佐々木希に急接近のGACKT、アンジャッシュ・渡部建と共演NGに?

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 ミュージシャンのGACKTが佐々木希に急接近したことで、あの男との共演がNGになるかもしれない。  GACKTと佐々木は3月25日公開のハリウッド映画『キングコング:髑髏島の巨神』の日本語版声優として共演。17日に更新したGACKTのインスタグラムでは、佐々木とのツーショット写真が公開され、話題を呼んでいる。 「インスタでは、15日に佐々木とともに参加したジャパンプレミアでのことに触れ、『寒いのに薄着でよく頑張った!』とねぎらい、笑顔でピースサインの佐々木を『希ちゃん可愛いね。こういう笑顔はいいねぇ』と絶賛しています。映画の公開アフレコの際も緊張してトチりまくり、『ごめんなさい』を連発する佐々木に『かわいいな~』を連発。『僕はかわいい人には優しいですよ』と、サラリと“告白”していました。佐々木は、GACKTのどストライクの顔ですし、彼女を狙っている空気がアリアリ。今回のインスタで顔を寄せ合う様子は、まるで恋人のようです」(芸能記者)  しかし、これにイライラを募らせているのが、一部で佐々木との同棲報道もあったアンジャッシュの渡部建だという。 「渡部は佐々木との交際ネタでイジられることはしょっちゅうですが、交際を公言していない。というのも、自分ではお笑い界のイケメン枠に入っていると思っており、公言すると女性人気が落ちることを懸念しているからです。それを知ってか、GACKTは『俺だったら認めるけどね』と言って、佐々木を口説いているといいます」(業界関係者)  渡部といえばグルメキャラで通っているが、GACKTのほうも正月特番で肉やワインの味を完璧に見分ける「一流芸能人」だ。 「さらに、高級車も所有しており、こちらも“元ヤン”佐々木へのアピールポイントになるでしょう。渡部はフジテレビで歌番組の司会に起用されることも多いですが、周囲が気を使って、今後2人の共演はNGとなりそうです」(同)  渡部とGACKT、佐々木のお相手としてしっくりくるのはどちらだろうか?

HKT48・指原莉乃、“放送事故”で大ピンチ!? 運営スタッフが「指原人事」の実態をポロリ

 今年6月に沖縄で開催される予定の「AKB48 49thシングル選抜総選挙」。この立候補受付の模様が、ネット放送で生中継されたのだが、AKB48運営スタッフが、“放送事故”を起こしてしまったという。

 問題の放送は、3月26日に「SHOWROOM」で配信された。関係者によるトークシーンの途中、休憩を挟む場面があったのだが、誰も気がつかないまま、配信が続行されてしまったという。

「そのシーンに登場していたのは、グループ総支配人の茅野しのぶ氏ほか、光文社、NHK、日刊スポーツら一般メディアの“AKB担”。彼らが、『純粋にルックスがいいメンバーを取り上げる』という企画案について話をし始めたんです」(アイドル誌関係者)

 配信が続いているとはつゆ知らず、出演者らはNMB48・白間美瑠、HKT48・宮脇咲良らの名前を挙げて盛り上がっていたが、HKTの研究生・月足天音の名前が出た瞬間、事件が起こった。

「茅野氏が、『さっしー(指原莉乃)が全然伸び率ないとか言ってたよ』と発言し、ほかの出演者が『え~……』と落胆。急に重たい空気が広がったんです。指原はHKT内で強大な“人事権”を持っており、実際に指原から敵視されたことで“窓際族”となってしまったメンバーも存在しています。これを許しているHKTの運営にも問題はあるものの、そのことが若手メンバー、さらには一部ファンにまで伝わってしまっていることが、グループにとって一番の問題ですね」(同)

 この翌日、月足は「SHOWROOM」で生配信を行い、突然前触れもなく号泣し始めたことが、ファンの間で物議を醸していた。

「間接的にとはいえ『指原から期待されていない』と知って、絶望したため泣いてしまったと聞いています。しかし、スタッフ内では当たり前とされている“指原人事”が公になったことで、指原自身も大きな焦りを覚えているようです。内部スタッフも『この騒動が、指原政権交代のきっかけになってしまうかも』とささやき合っていますよ」(AKB運営関係者)

 指原は26日、『ワイドナショー』(フジテレビ系)で「もし(総選挙に)出るとしたら今年が最後と決めている」などと発言していた。その結果が発表される前に、自身の醜悪さが身内から露見してしまうとは、まさに想定外だったことだろう。

嵐・櫻井翔、小川彩佳アナとの結婚“Xデー”は再来年7月か!?「松本潤との亀裂も深刻化」

 嵐から脱退か、それともグループ解散となるのか――。嵐・櫻井翔とテレビ朝日の小川彩佳アナに熱愛が報じられたことで、メンバーの松本潤との亀裂が深刻化しているという。

「小川アナとの交際報道については、ジャニーズサイドも容認している。つまり、結婚を前提とした交際なのは間違いない。気になるのは、そのタイミングです。一部では、東京五輪取材をキャスターとしての集大成にしたい櫻井が、“それまでは結婚しない”と語っていた、と報じられています。しかし、ジャニーズサイドがGOサインを出すのは2年後ではないか、というのが芸能関係者のもっぱらの予想です。というのも、2019年7月に群馬県知事選が行われ、そこに櫻井の父親である元総務事務次官の桜井俊氏が立候補することが有力視されています。ジャニーズとしても、政界とのパイプを持つタレントがいることは貴重ですし、息子の結婚が大々的に報じられれば、桜井氏の選挙にも有利に働くのは間違いありませんからね」(業界関係者)

 しかし、そうなると黙っていられないのが松本だ。“10年愛”を育んできた女優の井上真央とは、AV女優・葵つかさとの二股報道が原因で破局したとの見方が強まっていたが、3月23日発売の「週刊文春」(文藝春秋)によれば、現在も交際は続いているという。

「30歳の井上は、松本との結婚を優先させるために、芸能界引退を辞さない覚悟で事務所を移籍。出演していたCMも自ら降板し、現在は開店休業状態です。ジャニーズには同じグループからは1人しか結婚できない不文律がありますから、櫻井が結婚するということは、松本は結婚できないということと同義。このことで、松本の怒りは櫻井に向けられ、松本を不憫に思ったほかのメンバーも同調。櫻井一人が浮いてしまっている。グループ解散もまったくあり得ない話ではないばかりか、むしろ可能性はかなり高いと見ていますよ」(同)

 嵐は、いつまで「仲良しグループ」を演じ続けることができるだろうか?

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ジャニーズがネット事業に本腰を入れ始めた裏事情「“蜜月”フジテレビの凋落で……」

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 ジャニーズ事務所の7人組アイドルグループ「ジャニーズWEST」が、米動画配信大手「Netflix」のオリジナルドラマ『炎の転校生 REBORN』(今年冬配信)に出演することが発表され、話題になっている。  これまでジャニーズ事務所は「タレントの肖像権を守るため」として、所属タレントの写真をほとんどネット上に掲載していなかった。所属タレントの出演ドラマが、テレビ放送終了後、動画サイトで配信されることはあったが、ネット配信限定のオリジナルドラマに出演したこともない。 「よく知られているのが、ジャニタレが出席する記者会見でのフォトセッション。ジャニタレの写真はネット掲載NGのため、わざわざ彼ら抜きの絵作りをする。そのため、大手メディアのネット記事は、ジャニタレがメインの内容であっても、ほかのタレントの写真が使われることになる。ジャニタレが表紙の雑誌でも、各出版社がその雑誌をネット上で販売する際には黒塗りにするなど“自粛”させられていた。唯一の例外は、受賞者の写真が掲載される『日本アカデミー賞』の公式サイトぐらいだった」(芸能デスク)  前述のドラマは世界190カ国で配信予定だというが、Netflixといえば、お笑いコンビ・ピースの又吉直樹の芥川賞受賞作『火花』をいち早く連続ドラマとして映像化し、話題になったが……。 「正直、サイト自体での『火花』の視聴者数はそれほど多くなく、話題にならなかった。現在は、放送権を買い取ったNHKで放送されている。ジャニーズ事務所としては、今後のネット展開に向けての試金石としてWESTを投入するわけだが、それほど稼げるとは思っていないようだ」(同)  では、ジャニーズの本当の狙いは、どこにあるのだろうか? 「以前からネット上でのオリジナルコンテンツの制作に高い関心を持っており、また蜜月だったフジテレビの凋落ぶりもあり、すでにテレビ各局を見限っている。そもそも、今のジャニタレのファンの大半はスマホ世代で、テレビよりもネット派。ネットのコンテンツにうまく課金するように仕向ければ、それなりの売り上げが期待できる。今後は、さまざまなトラブルを生んでいたコンサートのチケット販売も、ネット展開される可能性が高い」(芸能プロ関係者)  果たして、SMAP解散で大幅にダウンした売り上げを回復できるだろうか?

初動では1,300枚の僅差! 連続1位を狙うSexy Zoneを、解散前の°C-uteが猛追

 3月29日に最新シングル「ROCK THA TOWN」をリリースしたSexy Zone。デビューシングル「Sexy Zone」から2016年10月発売の「よびすて」まで、全12作連続でオリコン週間シングルランキング1位の記録を持っているSexy Zoneだが、初動の売り上げがわかる店頭入荷日の3月28日付のオリコンデイリーランキングでは、推定売上5万6,026枚で1位を獲得している。

 前作の「よびすて」では、THE YELLOW MONKEYが15年ぶりのシングル「砂の塔」を同日にリリースし、週間ランキング1位の争いを繰り広げていたことが記憶に新しい。発売初日と……

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木村拓哉、ドラマ打ち上げでSMAP曲“熱唱”! 「照れ臭い感じは非常にする」と告白

 1月期の主演ドラマ『A LIFE~愛しき人~』(TBS系)で、天才外科医・沖田一光を熱演した木村拓哉。SMAP解散後、再スタートとなった主演作は平均視聴率14.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録し、2ケタをキープしたままクールトップに輝き幕を閉じた。そんな同作品の打ち上げでは、木村が“SMAPメドレー”を披露する一幕があったという。

 3月30日発売の「女性セブン」(小学館)によると、打ち上げが行われたのは最終回の放送当日である19日。木村を筆頭に竹内結子、浅野忠信、松山ケンイチ、及川光博ら主要キャストが集まり、最終回を大スクリーンで映しながら一緒に鑑賞したという。

「同誌によれば、盛り上がった一行は高級ダイニングバーへ移動し、二次会を開催。午前0時頃になると、共演者やスタッフと飲んでいた木村が、1人でふらっと店奥のカラオケルームに入室し、1998年のSMAPのヒット曲『夜空ノムコウ』を熱唱し始めたとのこと。松山ら共演者もカラオケルームに流れ込み、木村1人が同曲を歌い上げると、拍手喝采だったそうです」(ジャニーズに詳しい記者)

 その後も木村はマイクを離さず、「SHAKE」「セロリ」「青いイナズマ」「世界に一つだけの花」と次々にSMAPの代表曲を熱唱。打ち上げに参加したスタッフは「さながらソロコンサート」だったとコメントしている。サービス精神旺盛な木村に出演者も大興奮で、予定されていたNG集の上映が中止になるほどだったとか。

 SMAP時代はグループとしてのシングルリリースなどはもちろん、週に一度は『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)で歌唱していたが、解散後は歌やダンスを披露する機会が減少。本人もそのブランクに不安を抱いているようで、17日放送のラジオ番組『木村拓哉のWhat’s UP SMAP!』(TOKYO FM)では、珍しく弱音を吐いていた。

 4月に放送される明石家さんまとの特番『さんタク』(同)に関し、リスナーから「『さんタク』といえば、歌! 今や、拓哉さんの歌う姿を見るのは、スゴく貴重です。なので、『さんタク』では思いっきり歌い手・木村拓哉を見せてほしいです」との声が届くと、木村は、

「歌ね~。アイデアは提示されているんですけど、それがどういう形になるかっていうのは、今ものすごく。どうなんだろう? っていう。ものすごい、不透明ですね。まぁ、歌うとなったら、久々で照れ臭い感じは非常にするんですけども。うーん……ちゃんと形になるかな~? 不安ですね」

と、胸の内を告白。『さんタク』で披露されるかは不明ながら、ドラマの打ち上げで歌っていたということは、木村自身、SMAPの楽曲を人前で歌うことに抵抗はないのかもしれない。

「今後は主演映画『無限の住人』の公開(4月29日)が控えており、『さんタク』だけではなくバラエティ番組などにも登場するものとみられています。映画公開前には『SONGS』(NHK、同20日放送)で、同作の主題歌『Live to Die Another Day‐存在証明‐』を担当するMIYAVIとの対談が決定。残念ながら、ここでは歌うことはないようですが」(同)

 ファンの間では、映画のPRで『SmaSTATION!!』(テレビ朝日系)に出演し、解散後初めて香取慎吾と共演を果たすかどうかにも注目が集まっているという。いつかまた木村がファンの前でSMAPの楽曲を歌う日は来るのだろうか。

ドラマ共演の亀梨和也と山下智久、現場で一切会話せず!?

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 やはりそうなったか……。  4月15日スタートの土曜ドラマ『ボク、運命の人です。』(日本テレビ系)に主演するKAT-TUNの亀梨和也と共演する山下智久のギスギスした関係に、撮影現場は異様な雰囲気に包まれているという。  ドラマは「神」と名乗る山下智久が、亀梨和也と木村文乃の恋愛を盛り上げるという内容で、亀梨と山下は12年ぶりの共演となる。さらに、ユニット「亀と山P」として担当する主題歌「背中越しのチャンス」が3月28日に『ZIP!』(同)で解禁されると、「僕らも30代、思い切りはしゃぎたい」(亀梨)、「かわいらしい振り付けなんですよ。だから僕たちも勇気を振り絞って踊ってます」(山下)と、それぞれ意気込みを語っていた。  しかし、ドラマの撮影現場の空気は、そんな和気あいあいとしたものではないようだ。日本テレビ関係者が語る。 「そもそも、2人の仲は初めから良好ではないですよ。山下は元ジャニーズの赤西仁率いる『赤西軍団』に所属し、関ジャニ∞の錦戸亮、俳優の城田優らとともに頻繁に夜の街に繰り出したり、海外旅行に行ったりするなど、非常に仲がいい。一方、KAT-TUNでは、赤西と亀梨はバチバチのライバル関係で、互いをディスり合うことも頻繁にあった。そんな2人の共演ですから、スタッフからも心配の声が上がっていました。案の定、撮影中にも、亀梨から演技に注文をつけられた山下が、ふてくされて楽屋にひきこもってしまったことも。撮影の合間に2人がしゃべっているところを見たスタッフは皆無だそうです」  2005年に放送されたドラマ『野ブタ。をプロデュース』(同)で共演した際には、亀梨と山下はW主演だった。しかし、今回2人の扱いに差がついたのには、ジャニーズの派閥事情があるという。 「山下はSMAPの元マネジャー飯島三智派でした。つまり、現在は事務所的には“反逆者サイド”のタレントと見られています。一方の亀梨は、『ポスト木村拓哉』として事務所が猛プッシュしている最重要タレント。とはいえ、山下のほうが、2年入所が早い先輩ですから、後輩からのダメ出しなど受け入れ難い屈辱でしょう」(芸能記者)  今後、ドラマの番宣で共演することが多くなりそうな2人。そんなギクシャク感が、お茶の間に伝わらなければいいが……。

「この出産じゃ愛着生まれない」『ドラゴンボール超』でのブルマの出産方法が物議を醸す!

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東映アニメーション公式YouTubeチャンネルより
 死んでも死んでも、生き返ることが当たり前の『ドラゴンボール』(作:鳥山明/集英社)の世界で、いまさら倫理観についての議論がネット上で行われている。なんでも作中での出産方法が一部視聴者から反感を買っているようなのだ。  3月26日放送の『ドラゴンボール超』(フジテレビ系)第83話「第7宇宙代表チームを結成せよ!最強の10人は誰だ!?」では、宇宙の代表者を集めて戦う「力の大会」に備えて、孫悟空たちが自身の住む第7宇宙のメンバーを集める展開が描かれた。 「力の大会」は、代表者が負けたら宇宙ごと消されてしまうという宇宙丸ごとの命運を賭けた試合のため、当然最強のメンバーを集めたいと思う悟空たち。クリリン、人造人間17号、18号、亀仙人などの名前を挙げる中、悟空は当然のようにベジータも誘った。しかしベジータはなんとこれを断ったのである。  戦闘が大好きなベジータが、宇宙の強者と戦えるチャンスを見送ろうとしていることに驚く悟空。破壊神ビルスは「お前も参加しろ! これは命令だ!」と、ベジータに詰め寄るが、ベジータは妻のブルマが出産間近ということを理由に断固拒否する。  するとこのようすを見かねてビルスの付き人である天使・ウイスがブルマの元へ行き、呪文を唱えてお腹から赤ん坊をあっという間に取り出してしまったのだ。ウイスはドヤ顔で「ベジータさん。これで出場できますね」と言い、ブルマも「ありがとう、楽で助かったわ」「またウイスさんにお願いしようかしら」と喜んでいたが、これに一部視聴者が違和感を覚えたよう。 「こんなのやっちゃって良いのか?」「この出産じゃ実感なくて愛着生まれないんじゃないかな」「安全で良いといえば良いんだけどなんだこのモヤモヤ感は」「死が軽い世界だけど誕生まで軽くなっちゃったか」といった声が上がっている。  しかし一方で「ドラゴンボールでリアルな出産シーンされても冷めるだけだし」「このドライ感こそ、俺が好きなドラゴンボールというか鳥山明の世界観だ」「ブルマが受け入れてんだから部外者がとやかく言うなよ」と擁護の声も上がっている。また「これ批判してるの男だよね。女なら出産の苦労がなくて最高じゃんという感想がでるんですけど」「私も助産師さんウイスさんが良かった」といった声も。この出産にツッコミを入れるのは野暮かもしれない。

『この世界の片隅に』と凶器としての「普通」

私がこうの史代原作のアニメ映画『この世界の片隅に』を見たのは最近のことです。単に出遅れていました。でも、本作が上映され始めたとき、少し衝撃を受けたことはよく覚えています。「祖母と見に行った」「祖母のことを思い出した」というつぶやきがSNSやブログにあふれたのです(注1)。 (注1:例えばこのまとめにある記事など。http://momomomo1232.hatenablog.com/entry/2016/11/30/010619) その時は素直に、これはすごい作品なのかもしれないと思いました。ですが、なぜこんなにも、北條すず(旧姓浦野)というヒロインを自らの祖母や母に重ねる人が多いのか、と奇妙な感じも残りました。 仕事で予定が合わず、1月の末にようやく映画を見に行きました。そして漫画原作も購入して読みました。以下では基本的に映画版についての感想を中心に書きますが、必要に応じて適宜漫画版についても触れることにします。 本映画は細部まで時代考証が凝らされ、人物の描写は繊細で深みがあり、確かに評価には納得のいく作品でした。その優れたところについては既に数多くの批評、感想が触れているのでここでは繰り返しません。 私が書きたいのはむしろ、本作に関して自分がどうにも批判的なまなざしを持ってしまった部分についてです。それは主に二つあります。一つは本作における「普通」という言葉の使われ方で、もう一つは「広島」の描かれ方についてです。 「普通」の多義性と平凡に押し込められる女性像 「普通」とは何でしょうか。本作で「普通」はすずについてまわる言葉です。たとえば作中のクライマックスの1つに、既に人妻となった主人公のすずが、かつての幼なじみであった男性、水原哲の訪問を受け、言い寄られるシーンがあります。その時、水原はすずがとても「普通」であり、だからこそ良いという趣旨のことを述べます。 本作に対する感想や評を検索しても、「普通の人」「普通の日常」といったキーワードが散見され、更には戦時中を生き抜いた日本人女性全般を念頭に置いた「たくさんのすずさんたち」という表現すらみられます。このように「普通」は本作のヒロインの人となりに結びついた言葉であるばかりか、作品全体を貫く中核的なキーワードとみなされている様子が伺えます。 しかし、実際のところ「普通」という言葉とすずの造型には「かみあわなさ」もあると私は感じます。本作ですずに関して語られている台詞を少し細かく見ることで、そのことを考えてみたいと思います。 まず、前述の水原とのシーンですが、ここで「普通」は主に、既に夫のいるすずが、誘惑されつつも、最終的には夫のため貞操を守ったこと、そして戦時中という非常時にもかかわらず「あたりまえの」感情的反応をし、家事を行うなど、日常のリズムを保てていることの二つに対する反応といえます。つまり、ある種の倫理的な「まともさ」のことをさしているわけです(実際、その後の場面では「普通で…まとも」と言い換えがなされています)。 その一方で、本作の全体を通して見えてくるのは、すずは決して平均的な女性ではないということです。少なくとも映画版の描写だと、子どもの頃から異様に絵が巧く、長じてからは、特に専門教育を受けたわけでもないのに、ずいぶんと遠近把握のしっかりした絵を描いています。そして、子どもの頃から、日常を漫画のような絵にして物語り、妹を面白がらせるなど、非常に豊かな内面世界を持っていた様子も描かれています。 同時に、本人も自覚しているように、すずは「ぼーっとして」おり、裁縫など一部の日用技術が不得手です。集中できるものとそうでないものにかなりのムラがあるのです。その特性が災いしてか、彼女は周りの人々が作る世間のスピードとは同調しておらず、どちらかというと空気は読めないし、世情にも疎い。婚家においては、服装のあり方や、気が利かないとして、義理の姉、徑子からハラスメントを受けて、脱毛が起きるほどにストレスをためてしまいます。 やはり、すずは平均的、平凡という意味での「普通」の人ではないでしょう。「変わってるけどいい子」「変わってるけどまとも」という表現の方が的確であるように感じます。 すずは何らかの素質を持ちながらも、周りのスピードには明らかについて行けない女性です。むしろそのおかげで、戦争という世間の狂気から一定の距離を保つこともできています。空気など読まないから自分の世界を保てているのです。 しかし、作中で彼女は、そんなぼーっとしている自分でも「お嫁に行けた」と呟きます。この台詞に込められたニュアンスは、すずの義姉が、周囲の言うがままにお嫁に来た彼女の人生を「つまらない」と評していることを考慮するとわかりやすいでしょう。すずは変わった子なのですが、むしろそれゆえに、「平凡な人生を歩む」ことを肯定的に捉えていると解釈出来るのです。いってしまえばこの部分は、微かにハンディキャップを抱えていた者の「私は人並みになれた」という独白ともなっています。 「平凡である」ことと、倫理的に「まともである」こと、この両者は一件似ているようでかなり違います。英語で言えば、前者はordinary(平均的、ありふれている)であり、後者はnormal(正常)、あるいはsane(正気、まとも)でしょう。日本語の「普通」は多義的です。ですが、本作ではその細かな差異がそれぞれの名称を充分に与えられることなく、「普通」としてひとくくりにされています。そうすることで、見えなくなっている、あるいは誤魔化されているものがあるように思います。 たとえば、幼なじみの水原が「お前は普通」を性愛の文脈で呟くことは、私を困惑させます。歴史的にいって、女性は「平凡さ」に押し込められてきた存在であることを思い出させるからです。教育制度も、親も、周囲もそのように女性を誘導しようとしてきたし、今でもまだその傾向があります。彼らは女性に、家事が出来る程度には賢くあって欲しいが、予想の範囲を越えるほどの尖った才能や知性を示して欲しくはないのです。突き抜けた個性は刈られるか、または辱められ、自尊心を脅かされます(例:お嫁に行けないかも知れない)。 この男はすずが「普通」に対してコンプレックスを持っていたことを感知していたのだろうか、と邪推したくすらなります。だが、別の考えも浮かびます。彼は彼女の絵の才能をよく知っていたし、群れから外れた子どもであることも見抜いていました。だから「お前は他の奴に流されないんだな」と認めて「(他の奴らはおかしくなってるのに)まともだな」と言ったとも思えるのです。話の流れからして、こちらの方が恐らく適切でしょう。水原はそのあとで、軍人となったことで奇妙に称えられ、崇められる自分の状況への違和感を語り、立場の変わった自分に対しても変わらぬ態度で接してくれるすずに「安心」しているのですから。 しかし、作者も脚本家もそのことを明示せず、「他の奴とは違うな」ではなく「普通」と言わせます。それにより、すずの、実は尖っているかもしれない個性の話は見えづらいものとなってしまうのです。 更に言えば、恐らくはすずも憎からず思っていたであろうこの水原には、悪気はないとは言え、子どもの頃にすずの描いた絵を自分の名前で提出し、称賛されたというエピソードがあります。すずの独特さを子どもの頃から一番わかっているはずの彼は同時に、彼女の名誉の簒奪者でもある。皮肉なことです。 しかもそれに対し、すずはまったくそれに怒りを見せる様子はありません。むしろ、先述べたように、「こんなわたしでもお嫁に行けた」とひたすら謙虚です。彼女自身が、与えられた天賦の才(右手)をまるで評価していないからです。その描写は、どれだけ絵が描けても夢のひとかけらすら見ることが許されなかった時代の女性の姿を伝えるものとして、リアルでもあります。 しかしながら、本作はそのようにリアルな時代の要素を巧みに入れ込みつつも、最終的にはあまりその種の問題意識を掘り下げることはありません。それよりは「普通=平凡」賛歌に資するような日常の描写を優先させており、巷には「普通の人」を描いたことへの称賛が今日も溢れているのです。 なるほど、我々が住むこの社会でも、本作のような「普通」の使用法はありふれているでしょう。だがそのような言葉は、多くの小さな、しかし見逃せないことを塗りつぶしてしまう凶器ではないか? この映画には、その凶器が放置されていると感じました。それもひょっとすると、かなり意図的に。 広島、ほのめかしと省略 次に、「広島」について。まずことわっておくと私は広島出身者ではありません。だから恐らくよくわかっていないことは沢山あります。ただ、数年間広島に住んでいたので、広島県の「外」と「内」とで、どのくらい戦争や原爆といったことへの感覚が違うかを思い知らされたことはあります。 そこで思ったのは、本作において、広島の描き方はこれでよかったのだろうか、ということです。率直に言えば、この内容を語るのに、ここまで砂糖をまぶさないといけなかったのか? という気持がしてしまったのです。 すずは広島市の出身なのですが、呉市に嫁いだだめ原爆は免れます(実家の家族は犠牲になり、妹は生き残るが原爆症の兆候を示しています)。ただ、すずは呉で不発弾の犠牲となり、一緒にいた義姉の子、晴美と自分の右手とを一気に失います。このシーンは白眉であり、演出も素晴らしい。光で白くなり、あの時反対側にいたら、あの場所を通るタイミングが少しでも違っていたら……と、モノローグが流れます(原作の漫画をほぼ踏襲した描写でもあります)。 だが、感動と衝撃の中にも私はつい思ってしまいました。 「何故この映画は、原爆体験の繰り返しのような独白を、呉で負傷した広島出身のヒロインに語らせたのだろう。何故、そのような『ずらし』をしてまで、広島の原爆についての直接描写を避けたのだろう」 本作において「広島の原爆が省略されすぎていないか」という批判は既になされています。それに対し、「いや、ちゃんと描かれている。あのシーンの右端に、広島から逃げてきた人達が描かれている」「終わりのシーンで広島の街も無残な死に方をした人も出てくる。作者はちゃんと描いている」等々の指摘がすぐに飛んでくることも承知しています。確かに、「注意すれば」ちゃんと見つけられるくらいの要素としては描かれているのです。 (注2:最も印象に残ったのは次のまとめ記事。津原泰水さんの「『この世界の片隅に』で省略されていることについて語らない人々」 https://togetter.com/li/1058056) ですが、私が改めて問いたいのは、本作の制作陣が「一体誰のために、そこまで『まわりくどい表現をすること』にこだわる必要があったのか?」ということです。 そして、だいたいの答えを私は推測できる気がしています。それは、原作者があまりにもよく「広島で原爆について語る事」の意味を知っていたから、そして同時に、日本の大半の人々があまりにも広島について無知であることをも知っていたからではないでしょうか。 広島では、既に数多くの原爆についての文学作品や漫画などがあり、しかも人々は教育を通じて子どもの頃からそれらに触れて育ちます。更に言えば、戦後70年の間には広島の中で「どのように原爆を語るか」をめぐり激しい論争(主に文学において)を体験しています。原爆をリアルに書けば左からは「戦争責任を忘れて被害者ぶっている」といわれ、右からは「原爆は悲惨、平和は大事なんて聞き飽きた」との声が飛んでくるという困難。既にあらゆる表現が出尽くして、苦い亀裂を体験している人々の中には、ほのめかす程度の僅かな表現があればそれでわかるからよい、という気持を持つ人もいるでしょう。 また、歴史的背景を考慮すれば、間接的に、韜晦(とうかい)表現でもって広島を語るにあたり、呉を舞台に選ぶことは適切ともいえます。何故なら呉はある意味で、広島とは双子の都市であったからです。戦後、米軍は原爆の被害を知るため、人口規模の似た同市を比較参照都市としていました。どういうことかというと、本来同じ条件にあったはずの両都市の間で、寿命や疾病率に違いがあるかを調べたのです(この時のデータは今でも放射線防護学の基礎として使われています)。このことも恐らく当地ではよく知られているでしょう。 他方で、広島の外の人々は、残念ながら、恥ずかしいほどに何も知りません。『はだしのゲン』ですら、実は現実に起きたことよりも和らげてあるのですが、そうした認識すら持てない人が増えています。そのため、リアルな描写にはしばしばついていけないし、悪いことには、「知らなかったこと」の自責の念から逃げるため、目を背けるようなことすらあります。こうした人にとって本作のような語り口は実に「心地よく感情移入できる」ものかもしれない。ですが、それでいいのでしょうか。 この作品は後者に属する人々に対して過度に優しい、と私は思います。そうあることで、意図してかはわからないけれど、ある種のメッセージを伝えてしまっていると感じます。「もちろん戦争の残酷さはわかってるんです。でも、声高に主張することないでしょう。普通でいいじゃないですか、それが大事なんです」という、ある種の立場、いうなればイデオロギーを。 意地悪な見方かもしれませんが、この「声高に主張しない」は、実は人並み優れた部分を持ちながら、「平凡=普通」に埋もれようとするすずの生き様にも共通する要素であるため、余計にそういう印象を与えます。いわば、水原の盗作を許容できる「おおらかな」すずのまなざしを通して、私たちは戦争を眺めることを強いられている。そして、広島はその視界の中で奇妙に断片的で、見えづらいものとなっているのです。 それは彼女に自らの母や祖母を重ねて感情移入できる人にとっては、些細な問題であるかも知れません。だがそうでない私のような者にとっては違和感の連続でした。これでいいのか、という疑問がわいてくるし、視界の一部を塞がれることで喜べ、平凡な日常に埋没し、余計な事を話すな、と言われているような気持になってくるからです。 どうしてあの戦争から70年も経って、ここまで砂糖の衣でくるんだような表現(もちろんその中身はちゃんとした材料を詰め込んであるのですが)でなければいけないのか。何故、それに皆ここまで喜ぶのか。今一度、真剣に考えてみるのがよいと思います。 映画版で省略されたもの——女と「居場所」 最後に、漫画版『この世界の片隅に』(双葉社)についても触れておきます。漫画版は少なくとも女性の生き方という問題については、映画版より複雑なメッセージを伝えるものとなっています。 その違いは主に、遊郭に生きる女性、白木りんの登場シーンが映画版では相当に削除されている事に由来します。 映画版では通りすがりですずに道を教えたり、すずの落描きに喜んだり、というシーンだけが印象に残るこの女性、漫画版ではヒロインの夫である周作が過去に通っていた遊女という設定となっているのです。しかも、真面目な周作は一時、彼女との結婚を考えていたらしいことまで示唆されています。 映画化するにあたりエピソードを整理するのは普通なので、尺の問題でりんのことは省かれたのかもしれません。だが、それにより映画版からはすずの女性としての葛藤が消えました。その分、義理の姪に当たる幼女の晴美(後に不発弾で死ぬ)と戯れる姿や、戦時の窮乏生活で家事を工夫する姿の印象が強く残ります。りんがいなくなることで、映画版のすずのイメージは「絵が好き」「家事を楽しむ」に集約され、「女」よりは「少女」と「母性」を行き来する存在になったのです。 映画でも言及はされる、すずの「居場所」の問題も、漫画版ではよりストレートでわかりやすいものになっています。夫の過去を知ったすずが、自分は居場所を見つけたと思ったが、誰かの「代用品」であったのかと思い悩む。更には夫の愛も疑わしい中、晴美が死に、婚家に留まる意義を見失っていく様子が克明に描かれているのです。 そんなすずに対し、「居場所」についてはっきりとした示唆を与えるのは二人の女性です。一方は義理の姉・徑子で、彼女は原爆投下の朝にすずを「すずさんの居場所はここでもええし、どこでもええ」と婚家にひきとめる役割を果たします。同じ台詞は映画版にもありましたが、そのあと「くだらん気兼ねはなしに自分で決め」と、自己決定を促す言葉で終わります。しかし漫画版では更にそのあとすずの髪を結いながら「あんたの世話や家事くらいどうもない。むしろ気がまぎれてええ」と述べ、右手が不自由な彼女を家族のように(または失った娘の晴美のように)世話することが心理的な救いにもなるという感情が示されるのです。 そしてもう一方が、大幅に削られたりんとのエピソードです。りんは、子どもがなかなか出来ず「実家に返されるかも」と悩むすずに対し、「実家に帰れるならよいではないか」「出産は母親を殺すこともあるので一方的によいものでもない」と、すずの価値観を相対化するような視点を示します。 また、りんは親に売られて遊女になった女性ですが、「売られてもそれなりに生きとる」といい、子どもを産めない女性の生き方のみならず、子どもを売る親のことも明るく肯定してみせます。そして、朗らかに「何かが足らんくらいでこの世界に居場所はそうそう無うなりゃせん」と宣言するのです(しかもこの時、すずはまだりんと夫の過去を知らないが、りんは気づいています)。同時に、そんな彼女たちは、社会の中でつまはじきにされ、病気になれば医者も呼ばれず死んでいく存在であることも描かれます。当時の遊女たちが置かれた現状がさり気なく伝わってくる名場面です。 漫画版におけるりんと周作のエピソードは、終戦時のすずの反応を解釈する際にも一つの伏線となっています。敗戦後の空に翻る太極旗に、すずは日本の敗北に喜ぶ朝鮮半島出身の人々の存在を認識するわけですが、漫画版においては、そこで自分たちも朝鮮の人々を「暴力で従えとった」こと、だから自分たちも「暴力に屈する」のだ、と理解した後、その事実を「知らんまま死にたかった」と言って泣き崩れるのです。 漫画版において他に「知らんでええこと」と表現されるのはりんと周作の過去です。そのため、「恋敵」りんの存在と朝鮮半島の問題は「目をそらされていた現実」という扱いにおいて重なってきます。また、作中ではっきりと語られることはないですが、彼女が軍港における遊女であったことも、慰安婦問題との関連性をほのめかす要素があります。憶測ですが、ここでも韜晦的な手法で何かが語られていると推測することは出来ます。 映画版と漫画版の違いは基本的に「女性」に関わる描写の厚みと考えてよいでしょう。原作のすずは不妊や夫の過去など「女」としての問題に直面するが、りんや義姉という女性達との対話のなかで「居場所」を見いだします。しかし映画では女性の問題や女同士の絆についての描写が省略され、周作という夫、およびその家族と関係を築いていく「嫁」としてのすずの物語が中心となっています。そのため、原作にはあった結婚や出産という「あたりまえ」を相対化する視点は消えてしまっています。 一方で、それでは、映画は駄目だけど原作は女性の友情が描けているからよい、と手放しに称賛したいのかというと、個人的には躊躇いがあります。というのも、二人の女性たちとすずの関係が単純に「女の友情」だけで語れないものにもみえるからです。まず、りんにとってすずは、育ちのよさゆえに結婚制度の枠組みに乗ることができて、自分を影の存在に追いやる女性です。他方、義姉にとってすずは(不慮の事故とは言え)自分の子どもを守れなかった女性です。つまり、すずにとって二人は、タイプこそ違うものの、どこか「後ろめたい」気持を与える女性たちなのです。 とりわけ、りんの立ち位置は微妙です。りんとすずとの関係性は利害関係を越えた女性同士の美しい対話のようにみえるのですが、りんを通じて、あまりにもものわかりのよい、包容力のある「社会的弱者」像が描かれているようにも感じるからです。先に述べたように、台詞の重なりのせいで、彼女が「知りたくなかった」日本の植民地問題の伏線のようにみえるため、余計にそう思ってしまうのかもしれませんが。 女性の地位の低さや、戦争という、すず自身にはどうしようもない状況が、いわばすずを無自覚な加害者あるいは特権階級のような位置に置いており、その「被害者」二人が、結果としてはすずを勇気づけるように「居場所」を語るという図式。それは物語としては美しいのですが、少しおとぎ話のようにも感じます。そしてちょっと居心地が悪い気持ちにもなる。いうなれば、加害や格差といった事柄に対して後ろめたい立場にある者が抱く、「知らないうちに足を踏んでいた人たちに許してもらいたい」という願いを描いているようにも感じてしまうからです。 その印象は、一方で「許される」立場にあったすずが、やはり別のところで「大らか」に強者、あるいは加害者を許してみせていることからも強化されます。すずは自分の才能を顧みない男性社会や、戦争を長引かせた国家に対しては怒りを向けません。それよりは感情を飲み込み、「普通」の日常に埋没していきます。 結局の所、女性同士の関係や境遇がフェミニスト的な繊細さをもって描かれながらも、「怒り」ではなく「許し」の物語に回収されているのです。漫画版においてもやはり「声高に主張する」ことへの抑圧があると感じます。 厳しい意見も書きましたが、『この世界の片隅に』は映画だけでなく漫画もあわせて読むことで、様々な考察に導かれる優れた作品です。映画版が日本アカデミー賞を受賞した現在、更なる議論がなされるとよいと思っています。 隠岐さや香 名古屋大学大学院経済学研究科教員。18世紀の科学思想史が専門でアニメ、映画も大好き。 Twitter: @okisayaka