「事務所を辞めたから……」草なぎ剛が漏らしていた、ジャニーズに対する“ホンネ”とは?

 やはりジャニーズと元SMAPとの間には、修復不能な亀裂が入っていたようだ。

 11月2日~5日にかけて元SMAPの稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾の3人がインターネット番組『72時間ホンネテレビ』(AbemaTV)に生出演。ジャニーズ事務所を退社後、3人そろっての共演は初めてとあり、延べ7,400万視聴を集める大反響となった。

 しかし番組では、古巣に関する話題が持ち上がるたびに、ギクシャクした場面が見られたという。

「ゲストから『SMAP』というグループ名を言ってもいいのかと聞かれると、3人は沈黙。元メンバーの森且行とSMAP時代の思い出話をした際も、『会社に入ったとき』『グループのデビューが』『シングル曲』などと、『SMAP』『ジャニーズ』という固有名詞を避けていた。『木村』『中居』といった、事務所に残留したメンバーもNGワードになっている感じでしたね。円満退社を強調していたジャニーズですが、AbemaTVの親会社に余計なことを言わないよう、きっちり圧力をかけていたといいます」(テレビ関係者)

 元SMAPの3人にも、さぞかしストレスがかかっていることだろうが、芸能関係者はこんな証言をする。

「『ホンネテレビ』が放送される少し前に、あるベテランタレントが草なぎとバッタリ会って、『元気そうだな』と声をかけたそうです。すると、草なぎは冗談ともいえない口調で『ええ、ジャニーズを辞めたからですよ』と答えたんだとか。10月24日放送の『5時に夢中!』(TOKYO MX)に稲垣が生出演して話題を呼びましたが、彼だけが出演したのは、もしかしたら草なぎや香取だと、“失言”する可能性があったからかもしれません」

 元SMAP3人の生出演には、しばらく視聴者もヒヤヒヤさせられそうだ。

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小島瑠璃子と関ジャニ∞・村上信五の“熱愛報道”に、ジャニーズから「ゴーサイン」あった!?

 タレントの小島瑠璃子が、関ジャニ∞・村上信五との熱愛を写真誌「フライデー」(講談社)に報じられ、ラジオ番組で「本当にシンプルな先輩。それ以上でも、それ以下でもなくて」と否定。2人の所属事務所も、それぞれ「友人関係」としたが、テレビ関係者からは「それはありえない」という反論が聞かれる。というのも、村上所属のジャニーズ事務所からは、内々に、この熱愛報道にゴーサインが出ていたからだ。

 報道では、10月上旬にマスクで顔を隠した小島が村上のマンションから出てくる姿が伝えられた。2人は半月に2~3日のペースで密会しており、深夜から朝方まで一緒に過ごすこともあったという。ジャニーズアイドルと女性タレントの熱愛は、よほど世間が騒がない限り、テレビでは“基本的にNG”となるはずだが、この記事が出た10月27日の朝、一部の情報番組では、このネタが扱われたのだ。

「ただ、その扱い方は、裏が見えてくるものだった」と、業界歴20年以上のテレビディレクター。

「例えばTBSで早朝に放送されている『はやドキ!』では、このネタを扱ったコーナーの冒頭で、30日から開始した関ジャニ∞の冠番組『ペコジャニ∞!』のPRが挟まれていました。熱愛のネタ振りがあって、PRを挟んでから本題……こんな面倒な構成を、朝の忙しい番組側が自らやるわけがなく、ジャニーズ側の“条件付きOK”だったと見て間違いないと思います。村上と小島の熱愛がウソなのであれば、そんな条件付けは成り立たないので、熱愛自体はガチですね」(同)

 ただ、ジャニーズ事務所がこうした条件付けでゴシップの扱いにゴーサインを出すのも、また異例のこと。それが今回に限ってOKだったのは、なぜだろうか?

「どんな裏取引があったのか、ハッキリと番組スタッフに伝えられるものではないので、真相はわからないと思いますが、ジャニーズ事務所にとってつぶしたい、もっと大きなゴシップがある場合、特例が発動されることがあります」(同)

 しかし今回は、同じタイミングでジャニーズがらみのビッグスクープが出てきたわけではない。

「そうなると心当たりがあるのは、元SMAP3人への注目をそらすためかな、と考えられます」と同ディレクター。

 元SMAPの稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾の3人は11月2~5日、インターネットテレビ局AbemaTVの『72時間ホンネテレビ』に出演。村上のゴシップが出たのは、ちょうどその宣伝が大きく展開されていた頃だった。

 世間の元SMAPへの注目をそらすためにゴシップの取り扱い許可を出しておき、『ペコジャニ∞!』を売ろうとしたとしても不思議ではない。ただ、同番組の平均視聴率は5.0%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と低調だった。

 実のところ、ゴーサインが出ても、多くの情報番組では、村上・小島の熱愛ネタを扱ってはいなかった。当日は民進党の前原誠司代表が辞任表明をすることがわかって、朝からその手の話題が増え、昼のワイドショーも、その中継にかかりきりになったため、芸能ニュース自体が最小限だったのだ。

 ジャニーズ側の元SMAPに対する“捨て身”の対抗策も、今回は空振りだったようだ。

(文=藤堂香貴/NEWSIDER Tokyo)

「新しいユニットの形をみせたい」! ベテランジャニーズ・ふぉ~ゆ~は、Jr.の“閉鎖的状況”を打破できるか

 現在、主演舞台『GACHI~全力 entertainment 4U~』の公演を行っている「ふぉ~ゆ~」が、11月9日の朝日新聞関西版に登場。東京・シアタークリエでの公演を終え、11月24日~26日に福岡・博多座、11月30日~12月3日に大阪・新歌舞伎座、そして12月5日に愛知・名古屋国際会議場センチュリーホールと全国をまわる彼らが、舞台の見どころや作品にかける意気込みを語っている。

 同日には、「朝日新聞大阪芸能班」の公式Twitterが、ふぉ~ゆ~を取材した際の“こぼれ話”を投稿しているのだが、その内容にファンが歓喜している。

 9日の投稿には「10月からはジャニーズJr.ではなく、ジャニーズの『ふぉ~ゆ~』だそうです。記事もそう表記しました」と書かれており、すでにふぉ~ゆ~は“ジャニーズJr.”という枠組みから外れ、ひとつのユニットとして、ジャニーズの一員になったようなのだ。確かに、朝日新聞関西版の紙面には……

 

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ジャニーズ事務所、「CDデビューなし」路線に!? 実力派ユニットの「Jr.卒業」が与える影響

 ジャニーズJr.内ユニットで舞台経験が豊富な4人組・ふぉ~ゆ~が、今秋をもって「Jr.を卒業」したとファンの間で話題になっている。全員が30歳を超え、アダルトな魅力が増した彼らだが、今後はCDデビューにこだわらず、新しい形のユニットとして活動を展開していくようだ。

 2011年、名前に“ゆう”がつく福田悠太、越岡裕貴、辰巳雄大、松崎祐介の4人で結成されたふぉ~ゆ~。KinKi Kids・堂本光一主演舞台『Endless SHOCK』や数々の先輩のバックダンサーを経験しており、13年にはラジオ番組『ふぉーゆーのぴたラジ!』(CBCラジオ)が始まったほか、14年からは情報番組『ゴゴスマ~go go smile~』(TBS系)にレギュラーとして週に1回出演中。Jr.ながらもラジオとテレビのレギュラーを持ち、近年は個々でもドラマやCMで活躍している。

 今年8月には、メンバーが原案と主演を務める舞台『GACHI~全力 entertainment 4U~』の東京公演が行われ、11月下旬より同作の地方公演がスタートする。そんな彼らをめぐっては、10月頃からある異変が囁かれていた。

「冠ラジオ『ふぉーゆーのぴたラジ!』のHPから、“ジャニーズJr.”の表記がなくなったことが発覚したんです。以前のHPだと『現在はCDデビューしていないため、ジャニーズJr.として活動中』と紹介されていましたが、今はこの部分が削除されています。また、東宝の『GACHI~全力 entertainment 4U~』のサイトにおいてはジャニーズJr.と記載されている一方、大阪・新歌舞伎座のHPでは消えていたりと、『Jr.』の文字が外れる機会が増えていたそうです」(ジャニーズに詳しい記者)

 4人が出演する舞台『GACHI~全力 entertainment 4U~』は11月30日~12月3日まで大阪で上演され、その公演に先駆けて9日付の朝日新聞(関西版)の夕刊にインタビューが掲載された。同日夜には、朝日新聞大阪芸能班のTwitterアカウントが「10月からはジャニーズJr.ではなく、ジャニーズの『ふぉ~ゆ~』だそうです。記事もそう表記しました。『デビューに向かってだけやっている訳じゃない』『下にもいっぱいいるから、ジャニーズの新しいユニットの形をみせたい』という言葉が印象的でした」と、取材時のこぼれ話をツイート。確かに、紙面でも「ジャニーズの4人組『ふぉ~ゆ~』」と書かれている。

 このツイートにより、“Jr.卒業”はほぼ決定的と見られ、ファンからは「やっぱり卒業だったのね! CDデビューしないで卒業したグループは初で、これはすごい一歩」「ふぉ~ゆ~、正式にJr.を卒業してたんだね。素敵なグループだからうれしい」と、祝福の声が相次いでいる。ジャニーズには風間俊介、生田斗真、佐野瑞樹のようにJr.から独り立ちし、俳優を続けている例はあるが、グループは「CDデビュー」が卒業の節目とされているだけに、珍しいケースだろう。

 その背景には、Jr.がデビューできていない現状も影響しているようだ。

「最近のJr.は、Mr.KINGやPrinceなどのユニットが数組存在している状況で、Jr.全体のコンサートにも10組近くが出演します。グループごとの人気も高く、HiHiB少年(HiHi Jetと東京B少年の2ユニットの合体)による写真集 『GALAXY BOX』(集英社、10月31日発売)は3万3,138部を売り上げ、11月13日付のオリコン週間写真集ランキングで1位になっていました。A.B.C‐Zのファースト写真集『五つ星』(東京ニュース通信社、4月25日発売)はオリコン週間写真集ランキングで初回限定版と通常版あわせて4,903部だっただけに、デビュー組を上回る勢いを見せているものの、Jr.にデビューの気配は見えず、停滞感すらあります」(同)

 Jr.卒業とはいえ、ふぉ~ゆ~はジャニーズ公式サイトではいまだJr.として記載されている上に、本人たちからも明確な報告はなく、この先、CDリリースをせずに舞台や俳優業をメインに活動していくのか、方針も見えていない。しかし、ふぉ~ゆ~は、少なくとも2年ほど前から事務所が売り出しに力を入れていたとされる。

「15年に4人が舞台『壊れた恋の羅針盤』で初主演を務めた時、会見では取材陣に向けてメンバーのプロフィールや活動記録を記した資料が10枚以上配られたそうです(既報)。この頃から、ただのJr.とは一線を画す扱いを始めていました。ジャニーズ事務所において、『CDデビューせずに卒業する』という第三のポジションが生まれたのかもしれません」(同)

 今回のふぉ~ゆ~のようなパターンが、Jr.界にどう影響を及ぼすのか、行方を見守っていきたい。

編成大刷新中のフジテレビ『みなおか』『めちゃイケ』の次に切られるのは、アノ“大物”か!?

 フジテレビが番組改編で大ナタをふるった。かねてより打ち切りがウワサされてきた『とんねるずのみなさんのおかげでした』『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ系)の2番組を2018年3月末で終了すると発表したのだ。

 高騰するタレントのギャラ、高額な制作予算、それに見合わない低視聴率、テレビ局にとってメリットは皆無であり、打ち切りは必然といえる。だが、半年前の番組終了発表は異例であろう。

「同様の例としては32年間続いた『笑っていいとも!』が挙げられますね。14年3月31日に終了するにあたり、半年前の13年の10月22日に、その日のレギュラーではない笑福亭鶴瓶が登場する形で発表されました。あのシーンは、乱入しているように見えて事前に細かいリハーサルが行われていたといわれています。長寿番組の終了発表にはそれだけ“センス”が問われるといえるでしょう」(業界関係者)

『笑っていいとも!』に続き『めちゃイケ』『みなおか』の終了発表でフジテレビの編成はだいぶ刷新されたといえる。だが、次なる“リストラ候補”も存在しているようだ。

「明石家さんまですね。良くも悪くもフジテレビのバブリーな80年代ノリ、スタッフを巻き込んだ身内ノリを体現する人物といえます。現在は同局で『ホンマでっか!?TV』『さんまのお笑い向上委員会』のレギュラーを持っており、前者は視聴率は現在も10%超えをキープする人気番組ですが全盛期に比べればマンネリ化が指摘されています。後者はコアなお笑いファンは獲得していますが、マニアックな身内の笑いに閉じており、フジテレビの悪しきノリをひきついでいるといえるでしょう」(同)

 そもそも、フジテレビの番組改革は17年度の『FNS27時間テレビ』のテーマを「にほんのれきし」にしたように「脱バラエティ路線」を前提としている。そうした状況にあっては、さんまがフジテレビから消える日も近いかもしれない。
(文=平田宏利)

編成大刷新中のフジテレビ『みなおか』『めちゃイケ』の次に切られるのは、アノ“大物”か!?

 フジテレビが番組改編で大ナタをふるった。かねてより打ち切りがウワサされてきた『とんねるずのみなさんのおかげでした』『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ系)の2番組を2018年3月末で終了すると発表したのだ。

 高騰するタレントのギャラ、高額な制作予算、それに見合わない低視聴率、テレビ局にとってメリットは皆無であり、打ち切りは必然といえる。だが、半年前の番組終了発表は異例であろう。

「同様の例としては32年間続いた『笑っていいとも!』が挙げられますね。14年3月31日に終了するにあたり、半年前の13年の10月22日に、その日のレギュラーではない笑福亭鶴瓶が登場する形で発表されました。あのシーンは、乱入しているように見えて事前に細かいリハーサルが行われていたといわれています。長寿番組の終了発表にはそれだけ“センス”が問われるといえるでしょう」(業界関係者)

『笑っていいとも!』に続き『めちゃイケ』『みなおか』の終了発表でフジテレビの編成はだいぶ刷新されたといえる。だが、次なる“リストラ候補”も存在しているようだ。

「明石家さんまですね。良くも悪くもフジテレビのバブリーな80年代ノリ、スタッフを巻き込んだ身内ノリを体現する人物といえます。現在は同局で『ホンマでっか!?TV』『さんまのお笑い向上委員会』のレギュラーを持っており、前者は視聴率は現在も10%超えをキープする人気番組ですが全盛期に比べればマンネリ化が指摘されています。後者はコアなお笑いファンは獲得していますが、マニアックな身内の笑いに閉じており、フジテレビの悪しきノリをひきついでいるといえるでしょう」(同)

 そもそも、フジテレビの番組改革は17年度の『FNS27時間テレビ』のテーマを「にほんのれきし」にしたように「脱バラエティ路線」を前提としている。そうした状況にあっては、さんまがフジテレビから消える日も近いかもしれない。
(文=平田宏利)

武豊、「路チュー不倫」スクープの赤っ恥! 競馬タブーで報道規制も「業界ではクズで有名」

 11月10日発売の写真週刊誌「フライデー」(講談社)が、競馬騎手・武豊と競馬番組のキャスターを務めるタレント・小浦愛の“路チュー不倫”をスクープした。武は1995年に元タレント・佐野量子と結婚している既婚者だが、「大騒動には発展しなさそう」(テレビ局プロデューサー)という。それは一体なぜなのだろうか。

 同誌は10月下旬、深夜の京都・四条河原町の交差点で、武と小浦が激しいキスを交わし、手をつないで街に消えていく様子をキャッチ。後日、記者が小浦を直撃すると、怒った様子で去っていったという。

「一方、武への直撃時は、自宅前だったこともあって佐野も登場。仲睦まじげな夫婦ショットが同誌に掲載されていますが、関係者の間では『ヤラセ写真のようなもの』と呆れられています。武も小浦を友達と説明していたけれど、実際に現場を撮られているだけに無理がある。ただ、競馬界はマスコミの大広告主だけに、こうしたスキャンダルもテレビや新聞はやりづらいので、さほど大事にはならないでしょう」(同)

 また、一部業界関係者の間では、以前から武の“クズ男ぶり”は有名だったようだ。

「武は90年代後半に有名タレント・Sと知り合い、愛人関係を築いていたんです。すでにその関係は解消されていますが、Sは今でも武のことを大切に思っているらしく、『武のために独身を貫いている』ともいわれています」(芸能プロ関係者)

 このように武が長年自由を謳歌できるのは、「“妻の理解”があってこそなのでは」(同)という。今回の小浦の件に関しても、「フライデー」への対応を見る限り、妻も納得済みだったようだ。その上、テレビなどでスキャンダルが報じられないとなると、武は今後もやりたい放題なのか……と思いきや、実はそうでもないとの指摘もある。

「いくらテレビで大々的に取り上げられなくても、規制やしがらみのないネットでは、スキャンダルが拡散されてしまいます。昔は“芸の肥やし”として許容されていた歌舞伎俳優や落語家の不倫も、昨今は批判の声が可視化されている。武も、いい加減落ち着いた方が身のためかもしれません」(前出・プロデューサー)

 このご時世、どんな立場の人間も不倫は許されそうにない。

くわばたりえ、証明写真ボックス内で雨宿りも「誰か来たら退いてやるよ」…図々しさに絶句

 11月7日放送の『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)にて、「ズケズケ関西女軍団」のひとりとして出演したクワバタオハラのくわばたりえ(41)の発言が物議を醸している。

 問題になっているのは「理解してほしい関西女の言動」として明かした“証明写真ボックスの中で雨宿りする”という行為。くわばたは友人と待ち合わせをしていた際、10分~15分早く着いてしまった上に雨が降って来たので、近くにあった証明写真ボックスに入り写真も撮らずに座っていたそうだ。

 彼女の語ったエピソードにMCの明石家さんま(62)は、「おかしいやろ」「商売道具やで」「マナーがなってない」と正論でツッコんだ。しかしくわばたは「誰か来たら退いてやるよって気持ちはある」と譲らず、「写真を撮っていたら良い」との指摘にも「撮るぐらいやったら喫茶店行くもん。金かかるやん」と返答。これにもさんまは「それなら喫茶店行けアホ!」と正論で返したのだが、他の関西女性芸人たちも「効率重視の大阪人の感覚大好き」などとくわばたに同意し、スタジオ内はまるで“関西女だから仕方ない”という雰囲気になっていた。

 これには「この人たちがズレてるだけ。関西人でくくるのはやめてほしい」「こんな風にはなりたくない」「威力業務妨害になるのでは?」との声が続出。また「なんでこんな非常識な発言しながらママ代表みたいな顔できるんだろう?」と疑問を浮かべる人も少なくない。

 くわばたは、2010年に第一子を出産してからというもの、3冊の育児本を刊行、育児に関するイベントにゲストとして多数出演、情報番組のコメンテーターを務めたりと、芸人としての仕事は極わずか。公式ブログでもお笑い要素は少なく、子供の写真と共に子育て記録を投稿するなど、ママタレとして活動している。

 その一方で今回の“雨宿り”発言のように、図々しいエピソードを披露して「常識外れ」などと批判されることもしばしば。今年5月に放送された『好きか嫌いか言う時間』(TBS系)でも、「病院は、最善を尽くして診療に当たるものの、100%治せるわけではない」という医師の言葉に「それ病院が言ったらアカン」「そんな傲慢な医者はダメです」と噛みつき話題になっていた。視聴者から「100%治せないなんて当たり前なのになんで反論してんの?」「これは典型的なクレーマー」と批判を受けていた。

 これらのエピソードも含め、図々しいテレビタレントのエンタメとして「世の中にはこんな人もいるんだな」と消費する分には問題はないが、くわばた自身が「別にええやん」と、さも常識かのようにドヤ顔で披露するのは閉口する。“たくましい関西人ママ”という立ち位置を狙っているのかもしれないが、これでは“たくましい”ではなく“面倒な人”だ。

(ボンゾ)

キモくて金のないおっさんの文学論~『二十日鼠と人間』と『ワーニャ伯父さん』

 少し前にインターネットを騒がせていた言葉に「キモくて金のないおっさん」というものがあります。これは社会的弱者であるが権利運動とか救済の対象として想定されていない男性を指す俗語です。

 このおっさんたちはどうやら非常に社会的、経済的に苦しい状況に置かれている一方で、マイノリティとして見えづらいため女性とか少数民族、セクシュアルマイノリティ、障害者などに比べると自己主張しづらい状況に置かれているそうです。「キモくて金のないおっさん」については、こうした不可視化、つまり存在が認識されていないことが問題だと考えている人が多いようです。

 しかしながら、私の見るところ、文学史上にはあまたのキモくて金のないおっさんが登場します。そこで今回は私が個人的にキモくて金のないおっさん文学の名作だと思っている、ジョン・スタインベックの『二十日鼠と人間』と、アントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん』をとりあげ、古典がどのようにおっさんを掘り下げているのか見ていきたいと思います。

※『二十日鼠と人間』の引用については、基本的に原書はJohn Steinbeck, Of Mice and Men (Penguin Books, 2002)を使い、日本語の引用は拙訳ですが、大門一男訳(新潮文庫、1993)も参照しました。『ワーニャ伯父さん』についてはアントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』浦雅春訳(光文社、2009)に拠ります。

キモくて金のないおっさんとは?
 分析するからにはまず「キモくて金のないおっさん」とはどういう人かイメージせねばなりません。困ったことにこの言葉は大変曖昧でわかりにくいところがあります。金がないのはまあわかります。「おっさん」というからには自分のことを男性だと考えていて、どんなに若くても30過ぎでしょう。「おっさん」という言葉自体にネガティヴな雰囲気があって本当はあまり使わないほうがいいのかもしれませんが、決まった言い方で流布しているものを言い換えるわけにもいかないので、この文章では「おっさん」という語を使用します。

 問題なのは「キモい」の定義です。「キモい」というのは非常に主観的で、容姿や印象が悪いというような表面的なことから、人格面で高潔さや思いやりが皆無だというような人間関係に破壊的影響を及ぼすことまで、様々な意味で用いられているようです。青柳美帆子は湯川玲子などを引きながら、この言葉を「出世しておらず、カネがなく、女がなく、競争に勝てなかった中年(以上の)男性」として定義しています。女に好かれない、連れ添う女がいないというのはこの種の議論によく出てくる「キモさ」で、どうもヘテロセクシュアルの男性を想定しているようです。まとめると、キモくて金のないおっさんとは、ヘテロセクシュアルで、仕事も私生活もうまくいかず、金銭的に問題を抱えた中年以上の男性を指すようです。

 キモくて金のないおっさんが社会から無視されてきたと思われる方もいるようですが、実は近現代文学はこのようなおっさんの宝庫です。お金もなく、女にモテず、不幸で若くもない男の絶望に対しては、19世紀からこのかた、アメリカやヨーロッパの優れた男性作家が関心を寄せてきました。イギリスやアイルランドの演劇にはこの手のおっさんが山ほど出てきます。サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』(1953)に登場するキモくて金のないおっさん、ウラディミールとエストラゴンの役には多数の名優が挑戦してきましたし、最近ではアイルランド系イギリス人の劇作家マーティン・マクドナーがこうしたおっさん劇を得意としています。少なくとも文学史上においては、キモくて金のないおっさんは無視されるどころか主役なのです。

女とおっさんが弱者同士足を引っ張り合う『二十日鼠と人間』
 こうしたキモくて金のないおっさん文学の中でも、もっとも現代に通じそうな物語を紡いでいるのがアメリカ文学の古典であるジョン・スタインベック『二十日鼠と人間』(1937)です。大恐慌のあおりで貧困に苦しむカリフォルニア州の労働者を描いた中編小説です。主要登場人物のほとんどはキモくて金のないおっさんで、さらにそれぞれ異なる個性的なキモさ、つまり不幸の要因を抱えています。

 主人公のジョージとレニーは農場を渡り歩く季節労働者です。ジョージは賢い小男で、レニーは力強く心優しい大男ですが、知的障害があります。2人は親友で、ジョージはレニーを守り、常に一緒に行動しています。レニーはふわふわした可愛らしいものが大好きで、動物でも布地でもそうしたものを見かけるとなんでも触って強く掴んでしまうため、悪気なく女性の服に触って変質者扱いされたり、動物を殺してしまったり、しょっちゅうトラブルを起こしています。この2人はあまり年齢がはっきりしておらず、おっさんというにはやや若いかもしれないのですが、30歳は越えているように思われます。一般的な意味ではこの2人はキモくないというか、読者の共感を誘うキャラなのですが、貧困のせいでとにかく不幸です。

 農場で働く他の男たちもほとんどはキモくて金のないおっさんです。キャンディはかなりの年で、仕事中の事故で手を失い、障害を抱えています。馬丁のクルックスは背中が曲がっており、アフリカ系であるため他の労働者と同じ家に住まわせてもらえません。この2人も一般的な意味でキモい人物ではありませんが、貧しくぱっとしない独身男です。

 おっさんたちはそれぞれ異なる要因で社会から疎外されているため、なかなか連帯できません。レニーは知的障害、ジョージはレニーとの絆、キャンディは老いと身体障害、クルックスは人種と身体障害のせいで不当な差別にさらされ、不安な暮らしを強いられています。非常に人望があり、キモくて金のないおっさんではないラバ追い名人スリムは、季節労働者は仲間を連れずひとりで移動するのがふつうだと指摘してジョージとレニーの友情を不思議がります。おっさんたちはふだん、分断されてバラバラに生きているのです。

 このおっさんたちを結びつけるのが、おっさんだけで自由に安心して暮らせる共同体を作るという夢です。ジョージとレニーは型破りで同性同士の強い友愛で結ばれた2人組ですが、お金をためて農場を買い、そこに落ち着くという夢を持っています。これを知ったキャンディは自分がお金を出すのでその農場に入れて欲しいと頼みます。この話には、いつもは超然としているクルックスまで心を動かされます。分断されていたおっさんたちが、夢によって一瞬、連帯しかけるのです。最後はこの夢が儚く潰えるのですが、この作品が提示するキモくて金がないおっさんたちの救済策は、自分を好いてくれる女ではなく、気の合う同性同士でのどかに暮らせる安全な場所の確保です。

 この作品が現代的であるポイントのひとつは、弱者であるおっさんたちが、また別の弱者である女を敵に仕立て上げてしまうところです。おっさんたちは金がなさすぎて結婚や恋愛のことはほとんど考えておらず、売春宿で気晴らしすることはあるようですが、それが解決にならないことは知っています。おっさんたちは異性愛が幸せをもたらしてくれるとは全く考えず、むしろ女がトラブルを運んでくることを恐れています。

 それを象徴するのが、男たちがボスの息子であるカーリーの新妻に向ける視線です。カーリーの若く美人な妻は、新婚の夫が自分を思いやってくれないことに腹を立てています。不満をつのらせたカーリーの妻は男たちに話しかけて気晴らしをしようとしますが、男たちは彼女が自分たちに色目を使うふしだらでイヤな女だとして避けようとします。一見、美貌で結婚を勝ち取った「強者」に見えるカーリーの妻ですが、実のところ彼女は貧しく抑圧的な田舎で育ち、女であるため教育も受けられなければ自活できるような仕事にも就けず、肉体を武器に結婚する以外に男社会で生きる道がない弱者です。夫からも対等な人間として尊重されておらず、極めて不幸です。しかしながら同じく弱者であるはずのおっさんたちは自分をこき使う金持ちの男たちではなく、カーリーの妻を敵視するのです。現在の弱者男性に関する論議では、時として「勝ち組」とされる、結婚や仕事でなんとか生き抜いた女たちがひどく敵視されることがありますが、この弱者同士の争いを予見しているかのような展開です。

 小説ではこのあたりの描写はやや薄っぺらく、カーリーの妻は不愉快な女に見えます。しかしながら2014年にこの小説の戯曲版(もともと小説が演劇的な構成で、スタインベック本人により戯曲化されました)が再演された際、カーリーの妻役を演じたレイトン・ミースターは史料調査にもとづくフェミニスト的な読みをまじえて社会の犠牲者である女性として役作りを行いました。作者のスタインベックは初演の際、カーリーの妻は常に男性から性欲の対象として扱われてきたにもかかわらず、結婚まで処女でいなければならないという抑圧も受けてきており、この矛盾ゆえに意義ある人間関係を築けなくなっている女性として演じてほしいという手紙を書いており、ミースターはこの手紙を研究したのです。ミースターが出演したプロダクションはジェームズ・フランコとクリス・オダウド主演でナショナル・シアター・ライヴにより日本でも映像が上映されたので、ご覧になった方もいるかもしれません。観客にも男性中心的な偏見が染みついているため、ミースターの役作りが完全に理解されたわけではなかったようですが、少なくとも私が見た限りでは新解釈が芝居に奥行きを与えているように思えました。このように再解釈によって刷新することが可能なのも、古典の魅力のひとつです。

 『二十日鼠と人間』は悲劇的な結末を迎えます。おっさんたちが見た夢は、異性愛からはみ出た人間同士の多様な関係を認めず、障害や貧困、異人種などを迫害する抑圧的な社会によって打ち砕かれます。幸せが訪れることはありませんでしたが、この作品はキモくて金のないおっさんを苦しめる社会に対して強い批判を投げかけていると言っていいでしょう。

全員、人生が詰んでいる『ワーニャ伯父さん』
 アントン・チェーホフの戯曲の特徴は、登場人物ほぼ全員の人生が詰んでいるということです。チェーホフの作品にはキモくて金のないおっさんがたくさん登場するのですが、おっさんどころか才能ある若者とか、大変な美女とか、「勝ち組」扱いされそうな連中もめちゃくちゃ不幸です。そこを突き放しつつ、哀愁をまじえてリアルに人生を描き出すのがチェーホフです。

 『ワーニャ伯父さん』(1899年初演)のタイトルロールであるワーニャは、『二十日鼠と人間』のジョージやレニーに比べればだいぶ恵まれています。一応健康で、明日の食べものにも困るほどの金欠ではありません。住まいも家族もあり、しっかり者の姪ソーニャがいろいろ助けてくれます。

 しかしながらワーニャはたいへん不幸です。ワーニャは亡き妹の夫セレブリャコフ教授の学識を尊敬し、妹の残した屋敷を管理して、その収益を都会で暮らす教授に送金していました。ところが47歳になったワーニャは、自分が独身で手もとにはたいした財産もないということに気づき、実はたいした才人というわけでもない教授に搾取されてきただけだと考えるようになります。ワーニャは教授の若妻で27歳の美女エレーナに言い寄ろうとしますが、うまくいきません。

 この作品の残酷さは、観客がワーニャをいくら可哀想と思っても、彼のキモさ、つまり感じの悪さや性格の欠点にも気付かざるを得ないようになっているところです。娘のソーニャを田舎にほったらかして自分は収入を吸い上げ、ろくに感謝もしない教授にいいようにされてきたワーニャは気の毒ですが、この作品に登場する他の人々に比べてとくに人格などが優れているわけではなく、どちらかというと気難しくてあまり人好きのしない男です。ワーニャが初めて会った時にエレーナに求婚していれば……と妄想して独白するところは、彼がいわゆるキモいおっさんであることを残酷なまでに明らかにしています。

あのとき彼女は十七で、ぼくは三十七だった。どうしてあのとき恋してプロポーズしなかったんだろう。やろうと思えばできたじゃないか。そうしていれば、あの人は今ではぼくの妻だ……。そう……。さだめし今ごろは、二人して嵐に目を覚ましていることだろう。彼女は雷鳴におびえている。ぼくは彼女を抱き寄せて、ささやきかける。「さあ、心配はおよし、ぼくがいるからね」。ああ、考えるだけでうっとりするなあ。思わず笑みまでこぼれてくるじゃないか……。(第2幕、pp. 47–48)

 ここでワーニャは「20年前に求婚しても断られたかもしれない」という、観客ならば当然思いつく可能性をまったく考えずに妄想に浸っています。ワーニャは教授に比べると学識はないし、森林保護活動家でやはりエレーナに恋している医師アーストロフのように情熱的な理想を持っているわけでもなく、知的な男が好みらしいエレーナの気を惹けそうなところはありません。以前『西の国のプレイボーイ』に関する記事で、自信が無さそうなわりになぜかヒロインと結婚できると信じ込んでいる男性キャラクター、ショーンに触れましたが、ワーニャもあまり自分に魅力が無いことは知っているのに、ついついエレーナと結婚できたかもとか思ってしまうのです。

 この戯曲のポイントは、ワーニャのキモさが平凡な人間であれば誰でも持ち合わせているような要素であり、観客に「ワーニャはキモいけど、つらい時は自分も含めて誰でもああいうキモいことを考えるよな」という自省に導く作用があるところです。ワーニャは『二十日鼠と人間』に登場する男たちに比べるとかなり文字通りキモいおっさんですが、それでも観客はワーニャが自分たちに近いと考えます。ワーニャは結局、財産のことで逆上して大騒ぎし、自殺を試みるが失敗するという結末を迎えます。この結末はワーニャ自身のあまり感じがいいとはいえない性格を示すものである一方、観客の親近感を誘うものでもあります。

 この作品のもうひとつのポイントとして、キモくて金のないおっさんは不幸だが、若いのにキモい女も実に不幸だ、ということが示唆されているという点があります。ワーニャの姪ソーニャは親切で感じも良く、普通の意味でキモい人ではありませんが、不美人で自分でもそれをよく理解しています。第3幕では美女エレーナの前で、不細工な自分に対して他人は皆気を遣うのだと告白までします。ソーニャはアーストロフに恋をしていますが、相手にされていません。そんなソーニャですが、自殺騒ぎを起こして死ぬことすらできなかったワーニャに対して「ひょっとすると、あたし、伯父さんよりずっと不幸かもしれない。でも、あたし、自棄なんかおこさないわ」(第4幕、p. 114)となだめます。ワーニャはまだ男として不幸を騒ぐことが許されているのですが、ソーニャは周りから女として家を守り、他人を助けることを期待されていて、その役割を覚悟して引き受けています。

 このソーニャの台詞は、人生のつらさ比べをしてもあまり意味はないのだ、という諦念をも示唆するものです。この作品では、ワーニャやソーニャはもちろん、美女のエレーナであろうと、色男のアーストロフであろうと、全員等しく人生がどん詰まりです。エレーナは不幸な結婚生活を続けますし、アーストロフは失恋して酒浸りです。美しかろうが不細工だろうが、若かろうが年だろうが、様々な理由で人生はつらいし、笑っちゃうくらい不幸だというのがチェーホフ劇なのです。

 『二十日鼠と人間』も『ワーニャ伯父さん』もキモくて金のないおっさんについての物語ですが、方向性はだいぶ違っています。『二十日鼠と人間』ではおっさん同士の女性を介さない連帯の可能性が語られますが、その夢は容赦なく社会につぶされます。『ワーニャ伯父さん』では全く解決が提示されていません。一方で弱者男性が女を敵視する『二十日鼠と人間』に対して、『ワーニャ伯父さん』ではキモいおっさんと同じくらいつらい女や色男も登場します。結末は表現のスタイルは違いますが、こうした名作が時代の壁を越えてキモくて金のないおっさんに声を与えてきたことは確かだと思います。皆さんも是非、いろいろな本をひもといて、過去の作家たちがいかにキモくて金のないおっさんたちのことを真剣に考えていたか、知って欲しいと思います。

参考文献
John Steinbeck, A Life in Letters, ed. Elaine Steinbeck and Robert Wallsten (The Viking Press, 1975).
John Steinbeck, Of Mice and Men (Penguin Books, 2002).
ジョン・スタインベック『二十日鼠と人間』大門一男訳(新潮文庫、1993)。
アントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』浦雅春訳(光文社、2009)。

キモくて金のないおっさんの文学論~『二十日鼠と人間』と『ワーニャ伯父さん』

 少し前にインターネットを騒がせていた言葉に「キモくて金のないおっさん」というものがあります。これは社会的弱者であるが権利運動とか救済の対象として想定されていない男性を指す俗語です。

 このおっさんたちはどうやら非常に社会的、経済的に苦しい状況に置かれている一方で、マイノリティとして見えづらいため女性とか少数民族、セクシュアルマイノリティ、障害者などに比べると自己主張しづらい状況に置かれているそうです。「キモくて金のないおっさん」については、こうした不可視化、つまり存在が認識されていないことが問題だと考えている人が多いようです。

 しかしながら、私の見るところ、文学史上にはあまたのキモくて金のないおっさんが登場します。そこで今回は私が個人的にキモくて金のないおっさん文学の名作だと思っている、ジョン・スタインベックの『二十日鼠と人間』と、アントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん』をとりあげ、古典がどのようにおっさんを掘り下げているのか見ていきたいと思います。

※『二十日鼠と人間』の引用については、基本的に原書はJohn Steinbeck, Of Mice and Men (Penguin Books, 2002)を使い、日本語の引用は拙訳ですが、大門一男訳(新潮文庫、1993)も参照しました。『ワーニャ伯父さん』についてはアントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』浦雅春訳(光文社、2009)に拠ります。

キモくて金のないおっさんとは?
 分析するからにはまず「キモくて金のないおっさん」とはどういう人かイメージせねばなりません。困ったことにこの言葉は大変曖昧でわかりにくいところがあります。金がないのはまあわかります。「おっさん」というからには自分のことを男性だと考えていて、どんなに若くても30過ぎでしょう。「おっさん」という言葉自体にネガティヴな雰囲気があって本当はあまり使わないほうがいいのかもしれませんが、決まった言い方で流布しているものを言い換えるわけにもいかないので、この文章では「おっさん」という語を使用します。

 問題なのは「キモい」の定義です。「キモい」というのは非常に主観的で、容姿や印象が悪いというような表面的なことから、人格面で高潔さや思いやりが皆無だというような人間関係に破壊的影響を及ぼすことまで、様々な意味で用いられているようです。青柳美帆子は湯川玲子などを引きながら、この言葉を「出世しておらず、カネがなく、女がなく、競争に勝てなかった中年(以上の)男性」として定義しています。女に好かれない、連れ添う女がいないというのはこの種の議論によく出てくる「キモさ」で、どうもヘテロセクシュアルの男性を想定しているようです。まとめると、キモくて金のないおっさんとは、ヘテロセクシュアルで、仕事も私生活もうまくいかず、金銭的に問題を抱えた中年以上の男性を指すようです。

 キモくて金のないおっさんが社会から無視されてきたと思われる方もいるようですが、実は近現代文学はこのようなおっさんの宝庫です。お金もなく、女にモテず、不幸で若くもない男の絶望に対しては、19世紀からこのかた、アメリカやヨーロッパの優れた男性作家が関心を寄せてきました。イギリスやアイルランドの演劇にはこの手のおっさんが山ほど出てきます。サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』(1953)に登場するキモくて金のないおっさん、ウラディミールとエストラゴンの役には多数の名優が挑戦してきましたし、最近ではアイルランド系イギリス人の劇作家マーティン・マクドナーがこうしたおっさん劇を得意としています。少なくとも文学史上においては、キモくて金のないおっさんは無視されるどころか主役なのです。

女とおっさんが弱者同士足を引っ張り合う『二十日鼠と人間』
 こうしたキモくて金のないおっさん文学の中でも、もっとも現代に通じそうな物語を紡いでいるのがアメリカ文学の古典であるジョン・スタインベック『二十日鼠と人間』(1937)です。大恐慌のあおりで貧困に苦しむカリフォルニア州の労働者を描いた中編小説です。主要登場人物のほとんどはキモくて金のないおっさんで、さらにそれぞれ異なる個性的なキモさ、つまり不幸の要因を抱えています。

 主人公のジョージとレニーは農場を渡り歩く季節労働者です。ジョージは賢い小男で、レニーは力強く心優しい大男ですが、知的障害があります。2人は親友で、ジョージはレニーを守り、常に一緒に行動しています。レニーはふわふわした可愛らしいものが大好きで、動物でも布地でもそうしたものを見かけるとなんでも触って強く掴んでしまうため、悪気なく女性の服に触って変質者扱いされたり、動物を殺してしまったり、しょっちゅうトラブルを起こしています。この2人はあまり年齢がはっきりしておらず、おっさんというにはやや若いかもしれないのですが、30歳は越えているように思われます。一般的な意味ではこの2人はキモくないというか、読者の共感を誘うキャラなのですが、貧困のせいでとにかく不幸です。

 農場で働く他の男たちもほとんどはキモくて金のないおっさんです。キャンディはかなりの年で、仕事中の事故で手を失い、障害を抱えています。馬丁のクルックスは背中が曲がっており、アフリカ系であるため他の労働者と同じ家に住まわせてもらえません。この2人も一般的な意味でキモい人物ではありませんが、貧しくぱっとしない独身男です。

 おっさんたちはそれぞれ異なる要因で社会から疎外されているため、なかなか連帯できません。レニーは知的障害、ジョージはレニーとの絆、キャンディは老いと身体障害、クルックスは人種と身体障害のせいで不当な差別にさらされ、不安な暮らしを強いられています。非常に人望があり、キモくて金のないおっさんではないラバ追い名人スリムは、季節労働者は仲間を連れずひとりで移動するのがふつうだと指摘してジョージとレニーの友情を不思議がります。おっさんたちはふだん、分断されてバラバラに生きているのです。

 このおっさんたちを結びつけるのが、おっさんだけで自由に安心して暮らせる共同体を作るという夢です。ジョージとレニーは型破りで同性同士の強い友愛で結ばれた2人組ですが、お金をためて農場を買い、そこに落ち着くという夢を持っています。これを知ったキャンディは自分がお金を出すのでその農場に入れて欲しいと頼みます。この話には、いつもは超然としているクルックスまで心を動かされます。分断されていたおっさんたちが、夢によって一瞬、連帯しかけるのです。最後はこの夢が儚く潰えるのですが、この作品が提示するキモくて金がないおっさんたちの救済策は、自分を好いてくれる女ではなく、気の合う同性同士でのどかに暮らせる安全な場所の確保です。

 この作品が現代的であるポイントのひとつは、弱者であるおっさんたちが、また別の弱者である女を敵に仕立て上げてしまうところです。おっさんたちは金がなさすぎて結婚や恋愛のことはほとんど考えておらず、売春宿で気晴らしすることはあるようですが、それが解決にならないことは知っています。おっさんたちは異性愛が幸せをもたらしてくれるとは全く考えず、むしろ女がトラブルを運んでくることを恐れています。

 それを象徴するのが、男たちがボスの息子であるカーリーの新妻に向ける視線です。カーリーの若く美人な妻は、新婚の夫が自分を思いやってくれないことに腹を立てています。不満をつのらせたカーリーの妻は男たちに話しかけて気晴らしをしようとしますが、男たちは彼女が自分たちに色目を使うふしだらでイヤな女だとして避けようとします。一見、美貌で結婚を勝ち取った「強者」に見えるカーリーの妻ですが、実のところ彼女は貧しく抑圧的な田舎で育ち、女であるため教育も受けられなければ自活できるような仕事にも就けず、肉体を武器に結婚する以外に男社会で生きる道がない弱者です。夫からも対等な人間として尊重されておらず、極めて不幸です。しかしながら同じく弱者であるはずのおっさんたちは自分をこき使う金持ちの男たちではなく、カーリーの妻を敵視するのです。現在の弱者男性に関する論議では、時として「勝ち組」とされる、結婚や仕事でなんとか生き抜いた女たちがひどく敵視されることがありますが、この弱者同士の争いを予見しているかのような展開です。

 小説ではこのあたりの描写はやや薄っぺらく、カーリーの妻は不愉快な女に見えます。しかしながら2014年にこの小説の戯曲版(もともと小説が演劇的な構成で、スタインベック本人により戯曲化されました)が再演された際、カーリーの妻役を演じたレイトン・ミースターは史料調査にもとづくフェミニスト的な読みをまじえて社会の犠牲者である女性として役作りを行いました。作者のスタインベックは初演の際、カーリーの妻は常に男性から性欲の対象として扱われてきたにもかかわらず、結婚まで処女でいなければならないという抑圧も受けてきており、この矛盾ゆえに意義ある人間関係を築けなくなっている女性として演じてほしいという手紙を書いており、ミースターはこの手紙を研究したのです。ミースターが出演したプロダクションはジェームズ・フランコとクリス・オダウド主演でナショナル・シアター・ライヴにより日本でも映像が上映されたので、ご覧になった方もいるかもしれません。観客にも男性中心的な偏見が染みついているため、ミースターの役作りが完全に理解されたわけではなかったようですが、少なくとも私が見た限りでは新解釈が芝居に奥行きを与えているように思えました。このように再解釈によって刷新することが可能なのも、古典の魅力のひとつです。

 『二十日鼠と人間』は悲劇的な結末を迎えます。おっさんたちが見た夢は、異性愛からはみ出た人間同士の多様な関係を認めず、障害や貧困、異人種などを迫害する抑圧的な社会によって打ち砕かれます。幸せが訪れることはありませんでしたが、この作品はキモくて金のないおっさんを苦しめる社会に対して強い批判を投げかけていると言っていいでしょう。

全員、人生が詰んでいる『ワーニャ伯父さん』
 アントン・チェーホフの戯曲の特徴は、登場人物ほぼ全員の人生が詰んでいるということです。チェーホフの作品にはキモくて金のないおっさんがたくさん登場するのですが、おっさんどころか才能ある若者とか、大変な美女とか、「勝ち組」扱いされそうな連中もめちゃくちゃ不幸です。そこを突き放しつつ、哀愁をまじえてリアルに人生を描き出すのがチェーホフです。

 『ワーニャ伯父さん』(1899年初演)のタイトルロールであるワーニャは、『二十日鼠と人間』のジョージやレニーに比べればだいぶ恵まれています。一応健康で、明日の食べものにも困るほどの金欠ではありません。住まいも家族もあり、しっかり者の姪ソーニャがいろいろ助けてくれます。

 しかしながらワーニャはたいへん不幸です。ワーニャは亡き妹の夫セレブリャコフ教授の学識を尊敬し、妹の残した屋敷を管理して、その収益を都会で暮らす教授に送金していました。ところが47歳になったワーニャは、自分が独身で手もとにはたいした財産もないということに気づき、実はたいした才人というわけでもない教授に搾取されてきただけだと考えるようになります。ワーニャは教授の若妻で27歳の美女エレーナに言い寄ろうとしますが、うまくいきません。

 この作品の残酷さは、観客がワーニャをいくら可哀想と思っても、彼のキモさ、つまり感じの悪さや性格の欠点にも気付かざるを得ないようになっているところです。娘のソーニャを田舎にほったらかして自分は収入を吸い上げ、ろくに感謝もしない教授にいいようにされてきたワーニャは気の毒ですが、この作品に登場する他の人々に比べてとくに人格などが優れているわけではなく、どちらかというと気難しくてあまり人好きのしない男です。ワーニャが初めて会った時にエレーナに求婚していれば……と妄想して独白するところは、彼がいわゆるキモいおっさんであることを残酷なまでに明らかにしています。

あのとき彼女は十七で、ぼくは三十七だった。どうしてあのとき恋してプロポーズしなかったんだろう。やろうと思えばできたじゃないか。そうしていれば、あの人は今ではぼくの妻だ……。そう……。さだめし今ごろは、二人して嵐に目を覚ましていることだろう。彼女は雷鳴におびえている。ぼくは彼女を抱き寄せて、ささやきかける。「さあ、心配はおよし、ぼくがいるからね」。ああ、考えるだけでうっとりするなあ。思わず笑みまでこぼれてくるじゃないか……。(第2幕、pp. 47–48)

 ここでワーニャは「20年前に求婚しても断られたかもしれない」という、観客ならば当然思いつく可能性をまったく考えずに妄想に浸っています。ワーニャは教授に比べると学識はないし、森林保護活動家でやはりエレーナに恋している医師アーストロフのように情熱的な理想を持っているわけでもなく、知的な男が好みらしいエレーナの気を惹けそうなところはありません。以前『西の国のプレイボーイ』に関する記事で、自信が無さそうなわりになぜかヒロインと結婚できると信じ込んでいる男性キャラクター、ショーンに触れましたが、ワーニャもあまり自分に魅力が無いことは知っているのに、ついついエレーナと結婚できたかもとか思ってしまうのです。

 この戯曲のポイントは、ワーニャのキモさが平凡な人間であれば誰でも持ち合わせているような要素であり、観客に「ワーニャはキモいけど、つらい時は自分も含めて誰でもああいうキモいことを考えるよな」という自省に導く作用があるところです。ワーニャは『二十日鼠と人間』に登場する男たちに比べるとかなり文字通りキモいおっさんですが、それでも観客はワーニャが自分たちに近いと考えます。ワーニャは結局、財産のことで逆上して大騒ぎし、自殺を試みるが失敗するという結末を迎えます。この結末はワーニャ自身のあまり感じがいいとはいえない性格を示すものである一方、観客の親近感を誘うものでもあります。

 この作品のもうひとつのポイントとして、キモくて金のないおっさんは不幸だが、若いのにキモい女も実に不幸だ、ということが示唆されているという点があります。ワーニャの姪ソーニャは親切で感じも良く、普通の意味でキモい人ではありませんが、不美人で自分でもそれをよく理解しています。第3幕では美女エレーナの前で、不細工な自分に対して他人は皆気を遣うのだと告白までします。ソーニャはアーストロフに恋をしていますが、相手にされていません。そんなソーニャですが、自殺騒ぎを起こして死ぬことすらできなかったワーニャに対して「ひょっとすると、あたし、伯父さんよりずっと不幸かもしれない。でも、あたし、自棄なんかおこさないわ」(第4幕、p. 114)となだめます。ワーニャはまだ男として不幸を騒ぐことが許されているのですが、ソーニャは周りから女として家を守り、他人を助けることを期待されていて、その役割を覚悟して引き受けています。

 このソーニャの台詞は、人生のつらさ比べをしてもあまり意味はないのだ、という諦念をも示唆するものです。この作品では、ワーニャやソーニャはもちろん、美女のエレーナであろうと、色男のアーストロフであろうと、全員等しく人生がどん詰まりです。エレーナは不幸な結婚生活を続けますし、アーストロフは失恋して酒浸りです。美しかろうが不細工だろうが、若かろうが年だろうが、様々な理由で人生はつらいし、笑っちゃうくらい不幸だというのがチェーホフ劇なのです。

 『二十日鼠と人間』も『ワーニャ伯父さん』もキモくて金のないおっさんについての物語ですが、方向性はだいぶ違っています。『二十日鼠と人間』ではおっさん同士の女性を介さない連帯の可能性が語られますが、その夢は容赦なく社会につぶされます。『ワーニャ伯父さん』では全く解決が提示されていません。一方で弱者男性が女を敵視する『二十日鼠と人間』に対して、『ワーニャ伯父さん』ではキモいおっさんと同じくらいつらい女や色男も登場します。結末は表現のスタイルは違いますが、こうした名作が時代の壁を越えてキモくて金のないおっさんに声を与えてきたことは確かだと思います。皆さんも是非、いろいろな本をひもといて、過去の作家たちがいかにキモくて金のないおっさんたちのことを真剣に考えていたか、知って欲しいと思います。

参考文献
John Steinbeck, A Life in Letters, ed. Elaine Steinbeck and Robert Wallsten (The Viking Press, 1975).
John Steinbeck, Of Mice and Men (Penguin Books, 2002).
ジョン・スタインベック『二十日鼠と人間』大門一男訳(新潮文庫、1993)。
アントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』浦雅春訳(光文社、2009)。