元SMAP・草なぎ剛主演の復讐三昧ドラマ『嘘の戦争』(フジテレビ系、関西テレビ制作)も、ついに14日の放送で最終回を迎えました。平均視聴率は11.6%(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)で、期間平均は11.3%。フジというハンデを背負いながら、全話2桁で完走しました。 放送数時間前の同局『みんなのニュース』では、草なぎの番宣インタビューを放送。最終回の見どころについて、「出演者みんなで一緒になってつく大きな嘘が1つあって、この嘘に多分、みなさん騙されると思う」と語っていました。 全出演者一丸となって視聴者を騙す展開なんて、想像力に乏しい私は“夢オチ”と『蒲田行進曲』のラストシーンくらいしか思いつきません。早速、あらすじを振り返りましょう。
日別アーカイブ: 2017年3月15日
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銀幕を彩る古今東西の女優へ、等身大の愛を語る『パツキン一筋50年 パツキンとカラダを目当てに映画を見続けた男』
私が初めて秋本鉄次さんの映画批評を読んだのは、1979年の春、「キネマ旬報」誌に掲載された角川春樹プロデュース&村川透監督による東映映画『白昼の死角』評だった。 当時は日本映画界が2本立プログラムピクチュアから1本立大作路線へとめまぐるしく変貌していった時期で、映画マスコミはそれらの作品群を「贅肉のつきまくった大作」と頭ごなしに批判しまくっていたが、このとき秋本さんは「そんな贅肉なんて、バリバリ食ってやる!」といったエネルギッシュな気概で当時の風潮を一蹴し、その上で『白昼の死角』を贅肉の少ない映画として評価されていた。 SNSなどの影響もあってか、もはや1億総評論家時代なんて言葉すら死語になりつつある中、昔も今も映画評論というやつは権威主義的で上から目線の傲慢なものか、シネフィル気取りでやたら小難しいことばかり書き連ねるか、逆にわざとおちゃらけながらオバカを装いながら、ともに己のエリート意識を満たすかのようなものが大半を占めてしまいがちではある。 しかし、秋本さんの映画批評は常に簡潔かつ明快で歯切れがよく、その上Hだ。 要は「この映画に出ているパツキンの女優はエロい!」といった一言で、その映画を見たくなるような文章を書ける人なのである。 この「エロ」という要素、一歩間違うと下世話になるし、あまり高尚に書いても気取りと捉えられて反感を買うし、実はものすごくモノカキにとって表現が難しいものなのだが、そこを秋本さんは軽々と、それこそ天性の才能(?)でクリアーしているのがすごい。 現に秋本さんの文章は、男性のみならず、実は女性ファンが多い。 このたびキネマ旬報社から刊行された著書「パツキン一筋50年 パツキンとカラダを目当てに映画を見続けた男」(何というタイトルじゃ!?)の担当編集者も女性で、そもそも彼女は「キネマ旬報」誌で秋本さんが長年連載している「カラダが目当て」「カラダが目当てリターンズ」(キネ旬で、このようなタイトルのコラムが存在していること自体、奇跡的!?)の編集担当で、およそ10年に及ぶこの長期連載を抜粋して1冊の本にまとめるべく奔走し、めでたく悲願(?)を達成したのであった。 彼女だけでなく、秋本さんには「いざ鎌倉」ではないが、何かあったら協力は惜しまないという想いを誰しも抱かせる、そんな人間的かつ文章的魅力が備わっているのだ。 帯に「ボクは頑迷なパツキン原理主義者」と記載されているように、本書の中身は明快で、それこそキャバクラに通うかのように映画を見ては、その中の女優たちを愛で、讃えることを主旨としている。ロリ的少女趣味は皆無に近く、あくまでもグラマラスなねーちゃんがお好き。 基本はパツキン女優だが、アンジェリーナ・ジョリーのような非パツキンも無問題。世界最愛の女優はキム・ベイシンガーで、ミラ・ジョジョヴォヴィッチを「美裸女菩」と、スカーレット・ジョハンソン(秋本さんはヨハンソンではなく、この呼び方にこだわってらっしゃる)を「スカ・ジョ」と呼ぶ。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(15)にスキンヘッドで登場したシャーリーズ・セロンにも「エア金髪のシャリ子」と最大級の賛辞を惜しまない。キッ子ことニコール・キッドマンが全裸で街をさまよう『虹蛇と眠る女』には「やっぱり全裸は勲一等だね」などと、読んでる側が思わずウンウンとうなづいてしまうほどに、うれし恥ずかしといった言葉のオンパレードなのである。 古今東西の西洋の女優陣に比べると、日本をはじめとする東洋系女優の登場はさすがに少なくなるが、それでも風吹ジュンや余貴美子といった熟女勢から小池栄子に真木よう子などなど、「ああ、秋本さんお好きだよね、ああいうタイプ」とニマニマさせる名前が連なるのであった。 一方でパツキンまみれの本かと思いきや、時折ふっとオンナ断ちして『007』シリーズのダニエル・クレイグやリーアム・ニーソンなどの男優に言及する「オトコ旬報」化する回もあり、それはそれで秋本さんの映画観賞の原点が活劇にあることを露呈させてくれている。 同時に、こういった秋本さんの一貫した姿勢からは、男女の俳優の別を問わず「映画はやっぱりスターから」という映画の楽しさの基本を思い起こさせてくれるものがある。つまりスターが銀幕の中で映えてこその映画の楽しさであり、そんな彼ら彼女らを魅力的に引き立ててこそ、監督はじめスタッフの功績として讃えるべきで、そこに難解な物言いなど必要ないし、ゴラクであろうがゲージュツであろうが、どっちでもいいからとにかくねーちゃんをエロく美しく魅せてくれ! そういった秋本さんの批評に触れるたび、何かと背伸びしようとしては上手くいかずに、反省するのみの己の未熟さを思い知らされる。そんなことよりも必要なのは、やはりどんな贅肉でもバリバリかみ砕くだけのエネルギッシュさと明快さをもって、その映画を褒めようが貶そうが見たくなるような、そんな姿勢なのである。 さすがにアニメーションだけは苦手なご様子だが、だからといってこれみよがしにアニメを批判したり悪口を言ったりするようなことは一切ない潔さがあり、その伝ではジブリや押井、細田あたりのメジャー作品しか見ずに「今どきのアニメは……」などとしたり顔で評する巷の連中より、よほど人としても信頼できる(最近はルパンやエヴァのパチンコを打ったりすることもあるようなので、そのあたりの作品ならば少しは知識もおあり……かな!?)。 「飲む」「打つ」「見る」といった映画無頼派としての生きざまを、硬派でも軟派でもなく等身大の好もしいバランスで示し続ける秋本さんの男気とその批評は、昔も今も私の指標のひとつである。 (文=増當竜也) パツキン一筋50年 パツキンとカラダを目当てに映画を見続けた男 なんて一途!『パツキン一筋50年 パツキンとカラダを目当てに映画を見続けた男』(キネマ旬報社)
銀幕を彩る古今東西の女優へ、等身大の愛を語る『パツキン一筋50年 パツキンとカラダを目当てに映画を見続けた男』
私が初めて秋本鉄次さんの映画批評を読んだのは、1979年の春、「キネマ旬報」誌に掲載された角川春樹プロデュース&村川透監督による東映映画『白昼の死角』評だった。 当時は日本映画界が2本立プログラムピクチュアから1本立大作路線へとめまぐるしく変貌していった時期で、映画マスコミはそれらの作品群を「贅肉のつきまくった大作」と頭ごなしに批判しまくっていたが、このとき秋本さんは「そんな贅肉なんて、バリバリ食ってやる!」といったエネルギッシュな気概で当時の風潮を一蹴し、その上で『白昼の死角』を贅肉の少ない映画として評価されていた。 SNSなどの影響もあってか、もはや1億総評論家時代なんて言葉すら死語になりつつある中、昔も今も映画評論というやつは権威主義的で上から目線の傲慢なものか、シネフィル気取りでやたら小難しいことばかり書き連ねるか、逆にわざとおちゃらけながらオバカを装いながら、ともに己のエリート意識を満たすかのようなものが大半を占めてしまいがちではある。 しかし、秋本さんの映画批評は常に簡潔かつ明快で歯切れがよく、その上Hだ。 要は「この映画に出ているパツキンの女優はエロい!」といった一言で、その映画を見たくなるような文章を書ける人なのである。 この「エロ」という要素、一歩間違うと下世話になるし、あまり高尚に書いても気取りと捉えられて反感を買うし、実はものすごくモノカキにとって表現が難しいものなのだが、そこを秋本さんは軽々と、それこそ天性の才能(?)でクリアーしているのがすごい。 現に秋本さんの文章は、男性のみならず、実は女性ファンが多い。 このたびキネマ旬報社から刊行された著書「パツキン一筋50年 パツキンとカラダを目当てに映画を見続けた男」(何というタイトルじゃ!?)の担当編集者も女性で、そもそも彼女は「キネマ旬報」誌で秋本さんが長年連載している「カラダが目当て」「カラダが目当てリターンズ」(キネ旬で、このようなタイトルのコラムが存在していること自体、奇跡的!?)の編集担当で、およそ10年に及ぶこの長期連載を抜粋して1冊の本にまとめるべく奔走し、めでたく悲願(?)を達成したのであった。 彼女だけでなく、秋本さんには「いざ鎌倉」ではないが、何かあったら協力は惜しまないという想いを誰しも抱かせる、そんな人間的かつ文章的魅力が備わっているのだ。 帯に「ボクは頑迷なパツキン原理主義者」と記載されているように、本書の中身は明快で、それこそキャバクラに通うかのように映画を見ては、その中の女優たちを愛で、讃えることを主旨としている。ロリ的少女趣味は皆無に近く、あくまでもグラマラスなねーちゃんがお好き。 基本はパツキン女優だが、アンジェリーナ・ジョリーのような非パツキンも無問題。世界最愛の女優はキム・ベイシンガーで、ミラ・ジョジョヴォヴィッチを「美裸女菩」と、スカーレット・ジョハンソン(秋本さんはヨハンソンではなく、この呼び方にこだわってらっしゃる)を「スカ・ジョ」と呼ぶ。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(15)にスキンヘッドで登場したシャーリーズ・セロンにも「エア金髪のシャリ子」と最大級の賛辞を惜しまない。キッ子ことニコール・キッドマンが全裸で街をさまよう『虹蛇と眠る女』には「やっぱり全裸は勲一等だね」などと、読んでる側が思わずウンウンとうなづいてしまうほどに、うれし恥ずかしといった言葉のオンパレードなのである。 古今東西の西洋の女優陣に比べると、日本をはじめとする東洋系女優の登場はさすがに少なくなるが、それでも風吹ジュンや余貴美子といった熟女勢から小池栄子に真木よう子などなど、「ああ、秋本さんお好きだよね、ああいうタイプ」とニマニマさせる名前が連なるのであった。 一方でパツキンまみれの本かと思いきや、時折ふっとオンナ断ちして『007』シリーズのダニエル・クレイグやリーアム・ニーソンなどの男優に言及する「オトコ旬報」化する回もあり、それはそれで秋本さんの映画観賞の原点が活劇にあることを露呈させてくれている。 同時に、こういった秋本さんの一貫した姿勢からは、男女の俳優の別を問わず「映画はやっぱりスターから」という映画の楽しさの基本を思い起こさせてくれるものがある。つまりスターが銀幕の中で映えてこその映画の楽しさであり、そんな彼ら彼女らを魅力的に引き立ててこそ、監督はじめスタッフの功績として讃えるべきで、そこに難解な物言いなど必要ないし、ゴラクであろうがゲージュツであろうが、どっちでもいいからとにかくねーちゃんをエロく美しく魅せてくれ! そういった秋本さんの批評に触れるたび、何かと背伸びしようとしては上手くいかずに、反省するのみの己の未熟さを思い知らされる。そんなことよりも必要なのは、やはりどんな贅肉でもバリバリかみ砕くだけのエネルギッシュさと明快さをもって、その映画を褒めようが貶そうが見たくなるような、そんな姿勢なのである。 さすがにアニメーションだけは苦手なご様子だが、だからといってこれみよがしにアニメを批判したり悪口を言ったりするようなことは一切ない潔さがあり、その伝ではジブリや押井、細田あたりのメジャー作品しか見ずに「今どきのアニメは……」などとしたり顔で評する巷の連中より、よほど人としても信頼できる(最近はルパンやエヴァのパチンコを打ったりすることもあるようなので、そのあたりの作品ならば少しは知識もおあり……かな!?)。 「飲む」「打つ」「見る」といった映画無頼派としての生きざまを、硬派でも軟派でもなく等身大の好もしいバランスで示し続ける秋本さんの男気とその批評は、昔も今も私の指標のひとつである。 (文=増當竜也) パツキン一筋50年 パツキンとカラダを目当てに映画を見続けた男 なんて一途!『パツキン一筋50年 パツキンとカラダを目当てに映画を見続けた男』(キネマ旬報社)
『東京タラレバ娘』で“説教芸”に興じる東村アキコは、愚かなお笑い芸人のようだ
3月22日に最終回を迎える『東京タラレバ娘』(日本テレビ系)。ドラマの内容が話題になる中、漫画は発売当初からそのメッセージ性に対する議論が巻き起こってきました。8巻が4月に発売予定で、ドラマが最終回を迎えようとする中、同漫画について少女マンガ研究家の小田真琴が語ります。
◎女性を罰しつつ、言い訳を繰り返す東村
筆が重いし、気も重い。東村アキコ先生のことは大好きだった。おしゃれすることの喜びに溢れた『きせかえユカちゃん』(集英社)、ウイング関先生という稀代のオタクキャラを創造した『ひまわりっ ~健一レジェンド~』(講談社)、そして最高傑作と言っても過言ではない『かくかくしかじか』(集英社)。どれもマンガ史上に残る傑作であるし、個人的にも思い出深い作品ばかりだ。ところが『東京タラレバ娘』(講談社/以下、タラレバ)と来たらどうだろう。これは女性を罰し、自己責任を押しつけ、主体性を奪うマンガではないのか。私には今の東村先生が、売れた途端にスーツをまとい、万能感を持って偉そうに世相を斬り始める愚かなお笑い芸人のように見える。
序盤こそ強く、切れ味鋭いメッセージを次々と繰り出して、いかにも瞬発力の作家である東村先生らしい作品だと感じ入ったのだ。ところが物語が続くうちに疑問ばかりが募りゆく。それは主に卑劣なダブルスタンダードによるものだ。
たとえばあとがき。東村先生の「おまけマンガ」と言えば、バルセロナ五輪男子マラソン銀メダリスト・森下広一選手への一方的な愛を『海月姫』(講談社)1巻から3巻にわたって描いた「クラゲと私とバルセロナ」をはじめとして名作揃いなのだが、タラレバのそれにおいては醜悪な言い訳が冗長に展開される。いわく、「別に私は『女は結婚しなきゃダメ』とか『女の幸せは男で決まる』とか『結婚できない女はかわいそう』なんて全く思ってません」とのこと。
一方、本編では平気でこんなことを言ってのける。「30過ぎたら女は『愛する』よりも『愛される』幸せを選ぶんタラ!!」「酔って転んで男に抱えて貰うのは25歳までだろ。30代は自分で立ち上がれ。もう女の子じゃないんだよ? おたくら」「才能なんて関係ないんタラレバーッ。そうレバ、この世は金とコネと……そして女は若さと美しさタラ!!!」「女は結婚すればセコンドにまわって、旦那さんや子供をサポートしながら応援して生きていくレバ」。
縄文人もびっくりの時代錯誤な言動である。主人公・倫子の妄想の中に現れるキャラクター・タラとレバや、ヒーロー役らしきイケメンモデル・KEYのこれらの言葉に、アラサー女性が打ちのめされるというのが本作の基本的な構図だが(一応は「女性蔑視だよ、それ」なんて反論したりもするが、その声はすぐにかき消される)、どうやら作者は「おまけマンガ」で言い訳をすれば何を言ってもいいものと勘違いしている様子だ。たとえば『キングダム』(集英社)の原泰久先生が、あとがきで「でも人殺しはよくないよ!」などと書くだろうか。あるいは、『あなたのことはそれほど』(祥伝社)のいくえみ綾先生が「不倫絶対ダメ!」などと書くだろうか。それは本編で引き受けるべき問題であり、作品のクオリティに直結する問題である。
タラレバのメッセージらしきものの大半は明らかに女性差別であり、完全にアウトだ。しかしこうした保守反動的な言葉は、一部の読者には熱狂的に受け容れられた。「刺さる~刺さる~」と彼女らは言う。しかし彼女らは「刺さる~」と言いたいだけではないのか。作者との説教プレイに興じたいだけではないのか。それが証拠にテレビドラマの視聴率は、恋愛パートが比重を増した第7話で視聴率が2%近く下降し、1ケタ台が目前となった。
そもそもからしてこの作品はキャラクターもストーリーも非常に弱い。さんざん引っ張ったKEYのトラウマ話も驚くほど陳腐で、世界的な映画監督とされる堂越はてっきり『メロぽんだし!』(講談社)のトミーさん的なお笑いキャラだと思ってしまったほどである。男性キャラは総じて書き割りのようで、女性キャラの生臭さとのバランスは至極悪い。
◎陳腐な色恋展開、設定間違いの雑さが目につく
極めつきは本筋となるべき倫子とKEYの色恋沙汰である。1巻でKEYは倫子の脚本を「あまりにもご都合主義でおめでたくて、なんで30越えたおばさんがこの2人の男に一方的に言い寄られるのか、あまりにもリアリティがなさすぎだなって、そう思っちゃったんですけど」と評しているが、これは昨今のタラレバの展開にこそ当てはまる話だ。あまりにも露骨なので、もしかしたらこれが何らかの伏線になっているのかもしれないが、だからと言って展開の陳腐さが許容されるわけではない。ちなみに「ユリイカ」(青土社)平成29年3月臨時増刊号「総特集☆東村アキコ」の本人インタビューによると、KEYが「私自身の化身というか、もし自分がこういう美青年だったら、タラレバ娘たちにこう言ってただろうな、という想像で描いています」とのことである。となると、本作はなかなかに入り組んだメタ構造を抱えているということにはなる。
細部の詰めも甘く、単行本1巻ACT1では大卒の設定だった倫子が、「KISS」3月号に掲載された「番外編 ビフォータラレバ娘」では専門卒になっていたり、「ビオのシャルドネ」がどうのこうのと言っていた早坂が、7巻ACT23ではカヴァも知らない男に成り下がっていたりと、雑な仕事ぶりが目につく。
これらの瑕疵が悪目立ちするのは、ひとえに本作においては東村先生の最大の武器であるギャグ要素が希薄であることが原因である。決して恋愛が描けない作家ではない。『ひまわりっ ~健一レジェンド~』や『主に泣いてます』(講談社)で見せた、恋する者の感動的な愚直さは、あのギャグの奔流の中でこそ描き得たものなのだ。ところが恋愛要素だけで勝負しようとすると途端に風景は寒々しくなる。これは同時連載中の『海月姫』にも言えることであり、ラブストーリーではないものの最近作の『雪花の虎』(小学館)や『美食探偵 明智五郎』(集英社)がぱっとしない一因でもある。
女性差別的なセリフを乱発した不愉快な前半から、陳腐なラブストーリーを物語る退屈な後半へ。現在までのタラレバを要約するならばそういうことになるだろう。どちらがマシかと言えば作者の語り口が活きていたという点において前半ではあるのだが、それすらもまどろっこしいエクスキューズのせいで相殺されている。東村先生は一体何がしたいのだろうか。
◎「刺さる~」と言いたい人だけが読めばいい
おそらく周囲が、読者が喜んでくれるからそうしているだけなのだ。結婚や恋愛に関して一貫した強いメッセージがあるわけではない。それは「おまけマンガ」で自ら述べているとおりである。では本編のあの言葉たちは何なのかと言えば、求められるからやっただけの(おそらくは『ひまわりっ ~健一レジェンド~』の副主任をルーツとする)説教芸なのだ。その様子もやはり「おまけマンガ」で言い訳されている。1巻では東京オリンピックが決まった直後に「結婚したい」と言い始めたという周囲の女性が、2巻では本作を読んで不安になったという女性芸人たちとの交遊録が(以前はこんなもの描く人じゃなかったのに……)、4巻や7巻では結婚したいと言う女性に道端で突然声を掛けられるエピソードが描かれている。いずれも「求められて仕方なくやった」という体だ。
余談だが、ある女友達がこんなことを言っていた。「年下の女が年上の女とコミュニケートするときって『結婚したいんです~』とか言っておくのがいちばんラクなんだよ」と。確かにそれは社会的地位も結婚歴もある年上の女性に対して、下手に出つつ、先輩を立てつつ、円滑なコミュニケーションを成立させるためのよい方法であるように思える。特に酒席においては。
タラレバを読んで腹が立った、傷ついた、ショックを受けたという人は、どうか今すぐ読むのをやめてほしい。これはあなたたちのための物語ではない。「刺さる~」と言いたい人だけが読めば良い。これは単なる酒の席での与太話だ。それは作者が批判する「女子会」にも劣る、人を不快にさせるだけの不毛な交流である。世界にはもっとすてきなマンガがたくさんある。
タラレバをたまたま読んで我が意を得たりとニヤついている中高年男性は、勘違いをしないでいただきたい。アラサー/アラフォー女性の現実であり総意であるかのように描かれているが、実際はそうではない。あなた方が周囲の女性とうまくコミュニケートできないのだとしたら、それは女性の側の問題ではなく、あなたの雑な現状認識に起因するものだ。
マンガはマジョリティのエンタテインメントでありコミュニケーションツールであると同時に、はぐれ者たちにとっての自由の王国でもある。かつて『ひまわりっ ~健一レジェンド~』ではぐれ者たちの底抜けに楽しい日々を描いたのは、ほかならぬ東村先生ではなかったか。他者の生を罰し、毀損し、自由に対して制限をかけようとするマンガを、私は心底軽蔑する。今後タラレバが自己肯定と自由のマンガとなるわずかばかりの可能性を願いつつ、筆を置く。
小田真琴(おだ・まこと)
女子マンガ研究家。1977年生まれ。男。片思いしていた女子と共通の話題が欲しかったから……という不純な理由で少女マンガを読み始めるものの、いつの間にやらどっぷりはまって、ついには仕事にしてしまった。自宅の1室に本棚14竿を押しこみ、ほぼマンガ専用の書庫にしている。「SPUR」(集英社)にて「マンガの中の私たち」、「婦人画報」(ハースト婦人画報社)にて「小田真琴の現代コミック考」連載中。
『東京タラレバ娘』で“説教芸”に興じる東村アキコは、愚かなお笑い芸人のようだ
3月22日に最終回を迎える『東京タラレバ娘』(日本テレビ系)。ドラマの内容が話題になる中、漫画は発売当初からそのメッセージ性に対する議論が巻き起こってきました。8巻が4月に発売予定で、ドラマが最終回を迎えようとする中、同漫画について少女マンガ研究家の小田真琴が語ります。
◎女性を罰しつつ、言い訳を繰り返す東村
筆が重いし、気も重い。東村アキコ先生のことは大好きだった。おしゃれすることの喜びに溢れた『きせかえユカちゃん』(集英社)、ウイング関先生という稀代のオタクキャラを創造した『ひまわりっ ~健一レジェンド~』(講談社)、そして最高傑作と言っても過言ではない『かくかくしかじか』(集英社)。どれもマンガ史上に残る傑作であるし、個人的にも思い出深い作品ばかりだ。ところが『東京タラレバ娘』(講談社/以下、タラレバ)と来たらどうだろう。これは女性を罰し、自己責任を押しつけ、主体性を奪うマンガではないのか。私には今の東村先生が、売れた途端にスーツをまとい、万能感を持って偉そうに世相を斬り始める愚かなお笑い芸人のように見える。
序盤こそ強く、切れ味鋭いメッセージを次々と繰り出して、いかにも瞬発力の作家である東村先生らしい作品だと感じ入ったのだ。ところが物語が続くうちに疑問ばかりが募りゆく。それは主に卑劣なダブルスタンダードによるものだ。
たとえばあとがき。東村先生の「おまけマンガ」と言えば、バルセロナ五輪男子マラソン銀メダリスト・森下広一選手への一方的な愛を『海月姫』(講談社)1巻から3巻にわたって描いた「クラゲと私とバルセロナ」をはじめとして名作揃いなのだが、タラレバのそれにおいては醜悪な言い訳が冗長に展開される。いわく、「別に私は『女は結婚しなきゃダメ』とか『女の幸せは男で決まる』とか『結婚できない女はかわいそう』なんて全く思ってません」とのこと。
一方、本編では平気でこんなことを言ってのける。「30過ぎたら女は『愛する』よりも『愛される』幸せを選ぶんタラ!!」「酔って転んで男に抱えて貰うのは25歳までだろ。30代は自分で立ち上がれ。もう女の子じゃないんだよ? おたくら」「才能なんて関係ないんタラレバーッ。そうレバ、この世は金とコネと……そして女は若さと美しさタラ!!!」「女は結婚すればセコンドにまわって、旦那さんや子供をサポートしながら応援して生きていくレバ」。
縄文人もびっくりの時代錯誤な言動である。主人公・倫子の妄想の中に現れるキャラクター・タラとレバや、ヒーロー役らしきイケメンモデル・KEYのこれらの言葉に、アラサー女性が打ちのめされるというのが本作の基本的な構図だが(一応は「女性蔑視だよ、それ」なんて反論したりもするが、その声はすぐにかき消される)、どうやら作者は「おまけマンガ」で言い訳をすれば何を言ってもいいものと勘違いしている様子だ。たとえば『キングダム』(集英社)の原泰久先生が、あとがきで「でも人殺しはよくないよ!」などと書くだろうか。あるいは、『あなたのことはそれほど』(祥伝社)のいくえみ綾先生が「不倫絶対ダメ!」などと書くだろうか。それは本編で引き受けるべき問題であり、作品のクオリティに直結する問題である。
タラレバのメッセージらしきものの大半は明らかに女性差別であり、完全にアウトだ。しかしこうした保守反動的な言葉は、一部の読者には熱狂的に受け容れられた。「刺さる~刺さる~」と彼女らは言う。しかし彼女らは「刺さる~」と言いたいだけではないのか。作者との説教プレイに興じたいだけではないのか。それが証拠にテレビドラマの視聴率は、恋愛パートが比重を増した第7話で視聴率が2%近く下降し、1ケタ台が目前となった。
そもそもからしてこの作品はキャラクターもストーリーも非常に弱い。さんざん引っ張ったKEYのトラウマ話も驚くほど陳腐で、世界的な映画監督とされる堂越はてっきり『メロぽんだし!』(講談社)のトミーさん的なお笑いキャラだと思ってしまったほどである。男性キャラは総じて書き割りのようで、女性キャラの生臭さとのバランスは至極悪い。
◎陳腐な色恋展開、設定間違いの雑さが目につく
極めつきは本筋となるべき倫子とKEYの色恋沙汰である。1巻でKEYは倫子の脚本を「あまりにもご都合主義でおめでたくて、なんで30越えたおばさんがこの2人の男に一方的に言い寄られるのか、あまりにもリアリティがなさすぎだなって、そう思っちゃったんですけど」と評しているが、これは昨今のタラレバの展開にこそ当てはまる話だ。あまりにも露骨なので、もしかしたらこれが何らかの伏線になっているのかもしれないが、だからと言って展開の陳腐さが許容されるわけではない。ちなみに「ユリイカ」(青土社)平成29年3月臨時増刊号「総特集☆東村アキコ」の本人インタビューによると、KEYが「私自身の化身というか、もし自分がこういう美青年だったら、タラレバ娘たちにこう言ってただろうな、という想像で描いています」とのことである。となると、本作はなかなかに入り組んだメタ構造を抱えているということにはなる。
細部の詰めも甘く、単行本1巻ACT1では大卒の設定だった倫子が、「KISS」3月号に掲載された「番外編 ビフォータラレバ娘」では専門卒になっていたり、「ビオのシャルドネ」がどうのこうのと言っていた早坂が、7巻ACT23ではカヴァも知らない男に成り下がっていたりと、雑な仕事ぶりが目につく。
これらの瑕疵が悪目立ちするのは、ひとえに本作においては東村先生の最大の武器であるギャグ要素が希薄であることが原因である。決して恋愛が描けない作家ではない。『ひまわりっ ~健一レジェンド~』や『主に泣いてます』(講談社)で見せた、恋する者の感動的な愚直さは、あのギャグの奔流の中でこそ描き得たものなのだ。ところが恋愛要素だけで勝負しようとすると途端に風景は寒々しくなる。これは同時連載中の『海月姫』にも言えることであり、ラブストーリーではないものの最近作の『雪花の虎』(小学館)や『美食探偵 明智五郎』(集英社)がぱっとしない一因でもある。
女性差別的なセリフを乱発した不愉快な前半から、陳腐なラブストーリーを物語る退屈な後半へ。現在までのタラレバを要約するならばそういうことになるだろう。どちらがマシかと言えば作者の語り口が活きていたという点において前半ではあるのだが、それすらもまどろっこしいエクスキューズのせいで相殺されている。東村先生は一体何がしたいのだろうか。
◎「刺さる~」と言いたい人だけが読めばいい
おそらく周囲が、読者が喜んでくれるからそうしているだけなのだ。結婚や恋愛に関して一貫した強いメッセージがあるわけではない。それは「おまけマンガ」で自ら述べているとおりである。では本編のあの言葉たちは何なのかと言えば、求められるからやっただけの(おそらくは『ひまわりっ ~健一レジェンド~』の副主任をルーツとする)説教芸なのだ。その様子もやはり「おまけマンガ」で言い訳されている。1巻では東京オリンピックが決まった直後に「結婚したい」と言い始めたという周囲の女性が、2巻では本作を読んで不安になったという女性芸人たちとの交遊録が(以前はこんなもの描く人じゃなかったのに……)、4巻や7巻では結婚したいと言う女性に道端で突然声を掛けられるエピソードが描かれている。いずれも「求められて仕方なくやった」という体だ。
余談だが、ある女友達がこんなことを言っていた。「年下の女が年上の女とコミュニケートするときって『結婚したいんです~』とか言っておくのがいちばんラクなんだよ」と。確かにそれは社会的地位も結婚歴もある年上の女性に対して、下手に出つつ、先輩を立てつつ、円滑なコミュニケーションを成立させるためのよい方法であるように思える。特に酒席においては。
タラレバを読んで腹が立った、傷ついた、ショックを受けたという人は、どうか今すぐ読むのをやめてほしい。これはあなたたちのための物語ではない。「刺さる~」と言いたい人だけが読めば良い。これは単なる酒の席での与太話だ。それは作者が批判する「女子会」にも劣る、人を不快にさせるだけの不毛な交流である。世界にはもっとすてきなマンガがたくさんある。
タラレバをたまたま読んで我が意を得たりとニヤついている中高年男性は、勘違いをしないでいただきたい。アラサー/アラフォー女性の現実であり総意であるかのように描かれているが、実際はそうではない。あなた方が周囲の女性とうまくコミュニケートできないのだとしたら、それは女性の側の問題ではなく、あなたの雑な現状認識に起因するものだ。
マンガはマジョリティのエンタテインメントでありコミュニケーションツールであると同時に、はぐれ者たちにとっての自由の王国でもある。かつて『ひまわりっ ~健一レジェンド~』ではぐれ者たちの底抜けに楽しい日々を描いたのは、ほかならぬ東村先生ではなかったか。他者の生を罰し、毀損し、自由に対して制限をかけようとするマンガを、私は心底軽蔑する。今後タラレバが自己肯定と自由のマンガとなるわずかばかりの可能性を願いつつ、筆を置く。
小田真琴(おだ・まこと)
女子マンガ研究家。1977年生まれ。男。片思いしていた女子と共通の話題が欲しかったから……という不純な理由で少女マンガを読み始めるものの、いつの間にやらどっぷりはまって、ついには仕事にしてしまった。自宅の1室に本棚14竿を押しこみ、ほぼマンガ専用の書庫にしている。「SPUR」(集英社)にて「マンガの中の私たち」、「婦人画報」(ハースト婦人画報社)にて「小田真琴の現代コミック考」連載中。
「インターネット契約したら包茎手術無料!」代理店の斬新すぎるキャンペーンが物議
男性にとって、自分のムスコが皮をかぶっているかどうかは非常にデリケートな話題だ。それだけに、包茎手術に関心を持っている人も少なくないが、それはお隣・韓国でも同様のようだ。 韓国では最近、ある携帯電話ショップが「インターネット回線の契約をしたら、包茎手術が無料で受けられる」というキャンペーンを行い、話題を呼んでいる。 このキャンペーンを展開したのは忠清北道(チュンチョンプクト)にある「SKテレコム」の代理店で、インターネット回線とIPTV(ネット配信TV)を同時に契約すれば、近隣の泌尿器科で、20~30万ウォン(約2~3万円)かかる包茎手術を無料で受けられると打ち出したのだ。 代理店関係者は「顧客の興味を惹くため」と説明しているが、回線の設置工事費3万ウォン(約3,000円)と毎月の利用料1万ウォン(約1,000円)を考慮すると、かなりお得である。 この“珍キャンペーン”は開始直後からSNSなどで拡散され、ネット上では「頭がイカレてるんじゃないか」「どこの病院でやってくれるんだ? まさか、その場で切られるんじゃないよね?」「次元が違う」などと物議を醸した。 現在は本社からストップがかかり、キャンペーンは終了してしまったが、今回の事件はそこまで奇をてらったことを行わなければ顧客を獲得できないほど、インターネット代理店が飽和状態にあると示唆している。 別の代理店関係者は「過当競争の末、閉店を余儀なくされる代理店が続出している。レッドオーシャンであるこの業界で生き残るためには、顧客の目を惹く刺激的なキャッチコピーとサービスを提供する代理店が増えるのは必然」と“包茎キャンペーン”に理解を示す。 一方、今回のキャンペーンの背景を語る上で、韓国の包茎手術事情も見逃すわけにはいかない もともと韓国では、包茎は衛生上の問題や、性行為の際、女性に悪影響を与えるとして、世界でも1、2を争うほど包茎手術が盛んな国だった。だが、ここ10年、インターネットによる医療知識の広がりなどから、手術件数は激減。2000年当時、過去10年間で包茎手術を受けた男性は全体の75.7%に上ったが、11年には約3分の1となる25.2%まで減少した。つまり、包茎手術は「当たり前に受けるもの」から「受けたい人が受けるもの」に変化したわけだ。 今回のキャンペーンも、包茎手術を受ける人が少なくなったからこそ生まれたものなのだ。 他社を出し抜くためのアイデアとはいえ、本社からも中止を命じられるようでは本末転倒だ。今後は、宣伝方法も一皮むける必要があるだろう。 (文=李仁守)イメージ画像(足成より)
ストリップに着想を得た『ボレロ』。現代バレエの名作を観て考える「芸術とわいせつの境はどこにあるのか」
劇場へ足を運んだ観客と出演者だけが共有することができる、その場限りのエンターテインメント、舞台。まったく同じものは二度とはないからこそ、時に舞台では、ドラマや映画などの映像では踏み込めない大胆できわどい表現が可能です。
高尚で夢々しい、ととらえられがちなバレエも、そのひとつ。情熱的なパフォーマンスの中には、過激な性描写や社会風刺があふれています。2月25日、日本のトップバレエダンサーである上野水香主演で上演された『東京バレエ団ウィンター・ガラ』の『ボレロ』のモチーフはストリップショー。世間でたびたび話題になる「芸術かわいせつか」のボーダーを考えるには、格好の題材かもしれません。
『ボレロ』は、モーリス・ラベル作曲の「ボレロ」に、20世紀最高の振付家モーリス・ベジャールが振り付けた現代バレエ作品の最高傑作です。モーリス・ベジャール・バレエ団が許可したダンサー以外は踊ることはできず、上野は『ボレロ』を踊ることを認められた唯一の日本人女性です。
1961年にベルギーで初演された『ボレロ』は、酒場を思わせる赤い円卓の上で踊るひとりの女性ダンサー“メロディー”と、そのテーブルの周囲を取り囲む男性たちの群舞“リズム”が、ラベルの力強い旋律に合わせ官能的なダンスを展開。1980年代には男性ダンサーが“メロディー”、“リズム”を女性ダンサーたちが演じ、性別を超越したエロティックさを世間に披露しました。
ローザンヌ国際バレエの入賞からモナコ留学を経て東京バレエ団に入団した上野は、2004年の入団直後からベジャールに『ボレロ』を踊ることを許され、2007年に亡くなった彼から直接の指導も受けた経験の持ち主です。
「ボレロ」が小さく流れるなか、一筋の照明が、まず“メロディー”の右腕のみを照らします。左腕、両腕と少しずつスポットが変化し、遠めには上半身裸のようにも見える“メロディー”が登場。繰り返される旋律に合わせ正確さが要求される振り付けは肉体的にとても厳しいもので、“メロディー”は髪を振り乱し、跳躍するたびに汗が飛び散ります。
◎バレエは芸術で、ストリップはわいせつ?
計算された照明と円卓の赤色だけが鮮烈なシンプルなセットは、踊り手によって作品全体の印象が変わるといわれており、美の女神とその媚態に惑わされる男たちの欲望の物語とも、娼婦と群がる客とも、見知らぬ異教の儀式とも受け取れます。
手足の長さが際立つ抜群の柔軟性と女性らしい優美さに定評のある上野が演じた“メロディー”から感じたものは、無邪気さと神々しさでした。酒場で踊り始めた少女に周囲の男たちが惹きつけられるけれど、その視線をはねつけて自分の道を生きていく強さにひれ伏していくような。彼女を目の前にして恋をしないひとがいるのだろうかーーそう感じたときに頭をよぎったのが、“メロディー”はダンサー自身の本質を反映しているのだろうということです。踊っている最中の神々しさとはあまりにもギャップのある、カーテンコールでの笑顔のチャーミングさに、そう確信できました。
上野は出演したテレビ番組で「もともとの『ボレロ』のイメージはストリップだった」と明かしています。三方を異性――演出によっては同性――に囲まれ、一段高い場所でその視線を受けながら踊るという構図は、確かにストリップショーに近いといえそうですが、作品の中の“メロディー”は常に崇高な存在です。
以前に一度、ストリップショーを観たことがあります。すぐ目の前で一糸まとわぬ姿になっているのに、感じたのはエロさよりも、アスリートのような鍛えられた肉体性と高い物語性への驚きでした。
特に印象に残っているのは、小指の赤い糸を信じる恋に憧れる少女のショー。踊り手自身が自分の魅力や特性を深く理解していて、脱ぎ捨てる前の衣装でなく全裸になって初めて完成するように計算された“ヘアメイク”と作り込まれた世界観に、淡い色合いの絵本でも眺めたような気持ちになったものでした。そして、跳躍とともに、飛び散る汗。
ひとつのパフォーマンスで、セリフに頼らずとも雄弁な世界へ呼び込んでくれて、ひとの情熱と本能をかきたてて、同じように汗を飛び散らせて。そう羅列すれば、芸術の代名詞であるバレエと、わいせつとみなされるであろうストリップとの違いは何なのでしょうか。もしあるとすれば、チケット代と観客席との距離くらいしか思いつきません。
『東京バレエ団ウィンター・ガラ』では、同じベジャール振り付けの『中国の不思議な役人』も併演されました。ベラ・バルトークの曲に、同名のパントマイムを下敷きにして1992年に初演された作品です。
無頼漢の一行が、“娘”を使って道行く男を美人局にかけ金品を強奪。獲物にしようとした“中国の不思議な役人”は、無頼漢が何度殺しても生き返って“娘”に迫るというストーリーで、パントマイムはあまりに煽情的だと何度も上演禁止になっています。
◎バレエにおける「射精」の表現
黒いレースの下着姿に黒ヒールと娼婦のような恰好の“娘”を演じるのは男性ダンサーで、鍛えられた筋肉とあいまって倒錯的なエロティックさ。美人局の犠牲者たちとの踊りも、騎乗位でのセックスを彷彿とさせるものや相手の男性が下からしがみついたまま“娘”が四つん這いに移動するなど、男性同士だからこそ露悪的になりすぎず身体的にも可能な振り付けです。
役人は娘が脱ぎ捨てた金髪のウィッグへ腰を押しつけ、欲望を果たします。腰を震わせて頭を思い切り振りあげ、後ろへ向かって一気に汗が飛び散るさまが“正常位”以外のなにものでもない――というところまで、ベジャールは確信犯に振り付けているのでしょう。現代バレエにおいては、100年以上前に初演された『牧神の午後』でもあからさまに射精を示唆する振り付けを盛り込んでおり、情熱と生きる本能は、どんな表現の分野でも不可分であるといえます。
日本ではバレエは、エンターテインメントのひとつとしての鑑賞よりも、女の子向けの習い事、という認識が強いのが現実です。ふわふわのレースのチュチュは確かに愛らしいし、華麗な古典バレエは文句なく魅力的。でも、暗くて退廃的、かつ官能的な美しさも、またバレエの大きな側面なのです。
■フィナンシェ西沢
新聞記者、雑誌編集者を経て、現在はお気楽な腰掛け派遣OL兼フリーライター。映画と舞台のパンフレット収集が唯一の趣味。
KAT-TUN亀梨和也&Jr.西畑大吾が『VS嵐』に登場! 3月16日(木)ジャニーズアイドル出演情報
――翌日にジャニーズアイドルが出演予定の番組情報をお届けします。見逃さないように、録画予約をお忘れなく!
※一部を除き、首都圏の放送情報を元に構成しています。
※番組編成、及び放送日時は変更になることがあります。最新情報は番組公式サイト等をご確認ください。
●TOKIO
8:00~ 9:55 『白熱ライブビビット』(TBS系) 国分太一
11:25~11:30 『国分太一のおさんぽジャパン』(フジテレビ系) 国分太一
18:55~19:25 『Rの法則』(NHK Eテレ) 山口達也
●V6
8:15~ 9:54 『あさイチ』(NHK総合) 井ノ原快彦
21:00~21:59 『ザ・プロファイラー』(NHK BSプレミアム) 岡田准一
セーフティネットが取り外された恐怖の現実世界! 下流層の叫び『わたしは、ダニエル・ブレイク』
今の日本でどれだけの人が飢えで亡くなっているのか? 気になってネット検索してみた。21世紀に入ってからも毎年50人前後の人たちが食糧の不足のために亡くなっている。生活保護の申請が認められなかった人、もしくは生活保護を受けることを拒んだ人たちだ。外部との交流を断ち、生きる気力を失って自宅で亡くなるケースが多い。栄養失調が原因で亡くなった人も合わせると、毎年2,000人近くの人たちが亡くなっている。2016年のカンヌ映画祭パルムドール(最高賞)を受賞したイギリス映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』を観ながら、生活保護受給者への締め付けが厳しくなっている日本も他人事ではない恐ろしさを感じた。 『わたしは、ダニエル・ブレイク』は社会派映画の巨匠ケン・ローチ監督の作品。常に労働者階級の立場から映画を撮り続けてきたケン・ローチ監督は前作『ジミー、野を駆ける伝説』(14)を最後に引退するはずだったが、社会格差がますます進む母国の現状を放っておくことができず、引退を撤回して本作を撮り上げた。80歳になる大ベテラン監督の不条理な社会への怒りと人生の酸いも甘みも噛み分けた男ならではの温かみが込められた作品だ。 主人公であるダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)は英国北部にある工業都市ニューカッスルで暮らす59歳になる腕のいい大工。妻に先立たれてからは、ひとり暮らしを続けている。まだまだ体は元気だが、建築現場で心臓発作を起こしてしまい、医者から仕事を禁じられてしまう。仕方なく労働年金省から雇用支援金手当てをもらっていたが、再申請の窓口がいつの間にか米国の民間企業に変わっており、頭はボケてないか、手足は動くかといった簡単な電話問診の結果、就労は可能だと判断されて手当てを打ち切られてしまう。では、どうやって食べていけばいいのか。抗議の電話をしようにも、自動音声案内に延々と待たされ、取り付く島がまるでない。 再申請の手続きをするには職業安定所に行かねばならないことが分かり、とりあえず職業安定所へと足を運ぶダニエル。ところが、役人の対応は極めて冷たい。手続きするにはまずオンライン登録を済ませておくこと、有料の履歴書の書き方講習会に出席すること、さらに就職活動をして働く意欲があることを証明するように、と次々と難題が課せられていく。医者から仕事を止められているから手当てを求めているのに、そのためには就職活動をしなくてはいけない。そのうえ、大工ひと筋で生きてきたダニエルはパソコンを持っておらず、触ったことさえない。矛盾だらけの役人の指示に、途方に暮れるダニエル。まるでカフカの不条理小説『城』のように、ぐるぐる回り続けるだけで一向に出口が見えてこない。ダニエルは心臓よりも、頭と心がおかしくなってしまいそうだった。ケン・ローチ監督にとっては2度目となるカンヌ映画祭パルムドール受賞作。“ナマポ問題”を真っ正面から描いている。
ケン・ローチ監督の初期代表作に、田舎の炭坑町を舞台にした『ケス』(70)がある。学校でも家庭でもイジメられている少年ビリーが、野生のハヤブサを育てることに生き甲斐を見出すというドキュメンタリータッチの感動作だ。少年ビリーがハヤブサのヒナの世話を焼くことを心の支えにしたように、本作のダニエルも若い母子と出逢い、彼女たちとの交流が心の糧となっていく。シングルマザーのケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)は、ロンドンから2人の子どもデイジー(ブリアナ・シャン)とディラン(ディラン・フィリップ・マキアナン)を連れてニューカッスルへと引っ越してきた。初めての土地で道に迷い、職業安定所が指定した面談時間に遅れてしまい、役人から「遅刻は厳禁です。次回の面談まで支援金を渡すことはできません」と冷たい言葉を浴びせられる。「子連れなんだぞ。遅刻ぐらい見逃せよ」とその場にいたダニエルが口を挟むと、ケイティ母子と一緒にダニエルまで警備員につまみ出されてしまう。役所が対応してくれないなら庶民同士で助け合うしかない。引っ越したばかりのケイティの家はトイレが故障しており、暖房器具も使えなかった。ダニエルはトイレを直し、プチプチシートを断熱材代わりに窓に貼付け、大工としての技能を発揮する。ケイティ母子が喜ぶ顔を見て、ダニエルは久々に心の安らぎを感じていた。 食費にも困っているケイティ母子を連れ、ダニエルが訪ねる「フードバンク」も興味深い。フードバンクとは販売期限は過ぎていてもまだ充分に食べることができる食品、見た目のよくない不ぞろいの生鮮野菜や果実、パッケージに傷が付いていて売り物にならなくなった日用品などをメーカーやスーパーマーケットから無償で提供してもらい、生活困難者に配給している非営利団体。日本では近年「子ども食堂」が注目を集めているが、欧米ではフードバンクの活動が活発で、フランスではスーパーマーケットはフードバンクへの提供が義務づけられているそうだ。ケイティの育ち盛りの子どもたちは、お菓子やジュースにもありつけた。食材を手にしたケイティは、その場で泣き崩れてしまう。「貧しいのは君の責任じゃない。自分を責めちゃダメだ」とダニエルはケイティに優しく言葉を掛ける。 人気スターは基本的に使わず、脚本もキャストに丸ごと1冊渡さずに、シーンごとにキャラクターになりきった芝居を求めるのがケン・ローチ監督の演出スタイルだ。冴えない郵便局員が自分の脳内にいるサッカー界のレジェンド、エリック・カントナに励まされて人生を立て直す『エリックをさがして』(09)、元不良少年とウイスキー好きな保護司との粋な友情を描いた『天使の分け前』(12)などコメディも得意とするケン・ローチ監督ゆえ、英国下流層のシビアな生活を伝える本作もユーモラスなものに仕立てている。主人公ダニエルを演じるのは、舞台でキャリアを重ねてきたコメディ俳優のデイヴ・ジョーンズ。ガンコ親父ながら、どこか愛嬌を感じさせるダニエルというキャラクターは、コメディ俳優として生の舞台に立ち続けてきたデイヴのパーソナリティーがあってのもの。口は悪いが、曲がったことは大嫌い。いかにも下町の職人を思わせるダニエルは、日本でも親しみを感じさせる人物像だろう。働きたくても働けない。ケイティ母子は生活保護を受けようとするが、役所の“水際作戦”に阻まれてしまう。
何とかオンライン登録を済ませ、就職活動にも取り組んだダニエルだったが、訪問先からの「うちの職場で、そのキャリアを活かしてほしい」という電話を断らなくてはならないのが心苦しかった。生活保護を受けるために、労働者としての自尊心はズタズタに傷つけられていく。それでも我慢して再申請をするが、しばらくして届いた通知書の結果内容は前回とまったく同じだった。長年マジメに働いてきたものの、もはや自分は社会の不要品なのか。落ち込んだダニエルはアパートの自室に引きこもり、外出をしなくなってしまう。 そんなある日、ダニエルのアパートの扉をノックする音が聞こえてきた。ケイティの娘デイジーだった。「ダニエル、あなたは私たち家族を助けてくれたわ。お願い、今度は私にあなたの助けにならせてちょうだい」。ちょっと前までフードバンクにいたことを学校の同級生にからかわれて泣いていたデイジーが、しばらく見ない間に精神的にすっかり大人へと成長していた。ダニエルは閉ざしていた扉をようやく開ける。無気力の谷に転げ落ちそうになっていた彼にとって、こんなにも頼りになる命綱はなかった。 (文=長野辰次)生活が行き詰まると情弱に陥りがち。ダニエルはケイティ母子に「フードバンク」が利用できることを教える。
『わたしは、ダニエル・ブレイク』 監督/ケン・ローチ 脚本/ポール・ラヴァティ 出演/デイヴ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアーズ、ブリアナ・シャン、ディラン・フィリップ・マキアナン、ケイト・ラッター 配給/ロングライド 3月18日(土)よりヒューマントラスト有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次公開 (c) Sixteen Tyne Limited, Why Not Productions, Wild Bunch, Les Films du Fleuve,British Broadcasting Corporation, France 2 Cinema and The British Film Institute 2016 http://danielblake.jp
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