近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。
『お嬢さん』
1950年代末に、映画における作家主義を前面に出してフランスで起こった映画運動「ヌーヴェルヴァーグ」。ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーといった映画作家たちを輩出し、彼らはシネフィル(「映画マニア」とでも言い換えられようか)が高じて映画評論家となり、その自然な帰結として自ら映画を作るようになっていった。韓国にもまた、同じような出自を持つ「巨匠」がいる。パク・チャヌクだ。『JSA』(2000)や『オールド・ボーイ』(03)『親切なクムジャさん』(05)『渇き』(09)など、韓国映画が国際的な評価を得るようになった立役者の一人であり、近年ではハリウッドやイギリスでも活躍。韓国映画を世界に知らしめる「21世紀の韓国映画ルネサンス」を、『パラサイト 半地下の家族』(19)のポン・ジュノと共に先導する役割を果たしている。
ポン・ジュノがエンターテインメントの中に大いなる社会性を潜ませる作風であるとするならば、パク・チャヌクは、リアリズムとはかけ離れた画面作りの中に、タブーや罪意識に基づく贖罪と救済(ただし、勧善懲悪とは全く無縁の)の過程を、過激に、時に過剰に、そして転覆的に描き出し、高い評価を得ている作家だ。近親相姦や宗教的な堕落を、視覚的に強烈な、美術的な表現で提示するその芸術性は、「カンヌ・パク」とも呼ばれるほど、カンヌ国際映画祭で高く評価されていることからも明らかだ。
『オールド・ボーイ』がカンヌで審査員長を務めたタランティーノを熱狂させ、韓国映画初の審査員特別グランプリを受賞。さらに『渇き』も審査員賞を受賞している。ポン・ジュノがどちらかというとアメリカで熱狂を生んだのに対し、パク・チャヌクはヨーロッパでより好まれる傾向にあり、そこに両者の作家性の違いが見え隠れする。だが2人はライバルというよりも、実際は非常に仲が良く、パク・チャヌクはポン・ジュノがハリウッドで手がけた『スノーピアサー』(13)の製作者に名を連ねたほか、ポン・ジュノが『パラサイト 半地下の家族』でアカデミー賞を受賞した際には、パク・チャヌクが真っ先に祝辞を送っていた。
今回のコラムでは、そんなパク・チャヌクがハリウッドに招かれて監督した『イノセント・ガーデン』(13)以来、3年ぶりに発表した『お嬢さん』(16)を取り上げたいと思う。本作もまた、観客の想像を超える「過激で転覆的」な物語と女性同士のベッドシーンが話題を呼び、日本ではR-18作品に指定されたにもかかわらず、世界中で多くの観客を動員したヒット作となった。パク自身はカンヌでの受賞には至らなかったが、「ミザンセン(画面演出)」を高く評価され、パクと長きにわたってコンビを組んできた美術監督のリュ・ソンヒが、技術賞にあたる「バルカン賞」を受賞。また本作は、世界176カ国へ輸出されるなど、海外でもそのエンターテインメント性と作家性が認められる結果となった。
<物語>
1930年代の植民地朝鮮。幼い頃に両親を失い、叔父・上月(チョ・ジヌン)の厳しい保護の下で暮らしている秀子(キム・ミニ)。ある日、藤原伯爵(ハ・ジョンウ)の紹介で朝鮮人の少女・スッキ(キム・テリ)が、「珠子」の名で侍女として秀子に仕えることになる。毎日のように叔父の書斎で本を朗読するのが日常の全てだった秀子は、いつしか純真なスッキを頼るように。だがスッキの正体は、有名な女泥棒の娘で、詐欺集団によって育てられたスリだった。そして藤原伯爵もまた、秀子を誘惑して結婚し、彼女が相続する莫大な財産を横取りしようとする詐欺師。スッキはそんな伯爵の企みに乗り、秀子と伯爵が結ばれるよう仕向けるために送り込まれたのだ。秀子の心を揺さぶるため、藤原伯爵とスッキの陰謀が始まるが、3人の関係は予想だにしない方向へと進んでいく。
本作は3部構成になっており、1部はスッキの視点から、2部では1部と同じ出来事を秀子の視点から描き、3部ではその結果が映し出される。これは、サラ・ウォーターズの原作小説『荊の城』(創元推理文庫)に沿った構成であるものの、映画を見たサラが「あくまで小説からインスピレーションを受けたにすぎない」と明かすほど、物語そのものはだいぶ異なっている。パク・チャヌク自身、「原作を読みながら僕なりに想像したものを軸にした」と述べているが、それでも主要人物の設定や物語の大きな流れは原作をもとにしている。とりわけ「女性同士の同性愛的関係」という主題が、原作同様、映画においても核となっている点は重要であり、韓国での公開時に本作が大きな注目を浴びて話題をさらったのも、まさに「秀子とスッキの過激なラブシーン」であった。
ここ数年で、ジェンダーの主題やLGBTQの描き方など、映画における性の多様性の表現は世界的に大きく進んだ感があるが、韓国では儒教的伝統により、いまだ「同性愛」に対して保守的な側面が強い。LGBTQの集会に猛反対する教育界・宗教界関係者のホモフォビア的批判の声が、新聞の社会面をにぎわせているほどだ。だがそんな韓国において、低予算のインディーズ映画ならまだしも、莫大な製作費をかけた商業映画としてこのような映画が作られたこと自体が画期的であり、本作はその意味でも先駆的であったといえる。
そして本作に対して、もちろん拒否反応や否定的な意見はあり、女性同士のラブシーンに対する興味本位なまなざしも目立ったが、それ以上に興味深いのが、本作で描かれる同性愛は、セックス以上にさまざまなレベルで象徴的な解釈ができるのではないかという、フェミニズム的観点からの議論である。こうした議論の背景には、巨匠パク・チャヌクが同性愛を単純には描かないだろうという、監督への期待が込められているのと同時に、映画の主な観客が若者世代であり、性的な議論に対して柔軟な観客に見られた作品であることが大きかったと考えられる。彼らにとって秀子とスッキのラブシーンは、ただのセックスではなく女性同士の「連帯」と捉えられた。
以下に、映画から読み取れる「連帯」の要素を挙げてみよう。
第1部でまず強調されるのは、秀子とスッキの「母性愛」的な関係性だ。映画の冒頭、捨てられた赤ん坊を拾って面倒を見、その後売りさばく生活を送っているスッキはすでに母親的な役割を果たしており、社会から隔絶された世界で1人では何もできない秀子には、まるで赤ん坊のように接する。スッキに頼りっぱなしの秀子も、実は彼女の演技であったことが後から明らかになるのだが、母親を早くに亡くしたという共通点を持つ2人が、「あなたの母はきっとあなたを産んでよかったと思っているはず」というスッキの言葉を通して真の感情を芽生えさせることからも、彼女たちがまず「母性」によって連帯していくことがわかる。そして、時間をかけて反復的に描かれるセックスシーンが、素晴らしいエロティシズムにあふれているのは作り手たちの力量だが、手を握り合うといった行為を見せることで、2人の連帯感がより伝わってくる場面になっている。
また、最初は女同士がだまし合っているように見せるからこそ、それが次第に「女性対男性」の構図に変化し、最終的には女が男に気持ちよく勝利する結末に痛快さを感じるという、映画自体の構成の魅力も大きいだろう。それまで完全に男性の支配下に置かれていた秀子とスッキは、連帯することで、上月や藤原との関係をぶち壊して転覆させ、2人だけの自由を手に入れる。そしてその過程で、上月の春画コレクションや「蛇の像」を叩き潰し、藤原の「指」は切断され、それぞれ「男根」のメタファーともいえるものが具体的に破壊されていく。
こうしたさまや、だまし合いのゲームにおいて次第に女たちが主体的な地位を確立し、男たちをバカにしながら勝利を収めるという展開を考えると、2人の同性愛的連帯は、もはや必然とさえいえる気がする。上月の家から脱出する際の「私の人生を壊しに来た救世主、私の珠子」という秀子のセリフは、そうした2人の関係性を決定的に示すものである。
パク・チャヌクは、男性による一方的な性的視線を見事に転覆させる女性たちの反撃を描くための装置として、同性愛を必要としたのだろう。だからこそ本作は、スキャンダルなベッドシーンの話題を超えて、フェミニズムに根差した議論が活性化したのである。
その一方で、多くの日本人観客が「なぜ本作は日本統治下の朝鮮を舞台にし、登場人物たちにたどたどしい日本語を言わせたのか」という疑問を感じるのではないだろうか。日本人ではない私さえも、それがずっと気になったくらいである。もちろん、原作の雰囲気に合わせて「伯爵」という朝鮮にはなかった身分を取り入れるためといった要因もあるかもしれないし、パク・チャヌク自身「こんなにいやらしい話を韓国語で聞かされるのは……」とためらったように、劇中で発せられる数々の卑猥な言葉を外国語にすることで、衝撃が和らぐといった戦略もあっただろう。だがそれ以上に、そこには長年韓国が抱いてきた、日本のポルノへのフェティシズムがあるのではないかと思う。
実は、いまだに法律でポルノ映画が禁止されている韓国では、国産ポルノを見ることのかなわない男たちが、長年欲望のはけ口を日本産ポルノに求めてきたという実態があった。そして、今でこそなくなっているが、韓国には、違法にもかかわらず日本のポルノ映画をこっそり上映する“闇のビデオ室”なるものまであったのだ。
恥ずかしい告白になるが、私自身、高校時代に何度もビデオ室に通ったし、軍隊から除隊した帰り道にソウル駅近くのビデオ室に入ったのが最後だったこともよく覚えている。表向きは漫画喫茶として営業している店に入り、「見に来た」と暗号のように一言伝えると、奥の密室に案内される。そして、本作で秀子が朗読する淫乱小説にかたずをのみながら聞き入る男たちのように、狭い部屋に集まった男たちは、日本のポルノに見入ったのだった。
西洋ポルノは見た目も異なって現実感がないし、まるでスポーツのようなセックスで色気を感じられなかったが、日本ポルノはその点親近感もあり、またジャンルも多様で断然好まれたのだ。だいぶ前、韓国で公開されたある映画の物語にどうしても既視感があると思ったら、それはビデオ室で見た日本ポルノのパクリだったこともあり、韓国のパクリ文化を恥ずかしく思いながらも、ビデオ室の浸透ぶりに苦笑してしまう自分がいたことも告白しておこう。パク・チャヌクをおとしめるつもりはさらさらないが、韓国男性が共有する経験と認識を、彼も多かれ少なかれ持っていたと考えるのは自然だし、良くも悪くも日本と朝鮮が共存していた時代設定をもってくることで、本作の物語は見事に成立したといえるだろう。
また、日本と韓国という構図が持ち込まれている点から考えるならば、本作を「ポスト・コロニアリズム」分野における「視線と凝視」の概念から捉えられるかもしれない。ホミ・K・バーバという文化理論家が著書『文化の場所』(法政大学出版局)の中で提唱したこの用語は、帝国の植民地へのステレオタイプ化(視線)と、それに対する植民地の現実(凝視)を分析するために用いられ、支配者の視線が作り出した「良き植民地」のイメージは、必ずしも植民地の現実と一致しないという、ステレオタイプの無意味な虚妄性を暴いた概念である。
だが帝国/植民地の対立を、同じような支配関係を持ちやすい男女のそれに置き換えることは、十分に可能だろう。支配者である男たちの性的な「視線」によってステレオタイプ化された秀子が、実際の彼女と異なるのは明白であり、スッキと連帯して復讐を遂げるその後の展開は、まさに男たちの身勝手な視線に対する女たちの「凝視」といえるからだ。いずれにせよ本作は、あらゆる抑圧――男性による女性への抑圧と、国家レベルでの性的抑圧――に対して転覆的な問いを投げかけた、儒教的な「性」意識へのカウンターパンチとなった快作だと評価できるものである。
新型コロナウイルスにより映画界も暗い話題ばかりだが、最近、パク・チャヌクが新作の製作を開始したといううれしいニュースが飛び込んできた。ここのところポン・ジュノの名前ばかりが目立っていたので、早くパク・チャヌクの新作を拝見したいものだ。次は一体、どんなタブーに切り込んでくれるだろうか。
崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。