
日本人の15人に1人は生涯に一度はうつ病を経験するという。『マイク・ミルズのうつの話』は抗うつ剤服用者の生活を記録したものだ。
「心の風邪をひいていませんか?」というフレーズに聞き覚えがないだろうか? 日本初のうつ病疾患啓発のTVコマーシャルとして2002年から3年間にわたってオンエアされたもので、このCMキャンペーンが成功し、日本における精神科への受診の敷居はずいぶん低くなったと言われている。その一方、1990年代までは年間150億円程度だった抗うつ剤の売上げが、現在では1000億円を越えるようになった。今や日本人の15人に1人はうつ病だという。どうしてこうも急激に日本で“うつ”は広まったのだろうか? 製薬会社のマーケティング戦略に日本人はまんまと乗せられたのだろうか? こうした疑問から日本でカメラを回し始めたのが、『サムサッカー』(05)『人生はビギナーズ』(10)といったハートウォーミングな作品で知られるマイク・ミルズ監督だ。ドキュメンタリー映画『マイク・ミルズのうつの話』(原題『DOES YOUR SOUL HAVE A COLD?』)は親日家であるミルズ監督が、東京で暮らす5人の男女とうつ病との関わりを丁寧に映し出していく。
映画に登場する5人の男女は、SNSサイト上でのミルズ監督の呼び掛けに応じた出演志願者たちだ。出演の条件は2つ。抗うつ剤を服用していること、日常生活をありのまま見せてくれること。自宅で暮らすミカは嫌いなお酢を毎日飲むことで精神力を鍛えている。タケトシはうつに関する本を熱心に読む努力家だ。Tシャツ工場で働くカヨコは犬を可愛がっている。プログラマーのケンは猫と同居中。エンジニアのダイスケは写真撮影、ジャズ鑑賞、サボテン栽培と多彩な趣味を持つ。5人はとても温厚そうで、派手さはないものの、マイペースに自分なりの生活を送っているようにカメラには映る。でも抗うつ剤が手放せない彼らの心の中には、様々な不安や疎外感、寂寥感が渦巻いているらしい。

「ハッピーでなくてはならないという強迫観念は米国特有のもの」と考えるミルズ監督は2006年の春、夏と東京での取材を続けた。
大企業のCMを次々と手掛ける売れっ子クリエイターだった時期もあるミルズ監督。日本に友人が多く、生マジメな日本人が欧米系のグルーバル製薬会社が仕掛けたCMキャンペーンの犠牲になっているのではないかと心配だった。でも日本に来てカメラを回していくうちに、製薬会社の企みを告発することよりも、気取りのない5人の淡々とした生活そのものに惹かれていく。5人はみんな、あのCMに好感を覚えたと評価している。CMを見るまでは「精神科にかかったら人生は終わりだと思っていた」と振り返るタケトシ。彼は15年間もうつと付き合いながら、前向きに毎日を過ごしている。ミルズ監督は製薬会社をめぐる問題はとりあえず疑問として投げ掛けるだけにとどめ、個の問題へとフォーカスを絞っていく。5人の生活に寄り添うことで、人間と“うつ”との関わりを日常レベルで掘り下げていく。
本作は2006年に春から夏にかけて撮影されたもの。最初は社交辞令的な笑顔をカメラに向けていた5人だったが、誠実なミルズ監督の性格もあって心をオープンにしていく。数カ月後に会ったカヨコは勤め先をクビになり、症状が悪化したことを打ち明ける。本人的には体重が7キロ増えたことが気になるらしい。ミカは抗うつ剤の服用をやめようとしたが、禁断症状が出てダメだったことが分かる。気の合うカウンセラーになかなか出会えないともこぼす。大企業のトップや政治家へのアポなし突撃取材で一躍名を成したマイケル・ムーア監督とは異なる、ミルズ監督ならではのミニマムなアプローチ方法で“うつ”の現実がクローズアップされていく。うつを題材にした作品ながらさほど暗さを感じさせないのは、ミルズ監督の映像センスによるところが大きいように思う。
ごくごくフツーな5人の男女だが、その中であえて個性的なキャラクターを挙げるならプログラマーのケンだろうか。「いつも通りにして」とミルズ監督に頼まれ、カメラの前で眠り込んでしまうほど打ち解けた関係になっていく。そんなケンの口から、「趣味でSMショーに出ている」という言葉が出てきた。ミルズ監督はケンと共に彼が定期的に通うSM教室へと向かう。マンションの一室でブリーフ姿になったケンは体中を縄で緊縛され、今まで見せたことのない恍惚とした表情を浮かべる。職場では自分がうつだということを内緒にしているケンだが、SM教室で縄で縛られている瞬間だけ心が解放されていく。一連のプレイの後、ケンの表情はとても晴れ晴れとしている。ケンが買ってきたハーゲンダッツのアイスクリームを一緒に食べる縄師も人が良さそうだ。「縛りに癒しを求めにくるお客さんは、何故かうつの人が多い」と語る縄師の言葉が印象に残る。
こうして私はうつ病を完治しました、抗うつ剤と手を切ることができました的なドラマチックな展開が待っているわけではない。このドキュメンタリー映画は、ミルズ監督のデビュー作となった劇映画『サムサッカー』によく似ている。落ち着きがなく、親指をしゃぶる癖がやめられない高校生のジャスティンは催眠療法、薬物治療、マリファナ体験と様々な方法で克服しようとするが、最終的にはあるがままの自分を自分自身が受け入れることで折り合いをつけていく。ミルズ監督の体験が投影されているナイーブな主人公ジャスティンは試行錯誤した上で、自分の欠点を隠すことよりもっと大事なことがあると気づく。それは「答えがない人生をどう生き抜くか」ということ。試験問題と違って、人生には決まった答えは用意されていない。自分自身で答えらしきものを探りながら、少しずつ進んでいくしかないのだ。

母親と実家で暮らすミカ。ドイツ映画『es[エス]』(01)を観たことが、症状を招くきっかけだったと語る。
10月5日、原宿のアートスペースVACANTで『マイク・ミルズのうつの話』の先行上映会が開かれ、カリフォルニア在住のミルズ監督とスカイプで会場が繋がった。司会者から「落ち込んだときに気分をアゲる秘訣は?」と尋ねられたミルズ監督。「(医学の専門家ではない)僕はみなさんにメッセージを届けるなんて立場ではないんだけど、僕も落ち込んでいた時期があります。落ち込んでいる自分の気持ちを自分でアゲるのはとても難しい。すごく基本的なことだけど、誠実であり、正直であることじゃないかな。自分の気持ちに対してもそうだし、他の人との関わりにおいてもそう。そうすることで自分なりの親密さを見つけていくことができるように思うよ」とミルズ監督らしい答えが返ってきた。客席には映画に出演していたミカさんも来ており、撮影の1年後には抗うつ剤をやめることができ、今はOLとして元気に働いていることをミルズ監督に報告した。ミルズ監督はスカイプ越しにうれしそうに手を振っていた。
(文=長野辰次)
『マイク・ミルズのうつの話』
監督/マイク・ミルズ 出演/タケトシ、ミカ、ケン、カヨコ、ダイスケ 配給/アップリンク 10月19日(土)より渋谷アップリンクほか全国順次公開
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