近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。
『息もできない』
11月13日公開の韓国映画『詩人の恋』(キム・ヤンヒ監督、2017)に主演する俳優のヤン・イクチュン。在日朝鮮人の帰国事業をテーマにした『かぞくのくに』(ヤン・ヨンヒ監督、12)や、菅田将暉と共演した寺山修司の代表作の映画化『あゝ荒野』(岸善幸監督、17)など、日本映画でも活躍している俳優だが、実は彼、映画監督でもある。
今から11年前、彼の長編デビュー作『息もできない』(09)は、ちょうど昨今話題の『はちどり』(キム・ボラ監督、19)のように世界の映画祭を席巻した。ロッテルダム映画祭、ドーヴィル・アジア映画祭、シンガポール映画祭をはじめ各国の映画祭で受賞し、日本では「東京フィルメックス」で最優秀作品賞と観客賞をダブル受賞したばかりか、世界的に見ても歴史のある映画賞「キネマ旬報ベスト・テン」で外国映画の1位まで獲得してしまったのである。
ヤン・イクチュンはシナリオ、監督、主演の3役をこなし、国内外で高い評価を得て、興行的にも成功を収めた。デビュー作でここまでの記録を打ち立てるのは驚異的ですらあったが、次作への大きすぎる期待がプレッシャーになったのか、いまだ監督作が作られていないのは残念なことだ。今回のコラムでは、今もって映画としての魅力は色褪せていないヤンの『息もできない』を取り上げてみたい。
<物語>
親友(先輩でもある)マンシク(チョン・マンシク)のもとでヤクザ稼業にいそしむサンフン(ヤン・イクチュン)は、大学生たちのデモに乗り込んで暴力を振るったり、無許可営業の屋台を容赦なく破壊したり、債務者の家を回っては無慈悲な暴力で借金を取り立てたりと、ことごとく最低な乱暴者だ。異母姉の幼い息子の遊び相手になるなど根は優しいものの、幼い頃、父(パク・チョンスン)の家庭内暴力が原因で母と妹を失うというつらい過去を持つ彼は、15年の刑期を終えて出所してきた父を前にして、イライラを募らせるばかり。そんなある日、女子高生のヨニ(キム・コッピ)と知り合ったサンフンは、自分のようなヤクザを前にしても物おじしない彼女に少しずつ惹かれていく。
実はヨニの家庭も、決して幸せではなかった。ベトナム戦争の後遺症でPTSDを抱える父(チェ・ヨンミン)、無許可営業の屋台を潰された挙げ句に病死した母(キル・ヘヨン)、暗鬱な環境の家庭でますます暴力的になっていく弟(イ・ファン)と、ヨニもまたサンフンのような絶望的な状況に置かれていたのだ。サンフンとの出会いはヨニにとっても小さな救いをもたらし、2人は徐々に心を通わせていく。暴力的な自分を見つめ直し、ついにヤクザから足を洗う決心をしたサンフンだが、その先に待っていたのはあまりにも悲しい結末だった。
物語を読む限り、「暴力的なヤクザ映画」だと本作を敬遠する向きもあるかもしれないが、この映画は完璧なまでに「メロドラマ」である。誰もが涙せずにはいられない展開の中で、サンフンの暴力も次第に彼の純粋さ故の葛藤であることが明らかになる。メロドラマの基本は「すれ違い」。サンフンの家族想いの優しさは表面上の暴力によってすれ違いをもたらし、ヤクザから足を洗おうと暴力をためらった瞬間に、彼に認めてもらいたい子分の暴力が爆発する。
また、メロドラマにおいてもう一つの重要な点は、「登場人物が知らないことを観客は知っている」ところにあり、例えばヨニがサンフンに向かって幸せな家族のふりをすればするほど、彼女の家庭が絶望的に不幸なことを知っている観客は胸が痛む。瀕死のサンフンと彼を待つ人々を交互に映す編集は、観客だけがその悲劇を理解しているため、より一層泣けてくるのだ。ヨニとサンフンの家族ぐるみの因縁も含めて、こうしたメロドラマの要素が「家族」の主題と結びついて普遍的な物語となり、世界中で受け入れられたのだろう。
だが今回は、本作のもう一つの特徴でもある「暴力」と多用される「悪口」から、韓国社会の一断面を考えてみよう。
英題の『Breathless』から訳された邦題は『息もできない』だが、原題は『똥파리(トンパリ)』という。「ウンコにたかるハエ=ウンコバエ」を意味するこの翻訳不可能な韓国語は、ハエの中でも一番汚らしいハエを指し、韓国社会で最も蔑まれる最下層の人間をたとえる際によく使われる言葉だ。サンフンの「トンパリ」ぶりは、映画を見れば明らかだが、その背景を知るにはもう少し説明が必要であろう。
物語の紹介で、サンフンの仕事を「ヤクザ稼業」と曖昧な形で説明したが、韓国には「용역 깡패(ヨンヨク・カンペ=用役チンピラ)」と呼ばれる集団があり、サンフンもまさにこの存在である。日本語ではなじみの薄い「用役」とは、もともと生産性を伴わない、医療や教育といった社会的に提供されるサービス全般を示す概念だったが、実際には人手を必要とするさまざまな現場に派遣される労働者など、幅広く使われている。仕事の内容は、建物の清掃やイベントの警備、工事現場など多岐にわたるため、いわゆる「便利屋」のようなニュアンスだが、そこに「チンピラ」が加わると意味合いはだいぶ変わってくる。
1980年の光州事件を踏み台にして大統領の座に就いた全斗煥(チョン・ドゥファン)軍事独裁政権時代、オリンピックの誘致に成功したチョン政権が真っ先に着手したのが、ソウルに点在する無許可建物の撤去だった。60年代以降、急激な産業化とともに仕事を求めて地方からソウルに上京した人々によって、「산동네(サンドンネ=山の町)」と呼ばれる町が形成された。雨風をやっとしのげるほどのみすぼらしい家々の集合体であるサンドンネは、ソウル周辺の山の中に許可なく建てられた一種のスラム街で、治安や衛生面の問題も抱えていたが、チョン政権が問題視したのはその景観だった。
オリンピックによってソウルの景観にも注目が集まると考えた政府は、「国の恥」にもなりかねないサンドンネを隠蔽すべく、一時は町全体を緑色の布で覆うという信じがたい計画まで立てていたらしい。さすがに実行には至らなかったものの、政府はソウル美化のための再開発に乗り出し、サンドンネの住人に対し立ち退き命令を出した。だが人間のすみかを奪うとなると、事はそうやすやすとは運ばない。一方的に立ち退きを命じられた住人たちは、生存権の保障を要求して猛然と立ち向かったのだ。対処に手こずった政府は、民間業者を募集して暴力的なやり口で強制排除に踏み切り、公権力を後ろ盾にした業者は暴力の限りを尽くして住人たちを徹底的に排除した。
この時、「用役会社」を名乗った民間業者に雇われ、先頭に立って破壊活動を行ったのがチンピラのような連中だったことが、「用役チンピラ」という呼称の由来となっている。用役チンピラによる住人への暴力や、それを黙認した公権力の横暴はドキュメンタリー映画にもなっているが、彼らはその後も、警察など権力側と癒着しながら、野党の政治集会の妨害工作や、デモ隊の排除などにしばしば動員され、韓国社会の暗部となっている。日本でも、ヤクザ組織が公権力と結びついて同様の行為を行ってきた歴史があるが、要するにサンフンは、権力に守られながら社会的弱者を攻撃し、権力に反発する者の権利を暴力的に奪ってきたという点においても、文字通り「トンパリ」なのである。
そんな本作を見ながら、恐らく韓国語のわからない日本人観客でさえも、何度も耳にするうちに勝手に覚えてしまったフレーズがあったのではないだろうか。そのひとつが、韓国語で最も使われている悪口「シバル」である。けんかの際や相手を罵倒する時の悪口だが、もともとは「시팔 좆같다(シパル チョッカッタ)」という。
まず「シパル」は、女性の性器を表す俗語「십(シプ)」+「하다(ハダ)=~する」で「セックスする」の意味になる。韓国語は文字の組み合わせによって音が変化するので、「シパル」→「シバル」となり、さらに「놈아(ノマ)=奴」がついて、サンフンの口から頻出する「シバルノマ」になる(女性に対しては「년(ニョン)=アマ」をつけて「シバルニョン」)。英語の「ファック・ユー」と思えばわかりやすいだろうか。
「좆 같다(チョッカッタ)」に関しては、男性の性器を表す俗語「좆(チョッ)」に、「~のようだ」を指す「같다(カッタ)」が付いて「男根のようだ」の意味になる。「シバル チョッカッタ」と続けると、「セックスする男根のようだ」となり、勃起した男根のように興奮(拡張されたあらゆる意味での興奮)した状態、日本語で言うならば「血が上った」状態を指し示す。ムカついたとき、失敗したときなど、さまざまなネガティブな場面で叫び、つぶやき、時には相手に向けて言い放つのはもちろん、男同士(まれに女同士でも)で言い合ったり、サンフンのように日常的に口にすることも少なくない。
このように、韓国の悪口には性的な語源を持つものが多いのだが、その裏には、性にまつわるあらゆる物事を「非道徳的」であるとして抑圧してきた朝鮮時代の影響を読み取ることができる。500年以上にわたって続いた朝鮮時代、儒教をこの上なく崇拝した貴族(ヤンバン)は、百姓たちに対しては「性」を抑圧していたのに対して、自分たちは性的な遊戯に明け暮れていた。そんな貴族に対する百姓たちの密かな抵抗が、性の言語化という形で表れているのではないだろうか。
国語学者のソ・ジョンボムの言葉を借りるならば、最も抑圧される性的なものをあえて用いることで、百姓たちは儒教的抑圧と貴族の矛盾に全面対抗したのである。このコラムの中でこれまでもしばしば登場してきた、韓国における「悪しき」儒教的伝統は、「悪口」という被支配者の言語にも垣間見えるのだと言える。
こうした悪口からひもとく儒教的抑圧と対抗という関係は、本作におけるサンフンと父の関係性を理解するヒントにもなるかもしれない。
映画は幼い頃に父の暴力によって母と妹を失い、孤独に生きてきたサンフンが、刑期を終えて家に戻ってきた父を前にして憤りを募らせるあたりから始まる。自分の人生を不幸にした元凶である父に対して、恨みしか抱けずに暴力を振るってしまうのはよくわかるが、サンフンは父が異母姉とその息子と一緒に過ごすことさえ我慢ならない。その一方で、かつての面影が見えないほど弱々しくなった父が絶望のあまり自殺しようとすると、必死の形相で病院に担ぎ込み、「死なれては困る」と叫ぶ。
そんなサンフンの分裂的な態度からは、儒教国家・韓国における父と息子のあまりにも強固な、それ故に不健全とも言える関係性が見え隠れしている。
儒教には、「父子有親」という父と息子の強力な連帯を訴える概念がある。韓国にはどの家庭にも「族譜」と呼ばれる家系図が存在するのだが、つい最近までそこに女性の名前は記載されず、男系の成員の名のみが連綿とつづられてきた。「家」を重んじる日本とは異なり、韓国では何よりも「血」が大事なため、血が継承される父・息子の関係性しか重要視されない(女性の場合は「出嫁外人」と言って、父系の血の継承ができないものとされ、結婚すれば「嫁ぎ先の人間」として扱われる)。こうして、父と息子の間に特権的な絆を作ることで家父長制を維持してきた韓国だが、その両者の関係が正常に機能しない場合には、サンフン親子のような暴力に依存した服従関係が生まれてしまう。
サンフンが「シバル チョッカッタ」と罵倒しながら父に暴力を振るい、同時に父を必死で救おうとする様子からは、自らを苦しめる父=家父長制に対する抵抗と、それでも儒教を絶対視する韓国的伝統から逃れられない宿命のようなものを感じずにはいられない。
そして、そんなサンフンが唯一心を許す相手である友人のマンシクとヨニ、そして甥のヒョンインを思い出してみよう。サンフンは先輩であるマンシクに決して敬語を使わず、マンシクはそんなサンフンに文句を言いながらも温かいなまざしを送る。ヨニは常識で言えばサンフンに敬語を使ってしかるべきであるにもかかわらず、タメ口で話すばかりかサンフンに負けない量の悪口を繰り出し、サンフンはヨニに悪態をつきつつ心を許していく。そしてヒョンインとサンフンの間には、父子の服従的関係性の代わりに純粋な庇護の思いやりのみが介在している。サンフンにとってあらゆる上下(服従)関係は憎むべきものであり、そこから解放された関係性にのみ安らぎを見いだしていることがわかる。
本作は、社会の底辺に生きる「トンパリ」の物語であると同時に、そんなトンパリたちが、韓国的な家父長制や儒教の伝統に抗う、抵抗の物語として読みうる映画でもあるのだ。サンフンが不在の中で私たちが目にする最後の光景は、彼が愛し、彼を愛する者たちが、血ではないつながりによって「家族」となっていくさまであり、それこそがサンフンが心から望んだ家族の形であったのだろう。
崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。