ここ最近、世間で「表現の自由」という言葉が、盛んに飛び交うようになっている。
7月の参議院議員選挙で、安倍晋三首相が北海道・札幌市で応援演説を行う中、ヤジを飛ばした人物を、北海道警察の警官が取り押さえ、現場から排除する騒動が起こった。その後、8月にも、埼玉県知事選において、柴山昌彦文部科学相(当時)が応援演説をしている際、大学入試改革への反対を訴えていた人物が、同様に警官に取り囲まれ、現場から遠ざけられるという事態が発生。これを受け、世間からは「表現の自由の侵害ではないか」と疑問の声が飛び交ったのだ。
柴山氏は、こうした世間の反応に対し、記者会見で「表現の自由は最大限保障されなければいけない」とする一方、「演説会に集まっておられた方々は候補者や応援弁士の発言をしっかりと聞きたいと思って来られているわけですから、大声を出したり、通りがかりでヤジを発するということはともかくですね、そういうことをするというのは、権利として保障されているとは言えないのではないか」と反論。すると、「ヤジは公職選挙法が禁じる演説妨害にあたるのか否か」「表現の自由が“制限”される基準は何か」が論点となり、議論が加速することとなった。
また、これらの「ヤジ排除問題」と並行して、8月には、国際芸術祭『あいちトリエンナーレ2019』内の『表現の不自由展・その後』の展示品に、多くの誹謗中傷や脅迫が送られ、開幕から3日で中止となる騒動も勃発(その後、10月8日から再開)。河村たかし・名古屋市長が、「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」として、展示の中止を訴えたことに対し、大村秀章・愛知県知事が、「表現の自由を保障した憲法21条に違反する疑いが極めて濃厚ではないか」と痛烈に批判したこと、また、9月末に、文化庁が『あいちトリエンナーレ』への補助金を「全額不交付とする」と決めたことも注目を浴び、「表現の自由」をめぐる議論がさらに活発化したのだ。
「表現の自由」とは一体何なのか――あらためてこの疑問について取り上げるべく、今回サイゾーウーマンは、『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』(大月書店)の著者である憲法研究者・志田陽子氏に取材を行うことに。こうした騒動に対し、「何だか息苦しい社会になったと思いました」と語る志田氏に、その真意を聞いた。
――まず、ヤジ排除問題に関してお聞きします。率直に、どのような感想を抱きましたか。
志田陽子氏(以下、志田) 「表現の自由」とは、人に不快感を与えようとも、相手の権利侵害にならなければ、言いたいことを表現していいという自由のこと。ただこの件は、人と人との間で生じる不快感や差別表現の話ではなく、民主主義における表現の自由、言論の自由に関する話。「民主主義の前提として、可能な限り表現の自由、言論の自由は保障されるべき」という基本の考え方が、警察官や日本の行政に共有されていないのが問題だと感じました。
柴山元文科相の発言から「ヤジが公職選挙法の演説妨害にあたるのか否か」といった議論もありましたが、それは「程度」の問題。確かに選挙演説を妨害した場合、公職選挙法第225条「選挙の自由妨害罪」にあたる可能性はあるのですが、それは「演説がまったくできなくなるような激しい妨害」の場合なのです。1948年、演説の妨害に関し、最高裁判決が「聴衆がこれを聞き取ることを不可能または困難ならしめるような所為」としたことがあります。例えば、演説現場に、何台もの街宣車を乗り付け、割れた音で音楽を流しながら、怒鳴り声を上げたり、拡声器を使ったりなどすれば、演説を聞き取ることが不可能、または困難な状況となるかもしれませんが、今回のような生の声でヤジを飛ばすのは、それにあたらないのではないでしょうか。
―― 一人、ないしは数人が、特に拡声器やマイクなどを使わずに声を上げたところで、候補者や応援者の演説が聞こえなくなるというのは、考えにくいところです。
志田 そもそも日本の公職選挙法は、一般人と政治家の生のコミュニケーションを取りにくくさせている法律とも言えます。例えば候補者やそのサポーターが、有権者を戸別訪問して、直接、政策の説明をすることは禁止されているのです。そんな中、選挙演説というのは、一般人と政治家が直接コミュニケーションを取れる大変重要な場面です。候補者やその応援者にとって、確かにヤジは気持ちのいいものではないと思いますが、しかし、民主主義においては、賛否両論あるのが当然、たくさんの異論がぶつかり合いながら、有権者の考え方を集約していくことが大事なのです。ヤジを排除するというのは、異論を押さえつけることになり、民主主義においてあってはならない表現抑圧と言えるでしょう。
――参院選においては、選挙演説に集まった反対派の人の意見を聞き、議論するという候補者もいました。
志田 それが理想的ですよね。むしろ、ヤジを排除するのは、民主主義のもと選ばれるべき人にとって、自殺行為なのではないでしょうか。議員の「議」は、議論の「議」です。いろんな人と対話を、時に議論をして、多くの人を納得させて票が集まり、選ばれる――だからこそ得られる、誇りと自信があるように思います。異論を押さえつけ、組織票で当選しても、その人は「本物ではない」ということになります。警察が気を利かせて排除したなら、候補者をスポイルしていることになりますよね。これは、政治の劣化にもつながることだと思います。
政治家の中には、親の代からの地盤を引き継ぎ、有権者との議論をスルーし、人気取りのための発言と握手ばかりに終始する人もいますが、これは本来の民主主義とは言えないのです。大日本帝国憲法から日本国憲法に生まれ変わるとき、世襲制、また終身制が採用される貴族院が廃止され、その都度、民意で議員が選ばれるようになったのですが。もしかすると、選挙事務所や協力者が、そういう空気をつくっている可能性もあるかもしれません。候補者の弱みが出てしまう議論を避け、“イケイケ”のムードで、当選まで持っていきたいという思いもあるように感じます。
――ヤジに関してですが、「お前なんて辞めちまえ!」など、汚い言葉でのヤジに嫌悪感を示す人も多いです。かと言って、排除するのは、やはり「表現の自由」を侵害するということですね。
志田 「お前なんて辞めちまえ!」というヤジは、確かに口汚く聞こえるでしょうが、その人の役職の適格性や政策について疑問を抱いている……とも言い換えられます。ヤジ排除は、表現の自由の侵害とも言えますが、憲法第16条にも反しているように思うのです。憲法第16条では、「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」という「請願権」が規定されています。つまり国民は、自分が求める政策について、国会議員に対してであれ、行政に対してであれ、平穏な方法で請願する権利を持ち、それによって不利益は受けないと、しっかり規定されているわけです。先ほどの公職選挙法違反のレベルにあたるもの以外は、きつい言葉でも、言葉である限り、平穏な方法と見るべきでしょう。その請願に対して、警察が身柄を取り押さえるというのは、憲法の趣旨に反します。
「保育園落ちた日本死ね!!!」もそうですが、苦しい思いをしている人の生の声というのは、“口汚い”“きつい”と取られてしまうこともあるのではないでしょうか。しかし、それを排除してしまうと、やはり民主主義とはかけ離れていきますし、一見“口汚い”“きつい”と思われる生の言葉を、どう政治の世界で成熟させていくかが重要。それが「熟議」です。そう考えると「ヤジ」は必要なのです。ただ、特定の人物に対して「殺す」と言うなど、脅迫にあたることをする者は、排除しなければいけませんが。
――選挙演説におけるヤジ排除を見ていると、まるでアイドルの握手会でヤジを飛ばすアンチを、運営側が出禁にするのと似ているな……と思ったのですが。
志田 確かにそうですね。タレントだったら、握手会やコンサートに自分を支持してくれるファンだけを集めて、ヤジを飛ばすアンチにお引き取り願うのは自由です。というのもタレントは、私的な商行為として、それらを実施しているから。しかし、民主主義の選挙の空間は、タレントの握手会やコンサートとはまったく違います。私的な空間ではない「公共の空間」では、異論を排除してはいけないのです。
国民の知る権利にとって、賛否どちらも「ある」状況が必要
――この「公共の空間で、表現の自由が保障されなければいけない」という点に関しては、『表現の不自由展・その後』中止問題でも論点になっていました。大村県知事が記者会見で、河村市長から展示中止の訴えがあったこと、また「税金を使っているから、あたかも日本国全体がこれを認めたように見える」との発言があったことを踏まえ、「税金でやるからこそ、憲法21条はきっちり守られなければならない」と話していました。
志田 大村県知事のおっしゃっていたことは、憲法研究者からすると「至極真っ当な意見」です。『表現の不自由展・その後』に関して言えば、展示品に賛否両論あるのは当然で、賛否どちらも「ある」という状況が、国民の知る権利にとって重要なこと。公共の空間において、人々に「選択肢がこれしかない」と思い込ませることが問題なのです。「日本人の心を踏みにじるからダメ」と言って展示を中止するのは、賛成する根拠も、また批判する根拠も、人々から奪うことになってしまいます。
これは、先ほどの選挙演説へのヤジに関しても同じことが言えます。候補者や応援者の演説内容に賛否両論があり、聴衆が「私はこちらの意見だ」と選べる状況でなくてはいけない。ヤジを排除して、議論を起こさせないようにすることは、聴衆側からすると「大事な考え方に触れるチャンス」を奪われていることになるのです。
(後編につづく)
志田陽子(しだ・ようこ)
1961年生。2000年、早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程を単位取得退学。2000年より武蔵野美術大学造形学部に着任(法学)。早稲田大学法学部・商学部非常勤講師。専攻は憲法。著書に 『文化戦争と憲法理論――アイデンディティの相剋と模索』(法律文化社、2006年)『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』(大月書店、2018年)、編著に『あたらしい表現活動と法』(武蔵野美術大学出版局、2009年)『映画で学ぶ憲法』(法律文化社、2014年)。