小室哲哉が『週刊文春』の不倫報道をきっかけに、引退を表明してしまった。会見で語ったところによれば、くも膜下出血に倒れた妻・KEIKOの介護を長年続け、そのストレスもあったのか、2年前にはC型肝炎に侵され、回復したと思ったら今度は「突発性の難聴に近いもの」になり、ちょうどその頃から、自身の音楽の出来にも「期待に応える音楽制作のレベルなのかな」と疑念を持ち始めていたという。このタイミングでの不倫報道を、小室は「週刊文春さんに報じられ、僕から言うと戒めみたいなことなのかな」と位置づけてしまった。「文春さんが起爆剤になっていただいた」との言葉が重い。
不倫報道が出てから会見までには中1日ほどの時間があったが、「病と戦う妻がいるのにもかかわらず小室は……」との世間の声が、「病と戦う妻を支え続けていたのに週刊文春は!」にたちまち変容していった。どちらが正しい、とは思わない。両方間違っている、とも思わない。なぜって、「長年の介護」と「不倫」を天秤にかける行為に、外から参加できるはずもない。外から参加している人を見ると、「え、どうして参加できるの?」と思う。そんなことは本人にしか分からないし、会見を見る限りでは、本人でさえも分かっていない様子が見受けられた。あらゆる不倫について、外の人間が許容すべきでもないし、逆に、外の人間が許容しないと宣言するべきでもない。第三者が判決を下す問題ではない。
犯罪ではない人様の不倫を吊るし上げる行為を、商売のために繰り返してきた『週刊文春』への糾弾が突如盛んになっているが、これまでの不倫報道では、雑誌に対する糾弾はここまで本格的なものにはならなかった。大きな功績のある人の歩みを止める結果を作ってしまったからと、糾弾がたちまち膨れ上がっている。人様の不倫なんてわざわざ記事にするなと思う。だから、たとえば小室の記事の前週に報じられた「フジ・秋元優里アナ『荒野のW不倫』」も糾弾すべきではないと思うし、あの報道によって全番組を降板させられた秋元アナに対しても、仕打ちが酷すぎる、との感想を持つ。がさつに比べるが、秋元に対して、小室と同じような同情を向ける人は少ない。小室はすごくて、秋元アナはすごくないから、なのか。片方は介護疲れだからしょうがなくて、片方が子供を置いて不倫しているからダメ、なのか。不倫報道を考える上で正しい尺度とは何か。そもそも、尺度などあるのか。ない、と思う。
かつて、不倫発覚後に会見を開いたベッキーに対し、質問を一切受け付けない会見だったことも手伝い、「謝罪っぷりが足りない」「ちっとも反省していない」との声が高まり、彼女は芸能界から半ば追いやられることとなった。本来、不倫が発覚したからといって、テレビの前で国民に向けて謝罪をする必要などない(公益性のある人物はその限りではない)。ベッキー以降、不倫した事実ではなく、「ご迷惑、ご心配をおかけしたこと」を理由にテレビの前で謝ることが慣例化しているが、あれを繰り返させた結果、どうなったかといえば、人様の不倫が「付帯条件」によって判別されるようになった。つまり、不倫が発覚した後、彼・彼女の周囲にどういった要素があるのかを探り、世間がその不倫に判決を下す。
そこで導かれるのが、
●すごい人ならば、不倫してもかまわない。
●なんかこう、最近、調子乗ってる人ならば、不倫は許さない。
●妻が許しているならば、まぁ、しょうがない。
である。
芸能人の不倫が発覚すると、多くの場合は男性よりも女性が成敗される。ベッキーだけではなく、自宅に男性を連れ込んだ矢口真里のことを思い出せば、彼女らは仕事をほぼ丸ごと奪われ、一度失った勢いを未だに取り戻せずにいる。その一方で、男性お笑い芸人がその手の案件に引っかかれば、彼らは「オフホワイトではなくグレー」などと、つまらないネタのひとつとして活用し、「男ってそういう生き物だから」をまぶしながらうやむやにする。伝統芸能方面ではお得意の「女遊びは芸の肥やし」とのムードにすがり、それがうまく使えなければ、謝罪会見で「拍手と笑いが起こった」ほどの話術を披露したり、「妻の神対応」で乗り切ったりする。三遊亭円楽や中村橋之助の不倫が、それである。或いは、渡辺謙の不倫が発覚すると、友人でもある小倉智昭は「世界の渡辺謙だからですよ」とかばった。女性の不倫はこうはならない。たとえば、斎藤由貴や藤吉久美子などには「色気がありすぎて」的なオヤジ目線のジャッジが顔を出すこともあるが、どんな付帯条件があっても、しょうがないよね、が顔を出しにくい。
『週刊新潮』(2016年3月31日号)の記事「『乙武クン』5人との不倫」によって、不倫が発覚した乙武洋匡は、直ちに自身のウェブサイトに謝罪文を掲載した。なぜか、その謝罪文には、妻の謝罪文が併記されており、「このような事態を招いたことについては、妻である私にも責任の一端があると感じております」と妻に言わせていた。彼の不倫報道、そして予定していた参院選出馬を辞退するとの経緯をふまえ、テリー伊藤は「それよりも、彼の教育者としての才能を摘むほうが、日本にとって痛手だと思う。」(夕刊フジ・2016年4月13日)と擁護した。不倫の擁護として「日本にとって痛手」が出てくるのは実に奇妙だったが、今回、それに近い言葉が、少なくとも自分のTwitterのタイムラインにはたくさん流れてきた。
このところ、不倫報道をはね除ける手段として、配偶者の理解を粗造するのがブームだった。そこに、芸事とはこういうものという“伝統芸”が抱き合わされたりすると、最終的にはその人に価値があるかどうか、で問われてしまう。この査定方法をちっとも理解しないが、こうした「すごい人」の回避方法に乗っかれば、小室自身は今回の報道を乗り越えられたはずである。だって、小室は「すごい人」だから。うやむやにして、そのままにしておけば静まった。でも彼は、そのままにせず、辞めてしまった。会見の全文を読めば、いくつもの要素が彼にのしかかっていたことがわかる。ゲスの極み乙女。の川谷絵音が今件を受けて、「病的なのは週刊誌でもメディアでもない。紛れも無い世間」とツイートしているが、世間がいきなり文春を叩き出したのは、その「病的」に気づかないようにする個々の回避術の集積にも思えた。つまり、「日本にとって痛手」的な言い分に乗っかった。それはズルいと思う。
「政治家は公人なのでまだしも、タレントの場合はどこまでが許容範囲なのか。プライバシー侵害の恐れもあるだけに、弁護士や法務部と相談しながら慎重に進めています」
(新谷学・「週刊文春」編集長「出版社の徹底研究」『創』2018年2月号)
週刊文春は不倫探索をやめないと思う。なぜって、週刊文春は「週刊文春デジタル」で動画配信を始め、この動画を収入源の柱の一つにしようと画策しているから。スキャンダルの当事者への直撃取材の模様を、テレビのワイドショーなどに対し、1番組1本10万円の使用料で提供するビジネスを展開し始めている。そのために編集部内にデジタル班を設けたという。不倫ネタで部数稼ぎやがって、との声もあるが、部数など稼げていない。2016年上期に43万部だった平均実売部数は、17年上期には37万部に落ち込んでいる(日本ABC協会調べ)。
『創』2018年2月号の特集「出版社の徹底研究」に掲載されている『週刊文春』の新谷学編集長のコメントを拾うと、「確かに動画には手応えを感じますが、同時にリスクも大きい。無軌道にエスカレートしていくと、かつての写真週刊誌と同じになりかねない。政治家は公人なのでまだしも、タレントの場合はどこまでが許容範囲なのか。プライバシー侵害の恐れもあるだけに、弁護士や法務部と相談しながら慎重に進めています」とある。しかし、竹林で密会していたことを報じた「フジ・秋元優里アナ『荒野のW不倫』」の記事の翌週に、この事案を茶化したタイトル「竹林でチクリ」というタイトルのワイド特集を設け、その特集のイントロ文を「竹林でチチクリあっていた彼らは今回登場しません。あしからず」としているのを見かけると、「慎重に進めています」はひとまずウソである。
不倫なんて、外の人間は放置し、当事者間で議論すればいい。それなのに、「すごい人」が報道によって苦しんだ時に、いよいよ、だから週刊誌は、と結託するのは、都合がよろしくないかと思ってしまう。「あの人はOK、この人はダメ」「こういう境遇ならOK、この程度ならダメ」を続ける限り、文春のみならず週刊誌は誰かの不倫を雑誌媒体としての栄養補給のように続けていく。「この人はどう?」と挑発してくる。小室さんかわいそう、ではなく、不倫報道全般をどうでもいいよ、に持ち込まないと、誰かが砲撃にやられ続ける。不倫を、人のレベルや状態でジャッジすべきではない。だから、小室を引退させるなんて、との怒りには乗っかれない。それだと、同情できる事情もなく、小室みたいにすごくない人ならどこまでも叩いてもいい感じ、が残る。小室みたいにすごい人なんてほとんどいないんだから、小室だろうが、秋元アナだろうが、ベッキーだろうが、宮迫だろうが、外から、芸能人の不倫なんてどうでもいいよと、均等に捨てるべきだ。