな一つにすぎない。そして、擬似恋愛的体験の魅力だけがホストの全てだと思うと、私たちは大いなる勘違いにハマることになる。

 水面に見える綺麗な白鳥は、水の下では一生懸命、ばた足をしている。それと同じことだ。華やかなホスト・システムの水の下――つまり今回は、それを支えるホス狂いの日常について、語ってみたいのだ。具体的に言えば、「ホストクラブに行かなかったら死んでいた」とまで言う彼女が、「なぜホストクラブに生かされてたのか」それについて書こうと思う。

 ユカは普通のOLだった。初めてホストクラブに行ったのは大学4年生、就職が決まった後の夏休みのことだ。取得すべき単位もあとわずか、残すは卒論と卒業のみというときに、ユカは初めて歌舞伎町のホストクラブを訪れた。初回でいくつかの店を体験し、その中からお気に入りの担当を見つけて、何回か飲みに行ったという。就職するまでのモラトリアムの一環――ちょっとした遊びのつもりだった。

 そして、そのときは遊びのままで終わっていた。いや、火遊び程度で済んだと言っていいのかもしれない。就職をしてからしばらくは、ホストはおろか歌舞伎町へ行くこともなかったという。

 そんな彼女が次にホストクラブを訪れた日のことを、私は深く知らない。なぜなら、私はユカがすでにホス狂いアウトバーンを爆走しているさなかに、知り合ったからだ。SM風俗店の同僚として。すでに賢明なる読者諸兄はお気づきかもしれない。そう、愉快で愛おしいホス狂いの友人たちとは、ほとんどくだんのSM店で出会っている。

 この店は、東京で最大規模のSMチェーン店だった。3年前くらいまでは、店は「ホス狂いの登竜門」と呼ばれていた。鯉もこの店で働けば竜になる、と。当然、ホストたちも存在を認知していて、店名を言うと初回の待遇が少し良くなる、とまで言われていたのだ。

 私やホス狂いの友人たちが所属していたのは新宿支店。事務所は、歌舞伎町のホテル街の最奥。仕事が終わったら最短3分後にはホストクラブにピットインできる。フェラーリもびっくりの早業である。つまり、ホス狂い的には最高の立地だ。なんなら、仕事の待機時間にもホストクラブへ行ける。歌舞伎町で稼いだお金をすぐ近くのホストクラブで使って一文無しで帰宅、なんて子も珍しくなかった。地産地消である。毎日がゼロからのスタートだ。

 そう書くと、いいことのように耳に響くが、もちろんそんなことはない。「まずはお金を無事家に持って帰るところから始めよう」とは、SM店長の言葉だが、よく言ったものである。この店の話も機会があれば書きたい。

 また余談が長くなってしまった。速やかにユカの話に戻ろう。ユカがホストクラブの扉を再び叩いたきっかけは、ざっくり2つだ。一つは、会社でうまくやっていけなくなったこと。もう一つは、彼氏と別れたこと。付き合っているはずが、相手はセフレだと思っていたそうだ。よくある認識の齟齬である。しかし、全てのいさかいはどうってことない行き違いから勃発するものであると、私たちは歴史から学んでいる。

 ともあれ、ユカはしばらく家から出られなくなったそうだ。しばらくの戦略的撤退として会社を辞めた後、彼女は風俗で働き始め、ホストクラブに通うようになった。ユカは、きっちりと週に6日、昼の12時から夜9時頃まで働き、その後はホストクラブへ足を運ぶ。自ら定めた休日は、ホストクラブの定休日と同じだった。

 ホストクラブには、ルーティンがある。たいていのホストクラブは毎週の定休日が決まっている。その定休日の前日、月に2回は、なんらかのイベントがある。誰それの誕生日やら、幹部昇格祭やら、その名目はさまざまだ。夏になれば浴衣営業の日があり、クリスマスや正月には還元と銘打って、ビンゴ大会が催されたりする。ホストクラブには四季があるのだ(ちなみに今の我が家のテレビは2年前にホストクラブのビンゴ大会で当たったものだ。現役大活躍中である)。そして、イベントが終われば月末の締め日、月が変わって月初に、前月の売り掛け(ツケ)の入金日がある。

 何が言いたいか。つまり、こういうことである。ホストクラブは極めて強固なルーティンでもって回転している。そして、このホストクラブのルーティンに沿って、ホス狂いの生活のリズムが決まっていくのだ。

 ユカは、風俗で働き始めた当初、半ば引きこもり状態で、月に何度かお金が必要なときだけ風俗に出勤していたという。冒頭の「いつ死んでもおかしくなかった」というフレーズは、このときのユカの心情だったそうだ。しかし前述の通り、私が知り合ったときのユカは、ホストクラブへ行くことを生活の軸として、規則正しく生活し、働いていた。OLのときと、同じように。学生のときと、同じように。

 こう書くと、驚く読者もいるだろう。むしろ、ホストクラブのメインカスタマーである風俗嬢たちは、だらしない人種だと思っているかもしれない。自己管理能力のなさ故に、毎朝起きて決まった時間に出社することができない。だからこそ、風俗で働かざるを得なかった、と。

 そのイメージは、半分正解で、半分間違っている。いや、確かに実際問題、風俗の世界に飛び込む人間にはそういうタイプが多いのは事実だ。私だってそうだ。決まった時間に起きられない。毎日繰り返し同じことができない。忘れ物や失くしものは日常茶飯事だ。

 しかし、ホストクラブに行くことで、風俗嬢たちのだらしなさは大幅に改善される。なぜなら、先ほど説明したホストの強固なマンスリールーティンに突入するからだ。毎月のイベントによってスケジュールを組む。入金日に向けて、労働力をうまく調整する。今月は厳しそうだから、多めに「残業」しておくかなんて思ったりする。

 これはなにかに似ていないだろうか。そう、普通の人間と会社の関係そのものなのだ。ホストに毎日足を運ぶ彼女たちは、確かに会社組織にはうまく適応できなったかもしれない。やや抽象的な表現を弄するならば、会社というコミュニティのリズムに順応できなかったのだ。しかし、ホストというコミュニティに接続することには成功した。ホストが先か、風俗で働くのが先かは大した問題ではない。

 ただし、ホスト・コミュニティが一般社会のコミュニティと決定的な違いが一つある。望めば即日参加できて、いつ去ってもいい。本名を名乗る必要もない。そんな参加と脱退のハードルの低さが、ホスト・コミュニティの魅力である。

 だからこそ、普通のコミュニティに属するのはやや難易度が高いという女の子たちを受け入れたり、一時的にそこから切断された女の子たちのシェルターとなり得る。まさに、コミュニティのセーフティネットだ。よくわからないけど、カッコいいので、こういう表現にしてみた。

 そこで女の子たちはリハビリする。ある人は一般社会に戻っていき、ある人はそのままホスト・コミュニティを終の棲家とする。もしかしたら、ホス狂いだけでなくホストたちもそうなのかもしれない。ユカの場合は前者だった。彼女は、風俗を辞め、再び昼の仕事を始めた。たまに思い出したように歌舞伎町へ遊びにくる、普通のOLになった。私はいまこうしてホストについて書いているように、後者の位置にいる。この原稿を書き終えたら、ホストクラブへ向かう予定だ。

 歌舞伎町から靖国通りを挟んだ新宿通りがやたらと遠く感じるように、私にとってユカは、もはや違う国の住人になってしまった。どちらが幸せかどうか。なんてことを語るのは無粋というものだろう。

せりな
新宿・歌舞伎町の元風俗嬢ライター。『マツコが日本の風俗を紐解く』(日本テレビ系)で、 現役時代のプレイ動画を「徹底した商業主義に支配された風俗嬢」 と勝手に流されたが、 ホストに貢いでいたのであながち間違いではない。その他、デリヘル経営に携わるなど、業界では知られた存在。 現在も夜な夜な歌舞伎町の飲み屋に出没している。
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【バックナンバー】
第1回:歌舞伎町の元風俗嬢が語る、愛しき“ホス狂い”たち――「滑稽だけど大真面目」な素顔
第2回:担当ホストに月200万円……OLから風俗嬢になった女が駆け上がった「ホス狂い」の階段
第3回:容姿や年齢より「使った金額」! ホス狂いたちが繰り広げる、担当ホストのエースをめぐる闘争
第4回:Twitterで「担当ホストの本命彼女」を暴露!! ホス狂い界隈を絶望させた“ある女の復讐劇”
第5回:ホストに月200万円使う女は、どんな接客を受けるのか? 究極の接客「本営」の実態

卒園対策委員はつらいよ……謝恩会、アルバム作成でトラブルも「幼稚園に言えない」と悩むママ

保育園、幼稚園、小学校、おけいこ事の教室などでは、日々子どもの保護者と施設側の間でトラブルが発生している。ほんの些細なことでも、自分のこと以上に気になってしまうのが親心というものなのか。わが子のことを思ってとクレームを入れるママもいれば、モンペと呼ばれることを恐れて我慢するママも。そんなトラブル事例とママの葛藤をつづる。


 「卒対」という言葉を耳にしたことはあるだろうか。卒対とは、主に幼稚園や保育園の年長さんクラスのママさんによって運営される「卒園対策委員」を指す。その委員の仕事は、卒園式後の謝恩会の予約から、出し物、先生へのお礼のプレゼント、卒園アルバムの作成など、多岐にわたる。今回は、幼稚園や保育園に通う子どもを持つ親にとっては通過儀礼とも言える「卒対」にまつわるエピソードを紹介する。

 今年春、娘が首都圏の郊外にある私立幼稚園を卒園した明子さん(仮名)は、こう語る。

「うちの最寄り駅付近は、ファミリー向け新築タワーマンションの建築ラッシュで、保育園に共働き家庭が殺到し、激戦なんです。そのため、幼稚園に通わせているママさんは、専業主婦か週2回程度のパートのママさんがほとんど。私は娘が一人っ子の専業主婦だったので、時間があるように見えたのか、卒対では謝恩会とアルバムの両方の委員を受け持つことになりました」

 明子さんの娘が通っていた園は、年長クラスが2学級総勢60人程度で、それぞれのクラスから委員が5人ずつ選任された。明子さんの代では、すでに兄や姉を同園に通わせていた先輩ママが、一緒にやりやすそうなママを委員に任命する形を取っていたという。

「歴史のある園だったので、先生も『やり方は先輩ママから聞いてください』というスタンスで、基本的に、園側は卒対にノータッチの姿勢でした。そのため、アルバム作りに賛同しない保護者が『お金を支払いたくない』と言い出して、卒対とトラブルになることも……先生に『園の方からも、未払いのママに支払うように伝えてほしい』と強く言うと、モンペ扱いされそうなので、ママとの間で解決するしかありませんでした……」

 また、委員になると時間的な負担が多いため、何もやっていないママとの間で亀裂が生じやすいという。明子さんも、「これから会議だというとき、委員をやっていないママが子どもをピアノのお稽古に連れて行くのを見ると、『私も子どもの習い事を理由に断ればよかった』と後悔しましたね」と不満げに語った。

「小学校に入ってもママ友付き合いが続くので、仕方なく委員を引き受けたんです。年が明けてからは、ちょっとした打ち合わせと称してファミレスで集まると、会議に来ない人の愚痴を言い合ったり、険悪なムードに……。任意なので、強制力はないのですが、週一で保護者の出し物であるダンスを練習したり、卒園式で保護者の胸に付けるコサージュを手作りしたりと、とにかくやることが多く、周りに良い顔をしようとすればするほど、負担が多くなって、睡眠時間を削って対応していました」

 都内にある私立幼稚園に5歳になる男児を通わせている美幸さん(仮名)は、上の子が卒園した2年前をこう振り返る。

「謝恩会の幹事を担当しました。その年は、初めて委員をする人が多く、また全体会議でも『前年度と同じ店で良い』という意見が多数だったので、油断して店の予約に出遅れてしまいました。調べると、同じ日にすでに他校の謝恩会の予約が入っており、希望の会場や店の予約が全然取れず、結局ホテルのパーティー会場を利用したため、予算内では収まらないことに。親子参加で会費が6,000円ほどになって、保護者の中からは『高い』というクレームが出ました。中には、謝恩会当日まで支払いを渋る保護者もいて、数人で『まだ払っていないですよね』と詰め寄るなど、とても苦労しましたね」

 普段から保護者参加の行事が多いような幼稚園の場合、謝恩会から始まり、卒園アルバム、記念品の制作、先生へのお礼や花束など総額5万円前後の負担になるケースもあるそうだ。そのため、卒対の母体となる父母会では、年長の1年間の間に、数回に分けて積み立てを行って保護者の負担を減らしている。それでも、美幸さんのエピソードのように、希望の会場が借りられず追加徴収が発生することも。美幸さんは2年前の経験を踏まえ、今5歳になる次男の卒園では、予定よりも多めに予算をよけておこうと考えている。

「子どもを入園させた時には、卒園時にそのような出費が必要だとは思ってもいませんでした。もともと謝恩会や卒園に関することは父母会が仕切っている場合が多いため、入園時には園側が詳しく説明できないのかもしれません。お金が絡むことですし、もっと園側も状況を把握して、入園時に説明をしてほしいものです」

 親側が、入園前に知りうる情報にどうしても限りがあるため、入園後に園側との相違が生じるのかもしれない。

 子どもたちが長い時間を過ごす幼稚園や保育園。保護者が、先生への感謝をこめた謝恩会を開くことはとても意義のあることだが、問題は山積みだ。保護者は、オフィスワークのように、謝恩会に掛かる費用や時間の負担を分担できる仕組みを整備することが必要だろう。また園側も、保護者側との役割分担を明確にすることで、少しは保護者たちの不満も解消されるのかもしれない。
(池守りぜね)

卒園対策委員はつらいよ……謝恩会、アルバム作成でトラブルも「幼稚園に言えない」と悩むママ

保育園、幼稚園、小学校、おけいこ事の教室などでは、日々子どもの保護者と施設側の間でトラブルが発生している。ほんの些細なことでも、自分のこと以上に気になってしまうのが親心というものなのか。わが子のことを思ってとクレームを入れるママもいれば、モンペと呼ばれることを恐れて我慢するママも。そんなトラブル事例とママの葛藤をつづる。


 「卒対」という言葉を耳にしたことはあるだろうか。卒対とは、主に幼稚園や保育園の年長さんクラスのママさんによって運営される「卒園対策委員」を指す。その委員の仕事は、卒園式後の謝恩会の予約から、出し物、先生へのお礼のプレゼント、卒園アルバムの作成など、多岐にわたる。今回は、幼稚園や保育園に通う子どもを持つ親にとっては通過儀礼とも言える「卒対」にまつわるエピソードを紹介する。

 今年春、娘が首都圏の郊外にある私立幼稚園を卒園した明子さん(仮名)は、こう語る。

「うちの最寄り駅付近は、ファミリー向け新築タワーマンションの建築ラッシュで、保育園に共働き家庭が殺到し、激戦なんです。そのため、幼稚園に通わせているママさんは、専業主婦か週2回程度のパートのママさんがほとんど。私は娘が一人っ子の専業主婦だったので、時間があるように見えたのか、卒対では謝恩会とアルバムの両方の委員を受け持つことになりました」

 明子さんの娘が通っていた園は、年長クラスが2学級総勢60人程度で、それぞれのクラスから委員が5人ずつ選任された。明子さんの代では、すでに兄や姉を同園に通わせていた先輩ママが、一緒にやりやすそうなママを委員に任命する形を取っていたという。

「歴史のある園だったので、先生も『やり方は先輩ママから聞いてください』というスタンスで、基本的に、園側は卒対にノータッチの姿勢でした。そのため、アルバム作りに賛同しない保護者が『お金を支払いたくない』と言い出して、卒対とトラブルになることも……先生に『園の方からも、未払いのママに支払うように伝えてほしい』と強く言うと、モンペ扱いされそうなので、ママとの間で解決するしかありませんでした……」

 また、委員になると時間的な負担が多いため、何もやっていないママとの間で亀裂が生じやすいという。明子さんも、「これから会議だというとき、委員をやっていないママが子どもをピアノのお稽古に連れて行くのを見ると、『私も子どもの習い事を理由に断ればよかった』と後悔しましたね」と不満げに語った。

「小学校に入ってもママ友付き合いが続くので、仕方なく委員を引き受けたんです。年が明けてからは、ちょっとした打ち合わせと称してファミレスで集まると、会議に来ない人の愚痴を言い合ったり、険悪なムードに……。任意なので、強制力はないのですが、週一で保護者の出し物であるダンスを練習したり、卒園式で保護者の胸に付けるコサージュを手作りしたりと、とにかくやることが多く、周りに良い顔をしようとすればするほど、負担が多くなって、睡眠時間を削って対応していました」

 都内にある私立幼稚園に5歳になる男児を通わせている美幸さん(仮名)は、上の子が卒園した2年前をこう振り返る。

「謝恩会の幹事を担当しました。その年は、初めて委員をする人が多く、また全体会議でも『前年度と同じ店で良い』という意見が多数だったので、油断して店の予約に出遅れてしまいました。調べると、同じ日にすでに他校の謝恩会の予約が入っており、希望の会場や店の予約が全然取れず、結局ホテルのパーティー会場を利用したため、予算内では収まらないことに。親子参加で会費が6,000円ほどになって、保護者の中からは『高い』というクレームが出ました。中には、謝恩会当日まで支払いを渋る保護者もいて、数人で『まだ払っていないですよね』と詰め寄るなど、とても苦労しましたね」

 普段から保護者参加の行事が多いような幼稚園の場合、謝恩会から始まり、卒園アルバム、記念品の制作、先生へのお礼や花束など総額5万円前後の負担になるケースもあるそうだ。そのため、卒対の母体となる父母会では、年長の1年間の間に、数回に分けて積み立てを行って保護者の負担を減らしている。それでも、美幸さんのエピソードのように、希望の会場が借りられず追加徴収が発生することも。美幸さんは2年前の経験を踏まえ、今5歳になる次男の卒園では、予定よりも多めに予算をよけておこうと考えている。

「子どもを入園させた時には、卒園時にそのような出費が必要だとは思ってもいませんでした。もともと謝恩会や卒園に関することは父母会が仕切っている場合が多いため、入園時には園側が詳しく説明できないのかもしれません。お金が絡むことですし、もっと園側も状況を把握して、入園時に説明をしてほしいものです」

 親側が、入園前に知りうる情報にどうしても限りがあるため、入園後に園側との相違が生じるのかもしれない。

 子どもたちが長い時間を過ごす幼稚園や保育園。保護者が、先生への感謝をこめた謝恩会を開くことはとても意義のあることだが、問題は山積みだ。保護者は、オフィスワークのように、謝恩会に掛かる費用や時間の負担を分担できる仕組みを整備することが必要だろう。また園側も、保護者側との役割分担を明確にすることで、少しは保護者たちの不満も解消されるのかもしれない。
(池守りぜね)

15年にわたる実父の強姦が黙殺された「栃木実父殺し」から現在――社会に排除される女性と子ども

 3月26日、愛知県で実の娘と性交したとして、準強制性交の罪に問われた男性に「無罪」判決が言い渡された。報道によると、被害者である娘は中学2年の頃から性的虐待を受け続け、2017年、当時19歳の時に起訴。裁判長は、性的虐待があったとした上で「性交は意に反するものだった」と認定。一方で「被害者が抵抗不能な状態だったと認定することはできない」として、父親に無罪判決を言い渡したという。

 同28日には、静岡県で当時12歳の長女に乱暴したなどとして、強姦と児童買春・ポルノ禁止法違反の罪に問われた男性が強姦の罪のみ「無罪」となった。被告は、17年6月、12歳だった娘と無理やり性交したとして、昨年2月に起訴された。約2年間にわたり、週3回の頻度で娘は性交を強要されたと検察側は主張したが、家族7人暮らしの上、狭小な自宅において「家族がひとりも被害者の声に気付かなかったというのはあまりに不自然、不合理」として、「被害者の証言は信用できない」と無罪判決。

 これら事件が相次いで報道されたことで、ネット上には怒りの声や、絶望のコメントが続出。「子どもは一体、誰に助けを求めればいいのだろう」「娘に無理矢理性暴力しても、大量の酒飲ませて酩酊状態にさせて強姦しても、無罪なのは本当にワケがわからない」「この類いのニュースが多くて、ほんと女性の立場の弱さを感じる」「裁判官は、女に生まれて父親に強姦されても『抵抗しなかった』からって無罪にされて納得いくの?」などと、やりきれない思いや疑問があふれ返っている。

 かつて、中学2年の少女が15年間にわたって、父親から性暴力を振るわれた上、妊娠、出産、そして父親を殺害という事件があった。家族9人が狭小の借家で生活する中で、父親は娘を犯し続けた。サイゾーウーマンでは、この事件を取り上げ、考察した記事を掲載している。悲しき事件から50年がたった現在、近親相姦や性暴力の状況は何が変わり、変わらないままなのか。再掲するこの機会に、ぜひ読んでいただきたい。
(編集部)


(初出:2013年2月18日)(取材・文/神林広恵)

[第10回]
栃木実父殺し事件(尊属殺法定刑違憲事件)

 昭和43年10月5日3人の子持ちの女、浅川サチ(29・仮名)が、父親の政吉(52)を殺害したとして逮捕された。罪名は刑法200条にあった“尊属殺人”である。現在では聞きなれない罪状だが、当時は歴然と存在していた罪だ。名前の通り、自分または配偶者の直系尊属――父母、祖父母、曽祖父母――に対する殺害であり、通常殺人より重い<無期または死刑>という罪が科せられるものだった。今の感覚からは時代錯誤で、人権、平等といった法理念からかけ離れたものだ。しかし家父長制度、家庭という社会的基盤維持、儒教的考えなどから、当時親殺しは重罪とみなされていた。

 だがこの父親殺しの背景には、サチに同情すべき事実が存在した。サチと父親の間には長年にわたる近親姦関係の強要、その上での妊娠、出産といったおぞましくも悲しい事実があったのだ。そのためこの事件は「尊属殺の重罰規定は法の下の平等に違反する」と、憲法議論にまで発展していく。

 サチが初めて父親に犯されたのは昭和28年、サチが中学2年14歳の時だった。父親の政吉は勤勉とは言いがたく一家は貧困だった。当時の浅川家は栃木県内で、両親と長女サチを含む子ども7人の計9人が、狭い2間の借家に暮らしてた。

 ある夜、酒を飲んだ政吉はサチを無理やり犯した。突然のことで訳もわからないサチは大声を出すこともできず、近くで寝ていた母親のコウはこれに気づかなかったという。その後も政吉は母親の目を盗んでは頻繁に実娘の体を求めた。「母ちゃんに言ったら承知しない」。政吉は事あるごとにサチに口止めし脅した。

 それから1年、ついに堪えきれなくなったサチは母親にことの次第を打ち明ける。父に従順な母だったが、この時ばかりは驚き政吉を責め立てた。「実の娘によくもそんな恐ろしいことを」。しかし政吉は開き直り、刃物を持ち出し狂ったように暴れた。「自分の娘を自由にしてどこが悪い!」。娘を守ろうとする母親をボコボコに殴った。母はサチを親戚宅に逃がそうとしたが失敗、その後政吉の暴力はより一層激しさを増し、人が変わったようにサチに執着した。母親は堪え切れず、下の子ども2人を連れて北海道の実家に逃げるように帰ってしまう。

 母親が出て行った後も政吉は相変わらず酒を飲みサチを犯した。サチが17歳になった昭和31年、政吉はコウの実家に転がり込む形で、一家は再び共に生活するようになった。政吉はコウの実父に「サチに2度と手を出さない」と詫びた上だ。だが約束は守られることはなかった。政吉は夜毎にサチを求め、庇うコウを殴った。母屋に住む叔父(コウの兄)も止めに入るが、聞き入れないだけでなく、叔父へも殴りかかる始末だった。

 そんな生活続き、17歳のサチは妊娠してしまう。もちろん胎児の父親は政吉だ。混乱したサチは知り合いの男(当時28)と逃げ出したが、激昂した父は狂ったように探し回り、結局サチは連れ戻されてしまう。サチに異様な執着を示す政吉は、何度も騒動を起こした。2人の異常な関係は、自然と隣近所のうわさとなり知れ渡っていたという。

 昭和32年、政吉はサチとその妹を連れ栃木県の長屋に引っ越し、サチは長女を出産した。サチは出産したことで一層「父から逃れられない」と諦観したと同時に、いつか逃げるためにと密かに着物などを1つにまとめていたという。だが昭和30年代、学歴もない未成年の女性が、何の当てもなく逃げても生活は困難だっただろう。幼子を抱えてはなおさらだ。そんな時代がサチを縛り、父親から逃げられなくした。

 こうして父親と娘は、その後も12年間に渡り“夫婦同然”の生活を送るのだ。この間、サチは5人の子どもを産んだ。うち2人は夭折したが、3人の娘は元気に育った。だが5回の出産のほか、妊娠中絶を5回も繰り返している。政吉は避妊を許さなかった。父は執拗に娘を求め、娘はそれに応えるしかなかった。拒否すれば応じるまで殴られた。助けてくれる人はいない。

 昭和39年9月、25歳になったサチは、すでに子どもたちも手がかからなくなり近所の印刷会社で働くようになっていた。サチはこまめに働き、周囲からも「朗らかで明るい女性」と人気が高かったという。サチもこの時だけは、父親の呪縛から離れ“普通の女”として働けることが楽しくて仕方がなかった。社員旅行にも行った。

 そして昭和43年、29歳になったサチは7歳年下の工員と初めての恋をした。この恋がサチの自立心、そして父親に対する反発心を呼び覚ましていった。サチは仕事帰りに父親に嘘を言って工員と喫茶店でデートをした。遅くなると「浮気をしているのか!」と政吉に怒られたが、残業だと言いつくろった。2人の交際は続き、結婚を申し込まれるまでになった。相手はサチに子どもがいることも承知していた。サチは決心する。ある日、父親に「結婚してもいいか」と訊ねたのだ。しかし相手が年下だと知るや政吉は血相を変えた。「今から男の家に行って話をつけてくる。ぶっ殺してやる!」。サチは父の怒りを静めるため、男と別れて印刷所も辞めると言わざるを得なかった。

 だがサチは諦めてはいなかった。家出を決意したサチは準備をして家を出ようとした。が、偶然にもそこに政吉が酔って帰宅、サチを問い詰め洋服や下着を引きちぎるなど公衆の面前で大暴れを始める。騒動を聞きつけた近所の人が父親を取り押さえ、サチは半裸で走って逃げたが、結局は父親に連れ戻された。

 この騒動以来、サチはほとんど外出もできなくなった。そして政吉からの責め苦もエスカレートしていく。酔っては「一生不幸にしてやる」「逃げたら3人の子どもを始末する」と脅し、暴れた。子どものことまで持ち出されたサチは限界だった。このままでは自分が殺される。サチは愚痴や脅迫をグダグダ言い続ける政吉を押し倒した。目についた股引の紐で政吉の首を絞めた。

「さあ殺せ。お前に殺されるなら本望だ」

 その際政吉はこう言ったという。サチはさらに夢中で締めあげた。しばらくすると政吉はぐったりして布団の上に倒れた。政吉は、自分が犯し続けた実の娘に殺されたのだ。

 サチは子どもを連れ近所の雑貨商に駆け込んだ。「おばさん、父ちゃんを殺しちゃった」。サチはこう告げると声を上げて泣き出したという。その後、駆けつけた警官によってサチは逮捕された。昭和43年10月5日、29歳のサチにとって、無意識ではあるが1つの“決断”だったのだろう。

 父殺しの背景にサチと政吉の異様な関係が明らかになるにつれ、世間のはサチへの同情を寄せていく。と同時に“尊属殺人罪”へも目が向けられていった。刑法の尊属殺人条項は憲法の「法の下の平等」に合致するのか、違憲なのではないか。こうしてサチの父殺しの法廷は憲法議論にまで発展していった。だがしかし、それ以前にもっと根源的な怒りが、疑問が残る。サチが父親を殺すことになるまで、事態はなぜ放置されたのかということだ。

 14歳の子どもが実の父親に無理やりレイプされた。そのことを母親は知っていた。それを阻止しようとするが、自身が暴力を振るわれ、子どもを人身御供のようにおいて家を出た。母親の親族も父娘の近親姦を知っていた。だが、政吉の剣幕の前に手をこまねくばかりだった。また政吉の親族も然りである。事件後の政吉の弟の供述調書には以下のような下りがある。

「実の父と実の娘が夫婦然として生活しており、世間に対していろいろ恥ずかしい行為をしていた。他兄弟や親戚の者も軽蔑して寄り付かなかった」

 サチが何かと頼り、父親殺害後に駆け込んだ近所の雑貨商もそれを知っていた。いや近所の多くの者がそれを知っていたと思われる。またサチが勤めていた印刷所の工場長もだ。サチとの結婚を考えた工員はサチが印刷所を辞めた後「深入りするな」とその事実を工場長から聞いたという。工員は「がっかり」したものの、彼女を救おうとする姿勢は皆無だ。

 サチの周囲の多くの人間が父娘の近親姦を知っていた。しかし無法者の父親に恐れをなしたとして、有効な手立てを打とうとした者はいなかった。

家父長制と世間体の下、排除された女性や未成年者

 昭和30~40年代、高度成長期で3種の神器といわれたテレビ、洗濯機、冷蔵庫が普及しはじめ、戦後民主主義が一般にも浸透し、団塊世代が青春を謳歌した時代でもある。そんな中、未成年期も含め、15年間にも渡る父親と実娘の関係は単に「マユを顰められる」ものだけだったのか。周囲の多くの大人がこの“異常な関係”を知っていた。だが1人でも未成年に対する“犯罪行為”“強姦”と認識し、少女を助けることはなかった。当時の未婚女性が何度も妊娠・出産・中絶しても医師は疑問を持たなかったのか(医師は『これ以上中絶すると母体が持たない』と避妊手術を薦めただけだ)。

 しかし実を言うと当時、いや現在においても“近親姦”に対する刑罰は存在しない。よって近親姦は違法ではない。近代において、日本では一度親族姦の規定ができたが1881年に廃止された。近親姦は法の概念ではなく道徳的なものとの解釈からだ。近親姦は時代や宗教、国家、風習、道徳観などにより時に公然と認知され、時にタブーとなる。

 現在では児童虐待防止法があり、保護者による18歳未満への性的虐待はこの対象になる。だが当時の児童虐待防止法は対象が“14歳未満”だ(サチが最初に父親に犯されたのは14歳)。また強姦罪は親告罪だが、当時サチが父親を訴えるなどという知識はなかったのだろう。また周囲にもそうした“退避”行動をとる者はいない。当時はまだ家父長的考えが色濃かった時代である。家族や親族のつながりが強く、世間体も今より比較にならないほど人々を縛った。それが逆に悪弊となった。政吉とサチの関係は「身内の恥」として公然の秘密となった。誰も本気でサチを救おうとしなかった。

 だが当時、誰かが警察や関連機関に相談しても「家庭の問題」として積極的に取り合うこともなかっただろうと推察できる(そもそもDVが犯罪として認識されたのもつい最近のことである)。女性や未成年者の人権など、ほとんど省みられない環境と時代にあったサチに逃げ場はなかった。

 そもそも、当時の司法関係者の認識もあまりにひどい。一審判決においては、「尊属殺人の重罰規定は憲法違反」として刑を“免除”するという画期的判決だった。しかし検察は控訴する。その控訴審で検察は「彼女はなぜ長年逃げなかったか。父と娘が夫婦然と仲良く平穏生活していたのだ」と立証しようとしたのだ。まったくもって噴飯ものだが、そうした認識は裁判官も同様だった。

 「父親と夫婦同然の生活をして、父親が働き盛りの年齢を過ぎた頃若い男と一緒になる。(それは)父親を弄んだことになると考えたことは?」と質問し、「(2人の関係は)大昔なら当たり前」「被告人(サチ)は父親の青春を考えたことがあるか」「働き盛りに何もかも投げ打って被告人と一緒に暮らした男の貴重な時間」など父親に同情的な発言さえあったという(『尊属殺人罪が消えた日』より)。

 「親は子どもの所有物」であり「父親をたぶらかした悪女」そんな裁判長の恐るべき認識――。現在でも裁判官という人種は世間知らずであり、時折かなりズレた発言、判決を出し世間を驚かせるが、その体質は今も昔も変わらないものだった。そして2審では懲役3年6カ月の実刑判決が下された。こうして裁判は最高裁に持ち込まれた。弁護人は「鬼畜のような父親にも子どもは服従し、尊属として保護してもいいのか」と子どもの人権を展開。尊属殺人罪の違法性を主張し続け世間の注目を浴びた。そして昭和48年4月4日、最高裁は尊属殺人規定は違憲として執行猶予付きの判決を下した。当時、この判断は「道徳革命」とまでいわれた画期的なものだったという。

 それにしても親の子どもに対する暴力は性的、心理的も含み現在でも大きな問題として現存する。現在は昭和30年代に比べ猛烈に核家族化が進み、親戚近所のコミュニティも崩壊している。そんな環境下、家庭という密室で親権という凶器を持ったモンスターが存在したら――。

 児童虐待防止法、未成年者淫行条例など、子どもを守るさまざまな法や取り組みがなされ、サチの時代に比べて少しはまともになってはいるようには見える。しかし、それが万全と機能しているわけではない。現在でも幼児虐待、虐待の末の殺害も後を絶たない。性的虐待だけを見ても表面化するのはごく一部、しかも虐待者の4割近くが実父との報告もあるほどだ。そして虐待で逮捕された多くの親が平然と「しつけ」と抗弁する。

 現在においても女性や幼児、未成年者の人権や権利、安全が守られている社会とは言いがたいのも現実だ。サチのように“鬼畜のような親”の下に生まれてしまった子どもたちにとって親の存在、そして親権とは何なのか――。現在でも解決していない“古くて新しい問題”を考えさせられる事件でもあった。

 サチの事件審理で最高裁は「尊属殺人加重規定」は違憲と判断し、昭和48年以降この刑の適用はない。しかし尊属殺人罪の記載が刑法から削除されたのは、判決から22年がたった平成7年になってからだ。
(取材・文/神林広恵)

参考文献
『尊属殺人罪が消えた日』(谷口 優子著、筑摩書房)

明るく聡明な母で尊敬していたが――「せん妄」で知った母の本心【老いゆく親と向き合う】

 あえて言おう。「ピンピンコロリ」は幻想だ。シリーズを始めるにあたって、まずはこの文を読んでほしい。

【大方の高齢者は、70代までは元気であっても、晩年期の80代、90代の老いの坂を「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける「ピンピン・ヨロヨロ・ドタリ」の高齢期を生きる時代になっている】――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 平均寿命が延びて、人生100年時代になろうとも、人間は必ず老い衰えていく。「ピンピンコロリ」が叶うのは“少数の幸運な人だけ”(前掲書)なのだ。そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか――“終活”ならぬ“終末”ライター・坂口鈴香が、さまざまな家族の姿から考えます。

明るく聡明な母を尊敬していた

 岩崎武志さん(仮名・54)は大手企業の管理職だ。東京近郊で妻、娘と暮らしている。妻の実家は歩いて5分ほどの“スープの冷めない距離“にある。妻の両親も健在で、妻や娘は頻繁に行き来しており、平日は遅くまで仕事、週末はゴルフで忙しい岩崎さんにとっては、安心できる環境だと思っている。

 北海道出身の岩崎さんは、大学入学時に実家を出て以来ずっと首都圏で暮らしてきた。父親は早くに亡くなった。80代の母親は北海道の実家で一人暮らしをしているが、今のところ足腰もしっかりしているし、社交的な性格で友人や親せきも周りにたくさんいる。それに、姉が実家から車で15分ほどの場所に住んでいるので何かあっても安心とばかりに、岩崎さんは年に1回帰省する程度で済ませていた。とはいえ、妻や娘も「明るく聡明なおばあちゃん」のことを慕っており、電話でよく会話もしていた。

「離れて暮らしていることもあるのでしょうが、妻は母から嫌な思いをさせられたことは一度もないと言っていて、関係は良好。私もしっかり者の母を誇りに思っていました」

 こんなエピソードもある。岩崎さんの一人娘は、高校入学後まもなく登校できなくなった。望んでいた高校ではなかったこと、親の期待に応えられなかったことなどから、家から外に出ることができなくなったのだ。岩崎さんも心配したが、妻の心労は人一倍だった。日頃から、孫をかわいがっていた妻の両親はオロオロするばかりで、どう対処したらよいのかわからない。腫れ物に触るような毎日を過ごしていた。

 いらぬ心配をかけまいと、岩崎さんの母には何も伝えていなかったが、その年の暮れに一人で帰省した岩崎さんは事情を打ち明けざるを得なかった。

「なるべく深刻にならないよう伝えたつもりだったんですが、母には娘のつらさや妻の憔悴がわかったんだと思います。母は『今は本人が居場所を探しているとき。自分で見つけ出すことができるまで、周りは静かに見守るしかないね』と言ってくれました」

 暗闇に光が差し込むように感じた。岩崎さんは、妻にも母の言葉を伝え、娘を信じて見守ることにしたのだ。

 そして1年ほどたつと、娘は自ら高校を中退。フリースクールに通いながら大検を受け、今は希望の大学に楽しそうに通っている。

「正直なところ、私たちが望んでいたような大学ではありませんでしたが、娘の選択を尊重することができているのは、母の言葉があったからです。改めて母を見直しました」

 姉から「お母さんが入院した」という連絡が来たのは、岩崎さん一家に穏やかな日常が戻ってしばらく経ったころだった。トイレで倒れている母を姉が発見し、救急車で病院に運んだという。

「原因は不明だったものの生命にかかわる状態ではないとのことでしたし、姉が毎日病院に行ってくれているようなので、ひとまず大丈夫だろうと。ちょうど仕事も忙しい時期だったため、様子を聞きながらも姉任せにしていたんです」

 そんな岩崎さんのもとに電話が入った。姉の長女からだった。

「姪から怒られてしまいました。『おじちゃん、自分のお母さんでしょ。何やってるの?』と。『これまでも、うちのお母さんは仕事しながら、おばあちゃんの様子を頻繁に見に行っていた。それは娘だから当然だけど、今回の入院でさすがにお母さんも疲れている。おじちゃんもおばあちゃんの子どもなら、お母さんと替わってあげるくらいしたら?』って、これにはこたえました」

 姪の怒りももっともだ。慌てて金曜の夜、仕事を終えると飛行機に乗り、母親の病院に駆け付けた。

「面会時間は過ぎていましたが、事情を話して母の部屋に行きました。母は寝ているようでしたので、起こさないように座っていたのですが、ふと母が目を覚まして僕を見たんです。それで『お母さん、大変だったね。大丈夫?』と声をかけたところ、母はこれまで見たことのない厳しい表情に変わったんです」

 もう一度「お母さん」と呼んで手を握った岩崎さんに、母親は厳しい表情のまま、吐き捨てるように言ったのだ。

 「息子は、嫁の家に盗られてしまって、いないも同然」と――

「おそらく入院して環境が変わったことによる“せん妄”だったんでしょう。そうだとわかってはいても、これが母がずっと胸にしまっていた本心だと思えて仕方ないんです。めったに顔を出さない僕のことはもういないものとして、あきらめようとしていたんじゃないかと思うと、なんとも……」

 幸いなことに、その後母親は回復し、岩崎さんの毎週末の帰省は2カ月ほどで終わった。

「正直ヘトヘトでしたが、姪への意地もありし、頑張るしかありませんでした。でもこれ以上続くとこちらがダウンでしたね。遠距離介護をしている人を尊敬しますよ」

 母にはもちろん、姉にも、妻にも、せん妄時の言葉は伝えていない。

 母は再び元の穏やかな母に戻り、一人暮らしを再開した。でも、もう岩崎さんは母の入院前の自分には戻れない。

 「息子は、嫁の家に盗られてしまった」という言葉は、今もはっきり耳に残っている。

明るく聡明な母で尊敬していたが――「せん妄」で知った母の本心【老いゆく親と向き合う】

 あえて言おう。「ピンピンコロリ」は幻想だ。シリーズを始めるにあたって、まずはこの文を読んでほしい。

【大方の高齢者は、70代までは元気であっても、晩年期の80代、90代の老いの坂を「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける「ピンピン・ヨロヨロ・ドタリ」の高齢期を生きる時代になっている】――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 平均寿命が延びて、人生100年時代になろうとも、人間は必ず老い衰えていく。「ピンピンコロリ」が叶うのは“少数の幸運な人だけ”(前掲書)なのだ。そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか――“終活”ならぬ“終末”ライター・坂口鈴香が、さまざまな家族の姿から考えます。

明るく聡明な母を尊敬していた

 岩崎武志さん(仮名・54)は大手企業の管理職だ。東京近郊で妻、娘と暮らしている。妻の実家は歩いて5分ほどの“スープの冷めない距離“にある。妻の両親も健在で、妻や娘は頻繁に行き来しており、平日は遅くまで仕事、週末はゴルフで忙しい岩崎さんにとっては、安心できる環境だと思っている。

 北海道出身の岩崎さんは、大学入学時に実家を出て以来ずっと首都圏で暮らしてきた。父親は早くに亡くなった。80代の母親は北海道の実家で一人暮らしをしているが、今のところ足腰もしっかりしているし、社交的な性格で友人や親せきも周りにたくさんいる。それに、姉が実家から車で15分ほどの場所に住んでいるので何かあっても安心とばかりに、岩崎さんは年に1回帰省する程度で済ませていた。とはいえ、妻や娘も「明るく聡明なおばあちゃん」のことを慕っており、電話でよく会話もしていた。

「離れて暮らしていることもあるのでしょうが、妻は母から嫌な思いをさせられたことは一度もないと言っていて、関係は良好。私もしっかり者の母を誇りに思っていました」

 こんなエピソードもある。岩崎さんの一人娘は、高校入学後まもなく登校できなくなった。望んでいた高校ではなかったこと、親の期待に応えられなかったことなどから、家から外に出ることができなくなったのだ。岩崎さんも心配したが、妻の心労は人一倍だった。日頃から、孫をかわいがっていた妻の両親はオロオロするばかりで、どう対処したらよいのかわからない。腫れ物に触るような毎日を過ごしていた。

 いらぬ心配をかけまいと、岩崎さんの母には何も伝えていなかったが、その年の暮れに一人で帰省した岩崎さんは事情を打ち明けざるを得なかった。

「なるべく深刻にならないよう伝えたつもりだったんですが、母には娘のつらさや妻の憔悴がわかったんだと思います。母は『今は本人が居場所を探しているとき。自分で見つけ出すことができるまで、周りは静かに見守るしかないね』と言ってくれました」

 暗闇に光が差し込むように感じた。岩崎さんは、妻にも母の言葉を伝え、娘を信じて見守ることにしたのだ。

 そして1年ほどたつと、娘は自ら高校を中退。フリースクールに通いながら大検を受け、今は希望の大学に楽しそうに通っている。

「正直なところ、私たちが望んでいたような大学ではありませんでしたが、娘の選択を尊重することができているのは、母の言葉があったからです。改めて母を見直しました」

 姉から「お母さんが入院した」という連絡が来たのは、岩崎さん一家に穏やかな日常が戻ってしばらく経ったころだった。トイレで倒れている母を姉が発見し、救急車で病院に運んだという。

「原因は不明だったものの生命にかかわる状態ではないとのことでしたし、姉が毎日病院に行ってくれているようなので、ひとまず大丈夫だろうと。ちょうど仕事も忙しい時期だったため、様子を聞きながらも姉任せにしていたんです」

 そんな岩崎さんのもとに電話が入った。姉の長女からだった。

「姪から怒られてしまいました。『おじちゃん、自分のお母さんでしょ。何やってるの?』と。『これまでも、うちのお母さんは仕事しながら、おばあちゃんの様子を頻繁に見に行っていた。それは娘だから当然だけど、今回の入院でさすがにお母さんも疲れている。おじちゃんもおばあちゃんの子どもなら、お母さんと替わってあげるくらいしたら?』って、これにはこたえました」

 姪の怒りももっともだ。慌てて金曜の夜、仕事を終えると飛行機に乗り、母親の病院に駆け付けた。

「面会時間は過ぎていましたが、事情を話して母の部屋に行きました。母は寝ているようでしたので、起こさないように座っていたのですが、ふと母が目を覚まして僕を見たんです。それで『お母さん、大変だったね。大丈夫?』と声をかけたところ、母はこれまで見たことのない厳しい表情に変わったんです」

 もう一度「お母さん」と呼んで手を握った岩崎さんに、母親は厳しい表情のまま、吐き捨てるように言ったのだ。

 「息子は、嫁の家に盗られてしまって、いないも同然」と――

「おそらく入院して環境が変わったことによる“せん妄”だったんでしょう。そうだとわかってはいても、これが母がずっと胸にしまっていた本心だと思えて仕方ないんです。めったに顔を出さない僕のことはもういないものとして、あきらめようとしていたんじゃないかと思うと、なんとも……」

 幸いなことに、その後母親は回復し、岩崎さんの毎週末の帰省は2カ月ほどで終わった。

「正直ヘトヘトでしたが、姪への意地もありし、頑張るしかありませんでした。でもこれ以上続くとこちらがダウンでしたね。遠距離介護をしている人を尊敬しますよ」

 母にはもちろん、姉にも、妻にも、せん妄時の言葉は伝えていない。

 母は再び元の穏やかな母に戻り、一人暮らしを再開した。でも、もう岩崎さんは母の入院前の自分には戻れない。

 「息子は、嫁の家に盗られてしまった」という言葉は、今もはっきり耳に残っている。

中学受験における「小4の壁」とは……営業ウーマンの母が「悔しがらない息子」を変えた方法

“親子の受験”といわれる中学受験。思春期に差し掛かった子どもと親が二人三脚で挑む受験は、さまざまなすったもんだもあり、一筋縄ではいかないらしい。中学受験から見えてくる親子関係を、『偏差値30からの中学受験シリーズ』(学研)などの著書で知られ、長年中学受験を取材し続けてきた鳥居りんこ氏がつづる。

 中学受験に参入する家庭は、大まかに2通りに分かれる。

 一つは、我が子が生まれた時、もしくはかなり幼い時から「ウチは中学受験をさせる」と決意して子どもを育てている家庭。最近の傾向だと、さらに輪をかけて、誕生前からバースコントロール(子どもの早生まれを避ける)をして、参入している家庭も多い。

 そして、もう一つは周りの環境に影響されて参加を決める家庭である。例えば、「学区の公立中学の評判が悪すぎる」「たまたま中学受験熱の高い地域に住んでいる」「小学校でのいじめ等によって、中学では新天地を求めたい」などが動機になりやすいが、筆者の肌感覚で申し上げるならば「小4の壁」というのも、とても大きい動機になっているように感じている。

 「小4の壁」とは、「共働き家庭が放課後の学童保育で躓いてしまうこと」を指す用語である。2015年から、学童に入れる子どもの学年が、それまでの「小学3年生まで」から「小学6年生まで」引き上げられたので「小4の壁」は一応のところ解決したように見えるが、以下、4点の問題により、相変わらず、親の悩みが続いているのである。

1:定員があるため、低学年の子が優先され、入れない場合がある
2:学童終了時刻は午後6時が多く、保育園時代のように7時までの延長保育をお願いできない施設が多い
3:4年生以降は、同級生たちが習い事などで忙しくなり、学童に通う子が減る。年下ばかりの集団となりかねないため、本人が行きたがらない
4:宿題以外の勉強を指導員に見てもらえる可能性が低い

 そこで、この問題の受け皿として台頭してきたのが「中学受験塾」なのである。大手中学受験塾では、小5から土日も含め週3日以上通うケースがほとんどで、しかも塾終了時刻は午後8時過ぎになることも多い。しかも、空いている日は自習室が解放されているので、授業がなくとも塾に「出勤」可能なケースもある。共働きの親から見ると、先生方に見守られつつ、同級生と笑いながら、しかも切磋琢磨できる、安心安全な環境がそこに用意されているのだ。

 この中学受験塾は、さすがに子ども相手にビジネスをしているところだけあって、子ども心を掴むことにも長けていて、大抵の子どもたちは「塾は楽しい!」と主張する。中学受験を知らない大人たちは、ともすると「勉強漬けでかわいそう」と思うかもしれないが、教室の実態は、結構、元気で笑い声が絶えない場所でもあるのだ。子どもは本来、好奇心の塊なので、教え方がうまい先生から知的好奇心を揺すぶられることは苦ではないのだと理解している。

 ということで、共働き家庭における「中学受験塾」は、結果的に、その費用を除けば、“ブラボー!”な存在であることは否めないが、塾生活にも実は「小4の壁」があるということを、今回はお伝えしていこうと思う。

冒頭で中学受験に参入する家庭は2通りあるとご紹介したが、この後者である「学童保育代わり」に中学受験塾を利用する母の中には、塾生活での「小4の壁」を自ら作り出してしまう人が出てくるのだ。

里美さん(仮名)のケースでお伝えしよう。とある企業で営業の仕事をしている里美さんは、息子・将司君(仮名)が小4になる際に、中学受験を選択した。理由は単純明快、それまで通っていた学童の待機児童になってしまったからだ。

学校が終わった後どうするか――選択肢として、「自宅に直帰してお留守番」「中学受験塾で午後7時まで過ごす」の2つが挙がったそうだ。

結局、仲の良い友達が中学受験を選択したということが大きな後押しとなり、里美さんいわく「私の残業の受け皿」として、将司君を塾に行かせることにしたという。

しかし、里美さんは夫婦ともども中学、高校は公立だったこともあり“中学受験”という世界をまったくイメージできないまま、受験生活に突入したのだそうだ。中学受験塾は、やはり“塾”なので、遊んで終わりということはなく、そこには必ず“成績”という評価が下されるのだ。里美さんは次第に、成績が上がらない将司君にイライラするようになったという。

「私も営業の仕事なので、その成果を毎月、上から厳しく問われます。歩合ということもあり、その成績がお給料にも直結してしまうので、気が抜けないのです。なのでやはり、自分なりに悪いところがあったら、こう対策してみようとか、いろいろ戦略を考えるのですが、将司は成績に無頓着というのか、悪くても、できなくても、まったく悔しがる様子もなく、一緒に入った友達との成績は開く一方。だんだん将司に怒鳴り散らすことが多くなりました」

当初、中学受験塾は、単に「残業の受け皿」でありさえすれば良いと思っていた里美さんだが、本来の負けず嫌いの性格が顔を覗かせてしまい、簡単に「成績至上主義」に陥ったという。

しかし、将司君は叱られれば叱られるほど、ゲームに熱中するようになり、しかし「受験はやめない!合格できる!」と言い張るため、余計に親子バトルが過熱していったそうだ。

里美さんは当時を振り返ってこう言っていた。

「あの頃は私も昇進したばかりで、仕事にプレッシャーを感じていました。考えてみれば、将司は机に向かって勉強する習慣もまったくないまま、受験塾に親の都合で入らされたようなものです。本人にしてみたら、何をどうやっていいのかもわからない、それこそ、ノートの取り方ひとつ、進みの早い塾では追いついていくことができなかったんだと思います……」

そこで、里美さんは難関中学に入学を決めたお子さんを持つ学童仲間の母に相談したそうだ。すると、その人にこんなアドバイスをもらったという。

「中学受験は発破をかけるだけで成績アップするような甘いものじゃないのよ。塾に行きさえすれば、全ての問題が理解できるようになると思っているとしたら大間違い。塾はね、日頃のお勉強の成果を発表するところでもあるのよ」

つまり、中学受験は家庭学習こそが肝であり、そのやり方をわかっていない子が、自分だけの力で勉強に取り組むようになるためには、親が少し伴走しなければならないという主張だったのだ。

そう言われて、里美さんは目が覚めたそうだ。

「自分は親に勉強を教わったこともなかったですが、とりあえず成績は良かったんですよね。でも、それは中学高校の話ですから、ある程度大人です。将司はまだ9歳なんだってことを考えていなかったんだと思います。それなのに、私の方が『友達のあの子には負けられない!』って思っちゃって、将司を怒ることしかしませんでした。新入社員にただ『営業成績を伸ばせ!』って言っても、途方に暮れるだけですよね。やはり、そのためには、ある程度のノウハウを教え、丁寧に育てないと一人前の社員にはなれません。『そうだ! 将司は受験の“新人”なんだ!』って思ったら、すごく納得感があったんです」

それから、里美さんは毎日、将司君の横で一緒に問題を解くことにしたそうだ。時には教え、時には教えられという時間を確保し、成績で怒ることを一切やめたという。

「小5の夏前頃から、これをやり出したら、徐々に将司が『ママ、勉強って楽しいね』って言ってくれるようになりました。私も仕事終わりに勉強の時間を確保することは大変だったんですが、だんだんとこの時間が愛おしいものに変わっていきましたね。私の反省点は、中学受験参入時にもっとどういう世界なのかをリサーチしておくべきだったということに尽きます」

 中学受験は長丁場で、しかも「戦略ありき」の世界でもある。壁は小4だけではなく、次々と立ちはだかってくるものなのだが、その度に親は、試行錯誤を繰り返すことになるだろう。

 将司君はこの春、理系教育に定評のある難関中学に入学する予定だ。
(鳥居りんこ)

ホストに月200万円使う女は、どんな接客を受けるのか? 究極の接客「本営」の実態

 ホストにハマりすぎている女たち――通称“ホス狂い”。「ホストに多額のカネを貢ぐ女」というイメージだけが横行する中、外の世界からはわからない彼女たちの悲喜劇がある。「ホストにハマらなかったら、今頃家が建っていた」という、新宿・歌舞伎町では名の知れたアラサー元風俗嬢ライター・せりなが、ホス狂いの姿を活写する。

 以前の記事で月200万円使うホス狂いの話をした。実はホス狂いの世界では、石を投げれば3ケタ万円プレイヤーにあたるとも言われているので、さほど珍しい話でもなかったりする。

 しかし、ホストクラブへ行かない人にとっては驚きがあったようだ。

「そんなに大金を使ったら、お店ではどんな接客をしてもらえるんですか?」

 こうした質問をいくつかいただいた。盲点であった。確かに、200万円も使っていれば、蝶よ花よの接客フルコースを受けられるような気がする。なんにせよ、エグゼクティブな扱いの一つくらいありそうだ。

 しかし、現実はそうではない。むしろ大金を使うほど担当ホストは売れっ子になる。そして新規客の接客に忙しくなり、自分はほったらかし……なんていうことも珍しくはない。接客フルコースどころか、新人ホストの会話の練習台にされたりする。ホス狂い界隈で有名な女の子は、SNSでそれを「どれだけ都合よくなれるか選手権」と自虐的に語っていた。

 しかし、自虐ができるのは、その状況をある程度、受け入れているということでもある。なぜ、お金をたくさん払っているのに「都合よく」されることを受け入れるのか。理由は簡単である。

 「お店の中」で接客されているうちは、まだまだホス狂い検定3級なのだ。大金を注ぎ込んだホストの接客の本領は「お店の外」でこそ発揮される。つまり、「お店の外で丁重に接してもらえれば、お店で都合よく扱われても受け入れられる」というわけだ。今回は事例を紹介しながら「ホストの究極の接客」について説明しよう。
というか、テーマの開示が遅すぎである。ホス狂いはオタク気質なので前置きが長い。

 友人アミ(仮名)は、私のSMクラブ時代の同僚で、ほどほどにホスト遊びを楽しむ若い女の子“だった”。いつしか彼女も、ばっちりハマる担当と出会い、いつの間にかホス狂いへの階段をかけ上がっていた。階段の登り方は、これまでの連載で語ってきたので割愛する。興味のある人はぜひバックナンバーを読んでほしい。

 そして、彼女が毎月50万円ほどを使う立派なホス狂いになったとき、あるひとつの「変化」が訪れた。そう、店外デートが増えたのである。字面でだいたいのニュアンスはわかると思うが、一応、定義をしておく。「店外デート」とはホストクラブ以外の場所、例えばディズニーランドなど、店が介在しない場所へ一緒に外出することを指す。

 ホストの接客形態には、ほかにもいくつか種類がある。例えば、「同伴」。店へ行く前に一緒に食事などをともにする営業方法である。あるいは、「アフター」。これは、店の営業終了後、一緒に過ごす営業方法だ。しかしこれは両方とも「お店に行くこと」とセットになっている。とにもかくにも、諭吉を握りしめて、お店に行くことが前提だ。

 しかし、「店外デート」では閉店の鐘は鳴らない。シンデレラの魔法は解けないのである。少なくとも、その日のうちは。ほかのホストも、ほかのお客もいない。二人っきりの時間を過ごすことができるのだ。もっと身もふたもない言い方をすると、ホストのプライベート時間を独占できる。このように、店での接客は前哨戦に過ぎず、「ホストの究極の接客」は、この「店外デート」から本番開始と言っても過言ではない。

 ホス狂い一般論を確認したところで、アミの話に戻ろう。店外デートが増えてしばらくたった頃、アミに次の「変化」が訪れた。「店外デート」が「お泊まり旅行」へとレベルアップしたのだ。もちろん、その頃には担当ホストへ使う金額もレベルアップしている。ちなみに、店外デートや旅行に関しては、ホストが全額払っていたそうだ。

 意外に思う読者も多いかもしれない。しかし、ある優秀なホストはこういっていた。

「客が店に払った金額の10%以上をリターンせよ。それが優秀なホストだ」

 通常、ホストの給料は指名客が使った金額の50%弱である。例えば、客が200万円使ったとすれば、ホストの給料は100万円ということになる。そして、優秀なホストは、200万円のうちの10%――つまり、20万円をお客への旅行やプレゼントに費やす。楽天ポイントよりも、はるかにお得な還元率だ。

 ホストに使うお金があれば、自分で旅行も行けるしプレゼントも買えるのでは。そういう指摘が聞こえてきそ……あーあー聞こえない、聞こえない。私たちは「プレゼントをもらう」という「体験」にお金を払っているのだ。たとえそれが、元は自分のお金であっても。

 ぴんとこない人もいるかもしれないが、要は、こういうことである。私たちは、ブランドバックがほしいんじゃなくて、ブランドバックを好きな人にもらうという体験を味わいたいのだ。だからこそ、旅行に行った次の日に、またホストクラブでシャンパンを開ける。「お金を使ったお礼」の「旅行のお礼」に「店に行く」のだ。ホス狂いにはホス狂いなりの論理があって、彼女たちの筋はしっかりと通っている。まるで永久機関である。

 というか、水商売の世界は、だいたいがこの論理で回っている。「究極の接客」とは、接客を意識させないことに尽きる。お礼、お礼、アンドお礼の世界だ。そして、私はそういう水商売の在り方を好ましく思っている。もちろん、ホス狂いの世界もだ。ここで忘れてはならないのは、ホストもまた水商売の世界の住人であり、その世界のルールを彼らは熟知している。ついでにいえば、ホストはそのルールに自ら進んで乗ろうとするホス狂いの気持ちなど、元より承知の上なのだ。ウォール街の住人も、リターンが期待できなければ、そもそも投資をしない。それと同じことだ。南無三。

 話を戻そう。アミと担当ホストの旅行先は箱根。伊豆。那須。伊香保。温泉街ばかりなのは、おそらくアミの担当の趣味だろう。そういう「お金を使ったお礼」が月1回くらいのペースで実施される。アマゾンだってしょっちゅう感謝祭をするので、それと同じ道理かもしれない。

 そんなこんなで、毎月の旅行が当たり前になった頃、アミに次の「変化」が訪れた。ある日担当からこう告げられたという。

「何もしてあげられないかもしれないけれど、付き合おう」

 ホストの本気接客の極み「本営」のスタートである。本営とは、「本命(彼女)営業」の略である。アミが担当ホストにとって「本当に本命かどうか」は問題を大変ややこしくするので、いまは置いておく。またどこかで機会があれば、書こうと思う。

「担当ホストと一緒に住むことになった」

 アミからそう聞かされたのは「本営」が始まってから3カ月後のことだった。そのころアミは毎月150~200万円を安定して担当へと使うようになっていた。

 余談ではあるが、とある売れっ子ホストが「同時に3人までとは同棲できる」と豪語していた。普通に聞くと意味がわからないが、つまり、各家に週2日ずつ帰るのだそうだ。お客と過ごす時間を全て仕事と換算するのであれば24時間365日仕事をしているようなものである。リゲインもびっくりだ。

 アミが担当と週何日一緒にいたのかは定かではないが、ともかくアミは「同棲彼女」になった。旅行の頻度は減ったけれど、担当ホストの実家へも何度か行ったそうだ。同棲しているから、たとえお店で放置されても何の不満もない。そう彼女は語っていた。むしろ、「彼女」だからこそ、お店では多くを求めない。冒頭で語った「どれだけ都合よくなれるか選手権」はこうして毎夜開催される。

 そうしてホス狂い同士が戦っている間、担当ホストも、安心してまだ店外デートをしていない新規のお客に集中できるというわけだ。誰が考えたかは知らないが、よくできたシステムである。皮肉ではない。

 それからまたしばらくして、アミと担当ホストは「別れた」。一緒に暮らしているうちにお互いに不満が溜まっていたそうだ。つい先日アミに会ったが、今彼女はまた違うホストとの「店外デート」を楽しんでいる。

 このアミのエピソード。私の知っている「本営」のなかでは、始まりから終わりまで、割とオーソドックスな流れを踏んでいる。知り合って仲良くなり、二人きりで会う回数が増え、交際が始まる。一緒に住んで、いつか別れる。普通の恋人同士のような、接客だ。

 穿った見方をしなくとも、一般的な感覚で見れば、「はいはい、ただの営業営業」で片が付くエピソードだろう。でも、私はそう見たくはない。多くのホス狂いは「本営」つまり「営業」であるということなんてわかっている。ホス狂いは、そんなことは百も承知の上で「本気」でホストに狂うのだ。

 この「本営」の終わりだが、みなさんが想像するように、金の切れ目が縁の切れ目を地でいく世界なのかといわれれば、実はそうでもない。別れたからといって、エースではなくなったからといって、二度と顔も合わさないわけではないのだ。たまに連絡を取り合うこともあって、お互いの近況を確かめ合ったりする。どうだ元気にしているか? とお互いの体調を気にかけたりもする。たまに飲みに行って、今の「本営彼氏」について相談したり。もちろん、そこにシャンパンやら大金は介在しない。

 これを見て、なにかに似ていると思わないだろうか? そう、普通の別れたカップルと何も変わらないのである。なんなら、割と円満に関係を終了したカップルだ。ホストとホス狂いだって、実は堅気の彼氏・彼女の関係となんら変わりはしないのだ。少なくとも、私はそこに大きな違いを見いだせない。いや、わざわざ見いだす気もない。

せりな
新宿・歌舞伎町の元風俗嬢ライター。『マツコが日本の風俗を紐解く』(日本テレビ系)で、 現役時代のプレイ動画を「徹底した商業主義に支配された風俗嬢」 と勝手に流されたが、 ホストに貢いでいたのであながち間違いではない。その他、デリヘル経営に携わるなど、業界では知られた存在。 現在も夜な夜な歌舞伎町の飲み屋に出没している。
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【バックナンバー】
第1回:歌舞伎町の元風俗嬢が語る、愛しき“ホス狂い”たち――「滑稽だけど大真面目」な素顔
第2回:担当ホストに月200万円……OLから風俗嬢になった女が駆け上がった「ホス狂い」の階段
第3回:容姿や年齢より「使った金額」! ホス狂いたちが繰り広げる、担当ホストのエースをめぐる闘争
第4回:Twitterで「担当ホストの本命彼女」を暴露!! ホス狂い界隈を絶望させた“ある女の復讐劇”