「私は彼の奥様だから」堅実な銀行OLが2億円貢いだ“結婚”という甘言【足利銀行2億円横領事件・後編】

 昭和48年、お盆直前の8月12日に銀行員の大竹章子(21)は地元栃木の小山駅で同僚の女友達と待ち合わせた。少し早く取れた休みを利用して東北に行こうと、前から計画していたのだ。仙台行きの急行「松島4号」に乗り込むと、通路を挟んで隣に座っていた男に話しかけられた。章子は、石村と名乗るこの男のことを運命と思ったことだろう。しかし、この出会いは終わりの始まりだったのである。

前編はこちら

結婚には「秘密警察組織を抜ける金が必要」

「48年8月30日木曜日
 石村さんから電話がある。日光の金谷ホテルで彼と待ち合わせる。203号室。部屋の中には石村さんのアタッシェケースが1つだけ置いてあった。来年の春ごろには結婚できそうだと言う。私を迎えるまでには、何とかして仕事を軌道に乗せておきたいと言ってくれた。本当に嬉しい。みんなにお姉さんと言われながらも長い間辛抱していてきた甲斐があった。
 彼が私の全て。私は世界一幸福な女ね。今日は遅くなったので駅からタクシーを奮発して帰る。」

 来年の春ごろには結婚できる、辛抱してきてよかった、と幸せにつづる章子。しかし、石村にはこの当時結婚しており、東京に妻がいた。

 石村と名乗る男――「安田(仮名)」は、章子が生まれる2年前、宮城県登米郡登米町で誕生した。父は下駄屋で同町の名士でもあり、のちに電子工業の工場長に迎えられた。安田は県立登米高校を卒業後、東京の立正大学に進学したが、ちょうどその頃、父親の事業が失敗し、一家も関東に移り住んだ。安田は学業もそこそこに競輪、競馬通いを続け、大学2年で中退。千葉の自衛隊に入隊したが、競馬場にほど近い船橋市の蕎麦屋に強盗に入り、逮捕される。執行猶予判決を受けた後、東京に出てきていた。妻とは、熱烈な恋愛結婚だったという。

 だが安田が独身で、国際秘密警察の任務についている者だと疑わなかった彼女は、「組織から抜けるために金が必要」という求めに応じて、金を渡し続けた。自分の預金が底をつくと、父親名義の通帳から50万円、100万円と金を引き出し、安田に渡す。だが安田はまだ欲しがった。

「実は、組織から離れるためにはどうしても5000万円位のお金がいるんだ」
「5000万円なんて……」
「君は銀行の貸付係だろう」

 安田にヒントを与えられた章子は、ついに銀行の金に手をつけはじめる。勤務中、章子は隙を見て、窓口隣に座る調査役の検印を白地の手形、伝票、副伝票に押し、それをハンドバッグに入れて持ち帰り、自宅で金額を書き込んだ上、後日、銀行の忙しい時をねらって現金化した。それも“結婚”を夢見ていたからこその行動だった。

「48年10月15日 月曜日
 久しぶりに電話があった。彼から電話がかかってきた日にはカレンダーの日付に丸印をつけることが習慣になった。12日ぶりにつける丸印だ。今日は石村さんの運転で長野川の堤防までドライブに出た。ロイヤル山荘で休憩。彼に言われてしたことだけど、悪い事は悪いことだ。係長さんに名前を呼ばれると体がすくんじゃうほど怖い。でも彼の汗の匂いを嗅いでいる時だけは、本当に身も心も落ち着く。石村さんから離れられなくなってしまった。彼の仕事がうまくいけば早くお金を返してもらって銀行に返しておこう。あと5ヶ月で結婚できる」(章子の日記)

「49年1月25日 金曜日
 モーテルオランダにて休憩。
 彼と初めて会ってから今月でちょうど半年になった。会社の方が順調に進んでいないらしく、今日もお金を工面するよう頼まれてしまった。怖いから、もう勘弁してもらおうと思っていても、彼に頭を下げられると断れなくなってしまう。もうちょっとで、会社のほうもうまくいくと言う彼の言葉を信じよう。正式にはまだ彼の籍には入っていないけど、私は彼の奥様なんだから。彼の嵐のような激しい愛撫のほてりが、まだ体の心に残っている。」(同)

 年が明けた49年、桜が咲き始める頃には結婚できると思っていた章子。心はすでに“奥様”となり、心身ともに安田に酔っていた。だが、安田はまだ国際秘密警察という偽の立場を利用し、結婚を先延ばしにしながら、セックスと甘い言葉で手懐けた章子に、金の無心を続けた。元来、真面目な性格だった章子は、罪悪感と恐怖心に襲われながらも、銀行から金を引き出すことがどうしてもやめられなかった。

「49年12月24日 火曜日
 今日はクリスマスイブだった。トナカイのソリに乗ったサンタクロースは私のところには来なかった。どうしても拒めず、今日も彼と一緒にモーテル花園に入ってしまった。
 彼から電話でお金を作ってくるようにと言われた時、いちどは断った。だけど『ここまで来てしまったら、後には引けないだろう』と、彼に強引に押し切られてしまった。もうどうにもならない歪みにはまり込んでしまっている。お母さん、怖いの。助けて。」

 彼女の日記はこれ以降、空白が多くなり、たまに書かれているのも数字だけになる。最後に記載があったのは、50年7月11日。「500万円」のメモが最後だった。2年前の8月に出会ってから、この日に金を渡すまで、章子は安田と62回のデートを重ねた。そのうち54回、総額2億1190万円を貢いだ。

 勤め先の足利銀行栃木支店から不正に金を引き出したという横領の罪で栃木県警に逮捕されたのは、最後のメモから11日後の同年7月21日のことだった。夢見た結婚は叶わず、冷房のない県警の取調室で追及を受けながら、彼女は章子は「あの人が、必ずわたしも助けにきてくれる」と信じていた。

 その安田は章子の逮捕前日、当時すでに捜査の手が伸びていた章子にさらなる金の無心をし、ボウリング場「ニュー栃木ボウル」に来るように伝えていた。だが待ち合わせ場所に車で現れた安田は、捜査陣の張り込みに気づき、車を降りることなく急発進させ、時速120キロの猛スピードで逃走。愛人との逃亡を続けていた。

 安田は章子から奪い取った金で、複数の愛人を囲う生活を送っていたのだ。その事実を知った章子に、男への憎しみが生まれたのは自然なことだろう。

「今となれば、悪かったのは自分だとわかってますが、あの男に対する憎しみが湧いてくるんです。早く捕まえてください。銀行のお金をごまかすのにはどうするか、みんなあの男が教えてくれました。 途中から警察にバラすと脅されたり、殴られたりしたこともありました。あの男から連絡がなければお金を返してもらえないと心配だし、連絡があれば乱暴されたり金を持って来いと言われはしないかと怖くてたまりませんでした」

 取調室でこう語る章子。しかし、章子の知らないことはまだあった。安田は、貢がれた金で競馬情報と予想新聞の発行を行う会社「国際ユニオン開発センター」を立ち上げ、章子逮捕の前々月には六本木にクラブを開店するなど、羽振りの良さを見せつけた暮らしを送っていたのだ。

 9月18日、東京・五反田駅の西口で愛人とともに逮捕されたとき、2億円超を貢がれた安田が所持していた金はわずか250円だった。逮捕の知らせを受けた章子は、取調室で手を叩いて喜んだという。“私は彼の奥様なんだから”“彼が私の全て”――結婚を夢見た相手であったが、「あの男を、一生、刑務所から出さないで……。死刑にしてほしいほどなんです」「女の生き血を吸って生きている、悪い男なんです」と、章子は罵り続けた。
(高橋ユキ)

【参考文献】
「ヤングレディ」昭和50年8月11日号
「週刊女性」1975年8月12日号
「微笑」 昭和50年8月30日号
「女性自身」昭和54年10月18日号
「女性セブン」1975年8月13日号
「アサヒ芸能」1975年8月7日号

社会人2年目の夏、“模範的”銀行OLが捧げた150万円と処女の意味【足利銀行2億円横領事件・前編】

世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

[第3回]足利銀行二億円横領事件

 お盆直前の8月12日、大竹章子(21)は地元栃木の小山駅で同僚の女友達と待ち合わせた。少し早く取れた休みを利用して東北に行こうと、前から計画していたのだ。仙台行きの急行「松島4号」に乗り込み、窓側に座った友人の隣に座る。若い女性たちの、平和で楽しい思い出の一つとなるはずの旅行だった。

「君たち学生?」

 ところが郡山駅を過ぎた頃に、通路を挟んで隣に座っていた見知らぬ男が話しかけてくる。ダークブラウンの背広が良く似合うその男は、二人にジュースをご馳走し、軽妙なトークを繰り広げてきた。窓の外ばかり見て拒絶を示す女友達とは対照的に、章子には仙台までの2時間があっという間に感じられた。

 仙台駅での別れ際、章子は男に求められ、女友達には気づかれぬよう、自分の泊まる旅館の電話番号を書いたメモを渡す。昭和48年のことだ。彼女は、この日の出会いをしばらく運命だと思っていたことだろう。だがそれは、終わりの始まりだったのである。

真面目で聡明な銀行OL、社会人2年目の夏

 章子は昭和28年、栃木県栃木市の郊外に生まれた。農業の傍ら、ビール用原料麦の運送業を営んでいる両親は、毎日仕事に精を出す働き者だった。姉と弟の三人きょうだい。骨太で丸い顔をした章子は、幼い頃から聡明な子で近所でも評判だったという。

 家の手伝いも嫌な顔一つせずこなし、特にトイレは念入りに掃除をした。母親が「もうやめといたら」と止めるほどであったが、「母ちゃんは黙って座ってればいいんだよ、私が好きでやってんだから」。こう答え、また掃除に精を出すのであった。

 やがて進んだ県立栃木商業高校ではテニス部のリーダーを務め、成績は常にトップクラス。悪い時でも20番と下がったことはなかった。学校長推薦で46年4月、卒業と同時に足利銀行栃木支店に入行。貸付係に配属された。堅実な両親のもとに生まれ育った章子の働きぶりは真面目で、無遅刻無欠勤、明るくてきぱきと仕事をこなす典型的、模範的な“銀行OL”だった。

 社会人になって2年目の夏。女友達と仙台へ旅行に出かけ、目的地である仙台の宿に着くと、特急「松島4号」で出会った男から電話があった。

「宿に着いてから、男から電話があって大竹さんが出ました。なぜ宿のことがわかったのか、私にはわかりません……。翌晩もまた電話があって、私はいくらなんでも知らない人と2回も続けて会うのは嫌だったので断ったら、大竹さんは『せっかく誘ってくれたのに、行かなきゃ悪いわ』と言って、1人で出かけていきました。帰ってきたのは1時間くらいしてからです。仙台の街を案内してもらった、と言っていました」(同行した女友達)

 このとき、章子は男の宿泊する部屋に呼び寄せられ、キスをした。働き者の家族のもとで暖かく育った真面目な章子は、これまで恋愛とは無縁だった。

 几帳面な性格から日記をつけるのが習慣だった章子は、この出来事も、それからの話も全て、日記に記している。

「旅館の電話番号を書いたメモを覚えていてくれて、電話をかけてきてくれた。約束を守るスマートな都会人っていう感じ。
 夜7時、誘われた。Kさん(友人)は相変わらず行きたくないと言う。でも好意は素直に受けるべきだと思う。彼女、私と石村さんが仲良くなるのを嫉妬しているのかもしれない。食事が済んだら宿にまっすぐ帰ると言う約束でKさんを納得させた……」
「翌日、彼からまた電話がかかってきた。彼女が入浴中だったので『散歩に出てくる』と簡単にメモを書き残して、1人で出かけることにした。11時帰宿。Kさんは寝ていた」(章子の日記)

 男は二人に自らを「石村」と名乗っていた。だが、それが偽名だと知らない章子は、旅で出会った年上の都会的な男性に、一気にのめり込む。そのためか、石村がわずかな逢瀬の合間に告げた驚くべき話を、章子は信じ込んでしまったのである。

「実は君にだけは打ち明けるが、僕は国際秘密警察員なんだ。今日会ったばかりだけど、僕は君と結婚したいんだ」

 これを聞いた章子は、白けるどころか、“大切な秘密を打ち明けられた”と感じ、石村への思いをますます強くしたようだ。日記には運命を感じたようなことを記している。

「石村さんから大変なことを聞いてしまった。彼が国際秘密警察官だったなんて。それも私と同じ金融関係の調査が任務っていうのも、何かの因縁なのかもしれない。彼の事は誰にも内緒にしておかなければ。もちろん友達にも」

 旅行から戻ってきた章子の勤務先に数日後、石村から電話がかかる。

「僕はあなたのことが忘れられなくて」

 すっかりその気になった章子は、姉が心臓の手術をしたばかりという家族の切迫した状況にもかかわらず、はしゃいでいた。浮ついた彼女を、父親がどなりつけたこともあった。しかしそんな小言も、恋の火のついた彼女の耳にはまったく響かない。

「48年8月20日月曜日
 石村さんから約束通り電話がかかってきた。大宮の喫茶店で会う。身の危険が迫ってきたので組織から1日も早く逃げたいと言う。そのためのお金を150万円貸してあげることにする。初めて彼に連れられてラブホテルに入った。とっても怖かった。石村さんが普通の勤め人になれれば結婚するんだ。だからバージンをあげるのは当たり前。彼に全てをリードしてもらった。」

 真面目な勤め人だった彼女は、自分の預金を引き出し、石村に渡した。石村はこう告げていたのだ。

「結婚したいんだが、実は今すぐはできない。結婚すれば秘密警察をやめなくてはならない。今やめれば命を狙われる。こんな状態から抜け出すには金がいるんだ」

 章子は石村を信じきっていた。入行時15人いた同僚は、2年のうちに次々と“寿退社”し、旅行当時は女友達を含め、4人となっていた。今の時代では考えられないが、20歳の彼女に結婚への焦りがあったと言われれば、否定はできないだろう。そして、バージンと大金を捧げてから10日後に二人は日光へ旅行に行く。

「48年8月30日木曜日
 石村さんから電話がある。日光の金谷ホテルで彼と待ち合わせる。203号室。部屋の中には石村さんのアタッシェケースが1つだけ置いてあった。来年の春ごろには結婚できそうだと言う。私を迎えるまでには、何とかして仕事を軌道に乗せておきたいと言ってくれた。本当に嬉しい。みんなにお姉さんと言われながらも長い間辛抱していてきた甲斐があった。
 彼が私の全て。私は世界一幸福な女ね。今日は遅くなったので駅からタクシーを奮発して帰る。」

 来年の春ごろには結婚できる、辛抱してきてよかった、と幸せにつづる章子。しかし、石村には、東京に妻がいた。

――後編は7月7日更新

60歳で若年性認知症になった母――心中考えた父と娘、関わらない息子【老いてゆく親と向き合う】

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

 そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。2012年には認知症の高齢者は462万人と、65歳以上の高齢者の約7人に1人だったらが、25年には約5人に1人になるとの推計もある(「平成29年版高齢社会白書」)。一方、65歳以下で発症する若年性認知症者数は3.78万人だ(「若年性認知症の実態等に関する調査結果の概要」)。ただしこれは09年発表のデータであり、10年たった現在、この数はさらに増えているだろう。

 今回は60歳で若年性認知症を発症した母親とその家族の物語をお届けしよう。

父と私が介護に追い詰められた一方、兄は……

 中野美佐さん(仮名・42)の母親(71)は60歳のとき、若年性アルツハイマー型認知症を発症し、3年ほど前に特別養護老人ホーム(特養)に入った。特養に入るまでの10年弱、父親(73)と中野さんは、次第に激しくなる母の症状に限界まで追い詰められた。中野さんは仕事で実家を離れていたので、毎週末に帰って介護をしていたが、平日は両親の二人暮らし。暴言を吐いたり、暴れたり、徘徊して一晩中行方不明になったり……若年で体力があったので、介護する側はより大変だったという。

 中野さんは実家に帰るたびに体調を壊していたし、父親と「いざとなったらみんなで心中しよう」と話すこともあった。介護疲れで親や配偶者を殺してしまうという事件は、決して他人事ではなかった。「自分たちもいつそうなるかわからなかった」と振り返る。

 心身ともに限界というところで、特養に申し込んだ。さまざまな環境が考慮されたのだろう、幸運なことに1年後には入所することができたのだ。

 この間、結婚して隣県に住んでいた兄(44)は、介護にまったくかかわっていない。

「もともとお正月くらいしか帰ってこない人だったし、いつも『仕事が忙しい』と言っていたので、兄に頼ろうとは思いませんでした」。

 そんな兄が変化した。それは、兄の家族関係が大きく変わったことが原因だった。

「母が特養に入ってすぐくらいに、奥さんと別れたんです。こっちは母の介護で大変で、父と私が限界まで追い込まれていたころ、兄は浮気相手との間に子どもをつくっていたんです。本当に、何やってたんだとあきれますよね。元奥さんとの間には子どもがいなかったので、別れてすぐに浮気相手と再婚しました。子どもが生まれると、家族というものに目覚めたようで、毎月子どもを連れて実家に帰り、母を見舞うようになったんです。そのうえ、父に経済援助までしてくれるようになったんですよ」

 「結果オーライ」と、中野さんは笑う。兄は、子どもが小学校に入学するタイミングで実家に戻り、父親と同居することまでも考えているという。

「そんなわけで、私も父も新しいお嫁さんのことをよく思っていません。前の奥さんは、美人で高学歴、高収入、家事もできる。完璧な人だったので、つい今の奥さんと比べてしまいます。父は、同居したらさびしくはなくなるけれど、めんどくさいと言っています。まあ、文句を言いつつも、孫はかわいいみたいですが。ただ孫が誰にも似ていないので、DNA検査した方がいいんじゃないかとは言っていますが……シャレにならないですね。でも、同居してくれるのなら、万々歳です」

 そうなったら「父の老後は兄一家にいっさい任せて、ドロンしようと思っている」と吹っ切れたように言うが、実は母親のもとに通うのは複雑な気持ちがあるらしい。

 特養に入る頃は、中野さんや父親のことを理解はしていた母親だが、今は中野さんのことも父親のこともわからない。

「初めて『あなたは誰?』と言われたときは、泣きそうになりました。今はもう『誰?』すらも言えないし、意志の疎通もできません。というより、その前に自我さえないのかもしれません。会うたびに、『母はもういない』という寂しさを感じるので、正直なところあまり会いたくないんです。でも、会いに行かないと親不孝だとも思う。義務感のようなものに縛られているのかな……」

 一方、父親は「寂しい、寂しい」と言いながら、2日に1回は母親のところに行っている。

「父はどんな状態でもいいから母に生きていてほしいと言って、髪をとかしたり、手をつないだり、元気だった頃より母をかわいがっているようです」

 そして、父親は母親を「うらやましい」とも言うのだ。認知症になると、死の恐怖から逃れることができるから――というのが、その理由だ。

 それは、母親が母親でなくなっていく過程を見ながら介護してきた父親だからこそ感じる死の恐怖――自分が自分でなくなるという恐怖を、人一倍感じているということなのかもしれない。確かに、自我があるのかさえもわからない母親は、死の恐怖から超越した世界に住んでいるようにも見える。果たしてそれは、安らぎなのだろうか?

 そして中野さんの家族に加わった新しい命は、父親に安らぎをもたらしてくれるだろうか。

坂口鈴香(さかぐち・すずか)
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終末ライター”。訪問した施設は100か所以上。 20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、 人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。 

【老いゆく親と向き合う】シリーズ

介護施設は虐待が心配――生活が破綻寸前でも母を手放せない娘
父は被害者なのに――老人ホーム、認知症の入居者とのトラブル
・父の遺産は1円ももらっていないのに――仲睦まじい姉妹の本音
明るく聡明な母で尊敬していたが――「せん妄」で知った母の本心
認知症の母は壊れてなんかいない。本質があらわになっただけ

【介護をめぐる親子・家族模様】シリーズ

プラスサイズ、アジア系ミックス、ムスリム美女……多様な美が集まった「スポーツ・イラストレイテッド」水着特集号2019

 1954年に創刊された米スポーツ週刊誌「スポーツ・イラストレイテッド」(以下SI)。同誌の目玉である“水着特集”が始まったのは64年で、編集長が「スポーツ業界も閑散期で、売り上げの下がる冬の時期に、どうすれば購買欲をそそる表紙を制作できるか」と悩んだ末に思いついたものだった。

 1冊まるまる女性の水着写真が楽しめるようになったのは97年からで、担当者は「女性が美しいと考える細い女性ではなく、男性が好む“グラマラスで健康的なカリフォルニア・ガール”」をモデルとして採用。78年に、乳首が丸見えの網タイプの水着で撮影を行ったシェリル・ティーグスの写真が物議を醸したが、同誌は「セクシーだけれど、下品ではない」路線での撮影を続けた。

 写真には必ずモデルの名前がクレジットため、SI水着特集号に出ると世界的な知名度を得られる。そのため公募枠には新人モデルが殺到し、いまやその入り口は狭き門となっている。専業モデルだけでなく、アスリートなども登場し、多様な美を提示している。

 2019年度水着特集号は、なんと表紙が3パターン用意され、編集部の気合も感じられる仕上がりに。今回はそこに掲載された、美しい主要モデルたちを紹介したい。

皇族の知られざる素顔――48歳年下の養女に手を出すトンデモ天皇がいた!? 【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。最近では、女性・女系天皇論争の皇位継承者問題や秋篠宮家の長女・眞子さまの婚約者・小室圭を巡る一連の騒動などが注目されているものの、実は、こんなのは大した騒動ではなかった……? 「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

 魔性のタフマンおじいちゃん・白河法皇

―――最近、天皇家への注目度がいまだかつてないほど上がっている気がしています。芸能人とはまた違いますが、ジャニーズアイドル並に週刊誌やテレビでもよく目にしますし。

堀江宏樹(以下、堀江) 天皇陛下の代替わりとともに、元号も「平成」から「令和」に変わりましたね。日本の長い歴史の中に自分たちも生きているんだなぁ……と思える特別な瞬間でした。2019年4月30日まで天皇陛下だった方が、皇太子殿下に位をゆずって、“上皇”陛下になったり。“上皇”と呼ばれる方が日本にいるのは、じつに約200年ぶりとのことです。

―――約200年前ということは、江戸時代! “上皇”という言葉は、歴史の教科書の中にしか存在しないと思っていたので、日本の長い歴史の延長線上にわれわれも生きているということを実感させられますね。サイゾーウーマンでも皇室ウォッチ系の記事が好評なんですが、歴史上の皇室というとまた別次元の話のような気がします。そこはどうなんでしょうか。

堀江 そうですね、実際にまったく“別の世界”だと思います。時代にあわせて変化していくことこそが、皇室の変わらない伝統だという人もいますね。たとえば、明治・大正時代くらいまでの天皇には、いわゆる「側室」と呼べる女性がいてもおかしくはないというのが世間の常識だったし、実際にいたわけです。しかし、昭和時代以降、そういう伝統は「時代にそぐわない」として消えてなくなりましたね。

―――「側室」はお世継ぎを授かるために……ということでしょうか?

堀江 はい。でも、昔は「お世継ぎ」のためだけではないでしょうね。天皇家は日本最上位の“スーパースター”の一族。そして、スター性があり、権力を極めた“強い”天皇ほど、多くの子どもがいる傾向が強いんです。つまり、それを言い換えると、彼らが心身ともに健康で、個人的にも魅力がすごく、“モテにモテた”結果だとも言えるんですね。たとえば、天皇家の長い歴史の中でも、もっとも強い権力を握った人であろうと思われる、平安時代後期の白河天皇(1053~1129)には、その手のすごいエピソードがいっぱいあるのです。

―――モテた結果のエピソードですか? なんだか不穏な空気が出てきましたね。

堀江 そうですね(笑)。でも、その前に、少し真面目に歴史の中の白河天皇について見てみましょうか。

 平安時代の天皇家といえば、天皇家をもしのぐ権力を手に入れた藤原家に押されがちというイメージがあるかもしれません。しかし平安後期の白河天皇は、相続争いで内部分裂した藤原家から権力と富を皇室に奪い返した帝として有名です。

 白河天皇の思い通りにならないものは「加茂河の水、双六の賽(さい)の目、山法師」の3つだけという言葉が伝えられています。出典は『平家物語』、つまりフィクションですから、確実に言ったという証拠はありません。しかし、これは白河法皇の絶対権力についての「キャッチコピー」として伝統的に使われている言葉なんですね。

 加茂河(現在の鴨川)の水は「自然現象」、双六の賽の目は「運」、そして山法師は当時の大寺院・延暦寺などが雇っていた「僧兵」、つまり僧の姿をした兵士たちを意味しています。僧兵は政治に気に入らないことがある度に、都にやってきて暴れまわるのですが、「天罰」があるので原則、天皇でさえ処罰の命令をくだせません。白河天皇からしたら、実に厄介な存在(笑)!

  さて……白河天皇が退位、上皇になったのが応徳3年(1086年)11月のこと。天皇在位期間は13年でした。ちなみに平安時代(9世紀~12世紀)くらいの天皇の平均在位期間は約12年ほどですので、それより少し長いくらいですね。

―――生前に譲位するのが、この頃は一般的だったのですね。

堀江 はい。この頃は、基本的にそうなります。白河天皇は譲位した後「上皇」となりますが、その後、永長元年(1096年)に出家したので「法皇」を名乗ることになりました。天皇は定員一名だけですが、上皇や法皇は複数存在していてもOKなのです。

 そんな白河法皇には、同い年で長年の友人がいたのですが、それが血縁的には従兄弟にあたる、藤原公実(ふじわらのきんざね)。藤原公実は、藤原家の中でも特に家柄が良く、権力にも近い「閑院流(かんいんりゅう)」とよばれる血筋に生まれました。そして……閑院流には美男美女が多いといわれてきたのです。

―――白河法皇は、イケメンかつ家柄も良い友達と長年つるんできでたわけですね?

堀江 そうそう。藤原公実もとびきりの美男だったこともあり、白河法皇からそれは大事にされてきたといいます。歌人としても、勅撰和歌集に歌が選ばれるほど優秀でした。勅撰和歌集とは、天皇もしくは上皇・法皇の命令によって作られた和歌集です。現在の歌会始めに自作が選ばれる以上のものすごい名誉だったんですね。

―――勅撰和歌集のすごさが、いまいちピンとこない……現代の媒体でたとえるなら?

堀江 そんな……たとえることなんてできません! 大変、名誉なことですし、言葉が悪いかもしれないけど、雑誌や新聞って基本的にすぐに読まれなくなるでしょう。個人で歌集を出版しても同じ。でも、勅撰和歌集に自作が掲載されるということは、歌人として未来永劫、歴史に名前が残るのです。そもそも、皇室が率先して作らせている媒体=勅撰和歌集なので、それに掲載してもらえるなんて「ありがたや~、ありがたや~」と思わずにはいられないでしょ。

 ただ……藤原公実は政治家としてはイマイチなんですけどね。だから、高い地位を彼が守り続けられたのは白河法皇と藤原公実が男色関係にあったからという人も多いですし、僕もそう考えています。

―――身分の高い方々の同性愛は、当時よくあったことなんですか?

堀江 白河法皇も藤原公実もお世継ぎをすでに儲けていたので、とくに問題がなかったんです。彼らが生きた平安時代後期を、歴史用語で「院政期(いんせいき)」と呼びます。この時代は、“寝室”で歴史が作られていたと言っても過言ではない……つまり、強い人から寵愛を受ければ受けるほど出世できる時代なので、男女関係だけでなく、男性同性愛も盛んだったようです。

 あと、当時、恋愛はレジャーみたいなものでもありました。ほかに娯楽が少ないですからね。でも中学の古文の授業を思い出してください。当時、それなりの身分のお姫様と会うには、和歌やプレゼントを“しつこく”送らないと、面会すらなかなかしてくれません。男性同士の場合、お姫様に会うまでの、まどろっこしいやりとりはなかったようです(笑)。

―――自由恋愛イコール同性愛というような部分があったみたいな?

堀江 極論すれば、そう言えます。でもね、現代人からすると不可解なんですが、単純に好きな相手とセックスするというより、“にくい相手”、たとえば政敵の男と「わざわざ」寝てしまうケースもあるんですよ。男色の記述が多いことで知られる、院政期の公家・藤原頼長の日記『台記』などに出てくるケースです。「愛ゆえに」というより、人間関係の“ガス抜き”みたいなことを狙って、同性同士でセックスしていたのかもしれません。

 あるいは、当時の高貴な人たちにとって男女関係は、政略結婚などに象徴されるように、自分の意志だけでは決められない要素が多すぎました。愛人選びだって、単純に自分の好みだけでは決められません。しかし同性愛は、そういう男女関係にまつわる「わずらわしさ」からは、少なくとも自由で、純粋な関係だったと言えるかもしれません。

―――“にくい相手”とのセックスとは、現代人の思考回路では考えにくいので驚いちゃいました。資料によると、嘉承2(1107)年、藤原公実が“突然”亡くなりますね。すると彼の娘のうちの一人を白河法皇は自分の養女にした、という記述があります。

堀江 娘というのは、後の待賢門院(たいけんもんいん)、藤原璋子(ふじわらのたまこ)という女性です。ただこの人、スキャンダルクイーン系の美女だったようで、問題アリな人物と言われています。彼女は藤原公実の最後の娘、つまりすごく幼いからというわけでもないのに、白河法皇の養女になった。邪推すると……璋子ちゃんは、幼い頃からとびきりかわいかったし、なんとなく公実パパを彷彿とさせる容貌だったのでしょう(笑)。だから白河法皇はわざわざ養女にしたのでは?

―――NHK連続テレビ小説『なつぞら』も、広瀬すず演じるヒロイン・なつが北海道に養女のようにしてもらわれていくという展開がありましたが、なつのことは顔では選んでませんよね。

堀江 顔で選んだのでは、というのはあくまでも僕の推測ですが、『今鏡』という歴史物語に、白河法皇が昼間っから璋子と“あやしいこと”をしていたというシーンが出てくるわけです。

―――あやしいことってなんですか? 昼間からお父さんと“あやしいこと”……とても気になるんですけど!

(第2回につづく!!)

堀江宏樹(ほりえ・ひろき)
1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。2019年7月1日、新刊『愛と欲望の世界史』が発売。好評既刊に『本当は怖い世界史 戦慄篇』『本当は怖い日本史』(いずれも三笠書房・王様文庫)など。
Twitter/公式ブログ「橙通信

 

皇族の知られざる素顔――48歳年下の養女に手を出すトンデモ天皇がいた!? 【日本のアウト皇室史】

 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。最近では、女性・女系天皇論争の皇位継承者問題や秋篠宮家の長女・眞子さまの婚約者・小室圭を巡る一連の騒動などが注目されているものの、実は、こんなのは大した騒動ではなかった……? 「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

 魔性のタフマンおじいちゃん・白河法皇

―――最近、天皇家への注目度がいまだかつてないほど上がっている気がしています。芸能人とはまた違いますが、ジャニーズアイドル並に週刊誌やテレビでもよく目にしますし。

堀江宏樹(以下、堀江) 天皇陛下の代替わりとともに、元号も「平成」から「令和」に変わりましたね。日本の長い歴史の中に自分たちも生きているんだなぁ……と思える特別な瞬間でした。2019年4月30日まで天皇陛下だった方が、皇太子殿下に位をゆずって、“上皇”陛下になったり。“上皇”と呼ばれる方が日本にいるのは、じつに約200年ぶりとのことです。

―――約200年前ということは、江戸時代! “上皇”という言葉は、歴史の教科書の中にしか存在しないと思っていたので、日本の長い歴史の延長線上にわれわれも生きているということを実感させられますね。サイゾーウーマンでも皇室ウォッチ系の記事が好評なんですが、歴史上の皇室というとまた別次元の話のような気がします。そこはどうなんでしょうか。

堀江 そうですね、実際にまったく“別の世界”だと思います。時代にあわせて変化していくことこそが、皇室の変わらない伝統だという人もいますね。たとえば、明治・大正時代くらいまでの天皇には、いわゆる「側室」と呼べる女性がいてもおかしくはないというのが世間の常識だったし、実際にいたわけです。しかし、昭和時代以降、そういう伝統は「時代にそぐわない」として消えてなくなりましたね。

―――「側室」はお世継ぎを授かるために……ということでしょうか?

堀江 はい。でも、昔は「お世継ぎ」のためだけではないでしょうね。天皇家は日本最上位の“スーパースター”の一族。そして、スター性があり、権力を極めた“強い”天皇ほど、多くの子どもがいる傾向が強いんです。つまり、それを言い換えると、彼らが心身ともに健康で、個人的にも魅力がすごく、“モテにモテた”結果だとも言えるんですね。たとえば、天皇家の長い歴史の中でも、もっとも強い権力を握った人であろうと思われる、平安時代後期の白河天皇(1053~1129)には、その手のすごいエピソードがいっぱいあるのです。

―――モテた結果のエピソードですか? なんだか不穏な空気が出てきましたね。

堀江 そうですね(笑)。でも、その前に、少し真面目に歴史の中の白河天皇について見てみましょうか。

 平安時代の天皇家といえば、天皇家をもしのぐ権力を手に入れた藤原家に押されがちというイメージがあるかもしれません。しかし平安後期の白河天皇は、相続争いで内部分裂した藤原家から権力と富を皇室に奪い返した帝として有名です。

 白河天皇の思い通りにならないものは「加茂河の水、双六の賽(さい)の目、山法師」の3つだけという言葉が伝えられています。出典は『平家物語』、つまりフィクションですから、確実に言ったという証拠はありません。しかし、これは白河法皇の絶対権力についての「キャッチコピー」として伝統的に使われている言葉なんですね。

 加茂河(現在の鴨川)の水は「自然現象」、双六の賽の目は「運」、そして山法師は当時の大寺院・延暦寺などが雇っていた「僧兵」、つまり僧の姿をした兵士たちを意味しています。僧兵は政治に気に入らないことがある度に、都にやってきて暴れまわるのですが、「天罰」があるので原則、天皇でさえ処罰の命令をくだせません。白河天皇からしたら、実に厄介な存在(笑)!

  さて……白河天皇が退位、上皇になったのが応徳3年(1086年)11月のこと。天皇在位期間は13年でした。ちなみに平安時代(9世紀~12世紀)くらいの天皇の平均在位期間は約12年ほどですので、それより少し長いくらいですね。

―――生前に譲位するのが、この頃は一般的だったのですね。

堀江 はい。この頃は、基本的にそうなります。白河天皇は譲位した後「上皇」となりますが、その後、永長元年(1096年)に出家したので「法皇」を名乗ることになりました。天皇は定員一名だけですが、上皇や法皇は複数存在していてもOKなのです。

 そんな白河法皇には、同い年で長年の友人がいたのですが、それが血縁的には従兄弟にあたる、藤原公実(ふじわらのきんざね)。藤原公実は、藤原家の中でも特に家柄が良く、権力にも近い「閑院流(かんいんりゅう)」とよばれる血筋に生まれました。そして……閑院流には美男美女が多いといわれてきたのです。

―――白河法皇は、イケメンかつ家柄も良い友達と長年つるんできでたわけですね?

堀江 そうそう。藤原公実もとびきりの美男だったこともあり、白河法皇からそれは大事にされてきたといいます。歌人としても、勅撰和歌集に歌が選ばれるほど優秀でした。勅撰和歌集とは、天皇もしくは上皇・法皇の命令によって作られた和歌集です。現在の歌会始めに自作が選ばれる以上のものすごい名誉だったんですね。

―――勅撰和歌集のすごさが、いまいちピンとこない……現代の媒体でたとえるなら?

堀江 そんな……たとえることなんてできません! 大変、名誉なことですし、言葉が悪いかもしれないけど、雑誌や新聞って基本的にすぐに読まれなくなるでしょう。個人で歌集を出版しても同じ。でも、勅撰和歌集に自作が掲載されるということは、歌人として未来永劫、歴史に名前が残るのです。そもそも、皇室が率先して作らせている媒体=勅撰和歌集なので、それに掲載してもらえるなんて「ありがたや~、ありがたや~」と思わずにはいられないでしょ。

 ただ……藤原公実は政治家としてはイマイチなんですけどね。だから、高い地位を彼が守り続けられたのは白河法皇と藤原公実が男色関係にあったからという人も多いですし、僕もそう考えています。

―――身分の高い方々の同性愛は、当時よくあったことなんですか?

堀江 白河法皇も藤原公実もお世継ぎをすでに儲けていたので、とくに問題がなかったんです。彼らが生きた平安時代後期を、歴史用語で「院政期(いんせいき)」と呼びます。この時代は、“寝室”で歴史が作られていたと言っても過言ではない……つまり、強い人から寵愛を受ければ受けるほど出世できる時代なので、男女関係だけでなく、男性同性愛も盛んだったようです。

 あと、当時、恋愛はレジャーみたいなものでもありました。ほかに娯楽が少ないですからね。でも中学の古文の授業を思い出してください。当時、それなりの身分のお姫様と会うには、和歌やプレゼントを“しつこく”送らないと、面会すらなかなかしてくれません。男性同士の場合、お姫様に会うまでの、まどろっこしいやりとりはなかったようです(笑)。

―――自由恋愛イコール同性愛というような部分があったみたいな?

堀江 極論すれば、そう言えます。でもね、現代人からすると不可解なんですが、単純に好きな相手とセックスするというより、“にくい相手”、たとえば政敵の男と「わざわざ」寝てしまうケースもあるんですよ。男色の記述が多いことで知られる、院政期の公家・藤原頼長の日記『台記』などに出てくるケースです。「愛ゆえに」というより、人間関係の“ガス抜き”みたいなことを狙って、同性同士でセックスしていたのかもしれません。

 あるいは、当時の高貴な人たちにとって男女関係は、政略結婚などに象徴されるように、自分の意志だけでは決められない要素が多すぎました。愛人選びだって、単純に自分の好みだけでは決められません。しかし同性愛は、そういう男女関係にまつわる「わずらわしさ」からは、少なくとも自由で、純粋な関係だったと言えるかもしれません。

―――“にくい相手”とのセックスとは、現代人の思考回路では考えにくいので驚いちゃいました。資料によると、嘉承2(1107)年、藤原公実が“突然”亡くなりますね。すると彼の娘のうちの一人を白河法皇は自分の養女にした、という記述があります。

堀江 娘というのは、後の待賢門院(たいけんもんいん)、藤原璋子(ふじわらのたまこ)という女性です。ただこの人、スキャンダルクイーン系の美女だったようで、問題アリな人物と言われています。彼女は藤原公実の最後の娘、つまりすごく幼いからというわけでもないのに、白河法皇の養女になった。邪推すると……璋子ちゃんは、幼い頃からとびきりかわいかったし、なんとなく公実パパを彷彿とさせる容貌だったのでしょう(笑)。だから白河法皇はわざわざ養女にしたのでは?

―――NHK連続テレビ小説『なつぞら』も、広瀬すず演じるヒロイン・なつが北海道に養女のようにしてもらわれていくという展開がありましたが、なつのことは顔では選んでませんよね。

堀江 顔で選んだのでは、というのはあくまでも僕の推測ですが、『今鏡』という歴史物語に、白河法皇が昼間っから璋子と“あやしいこと”をしていたというシーンが出てくるわけです。

―――あやしいことってなんですか? 昼間からお父さんと“あやしいこと”……とても気になるんですけど!

(第2回につづく!!)

堀江宏樹(ほりえ・ひろき)
1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。2019年7月1日、新刊『愛と欲望の世界史』が発売。好評既刊に『本当は怖い世界史 戦慄篇』『本当は怖い日本史』(いずれも三笠書房・王様文庫)など。
Twitter/公式ブログ「橙通信

 

90分5,000円の“地雷風俗店”で出会った鈴木宗男似セラピスト!! エロ酒と泪の軽トラ観光

 「女にも性欲」がある――そんな当たり前のことが広く知られるようになり、女性向けセルフプレジャーグッズや、イケメンAV男優が出演するアダルト動画などが、身近な存在になりつつある中、それでも「女性向け風俗」は男性向け風俗に比べ、まだまだ未知の領域かも? そんな中、Twitterやラジオ、インターネット番組で、自らの女性向け風俗の体験談を赤裸々に語っているのがお笑いコンビ・ハナイチゴの関谷友美さん。女性向け風俗の世界を関谷さんに案内してもらいます!

格安店で出会った“地雷セラピスト”

 みなさんこんにちは。女性向け風俗が大好きなハナイチゴ・関谷です。みなさんもだんだん、女性向け風俗に対する偏見や、不安などもなくなってきたのではないですしょうか? 今回は第2回に引き続き、福岡で出会ったセラピストについてお話します。「お金をケチッてはダメ」――そんな女性向け風俗における教訓を得た経験です。

 福岡の1店目でハイキングウォーキングの松田洋昌さん似のセラピストに気持ちよくしてもらった後、次に向かう風俗店を検索していたところ、博多の激安店を発見しました。その値段、90分5,000円(笑)! 早速、お店の公式サイトを見たら、通常載っているはずのセラピストの情報が全然載っておらず、ますます怪しさが募ります。でも芸人という職業柄、どんな接客であっても「笑い」としてはおいしいので、“激安店”のサービスが気になってしまったんです……ガチャを回すような感覚で申し込んじゃいました。

 ホテルの部屋でドキドキしながら待っていたら、ガチャッと扉の開く音が……。そこに立っていたのは、鈴木宗男似の男性! 本人は50歳と言っていましたが、正直、私にはそれ以上の年齢に見えました。よく見ると、頭もうっすら禿げているような感じで、宗男感がより際立ちます……。その時点でキャンセルもできたんですが、わざわざ来てもらっている手前、なんだか追い返すのも申し訳なく、さらに宗男がまたいい笑顔を見せてくれるので、よけい断りづらくなり、心して宗男の施術を受けることにしました(苦笑)。あの時は正直、「ああ……宗男か」と心の中では思っていましたし、「お金を払って何をしているのだろう……」という気分でしたね。

 サービスの内容は、ほかの女性向け風俗店のサービスと同じで、最初にシャワーを浴びてから、マッサージが始まる流れ。今までのセラピストたちはシャワーを浴びている間に、お水や女性好みのアロマオイルの用意をしたり、荷物が汚れないようにハンカチをかけてくれたりしていたのですが、そのような気づかいはゼロ。宗男似、しかもホスピタリティに欠ける接客ときたものですから、テンションはさらに急降下です。ちなみに、シャワーから出てきた宗男は、マッサージ用の服装なのか、タンクトップとフィットネス用のスパッツに着替えており、「風俗だよね、ここ?」と困惑してしまいました(笑)。

 そんな宗男ですが、やる気満々で、マッサージ自体はうまかった! 「勉強したんたい!」と力強い博多弁で話してくれました。そして、性感マッサージはキスが多め。チュッチュと鳥のように全身をリップされまして、また指や舌遣いも気持ちよかったです。宗男が「イカせてあげるばい」と意気込んでくれていたのも、人情味あふれる感じでうれしかったですね。「追い返さないでよかった~」なんて思っていたんですが、突如宗男が口に舌を入れてこようとしたので、急に現実へ引き戻され、なんだか申し訳ない気持ちになりつつも、自分の舌で侵入を抑えていました(笑)! 

 そんなこんなでプレイは終了したところ、私の旅行用の荷物を見て、「東京から? 」と尋ねてきた宗男。「失恋して、傷心旅行で来ています」と、なんとなく嘘をついたところ、 「この後、予約がないけん、博多を案内しちゃる!」とまさかの観光案内をしてくれると言うのです。「そりゃ、次の予約は入ってないだろ……」とツッコミたい気持ちでいっぱいでしたが、好奇心がムクムクと湧いた私は「はい! お願いします!」と甘えちゃいました。 ホテルを出た後は、宗男の軽トラに乗り込み、市内観光へ。私が「日本酒を飲みたい」とリクエストしたら、呑める店があまりないとのことで、酒蔵まで連れて行ってくれたんです! 宗男いわく、博多華丸・大吉さんもお気に入りだという絶品の日本酒を作っている酒蔵でしたね。また、「ご当地カップ麺を買いたいんだけど、お土産屋さんには売ってなくて~」と話したところ、地元のスーパーにも連れて行ってくれ、「買ったるけん」とおごってくれちゃいました。その後は、ちょうど開催されていたお祭りにも足を運んでみたりと、“普通”に福岡旅行を堪能。最後は新幹線の駅まで送ってくれるという優しさで、ちょっと情が移ってしまったのか、新幹線に乗ったら泣いてしまいました。

 ちなみに、いろいろと世間話もしたのですが、宗男の本業はイベント関係の仕事で、セラピストの仕事は趣味でやっているそう。そのほかに興味深かったのは、障がい者を対象にした、セックスボランティアもやっているということ。宗男はエロいのではなく、意識が高く、優しい人のようでした。

結局、半日ほど観光案内をしてもらいましたが、その時間の延長料金やガソリン代を請求されることもなく、サービス精神旺盛な宗男に感謝です。風俗のサービスが“いまいちだったかな……“と思っていたのかもしれませんね(笑)。

地方ならではの楽しみ方

 最初は、格安店に予約をしたことを後悔していたのですが、田舎に泊まる系のテレビ番組のような人の温かさに触れることができ、最高の思い出です。
 
 そして、地方にある風俗の魅力は「綺麗にしとるたい!」のような方言で、褒めてくれるところ。ご当地感がクセになりそうです。土地の人に触れ、土地のものを食べる。そして観光もできて一石三鳥! また、東京の風俗店の多くは、サービスがマニュアル化されているためなのか、サービスが均一で良く言えばハズレが少ないのですが、地方では、素股や観光案内のような“サプライズ”を得られる可能性は大です。ぜひ興味のある方は、地方の女性向け風俗店のサービスを体験してみてください!  

■ハナイチゴ・関谷友美 
太田プロダクション所属の芸人。コンプライアンス小松﨑とハナイチゴというコンビで活躍中。
Twitter/公式ブログ「サブマリンに憧れて

90分5,000円の“地雷風俗店”で出会った鈴木宗男似セラピスト!! エロ酒と泪の軽トラ観光

 「女にも性欲」がある――そんな当たり前のことが広く知られるようになり、女性向けセルフプレジャーグッズや、イケメンAV男優が出演するアダルト動画などが、身近な存在になりつつある中、それでも「女性向け風俗」は男性向け風俗に比べ、まだまだ未知の領域かも? そんな中、Twitterやラジオ、インターネット番組で、自らの女性向け風俗の体験談を赤裸々に語っているのがお笑いコンビ・ハナイチゴの関谷友美さん。女性向け風俗の世界を関谷さんに案内してもらいます!

格安店で出会った“地雷セラピスト”

 みなさんこんにちは。女性向け風俗が大好きなハナイチゴ・関谷です。みなさんもだんだん、女性向け風俗に対する偏見や、不安などもなくなってきたのではないですしょうか? 今回は第2回に引き続き、福岡で出会ったセラピストについてお話します。「お金をケチッてはダメ」――そんな女性向け風俗における教訓を得た経験です。

 福岡の1店目でハイキングウォーキングの松田洋昌さん似のセラピストに気持ちよくしてもらった後、次に向かう風俗店を検索していたところ、博多の激安店を発見しました。その値段、90分5,000円(笑)! 早速、お店の公式サイトを見たら、通常載っているはずのセラピストの情報が全然載っておらず、ますます怪しさが募ります。でも芸人という職業柄、どんな接客であっても「笑い」としてはおいしいので、“激安店”のサービスが気になってしまったんです……ガチャを回すような感覚で申し込んじゃいました。

 ホテルの部屋でドキドキしながら待っていたら、ガチャッと扉の開く音が……。そこに立っていたのは、鈴木宗男似の男性! 本人は50歳と言っていましたが、正直、私にはそれ以上の年齢に見えました。よく見ると、頭もうっすら禿げているような感じで、宗男感がより際立ちます……。その時点でキャンセルもできたんですが、わざわざ来てもらっている手前、なんだか追い返すのも申し訳なく、さらに宗男がまたいい笑顔を見せてくれるので、よけい断りづらくなり、心して宗男の施術を受けることにしました(苦笑)。あの時は正直、「ああ……宗男か」と心の中では思っていましたし、「お金を払って何をしているのだろう……」という気分でしたね。

 サービスの内容は、ほかの女性向け風俗店のサービスと同じで、最初にシャワーを浴びてから、マッサージが始まる流れ。今までのセラピストたちはシャワーを浴びている間に、お水や女性好みのアロマオイルの用意をしたり、荷物が汚れないようにハンカチをかけてくれたりしていたのですが、そのような気づかいはゼロ。宗男似、しかもホスピタリティに欠ける接客ときたものですから、テンションはさらに急降下です。ちなみに、シャワーから出てきた宗男は、マッサージ用の服装なのか、タンクトップとフィットネス用のスパッツに着替えており、「風俗だよね、ここ?」と困惑してしまいました(笑)。

 そんな宗男ですが、やる気満々で、マッサージ自体はうまかった! 「勉強したんたい!」と力強い博多弁で話してくれました。そして、性感マッサージはキスが多め。チュッチュと鳥のように全身をリップされまして、また指や舌遣いも気持ちよかったです。宗男が「イカせてあげるばい」と意気込んでくれていたのも、人情味あふれる感じでうれしかったですね。「追い返さないでよかった~」なんて思っていたんですが、突如宗男が口に舌を入れてこようとしたので、急に現実へ引き戻され、なんだか申し訳ない気持ちになりつつも、自分の舌で侵入を抑えていました(笑)! 

 そんなこんなでプレイは終了したところ、私の旅行用の荷物を見て、「東京から? 」と尋ねてきた宗男。「失恋して、傷心旅行で来ています」と、なんとなく嘘をついたところ、 「この後、予約がないけん、博多を案内しちゃる!」とまさかの観光案内をしてくれると言うのです。「そりゃ、次の予約は入ってないだろ……」とツッコミたい気持ちでいっぱいでしたが、好奇心がムクムクと湧いた私は「はい! お願いします!」と甘えちゃいました。 ホテルを出た後は、宗男の軽トラに乗り込み、市内観光へ。私が「日本酒を飲みたい」とリクエストしたら、呑める店があまりないとのことで、酒蔵まで連れて行ってくれたんです! 宗男いわく、博多華丸・大吉さんもお気に入りだという絶品の日本酒を作っている酒蔵でしたね。また、「ご当地カップ麺を買いたいんだけど、お土産屋さんには売ってなくて~」と話したところ、地元のスーパーにも連れて行ってくれ、「買ったるけん」とおごってくれちゃいました。その後は、ちょうど開催されていたお祭りにも足を運んでみたりと、“普通”に福岡旅行を堪能。最後は新幹線の駅まで送ってくれるという優しさで、ちょっと情が移ってしまったのか、新幹線に乗ったら泣いてしまいました。

 ちなみに、いろいろと世間話もしたのですが、宗男の本業はイベント関係の仕事で、セラピストの仕事は趣味でやっているそう。そのほかに興味深かったのは、障がい者を対象にした、セックスボランティアもやっているということ。宗男はエロいのではなく、意識が高く、優しい人のようでした。

結局、半日ほど観光案内をしてもらいましたが、その時間の延長料金やガソリン代を請求されることもなく、サービス精神旺盛な宗男に感謝です。風俗のサービスが“いまいちだったかな……“と思っていたのかもしれませんね(笑)。

地方ならではの楽しみ方

 最初は、格安店に予約をしたことを後悔していたのですが、田舎に泊まる系のテレビ番組のような人の温かさに触れることができ、最高の思い出です。
 
 そして、地方にある風俗の魅力は「綺麗にしとるたい!」のような方言で、褒めてくれるところ。ご当地感がクセになりそうです。土地の人に触れ、土地のものを食べる。そして観光もできて一石三鳥! また、東京の風俗店の多くは、サービスがマニュアル化されているためなのか、サービスが均一で良く言えばハズレが少ないのですが、地方では、素股や観光案内のような“サプライズ”を得られる可能性は大です。ぜひ興味のある方は、地方の女性向け風俗店のサービスを体験してみてください!  

■ハナイチゴ・関谷友美 
太田プロダクション所属の芸人。コンプライアンス小松﨑とハナイチゴというコンビで活躍中。
Twitter/公式ブログ「サブマリンに憧れて

無印良品の衣類は「本当に良品」なのか? 「夏の麻素材服は微妙な出来」と専門家解説

――ファッションライター・南充浩氏が、いま話題のファッションニュースに斬り込む!

 国内の衣料品消費市場が縮小する中、海外市場へ参入する大手ブランドが増えました。実はワールドやイトキン、オンワード樫山などの大手アパレルは90年代後半から中国市場へ進出していましたが、いずれも成功せず、2010年頃から再進出しているというのが実情です。

 そうした中にあって、海外で最も成功している国内ブランドがユニクロと無印良品。無印良品は、百貨店ブランドやDC(デザイナーズキャラクター)ブランド全盛期の1980年に誕生しました。当時は、ある程度お金を出さなければ、“まとも”な洋服は買えなかった時代。もちろん、ダイエーやジャスコ(現イオン)などに代表される大手総合スーパーマーケットには低価格商品が数多く並んでいましたし、鈴屋や鈴丹、リオチェーンなどの大手低価格カジュアルチェーン店も数多く存在していたものの、いずれも、デザイン、シルエット、生地の品質、色柄……どの項目でもブランド物に遠く及んでいませんでした。トレンドという情報源は同じでも、それを再現するノウハウ(生産背景も含めて)が、ブランド側に囲い込まれていたからです。

 そういう状況下で、無印良品は「わけあって、安い」をキャッチコピーとして、ブランド物と低価格衣料品の中間的な存在として生まれました。

 現在、かつての大手低価格カジュアルチェーンの多くが消え去りましたが、90年代後半からユニクロが伸び、それに追随してさまざまな低価格ブランドが誕生。しかし、いずれも80年代、90年代の低価格衣料品に比べると、はるかにデザイン・シルエット・色柄はマシになっています。生地や縫製の品質はイマイチな場合もありますが、トレンドの再現性で言えば「ブランド物」とあまり遜色なくなっています。

 そうした中においては、無印良品の服は「地味」に見えます。ユニクロと同じくベーシックカジュアルに分類されると思いますが、よりナチュラルテイストが強く、色バリエーションもユニクロに比べると少なく、だいたいどのアイテムも3~5色程度となっており、その色も白・黒・紺・グレー・ベージュのベーシックカラーがほとんどなので、服そのものだけでなく店頭も地味な印象です。

 また値段もユニクロに比べると、アイテムにもよりますが、だいたい平均的に1,000~3,000円くらい高く設定されています。決して高くはありませんが「激安」というわけでもありません。

 さて今回、そんな無印良品の衣類について、サイゾーウーマン編集部から「本当に『良品』なのですか?」というテーマで執筆依頼が来たのですが、こうした疑問が湧いてくるのは不思議ではありません。今の低価格ブランドやユニクロを見慣れた人からすると、全体的に「割高感」があるため、それ相応の品質が伴っているか、気になるところなのではないでしょうか。

 割高感に加え、品質に疑問を抱くアイテムもあります。無印良品が夏に展開する麻素材の服は、微妙な出来が多いと感じています。例えば、麻100%のスラックスがありますが、これは洗濯をするとひどくシワシワになってしまうのです。ドレッシーなスラックスタイプだと、そのシワシワはミスマッチになってしまいますから、これはもっとカジュアルパンツに寄せたデザインにすべきだったのではないかと思います。また、昔買った麻100%ジャケットも、ユニクロの麻綿混ジャケットに比べるとシワシワ感が目立った上に、袖裏に裏地が付いておらず、着用時の滑りが悪かったことがあります。

 また冬用の防寒アウター類も微妙な印象も拭えません。例えば、ユニクロよりも1,000~2,000円くらい高い軽量ダウンジャケット類は、品質においてあまり納得できません。またウールコート類もやはりユニクロと比べ、価格、品質の面で、「飛び抜けていい」とは言い難いのです。

 しかし、逆に他ブランドよりも安く品質もいい商品もあります。例えば靴下ですが3足で890円です。さらに今秋からは3足790円へと値下げするとのこと。個人的に、無印良品の衣類の中で最もコスパが高く、機能的に優れていると思っているのがこの靴下で、特に「脱げにくいフットカバー」は圧巻です。

 夏にはスリッポンシューズを履くことが増えますが、靴の履き口から靴下が大きく顔を覗かせているのはバランス的によくありません。そこで考え出されたのが、足先とかかとだけを覆い、足の甲の部分がない「フットカバー」という商品で、業界的にはレディース用が先行しました。メンズ向けに広く出回るようになったのは、その後のことになります。

 ところが、このフットカバーという商品は甲の部分がむき出しですから、構造的に極めて「脱げやすい」のです。14年頃まで、ユニクロ、ジーユーなどさまざまな低価格ブランドのフットカバーを試してみましたが、いずれも歩いていると靴の中でかかと部分から脱げてしまい、イラッとして手持ちのフットカバーを全て捨てたこともあります。そんなときに「脱げにくい」という文字に惹かれて買ったのが当時3足990円の無印良品のフットカバーでした。

 ほかのブランドの多くは、不安定な構造を補完し、脱げやすさを解消するために、かかとの内側にジェルのような滑り止めが付いていますが、無印良品のフットカバーは、ジェル部分がありません。全て編み生地だけで作られているにもかかわらず、靴の中でほとんど脱げないのです。よほど足をねじったような歩き方をすれば脱げることもありますが、通常、足をねじりながら歩く人はいません。ジェルなしでこの「脱げにくさ」を保った上で、現在3足890円という安さは業界随一と言っても過言ではありません。あまりに気に入ったので、これを9足くらい持っていて、毎年3足ずつ買い足しています。

 個人的な評価でいうと、無印良品の衣類は、「コスパが良い商品とコスパが悪い商品が混在している」と感じます。買う場合はじっくりと見極めたり、ウェブでさまざまな人のレビューを読んだりして選ぶ方が賢明だと言えます。

 しかしながら、無印良品が見事なのは、ブランドとしてのテイストの統一ぶりでしょう。これはユニクロよりも上ではないでしょうか。先ほどは地味と言いましたが、店作りに統一感があるのは事実で、商品にも良くも悪くも統一感があります。百貨店ブランドも含めて、毎シーズンここまで統一感を持たせられているブランドは国内ではちょっと見当たりません。だからこそ、世界的に支持されているのではないでしょうか。
(南充浩)

無印良品の衣類は「本当に良品」なのか? 「夏の麻素材服は微妙な出来」と専門家解説

――ファッションライター・南充浩氏が、いま話題のファッションニュースに斬り込む!

 国内の衣料品消費市場が縮小する中、海外市場へ参入する大手ブランドが増えました。実はワールドやイトキン、オンワード樫山などの大手アパレルは90年代後半から中国市場へ進出していましたが、いずれも成功せず、2010年頃から再進出しているというのが実情です。

 そうした中にあって、海外で最も成功している国内ブランドがユニクロと無印良品。無印良品は、百貨店ブランドやDC(デザイナーズキャラクター)ブランド全盛期の1980年に誕生しました。当時は、ある程度お金を出さなければ、“まとも”な洋服は買えなかった時代。もちろん、ダイエーやジャスコ(現イオン)などに代表される大手総合スーパーマーケットには低価格商品が数多く並んでいましたし、鈴屋や鈴丹、リオチェーンなどの大手低価格カジュアルチェーン店も数多く存在していたものの、いずれも、デザイン、シルエット、生地の品質、色柄……どの項目でもブランド物に遠く及んでいませんでした。トレンドという情報源は同じでも、それを再現するノウハウ(生産背景も含めて)が、ブランド側に囲い込まれていたからです。

 そういう状況下で、無印良品は「わけあって、安い」をキャッチコピーとして、ブランド物と低価格衣料品の中間的な存在として生まれました。

 現在、かつての大手低価格カジュアルチェーンの多くが消え去りましたが、90年代後半からユニクロが伸び、それに追随してさまざまな低価格ブランドが誕生。しかし、いずれも80年代、90年代の低価格衣料品に比べると、はるかにデザイン・シルエット・色柄はマシになっています。生地や縫製の品質はイマイチな場合もありますが、トレンドの再現性で言えば「ブランド物」とあまり遜色なくなっています。

 そうした中においては、無印良品の服は「地味」に見えます。ユニクロと同じくベーシックカジュアルに分類されると思いますが、よりナチュラルテイストが強く、色バリエーションもユニクロに比べると少なく、だいたいどのアイテムも3~5色程度となっており、その色も白・黒・紺・グレー・ベージュのベーシックカラーがほとんどなので、服そのものだけでなく店頭も地味な印象です。

 また値段もユニクロに比べると、アイテムにもよりますが、だいたい平均的に1,000~3,000円くらい高く設定されています。決して高くはありませんが「激安」というわけでもありません。

 さて今回、そんな無印良品の衣類について、サイゾーウーマン編集部から「本当に『良品』なのですか?」というテーマで執筆依頼が来たのですが、こうした疑問が湧いてくるのは不思議ではありません。今の低価格ブランドやユニクロを見慣れた人からすると、全体的に「割高感」があるため、それ相応の品質が伴っているか、気になるところなのではないでしょうか。

 割高感に加え、品質に疑問を抱くアイテムもあります。無印良品が夏に展開する麻素材の服は、微妙な出来が多いと感じています。例えば、麻100%のスラックスがありますが、これは洗濯をするとひどくシワシワになってしまうのです。ドレッシーなスラックスタイプだと、そのシワシワはミスマッチになってしまいますから、これはもっとカジュアルパンツに寄せたデザインにすべきだったのではないかと思います。また、昔買った麻100%ジャケットも、ユニクロの麻綿混ジャケットに比べるとシワシワ感が目立った上に、袖裏に裏地が付いておらず、着用時の滑りが悪かったことがあります。

 また冬用の防寒アウター類も微妙な印象も拭えません。例えば、ユニクロよりも1,000~2,000円くらい高い軽量ダウンジャケット類は、品質においてあまり納得できません。またウールコート類もやはりユニクロと比べ、価格、品質の面で、「飛び抜けていい」とは言い難いのです。

 しかし、逆に他ブランドよりも安く品質もいい商品もあります。例えば靴下ですが3足で890円です。さらに今秋からは3足790円へと値下げするとのこと。個人的に、無印良品の衣類の中で最もコスパが高く、機能的に優れていると思っているのがこの靴下で、特に「脱げにくいフットカバー」は圧巻です。

 夏にはスリッポンシューズを履くことが増えますが、靴の履き口から靴下が大きく顔を覗かせているのはバランス的によくありません。そこで考え出されたのが、足先とかかとだけを覆い、足の甲の部分がない「フットカバー」という商品で、業界的にはレディース用が先行しました。メンズ向けに広く出回るようになったのは、その後のことになります。

 ところが、このフットカバーという商品は甲の部分がむき出しですから、構造的に極めて「脱げやすい」のです。14年頃まで、ユニクロ、ジーユーなどさまざまな低価格ブランドのフットカバーを試してみましたが、いずれも歩いていると靴の中でかかと部分から脱げてしまい、イラッとして手持ちのフットカバーを全て捨てたこともあります。そんなときに「脱げにくい」という文字に惹かれて買ったのが当時3足990円の無印良品のフットカバーでした。

 ほかのブランドの多くは、不安定な構造を補完し、脱げやすさを解消するために、かかとの内側にジェルのような滑り止めが付いていますが、無印良品のフットカバーは、ジェル部分がありません。全て編み生地だけで作られているにもかかわらず、靴の中でほとんど脱げないのです。よほど足をねじったような歩き方をすれば脱げることもありますが、通常、足をねじりながら歩く人はいません。ジェルなしでこの「脱げにくさ」を保った上で、現在3足890円という安さは業界随一と言っても過言ではありません。あまりに気に入ったので、これを9足くらい持っていて、毎年3足ずつ買い足しています。

 個人的な評価でいうと、無印良品の衣類は、「コスパが良い商品とコスパが悪い商品が混在している」と感じます。買う場合はじっくりと見極めたり、ウェブでさまざまな人のレビューを読んだりして選ぶ方が賢明だと言えます。

 しかしながら、無印良品が見事なのは、ブランドとしてのテイストの統一ぶりでしょう。これはユニクロよりも上ではないでしょうか。先ほどは地味と言いましたが、店作りに統一感があるのは事実で、商品にも良くも悪くも統一感があります。百貨店ブランドも含めて、毎シーズンここまで統一感を持たせられているブランドは国内ではちょっと見当たりません。だからこそ、世界的に支持されているのではないでしょうか。
(南充浩)