昔話が図書館から消える! 『美女と野獣』は性差別的な物語!? ポリコレ的にNGな童話の世界

――『赤ずきん』、『シンデレラ』、『いばら姫(眠れる森の美女)』……誰もが知っている定番の童話に、ポリティカル・コレクトネスの波が迫っている。4月18日付の「The Guardian」紙の報道によると、このほどスペイン・バルセロナにある複数の学校で、「ジェンダーに関する固定観念や、差別的な要素が含まれる本」を図書室から排除する動きが進んでいるという。

 ある学校では、委任を受けた調査団体が幼児向けの蔵書約600冊を精査。登場人物の発言内容と役回りを1冊ずつ調べ上げた結果、約200冊について「教育的な価値がない」との判断を下した。海外ニュースサイト「The Local」のスペイン版によると、その中には『赤ずきん』、『シンデレラ』、『いばら姫』、『美女と野獣』といった、メジャーなタイトルも含まれている。こうした童話で描かれる女性は「勇者である男性の救助を待っている存在」として描かれることが多く、それが男女のステレオタイプを助長してしまうと問題視されているようだ。

「幼児は身の回りに起こることすべてを吸収します。そのため、この時期に性差別的な固定観念に触れると、それを当たり前のものとして受け取ってしまう」というのが、調査団体の主張。しかし、その一方で前出の「The Local」が取材したある図書館職員は「古典文学には独自の価値があり、検閲は危険な行為。行き過ぎたポリティカル・コレクトネスは、守るべきフェミニズムの価値観をかえって傷つけかねない」と、警告している。

 本稿では、このようにポリティカル・コレクトネスで排除されていく童話の現状を、識者の意見を交えながら明らかにしていきたい。

スペインの判断は童話を理解していない

 まず、今回スペインで下された判断について、グリム童話の専門家はどのように考えているのだろうか? 梅花女子大学大学院教授・武庫川女子大学名誉教授・日本ジェンダー学会会長の野口芳子氏はこう語る。

「スペインでの出来事については、『何を考えているんだ!』という思いです。確かに、ジェンダーは時代や社会によって変わるもので、求められる『男らしさ』と『女らしさ』も変わっていきます。だからといって、過去のジェンダー観が反映されている物語や昔話を排除すると、ジェンダーを歴史的に理解する機会を子どもから奪うことになります」

 過去を否定するのではなく、理解することが重要ということだが、そもそもジェンダーに限らず、童話や昔話というものは常に身近な教訓の教科書でもあった。野口氏は『赤ずきん』を例に挙げ、次のように解説する。

「1697年にシャルル・ペローがまとめた『赤ずきん』が収録されている『教訓をともなった昔話』は、当時のフランス国王・ルイ14世の姪に捧げられたものです。ペローの『赤ずきん』は最後に赤ずきんが狼に食べられて終わりますが、彼は19歳の貴族の令嬢に向けて『若い娘が知らない男の言葉に耳を貸すと、食べられてしまうよ』という、自身の身を守るための『教訓(モラリテ)』が付いた『昔話』を書いたのです」

 時代がくだり19世紀、『グリム童話集』に収録された『赤ずきん』は、口承で語り継がれた性的な部分を削除し、より教育的な側面が強くなったという。

「ドイツのグリム兄弟に『赤ずきん』を伝えたのは、ハッセンプフルーク家という良家の娘たちでした。一家はフランス移民で、父親が州知事を務めるくらいでしたから、貴族向けに書かれたペローの昔話も知っていたはずです。しかし、グリム兄弟の『赤ずきん』の内容はペローとは異なります。グリム版では祖母と娘が食べられて終わるのではなく、猟師によって救出される話になっているのです。さらに、その経験を生かして、今度は祖母と2人で狼をやっつけるという、後日談も入れています。つまり、悪い狼にやられた経験を生かして、やり返した娘と祖母の話として提供されているのです。この後日談は初版から入っており、あとで書き加えられた話ではありません。要するに主人公の成長、イニシエーションを語る昔話としての『赤ずきん』が提供されているのです。というのも、グリム兄弟の『赤ずきん』の想定されていた読者層は貴族ではなく、市民だったからです」(同)

 このように伝承を改変し、良いしつけを意図した一般市民の近代的な価値観に合わせて描かれていたはずの物語が、21世紀に入ると教育現場から排除される可能性も出始めたというわけだ。それでは、スペインの調査団体は、こうした物語の本質を理解していないということなのだろうか?

「(調査団体が批判している)『男による女の救出』とか『女は男に頼らないといけない存在』といったメッセージは、そもそも『赤ずきん』にはないのです。フランスのロワール地方に流布している口承のバージョンでは、赤ずきんは狼に食べられるのではなく、知恵を絞って狼を出し抜きます。人狼(ブズー)に食べられそうになると『おしっこがしたい』と言って家の外に出て、逃げられないように狼によって足に結ばれた紐を、赤ずきんはスモモの木に結びつけて、一目散に逃げます。騙されたと気づいた狼は追いかけますが、間に合いません。ここでは赤ずきんは無知で騙されやすい少女などではなく、知恵を絞って狼を出し抜く賢明でたくましい娘です。つまり、生産者である中世の農民の姿が反映されているのです。近代の消費者としての女性には『おとなしく、従順で、かよわい』ジェンダーが求められますが、中世の生産者としての女性は『賢く、勇敢で、したたかな』ジェンダーが求められています。このように昔話を読むことで、ジェンダーは『時代によって社会によって変遷する』ということが学び取れます。それによって、その時代のジェンダー観に縛られることなく、『もっと自由に生きていいのだ』という、気持ちを子どもが感じ取ることこそが、本当のジェンダー教育ではないでしょうか。だから、今のスペインの動きは間違っていると思います」(同)

 グリム童話研究の第一人者から、手厳しい声が上がるスペインの判断。『昔話にみる悪と欲望――継子・少年英雄・隣のじい』(青土社)などの著作を持つ、千葉大学名誉教授の三浦佑之氏もこの動きに批判的だ。

「出版されたのは過去のものなんだから、それをあろうことか、図書館が進んで『ダメな本です』と、喧伝するのは非常に良くない。童話に限らず、図書館はあらゆる本を提供する場所で、利用者は読みたい本を自由に選ぶ権利がありますから、本来であれば、たとえ殺人を教唆するような内容であっても、過去の本はすべて公開するべきでしょう。その一方で、子ども向けの本は教育と密接に関わりますから、物語の内容が教育上よろしくないという理由で規制がかかったり、時代によって新しい装いを取ったりということは、しばしば行われてきました。特に戦後は、戦前までの教科書に使われていた物語が禁止とされました。太平洋戦争後、GHQによって検閲された『桃太郎』はいい例ですよね。このように物語を排除する、あるいは、残酷な表現はやめて、もっとやさしい内容に書き換えるといったことは、いつの時代も行われてきたと思います」

『桃太郎』は戦時中、その内容から軍国主義の普及とスローガンに利用され、「桃太郎が真珠湾を攻撃する」というアニメまで制作されたが、その結果として戦後は教科書から消えてしまった。書き換えに関しても今回、スペインで排除の対象となったグリム童話も、前述したようにさまざまな口承をグリム兄弟が市民道徳に合うよう“調整”し、不純な性描写や残酷描写を取り除いた結果、今でも世界的に親しまれる作品になった。また、現在、絵本や児童書として市場に出回っている昔話は、今の価値観にアップデートされたものがほとんどだろう。
「多くの昔話は作者がいるわけでもないし、決まった形が定められているわけでもない。そのため、口伝によってバリエーションが増えて、変わっていくんです。変わっていくというのは、面白く変わっていくこともあれば、前述の『桃太郎』のように政治的な意図をもって変えられることもあり、誰かの都合によって変えられることもある。しかし、基本的には、そういった流れを淘汰できる物語だけが残っていくわけですから、今回のスペインのように一方的に昔話を規制するのはあってはならないことです」(同)

 今回のスペインにおける動きは世界中で報道され、議論を巻き起こしている。しかし、このようなポリティカル・コレクトネス的な観点に基づく童話の規制運動は、90年代から欧米諸国でたびたび起こっていた。

 例えば1990年には米国・カリフォルニア州の教育関係者が『赤ずきん』をやり玉に挙げ、結果として2つの校区で禁止される出来事があった。問題視されたのは「おばあちゃんへの贈り物に含まれていたワイン」である。具体的には、未成年にアルコールを扱わせたこと、狼がワインを飲み干して顔を赤くする描写などが「教育上よろしくない」とされた。

 さらに米国では92年にも、グリム童話の名作『ヘンゼルとグレーテル』に対し「魔女の品位を貶めている」と、クレームがついた。しかも、声を上げたのは自称「魔女」の女性。いわく、「この物語は『魔女を殺し、その所有物を盗んでも問題はない』という考えを植えつける」「魔女は子どもを食べたりしないし、黒帽子に長い鼻といったイメージも実態とは異なる」とのこと。さすがに、この訴えは黙殺されたが、地元の小学校ではヘンゼルとグレーテルを殺人罪の被告とした模擬裁判が行われるなど、思わぬ反響があった。

 近年では2017年、SNS上で「#MeToo」ムーブメントが盛り上がる中、イギリスの主婦が『いばら姫』の、王子による目覚めのキスを問題視。「禁止しろとまでは言わないが、(自分の息子が属する)小学校低学年のカリキュラムからは除外すべき」と、提言して炎上騒ぎとなった。この『いばら姫』について、野口氏はこう語る。

「グリム版のキスによる目覚めには性的な意味ではなく、口から生命を吹き込むという意味があるのです。西洋昔話では『キス』は精神的な愛を意味し、肉体的な『性交』を意味するものではありません。フランスのペロー版『眠れる森の美女』では、王子はキスをせず、姫と性的関係を持ちます。イタリアのバジレ版『太陽と月のターリア』では、妻帯者の王は眠っているターリアを犯して妊娠させます。『あまりに美しいので、愛の果実を摘み取った』と詩的な文章で書かれていますが、要はレイプしたのです。このバージョンを問題視するのならまだしも、グリム版のキスを問題視するのは見当違いです。グリム兄弟は結婚前に妊娠出産する南欧の『眠り姫』バージョンを、結婚後に出産する北欧の『いばら姫』バージョンに改変したのです。それによってグリム童話は広く市民社会に受け入れられてきたのです」

 木を見て森を見ず、とはまさにこのことである。このように物語の本質を理解しないまま、表面的な部分だけを見て排除してしまうのは、文化の破壊ともいえるのではないだろうか?

「童話や伝承の中に今の常識では理解できない部分はあったとしても、それを拒否するとか、なくしてしまおうとすることは許されないでしょう。例えば日本には『瓜子姫』という、ウリから産まれた瓜子姫が天邪鬼に連れ去られて木に吊るされる、あるいは殺されてしまうといった内容の民話がありますが、この物語は今の時代からすると、完全に児童虐待であり、堂々と人前で話せるものではないと思います。しかし、『こんな小さな女の子がなぜ、むごたらしく死ななければならない?』といったように、その時代の中で少女の置かれていた立場といったことを考えるには、この物語はひとつのヒントにはなるかもしれない。もっと強引に言えば、現代の女性に対する性差別を考える、ひとつのきっかけを与えるかもしれません」(三浦氏)

 前出のスペインの調査団体も、6~12歳の小学生児童については「物語を批評的に分析する能力が備わっており、性差別的な要素に自ら気づくこともある。本はそういった学びの機会を与える」と、一定の理解を示している。だが、スペインで起きたような童話排除の動きは今後、世界にも波及するのだろうか?

「スペインの場合でも図書館がどういう経緯でこの判断に至ったのかは、ニュースなどでは詳しく書かれていませんが、子どもにどういう物語を与えればいいのかは人によって立場が違うし、『この本やめよう』となったら、その時点で図書館に入らないわけですから、ないとはいえない。知らないところで、見えない規制は、すでに行われているのではないでしょうか。図書館運営の中心になってくるのは司書ですから、彼ら/彼女らの判断によるところが大きくなりそうですね。とはいえ、誰かが決まった形を作るよりも、自然のなりゆきに任せるのが本来の昔話のあり方なんじゃないでしょうか? みんなが面白いと思ったものが後世に語り継がれていくわけで、『これはダメ、これはOK』というのは、誰かが上から決めるものではないと思います」(同)

 ポリティカル・コレクトネスを重視するのも、ひとつの時代の流れではある。しかし、それにかこつけて臭いものに蓋をするような対応は、過去だけでなく未来あるいは書物そのものをも冒涜する行為であることは肝に銘じておくべきだ。(月刊サイゾー7月号『ヤバい本150冊』より)

昔話が図書館から消える! 『美女と野獣』は性差別的な物語!? ポリコレ的にNGな童話の世界

――『赤ずきん』、『シンデレラ』、『いばら姫(眠れる森の美女)』……誰もが知っている定番の童話に、ポリティカル・コレクトネスの波が迫っている。4月18日付の「The Guardian」紙の報道によると、このほどスペイン・バルセロナにある複数の学校で、「ジェンダーに関する固定観念や、差別的な要素が含まれる本」を図書室から排除する動きが進んでいるという。

 ある学校では、委任を受けた調査団体が幼児向けの蔵書約600冊を精査。登場人物の発言内容と役回りを1冊ずつ調べ上げた結果、約200冊について「教育的な価値がない」との判断を下した。海外ニュースサイト「The Local」のスペイン版によると、その中には『赤ずきん』、『シンデレラ』、『いばら姫』、『美女と野獣』といった、メジャーなタイトルも含まれている。こうした童話で描かれる女性は「勇者である男性の救助を待っている存在」として描かれることが多く、それが男女のステレオタイプを助長してしまうと問題視されているようだ。

「幼児は身の回りに起こることすべてを吸収します。そのため、この時期に性差別的な固定観念に触れると、それを当たり前のものとして受け取ってしまう」というのが、調査団体の主張。しかし、その一方で前出の「The Local」が取材したある図書館職員は「古典文学には独自の価値があり、検閲は危険な行為。行き過ぎたポリティカル・コレクトネスは、守るべきフェミニズムの価値観をかえって傷つけかねない」と、警告している。

 本稿では、このようにポリティカル・コレクトネスで排除されていく童話の現状を、識者の意見を交えながら明らかにしていきたい。

スペインの判断は童話を理解していない

 まず、今回スペインで下された判断について、グリム童話の専門家はどのように考えているのだろうか? 梅花女子大学大学院教授・武庫川女子大学名誉教授・日本ジェンダー学会会長の野口芳子氏はこう語る。

「スペインでの出来事については、『何を考えているんだ!』という思いです。確かに、ジェンダーは時代や社会によって変わるもので、求められる『男らしさ』と『女らしさ』も変わっていきます。だからといって、過去のジェンダー観が反映されている物語や昔話を排除すると、ジェンダーを歴史的に理解する機会を子どもから奪うことになります」

 過去を否定するのではなく、理解することが重要ということだが、そもそもジェンダーに限らず、童話や昔話というものは常に身近な教訓の教科書でもあった。野口氏は『赤ずきん』を例に挙げ、次のように解説する。

「1697年にシャルル・ペローがまとめた『赤ずきん』が収録されている『教訓をともなった昔話』は、当時のフランス国王・ルイ14世の姪に捧げられたものです。ペローの『赤ずきん』は最後に赤ずきんが狼に食べられて終わりますが、彼は19歳の貴族の令嬢に向けて『若い娘が知らない男の言葉に耳を貸すと、食べられてしまうよ』という、自身の身を守るための『教訓(モラリテ)』が付いた『昔話』を書いたのです」

 時代がくだり19世紀、『グリム童話集』に収録された『赤ずきん』は、口承で語り継がれた性的な部分を削除し、より教育的な側面が強くなったという。

「ドイツのグリム兄弟に『赤ずきん』を伝えたのは、ハッセンプフルーク家という良家の娘たちでした。一家はフランス移民で、父親が州知事を務めるくらいでしたから、貴族向けに書かれたペローの昔話も知っていたはずです。しかし、グリム兄弟の『赤ずきん』の内容はペローとは異なります。グリム版では祖母と娘が食べられて終わるのではなく、猟師によって救出される話になっているのです。さらに、その経験を生かして、今度は祖母と2人で狼をやっつけるという、後日談も入れています。つまり、悪い狼にやられた経験を生かして、やり返した娘と祖母の話として提供されているのです。この後日談は初版から入っており、あとで書き加えられた話ではありません。要するに主人公の成長、イニシエーションを語る昔話としての『赤ずきん』が提供されているのです。というのも、グリム兄弟の『赤ずきん』の想定されていた読者層は貴族ではなく、市民だったからです」(同)

 このように伝承を改変し、良いしつけを意図した一般市民の近代的な価値観に合わせて描かれていたはずの物語が、21世紀に入ると教育現場から排除される可能性も出始めたというわけだ。それでは、スペインの調査団体は、こうした物語の本質を理解していないということなのだろうか?

「(調査団体が批判している)『男による女の救出』とか『女は男に頼らないといけない存在』といったメッセージは、そもそも『赤ずきん』にはないのです。フランスのロワール地方に流布している口承のバージョンでは、赤ずきんは狼に食べられるのではなく、知恵を絞って狼を出し抜きます。人狼(ブズー)に食べられそうになると『おしっこがしたい』と言って家の外に出て、逃げられないように狼によって足に結ばれた紐を、赤ずきんはスモモの木に結びつけて、一目散に逃げます。騙されたと気づいた狼は追いかけますが、間に合いません。ここでは赤ずきんは無知で騙されやすい少女などではなく、知恵を絞って狼を出し抜く賢明でたくましい娘です。つまり、生産者である中世の農民の姿が反映されているのです。近代の消費者としての女性には『おとなしく、従順で、かよわい』ジェンダーが求められますが、中世の生産者としての女性は『賢く、勇敢で、したたかな』ジェンダーが求められています。このように昔話を読むことで、ジェンダーは『時代によって社会によって変遷する』ということが学び取れます。それによって、その時代のジェンダー観に縛られることなく、『もっと自由に生きていいのだ』という、気持ちを子どもが感じ取ることこそが、本当のジェンダー教育ではないでしょうか。だから、今のスペインの動きは間違っていると思います」(同)

 グリム童話研究の第一人者から、手厳しい声が上がるスペインの判断。『昔話にみる悪と欲望――継子・少年英雄・隣のじい』(青土社)などの著作を持つ、千葉大学名誉教授の三浦佑之氏もこの動きに批判的だ。

「出版されたのは過去のものなんだから、それをあろうことか、図書館が進んで『ダメな本です』と、喧伝するのは非常に良くない。童話に限らず、図書館はあらゆる本を提供する場所で、利用者は読みたい本を自由に選ぶ権利がありますから、本来であれば、たとえ殺人を教唆するような内容であっても、過去の本はすべて公開するべきでしょう。その一方で、子ども向けの本は教育と密接に関わりますから、物語の内容が教育上よろしくないという理由で規制がかかったり、時代によって新しい装いを取ったりということは、しばしば行われてきました。特に戦後は、戦前までの教科書に使われていた物語が禁止とされました。太平洋戦争後、GHQによって検閲された『桃太郎』はいい例ですよね。このように物語を排除する、あるいは、残酷な表現はやめて、もっとやさしい内容に書き換えるといったことは、いつの時代も行われてきたと思います」

『桃太郎』は戦時中、その内容から軍国主義の普及とスローガンに利用され、「桃太郎が真珠湾を攻撃する」というアニメまで制作されたが、その結果として戦後は教科書から消えてしまった。書き換えに関しても今回、スペインで排除の対象となったグリム童話も、前述したようにさまざまな口承をグリム兄弟が市民道徳に合うよう“調整”し、不純な性描写や残酷描写を取り除いた結果、今でも世界的に親しまれる作品になった。また、現在、絵本や児童書として市場に出回っている昔話は、今の価値観にアップデートされたものがほとんどだろう。
「多くの昔話は作者がいるわけでもないし、決まった形が定められているわけでもない。そのため、口伝によってバリエーションが増えて、変わっていくんです。変わっていくというのは、面白く変わっていくこともあれば、前述の『桃太郎』のように政治的な意図をもって変えられることもあり、誰かの都合によって変えられることもある。しかし、基本的には、そういった流れを淘汰できる物語だけが残っていくわけですから、今回のスペインのように一方的に昔話を規制するのはあってはならないことです」(同)

 今回のスペインにおける動きは世界中で報道され、議論を巻き起こしている。しかし、このようなポリティカル・コレクトネス的な観点に基づく童話の規制運動は、90年代から欧米諸国でたびたび起こっていた。

 例えば1990年には米国・カリフォルニア州の教育関係者が『赤ずきん』をやり玉に挙げ、結果として2つの校区で禁止される出来事があった。問題視されたのは「おばあちゃんへの贈り物に含まれていたワイン」である。具体的には、未成年にアルコールを扱わせたこと、狼がワインを飲み干して顔を赤くする描写などが「教育上よろしくない」とされた。

 さらに米国では92年にも、グリム童話の名作『ヘンゼルとグレーテル』に対し「魔女の品位を貶めている」と、クレームがついた。しかも、声を上げたのは自称「魔女」の女性。いわく、「この物語は『魔女を殺し、その所有物を盗んでも問題はない』という考えを植えつける」「魔女は子どもを食べたりしないし、黒帽子に長い鼻といったイメージも実態とは異なる」とのこと。さすがに、この訴えは黙殺されたが、地元の小学校ではヘンゼルとグレーテルを殺人罪の被告とした模擬裁判が行われるなど、思わぬ反響があった。

 近年では2017年、SNS上で「#MeToo」ムーブメントが盛り上がる中、イギリスの主婦が『いばら姫』の、王子による目覚めのキスを問題視。「禁止しろとまでは言わないが、(自分の息子が属する)小学校低学年のカリキュラムからは除外すべき」と、提言して炎上騒ぎとなった。この『いばら姫』について、野口氏はこう語る。

「グリム版のキスによる目覚めには性的な意味ではなく、口から生命を吹き込むという意味があるのです。西洋昔話では『キス』は精神的な愛を意味し、肉体的な『性交』を意味するものではありません。フランスのペロー版『眠れる森の美女』では、王子はキスをせず、姫と性的関係を持ちます。イタリアのバジレ版『太陽と月のターリア』では、妻帯者の王は眠っているターリアを犯して妊娠させます。『あまりに美しいので、愛の果実を摘み取った』と詩的な文章で書かれていますが、要はレイプしたのです。このバージョンを問題視するのならまだしも、グリム版のキスを問題視するのは見当違いです。グリム兄弟は結婚前に妊娠出産する南欧の『眠り姫』バージョンを、結婚後に出産する北欧の『いばら姫』バージョンに改変したのです。それによってグリム童話は広く市民社会に受け入れられてきたのです」

 木を見て森を見ず、とはまさにこのことである。このように物語の本質を理解しないまま、表面的な部分だけを見て排除してしまうのは、文化の破壊ともいえるのではないだろうか?

「童話や伝承の中に今の常識では理解できない部分はあったとしても、それを拒否するとか、なくしてしまおうとすることは許されないでしょう。例えば日本には『瓜子姫』という、ウリから産まれた瓜子姫が天邪鬼に連れ去られて木に吊るされる、あるいは殺されてしまうといった内容の民話がありますが、この物語は今の時代からすると、完全に児童虐待であり、堂々と人前で話せるものではないと思います。しかし、『こんな小さな女の子がなぜ、むごたらしく死ななければならない?』といったように、その時代の中で少女の置かれていた立場といったことを考えるには、この物語はひとつのヒントにはなるかもしれない。もっと強引に言えば、現代の女性に対する性差別を考える、ひとつのきっかけを与えるかもしれません」(三浦氏)

 前出のスペインの調査団体も、6~12歳の小学生児童については「物語を批評的に分析する能力が備わっており、性差別的な要素に自ら気づくこともある。本はそういった学びの機会を与える」と、一定の理解を示している。だが、スペインで起きたような童話排除の動きは今後、世界にも波及するのだろうか?

「スペインの場合でも図書館がどういう経緯でこの判断に至ったのかは、ニュースなどでは詳しく書かれていませんが、子どもにどういう物語を与えればいいのかは人によって立場が違うし、『この本やめよう』となったら、その時点で図書館に入らないわけですから、ないとはいえない。知らないところで、見えない規制は、すでに行われているのではないでしょうか。図書館運営の中心になってくるのは司書ですから、彼ら/彼女らの判断によるところが大きくなりそうですね。とはいえ、誰かが決まった形を作るよりも、自然のなりゆきに任せるのが本来の昔話のあり方なんじゃないでしょうか? みんなが面白いと思ったものが後世に語り継がれていくわけで、『これはダメ、これはOK』というのは、誰かが上から決めるものではないと思います」(同)

 ポリティカル・コレクトネスを重視するのも、ひとつの時代の流れではある。しかし、それにかこつけて臭いものに蓋をするような対応は、過去だけでなく未来あるいは書物そのものをも冒涜する行為であることは肝に銘じておくべきだ。(月刊サイゾー7月号『ヤバい本150冊』より)

関ジャニ∞・安田章大、錦戸亮の退所コメントに「本当に許せない」とファン怒りのワケ

 関ジャニ∞・錦戸亮がグループを脱退し、9月30日をもってジャニーズ事務所を退所することが明らかになった。同5日にファンクラブサイトで発表し、会員向けの動画では錦戸を除く5人が今後に関する決意を語っていたという。ファンの間では、脱退の道を選んだ錦戸に対する批判が上がったほか、ジャニーズ事務所の公式コメントにも怒りの声が続出している。

 今年春頃から、一部週刊誌の報道によって脱退説がささやかれていた錦戸。本人たちはうわさを完全否定せずに活動を続けてきたが、錦戸、横山裕、村上信五、丸山隆平、安田章大、大倉忠義の6人で話し合いを続けた結果、3月末には脱退が決定したという。一大決心をした錦戸は「僕なりの形で、僕なりのエンターテイメントとは何なのかを、改めて考え、これからも発信し、恩返しできるよう努めていきたいと思います」「応援していただいた皆様には感謝の気持ちで一杯です」とコメントしている。

「ジャニーズ事務所公式サイトのJohnny's netとJohnny's webにもメッセージが掲載されており、事務所側は『このような決断に至りました経緯としまして、2018年、関ジャニ∞は長年苦楽を共にしたメンバーの脱退、 また、安田章大の大きな怪我により環境が大きく変化致しました』『それぞれが“自分達の人生”、そして、“これからの生き方”について考え、 メンバー同士、また、事務所スタッフとも沢山の話し合いを重ねて参りました』と説明しています。その結果、CDデビュー15周年の記念ツアー『十五祭』や、ジャニー喜多川社長(享年87)のお別れ会が無事に終了したタイミングでの発表になったそうです」(ジャニーズに詳しい記者)

 ファンは、昨年も渋谷すばるの脱退で大きなショックを受けただけに、今回の錦戸に対しては「関ジャニ∞にいて、できないことって何?」「5大ドームもやれる、ドラマや映画に主演できる。舞台だって音楽活動もできるのに、ここでできないエンターテイメントって?」「グループを存続危機にさせてまで脱退して、芸能活動を続けるなんて無茶。誰も支持しない」「こんな辞め方したら、芸能界ではやっていけない」と、辛らつな意見が続出している。

 一方、事務所の公式コメントで触れられた、安田に関する記述に引っかかりを覚えたファンも少なくないようだ。2017年に脳腫瘍(髄膜腫)の摘出手術を受け、昨年4月に背中と腰を骨折し、全治3カ月の大けがを負った安田について、ファンクラブ向けの文章でも「安田が万全ではない自分の身体で、いつまでこの仕事を全うできるのか…という問題に直面しました」と書かれていたという。

 これを見たファンは、「ヤスの病気が脱退の原因みたいに書いてほしくない」「ヤスはなりたくもない病気になって、ライブで全国回ったのに、『万全ではない自分の身体で』とか書かないで」「ヤスくんの病気は、亮ちゃんの脱退に関係なくない? 書き方がおかしいよ」「好きで病気になったわけじゃないのに。ヤスの人生を否定するな。本当に許せない」「ジャニーズの公式コメントに問題がある。本人のコメントで十分だから書き直して」「わざわざ公式文書の中に書くことではない」と、不快感を次々にあらわにしている。

 しかし対照的に、「騒いでる人たちは『ヤスのせい』と『ヤスのことが考えるキッカケの1つ』の区別をつけてほしい」「あれは亮ちゃんが書いたわけじゃないから。亮ちゃんを責めるのは絶対に違う」と、冷静に受け止める人も。いずれにせよ、自身に関する記述をめぐってファンが言い争いになることは、安田も望んではいないだろう。

 錦戸を含む6人の関ジャニ∞は『十五祭』が最後のステージだったそうで、11月からは残るメンバーで12年ぶりとなる47都道府県ツアーを開催する。大きなアクシデントもなく、ツアーを完走してほしいものだ。

日本全体が「在特会」のような現在、「嫌韓報道」に埋め尽くされた社会の危険性に気づいてほしい/安田浩一インタビュー

 日韓関係の政治的な緊張にともない、地上波テレビや大手出版社から出版される週刊誌といったメジャーな媒体で、両国間の対立や差別を煽るような報道が増えている。

 たとえば、8月27日放送『ゴゴスマ』(TBS系/CBCテレビ制作)では、中部大学総合工学研究所特任教授の武田邦彦氏が「路上で日本人の女性観光客を襲うなんていうのは、世界で韓国しかありませんよ」などと発言。さらには、「日本男子も韓国女性が入ってきたら暴行しなけりゃいかんからね」とヘイトクライムの扇動まで行った。

 状況は出版業界も同じだ。9月2日発売「週刊ポスト」(小学館)は<「嫌韓」よりも「減韓」、「断韓」を考える 厄介な隣人にサヨウナラ 韓国なんて要らない!>と題された特集企画を掲載。そのなかでは韓国の研究機関が出した「韓国の成人の半分以上が憤怒調節に困難を感じており、10人に1人は治療が必要なほどの高危険群である」とのデータを紹介したうえで、これと日韓両国の軋轢を強引に結びつける主張を展開した。民族差別を煽るヘイトスピーチ以外のなにものでもない。

 『ゴゴスマ』や「週刊ポスト」には批判が殺到し、このメディア状況を危惧する声も一部では起きているが、しかし、嫌韓の論調に賛同する声もネットでは大きい。支持者がいるためだろうか、報道のあり方は変わる兆候すら見えない。

 このまま排外主義を良しとする空気がエスカレートしたとき、その結果として行き着く先はどこなのか、日本における排外主義の高まりを取材し続けてきたジャーナリストの安田浩一氏に話を聞いた。

 

【安田浩一】
1964年静岡生まれ。週刊誌記者を経てフリーのジャーナリストに。『ネットと愛国』(講談社)で第34回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書は『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』(光文社)、『ヘイトスピーチ』(文藝春秋)、『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(朝日新聞出版)、『団地と移民』(KADOKAWA)など多数。近著は『愛国という名の亡国』(河出書房新社)。

躊躇いのない日常的な「差別」が始まっている
──『ゴゴスマ』や「週刊ポスト」の件など、ここ最近の報道を見ていると、完全にタガが外れてしまったように感じています。安田さんは現在の状況をどうご覧になっていますか?

安田浩一(以下、安田) 日本社会全体がかつての在特会(在日特権を許さない市民の会)と同じような方向に進んでいるような気がしてなりません。
今回の「週刊ポスト」のなかでは<「嫌韓」よりも「減韓」、「断韓」を考える>というフレーズが使われていましたけれど、「断韓」なんていうのはもともと、在特会をはじめとする差別集団がが街頭で訴えるときに使っていた文言です。それを「週刊ポスト」のようなメジャーな雑誌が使うようになってしまった。
ワッペンをつけたレイシストが街頭で叫ぶよりも、テレビや週刊誌のような主要なメディアが排外主義や対立を煽るような言葉を使うほうが、この社会には遥かに大きな影響力がある。実際、いまの日本社会はメディアが煽る空気感に引っ張られていっていますよね。

 

──メディアの報道による影響は、市井の人々の間で着実に出始めているように思います。

安田 そうですね。喫茶店や居酒屋でふいに飛び込んでくる文言に、背中の筋肉が強ばるような機会っていうのが、ものすごい増えたように感じます。
個人的な話ですが、少し前に、スーパー銭湯で湯船に浸かっていたら、30代前半ぐらいの若いグループが入ってきて、いきなり「朝鮮人がね」という話を大きな声でし始めました。すぐに話題が他に移ったので私と口論するには至りませんでしたが、やはり、心臓がドキッとした。一瞬、全身が強張りました。
飲み屋で話しているときに、少し声を落として周囲に聞こえないようにそういう話をすることっていうのは、昔からあったと思うんです。でも、この場合は違いますよね。周囲に人がいようといまいと、躊躇がなくなってしまっている。この言葉を使うことで誰かを傷つけているかもしれない、周囲で不愉快な思いをする人がいるかもしれない、というためらいがない。
そういった日本社会の空気をメディアがつくりだしてしまっている。メディアを通じて日がな、隣国に対する怨嗟や中傷にまみれた言葉が発信されればこうなるのも当然のことです。
そしてこれは、ある意味で、在特会など差別主義者たちの「実績」によるものかもしれない。ヘイトスピーチを繰り返すことで、とことん差別のハードルを下げてしまった。その結果がいまです。現在の在特会には力はないし、同会に限定すれば実態もないに等しいと思いますが、この社会状況なら彼らの存在意義なんてない。かつては路上で叫ばれていた言葉を、彼らより遥かに信用も影響力もある大手メディアが繰り返し用いているわけですから。恐ろしいことになってしまった。

 

差別の「正当性」を大声で触れ回るメディア
──新著『愛国という名の亡国』の「まえがき」にも<在特会などのわかりやすいレイシスト集団を必要としないほどに、日本社会の極右化が進んでいるようにも思えるのだ>という一文がありますが、悲しいことにその状況はここ数週間でますます進行したわけですよね。私は現在の日本が太平洋戦争の泥沼へと突き進んで行ったのと同じ道を歩んでいるように思えてならないんです。

安田 日中戦争時には「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」というスローガンありましたよね。「暴虐な中国を懲らしめよ」といった意味の四文字熟語ですけど、大日本帝国陸軍が掲げたこのスローガンをメディアがしきりに取り上げ、人々は「暴支膺懲」が書かれたのぼりを掲げながら街を練り歩いたわけです。
私はもちろんそれを実際の目で見たわけではないけれども、当時の熱狂っていまと似てるんじゃないかと思います。敵を設定し、その敵を潰すことを国民共通の目標にする。その盛り上がりの結果として行き着いたのが無謀な戦争でした。
いまは当時以上に平和への思いもあるだろうし、簡単に同じ道を辿るとまでは断言しないけれども、一定のリアリティをもって戦争というものを考えざるを得なくなってきたというのは事実です。

──当時と同様に、国民の憎悪に火をつけて扇動しているのは間違いなくメディアであり、彼らの責任は重いと思いますが、情報を発信している側にそういった想像力はないのでしょうか?

安田 「週刊ポスト」の件でいえば、「あの企画によって誰かが傷つくかもしれない」、もっと言えば、「その出版物によってこの社会のなにかを壊してしまうかもしれない」という想像力はなかったんだと思う。
そして、それは「週刊ポスト」編集部だけに限った話ではない。『ゴゴスマ』の製作スタッフもそうだったんじゃないか。あそこでなされた武田さんの発言に対して「なんでそんなに批判されるのだろうか?」と首を傾げているテレビ局関係者も少なくないと思います。自分たちが生み出すものがどんな未来につながっていくのか、といったことに対する鈍感さはメディアのなかで確実にあります。

 

──記事を読んだ人がどう思うかを想像することですよね。自戒も込めてそう思います。

安田 なんで私がこんな風に断言しているかというと、メディアの人と日常的に言葉を交わすなかで、「なにか問題ありますかね?」と問われることが少なくないからです。
メディア関係者と話していると彼らは「現在の日韓関係がこんなことになってしまったのは悲しいことだし、日本に住んでいる韓国の人、在日コリアンの人にとっても不幸なことだろう。でも、問題は向こうにもある」と、一見穏当な問いかけをしてくるわけですけど、そもそもこの考え方自体が間違っているわけですよ。
こういう考え方を話すことは、差別に「理由」があると大声で触れ回っているのと同じことだと思うんです。
差別に理由なんかあっちゃいけないんですよ。
差別に理由が存在するのだとしたら、黒人差別、アラブ人差別、はたまた海外諸国に私たちが行った際に起きるアジア人差別や日本人差別も認めざるを得なくなってくる。だから、理由をもうけることにとって差別を肯定することは、なにがなんでも認めちゃいけないんです。クズな人間に対して、そのクズっぷりを指摘することは構わないけれど、社会的な力関係を利用したうえで、相手が抗弁できない属性を叩くことは、絶対に許されない。

──関東大震災のときは、緊急事態に乗じて発生したデマによって「理由」が設定されて、おぞましい悲劇が起きました。

安田 1923年のちょうどいまごろ(注:取材は9月3日に行われた)には、あらゆる偏見とデマが渦巻くなか、「朝鮮人だから」という理由で多くの人が殺された。しかも、そのときの加害者はまともに裁かれていない。
それはいまでも続いています。なにか災害が起きるとツイッターなどを通じてデマが拡散されますし、しかも、最近は「どこどこで怪しい人を見た」とか、情報が具体的になってきている。いまはキーボードで文字を打っているだけですけど、その手に金属バットやゴルフクラブやナイフが握られる日が来ないとも限らない。
結局、日本社会は100年近く前の悲劇から真摯な反省をしていないわけですよ。

カウンターの動きはまだ、ちゃんとある
──社会状況がこうなったときにストッパーの役割を果たすべきは日本政府なのだと思いますが……。

安田 よく「草の根保守」とか「草の根右翼」みたいな言い方があるけど、肥料も水もなくて草が育つわけはなくてですね。肥料を与え、光を照らしているのは、間違いなく「国家」という存在ですよ。現在の状況に関して具体的に言えば、安倍政権です。メディアが自発的にキャンペーンとして始めただけ、とも思えない。
「外交の安倍」と言ってきたけれども、河野太郎外務大臣をはじめとした閣僚が分かりやすい画でもって国民の憎悪に火をつけ、その政府一丸となった大芝居に付き合わされることで、果たして日本社会は住みやすいものになったのかどうか。

 

──今後の社会のことを考えると、怖くて仕方がなくなります。

安田 ただ、冷静に状況を見ていけば、カウンターの動きはちゃんとあるんですよね。現実社会でも、あるいはネット上でも、一色には染まっていない。そこはまだ気持ちを絶望から救い出してくれる部分だと思います。
少なくとも、私の本を出してくれる出版社はあるし、こうして話を聞いてくれるメディアもある。そして私だけじゃなく、少なくない書き手が現状に対する怒りを発信している。今回の「週刊ポスト」の件もそうですし、少し前の「新潮45」(新潮社)のときも発言する人はいたわけで、そういったところで日本社会すべてが同じ色に染まることはギリギリのところで防げている。

──インターネットもそうですし、地方紙やラジオなどのメインストリームでないメディアでは、現状に対する違和感がきちんと語られています。

安田 そういう活動には大きな意味がありますよ。たとえば、私が本を出したり取材を通じて発言することによって、私自身はネトウヨからボロクソに叩かれるかもしれない。でもこうやって立ち位置を鮮明にすることが大事なんじゃないかと思っています。もしかしたら、少なくない人に「勇気」を与えることができるかもしれない。

──勇気ですか。

安田 いまの状況への違和感を口に出して言えない人、いまの状況を怖いなと思っている人に、「仲間はいるんですよ」ってことを伝えることができる。
もっと言えば、いまの日本で沈黙を強いられ、言葉を発する機会さえ奪われているマイノリティの人々に対してですね。
いま、在日コリアンの友人と話をすると、口を揃えて「しんどい」と言う。これまでは、ヘイトスピーチが飛び交うなかでも「在日特権なんかあるわけねえじゃん!」といった感じで、内心はしんどくとも、表面上は笑い飛ばすことができていた人もいた。もちろん、深く傷ついている人はいっぱいいましたよ。でも、いま余裕のある人などいない。多くの人が恐怖を感じている。なにかをしたわけではないのに、単なる「属性」だけでここまで息苦しさと絶望を与えてしまう社会って、いったいなんなのかなと思いますよね。
そんな彼ら彼女らを矢面に立たせてはいけないと思います。矢面に立つべきは、叩かれたってなんの痛みも感じない、なんならそういった反発を小銭に変えられるかもしれない、私のようなジャーナリスト、メディアの人間、あるいは評論家、そういった人たちがあらゆる機会に発言していけばいい。流れに抗っていけばいい。ときには炎上すればいい。そして、そういった気概をもっている人は、実は少なくない。
そういった人たちの活動が制限され、「結果的に韓国を利するようことを言うのは控えてくださいよ」「安倍政権の批判はやめてください」といった注文が来るようなメディア状況が当たり前になったらいよいよお終いですが、いまはまだギリギリそうなってはいない。

──まだ希望はあるわけですよね。

安田 希望をすべて失ったら、家で布団かぶって寝ているしかない。分かってくれる人もきっと増えてくれるんだろうなっていう確信をどこかで抱えながら仕事を進めたいと思っているし、発言したいと思っています。
そういった美しい話がどこまであるのか疑問に思ってしまうこともあるけれども、諦めずに発言し続けることで同じ思いを抱えてくれる人が増えてくれるかもしれないという志は捨てずにいたいのです。

(取材、構成、撮影:編集部)

 

きゃりーぱみゅぱみゅ、「苦手だな~」アレクサCMの独身男性に苦言も賛否の声!

 きゃりーぱみゅぱみゅがツイッターであるCMに苦言を呈し、話題になっている。

 きゃりーは3日にツイッターを更新し、「アレクサのCMの息子みたいな男苦手だな~」「白滝の立場よ」と、現在放映されているAmazonのAIアシスタント「アレクサ」について苦言を呈した。 


 現在放映中の「アレクサ」のCMといえば、一人暮らしと思われる男性が、「母さんの味にならないよ」と、肉じゃがを作るのに失敗。「アレクサ」を通じたビデオ通話で母親にアドバイスを求めたところ、カレールーやしょうが、ケチャップなどを入れるように指示される。男性が指示通りのものを入れると、肉じゃがはカレーに変身する。

 そんな中、母親は「で、今度はどんな子なの?」と、これから家に遊びに来るらしい女性のタイプを訪ね、男性は呆れ笑いをしつつ、「アレクサ、通話を切って」と通話を切り、「デートのプレイリストかけて」と、彼女の訪問を歓迎する――というもの。

 きゃりーは、この男性を苦手と表現したのだが、このツイートの反響は大きく、「分かる!」「結婚したらめっちゃ母親と比べそう」「まず『肉じゃがが母さんと同じ味にならないよ』にドン引き!」といいった賛同の声が殺到。

 こういったファンの声に対し、キャリーは「マザコ、、、」「お母さんにありがとうも言えない奴が彼女大切にできる気がしません」とぶった斬っていた。

 しかし、その一方でネット上では、「そんなこと言ったらAmazonからの心象悪くなりそう」「芸能人が企業のCMに苦言って…」という声も集まってしまっていた。

 きゃりーが声を上げる以前から多くのツッコミが集まっていた「アレクサ」のCM。違和感を抱えていたネットユーザーは少なくないようだ。

辻希美、三男のファーストシューズ購入に非難轟々「萬田久子に貰ったものがあるだろ!」

 タレントの辻希美が4日、自身のブログを更新した。

 結婚生活13年目に突入した辻。現在はYoTubeチャンネルも開設し、順調に登録者数を伸ばしている。

 そんな辻はこの日、「西松屋」というタイトルでブログを更新し「今日は西松屋に行ったよ。半袖が300円以下で買えた。嬉ぴっ 後は幸空がつかまり立ちができるようになってきたから柔らかい靴も買ってみたよ。12㎝の小さな靴か、か、か、かわぇぇ」とつづった。

 最近つかまり立ちができるようになった三男のために、ファーストシューズを用意した辻だが、この投稿に対してネット上からは厳しい声が噴出している。

「ファーストシューズが西松屋かぁ…」

「安い靴はやっぱり硬いよね。もっとちゃんとした靴買ってあげたらいーのに」

「自分にはお金かけるのにねー」

 こうした声のほかに、「なにより、萬田久子さんに貰ったベビーシューズがあるだろ」「萬田さんに失礼だと思う」というツッコミもあった。というのも辻は以前、三男が産まれた時に女優の萬田久子からエルメスのシューズが贈られたことをブログで明かしていたからだ。

 萬田からのプレゼントの存在を忘れてしまったのか気に入らなかったのか。いずれにしても、萬田への恩義を微塵も感じさせない無礼(?)な投稿をネット民も見過ごせなかったようだ。

川崎麻世、ジャニーさんのお別れ会報告も思わぬ部分に批判殺到のワケ

  川崎麻世が自身のブログで、ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川氏(享年87)のお別れの会に出席したことを報告した。川崎は、ジャニー氏に才能を見いだされ、1976年にジャニーズ事務所入りし、89年に退所していた。

 7月9日に逝去したジャニー氏を悼んで、4日に東京ドームで行われた「お別れの会」に出席していた川崎だが、同日に更新したブログで、「ジャニーさんのお別れ会で最近一番嬉しかったこと」というタイトルのエントリーを投稿。

 その中で、「ジャニーさんのお別れ会に行って来ました」と報告し、「元ジャニーズの仲間達と記念写真!こんな事はもうないからね」と、元光GENJIの大沢樹生、佐藤寛之、元シブがき隊の布川敏和らと撮影した写真を公開した。

 川崎はお別れの会について、「東京ドームに入った瞬間カラフルな祭壇が目に入った」と写真付きで振り返り、ジャニー氏について、「ジャニーさんにはほんとに感謝の気持ちでいっぱいです そして懐かしい兄弟達と再会出来てほんとに嬉しかった」と感慨深そうにコメント。「顔見知りの現役のジャニーズ達 初めて逢う現役ジャニーズの皆さんにも逢えジャニーさんの沢山の息子達が一緒になれた素晴らしい会だった」とつづっていた。

 しかし、川崎がアップ目の写真後方真ん中に立つ元ジャニーズJr.の小坂まさると思われる人物がくわえ煙草をしていたこともあり、ネット上では、「お別れ会なのに…ガラ悪い」「こういう場で煙草吸ってるのどうかと思う」「煙草吸うなとは言わないが感じ悪い」という苦言が集まってしまっていた。

 川崎は懐かしさひたっていたようだが、集合写真に写り込んだ一部分に対して非難が飛び交うとは思わなかっただろう。