Hey!Say!JUMP・高木雄也、女性歌手と熱愛発覚!? 夜景写真の「雲の形が一緒」と騒然

 NEWS・小山慶一郎やKis‐My‐Ft2・横尾渉など、女性のSNSを発端に、ジャニーズタレントの恋愛関係が取り沙汰される騒動が相次いでいるところ、今度はHey!Say!JUMP・高木雄也にも疑惑の目が向けられている。高木が雑誌や公式携帯サイト・Johnny’s webで紹介した写真をヒントに、北海道出身の女性シンガーソングライター・MACOと「交際しているのではないか?」と、話題になっているのだ。

 2009年に女優・平山あやとの熱愛を「フライデー」(講談社)にスクープされ、14年9月には、当時グラビアアイドルとして活動していた原愛実との“合い鍵通い愛”を同誌に報じられていた高木。以降は女性関係のウワサが減少していたものの、4月4日頃から、ネット上でMACOとの交際疑惑が浮上した。

 その中でも注目を集めているのは、MACOが昨年10月11日にインスタグラムにアップした夜景の写真。高木も同11月に公式サイトの連載「JUMPaper」に、MACOの写真とよく似た構図の夜景を載せていたことが判明し、ファンは「雲の形が一緒」だと、指摘。そもそも、高木はラジオ番組『JUMP da ベイベー!』(bayfm)などでかねてよりMACOの楽曲を流していたことから、ファンの間では「高木のお気に入りアーティスト」と認識されていたという。

「夜景の写真以外にも、高木が雑誌で公開していたお皿と、昨年1月にMACOが『朝食を食べない人だけどこないだ久しぶりに食べたよ』というコメントとともにインスタグラムに載せていたお皿が一緒だと、JUMPファンが騒いでいます。黒いテーブルに食事が並んでいる写真には『素敵な朝ごはんありがとう』(17年2月24日)という“誰か”に向けたメッセージも書かれていました。また、Hey!Say!JUMPがシングル『fantastic Time』を発売した後には『fantastic』とコメントをつけたアイスの写真を投稿していることも、確認されています。そのため、MACOのインスタグラムには『匂わせ最低』『相手の仕事のことも考えて、匂わせはやめた方がいいと思う』『ウザイ。自慢するんだったら今すぐ芸能人やめろ』などと、批判コメントが殺到しているんです」(ジャニーズに詳しい記者)

 こうしたファンの言動を受け、共通していた皿の写真は削除したようだが、「削除すると余計あやしい」と、さらに疑惑は強まっているようだ。MACOに非難の声が続出している一方、「もし事実なら、ファンが見る雑誌や連載に彼女との写真を載せた雄也の方が罪深い。ラジオでも『MACOさん好きだ』って言ってたし。MACOさんを叩くのは同じファンとして恥ずかしい」「雄也また熱愛か。ジャニーズなのに匂わせしちゃうなんてバカ」と、高木に対する辛らつなコメントも出ている。

 そんな高木は、昨年1月放送の山田涼介のラジオ『Hey! Say! 7 UltraJUMP』(文化放送)で、MACOをめぐってメンバーと“小競り合い”に発展したことも。番組内で曲を流す際、高木が「本当に最近好きな歌、流していい?」と発言すると、山田は「ん……JUMPの曲にしてね」と、困惑。山田は、高木が有岡大貴とパーソナリティを務める『JUMP da ベイベー!』で、MACOの曲を頻繁に流している件に触れ、有岡が「雄也にマジで注意してたもんね。『マジで、ラジオでMACOさん流しすぎだからな』って」と、メンバーから忠告されていたことを明かしていた。

 一方、同時期には山田に関しても、言動やSNSの記述に共通点があるとして、乃木坂46・山崎怜奈との熱愛疑惑が持ち上がったが、乃木坂ファンは「こじつけがひどい」と、憤怒。4月4日には山崎が公式ブログで「この時期って色々な情報が交錯して 中には根も葉もない憶測の噂もあるから なにが真実かわからないときもあるので、さすがにびっくりしました」と、暗にウワサを否定していた。

 交際説が濃厚となっている高木は、6日から毎週木曜日放送のラジオ『Music Bit』(FM OH!)でDJを務めるが、同番組ではMACOの楽曲を封印することになるのだろうか。

 

「のん」こと能年玲奈、クドカン大河ドラマ出演への道は? テレビ局の“忖度”が終わる日

「のん」こと能年玲奈、クドカン大河ドラマ出演への道は? テレビ局の忖度が終わる日の画像1
 2019年のNHK大河ドラマの発表会見が3日、同局で開かれ、朝ドラ『あまちゃん』の宮藤官九郎が脚本を手掛けることが発表された。  タイトルは『いだてん~東京オリムピック噺~』で、主演は歌舞伎俳優の中村勘九郎と俳優の阿部サダヲ。日本が五輪に初参加した1952年のストックホルム大会から64年の東京大会までを舞台に、勘九郎が日本人マラソン選手のパイオニアである金栗四三役、阿部が東京五輪招致に尽力した田畑政治役を演じる。  クドカン脚本となれば、期待されるのは『あまちゃん』でヒロインを演じた能年玲奈改め「のん」のキャスティングだ。ネット上では早速、待望する声が殺到しているが……。 「のんさんの元所属事務所『レプロエンタテインメント』は、今年に入っても清水富美加さんの出家騒動が勃発するなど、トラブル続き。それでものんさんに対する“圧力”は、出家騒動後も変わりません。彼女はフリーで地道に活動を続けていますが、情報番組やワイドショーで扱われることはめったにない。レプロと、その後ろ盾のバーニンググループに、局側が“忖度”しているのです」(スポーツ紙記者)  NHKは民放と違い、そのあたりのキャスティングは自由だといわれるが「それでも、業界のルールは適用される。のんさんがフリーである以上、クドカン大河にも出演できないでしょう」(同)という。  とはいえ、光明がないわけでもない。のんは現在も好感度抜群で、先日発表された「週刊文春」(文藝春秋)恒例の好感度調査では1位を獲得した。 「大きな声では言えませんが、昨年後半から、芸能界のパワーバランスが崩れているんです。『ゲスの極み乙女。』が大手プロのバックアップで活動再開するように、のんさんにも強力な後ろ盾がつけば、大河にも出演は可能でしょう。事実、そのような話が進んでいます」(芸能プロ関係者)  のんが“クドカン大河”で華麗に復活する日は訪れるのか――。

神社本庁も「これはちょっと……」と漏らした。「DMM GAMES」新作『社にほへと』から考えるオタクの信仰

神社本庁も「これはちょっと……」と漏らした。「DMM GAMES」新作『社にほへと』から考えるオタクの信仰の画像1
『社にほへと』公式サイトより。
『艦隊これくしょん-艦これ-』や『刀剣乱舞-ONLINE-』など数多くのヒット作を世に送り出してきた「DMM GAMES」が新たに発表した『社にほへと』。夏からのリリースを予定して、事前登録が始まっているこのタイトルは、神社を擬人化した「社巫娘」なる美少女キャラクターが登場する。  事前登録をすると、毎日1回おみくじを引くことができ、「伏見稲荷」「鹿島」「春日」などのキャラクターを引き当てることができる。だが、そこには神社や神道への理解、そして畏敬や信仰への畏敬を疑わざるを得ない面が見受けられる。「おみくじ」を引くと、大吉から凶までがキャラクターのレアリティによって分類されている。つまり、特定の神社は大吉、あるいは凶と分類されているようである。  信仰心や日本における神社の存在理由を少しでも知っていれば、ここに超えてはいけない線を越えていることを感じるのではないか。取材に応じてくれた神社本庁の担当者も、おみくじを見て「これはちょっと……」と顔を曇らせる。  また、凶の「おみくじ」を引くと登場するキャラクターに割り当てられた石清水八幡宮に話を聞いたところ「(神社の名前を)使用したい等の連絡は来ておらず、まったくの無断使用」というのである。  ところが、当の「DMM GAMES」にも話を聞いたところ「本ゲームは『神社』をイメージした“フィクション”である内容のため、実際に実在する人物・建物・団体とは一切関係はございません」という。そして「おみくじ」についても「結果の運勢に『社(やしろ)』が紐づいているものではない」というのである。  これを、どういう形で書くべきか。凡庸なニュースサイトのごとく、センセーショナルな部分のみをクローズアップして記すだけで、終わってはならぬように思った。すると、筆は勝手に走り続けたのである……。  昨年、縁あって御柱を曳く機会を得た。  御柱祭の年、諏訪大社の御柱祭が終わった後の秋、諏訪の神社では地域の人々によって、それぞれ御柱祭が催される。地域の人々によって山から切り出された御柱は、地域中で曳かれ、境内に建てられるのだ。  そうした神社のひとつに、岡谷市の洩矢神社がある。数年前の夏に、私は偶然神社を訪れて、驚いた。普段は人もいない神社に設置された絵馬掛には、いくつものキャラクターを描いた絵馬が設置されていたのである。  そう、この神社はゲームに『東方Project』シリーズのキャラクター・洩矢諏訪子にゆかりのある神社だとされ、多くのファンが訪れるところになっていたのである。  いったいどのようなファンが集まっているのだろうか。たまたまTwitterで見つけた地元の人に聞いたところ、大みそかの夜には、地元の人々によって絵馬や熊手などの頒布も行われるという。ならば、ファンも集っているのだろう。私は、現地に行ってみることにした。  2014年の大みそか。私のほか、わずかな客だけを乗せて走る夜の中央本線各駅停車。  上諏訪まで高速バスで行き、そば千(上諏訪駅近くにあったコンビニと合体した、立ち食い蕎麦屋)で年越し蕎麦を食べた後に向かおう。そんなスケジュールを考えていたのだが、行ってみると店は閉まっていた。年越し蕎麦を食べ損なったガッカリ感にどうしようもない気持ちを抱えたまま、岡谷駅を降りると、雪がしんしんと降り積もっていた。  岡谷駅から洩矢神社へは、市街地とは逆方向の道を進むことになる。誰も歩いていない道の雪は、ただただ深かった。  そんな道を20分あまり。うっそうとした森に包まれた洩矢神社は、雪化粧を施されて、夏に訪れたときとはまったく違う風景を見せていた。石段の道には、提灯が並び新年への期待と厳粛な空気とが混じり合い、幻想的な雰囲気に包まれていた。  石段を昇ると、普段は閉ざされている社殿の扉は開かれ、その横に設置されたテントでは、地元の人たちによって熊手と破魔矢の頒布も行われていた。そして私の姿を見ると、待ってましたとばかりに樽酒を紙コップに注いで勧めるのである。まったくの下戸である私だが、ひとまずは口をつける。下戸なのに、まったく酔わない。それほど、あたりは寒いということに気づいた。  改めて寒さを感じながら、頒布されている熊手や破魔矢を見る。驚いた。破魔矢には300円と書かれていた。おみくじは100円。前に訪れたときには、絵馬掛けの横に積まれ100円を賽銭箱に入れるように案内されていた絵馬は、無料で頒布されていた。安さには驚くが、決して値段の高い低いの問題ではない。本来は、地元の人のために頒布するものだからの値段なのである。儲けなど関係なく、神社への崇敬の念で、このような値段になっているのだろう。だからといって、ふと訪れただけの私にも、分け隔てなく頒布してくれた。ただ、それだけのことなのだが、そこに何か神社の暖かさというものを感じた。  さて、境内を見渡すと地元の人にまじって「東方民」は10人あまりだったろうか。それぞれ、ファン同士で交流したり、地元の人と会話を交わしていた。  そんな風景を眺めているうちに、年が変わると打ち上げ花火が上がった。それが合図だったのか、地元の人々がどっと神社に押し寄せてきた。それぞれ、新年の挨拶をして縁起物を手に戻っていく。それが、この地域での大みそかから新年にかけての過ごし方のようだった。  そんな混雑も30分あまり。すぐに境内には静寂が戻る。さて、これからどうしようかと考えた。東京のような異常な大都会とは異なり、新年を迎える夜に営業している店など、ほぼあり得ない。いまだに十代のときと変わらず野宿を楽しんでいる身ゆえ、駅のあたりで始発まで寝ようかと考えていた。あるいは、諏訪湖をほとりを歩いて下社への参拝くらいならできるだろう、と。  そんな時「東方民」の一人に、声をかけられた。 「一緒に、回りませんか」  そう声をかけてくれたのは、長野県在住の男性であった。彼は「せっかく来てくれたんだから」と、車で上下の四社、さらに御頭御社宮司総社と手長神社まで案内してくれた。道中、彼は仕事の合間にさまざまな神社を参拝していることを聞いた。ゲームをきっかけに、神社への関心を高める人も増えているのだろうか。そんなことを考えた。  神社に限らず、マンガやゲームがきっかけに、違う何かが芽生える人々の姿は、それまでも見ていた。岡谷からさらに先、飯田線の沿線にある伊那市や飯島町が、そうだ。そこは、『究極超人あ~る』の「聖地」として知られる土地である。ここで2012年に飯田線開業100周年を記念した行事の一環として、作品のアニメ版で描かれた飯田線田切駅から伊那市駅までを自転車で走るイベントが開催された。参加者は申込みの上で、自転車を持参して田切駅に集合。そんなハードルの高い催しにも関わらず、見物も含めて集まったのは100人あまり。以来、このイベントは毎年の恒例行事となった。  詳しくは別に書こうと思っているが、そこでは、マンガやアニメを軸にした「聖地巡礼」や地域起こしとは違うことが起こっているのを感じる。今でも参加者の紐帯が作品であることには、変わりはない。でも、参加者の多くが、作品をきっかけにして地域の魅力を知り、何もないときにでも、ふらりと街を訪れるようになった。私も、その一人である。東京で、事務所の傍にあるコンビニの「ローソン」が、伊那名物の「ローメン」に見えてしまうほどである。「いつかは、このあたりに住もうか」そんなことを、考えている人も増えている。  だから、ゲームをきっかけに神社を訪れて、その魅力を知り、信仰心や知的欲求を高める人もいるのは当然だと思った。何しろ洩矢神社はただ単にゲームのモデルとされた神社などという軽々しいものではない。諏訪の伝承では、そこに祀られるのは諏訪の土着神であり、ミシャクジ様とも同一視される洩矢神。その土地に、国譲りの際に、天津神に抗した建御名方神が出雲を追われ、この地へとやってきた。ここで出会った二柱の神は争った後に和解した。そして、建御名方神は祭神となり、洩矢神の子孫は明治まで、諏訪神社上社の神長官となった。その神の子孫である守矢家は今も続き、その自宅がある茅野市の神長官守矢史料館には、歴史と現在も続く信仰を伝える資料が展示されている。  諏訪の歴史や信仰は、それだけで何冊も本が書けるほどなので簡潔に記したが、自ずと畏敬の念の湧き上がるものだと思う。  前述の大みそかの参拝の際には言葉を交わす機会を逸したのだが、しばらく後にネット経由でT氏と知り合った。初めて出会ったのは、その年の秋の例大祭を訪問したときであった。ゲームのファンだと思っていたT氏は、法被を着て地元の人と一緒に働いていた。なぜ、そこまで地元に馴染んでいるのだろうかと、驚いた。聞けば、ゲームのモデルが洩矢神社だと、ファンの間でささやかれ始めた頃に、彼は一人で、この神社を訪れたという。やはり、行事のないときの神社には人もおらず、当時は絵馬もなかったという。そこで見つけたのは、神社の案内板に記された例大祭の日時であった。何も情報がないまま、T氏は例大祭の日に神社を再訪した。その日はちょうど大雨の日だったという。神事を行っていた地元の人たちは、誰ともわからぬT氏を、雨に濡れないところに案内してくれたのだ。それから、数年。埼玉県から通っているT氏はすっかり地元に馴染んでいる。 「大社にお詣りするよりも、こちらにお詣りする機会のほうが増えましたね」  そして、諏訪の地域の信仰の魅力を語るのだ。変わらずゲームも愛好している。けれども、もはや東方ファンというよりは、洩矢神社のファン、信仰者というのが、彼の偽らざる姿である。  だが、人が増えれば必ずしもすべてが明るい方向にはいかない。昨年、大社の御柱祭が終わった頃から、T氏と幾度も話をしていたのは、洩矢神社の御柱祭のことである。私は、ぜひこの祭りに参加をしてみたいと思っていた。けれども、単なる「にわか」が「祭りがあると聞いて来ました」と参加してよいものだろうかと、畏れがあったのである。  というのも、人気のゲームの「聖地」として注目を集めることに対する地域の人々の想いには、複雑なものを感じていた。例大祭や、大みそかに参拝したときには、分け隔てなく歓迎してくれる。洩矢神社を管理している地元の自治会の神社委員の人たちは、各地から参拝に来てくれる人のために、絵馬だけでなく御守りまで、つくるようになった。それは「聖地巡礼」でありがちな、作品の舞台になり人が集まるようになったので、ここらで一儲けしよう、地域を活性化させよう、なとどいうものではない。あくまで、遠くから神社に参拝に訪れる人がいることの喜びから始まった自発的な活動だ。  つまり、主体は神社であり、ゲームは従に過ぎない。その親切心にあぐらをかいてはならないと思っていた。そもそも、ゲームのモデル、すなわち創作の材料とされ、制作者の創造力の趣くままに使われていることが、単純に喜ばれているとは思えなかった。  前述の守矢家の現在の当主は、第78代の守矢早苗氏である。サイト「ニコニコ大百科」などでは、『東方Project』中に登場するキャラクター・東風谷早苗の「元ネタ」は、この人だと書かれている。さらに、制作者自らゲームに出す許可を取りに行ったと記しているサイトもある。自身がキャラクターとされていることや、ゲームのファンが訪れていることをどう思っているのか。自ずとそんな疑問が沸いた。 「お会いする機会があれば、来てみたい」と言ったところ、T氏には止められた。さらに、本人とも交流のある地元の郷土史研究団体の人は「それは、止めておいたほうがいい」と、苦い顔をする。何かしらの形で許可は出したようだが、必ずしもゲームによい印象を抱いているわけではないことは、容易に感じ取れた。  ここは神社であって、作品の聖地でも観光地でもない。だから、洩矢神社の御柱祭も人が来るのは歓迎するけれども、大っぴらに宣伝するようなものではないというのが、地元の人々の考えのようだった。  それでも、Twitterなどに流れた洩矢神社に掲示されている神事の日程表などを見て、里曳きには十数人の「東方民」の姿があった。そこで、私は、もしも公式サイトなどを立ち上げて、大々的に宣伝すれば、予想だにしない事態が起こるであろうことの片鱗を見てしまった。  今回の御柱祭は9月に山出しを終えたあと、10月9日に里曳き。そして、翌日に建御柱というスケジュールだった。てっきり、曳いているフリだけしておけばよいのかと思っていら、甘かった。柱も太いが人数も多い大社とは、まったく違った。地元の人たちを中心に、かなり必死に曳かねばならない、けっこうな重労働であった。御柱の進む先では、沿道の住民が振る舞いを用意して待ってくれているが、なかなかそこまでは進まない。一度神社に集まってから、御柱まで向かうときは「案外、短い距離だな」と思った。でも、まったくそんなことはなかった。加えて、坂もあり道は曲がっているために、なかなか先が見えない。  日頃の運動不足を恨みつつ、曳きながら、こんなことを考えた。このような大変な行事を、地元の人たちは7年に一度行っている。それは、なぜだろうか。単に伝統だからとか、そんな単純なことでできるものではない。観光客が来て儲かるわけでもない。金融資本主義にまみれたアメリカ風のドライな見方をすれば、なんら個人が利益を得る行事ではないのだ。にもかかわらず、地元の人が集い絶えることなく神事が続いている。それは、神社が単に人が拝み、神様が何がしかの御利益をくれるギブアンドテイクの関係の場所ではない存在であることを、教えてくれた。  その里曳きで、S氏と知り合った。Facebookで私が来ていることを見つけた伊那の友人が「その地区にSさんという、諏訪信仰に詳しい方がいるので探しなさい」と連絡をしてきた。T氏に「Sさんって、どの人?」と聞いたら、目の前にいた。  地域の信仰や歴史について、さまざま話をして、翌日の建御柱に守矢早苗氏が来てくれるという話になった。ご挨拶することはできないかと尋ねると、S氏はタイミングを見て繋いでくれることを約束してくれた。  翌日、小雨の中で建御柱の神事は、始まった。先を切って尖らせて、木遣り唄の中を慎重に建てていく。その最中に、早苗氏に挨拶をする機会を得た。長く教師をしていたという早苗氏は、まったく気取るところもない親しみやすさのある女性であった。しかし、同時に本人や周囲の人々の立ち振る舞いからは、そこにある連綿と続いてきた信仰と歴史とが一人の人間を通じて、止めどもなく溢れているように感じた。神々しさなどとはまた違う、言葉では表現できないもの。遠い祖先から続く人間の営み。その積み重ねが、一人の女性を通じて現れ出ているのだ。そこに、畏敬があるのは当然であった。  けれども、集っている中には、別のものが見えている人もいた。前日から、初めてやって来たことに興奮気味だったゲームファンの若者が、早苗氏にノートを取り出してサインを求め、周囲の人に止められていた。それはまだ、気持ちがわからなくもない。若さゆえの過ちかもしれないからだ。  でも、もうひとつ、見たくはなかったものを見てしまった。御柱の先を尖らせるときにできた木片に、サインを求める人物もいたのである。この人物は、岡谷市内の別の地区の住人だと聞いていた。曲がりなりにも、地域に住みながら、どうしてそのような行為ができるのか、不可解であった。  後日、この人物が「自分は、天照大神と話ができる」などと喧伝して、さまざまな神様を込めた勾玉を販売したりしていることを知った。さらに、この人物が長野県白馬村にある、やはり『東方Project』の「聖地」だと目されている城嶺神社が地震で倒壊したために再建の事業を手伝っていると聞いた。何か違和感を覚えて本人のFacebookを見てみると、勾玉を販売したりする傍らで、仮想通貨・ビットコインの勉強会を開催したり、情報商材を販売していることもわかった。それは、ゲームファンに注目されている神社に関わることに、ビジネスチャンスを見いだしているように見えた。  そこで、本人に尋ねてみたところ「私は手助けしたい一心で動いている」と言い張り、筆者の取材を再建の妨害とまで、非難してきたのだった。この件は、昨年別に記事にしたが(http://otapol.jp/2016/12/post-8967.html)、この人物によって作成された「洩矢神社公式ホームページ」は、この事件の後に、地域の神社委員の管理へと移行している。それでも、この人物はいまだに神社や神様をビジネスの場にしようと蠢いていると聞いている。近年、新聞やテレビでも当たり前のように報じられるマンガやアニメ発の「聖地巡礼」。その光と影の両方を、洩矢神社にはあった。  これまで、いくつもの「聖地巡礼」を体験し取材してきた。それは、必ずしも歓迎されるものではなかった。それは、時として地域の生活に負の要素をもたらす。人が増えれば、必ずしもよい人ばかりはやってこない。むしろ、迷惑な人や怪しげなビジネスを企画する人は、ここぞとばかりに寄ってくる。  神社は、そうした人々が土足で踏み入ってよい場所であるはずがない。  実のところ『社にほへと』は、さまざまな問題のほんの一部に過ぎない。神社がマンガやアニメの舞台となり「聖地巡礼」する人々が集まっている。あるいは、神社の中にも、作品とのコラボをしてマンガやアニメのファンに盛んにアピールをしているところもある。こうした話題のネガティブな面が報じられることは、極めて少ない。いわゆるオタク系メディアの書き手は、そうしたネガティブな面を、私よりも知っているはずだ。けれども、そうした人々の多くは「御用」であることを相争い、目を背ける。  だからこそ、改めて神社の存在理由や、神道というものについて、詳しく知りたい、ひとつの文章にまとめなくてはと思った。  そこで、神社本庁にアポイントメントを取った。神社本庁は、日本でもっとも多くの神社が加盟する宗教法人として知られている。ただ、キリスト教における教皇庁のような教義やら何やらを隅々まで指導する総本山ではない。あくまでも、全国の多くの神社が相互に協力し連絡しあうための組織といえる。  ただ、そうした役割は必ずしも正しく理解されてるとは言い難いと思う。やはり、総本山的な理解をしている人は多いし、昨今、左翼的な思想の人は政権批判と絡めて、その存在までをも批判する。これまた、神道への無理解や、信仰というものが失われていっていることを示す、一つの事象であろう。  ただ、そのような状況だから、少し敷居の高さを感じたのも事実である。話の入口は、ゲームの話である。ともすれば「ゲームなんかの話で」と、断られるのではないかとか、どこから説明すればよいのか、考えながら電話した。  でも、それは杞憂であった。こちらの取材の趣旨を告げ『社にほへと』の件に触れると「そういうのもあるみたいですね」と、既に知っていたのである。  電話で応対してくれた、神社本庁広報国際課課長の岩橋克二氏は、すぐ翌日に会ってくれた。  冒頭、和歌山県出身という岩橋氏は「関西弁でもいいですか」と言った。その言葉や立ち振る舞いには、神職らしい「来る者は拒まず」の姿勢を感じ取れた。取材の中でも決して難しい言葉などを用いることがなかったのも、人柄を示すものだろうと思う。  そうして始まった取材。最初は、やはり発表になったばかりのゲームの情報まで知っていることに驚いた、私の感想から始まった。聞けば『ポケモンGO』をはじめ、神社に何かしら関連があったり、影響が懸念されるコンテンツには、常にアンテナを張っているのだという。だから『社にほへと』も、知ってはいた。ただ、実際に事前登録をして「おみくじ」を引いたりはしていなかった。  現在公開されている『社にほへと』では、「事前登録」のボタンを押すと、ページが遷移する。そこでは「おみくじ一覧」として、神社の名前を持つ美少女キャラクターを見ることができる。そして、Twitterで『社にほへと』のアカウント(@yashiro_staff)をフォローすれば、毎日1回「おみくじ」を引くことができるという仕組みだ。  私の持参したノートパソコンで「おみくじ一覧」を見てもらったとき、岩橋氏の顔が少し曇った。その「おみくじ一覧」には、キャラクターのレアリティ(希少度によるキャラクターのランク付け)によって大吉から小吉までが割り当てられているようであった。このレアリティが、どのように設定されているのかはわからない。ただ、ある神社は大吉、あるいは小吉とカテゴライズされているようだった(ゲームが稼働前のため、詳細なレアリティの設定などは不明)。 「これはちょっと……」  そう言葉を漏らし、少し間をおいてから、岩橋氏は続けた。 「ここまでは見ていませんでした。信仰を持つ側としては気分のよいものではありません。いったい、なんの根拠があって、やっているのでしょうか……」  岩橋氏は決して、偏狭な考えから話しているのではない。あくまで、しごく真っ当な懸念であった。 「気になるのは、お宮自身が承諾をしているかどうかです。これが、ご祭神名であれば、逃げられるんですが……春日大社があるのに、鹿島神社もありますよね」  春日大社と鹿島神社は、同じ建御雷之男神を祭神とする神社である。神社を「擬人化」というのが『社にほへと』のコンセプトのようではあるが、開発段階で祭神を同じくする神社が重なっている。そこに、神道への理解の浅さを感じているようであった。  とりわけ、私も驚いた「おみくじ」の部分には、それを感じているようだった。大吉を引くと登場するキャラクターは、それを喜ぶ。かと思えば中吉のキャラクターは「せいぜい、中途半端な一日を過ごすとよい」と言うのだ。 「おみくじは、明確な定義のあるものではありません。大吉中吉小吉とあり、よく幸運の度合いを示すと理解している人もいらっしゃいますが、それはあくまでも現状のことであって、例えば凶が出たからといって、お先真っ暗なわけではありません。大吉を引いたからといって、人生遊んで暮らせるわけではありません。今はいいけど、気を抜かないでねという意味合いのもの。内容を見て、努力して改善していけばやがてよくなるというものです。ですから、ここには、やはり意味の取り違え、単純に格付けとして理解している感がありますね」  日本の神社には、熊野や八幡、諏訪などさまざまな「系列」は存在する。また、神社の社格というものあるが、これは、いわば朝廷や政府が管掌する上での分類。どこそこの神社は、○○神を祀っているから強いとか、御利益はほかの神社の三倍などということはない。だから、日本の神様はランク付けができるような存在ではないはずだ。 「確かに天照大神が一番貴い神様とはいわれますが、その一方で、天照大神のお一方ではできないこともあります。日本の神様は人間と同じく得手不得手もあるのです。たとえば、オモイカネ(思金神・常世思金神)という世の中のすべてを知っている神様もいらっしゃいますが、オモイカネは自分自身では動くことはできないのです。なので、神様同士で力を合わせて世の中をよくしていくというのが、日本の神様なんです。モチーフとしてこういうところに使うという気持ちはわかりますが、なぜ神様じゃなくて神社なんだという疑問はありますね」  ならば、こうしたゲームが登場したことによって、どのようなことが懸念されるのだろうか。 「神社とか日本の神様に対して、意識の薄い人たちが純粋にゲームとして楽しむかもしれません。怖いのは、そういう方たちが『舞台だから、登場人物だから』というだけで神社に行ったときに、ほかの参拝の方がいらっしゃる中で、不敬な行為を行うことです。神社側としては節度を保って下さいとは言うのでしょうけど、ほかの参拝の方の気分を害しないのか、と」  マンガやアニメなどの作品により深く寄り添いたいと「聖地」を訪れるファン。彼らは作品の舞台を訪れたことに喜びを感じているかもしれない。けれども、その「聖地」が神社だったとき、彼らは神社をどのようなところとして捉えているのか。岩橋氏は、そこに、いささかの疑問を感じているようだった。 「埼玉県の鷲宮神社が『らき☆すた』で注目を集めてから以降も、神社が舞台になることはよくあります。最近では『君の名は。』も、そうですよね。でも、訪問される皆さんが、そこを神社として認識しているのか、あるいは、単にアニメの舞台だから行っているだけなのか、そこはこちらとしては疑問です。もちろん、神様も人が来て賑やかになることは好きですし、歓迎なんです。けれども、そこがお宮であること、そこには神様がいらっしゃるということをまったく埒外にして、記念写真だけ撮って帰るとかになるは、どうでしょうか」  意味を取り違えたまま、神社を訪問してしまう。それは「聖地巡礼」に限った現象ではない。もはや、定着した感のある「パワースポット」でも、似たような問題は起こっている。神社本庁に隣接する明治神宮では、一時期境内にある「清正の井戸」が「パワースポット」であるとして、整理券も出すほどのブームになったことがある。けれども「清正の井戸」を写真に収めた後、お詣りもせずに帰る人もいたというのだ。 「やはり清正の井戸が明治神宮の境内にある意味を考えていただきたい。もちろん、深く知る必要があるとは思いませんが、日本の神様というのはより人間の近いところにいる存在です。よその家にお邪魔したときに、庭だけウロウロして挨拶もしないで帰るのと一緒になってしまいます」  だからといって「聖地巡礼」や「パワースポット」が、すべて神社にとっていらないもので、お断りというわけではない。むしろ、最近では『ポケモンGO』でもなんでも、せっかく来てくれるのであれば、積極的に働きかけていこうとする気運も神社側にはあるという。 「気づきがある人が三割いればありがたいと思っています。お越しいただいた中の三割に過ぎなくても、その方達が周りに広げてくれると思っていますから」  最近では、神社がアニメとコラボしてキャラクターの描かれた絵馬や御朱印帳などの頒布を始めたりもしている。岩橋氏は、それを真っ向から否定したりはしない。 「時代を捉えているとは思います。定期的にお宮に来ていただく手段としては、あり得ると思います」  一方でやり過ぎのある神社があれば、神社本庁として指導していかなくてはならないともいう。ただ、テクノロジーがどんどん発展し、新たなビジネスの溢れる現代において、何をどのように指導していくかも難しい。例えば、すでにどこそこの神社で祈願しており、こういう御利益があるなどと謳った「祈願済み」の商品。これは、あってはならないものと即答する。 「神社というのは、そこに行って、神様に直接お願いすることに意味があるものです。なんとかご祈祷済みとか、ご祈願済みとか、こういう御利益がある商品というのは、つまり神様の名前を使った商売になってしまう。神社も商売といわれると、そこまでなんですけど。やはり、お宮の中で起こっていることと、外で行われていることは違うと思うんです」  一方で、意外だったのはインターネット参拝に対する意見だ。2000年代半ばに登場したこれは、多くの神社がサイトに設置したが、神社本庁は06年に「信仰の根幹に関わる問題だから、もう一度考えていただきたい」と注意喚起を出している。 「あれは、判断が難しいことでした。というのも、神社の信仰の中に遙拝(ようはい)というものがあります。例えば、式典では国旗を通じて伊勢神宮を遙拝することがあります。それが、バーチャル参拝とどう違うのかといわれることもあるんです。多分、その作法が長く定着しているので受け入れられているのだと思うのです。伝統的なものとテクノロジーの発展というのは、かみ合うようになるまで時間がかかると思います。お賽銭に電子マネーが使える神社も議論を呼びましたが、お賽銭というのも貨幣経済が発達してから登場したものです。私自身も抵抗はあるけど、100年後にはインターネット参拝は、当たり前になっているかも知れません」 「聖地巡礼」も、インターネットが発達したことによって流行しているという一面がある。もはや、どんな作品であっても「モデルはここではないか」という情報が流れ、訪問記も当たり前のように見ることができるからだ。だから、ビジネスのチャンスと考えるのを止めることはできない。でも、欲にまみれて、やり過ぎたりしていれば神様はちゃんと見ていることを、岩橋氏は語る。 「そこに力を入れすぎると、神様が軌道修正をします。急にブームがぴたっと終わってしまうでしょう。ですから、神主としては、欲に走ることなく、あくまで神社なんだということを常に忘れずにやっています」  だから「聖地巡礼」や「パワースポット」で神社に関心を持った人には、むしろ地域の氏神にも参って欲しいという。 「日本全国どこでも、どこかの氏子地域なわけですよね。いつも面倒をみてくれている神様がいるわけですから、そこにご挨拶に行かずに有名な神様のところに行っているのは、いけないと思うんですよね。私が父から言われたことですが、神様は頼むものではなく讃えるもの。大事にするから、おかげがいただける。お願いするのは自分が十分やってからあとの話なんです」。  やはり、神社とは歴史に裏打ちされた、数多の人間の想いによって成り立っているもの。それがゲームのキャラクター、それも、それぞれが一枚のカードのようなものにされてしまうことには、違和感を拭えなかった。 「自分の信仰が」だからではない。日本の歴史が2677年、そして神や人間の営みは、それ以前から存在する。それを、わずか数十年に満たない期間の間で勃興した「オタク文化」の中で弄んでよいものだとは思えないのだ。近年、マンガやアニメは、日本の中心的な産業のごとく位置づけられ、政府や行政機関までもが利用するものとなった。確かに、今、この瞬間は価値と力を持つ文化なのかもしれない。だからといって、祖先から受け継いだ神社や神様を、簡単に弄んでよいものだろうか。でも、それは判断が難しい。100年後には完全なメインカルチャーとなっていているかもしれない。現在、神様の肖像として紹介される画像が、浮世絵や日本画であるように、未来では神社に祀られている神様はすべてアニメキャラクターになっているやもしれない。  でも、今はどうなのだろうか。  神社本庁への取材の後、編集部と相談して神社にも取材をすることにした。電話で話を聞いたのは「凶」に割り当てられている石清水八幡宮である。対応してくれた担当者は、電話口の向こうで、けっこう驚いているようであった。 「私が広報なんですが、こうした連絡はありません。無断使用です」  数日後、改めて電話をくれた担当者は「ほかのお社さんとも話をして」しばらくは、様子を見ることになったと教えてくれた。当初は、すぐにでも削除を要請することも考えていたようだが、まだリリース前でもあり、ゲーム自体がヒットするかどうかもわからないため、事態の推移を見守るという方針に落ち着いたようだ。一方で、正直な気持ちも伝えてくれた。 「あまり気持ちのいいものではないですね」  担当者は、キャラクターの名前を「石清水八幡宮」ではなく「石清水八幡」と、一文字だけ削ることで神社と無関係に見せる意図を感じ取っていた。それは、無断使用される以上に不快なものだったのだろう。  この取材と同時に、DMMにも取材を申し込んでいた。質問事項として送ったのは、次の二点である。 1.このタイトルでは神社の擬人化が行われておりますが、これは該当する神社には許諾あるいは、なんらかの事前折衝を行っていらっしゃいますでしょうか? 2.当方でも事前登録をさせて頂きましたが、キャラのレアリティに応じて大吉~凶に振り分けがなされております。これは特定の神社が、凶になってしまうことであり、当該の神社はよい気持ちを得るとは思えないのですが、いかがでしょうか?  願わくば、ぜひ会ってゲームの意図を聞きたいと思ってた。なぜなら、決して制作側も神道を貶めることを目的として開発している淫祠邪教の徒ではないはず。多くの人々に喜んでもらいたいと思ってゲームを開発しているはずである。イラストレーターはキャラクターに愛情をこめて執筆しているはずだし、声優もそうであるはずだと思ったからだ。  しかし、願いは叶わずメールで次の回答が返ってきた。 1.「社(やしろ)」の擬人化について 本ゲームは「神社」をイメージした「フィクション」である内容のため、実際に実在する人物・建物・団体とは一切関係はございません。また、実在する地域や神社等の関係性につきましても、一切関係がございません。 2.事前登録おみくじについて 事前登録おみくじは、結果の運勢に「社(やしろ)」が紐づいているものではなく、結果の運勢についてキャラクターが説明しているものになります。  改めて、ネットでこのゲームを事前登録し「おみくじ」を引いている人たちが、どのような感想を得ているのか検索して見た。自分の縁のある神社の登場を期待する人。手に入れたキャラクターを喜ぶ人も多いが、やはりゲームとしてキャラクターの強弱やレアリティを気にしている人の存在も否めなかった。  これは、なんなのだろうか。  強弱どころか、多くのキャラクターがそうであるように、二次創作の形でエロを期待している人を見つけたときには、言葉にならない根源的な恐ろしさを感じた。  でも、それを真っ向から批判しても、なんら解決にならない。西洋的な異端や邪教を狩る行為は、日本には似合わない。誤りに気づき、感じさせるのこそが日本的な精神の根本であろう。  だから今は、この推移を見守るしかないと思うのだ。  そう考えながら、しばらく氏神様にご無沙汰してしまったのを思い出して、参拝に向かった。  参拝の後、春の祭りの準備が進む境内を散策し、おみくじを引くと大吉が出た。けれども、決して思いのまま万事が上手くいくようなことは書かれていなかった。  改めて神道の意味を感じた。 (文=ルポライター/昼間たかし http://t-hiruma.jp/

「パフェを食べるっていうのは、性的な行為ですよね」/パフェ評論家・斧屋さんインタビュー【前編】

日本で唯一の“パフェ評論家”である斧屋(おのや)さん。著書『東京パフェ学』(文化出版局)では「パフェは究極のエンターテイメント」という言葉を掲げながら、東京近郊のパフェ店のガイドとともに「パフェ」という文化事象についての考察を綴っています。ブログ『斧屋のパフェ道』をはじめ、雑誌やテレビなどの各メディアでパフェの魅力を紹介し続けている斧屋さんが、パフェ以前に専門としていたのは「アイドル」でした。 斧屋さんは、パフェとアイドルを結びつけて語ることも多く、『東京パフェ学』の中でも、能町みね子さんとの対談で「フルーツパフェとアイドルは等価のもの」と熱弁されています。パフェとアイドルには、どちらも甘くてフレッシュでかわいらしい、少女的なイメージがあります。「アイドルを消費することと、パフェを食べることには同じエロティシズムがある」と語る斧屋さん。「食べる」ことも「消費」することも、ある意味では暴力的なものです。しかし、パフェとアイドルを関連づける斧屋さんのパフェ論は、両者に向けられるこうした男性的な権力を手放すところから始まっています。パフェもアイドルも「食べられる」だけのものなのでしょうか? アイドルとファン、パフェと食べ手の間にあるものとは? パフェによって自己を揺るがされる快感とは? パフェとアイドル、二つの文化を通して考える「性」について、語っていただきました。 パフェを食べることのエロティシズム ――斧屋さんご自身が、アイドルとパフェに共通していると考えている部分を教えてください。 斧屋 どちらも日本独特の文化ですよね。パフェもアイドルも、みんな知っているはずなのに、どこか遠い感じがする。歴史自体はかなり浅いものなのに、興味がない人からしたらいつまでも昔懐かしいイメージというか、「過ぎ去った感」のあるものとして受け取られてしまう。そういう表象としてはものすごく似ているんですよね。パフェもアイドルも、まず一度は見た目で判断されてしまう。そして、マニアになればなるほど「見た目じゃねえよ」と言い出す(笑)。容姿や歌のうまさではなく、もっと別の何かがあるんだ、と。 ――アイドルのファンは「頑張ってきた物語が」とか、よく言いますよね。パフェの中にも、パティスリーが作るものと、フルーツパーラーが作る、新鮮なフルーツがメインになったものがありますが、果物のフレッシュさもまた、若さを売りにするアイドルらしさが感じられます。 斧屋 フルーツパフェはまさにアイドルですね。これもまた、日本独特の進化を遂げた食べ物です。パフェという食べ物は海外にもあるけど、日本のフルーツパフェのようなものはおそらく存在しない。海外では、果物は基本的にシロップ漬けにしたり「加工して甘くするもの」という扱いで、生食用のフルーツっていうのはそんなにないんですね。日本だと、生の果物を甘くするために品種改良を重ねたり、ものすごく手をかけるじゃないですか。そして、その生の果物がパフェの中で主役になる。 フルーツもアイドルも、食べられる(消費される)ためにものすごく手をかけて育てられているんですね。なのに、本質的な生殖からは切り離されている。アイドルなんて、あれだけ性的な魅力を振りまいているのに、本人は恋愛禁止、スキャンダルはご法度じゃないですか。ものすごく手をかけられて、「魅力あるよ〜」と言われながら育つんですけど、彼女たちの魅力が増せば増すほど、生殖からは切り離されてしまう。果物だって、生殖に必要な種子を品種改良で取り除かれていますよね。それもすべて、食べられやすくするため。だからフルーツを食べるときって、暴力的な感覚や罪悪感があるんですよ。 ――二つの間にある違いはなんでしょう。 斧屋 やはりアイドルと違って、パフェの場合は「食べられる」ということじゃないでしょうか。食べられるということは、嗅げるし舐められる。五感のうちで、視覚と聴覚の二つは複製しやすいから、メディア的な広い商売も可能なんですが、それが触覚になると、アイドルなら握手会とか、ちょっと限定性が高まってくる。でも、嗅ぐとか舐めるとかはアウトですよね。この感覚の距離感によって、エロス度が高まってくるのではないか。だから「食べる」という行為は、エロいと言わざるを得ない。パフェの方が優れているという部分を挙げるとするならば、その感覚が投入できるところだと思います。 パフェに翻弄されるよろこび ――パフェには、どうしても女性的なイメージが付きまといます。男性よりも女性のほうが多くパフェを食べているでしょうし、甘い食べ物や果物はしばしば女性の肉体に結びつけられたり、「女を食う」という表現が女性を犯すことの隠喩になっているように、「男性=食べる側」「女性=食べられる側」という図式もあるように感じられます。斧屋さんはパフェを食べているときに、どういう意識を持っているのでしょうか? 斧屋 僕がパフェやアイドルと相対するときは、二つの立場を意識します。ひとつは他者として見ている、もうひとつが自分自身のように見ている。つまり、ある意味暴力的な部分も含みつつ、対象とセックスをしているような感じになっているのか、パフェを食べることが自分自身との対話になっているのか、ということです。 たとえばフルーツの持つ力が強いフルーツパフェを食べていると、自分の方が女性性を帯びたような感じになって、受動的な方に回ってしまう。僕は精神性の中で「アイドルになりたい」とか「かわいい自分でありたい」と思うことがかなりあるんです。先日あるトークイベントで「パフェを食べているときは自分もかわいいと思え」という話をしたのですが、「かわいい自分」になったり、パフェに翻弄されたいと思う方が楽しいんですよね。そういう受け身になる感覚の方を大事にしています。「食べてやるぞ」みたいな「自分が消費をしている」という意識は極力排した食べ方をしているつもりです。 それに、パフェって構造的にも食べにくいですよね。これは悪い意味ではなく、「どうやって食べたらいいのかな」と自然に思わされて、パフェの都合に自分を合わせていこうという気持ちになる。僕はこれも大事なことだなと思っています。パフェや食べている自分が男性的か女性的かっていうよりは、能動的か受動的かっていう感覚に意識を置いているんだと思います。 ソースやシロップなどが別添になっている「かける」タイプのパフェは、食べる側の自由度が高いので、能動的かつ暴力的な営みになりますね。でも、それを食べて「おいしい」という経験をしたときの感覚って、ある意味では受動的なものじゃないですか。自分じゃないものが体の中に入ってきて、刺激を与えてくる。しかも、どうしようもなくおいしいときって、「もう死んじゃうんじゃないか」って思いませんか? 「イキそう」っていうのとかなり近いんですけど、感覚が鋭敏になればなるほど、「はたしてそれは本当に快楽なのか」ということがわからなくなってくる。逆に殺されてしまうんじゃないか、みたいな。そういうとき、「男性的」とか「女性的」ってすごくどうでもいい。なぜ男性の方が消費する側で、女性がされる側なのか。そこにこだわる必要もないのだと思います。 「食べる」権力を手放すことの快楽 ――『東京パフェ学』にも「超越的な存在であるパフェと、有限な存在である自分」という言葉がありましたが、斧屋さんは「食べる」側が本来持っているはずの権力を、自ら手放してパフェと向かい合っているような感じがするな、と思いました。 斧屋 その方が気持ちいいんですよね。自分でコントロールすると、自分の予想の範疇を超えない。僕はなるべく「自分」を超えたいし、驚きたいんです。パフェグラスを掴んで食べてるんだけど、僕は掴んでいるというよりは、セックスのときにベッドのシーツをぎゅっと掴んでいるようなイメージなんですよね。どちらかといえば食べている自分が犯されているような。そこがまた「自分かわいい」みたいなところもあって。だから、自分の中の力みたいなものをあえて全部放り出してしまって、パフェに身を委ねているんだけど、それがやっぱり自由な感じがするんですよね。自分が能動的なのか受動的なのかがわからなくなって、トランス的な深みに入るというか。だからパフェを食べるっていうのは、普通に性的な行為ですよね。 ――自分の足場を崩すというか、自分の感覚や常識が揺らがされる体験を受け入れて楽しめる人って、実はそれほどいないんじゃないかと思います。 斧屋 驚くこと自体を不快に感じる人っていますよね。「驚かされたら負け」みたいな。でも僕はやっぱり揺らぎたいし、揺らがされることが好きなんですよね。自分が定まっていないっていうことに価値を見出している。そう思えるのは、根本的なところで自分に自信があって、「自分は揺らいでも大丈夫だ」と思っているということなのかもしれませんが。 パフェと相対しているときも、なるべくパフェの声を内側に取り込みつつ、場合によっては今まで「まずい」と思っていたものを、「それって本当に“まずい”でいいのか?」というのを問い直していくように、つねに暫定的な答えを出しながら更新させていく。その方がおもしろいなと思います。 ――口にしたものが変な味だと感じたときに、多くの人は食べ物の方に異常があるんだと考えてしまいますよね。もしかしたら、自分の味覚がおかしくなっているかもしれないのに。 斧屋 僕は基本的に「まずい」って言う自信がないんですよね。そこまで自分の感覚・感情を信じられてしまうのって、すごく怖いことだと思います。それに、自分と対象の相互作用のことを考えないと、アイドルの現場で問題が起こったときも、アイドル側に全ての責任を負わせることになったりします。パフェだって、どうやっておいしく味わえるかを考えながら食べますよね。だから食べる人のコンディションがすごく悪かったり、嫌な気持ちのままで食べたりするときって、おいしいパフェは完成しないんです。 ――やはりお互いのことを考えて、対話をしないといけない。性的なことにしてもそうですよね。 斧屋 「対象との相互作用を考える視点はつねに持たなければならない」というのが、僕の評論のテーマなんだと思っています。ただ性的な問題でもそうだと思いますが、難しいのは、相手が本音や要望をはっきり言ってくれないかもしれないということ。だからこそ、かなり繊細な相互作用になると思うんですよ。アイドルだって「みんなのこと見てるよ」って言うけど、「本当にそうなのかな」って思っちゃいますよね。人と人との間には、絶対にそういうことが起こってくる。 アイドルの現場はファンとの相互作用でおもしろくなっていくもので、パフェにもその姿勢は絶対に必要です。ソースをかけたり、手を加えたり、そういう体験でパフェが全然変わるっていうことも重視しないといけない。パフェもまた、声を出さないからね。「声なき声を聴きながら気持ちいいところを探って、そして自分も気持ちよくなる」という感じではないでしょうか。 (聞き手・構成/餅井アンナ)

有村架純『ひよっこ』最悪のスタート……不評の『べっぴんさん』のあおり食った!?

有村架純『ひよっこ』最悪のスタート……不評の『べっぴんさん』のあおり食った!?の画像1
 3日にスタートしたNHK連続テレビ小説『ひよっこ』(有村架純主演)だが、初回視聴率は19.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)と、2012年後期『純と愛』(夏菜主演)の19.8%以来、9作ぶりに20%の大台を割る失態を演じてしまった。「楽勝で大台超え」を予想していたはずの同局にとっては、想定外の大誤算となったようだ。  ヒロインは、すでに多くのドラマ、映画で主役を張ってきた有村とあって、その注目度は前作『べっぴんさん』(芳根京子主演)とは比較にならないほど高かっただけに、なにゆえこのような数字に終わってしまったのか気になるところだが……。 「ひとえに、視聴者の“朝ドラ疲れ”といえそうです。社会現象を巻き起こした13年前期『あまちゃん』以降、固定視聴者が増えた朝ドラですが、ドラマの内容はどうあれ、“視聴習慣”で数字を取ってきた感がある。ところが、『べっぴんさん』が不評で、離脱する視聴者が増えてしまったのでしょう。『ひよっこ』は、完全にそのあおりを受けてしまったといえそうです」(テレビ誌関係者)  実際、朝ドラの平均視聴率は『あまちゃん』以降、15年前期『まれ』(土屋太鳳主演)以外の7作が20%の大台を超えている。『べっぴんさん』は、ヒロイン・芳根のネームバリューの低さが懸念されたが、その前の『とと姉ちゃん』(高畑充希主演)、『あさが来た』(波瑠主演)の2作が好評だったため、そのまま惰性で朝ドラを見続けた視聴者が多かったのだろう。しかし、終盤になって完全に失速し、低視聴率を連発。ラスト4週の週平均視聴率は20%を割り、最終回も19.8%で大台に乗らなかった。朝ドラ最終回の視聴率が20%を超えなかったのは、史上ワースト視聴率に終わった、09年後期『ウエルかめ』(倉科カナ主演)以来、14作ぶりという不名誉な記録も作ってしまった。  だが、『ひよっこ』には、それほど悲観するような要素はないようだ。 「『べっぴんさん』は、もともとカネ持ちのお嬢様が商売を始めたところ、大急百貨店社長の強力なプッシュを得て、苦労することなく大成功を収めるというストーリーで、視聴者の共感があまり得られなかったようです。主人公・坂東さくらのキャラクターも、『自分の言い分を押し通す傲慢な女』とのイメージで、これまた共感は得られにくく、ヒロイン・芳根の存在感も薄かった。その点、『ひよっこ』の主人公・谷田部みね子(有村)は茨城の貧しい農家の娘で、出稼ぎに行った父を探すために、集団就職で上京する苦労話。今後“泣けるシーン”が何度もありそうで、まさに『朝ドラらしい朝ドラ』になりそうです。ドラマの評判を耳にすれば、一度は離脱した朝ドラファンも戻ってきて、視聴率も上がっていくだろうと見ています」(同)  初回で20%割れといえば、12年前期『梅ちゃん先生』(堀北真希主演)も、初回18.5%のスタートながら、その後巻き返して、平均20.7%まで持っていった作品もある。『ひよっこ』も、そうなることを期待したいところだが……。 (文=田中七男)

有村架純『ひよっこ』最悪のスタート……不評の『べっぴんさん』のあおり食った!?

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 3日にスタートしたNHK連続テレビ小説『ひよっこ』(有村架純主演)だが、初回視聴率は19.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)と、2012年後期『純と愛』(夏菜主演)の19.8%以来、9作ぶりに20%の大台を割る失態を演じてしまった。「楽勝で大台超え」を予想していたはずの同局にとっては、想定外の大誤算となったようだ。  ヒロインは、すでに多くのドラマ、映画で主役を張ってきた有村とあって、その注目度は前作『べっぴんさん』(芳根京子主演)とは比較にならないほど高かっただけに、なにゆえこのような数字に終わってしまったのか気になるところだが……。 「ひとえに、視聴者の“朝ドラ疲れ”といえそうです。社会現象を巻き起こした13年前期『あまちゃん』以降、固定視聴者が増えた朝ドラですが、ドラマの内容はどうあれ、“視聴習慣”で数字を取ってきた感がある。ところが、『べっぴんさん』が不評で、離脱する視聴者が増えてしまったのでしょう。『ひよっこ』は、完全にそのあおりを受けてしまったといえそうです」(テレビ誌関係者)  実際、朝ドラの平均視聴率は『あまちゃん』以降、15年前期『まれ』(土屋太鳳主演)以外の7作が20%の大台を超えている。『べっぴんさん』は、ヒロイン・芳根のネームバリューの低さが懸念されたが、その前の『とと姉ちゃん』(高畑充希主演)、『あさが来た』(波瑠主演)の2作が好評だったため、そのまま惰性で朝ドラを見続けた視聴者が多かったのだろう。しかし、終盤になって完全に失速し、低視聴率を連発。ラスト4週の週平均視聴率は20%を割り、最終回も19.8%で大台に乗らなかった。朝ドラ最終回の視聴率が20%を超えなかったのは、史上ワースト視聴率に終わった、09年後期『ウエルかめ』(倉科カナ主演)以来、14作ぶりという不名誉な記録も作ってしまった。  だが、『ひよっこ』には、それほど悲観するような要素はないようだ。 「『べっぴんさん』は、もともとカネ持ちのお嬢様が商売を始めたところ、大急百貨店社長の強力なプッシュを得て、苦労することなく大成功を収めるというストーリーで、視聴者の共感があまり得られなかったようです。主人公・坂東さくらのキャラクターも、『自分の言い分を押し通す傲慢な女』とのイメージで、これまた共感は得られにくく、ヒロイン・芳根の存在感も薄かった。その点、『ひよっこ』の主人公・谷田部みね子(有村)は茨城の貧しい農家の娘で、出稼ぎに行った父を探すために、集団就職で上京する苦労話。今後“泣けるシーン”が何度もありそうで、まさに『朝ドラらしい朝ドラ』になりそうです。ドラマの評判を耳にすれば、一度は離脱した朝ドラファンも戻ってきて、視聴率も上がっていくだろうと見ています」(同)  初回で20%割れといえば、12年前期『梅ちゃん先生』(堀北真希主演)も、初回18.5%のスタートながら、その後巻き返して、平均20.7%まで持っていった作品もある。『ひよっこ』も、そうなることを期待したいところだが……。 (文=田中七男)