SMAP解散を憂う大沢樹生の“重み”と、光GENJIがたどった転落人生の影

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『スピーディ・エイジ』(ポニーキャニオン)
 光GENJIの元メンバーである大沢樹生が、7日に行われた映画公開記念イベントで、SMAP解散を「離婚もそうですけど、ひとつやめる時のエネルギーは莫大、精神的な負担もありますし」と気づかった。この発言には深みがある。大沢は、SMAPの先輩格にあたるが、光GENJIは不幸な運命をたどったジャニーズアイドルグループであるといえよう。 「何しろ大沢自身が、1996年に女優の喜多嶋舞と結婚するも2005年に離婚。さらに親権を持った子どもが、DNA型鑑定により、自分の子どもではないと発覚します。大沢は喜多嶋と“できちゃった婚”をしていますが、その子どもの血がつながっていなかったのは、不幸としか言いようがありません」(業界関係者)  そのほかのメンバーにも、次々と不幸が襲い掛かっている。 「有名どころでは赤坂晃でしょう。07年と09年に相次いで覚せい剤で逮捕され、服役しています。山本淳一は、一時期は愛媛県の道後温泉でバーで働く“都落ち”ぶりを披露。ファンの子持ちの女性に対する結婚詐欺疑惑が『週刊文春』(文藝春秋)で報じられたこともあります。中心的メンバーで人気のあった諸星和己もソロデビュー後は鳴かず飛ばずで、一時期渡米をするも、帰国後も同じような状況です」(同)  そのほかのメンバーである内海光司、佐藤寛之、佐藤敦啓(現・佐藤アツヒロ)も、舞台などで細々と芸能活動を続けているものの、世間的には完全には“あの人は今”状態である。それでも、光GENJIはかつて国民的アイドルであった。やがて、SMAPも同じような運命をたどってしまうのだろうか? (文=平田宏利)

テレビ局関係者らに聞いた、残念ながら“もう終わった”人気女優3名とは?

 入れ替わりが激しい芸能界では、パッとしないまま旬を逃したり、スキャンダルからの脱却を図れずに消えかけている女優たちが少なくない。今回は、そんな“オワコン女優”を業界関係者に挙げてもらった。テレビ局関係者によれば、「今期の新ドラマの主演にも該当する人物がいる」というが……。

「1月12日に放送スタートした『嫌われる勇気』(フジテレビ系)の主演・香里奈です。モデル出身ですが、2001年の『カバチタレ!』(同)出演を機に、女優活動も展開。しかし14年、『フライデー』(講談社)で“大股開き写真”がスクープされて以降は、露出が激減しました。15年のドラマ『結婚式の前日に』(TBS系)で4年振りとなる主演を務めるも、全話平均視聴率5.6%(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)と大コケしてしまったんです」(同)

 そして、今回再び巡ってきたチャンスともいえる『嫌われる勇気』も、初回8.1%の1ケタ発進となった。

「同ドラマの初回を見た視聴者からの評判は、『香里奈の存在感がなさすぎる』『演出のせいかもしれないけれど、香里奈が安っぽく見える』などイマイチなものばかり。このままいくと、同ドラマも大爆死する可能性は大いにあり得ます。業界では『主演作が2連続でコケたら次はない』といわれるだけに、これが最後の連ドラ主演となるかもしれません」(同)

 続いては、すでに女優のイメージが薄れつつある北乃きいの名前が挙がった。

「北乃は05年にデビューし、当初は“期待の新人”との呼び声も高かった。しかし10年、『フライデー』に俳優・佐野和真とホテルから出てきたところ、そして“路チュー”シーンを撮られてしまい、北乃はファンに謝罪。ところが、13年にまたしても同誌に佐野との2ショットをキャッチされてしまったことで、人気が暴落しました」(スポーツ紙記者)

 それでも、14年からは朝の情報番組『ZIP!』(日本テレビ系)の総合司会に抜擢され、評判も上々だった。

「しかし、北乃は過去に元KAT‐TUN・赤西仁とも熱愛が報じられており、それ以降ジャニーズ事務所を敵に回していた。『ZIP!』には、TOKIO・山口達也が出演しているため、ジャニーズは当初から日テレにクレームを入れていたそうなんです。最終的に、局はジャニーズの“圧力”に耐え切れず、北乃を降板させたといわれています。北乃の同番組での司会ぶりはなかなか好評で、これを機に、再び女優として仕事が増えるのではないかともいわれていただけに、残念というほかありません」(同)

 そして、北乃と入れ替わりで『ZIP!』の総合司会に就任することになった川島海荷も、オワコン女優の1人といわれているようだ。

「川島は本当にいつまでたっても開花しないまま、旬を過ぎてしまいました。10代の頃は、“美少女”として売ることもできましたが、22歳の今となってはそれもキツイ。イメチェンを図るためか、昨年の深夜ドラマ『朝が来る』(フジテレビ系)では金髪姿を披露したものの、『全然似合っていない』『迷走している感が否めない』などと、視聴者から大不評でした。10代の頃に一時脚光を浴びたものの、女優としての実力がなく、そのまま失速していったイメージですね。もし、うちのタレントに、川島主演作の出演オファーが来ても、断ると思います」(大手芸能プロ関係者)

 しかし、3人のいずれも、まだ完全に道を絶たれたわけではない。今後どのような展開が待ち受けるかはわからないが、ぜひ何らかの形での“返り咲き”に期待したい。

睡眠薬依存、ガス中毒……馬術日本一の華原朋美と“馬”との数奇な因縁とは?

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 歌手の華原朋美が、馬術の国内大会である『ジャパンオープン』で優勝し、今年3月に静岡で開かれる世界大会『国際馬術大会』への出場権を獲得した。  華原は幼少期から馬術を習い、高校時代は国体で4位に入賞するほどの腕前。昨年度よりテレビ番組の企画で、本格的に馬術を再開していた。彼女と“馬”には何かと因果がある。 「1999年に、プロデューサーであり恋人であった小室哲哉との破局が報じられると、御殿場の乗馬クラブで会見を開きます。なぜだか馬に乗って現れ、睡眠薬依存でむくんだ痛々しい姿を披露しました。当時はガス中毒や、貧血で倒れており、すでに彼女の精神状態は最悪だったといえるでしょう。その際『新しい恋人ができた』と述べるも、のちに虚言だと発覚します」(芸能記者)  2000年代に入っても彼女は体調不良により仕事のキャンセルを繰り返し、07年6月に所属事務所は「これ以上芸能活動を支えることは不可能」として、契約解除を発表する。その後、およそ5年にわたって芸能活動を休止。12年12月に『FNS歌謡祭』(フジテレビ系)で復帰を果たすも、ここ数年も体調不良が続き本格的な復帰には至っていない。 「彼女の今後の方向性としては『馬術と歌手活動の両立』を目指したいようですね。それでも、復帰時に『私には歌うことしかできない』と述べたように、あくまでメインは歌にあるのでしょう。彼女の人生の節目節目には“馬”が絡んできますね」(同)  一時期はホストクラブ通いや、ヘビースモーカーぶり、精神安定剤の乱用による薬物依存、精神病院閉鎖病棟への入院などが報じられた華原。それらに比べれば乗馬は、きわめて健全だといえる。彼女の頑張りに期待したい。 (文=平田宏利)

睡眠薬依存、ガス中毒……馬術日本一の華原朋美と“馬”との数奇な因縁とは?

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 歌手の華原朋美が、馬術の国内大会である『ジャパンオープン』で優勝し、今年3月に静岡で開かれる世界大会『国際馬術大会』への出場権を獲得した。  華原は幼少期から馬術を習い、高校時代は国体で4位に入賞するほどの腕前。昨年度よりテレビ番組の企画で、本格的に馬術を再開していた。彼女と“馬”には何かと因果がある。 「1999年に、プロデューサーであり恋人であった小室哲哉との破局が報じられると、御殿場の乗馬クラブで会見を開きます。なぜだか馬に乗って現れ、睡眠薬依存でむくんだ痛々しい姿を披露しました。当時はガス中毒や、貧血で倒れており、すでに彼女の精神状態は最悪だったといえるでしょう。その際『新しい恋人ができた』と述べるも、のちに虚言だと発覚します」(芸能記者)  2000年代に入っても彼女は体調不良により仕事のキャンセルを繰り返し、07年6月に所属事務所は「これ以上芸能活動を支えることは不可能」として、契約解除を発表する。その後、およそ5年にわたって芸能活動を休止。12年12月に『FNS歌謡祭』(フジテレビ系)で復帰を果たすも、ここ数年も体調不良が続き本格的な復帰には至っていない。 「彼女の今後の方向性としては『馬術と歌手活動の両立』を目指したいようですね。それでも、復帰時に『私には歌うことしかできない』と述べたように、あくまでメインは歌にあるのでしょう。彼女の人生の節目節目には“馬”が絡んできますね」(同)  一時期はホストクラブ通いや、ヘビースモーカーぶり、精神安定剤の乱用による薬物依存、精神病院閉鎖病棟への入院などが報じられた華原。それらに比べれば乗馬は、きわめて健全だといえる。彼女の頑張りに期待したい。 (文=平田宏利)

腐女子の存在がリアルゲイを自由にする──業界初の実録BL『たとえばこんな恋のはなし』は、こうして誕生した!

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『たとえばこんな恋のはなし』(作:波真田かもめ/リブレ)
 なんと! 看板に偽りなどないホンモノの実録である。  リブレの人気BL雑誌「月刊マガジンビーボーイ」2月号から連載が始まった、波真田かもめさんの作品『たとえばこんな恋のはなし』。  この作品、業界でも初めての、実在するゲイカップルの取材をもとに描かれる「実録BL」なのである。  BLを愛好する(主に)女性をターゲットにした「実録」とは、どんなものなのか。さっそく読んでみて、驚いた。
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 物語は、高校時代の経験からゲイであることを自覚していた主人公・明良の視点で始まる。明良は、高校時代から、同級生などにも惹かれてはいたものの「ノンケに恋をしちゃいけない」と考え本気で恋愛をしていなかった。そんな彼がノンケの男性と同棲を始めてしまうのである。  ネタバレになってしまうので詳細は省くけど、出会いは最悪。しかも、ゲイの主人公が押せ押せでノンケを口説くのかと思いきや、違う。ノンケのほうが「転勤で東京に来た」という理由で押しかけ同棲が始まるのだ。  いやいや、これまで数々のヒロインが押しかけてくる作品は知ってるけれども、ノンケのほうが、押せ押せでやってくるなんて!  こんな驚きの作品はどうやって出来上がったのか、好奇心を抑えきれずに編集部を訪ねた。
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「月刊マガジンビーボーイ」の編集・廣瀨茉衣子さんが語る作品誕生のきっかけは、こうだ。 「友人つながりで、主人公の明良のモデル・柳賢斗さんにお会いしたのですが、そのときに、旦那さんともう10年も一緒に暮らしているというのです。それで、いろいろとお話をお伺いしていたら、周りにいた腐女子の皆さんも目の輝きが違っていて……これだ! と思ったんです」  これは結構な驚きである。現実のゲイとBLとの間には、あくまで現実とフィクションという溝があるのだと思っていた。ところが、BLが、当たり前に存在しているものとして、世間に知られるようになったからだろうか。必ずしもそうではなくなっているようだ。  廣瀨さんは、作品制作にあたって柳さんから「腐女子が自分たちを認めていることによって、自由に生きられるようになってきていると感じている」という言葉も聞いたという。
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 なるほど、男性向け作品でも、昨今は男の娘やTSFジャンルが幅広い層の支持を受けるようになっている。BLでも同じような現象、すなわちフィクションが現実に作用することが起こっているということだろうか。  そんな驚きばかりの実録を描く波真田先生は、よい意味でフィクションを感じさせない作風が特徴。今回も、日常系BLといえば波真田先生しかいない! ということで決まったのだという。  連載は全5回を予定しており、次号以降も、リアルな日常が描写されていくという。  しかし、やっぱり気になるのは同棲が10年も続いていること。廣瀨さんも、そこは気になったようで、柳さんに尋ねてみたところ…… 「2人の寝床をシングルベットにしておくのがケンカを長引かせないコツ」  なるほど。相手の心音の聞こえる距離感は、心を落ち着かせるのか! でも、普段は狭そうだな……。 (文=昼間たかし)
月刊マガジンビーボーイ
「月刊マガジンビーボーイ」2017年2月号
■月刊マガジンビーボーイ公式サイト http://www.b-boy.jp/magazine/bboy/ ■「ビーボーイ編集部」ツイッターアカウント @bboy_editor

やっぱりモテなきゃダメですか? 2人の非モテが読む二村ヒトシ『すべてはモテるためである』

杉田俊介さんと、まくねがおさんが、「男らしさ」についてあれこれと思索する対談連載「男らしくない男たちの当事者研究」。過去2回に渡り、近年起きている「男性論ルネッサンス」の検証として、田中俊之『〈40男〉はなぜ嫌われるか』(イースト新書)、坂爪真吾『男子の貞操』(ちくま新書)を取り上げてきました。今回は、二村ヒトシさんの『すべてはモテるためである』(文庫ぎんが堂)。二村さんの足跡を辿りながら、「モテ」について考えていきます。 知性主義的モテ本『すべてはモテるためである』 杉田 この連載では、いま起きている「男性論ルネッサンス」を検証するため、田中俊之『〈40男〉はなぜ嫌われるか』、坂爪真吾『男子の貞操』を取り上げてきました。今回は二村ヒトシさんの『すべてはモテるためである』です。本書は1998年に刊行され、その後2002年に『モテるための哲学』とタイトルを変更して幻冬舎社から文庫が出ています。そして、2012年に大幅加筆された『すべてはモテるためである』が出版され大きな話題になりました。いかにも「モテ本」的なそのタイトルに反して、男性たちの性的な「こじらせ」についてのとても誠実な分析になっていますね。二村さんはアダルトビデオの監督としても有名です。 まく この本は、マニュアル本として書かれていますね。それも安易な方法論を示さない、自分の頭で考えるためのマニュアル本。特徴的なのは「あなたがモテないのは、あなたがキモチワルイからだ」と、まずは徹底的に、読者に自己否定させるアプローチを取るところだと思います。これは、モテる男になるためのマニュアル本だと思って手に取った読者を想定した書き方だと思いますね。 杉田 なるほど。 まく そしてこの本は、モテずに気持ち悪がられている人に向けて、懇切丁寧に、順序立て、整理立てて、モテについてどう考えていけば良いのかを提示していきます。適宜、モテに悩む男性読者に向けたメッセージが入っていく。文体としては軽いのですが、放たれるメッセージは重いし鋭い。そんな本だな、と思いましたね。 杉田 自意識過剰になって考え方が堂々巡りしているとキモチワルイ男になってしまってモテなくなる。しかし二村さんが言うのは、考えずに行動しろ、ということではない。逆です。ちゃんと考えるべきことを自分の頭で考えろ、と。最近は「反知性主義」という言葉が流行っていますが、これはいわば「知性主義的」なモテ本だと感じました。 まく そうですね。考えることの大切さを訴えつつ、でも考えすぎ、臆病になりすぎて行動できないようにもなるな、というメッセージがありますね。「相手に応じて変わっていこう」と訴えるところが、僕には非常に印象的でした。 杉田 コンプレックスを否定していないのがいいですね。治そうとするにせよ、受け入れるにせよ、自分のコンプレックスとちゃんと付き合え。そうすれば、「心の穴」(弱さ)こそ君の魅力や長所になる、と。 モテるようになった二村さんが苦しかった理由 まく あわせて『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』(文庫ぎんが堂)も読みました。二村さんは2012年に文庫版『すべてはモテるためである』を出版した後、『恋とセックスで幸せになる方法』(2011年、イースト・プレス)の文庫版『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を2014年に作り上げています。 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』に掲載されている信田さよ子さんとの特別対談で、信田さんは二村さんの深層心理にある女性観に対して鋭い指摘と痛烈な批判を行っています(P.280-281)。そうした中で、二村さんもまた、自分の真の弱さと向き合わざるを得なくなるんですよね。また、あとがき(実質的はライター・丸山桜奈さんとの対談)では、二村さんの中に「女性に悪いところや弱いところがあることを許せない」自分がいること、そして「それは二村さんが自分の中に悪いところや弱いところがあることを受容していないから」だと丸山さんに指摘されます(P.290-291)。この二冊の本の執筆過程が、まさしく当事者研究なんだよな、と思いました。 杉田 モテるようになったのに、かえって心が苦しくなった、とも言っていましたよね? まく 『すべてはモテるためである』(2012年版)の第5章「モテてみた後で考えたこと」に、そのように書かれています。2002年に『モテるための哲学』を出した頃から二村さんはモテはじめたそうです。最初は非常に楽しかったが、途中から【モテているのに、心が苦しい】という状態になった。お付き合いしている相手が苦しんでいることがよく分かるから。そうして次第に、二村さんは【加害者意識】がつのりはじめた、と。 杉田 はい。加害者意識と言っていますね。 まく それで、二村さんがお付き合いしてきた女性たちに対する、いわば罪滅ぼしのようなつもりで書き上げた『恋とセックスで幸せになる方法』が、中村うさぎさんに「二村さん自身が全然出てこない」と批判されています。その後、文庫版『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を編集する過程で、二村さんは自身の女性嫌悪や男性嫌悪(≒自己嫌悪)にも気づいていくわけですね。 罪滅ぼしのつもりで当初は書いていたが、実は自分を守るために書いていた。自分の弱さを見つめられず、目を背けていた部分があった。二村さんがモテて心が苦しくなったのも、そこから来ていたのだ、と。『すべてはモテるためである』『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を通して読むと、二村さんのプロセスがよく分かって、とても面白かったです。 「肉食系のこじらせ男性」と「非モテ系のこじらせ男性」 杉田 ところで、実はですね……二村さんの本はとても素晴らしい本だと思うんですけど……僕はあまり、のめり込んで読めなかったんですね。うまくいえないけど、自分の中に妙な警戒感もあって……それをなんといえばいいか……。 まく ふんふん。 杉田 二村さんは「肉食系のこじらせ男性」で、僕は「非モテ系のこじらせ男性」だと思うんですね。似ているところもありつつ、基本的にはあまり似ていない。似ていないはずなのに、言っていることが何となく似通ってくる。それはどうしてなのか。もやもやっとした、直感的な警戒感があります。この本に関しては、少し僕には語り難いもの、語ることをためらわせるものがあって、それが何なのか自分でもよくわかっていないんですね。その正体は何なんでしょうね? まく うーん、何なんでしょう。 杉田 二村さんの本は、確かにいわゆる肉食系のモテ本とは違います。そのことへの率直な驚きもある。けれども、ぐるっと回って、やっぱりタイトル通りでもあるんですよね。「すべてはモテるためである」。 肉食系でも草食系でもなく、いわばウツボカズラ的なモテ本というか。読者の自己嫌悪も、変わりたいという気持ちも、そこにのみこまれていく。ここに共感するのは(少なくとも僕としては)ちょっと危ういぞというか……正直にいえば、そういう気持ちがあります。この「モテと非モテのアリジゴク」から降りる自由、精神と肉体が解き放たれる自由も同時にあってほしい。まくさんには、そういう息苦しさはありませんでしたか? まく 僕には、そういう息苦しさは感じませんでしたね。二村さんは「肉食系のこじらせ男性」だと思うし、僕も「非モテ系のこじらせ男性」だと自認しています。「言っていることが何となく似通ってくる」という感想は僕も持ちました。二村さんの本には杉田さんの『非モテの品格』(集英社)と共通することが書かれていると感じていて、僕はどちらの本もとても面白く読みました。 例えば、自己開示やユーモアについてのくだりは、書き方は違っても同じようなことが書かれていると思ったんですね。「相手に自己開示して、それで相手に笑われると、自分の気分が良くなるんだ」という部分は『非モテの品格』のユーモア論に近いものがあると感じて面白く読んだりしました。 杉田 なるほど。 まく 他にも、できるだけ人に優しくあろうとするスタンスとか、「目の前の他者を愛そう、そのまま受け容れよう(尊重しよう)とすることこそが、自分を尊重することにつながるんだ」というスタンスとか。僕は、二村さんと杉田さんの本を響き合わせながら、自然と読んでいましたね。 杉田 なるほど。うーん。だとすると、僕の中のこの抵抗感は何なんですかね……。 たとえば二村さんにとっては、こういう本を書くこと自体が、二村さん自身の新たな「モテ」の触媒になっていませんか? 僕の書くものはむしろ「君の人生の問題に独りで対峙してくれ、僕は自分で苦しみ、自分で幸福になるから」という突き放しがあると思うんですね。これって、単なるルサンチマンなんですかね(笑)。 まく いやー、どうなんでしょうかね(笑)。 杉田 自分でもよくわかんなくって。 やっぱり「モテなきゃダメ」? まく 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』まで読むと、書くこと自体が二村さん自身の「モテ」の触媒になっているとは言えない……。いや、表面的には「モテ」の触媒になっているように見えるかもしれないけど、二村さんも根底的には非常に孤独に闘っているんだな、という印象を持ったりしましたねえ。 杉田 そうですか。 まく しかしどうなんだろうな、独りで対峙する勇気をもらえるような本かどうか、か……。例えば僕は先日、二村さんが監督、出演をしているAVを見てみたんです。二村さんがセックスしている姿を見て、二村さんが一方では非常に孤独に見え、しかし精一杯闘っている、という印象を受けたりしました。そこに、勇気をもらえた感じもあったんですね。僕もうまく言えないんですけど……。 杉田 ほう……。 まく ちなみに、そのAVを見て僕はとても興奮したし、女優さんもとっても美しく見えましたが。なんだか、不思議なAV視聴体験でしたねえ。 杉田 そうですか。僕は彼が出演したり監督したりしている作品は観たことがないですね。観てみると印象もまた違うのかな。 しかし、素朴過ぎるかもしれませんが、やっぱりモテなきゃダメなんですかね? それが「すべて」なんでしょうか? 二村さんの考え方の中から「たとえモテず、愛されずとも、優しく幸福に生きていく」というような問いが出てくるのかな? そういう問いにも居場所がありますか。 まく そうですねえ。まず、僕が勝手に『すべてはモテるためである』を読み替えながら読んでいた、という点はあると思います。『すべてはモテるためである』は、確かにモテる/モテないをめぐっての議論、恋愛関係、恋人関係、性愛関係をめぐっての議論として提示されているとは思います。でも、おそらくそれ以外の関係、日々のあらゆる誰かとのやりとりでの関係でも、適用可能な議論ではないかと思ったんです。誰かと互いを尊重しあって生きていく技法として。 杉田 なるほど。そうか。 まく ただこれは、明らかに僕が広げて読み込みすぎだと思います。そういう意味で、ぜひ『非モテの品格』をセットで読んでみて欲しいと感じます。……僕が言うのも変ですが(笑)。 杉田 なるほどね。僕はかなり何かを投影してしまっているのかもしれないなあ。というか、まくさんの目からみて、僕が感じている二村さんへのもやもやした感じの正体って、なんだと思います? 率直なところ。 まく いやー、なんでしょうか……。 杉田 身も蓋もないけど、二村さんがモテる人間で、僕がそうではないからですかね?(笑) まく いや、こういってはなんですが、僕も恋愛・性愛面ではモテたことがないわけで……。でも、僕はあんまり二村さんへのもやもやを感じたりはしないんですね。なんなんでしょうね……。お互いの非モテ意識に、やや違いがあるってことですかね? 杉田 そうですね。我々の違いが結構重要かもしれないですね。「非モテ意識」や「男らしくなさ」にも様々なタイプがあるのでしょう。この辺は今後の課題になるのかな。しかし、うーん……。 (この後、10分ほどの沈黙) 自分の中の「モモレンジャー」 まく ……少し話を変えますね。本の中で、自分の【居場所】を見つけよう、【心のふるさと】を見つけよう、というメッセージがありました。「他の人に、その【居場所】のことをエラソーに一方的に長々と話さないこと、そうしてしまうのは自分に自信がないからだ」「本当の【居場所】は、ひとりでいても寂しくない場所で、それをひけらかさなくても良いところだ」というくだりを読むたびに、「自分にはまだ見つかっていないな」「あー、自分はまだダメだなあ」と思いますねえ。自分の好きなことを、他の人へついつい、ひけらかして語りたくなってしまいますからね。 杉田 面白かった点、他にはどうですか? まく そうですねえ、あとは、「心の中のゴレンジャー」論ですね。 杉田 ああ、あれは僕もよかったと思いましたね。 まく 平野啓一郎さんの「分人主義」論(『私とは何か―「個人」から「分人」へ 』(講談社現代新書)や『空白を満たしなさい』(講談社)を参照のこと)のようなものですが、それを当事者研究的に導いていく文章が、とても良くて。 日常の出来事と重ねあわせながら読んで、とても面白かったです。「あ、あのときのキザだった僕って、アオレンジャーだったのかも」とか、「だらしなかった、あのときの僕は食いしん坊のキレンジャーっぽいな」って。そうやって意識化して、それらの自分をありのまま尊重していけたなら、より豊かな自分になれるんじゃないかなって思いましたね。自分をひとつとして捉えず、複数であると捉える感覚は、当事者性を考えていく上で、とても大切ですよねえ。 杉田 あなたの中にも必ずモモレンジャーがいる、つまり女性らしさがある、というわけですよね。 まく それです、それです。モモレンジャー、心の中の女についても凄く話したかったんです。実は僕、他のレンジャーは心の中にいる自分として当てはめられそうだったんですが、モモレンジャーだけは、なかなか想像できなかったんですよ……。 杉田 僕は自分の中の女性性をちょっと想像しましたね。 まく 自分がモモレンジャーのことだけは思いつかない事実がとても興味深かったです。僕は、僕の中の女を、いないようにいないようにしているのかもしれないな、と。僕の母親は過保護だったので、日頃、過保護に扱われたい自分と、しかしそうはされたくない自分と、闘っている面があるんですね。「もらいたがっている」自分がいて、でもそんな自分がイヤで、日常の中で自分を打ち消そうとしているんです。それが影響して、自分の中の女をいないようにしているのかもしれないな、と。 杉田 そうか、母的なものか。 まく この議論でいう二村さんにとってのモモレンジャーは、二村さんの母親です。そしてその母親から来る二村さんの深層心理の女性観に信田さよ子さんは痛烈な批判を浴びせていました。ですので「心の中のモモレンジャー」論自体にも、何か再検討すべき点があるのかもしれません。 杉田 それも課題だなあ。江藤淳じゃないけど、母なるものの呪縛ね。異性に対しても無意識のうちに母親の影を求めてしまうという。素朴だけど、これ厄介ですね。単純にマザコンとか、母に去勢された、という話でも割り切れない気がする。 「超自我としての、厳しい女性性」 まく まったくですねえ。先ほど杉田さんは、自分の中の女性性を想像できたって言ってましたけど、どんな感じなんですか? 杉田 ……さっきはあっさり言っちゃったけど、いざ考えてみると、言葉にしがたいっすね。なんていうかな……優しくされたいとか、抱きしめられたいとか、守ってほしいとか、そういう感じかなあ。でもそれって、ジェンダー役割的な意味での「女らしさ」でしかないですよね。 まく あー、なるほど。 杉田 だから、そういう「女らしさ」が自分の中にある、って口にすると、女性からは「それは男がイメージする女らしさであって、現実の女性そのものではない」と批判されるだろうな、って思って。 まく うーん、そうですねえ……。 杉田 そういう「男が何を言っても叩いてくる」という「女性性」のイメージも自分の中に別人格としてある気がして。ある種の超自我みたいな感じでインストールされている感じもします。ややこしい。 まく すごく興味深いです。杉田さんにとっての「女性性」、ここまで聴くと、凄く複雑で、でもリアルな感じがします。そういう「女性性」を自分の中に感じている男性は、他にもいるんじゃないかなあ。 杉田 「超自我としての、厳しい女性性」は結構大事なテーマかもしれない。「男だからしっかりしろ」という命令と、「男が何をしようが所詮は女の手のひらの上」という無力さをダブルバインド的に同時に求められているような。それは母の呪縛とも違いますね。この辺は精神分析が色々論じているかもしれないけど、よくわかりません。 まく ふーむ、そうですか。杉田さんにとっての心の中の「女性性」を掘り下げると、そういう論点に行き着く、と。面白いなあ。 「感情を感じきる」とラクになれるってどういうこと? まく 二村さんの本を題材に、色々と話してきましたが、性に関しての話題は、語り合うことの難しさがありつつも、当事者研究的に非常に重要だな、とあらためて感じました。杉田さんはいかがですか? 杉田 そうですね。自分の性愛や欲望に対峙することは、どうしてももやもやがつきまといますね。そしてそれは案外、大事なことなのかもしれない。優柔不断なまま、もやもやしたまま知的であろうとすることは。それは反知性主義とは逆の態度でありうる気がする。 まく ふむ。 杉田 たとえば『すべてはモテるためである』の文庫版の対談相手の國分功一郎さんは「非モテ」にはっきりとダメ出しをしていますね。もやもやした感情はダメなんだ、と。思いっきり羨むのでもなく、はっきり断念するのでもない、そういうのがダメなんだと。 まく そうでしたね……。 杉田 モテたいと思うなら、モテたいと思いっきり願え。感情を感じきれ。國分さんの言うことはすごく分かるんだけど、でも僕は、単に不徹底な情念ではなくて、どんなに考えてもどうしても残る人間の内なるもやもや、ダメさや弱さを大事にしたいし、そこから何が生まれてくるか、そのゆくえが気になる。僕の文章も蛇行しまくりだし。人間にとっては、優柔不断なもやもやというエレメントが大事な局面もあるのではないか。 まく うーん、もやもやについてなんですけど……。僕は二村さんの本を最近再読した後、「感情は、考えるのではなくて感じきる」というのを、自分も日々でやろうとしているんです。うまくできて、そのおかげで、それまでは考えすぎて動けなかった自分がスッキリ動けたことも、一回だけあって。そのときは良かったんですが……。 ただ、なかなかうまくいかないんですよね。うまく感じきれないときが多すぎる。ついつい考えちゃう。もしくは、何か別のこと(本とか、ネットとか)に逃げてしまって「感情を感じきる」をしないように逃げてしまう。二村さんの本を読んでから、「モヤモヤしている自分は、感情を感じきれないせいじゃないか」「うまく感じきれない自分は、ダメだなあ……」なんて、もやもやしてるんです(笑)。自分のもやもやを、どう扱ったら良いかわからなくてもやもやしている(笑)。こういう自分が自意識過剰すぎてダメだなって思いつつ。……返答に困るかもしれないですけど、こういう僕に対して、杉田さんはどんなことを思いますか? 杉田 どうなんだろう。わかんない。感情を感じきるって、どうすればいいんですかね。もやもやした気分って、考え(思考)と感情(身体)がすっきり区別できない状態という気がするから……。もやもやした気分に忠実になって、しかし自縄自縛にもならず、自己嫌悪もため込まず、どこまで行けるのか、ということなのか。というか、僕はずっともやもやしている人間なので、すっきりしたアドバイスもできず……。 まく 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』では、「感情を感じきること」について、こう書いていますね。「苦しい感情が湧いた時は、よけいな考えをめぐらせたり、自分を責めたり相手を責めたり、卑屈になったり自己正当化したりせず、ただ自分の感情を【感じきって】みてください。原因や、未来・過去のことなどを考えず、ただ起こり、ただ悲しんでみてください。(中略)自分の感情の炎に、水もかけず、かといって新しい燃料をくべず、湧きあがってくるものがおさまるまで感じきるのです。その方が早くラクになれるはずです」(p.152)と。 杉田 「感情を感じきること」って、瞑想みたいな感じなんですかね。 まく うーん、いや、どうなんでしょう。 杉田 違うか。「早くラクになれる」って、どういうことなんだろう。 まく 本を読んでみると……、一晩中びいびい泣く、枕やクッションを叩いて怒りまくる、自分だけしか見ないノートに気持ちを書く、とかが「感情を感じきること」の例として挙げられていますねえ。 杉田 ああ、そうか。ちょっとイメージしていたのと違った。読んだはずなのに忘れていた。怒りや悲しみをそのままにしておくほうが、燃料が早く自然に尽きてラクになれると。するとやはり、二村流でいけば「もやもやしている」状態をそのままにしておくしかないのでは……放っておくと、もやもやが自然におさまってくると。 まく うーん……。 杉田 いや、怒りや悲しみのような具体的な感情と、もやもやのような曖昧な気分は、別物なのかな? 哲学なんかでは、具体的な対象のある「感情」と対象の無い曖昧な「気分」(不安や疲労など)が区別されたりしますけど。もやもやした気分は、感情じゃないから、放置して燃え尽きることがないのかしら。もやもやには「感情は考えずに感じきる」とは別の対処法が必要とか? まく なるほど。僕にとっては、怒りや悲しみのような具体的な「感情」と、もやもやのような曖昧な「気分」は、別な感じがします。僕の場合は、端的に「自分の感情がわからない」、そして、「自分の感情を感じきることが怖い」という感情(気分?)があるのかもなあ。いずれにせよ、「感情」と「気分」という区別を考えることは、僕にとって大切な気がする。 杉田 そろそろ時間ですね。……今回はなんだかとくに中途半端なまま、僕らの対話も終ってしまいましたが、引き続き、次回以降ももやもやした気持ちを抱えたまま考え続けていくことになりそうですね。 まく そうですねえ。

やっぱりモテなきゃダメですか? 2人の非モテが読む二村ヒトシ『すべてはモテるためである』

杉田俊介さんと、まくねがおさんが、「男らしさ」についてあれこれと思索する対談連載「男らしくない男たちの当事者研究」。過去2回に渡り、近年起きている「男性論ルネッサンス」の検証として、田中俊之『〈40男〉はなぜ嫌われるか』(イースト新書)、坂爪真吾『男子の貞操』(ちくま新書)を取り上げてきました。今回は、二村ヒトシさんの『すべてはモテるためである』(文庫ぎんが堂)。二村さんの足跡を辿りながら、「モテ」について考えていきます。 知性主義的モテ本『すべてはモテるためである』 杉田 この連載では、いま起きている「男性論ルネッサンス」を検証するため、田中俊之『〈40男〉はなぜ嫌われるか』、坂爪真吾『男子の貞操』を取り上げてきました。今回は二村ヒトシさんの『すべてはモテるためである』です。本書は1998年に刊行され、その後2002年に『モテるための哲学』とタイトルを変更して幻冬舎社から文庫が出ています。そして、2012年に大幅加筆された『すべてはモテるためである』が出版され大きな話題になりました。いかにも「モテ本」的なそのタイトルに反して、男性たちの性的な「こじらせ」についてのとても誠実な分析になっていますね。二村さんはアダルトビデオの監督としても有名です。 まく この本は、マニュアル本として書かれていますね。それも安易な方法論を示さない、自分の頭で考えるためのマニュアル本。特徴的なのは「あなたがモテないのは、あなたがキモチワルイからだ」と、まずは徹底的に、読者に自己否定させるアプローチを取るところだと思います。これは、モテる男になるためのマニュアル本だと思って手に取った読者を想定した書き方だと思いますね。 杉田 なるほど。 まく そしてこの本は、モテずに気持ち悪がられている人に向けて、懇切丁寧に、順序立て、整理立てて、モテについてどう考えていけば良いのかを提示していきます。適宜、モテに悩む男性読者に向けたメッセージが入っていく。文体としては軽いのですが、放たれるメッセージは重いし鋭い。そんな本だな、と思いましたね。 杉田 自意識過剰になって考え方が堂々巡りしているとキモチワルイ男になってしまってモテなくなる。しかし二村さんが言うのは、考えずに行動しろ、ということではない。逆です。ちゃんと考えるべきことを自分の頭で考えろ、と。最近は「反知性主義」という言葉が流行っていますが、これはいわば「知性主義的」なモテ本だと感じました。 まく そうですね。考えることの大切さを訴えつつ、でも考えすぎ、臆病になりすぎて行動できないようにもなるな、というメッセージがありますね。「相手に応じて変わっていこう」と訴えるところが、僕には非常に印象的でした。 杉田 コンプレックスを否定していないのがいいですね。治そうとするにせよ、受け入れるにせよ、自分のコンプレックスとちゃんと付き合え。そうすれば、「心の穴」(弱さ)こそ君の魅力や長所になる、と。 モテるようになった二村さんが苦しかった理由 まく あわせて『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』(文庫ぎんが堂)も読みました。二村さんは2012年に文庫版『すべてはモテるためである』を出版した後、『恋とセックスで幸せになる方法』(2011年、イースト・プレス)の文庫版『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を2014年に作り上げています。 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』に掲載されている信田さよ子さんとの特別対談で、信田さんは二村さんの深層心理にある女性観に対して鋭い指摘と痛烈な批判を行っています(P.280-281)。そうした中で、二村さんもまた、自分の真の弱さと向き合わざるを得なくなるんですよね。また、あとがき(実質的はライター・丸山桜奈さんとの対談)では、二村さんの中に「女性に悪いところや弱いところがあることを許せない」自分がいること、そして「それは二村さんが自分の中に悪いところや弱いところがあることを受容していないから」だと丸山さんに指摘されます(P.290-291)。この二冊の本の執筆過程が、まさしく当事者研究なんだよな、と思いました。 杉田 モテるようになったのに、かえって心が苦しくなった、とも言っていましたよね? まく 『すべてはモテるためである』(2012年版)の第5章「モテてみた後で考えたこと」に、そのように書かれています。2002年に『モテるための哲学』を出した頃から二村さんはモテはじめたそうです。最初は非常に楽しかったが、途中から【モテているのに、心が苦しい】という状態になった。お付き合いしている相手が苦しんでいることがよく分かるから。そうして次第に、二村さんは【加害者意識】がつのりはじめた、と。 杉田 はい。加害者意識と言っていますね。 まく それで、二村さんがお付き合いしてきた女性たちに対する、いわば罪滅ぼしのようなつもりで書き上げた『恋とセックスで幸せになる方法』が、中村うさぎさんに「二村さん自身が全然出てこない」と批判されています。その後、文庫版『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を編集する過程で、二村さんは自身の女性嫌悪や男性嫌悪(≒自己嫌悪)にも気づいていくわけですね。 罪滅ぼしのつもりで当初は書いていたが、実は自分を守るために書いていた。自分の弱さを見つめられず、目を背けていた部分があった。二村さんがモテて心が苦しくなったのも、そこから来ていたのだ、と。『すべてはモテるためである』『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を通して読むと、二村さんのプロセスがよく分かって、とても面白かったです。 「肉食系のこじらせ男性」と「非モテ系のこじらせ男性」 杉田 ところで、実はですね……二村さんの本はとても素晴らしい本だと思うんですけど……僕はあまり、のめり込んで読めなかったんですね。うまくいえないけど、自分の中に妙な警戒感もあって……それをなんといえばいいか……。 まく ふんふん。 杉田 二村さんは「肉食系のこじらせ男性」で、僕は「非モテ系のこじらせ男性」だと思うんですね。似ているところもありつつ、基本的にはあまり似ていない。似ていないはずなのに、言っていることが何となく似通ってくる。それはどうしてなのか。もやもやっとした、直感的な警戒感があります。この本に関しては、少し僕には語り難いもの、語ることをためらわせるものがあって、それが何なのか自分でもよくわかっていないんですね。その正体は何なんでしょうね? まく うーん、何なんでしょう。 杉田 二村さんの本は、確かにいわゆる肉食系のモテ本とは違います。そのことへの率直な驚きもある。けれども、ぐるっと回って、やっぱりタイトル通りでもあるんですよね。「すべてはモテるためである」。 肉食系でも草食系でもなく、いわばウツボカズラ的なモテ本というか。読者の自己嫌悪も、変わりたいという気持ちも、そこにのみこまれていく。ここに共感するのは(少なくとも僕としては)ちょっと危ういぞというか……正直にいえば、そういう気持ちがあります。この「モテと非モテのアリジゴク」から降りる自由、精神と肉体が解き放たれる自由も同時にあってほしい。まくさんには、そういう息苦しさはありませんでしたか? まく 僕には、そういう息苦しさは感じませんでしたね。二村さんは「肉食系のこじらせ男性」だと思うし、僕も「非モテ系のこじらせ男性」だと自認しています。「言っていることが何となく似通ってくる」という感想は僕も持ちました。二村さんの本には杉田さんの『非モテの品格』(集英社)と共通することが書かれていると感じていて、僕はどちらの本もとても面白く読みました。 例えば、自己開示やユーモアについてのくだりは、書き方は違っても同じようなことが書かれていると思ったんですね。「相手に自己開示して、それで相手に笑われると、自分の気分が良くなるんだ」という部分は『非モテの品格』のユーモア論に近いものがあると感じて面白く読んだりしました。 杉田 なるほど。 まく 他にも、できるだけ人に優しくあろうとするスタンスとか、「目の前の他者を愛そう、そのまま受け容れよう(尊重しよう)とすることこそが、自分を尊重することにつながるんだ」というスタンスとか。僕は、二村さんと杉田さんの本を響き合わせながら、自然と読んでいましたね。 杉田 なるほど。うーん。だとすると、僕の中のこの抵抗感は何なんですかね……。 たとえば二村さんにとっては、こういう本を書くこと自体が、二村さん自身の新たな「モテ」の触媒になっていませんか? 僕の書くものはむしろ「君の人生の問題に独りで対峙してくれ、僕は自分で苦しみ、自分で幸福になるから」という突き放しがあると思うんですね。これって、単なるルサンチマンなんですかね(笑)。 まく いやー、どうなんでしょうかね(笑)。 杉田 自分でもよくわかんなくって。 やっぱり「モテなきゃダメ」? まく 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』まで読むと、書くこと自体が二村さん自身の「モテ」の触媒になっているとは言えない……。いや、表面的には「モテ」の触媒になっているように見えるかもしれないけど、二村さんも根底的には非常に孤独に闘っているんだな、という印象を持ったりしましたねえ。 杉田 そうですか。 まく しかしどうなんだろうな、独りで対峙する勇気をもらえるような本かどうか、か……。例えば僕は先日、二村さんが監督、出演をしているAVを見てみたんです。二村さんがセックスしている姿を見て、二村さんが一方では非常に孤独に見え、しかし精一杯闘っている、という印象を受けたりしました。そこに、勇気をもらえた感じもあったんですね。僕もうまく言えないんですけど……。 杉田 ほう……。 まく ちなみに、そのAVを見て僕はとても興奮したし、女優さんもとっても美しく見えましたが。なんだか、不思議なAV視聴体験でしたねえ。 杉田 そうですか。僕は彼が出演したり監督したりしている作品は観たことがないですね。観てみると印象もまた違うのかな。 しかし、素朴過ぎるかもしれませんが、やっぱりモテなきゃダメなんですかね? それが「すべて」なんでしょうか? 二村さんの考え方の中から「たとえモテず、愛されずとも、優しく幸福に生きていく」というような問いが出てくるのかな? そういう問いにも居場所がありますか。 まく そうですねえ。まず、僕が勝手に『すべてはモテるためである』を読み替えながら読んでいた、という点はあると思います。『すべてはモテるためである』は、確かにモテる/モテないをめぐっての議論、恋愛関係、恋人関係、性愛関係をめぐっての議論として提示されているとは思います。でも、おそらくそれ以外の関係、日々のあらゆる誰かとのやりとりでの関係でも、適用可能な議論ではないかと思ったんです。誰かと互いを尊重しあって生きていく技法として。 杉田 なるほど。そうか。 まく ただこれは、明らかに僕が広げて読み込みすぎだと思います。そういう意味で、ぜひ『非モテの品格』をセットで読んでみて欲しいと感じます。……僕が言うのも変ですが(笑)。 杉田 なるほどね。僕はかなり何かを投影してしまっているのかもしれないなあ。というか、まくさんの目からみて、僕が感じている二村さんへのもやもやした感じの正体って、なんだと思います? 率直なところ。 まく いやー、なんでしょうか……。 杉田 身も蓋もないけど、二村さんがモテる人間で、僕がそうではないからですかね?(笑) まく いや、こういってはなんですが、僕も恋愛・性愛面ではモテたことがないわけで……。でも、僕はあんまり二村さんへのもやもやを感じたりはしないんですね。なんなんでしょうね……。お互いの非モテ意識に、やや違いがあるってことですかね? 杉田 そうですね。我々の違いが結構重要かもしれないですね。「非モテ意識」や「男らしくなさ」にも様々なタイプがあるのでしょう。この辺は今後の課題になるのかな。しかし、うーん……。 (この後、10分ほどの沈黙) 自分の中の「モモレンジャー」 まく ……少し話を変えますね。本の中で、自分の【居場所】を見つけよう、【心のふるさと】を見つけよう、というメッセージがありました。「他の人に、その【居場所】のことをエラソーに一方的に長々と話さないこと、そうしてしまうのは自分に自信がないからだ」「本当の【居場所】は、ひとりでいても寂しくない場所で、それをひけらかさなくても良いところだ」というくだりを読むたびに、「自分にはまだ見つかっていないな」「あー、自分はまだダメだなあ」と思いますねえ。自分の好きなことを、他の人へついつい、ひけらかして語りたくなってしまいますからね。 杉田 面白かった点、他にはどうですか? まく そうですねえ、あとは、「心の中のゴレンジャー」論ですね。 杉田 ああ、あれは僕もよかったと思いましたね。 まく 平野啓一郎さんの「分人主義」論(『私とは何か―「個人」から「分人」へ 』(講談社現代新書)や『空白を満たしなさい』(講談社)を参照のこと)のようなものですが、それを当事者研究的に導いていく文章が、とても良くて。 日常の出来事と重ねあわせながら読んで、とても面白かったです。「あ、あのときのキザだった僕って、アオレンジャーだったのかも」とか、「だらしなかった、あのときの僕は食いしん坊のキレンジャーっぽいな」って。そうやって意識化して、それらの自分をありのまま尊重していけたなら、より豊かな自分になれるんじゃないかなって思いましたね。自分をひとつとして捉えず、複数であると捉える感覚は、当事者性を考えていく上で、とても大切ですよねえ。 杉田 あなたの中にも必ずモモレンジャーがいる、つまり女性らしさがある、というわけですよね。 まく それです、それです。モモレンジャー、心の中の女についても凄く話したかったんです。実は僕、他のレンジャーは心の中にいる自分として当てはめられそうだったんですが、モモレンジャーだけは、なかなか想像できなかったんですよ……。 杉田 僕は自分の中の女性性をちょっと想像しましたね。 まく 自分がモモレンジャーのことだけは思いつかない事実がとても興味深かったです。僕は、僕の中の女を、いないようにいないようにしているのかもしれないな、と。僕の母親は過保護だったので、日頃、過保護に扱われたい自分と、しかしそうはされたくない自分と、闘っている面があるんですね。「もらいたがっている」自分がいて、でもそんな自分がイヤで、日常の中で自分を打ち消そうとしているんです。それが影響して、自分の中の女をいないようにしているのかもしれないな、と。 杉田 そうか、母的なものか。 まく この議論でいう二村さんにとってのモモレンジャーは、二村さんの母親です。そしてその母親から来る二村さんの深層心理の女性観に信田さよ子さんは痛烈な批判を浴びせていました。ですので「心の中のモモレンジャー」論自体にも、何か再検討すべき点があるのかもしれません。 杉田 それも課題だなあ。江藤淳じゃないけど、母なるものの呪縛ね。異性に対しても無意識のうちに母親の影を求めてしまうという。素朴だけど、これ厄介ですね。単純にマザコンとか、母に去勢された、という話でも割り切れない気がする。 「超自我としての、厳しい女性性」 まく まったくですねえ。先ほど杉田さんは、自分の中の女性性を想像できたって言ってましたけど、どんな感じなんですか? 杉田 ……さっきはあっさり言っちゃったけど、いざ考えてみると、言葉にしがたいっすね。なんていうかな……優しくされたいとか、抱きしめられたいとか、守ってほしいとか、そういう感じかなあ。でもそれって、ジェンダー役割的な意味での「女らしさ」でしかないですよね。 まく あー、なるほど。 杉田 だから、そういう「女らしさ」が自分の中にある、って口にすると、女性からは「それは男がイメージする女らしさであって、現実の女性そのものではない」と批判されるだろうな、って思って。 まく うーん、そうですねえ……。 杉田 そういう「男が何を言っても叩いてくる」という「女性性」のイメージも自分の中に別人格としてある気がして。ある種の超自我みたいな感じでインストールされている感じもします。ややこしい。 まく すごく興味深いです。杉田さんにとっての「女性性」、ここまで聴くと、凄く複雑で、でもリアルな感じがします。そういう「女性性」を自分の中に感じている男性は、他にもいるんじゃないかなあ。 杉田 「超自我としての、厳しい女性性」は結構大事なテーマかもしれない。「男だからしっかりしろ」という命令と、「男が何をしようが所詮は女の手のひらの上」という無力さをダブルバインド的に同時に求められているような。それは母の呪縛とも違いますね。この辺は精神分析が色々論じているかもしれないけど、よくわかりません。 まく ふーむ、そうですか。杉田さんにとっての心の中の「女性性」を掘り下げると、そういう論点に行き着く、と。面白いなあ。 「感情を感じきる」とラクになれるってどういうこと? まく 二村さんの本を題材に、色々と話してきましたが、性に関しての話題は、語り合うことの難しさがありつつも、当事者研究的に非常に重要だな、とあらためて感じました。杉田さんはいかがですか? 杉田 そうですね。自分の性愛や欲望に対峙することは、どうしてももやもやがつきまといますね。そしてそれは案外、大事なことなのかもしれない。優柔不断なまま、もやもやしたまま知的であろうとすることは。それは反知性主義とは逆の態度でありうる気がする。 まく ふむ。 杉田 たとえば『すべてはモテるためである』の文庫版の対談相手の國分功一郎さんは「非モテ」にはっきりとダメ出しをしていますね。もやもやした感情はダメなんだ、と。思いっきり羨むのでもなく、はっきり断念するのでもない、そういうのがダメなんだと。 まく そうでしたね……。 杉田 モテたいと思うなら、モテたいと思いっきり願え。感情を感じきれ。國分さんの言うことはすごく分かるんだけど、でも僕は、単に不徹底な情念ではなくて、どんなに考えてもどうしても残る人間の内なるもやもや、ダメさや弱さを大事にしたいし、そこから何が生まれてくるか、そのゆくえが気になる。僕の文章も蛇行しまくりだし。人間にとっては、優柔不断なもやもやというエレメントが大事な局面もあるのではないか。 まく うーん、もやもやについてなんですけど……。僕は二村さんの本を最近再読した後、「感情は、考えるのではなくて感じきる」というのを、自分も日々でやろうとしているんです。うまくできて、そのおかげで、それまでは考えすぎて動けなかった自分がスッキリ動けたことも、一回だけあって。そのときは良かったんですが……。 ただ、なかなかうまくいかないんですよね。うまく感じきれないときが多すぎる。ついつい考えちゃう。もしくは、何か別のこと(本とか、ネットとか)に逃げてしまって「感情を感じきる」をしないように逃げてしまう。二村さんの本を読んでから、「モヤモヤしている自分は、感情を感じきれないせいじゃないか」「うまく感じきれない自分は、ダメだなあ……」なんて、もやもやしてるんです(笑)。自分のもやもやを、どう扱ったら良いかわからなくてもやもやしている(笑)。こういう自分が自意識過剰すぎてダメだなって思いつつ。……返答に困るかもしれないですけど、こういう僕に対して、杉田さんはどんなことを思いますか? 杉田 どうなんだろう。わかんない。感情を感じきるって、どうすればいいんですかね。もやもやした気分って、考え(思考)と感情(身体)がすっきり区別できない状態という気がするから……。もやもやした気分に忠実になって、しかし自縄自縛にもならず、自己嫌悪もため込まず、どこまで行けるのか、ということなのか。というか、僕はずっともやもやしている人間なので、すっきりしたアドバイスもできず……。 まく 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』では、「感情を感じきること」について、こう書いていますね。「苦しい感情が湧いた時は、よけいな考えをめぐらせたり、自分を責めたり相手を責めたり、卑屈になったり自己正当化したりせず、ただ自分の感情を【感じきって】みてください。原因や、未来・過去のことなどを考えず、ただ起こり、ただ悲しんでみてください。(中略)自分の感情の炎に、水もかけず、かといって新しい燃料をくべず、湧きあがってくるものがおさまるまで感じきるのです。その方が早くラクになれるはずです」(p.152)と。 杉田 「感情を感じきること」って、瞑想みたいな感じなんですかね。 まく うーん、いや、どうなんでしょう。 杉田 違うか。「早くラクになれる」って、どういうことなんだろう。 まく 本を読んでみると……、一晩中びいびい泣く、枕やクッションを叩いて怒りまくる、自分だけしか見ないノートに気持ちを書く、とかが「感情を感じきること」の例として挙げられていますねえ。 杉田 ああ、そうか。ちょっとイメージしていたのと違った。読んだはずなのに忘れていた。怒りや悲しみをそのままにしておくほうが、燃料が早く自然に尽きてラクになれると。するとやはり、二村流でいけば「もやもやしている」状態をそのままにしておくしかないのでは……放っておくと、もやもやが自然におさまってくると。 まく うーん……。 杉田 いや、怒りや悲しみのような具体的な感情と、もやもやのような曖昧な気分は、別物なのかな? 哲学なんかでは、具体的な対象のある「感情」と対象の無い曖昧な「気分」(不安や疲労など)が区別されたりしますけど。もやもやした気分は、感情じゃないから、放置して燃え尽きることがないのかしら。もやもやには「感情は考えずに感じきる」とは別の対処法が必要とか? まく なるほど。僕にとっては、怒りや悲しみのような具体的な「感情」と、もやもやのような曖昧な「気分」は、別な感じがします。僕の場合は、端的に「自分の感情がわからない」、そして、「自分の感情を感じきることが怖い」という感情(気分?)があるのかもなあ。いずれにせよ、「感情」と「気分」という区別を考えることは、僕にとって大切な気がする。 杉田 そろそろ時間ですね。……今回はなんだかとくに中途半端なまま、僕らの対話も終ってしまいましたが、引き続き、次回以降ももやもやした気持ちを抱えたまま考え続けていくことになりそうですね。 まく そうですねえ。