「肌の色、髪の質が異なる人形たち」
新年早々、ダウンタウン浜田雅功の黒塗り(ブラックフェイス)問題が大揉めに揉めている。大晦日恒例の『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ系)で浜田がアメリカの黒人俳優エディ・マーフィーに扮した際、顔を真っ黒に塗って登場した件だ。
ブラックフェイスに関して私は過去に何度も書いている。ニューヨークの黒人地区ハーレムに長年暮らす者として、黒人を家族に持つ身として、いろいろ思うところがあるからだ。最近では米版ヴォーグ誌が掲載したスーパーモデル、カーリー・クロスの芸者ルック問題についての記事「白人モデルのゲイシャ写真が炎上した本当の理由~”文化の盗用”と”ホワイト・ウォッシュ”」でブラックフェイスについても詳しく言及している。
実のところ、今回は私が以前から作っている「黒人の人形」について書く予定だった。奇しくもブラックフェイス問題とタイミングがかちあってしまったので、両者をからめて書いてみたい。
黒人の子供たちの「肌色」クレヨン
私はかつてハーレムYMCAのアフタースクール・プログラム(学童保育)で働いていた。2000年から始めて7~8年ほど続けただろうか。場所柄、通ってくる子供のほぼ全員が黒人かラティーノだった。キンダー(5歳児)から中高生までいたが、私は主にキンダーと小学生のコンピュータ室を担当した。といってもワードやエクセルなどを本格的に教えるのではなく、放課後の自由時間の一環として子供用のソフトで遊ばせることが多かった。
当時、女の子に人気のあったソフトが「バービー」だった。着せ替え人形式にヘアスタイルやドレスを選んでいくのだが、最初にバービーの肌の色と目の色を選ぶ。毎日、何人もの女の子が遊ぶ様子を眺めているうちに、あるパターンに気付いた。黒人の少女たちはバービーの肌の色に白でも、いちばん濃い茶色でもなく、中間の薄い茶色を選ぶことが多かった。少女本人の肌の色をかならずしも反映していなかった。きれいな濃いチョコレートブラウンの肌をした少女もカフェオレ色を選ぶのだ。
コンピュータに飽きた子供には用意してある塗り絵をさせることもあった。この時も日本人の私には思いもつかない事象があった。キンダーの女の子は塗り絵のキャラクターの肌を塗るとき、何色もあるクレヨンと自分の小さな手の甲の色を比べ、いちばん近い色を選んだ。別の女の子、髪をいつも見事な長いブレイズに編んでいた10歳のその子は、人魚の塗り絵をしながら私に滔々と “レクチャー” をしてくれた。
「人魚はね、金髪じゃないの。人魚はわたしとおなじブラックなの」
そう言いながら、人魚の肌を自分と同じ濃い茶色で塗った。
ブラック・イズ・ビューティフル
これらのエピソードは黒人の少女や女性たちと肌の色との非常に深いかかわり、そしてこだわりを示している。アメリカでは歴史的な人種差別のスティグマのひとつとして、濃い肌の色は今もタブーとされているのだ。
それを示す有名な実験がある。5人の子供のイラストが描かれたボードを用意する。5人の肌の色は白・ベージュ・薄い茶・やや濃い茶・濃い茶と5段階になっている。幼児にイラストを見せ、「どの子がいちばんかわいい?」「どの子がいちばん醜い?」などと質問する。多くの子供が「かわいい」「賢い」などポジティブな言葉には白かベージュ、「醜い」「意地悪」などネガティブな言葉には茶色を指す。
白人の人形と黒人の人形を並べた実験でも結果は同じだ。
Q:「醜い人形はどっち?」
A:「こっち」(黒人の人形を指す)
Q:「なぜ?」
A:「黒人だから」
Q:「どっちの人形があなたに似てる?」
A:「……わたしに?……」
女の子はおずおずと黒人の人形を指差すが、触ろうとはしない。その時の女の子の辛そうな表情。なんと残酷な実験だろうか。
この実験からも分かるように、黒人は幼い子供ですらダークブラウンの肌を厭う。かつての白人による黒人支配の残照〜白は美しい、黒は醜い〜であり、すなわち自己否定、自己嫌悪だ。この歴史的な呪縛から解かれて自分たちの本来の美を自覚しようという主張が、有名な1960年代の黒人運動スローガン「ブラック・イズ・ビューティフル」を生んだ。
この考えを日常生活の中で娘に教える母親も多い。「あなたのブラウンの肌はとってもきれい!」「あなたのクルクルの髪もとってもかわいい!」と繰り返すのだ。黒人の子供の肌の色と髪をテーマにした絵本がたくさん出されているのも、子供たちが歴史の負の遺産に押しつぶされてしまわないようにという黒人たちの努力だ。そうでなければ実験に登場した子供たちのように幼くして心に傷を負い、自己肯定ができなくなる。 「人魚は金髪じゃない」と言い放った女の子は、おそらく家庭でこうしたことを教わっていた時期だったのだと思う。
黒人社会でそうした努力がなされているにもかかわらず、今も人気のある黒人女性セレブの多くはライトスキンだ。 ビヨンセ(シンガー)、アリシア・キーズ(ミュージシャン)、ハル・ベリー(女優)、カーディ・B(ラッパー)…… 彼女たちが一流のエンターテイナーに上り詰めたのは、もちろん飛び抜けた実力があってこそ。そこは間違いない。しかし黒人女性の場合、肌の色が人気に大きく作用する事実も否めない。
自分の手と同じ色のクレヨンを選んだあの5歳の女の子は、当時はまだ「肌の色は薄いほうが美しい」も、「黒人のありのままの姿こそ美しい」も意識しておらず、ごく自然に塗り絵を自分自身の反映ととらえていたのだ。すでに10代となっているはずのあの女の子は今、自分の肌の色についてどう感じているのだろうか。
「わたしみたい!」な人形
「衣装はアフリカ産の生地」
「マミー! これ見て!」と女の子がぱあっと笑顔になって母親を振り返った。私が作ったヒジャブの人形に目ざとく気付いたのだ。アフリカン・アメリカンの7~8歳の女の子だ。肌の色はかなり明るい。髪は花柄のヒジャブをかぶっているので見えない。同じくモスグリーンのヒジャブをかぶった、まだ若いお母さんも「あら、まぁ!」と言いながら人形を手に取った。
年末にニューヨークのアメリカ自然史博物館で開催された「クワンザ」イベントでのできごとだ。クワンザはアメリカ黒人の祝祭。クリスマス翌日の12月26日から1週間続く。毎年恒例の同博物館でのイベントでは、アメリカ黒人が賢く豊かに生き抜くための7つの教えがアフリカン・ドラムの演奏とともに語られ、ゴスペル、マーチングバンド、アカペラの歌唱や演奏で盛り上がった。会場には黒人アーティストによる絵画、Tシャツ、アクセサリー、コスメなどのブースがたくさん出るが、そこに私も人形のブースを出せることになったのだった。
「アメリカ自然史博物館でのクワンザ・イベント」
イベントにかかわっている友人からブースを出さないかと声を掛けられた時、正直、気後れがした。黒人による黒人のためのイベントで、アジア人が黒人の人形を売ることを人はどう思うだろうか。「文化の盗用」と気分を害する人もいるのではないか。
しかし、それは杞憂だった。イベント開始直前、ブースの準備をしている最中に、天然石のブースを準備していた黒人女性が「わぁ! かわいい!」「この人形、私を呼んでるわよ! 買わなくちゃ!」と、いきなり買ってくれたのだ。これには驚いた。人形はアフロヘアを「アフロパフ」と呼ばれる丸いふたつ括りにしたもので、見方によってはその女性に似ていると言えなくもなかった。
いったんイベントが始まると黒人客はステージに集中し、ブースにはこの日たまたま博物館を訪れてイベントに行き当たった観光客が大勢やってきた。ほとんどが白人で、黒人の人形に関心を示す人は少なかった。人形はYMCAの少女の塗り絵と同じく、「自分の反映」なのだ。
しかし、なかにはベージュの肌、ウェービーな髪の人形を「キュート!」と買ってくれる白人女性がいた。やはり「自分の反映」だ。ある若い女性はスペインからの観光客だった。私の人形がスペインまで行く……と思うと、なんだか感慨深いものがあった。
「『アフロパフ』のキーホルダー型ミニ・ドール」
ステージが休憩に入ると、黒人客がどっとやってきた。「私はもう人形を買う時期は終了してるけど」と言いながら見てくれる年配の女性。「マミー、これがいい」と明るいブラウンの人形を指さす黒人の女の子に、「私はこっちがいいと思うけど」とダークブラウンの人形を勧める白人のお母さんは、おそらく養親だ。やはり「これ、買って!」とウェービーな長い髪の人形をねだる女の子に、「知ってるでしょ、これだとおばあちゃん怒るから」と言い、私に「ダークスキンでアフロヘアのはある?」と聞くお母さん。おばあちゃんはきっと「ブラック・イズ・ビューティフル」の信念を持つ人なのだ。
エディ・マーフィーのブラウンの肌と、浜田雅功の黒塗り
皆、それぞれに異なる肌の色合いと髪を持ち、肌と髪についての考えも異なるが、言えることはひとつ。どの肌も、どの髪も、それぞれに可愛らしく、または美しく、かつ個々人の重要なアイデンティティなのだ。私はハーレムYMCAでの子供たちとの体験からこれを知り、人形を作り始めた。
アメリカでブラックフェイスがなぜ許されないか、その詳細は最初に挙げた過去記事を読んで欲しい。そこに書いたアメリカの人種差別の歴史や現状とは別に、今回の浜田雅功によるブラックフェイス報道を見て、私が思ったことがある。
エディ・マーフィーは俳優としてとても優れており、私も大ファンだ。演技力、とくにコメディでは唯一無二の力を発揮し、毎回、大爆笑させてくれる。エディが出ているというだけで出演作を見たくなる理由だ。同時に、彼の滑らかな濃いブラウンの肌も大きな魅力だ。単なるお笑い俳優ではなく、セクシーさもまた魅力なのである。
ところが浜田雅功の黒塗りはエディとは似ても似つかない色合いの、雑なメイクだった。エディの肌の美しさはみじんもなかった。エディ・マーフィーをエディ・マーフィーとしてでなく、単に「黒人」として真似ただけのものだった。黒人たちの、それぞれの肌の色、それぞれの美しさに対する敬意はまったくなかった。それが私を哀しくさせたのだった。
(堂本かおる)