投票の前には「まだ見ぬアメリカの夢」を観る――選挙と〈アメリカン・ユートピア〉

 デヴィッド・バーンは「ヨーロピアン」で「アート」的。ファンのあいだでは、たしかそんなふうに形容してた。

 1980年代ニューヨークのニュー・ウェイヴを代表するバンド、トーキング・ヘッズ。フロントマンのバーンは、スコットランドで生まれアメリカの名門美大を経てニューヨークの音楽シーンへ。これがロック史の教科書的な語り。『アメリカン・ユートピア』は、この語りの問題点をアーティスト自ら乗り越えようとしたような作品であり、数十年の時を経たアメリカ社会の変容を写す鏡にもなっている。

 本作は、デイヴィッド・バーンによる2019年初演の舞台の映像化である。元は2018年に同名で発表されたアルバム作品とライブツアー。そこからブロードウェイへと移って物語性を高めたミュージカル作品へと展開し、さらに舞台を撮影した素材を編集し映画として再構築された。映画版の監督には、アフリカ系の社会問題を挑発的に問うてきたスパイク・リー。アメリカでの公開は、コロナも吹き荒れる2020年秋。日本では2021年春公開となった。

「ヒート」と「クール」のバランス感覚
 本作はミュージカル映画だ。バーンのソロ作表題アルバムの曲に加えて、トーキング・ヘッズ時代の曲も含めて構成されている。象徴的なポエトリーのような歌詞が作品世界をつむいでいく。ダンスがある。シャープでコミカルだ。シンプルで見ていると踊りたくなる。計12名の演奏者は、すべて身につけた楽器を弾く。高い音響技術でノイズもなく音が拾われる。衣装は薄めのグレースーツに裸足で統一。照明によって消える色だという。

 曲と曲のあいだに時折り挟まれるのが、デヴィッド・バーンの独白劇。歌詞世界やダンスと同じく、洒落た笑いと軽快なタッチで、シリアスな社会問題を観客に問う。

 例えば投票率のネタ。

「地方選挙も問題だよね。なんと投票率は約20%。目で見えるようにするならこう。はい」
舞台が暗くなり、2割の観客席にだけ照明が当てられる。
「彼らだけが我々の将来決めてます。子供たちの将来も」
笑いが起こる。
「あとちなみになんですけど。投票者20%の平均年齢、57歳。(観客の一人がイェイ!)おめでとう!」
会場は爆笑だ。ほとんどスタンドアップコメディ。

 インディーロック発のアート映画が投票を促す、と聞くと驚く読者もいるだろう。特に盛期のトーキング・ヘッズのファンは、シニカルな彼らの印象もあってそう思うかもしれない。

 選挙や政治や社会課題という熱っぽくなりがちなものがクールに表現され、きゃっきゃと面白がってるうちに、なんだかグッときて最後は朗らかな気分になる。こういう経験ができる作品はけっこうめずらしいのではと思う。「ヒート」と「クール」の好バランス。

歴史を今につなぐ「プロテスト・ミュージカル」
 他にはどのような主題が扱われるのか。下に挙げてみよう。

「選挙の意義と投票率の向上、民主主義について」
「国籍、人種やジェンダーの多様性が社会に与える意味」
「警察機構の腐敗と歴史に遡る人種差別、とくに黒人差別。反人種差別運動」

 まさに現在、アメリカを含め世界中で突きつけられている問題だ。これらが先の要領で、とても軽やかで知的に言葉にされていく。爽快感がある。

 「過去と現在のファシズム批判」に触れたところを取り上げよう。クルト・シュヴィッタースやフーゴ・バルといったダダイストのエピソードで織りなされる。ナンセンス詩で知られるアーティストたちだ。

「彼らは理解不能な世の中を、理解するために、理解不能を使ったんだ。ちょっと説明が必要だよね。」
(バーン、意味不明な言葉を喋る)
「これが40分間続くんだ」
(会場笑い)

 シュヴィッタースが書いた音響詩《ウルソナタ》だ。不条理な現実を描く芝居は、このように「理解不能」な様になってしまう、というわけだ。

 バーンが説明を続ける。「これが上演された頃1930年代のドイツでは、経済不況に陥るなかでナチスが台頭し、ファシズムが人々の間で影響力を蓄えていきました。」ポピュリズム的指導者を大統領にした、現在のアメリカの影が重なる。

「フーゴ・バルは言いました。「戦争」や「ナショナリズム」のようなリアリティと別の次元で生きる、独自の価値観を持った人々が世の中にはいる――アーティストです。彼はこう訴えました。」
観客が喝采する。
〈I Zimbra〉の演奏がはじまる。ブライアン・イーノの勧めで、バーンがバルのナンセンス詩を引用した曲だ。

 現在アメリカ社会が抱える課題はファシズムだけではない。先に挙げたような様々な問題を引き起こした要因の大きな一つは、トランプ大統領の台頭がある。見方を変えれば、こうしたアメリカ社会の窮状を示す「症状」として現れたのがトランプだ。製造業衰退と交代するように跋扈する金融資本主義。こんな状況に嫌気がさして、人々の関心は排外主義やポピュリズムへと向かってしまった。当時のドイツでダダイストが憂いたように。

 1937年ナチスドイツは宣伝相ゲッペルスの元、シュヴィッタースを含めた近代美術の作品に“税金を無駄遣いしている”とキャプションをつけて「退廃芸術」として展示し、大衆の怒りを煽った。それに対比して開催された「大ドイツ芸術展」は「アーリア人的」で「正しい」ドイツ芸術を教育するものだった。アーティストは、こうした動きに表現で対抗する存在だ。

 本作が制作されたのはまさにトランプ政権下。映画の公開は、トランプ政権が続くか否かが問われた2020年の大統領選の真っ最中である。だからバーンは観客に選挙への参加を促す。

「2016年のツアーではね、まだの人は選挙人登録をしてねって声をかけたんだ。登録済みの人は投票してねって」

 アメリカでは、日本のように投票権が自動で送られてこない。投票にはまず登録が必要だ。

「ここでも同じことをしよう。HeadCountの協力で、ロビーで簡単に選挙人登録ができるようにしました。どこの州でもね。」

 HeadCountは、特にミュージシャンたちと連携して選挙や民主主義への参加を促進するNPOだ。

「あと、選挙人登録をしますという宣誓書を書くためのブースも設置しました。誓いに法的な拘束力はないけどね。自分への約束ってとこ」

 プロテスト・ソングならぬこの“プロテスト・ミュージカル”は、普遍的なメッセージを目指すいわば“芸術のための芸術”に留まらない。芸術の今と昔をつなぎ、具体的に政権交代につなげるため、民主主義を立て直すための社会運動の芸術である。

社会を語る、共に語る
 映画を監督したスパイク・リーは、まさしく芸術と社会運動の交差地点で活躍する急先鋒である。映画化のときに強調された大きなポイントは、人種差別是正を訴えるメッセージだ。バーンたちは、ジャネール・モネイによるプロテスト・ソング〈Hell You Talmbout〉をカバーする。

 タイトルの「何言ってんの?("what the hell are you talking about?"の略)」に続いて、「名前を呼ぼう!(Say her/his name!)エリック・ガーナー!」と、名前を順に呼ぶコール&レスポンスが続く。警察によって命を奪われた犠牲者の黒人ひとりひとりの名前を記憶しようというメッセージだ。この曲は、数々の差別発言にも関わらずトランプが大統領に当選した直後、世界各地で行われた(日本でも)抗議集会「女性の行進(Women’s March)」のスピーチでモネイが歌って以降、人種差別に抗議する代表的なものになった。

 映画は、警察暴力の犠牲となった数十名の肖像・名前・生没年月日が、次々に浮かび上がる演出が施された。その中には、公民権運動も前夜の1955年夏、白人によって目玉をえぐられる程のリンチで惨殺された14歳の少年エメット・ティルのような人物もいて、悲劇の歴史が今に続くものであるということも伝える。ともすると黒人当事者からの反感を招く可能性もあるカバーが、「黒人・活動家」というリー監督の当事者性によって、より広い観客層の共感を誘うものになっているだろう。むろん映画だけでなく、そもそも演者たちにも人種や国籍の多様性が高い。

 2020年5月ミネアポリスで、黒人男性ジョージ・フロイドが警官に9分ものあいだ首を地面に押しつけられて殺され、それを目撃していた人々が撮影した映像がSNSを通じて世界へと広がった。この事件以降、ブラック・ライヴズ・マターは世界規模に拡大し、より普遍的な人種差別・格差の構造を批判する社会運動へと展開した。映画版では、2019年初演を撮影した時には存命だった三名の被害者の名前がリーの手によって加えられ、ラストシーンでは画面を被害者名が埋めつくしAnd Too Many Moreの文字が示される。昨年はコロナ禍で延期になっていたが、今年9月から来年の3月までブロードウェイで上演中だ。そこでは三名の名前が歌われている。

 リー監督とバーンが協働したことで映画版は、さらなる当事者性と同時代性が加えられ、歴史が今に続く連続性を体現したものとなった。2020年のBLMの拡大は、人種を超えて広がったことに依るところが大きいが、バーンとリーが「共に語る」本作は、反人種主義運動が人種で分断されることなく、過去から現在、未来へとつながるという「ユートピア」を示したものになっている。

自分の「今」を見せ、歴史を語り直す
 さらに考えたいのは、デイヴィッド・バーンのアイデンティティである。人種差別に対する訴えでは、語りの中身とは別に、その声が当事者かという点が大きな意味を持つ。白人のスコットランド系アメリカ人(そして、貧しくもないだろう)のバーンが発するメッセージは、不可避にその属性を背負う。

 当事者性という点では、バーンが2012年にイギリスとの二重国籍を捨てアメリカで国政への投票権を獲得したことは大きい。「アメリカ市民」となり、彼自身、政治参加が「自分ごと」になったとインタビューに答えている。

「確かに世の中のシステムは全然完璧じゃない。政治不正もゲリマンダリング(不平等な選挙区割り)も、投票妨害もある。でも同時に、これらの課題解決に取り組んでくれる私たちの代表に投票することでしか、変化は起こらないんだ。私たちは“声”を持ってる。路上でデモをすることもできるけど、すべての市民は投票する権利という声を持っているんだ。これは長い時間をかけて勝ち取ってきたものだ。そこには失われた命があった。投票権を軽く扱っちゃダメだ。投票ができない国も山ほどある。私たちは、投票しなくちゃいけない」

 「アメリカのユートピア」という主題は、彼にとって民主主義の上でも「私たちの世界の話」となった。

 本作で用いられた楽曲も含めて、バーンはこれまでアイロニカルで風刺的な作品世界を生み出してきた。彼が、過去の楽曲も構成に入れて、アメリカ合衆国のユートピア=この世のどこにもない桃源郷について物語るならば、そこに否定的なシニシズムを読まれることは避けがたいかもしれない。しかしバーンが本作で実現したいことはそうではなさそうだ。実直に人々が協働して、新しいアメリカがユートピアになっていく可能性を見出したい、そんなポジティブなものである。

 これにはバーン自身の表現、また同時にアートヒストリーへの反省を必要とした。彼の過去の作風に付随するイメージを連続させつつ、現代社会において差別的であったり浅はかにならないよう工夫したようで、先に指摘したバランスの良さもこの結果ではないだろうか。現代の人々に誤解を持たれず、かつ自身のスタイルにも落とし込まなくてはならない。例えば、ライブツアー版で歌ったトーキング・ヘッズの代表曲〈Psycho Killer〉は猟奇殺人鬼の心象を扱ったものだが、ミュージカル版では、安易な社会悪批判または礼賛などと矮小化されるおそれがあるとして演奏するのをやめた。こうした微調整をしている。反人種主義運動を象徴する〈Hell You Talmbout〉をカバーするにあたっても、自身の非・当事者性が暴力として受け取られないか、モネイに直接「自分はこの曲を歌うことができるだろうか?」と相談したという。上演の中でも、女性の行進のときにその場にいてモネイが歌うのを聴いた、と触れた箇所がある。

 当事者性と対象との距離の取り方が非常に繊細な問題と受け取られる現在、「他者」が外側から安直な表現を行うことには共感が得られにくい。さらに、トーキング・ヘッズ時代にはプロモーションビデオの作中でブラックフェイス(=黒塗り。白人が黒人を演じた差別の歴史がある。過去記事の解説も参照)をする「失態」を犯したことも背景にあったと思われる。インタビューでも、無知だった当時の自分を反省していると述べている。

 これには、当時のニューヨークのアートシーンにおける、アバンギャルドとして「民族芸術」を扱う風潮について補足しておくべきかもしれない。例えば、1984年からニューヨーク近代美術館で催された「20世紀におけるプリミティヴィズム展:部族的なるものとモダンなるものとの親近性」では、キュレータのウィリアム・ルービンが、ピカソなど西洋美術史への非西洋芸術の影響や両者の類似性を強調する展示を企画した。これは「自文化」の近代西洋のアートの中に「異文化」を「発見」したり、また並列に見せようとする態度であり、文化相対主義と呼ばれる。文化人類学界隈などを中心に批評家たちからは、温情主義的な(=上から目線で過保護的な。パターナリズム)西洋中心主義だと批判された。この歴史の中でアメリカン・ユートピアを理解すると、アメリカ社会の多様性の高まり、あるいはアメリカ社会が「多様性」についていかに理解するようになったのか変化がよく見える。

 トーキング・ヘッズはミニマルなパンクに「民族音楽/ワールドミュージック」を取り入れたスタイルで知られた。1970年代後半からブライアン・イーノとのコラボレーションをきっかけにその傾向が高まり、アフロビートの名を世に広めたナイジェリアのフェラ・クティなどの影響下、ウェスタン・アフロ・ポリリズムなどの「民族音楽」的表現を多用した。植民地主義と帝国主義で非西洋を蹂躙してきた上に成り立つ西洋文化の実践において、「非西洋」を安易に“素材”にすることそれ自体の暴力性に自省的であれ――これがルービンの展覧会に対して文化批評家たちが投げかけた問いかけであるが、ポップミュージックシーンにおいてはこの批判はまさしくトーキング・ヘッズに対して問われるべきものであった(なお、クティは黒人解放運動にも参加して政治的な表現でも知られる)。

 しかし、美術界と比較してもポピュラー音楽界ではこうした「ポスト植民地主義批評」的な問いかけはあまり大きな声になってこなかったように見える。今回の『アメリカン・ユートピア』はバーンにとって、自身の表現やアートシーンにおける白人性への向き合い方を再提示する好機になったと言える。

 先にも触れたように、12名の演者には、肌の色や化粧など見た目からも多様性が伝わってくる。途中出身地を紹介するところがあり、アメリカでも東部・南部・中西部と様々で、国籍もフランス、カナダにブラジルと多様である。男女、女性、クィアを自認する演者もいる(とくに「多様性」を高めようという意図で演者を集めたのではないというが、とかくタテマエ的になりがちなこの点が目的化していないところもよい)。〈Hell You Talmbout〉のパフォーマンス前のトークでバーンはこう言う。

「この曲は可能性の歌です。変化する可能性。不完全なこの世界で。そして不完全な自分自身も。私もまた、変わらなくてはならない」

 バーンがブラックフェイスを行い批判されたのは、『ストップ・メイキング・センス』(1984)のプロモーションビデオだった。興味深いことに、これは多様な人物に扮したバーンが劇の主人公であるバーン自身にインタビューをしているというものだった。今回『アメリカン・ユートピア』で行った反省は、過去の自己を振り返ることでもあり、過去の自分が自分自身を見つめる仕方への反省なのである。この奇妙な符合は、「同時代の歴史」とは、主観からは逃れえないということへの省察をも示している。

他/人を観る
「ケーブルもワイヤーもない。ステージのどこにでも行ける。とても解放的だ。この演出について考えていて、気がついた。私たち「人間」が見るのが一番好きなのは、人々だってこと」

 劇中で、劇の演出自体にふれつつ、つまりメタフィクション的にバーンは言う。我々が本質的に大切にするのは「人」だ、という素朴でストレートなメッセージ。メタなアイロニーも風刺も効いてはいるが、それらは究極的には人のためにある。実直にこう宣言している。

 劇中で〈Everybody’s Coming to My House〉について、自分と高校生たちで解釈がこんなに違うと説明するシーンがある。

「自分にとっては、家に来た人々にうんざりして早く帰ってくれないかなっていう曲だった。同じメロディ、同じ歌詞。なのに高校生たちの読みは全然違ったんだ。たくさん人が来てくれて嬉しい、つまり社会包摂(インクルージョン)だったんだよ。ある意味こっちの方がいいよな」

 表面上は同じものでも、しかし、今の彼に見えているのは未来であり「人」である。高校生をとおして彼が見たのは、“まだ見ぬ”「自由」の可能性ではないだろうか。

 しかしなおもバーンらしいのは、その包摂を、理解し合えない「他者」同士の共存や認め合いだとしていること、そして、それをコミカルにオチにしているところだ。「彼らがどうやってそう解釈したのかはわからない。でも悲しきかな、自分は自分だからね」。単に同じ意見の持ち主で塊になるというだけでは、それは「善きこと」だとしても、また別の形の全体主義が生まれるだけだ。「他者」との共存について、「うんざり」なのか「人が多くて楽しい」なのか異なる解釈がぶつかり合う。「人」を見て、異なる解釈同士を認め合うことが、「リベラル/保守」などとグループで対立し合う分断の政治に効く一番の処方箋ということなのかもしれない。

 冒頭の曲〈Here〉がユーモラスに歌うのは、人間の脳がサウンドを「言葉」に変換して意味にすること、つまり「メイクセンス」することの傲慢さだ。ハーバーマスが「近代」のことを、ローティが「アメリカ」のことを「未完のプロジェクト」と名指したように、『アメリカン・ユートピア』という寓話は、まだ見ぬ、しかし見えつつある理念だという宣言から始まっているのだ。それはとても爽快だ。この感覚は、本作のルーツとも言えるトーキング・ヘッズ時代の演劇的コンサート映画『ストップ・メイキング・センス』が描いた「“意味がとおら”なくてもよい」のシニシズムから、『アメリカン・ユートピア』という「まだ見ぬアメリカの夢」という可能性の希求へと、デイヴィッド・バーンが歩みを進めたことから来ているのだろう。「アメリカ」という社会が「人」へと眼差しを向け、再構築を始めたことを感じさせてくれる。それが「ユートピア」なのだとしても。

選挙の前に観るアートミュージカル
 本作を二度観た。一度目は東京都議会議員選挙を週末に控えた日、二度目は衆議院議員選挙の公示日のすぐ後だった。偶然にも二度とも選挙の前だった。渋谷の劇場では、上映前に投票を促すCMが流れた。「毎日は未払いの請求書だ、そして毎日は奇跡だ」――劇中で〈Every Day Is A Miracle〉のサビが流れたとき、都議選のことが頭に浮かんだ。「個人的なことは政治的なこと」で、「海の向こうの話」ではない。これらがつながる小さな奇跡。

 次のテロップで映画は終わる。「ユートピアは「U」の文字、つまり「あなた」から始まる。世界中どこにいても、選挙人登録をしよう。(Utopia Start with U(You): Wherever you are in the world, please register for a vote.)」

 「アイロニー」から「ストレート」へ。デヴィッド・バーンの“転向”は「正しい」と「楽しい」を結びつけてくれて爽快だ。選挙の時期になると、「友達呼んでカクテルでも作って、アメリカンユートピアでも観るか」なんて言いたい気分。選挙や政治参加に感じがちな義務感とかより、政治を「お祭り」にしてくれる一作。

※本文中の訳出はすべて筆者による。
※映画版は、東京都など一部劇場で上映中。セル/レンタルは12月8日開始。演劇版は、BroadwayのSt. James Theatreで2022年3月まで上演中。

参考資料
Eric Kohn, “David Byrne on Voter Suppression and Talking Heads Reunion” IndieWire October 1, 2020.

Jem Aswad, “David Byrne Apologizes for Wearing Blackface in 1984 Promo Video” Variety September 1, 2020.

Toyin Owoseje, “David Byrne Apologizes for Donning Blackface in 1984 Video” CNN September 2, 2020.

Daniel Kreps, “David Byrne Can't Vote But Hopes You Will” Rolling Stone November 4, 2008.

“Janelle Monáe at Women's March: "I March Against the Abuse of Power”

HeadCount

David Byrne's American Utopia(※ブロードウェイでの上演情報)

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『イカゲーム』のイ・ジョンジェ主演! エセ宗教問題を扱ったオカルト・ミステリー『サバハ』に見る韓国人の宗教的心性

 近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし、作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『サバハ』 

 今から30年以上も前、入隊を控えた冬のことだ。ソウルの繁華街・鍾路(チョンノ)を歩いていると、若い女性から突然「あなたは“ド”を知っていますか?」と声をかけられた。そして「天の“ド”」やら「人の“ド”」やら長々と並べ立てられた挙げ句、運命を占ってあげるからと半ば強引にカフェに連れて行かれた。店内をのぞいた瞬間、当時、鍾路一帯で布教活動を行っている新興宗教団体があるという噂が頭をよぎり、自分が勧誘されていたことを理解した私は、挨拶もそこそこにその場から逃げ出した。

 後になってその“ド”とやらは、仏教や道教での悟りの境地であり、宇宙の根本原理である《道》を彼らが身勝手に解釈して都合よく作り上げ、“ド”を極めて神になったという教祖の言葉を集めたデタラメなものだと知った。内容もさることながら、その宗教団体は、道端で人を捕まえては入会を強制し、入会費を要求したり団体の商品を押し売りしたりするなどの迷惑行為で警察の取り締まりの対象になっていた。そのような団体は減るどころかますます増え、ネット上にはいまだに「“ド”を知っていますか」と近づいてくる人への注意を促す書き込みなどが後を絶たない。

 こうした新興宗教は韓国では「似而非(サイビ)」と呼ばれている。いわゆる「エセ宗教」だが、その数は数え切れないほど多く、昨年政府による集団礼拝の自粛要請を無視して新型コロナウイルス感染拡大の原因となった「新天地」はその代表格といえる。新天地のようなキリスト教系のエセとその弊害については、『フェイク~我は神なり』を取り上げた以前のコラムで紹介しているので、今回は仏教系の新興宗教による犯罪を描いた『サバハ』(チャン・ジェヒョン監督、2019)を取り上げ、その実態と共に、絶えずエセ宗教を生み出してきた韓国人の宗教的心性に触れてみたい。

<物語>

 ある田舎の村に双子の姉妹が生まれる。足にかまれた傷を負った妹のグムファ(イ・ジェイン)と、グムファの足をかみちぎった姉の《それ》だ。《それ》は長生きしないとみられたが、16年たっても、小屋に鎖でつながれながら生きていた。

 一方、新興宗教の不正を捜査している「極東宗教問題研究所」のパク・ウンジェ牧師(イ・ジョンジェ)は、“鹿野園”なる新興宗教団体を調べるために部下のコ・ヨセフ(イ・デビッド)を潜入させる。そんな中、トンネルの壁の中から女子中学生の遺体が見つかり、殺人の容疑者としてキム・チョルチン(チ・スンヒョン)が浮上、パク牧師は事件と鹿野園がつながっていると直感する。間もなくキムは自殺、そして彼が自殺直前に会っていた男チョン・ナハン(パク・ジョンミン)が現れる。チョンについて調べ始めたパク牧師は、彼がグムファを探していることを知る。徐々に明かされる鹿野園の謎。パク牧師はついに衝撃的なその実態と向き合うことになる。

 エセ宗教団体の最も深刻な問題は、詐欺まがいの布教活動にとどまらず、最悪の場合、人命まで奪うような犯罪も起こしかねない点にある。映画では日本のオウム真理教によるサリン事件について言及があるが、韓国でも教祖や信者32人が集団自殺をした「五大洋事件」(先述のコラム参照)など、社会を揺るがせた事件が幾度も発生している。こうした事件を防ぐためには、「神を自称する者」を疑い、本質を見抜くべきだという、当たり前だが忘れがちな注意を本作は喚起しているといえるだろう。

 実際イ・ジョンジェが演じるパク牧師は、国際宗教問題研究所の所長を務めながら「似而非」の不正や犯罪の実態調査に尽力し、エセ団体の信者に殺害された実在の人物タク・ミョンファン牧師をモデルにしており、本作は「似而非」がまん延する韓国の現実を反映した数少ないオカルト・ミステリーとして、230万人以上を動員するヒット作となった。世界的な舞踊家であり俳優としても活躍する田中泯がチベット仏教の高僧役で出演しているが、日本では一般公開されず、現在はNetflixで見ることができる。タイトルの「サバハ(娑婆訶)」とは仏教用語で、「円満な成就」を意味するという。

 372年に高句麗に伝来したという長い歴史を持つ仏教は、エセの歴史も古く、またエセ仏教は儒教や道教、キリスト教といった既成宗教に朝鮮半島の民間信仰である巫俗(ムソク)までを都合よくミックスしているため、その実態を理解するのは非常にややこしい。そこで今回のコラムでは、本作のキーマンである“鹿野園”(東方教)の教祖キム・ジェソクを中心に、現代における仏教系「似而非」の存在感を見ていこう。 
 

 映画によるとキム・ジェソクは「1899年生まれで、成仏の境地に至り、朝鮮総督府の総督さえも師として崇めた。一方で独立運動の支援など抗日活動もした」人物である。この設定から連想されるのは、植民地時代の新興宗教「普天教(ポチョンギョ)」だ。西学(キリスト教)に対抗して生まれた東学(仏教・儒教・民間信仰を融合させたもの)に、道教の教理を混ぜ合わせた「甑山教(チュンサンギョ)」の一派として1921年に創始されたもので、教祖は1880年生まれのチャ・ギョンソクである。

 信者が急増し教団が大きくなった1926年には、当時の朝鮮総督府の斎藤実総督が教団本部にチャ・ギョンソクを訪ねたという逸話もある。大韓民国臨時政府(上海臨時政府)設立に資金を提供するなど、ひそかに独立運動の支援活動もしたのだが、教祖の神格化や信者に対する財産寄付の強制などが批判され、36年に同教団の存在に危機感を抱いていた総督府により解体された。物語上のキム・ジェソクの「朝鮮総督との関わり」や「独立運動の支援」といった設定は、まさに普天教の教祖チャ・ギョンソクから借りているのだ。

 映画のキム・ジェソクは、戦後(独立後)「日本に奪われた文化財や国有財産を取り戻したが、政局が不安定になると宗教界に私財を投じ、勢力を拡大させ、東方教を創始。社会奉仕活動をした」とある。韓国が正式に日本から文化財を取り戻すようになるのは、65年の日韓基本条約で「日韓文化財及び文化協力協定」が成立してからであり、66年に初めて仏像や陶磁器など1300を超える文化財が返還された。文化財の返還に力を注いだというくだりは、キム・ジェソクの歩みが少なくとも東方教という新興宗教を創始する前までは、成仏の境地に至った師として尊敬に値するものであったことを示しており、またその後「突然消えた」キム・ジェソクのミステリーの効果的な前置きとなっている。だが私が引っ掛かったのは、「社会奉仕活動」の部分である。

 「似而非」が自らの怪しさを隠すために「社会奉仕活動」を建前とするのはよくある手法で、ここから思い浮かぶのは「チェ・テミン」である。パク・クネ政権の失脚をもたらした「お友達国政介入スキャンダル」で脚光を浴びた元大統領の親友チェ・スンシルの父であり、長い間パク元大統領との内縁関係を疑われてきた人物である。

 チェ・テミンは70年代に「永世教」という仏教・キリスト教・天道教を組み合わせたエセ宗教団体を作り、弥勒菩薩を自称して教祖となった。ところがパク・クネとの交流が頻繁になると永世教を解散、今度は「牧師」になり(キリスト教側は金で牧師の資格を買ったのが発覚し追放したと主張)、「救国宣教団」という団体を作ってパク・クネを名誉総裁に仕立て上げた。この団体は「救国奉仕団」「セマウム奉仕団」と名前を変えながら、公には自然保護や貧民救済などの社会奉仕活動をしたものの、裏では権力を後ろ盾にさまざまな不正をはたらいて蓄財したことは韓国では誰もが知る話だ。

 だが一番の問題は、チェ・テミンが牧師の仮面をかぶって、当時、母(パク・チョンヒ元大統領の妻)が暗殺され大きなショックを受けていたパク・クネに接近し、呪術的に操ったことだ(以前のコラム『KCIA 南山の部長たち』参照)。この関係性がテミンの娘チェ・スンシルにも受け継がれ、国を揺るがすスキャンダルに発展し、パク・クネは大統領を罷免されるという、韓国史上初の大事件につながったのだ。

 そう考えると、本作のキム・ジェソクはさまざまなエセ教祖たちを組み合わせたキャラクターであり、ある意味では、韓国エセ宗教の縮図といえるだろう。とりわけ、成仏の境地に至り「老いない身体」を得たという設定は、消えては現れる韓国の新興宗教そのものに対するメタファーかもしれない。

 本作には、キリスト教もまた一つの軸として取り入れられている。チベット仏教の僧に死を予言されたキム・ジェソクが、自らを守るため、弟子たちに女子中学生の連続殺人を教唆するのは、イエスの誕生を恐れていたヘロデ大王が、ベツレヘムの幼い男の子たちを殺したという聖書の記録から取り入れたものだ。そしてキム・ジェソクと対峙する双子の姉妹は、旧約聖書の創世記に書かれている双子の兄弟「ヤコブとエサウ」をモチーフにしたキャラクターと思われる。ヤコブがエサウのかかとをつかんだまま生まれたことや、エサウが全身毛だらけだったというのは、グムファと姉の誕生の秘密に盛り込まれている。つまり本作は、仏教からキリスト教まであらゆる宗教を混合させてきた韓国の新興宗教の特徴を、作品全体のオカルト的な世界観に落とし込んでいるといえるのだ。

 最後に、映画の冒頭で描かれる巫女による儀式「굿(グッ)」の場面に触れておこう。伝染病により牛が大量死した牛舎の外では、追い出された医者たちが途方に暮れているのに対して、中ではこの不吉な事態を脱しようと、村人たちが呼んだ巫女が熱い儀式を繰り広げている。セリフや字幕もない短い場面ではあるが、朝鮮半島で最も古い民間信仰である「巫俗」をシンプルにわかりやすく伝えている。牛の大量死を前に村人たちが頼るのは、現代医学ではなく巫俗である。そこには、病気そのものではなく、病気をもたらす邪悪な何かが存在すると信じてきた、はるか昔からの土着的な宗教の心性が表れている。彼らは、「グッ」を通して邪悪な何かを追い払わない限り、病気を治すことはできないと信じているのだ。

 病気だけではない。日常生活のあらゆる場面、人生の大事な局面では、仏教徒だろうがキリスト教の信者だろうが、宗教に関係なく「巫女の占い」に頼る人が少なくないのは、巫俗への信仰が数千年の時を経て、韓国人の意識のどこかに受け継がれてきているからではないだろうか。

崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。 

工藤阿須加、学生時代は毎日デートのモテモテぶり!今は結婚願望大爆発?

 10月27日に放送の『突然ですが占ってもいいですか?』(フジテレビ系)のゲストには女優の福原遥と俳優の工藤阿須加がペアで参戦した。

 スタッフが占い前の意気込みを別室で2人に聞きくと「今後どういうふうにしていけば運気が良くなるか聞きたい」と話す福原に対し、工藤は「結婚ですね。30歳になったので、いつ運命の人に出会うのかを聞きたい」と真顔で即答した。

 そして別ス…

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人気ドラマ『グレイズ・アナトミー』の闇? 主演・エレンが恋人役のパトリックの“最悪な素行”を5億円で黙認か

 現在アメリカでシーズン18が放送されている人気ドラマ『グレイズ・アナトミー』。同作シーズン3で降板させられた黒人俳優イザイア・ワシントン(プレストン・バーク役)が、共演したパトリック・デンプシー(デレク・クリストファー役)のことを「とんでもなく有害で嫌な野郎」と表現。主役メレディス・グレイを演じたエレン・ポンピオについても、「500万ドル(約5億6700万円)の“袖の下”を受け取り、パトリックの真の姿を口外しないことに同意した」と暴露した。

 イザイアは、10月21日に出演したラジオ番組『KBLA Talk 1580』で、降板から10年以上たった今もわだかまりを持つ『グレイズ・アナトミー』について言及。「(エレンが)500万ドルを受け取ったんだ……パトリック・デンプシーがいかに有害で嫌なヤツか、口外しないことと引き換えにね。#MeToo運動で有名なハリウッドセレブたちがたくさん告発されていた頃の何年も前の話だけどさ」と発言。

 イザイアが降板させられたのは、パトリックと口論中、共演者で同性愛者のT・R・ナイト(ジョージ・オマリー役)のことを「同性愛者を中傷する差別的な言葉で呼んだこと」が原因だとされているが、それを否定し「オレは身代わりにされたんだ」と説明。「この作品で共演したキャストの多くが、有害で、素行が悪かった。その最たる野郎が、パトリック・デンプシーだったのさ。それをもみ消すために、オレが犠牲になったんだ」とぶちまけた。

 また、「ドラマで一番のギャラをもらっていたのはオレだ。パトリック・デンプシーと同じレベルだった」「そのことで恨みを買うようになったんだ。その気持ちは理解できるけど、ギャラは演じている役や自分のこれまでの経歴に基づいて決められるのだから、オレにはどうしようもない」と述べ、パトリックと険悪な関係になったきっかけは、出演料だったと語った。

 続けて、「ヤツはパイロット版(第一話)を台無しにする役者だといわれていたんだ。誰もヤツなんて採用したくなかった。本命は(パトリックと同じように青春映画スターだった)ロブ・ロウだったんだ」と明かし、「パトリックは初日から嫌な野郎だった」「『イザイア、この宇宙を支配するのは白人だって知ってるかい?』って言われた」「平気で遅刻し、早退する野郎だった」と、パトリックには人間性を疑うような言動があったとぶちまけた。

 降板原因となったパトリックとの口論については、「あの日、ヤツは遅刻した。なのに謝罪もせず、オレにケンカをふっかけてきて、オレに3回暴力を振るったんだ。身体的な暴力さ。だから、オレは男として警告したんだ。『ふざけんな。このオレをビッチ扱いするな。ファゴットだとでも思ってんのか』ってね」と、パトリックに原因があると断言。同性愛者を差別する「ファゴット」という単語は自分に向けたもので、“弱者だと思うんじゃない”という意味で使ったのだと弁解した。

 イザイアは、500万ドルと引き換えにパトリックの横柄な態度を口外しないと同意したエレンについても、「オレやサンドラ・オー(クリスティーナ・ヤン役の韓国系俳優)といった彼女より注目を集める役者がいることを、『私を差し置いて! 信じられない!』と思うような人でね」と、白人ならではの特権意識を持っていると暴露。

 エレンは先日、自身のポッドキャスト番組『Tell Me with Ellen Pompeo』で、『グレイズ・アナトミー』シーズン12の第9話を監督したオスカー俳優デンゼル・ワシントンと撮影をめぐって激しい口論になったことを告白したが、イザイアは「別に驚かなかったね。彼女は頻繁に“黒人とは問題なくやってる”アピールするし、ガチでそう思っているみたいだけど、とんでもない」とコメントした。

 トラブルメーカーのパトリックは、2015年のシーズン11を最後に降板。本人は「10年間出演し続けて、作品への興味が薄れた」と説明しているが、「カーレースのほうに情熱が傾いて撮影が嫌になった」「遅刻常習犯だったからスタッフににらまれていた」「現場で若い女性○○と不適切な関係になった」などとウワサされた。

 今年9月に発売された番組の制作秘話をつづった本『How to Save a Life: The Inside Story of Grey’s Anatomy』でも、「セクハラなどの性的な問題ではないが、パトリックの素行は最悪で、撮影現場を恐怖に陥れていた。キャストの中には彼のせいでPTSDを発症していた者もいた」と問題多き男だったことを暴露されている。

 今回のイザイアの発言が事実であるかどうかは定かではないが、ネット上では、パトリックが有害な存在だったことは「ありえる」と受け止めている人が多いようだ。また、エレンは昨年、『グレイズ・アナトミー』に主演し続ける理由をずばり「お金のため」と説明していることから「500万ドルを受け取って口をつぐんだとしても不思議ではない」といった意見がネット上を飛び交っている。

Kis-My-Ft2・横尾渉、酔ってKAT-TUN・亀梨和也とケンカの過去告白! メンバーの”酒癖”も明らかに!?

 Kis-My-Ft2の冠番組『キスマイ超BUSAIKU!?』(フジテレビ系)が10月28日深夜に放送された。この日は話題のゲーム「かたろーぐ」を行い、メンバーの酒癖の悪さが明らかになる場面があった。

 「かたろーぐ」とは、テーマとなる質問にメンバーそれぞれが回答し、ゲストはそれを順位付け。ゲストがつけた順位をメンバーが当てられれば成功となる。今回のテーマは「女性と初めて飲みに行くお店は?」で、ゲストには歌手の青山テルマが登場した。

 このテーマについて、横尾渉は「閉店時間がない店」、宮田俊哉は「行きつけの沖縄orタイ料理屋」、玉森裕太は「レジャー施設」、北山宏光は「行きつけのカウンター焼肉」、藤ヶ谷太輔は「知り合いがやってるハワイアンレストラン」、二階堂高嗣は「赤提灯の店」、千賀健永は「カラオケバーの個室」と、それぞれ回答。また、その後に青山の発案で、「飲んでいるときにどうなるのか?」も併せて答えることになった。

 これに二階堂は「変わらない」、北山は「人数増えてワイワイ」、宮田は「テンション変わらず寝る」と、比較的よくある回答が続いたものの、雲行きを変えたのは横尾。「僕は、ケンカします」と明かし、さらに実体験として、KAT-TUN・亀梨和也とケンカしたことがあると告白した。

 横尾の飲酒時の様子については、藤ヶ谷も思うところがあるようで、ある時、運転中に交差点でたまたまベロベロに酔っぱらった横尾を発見し、自宅まで送ったことがあったとのこと。なんでも、「酔っぱらってるじゃん? 家着くじゃん? そしたら財布出し始めて……」と、藤ヶ谷の車をタクシーと勘違いするほど酔っぱらっていたとか。

 そんな藤ヶ谷はあまり飲まず、飲んでしまったときは「寝る」。また、千賀も飲まないものの「テンションを合わせる」と答えた。また、玉森はあまり飲まなくなったが、若いころはお酒が入るとテンションが上がり、周囲に「まだ飲めるでしょ!?」「まだ飲める人ー!?」と無理やり勧めるようなキャラになると告白していた。

 しかし、玉森と仲のいい宮田によると、以前、『キスブサ』収録の前日に、玉森がドラマの打ち上げで朝4時までテキーラを飲んでいたことがあったそう。自宅で2時間ほど仮眠して収録に臨むことになったが、宮田いわく「制作会社の便所ですげえゲロ吐いてた」とのことで、結局、収録もままならず、フラフラの状態だったと暴露した。

 なお、最終的にキスマイの予想は1位が藤ヶ谷、2位が玉森、3位が千賀、4位が北山、5位が二階堂、6位が宮田、7位が横尾だったが、青山は2位を宮田、3位を二階堂、5位を千賀、6位を玉森としており、メンバーの予想とゲストの答えが微妙にかみ合わない結果に。残念ながら、ゲームは失敗となった。

 この日の放送にファンからは、「みんな酒癖悪いな〜!」「酔ってケンカは最悪すぎる!」「二日酔い状態の玉森くんがいつだったのか知りたい!」といった声が集まっていた。

V6「雨」と「家族」が示した“役者”としての底力──KOHHの“相田みつを”的リリックと6人の親和性

 1995年「MUSIC FOR THE PEOPLE」でデビューしたV6が、この秋26年の活動に終止符を打つ。小室哲哉ブームに沸き立つエイベックスが得意としていたユーロビートというジャンルでデビューしたV6は、その後も音楽とライブにこだわり続け、ジャニーズの音楽性の幅を広げた功労者だろう。

 そんなV6の14枚目にして最後のオリジナルアルバム『STEP』には、これまで音楽的な…

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菅直人と長島昭久が激しく争う“東京18区最終戦争”旧民主同士の因縁の師弟対決

 東京18区では旧民主党政権で首相だった菅直人(75)と防衛副大臣だった長島昭久(59)が激しく議席を争う。自民党は元首相の菅に止めを刺そうと麻生太郎副総裁、小泉進次郎前環境大臣、菅義偉前首相、安倍晋三元総理と次から次へと、スター級の弁士を送り込む。そして、27日にはとうとう岸田文雄首相が選挙区入りし、長島のために弁を振るった。

 しかし、自民党のなりふり構わぬ、菅つぶしはもと…

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嵐・相葉雅紀、『VS魂』で“パチスロ対決”計画も「貴重」「ジャニーズがパチスロするのは嫌」「見たくない」とファンから賛否

 嵐の相葉雅紀がキャプテンを務めるバラエティ番組『VS魂』(フジテレビ系)が10月28日に放送された。この日は番組で進行している「主題歌プロジェクト」について、相葉とジャニーズWEST・藤井流星が、人気3ピースバンド・サンボマスターに会いに行く場面がオンエアされた。

 前回の放送で、番組主題歌の制作をサンボマスターに依頼したところ、「『任せてくれ』みたいなことは言っていましたよ」と魂メンバーたちに報告していた相葉だが、「正直ね、(オファーを)受けてくれたっていう“口約束”はしてるんですけど、本当かどうか信じてない」と、なにやら半信半疑の様子。

 そこで今回は、15枚目のシングル「週刊うまくいく曜日」をサンボマスターに楽曲提供してもらい、音楽番組でコラボするなど、魂メンバーの中で唯一共演経験のある藤井を連れて、あらためて3人の元へお願いをしに行くことに。相葉は、ボーカル・山口隆の大好物だという焼き菓子「ありあけ横濱ハーバー」を手にしながら、「これでちょっと釣ろう!」と意気込み、藤井から「キャプテン、言い方がちょっと……」と制されていた。

 そうして少しの不安を抱えながらサンボマスターと初対面を果たした相葉だが、差し入れ攻撃の効果もあってか、早々に3人から正式にOKをもらい、藤井と共に両手を上げて大喜び。その後のトークでは、サンボマスターは主題歌候補としてすでに4曲を制作していることが判明し、相葉と藤井は「えっ!? 4曲も!?」と驚がく。

 また、ドラムの木内泰史から『VS魂』を毎週家族で見ていると聞いた相葉は喜びつつ、番組について「ジャンル問わず、一生懸命戦うっていう番組なので……」とあらためて説明。続けて「サンボさんの熱い気持ちと番組がリンクする」と、今回オファーするに至った理由を明かすと、山口は「今、すごいうれしくて。2人ともミュージシャンでもあるから、皆さんと曲の話ができるのがうれしい」と、相葉と藤井とのトークを楽しんでいる様子だった。

 さらに相葉は、サンボマスターに「こっちからお願いをさせていただいたので、それこそ木内さんとか(番組に)出てくれて、対決いろんなのしたりとか」と、番組出演をお誘い。対決内容については「なんでも!」と断言し、「(魂チームに)勝てるものある?」と悩む木内には山口から「釣り」と「パチスロ」とまさかの回答が。すると相葉もノリノリで、「なんだったら(スロット)台を2台用意して、魂チームとサンボマスターチームで対決」と提案。サンボマスターと大盛り上がりしていた。

 その後も、山口がレコードが好きと明かすと、「いま、大体ビジョンが見えてきました」「まず、レコード屋にみんなで行って、レコードを探して、パチスロ行って対決」と相葉のアイディアが爆発。「(この番組は)何でもありなんで」とも語り、ギターとコーラス担当の近藤洋一に、「休日の過ごし方(みたい)」とツッコまれていた。

 このパチスロ企画をめぐり、ネット上では「メンバーがパチスロやってる姿想像したら笑った」「アイドルが地上波でパチスロする姿は貴重」「ドラマなら有り得そうだけど。 バライティーで見れるなら見てみたい」「事務所的にOK?」「ジャニーズがパチスロするのはなんか嫌」「正直見たくないし……そのワードも口に出して欲しくなかった」と賛否両論が寄せられていた。