天皇陛下の生前退位により、30年の歴史を終える「平成」。5月1日から新元号「令和」に改元される。バブルの崩壊とともに始まった平成を、各紙がさまざまな視点から回顧している。
筆者は2005年(平成17年)から、主に刑事裁判を見つめ続け、傍聴ライターとして稼働してきた。本記事では、これまで傍聴してきた刑事裁判を1年に1件ずつ紹介しながら、平成の事件を振り返ってゆきたい。
【平成の事件04】京都・神奈川親族連続殺人事件
<2008年傍聴@京都地裁>
松村恭造(25=逮捕時)は2007年1月、京都で親族を滅多刺しにし、鈍器で殴り殺害。現金とキャッシュカードを奪って逃走。金は風俗で全て使い果たす。
その後、神奈川の別の親族に金の無心をするが断られる。翌日深夜、この家に侵入し親族を撲殺。現金1万円の入った財布、ライターを盗み、遺体を押入れに入れ、布団に掃除機を入れて逃走。その日に母親に電話をかけ1件目の犯行を告白し、逮捕となった。
松村は常日頃から気に入らないことがあると容易に暴力行為を働き、その度父らに事後処理をさせていた。暴力事件を二度起こして高校を中退。家庭でも暴力を振るう。父に勘当されたのち養豚場で住み込み働くが家畜を殴り解雇に。仕事と住む場所を失い、親戚に金を無心するなかで事件を起こした。
一審公判の最終陳述で松村は反省の弁を述べるどころか、自己の行為を正当化する発言に終始する。
「今回の出来事の原因は、自分の中のエリート意識です。自分は特別な存在だから何をやってもいい、という思いが根底にありました。しかし、そう思うことは、必ずしも間違っているとは言えません。というのも私は今まで対等に付き合うに足りない相手ばかりに囲まれてきたからです。同世代の人間と比べ、私はダントツに理解力がありました。つまり私は1を聞いて10を知る事ができるのです。1を聞いて1を知る事しかできない同世代の連中とは、まるで会話が成立しなかったのです」
このように傍聴席で松村を見守る同級生をこき下ろした。そして批判は同級生のみならず、彼が住んだ関西におよぶ。
「関西の人も街も言葉も大嫌いです。東京を知ってから関西人は全て嫌悪の対象になりました。関西にいる自分は間違った自分なのです。東京にうまれ、東京で教育を受けた私ですが、それでもこれだけ引け目を感じているのだから、関西に生まれ、関西に住む関西人どもは、もっと劣等感を感じるべきなのです。『私は○○だからガラがいい』などとお互いに足を引っ張り合う関西人、バカの集まりです。(略)私は死刑になると思いますが、私が死んだら、東京の神田川に遺骨をまいてほしいです。死んだあとも東京にいれるなら本望です。
私はこの裁判で1つも嘘はついていません。こいつら検察は最初から金目的だったと言っていますが、嘘つきはこいつらの方です。私は、世間に貸しはあっても借りはないんです」
同年3月、京都地裁は松村に死刑を言い渡した。控訴をするも、のちにこれを取り下げ確定。2012年8月、誕生日に死刑執行。
【平成の事件05】愛知・クレーン殺人事件
<2009年傍聴@名古屋地裁一宮支部>
仲島弘将(32=逮捕時)は叔父(57=当時)に対し、積年の恨みを晴らそうと、08年9月1日夜、叔父を六角ナットの装着された1300グラムの鉄棒で数回殴打、さらにワイヤーを首に巻き付けクレーンで吊り上げ、頸部圧迫により死亡させた。
現場は叔父の経営していた工作機械製造会社。仲島の一家と叔父には祖父の遺産を巡り確執があった。事件から約15年前、叔父が仲島の母親に暴力をふるい加療約2週間の大怪我を負う。事あるごとに叔父から「貧乏人が近づくと貧乏が移る」など貧乏呼ばわりされた仲島は恨みを募らせ犯行に及ぶ。
長きに渡る家同士の確執により起こったクレーン殺人。犯行後現場を離れた仲島は、叔父の息子に電話をかけ「おもしろいものがある。工場に見に来いよ」と現場に呼び出し、クレーンに吊り下げられ死亡している叔父の姿を見せた。
「執行猶予にしてもらえんかねぇ。わたしもだいぶ歳だから」と情状証人として出廷した祖母はまさかの執行猶予を望むが、判決は懲役16年。
【平成の事件06】秋葉原通り魔殺人事件
<2010年傍聴@東京地裁>
2008年6月8日午後0時30分を過ぎた頃、当時歩行者天国だった東京・秋葉原の中央通りと神田明神通りの交差点に、信号無視のトラックが突入。運転手はトラックを停め、外へ。持っていたダガーナイフで通行人らに次々と襲いかかった。この事件で7名が死亡、10名が傷害を負った。
逮捕されたのは静岡の工場で派遣社員として働いていた加藤智大(25=逮捕時)。「生活に疲れた。人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」など供述していた。事件から約1年半後に開かれた一審公判で加藤は起訴事実を認めていたが、被害者やご遺族など40人以上に対し証人尋問が行われた。
加藤は法廷で感情を表に出す事はほとんどなく、被告人質問でも「~であると思います」「~だったんだろうと思います」という語尾を多用し、重要なことは「覚えていません」と答えていた。
数少ない感情の発露は、加藤の友人が証人出廷し、彼の入院時にお見舞いに来てくれた時のことを語った時。この時加藤は笑みを見せ口元を手で押さえていた。そして、目の前で夫が刺されたという女性が尋問で最後に加藤へ「アナタのやったことは許される事ではないが、何かひとつでもいい事をしていってほしい!」と訴えたとき。この時加藤は目元を何度も袖で拭う仕草を見せた。
一審判決は死刑。加藤側が控訴したが2012年に棄却。上告するも棄却。2015年に死刑が確定した。確定後の彼は、拘置所内で絵を描いているが「鬱」という字でアイドルマスターのキャラクターを描きあげるなどその特異な作風が時折騒がれている。
次回は2011〜2013年の傍聴を振り返る。