山口冨士夫が死んだ。
享年64歳。まだ戦争の傷跡も生々しい1949年に生まれた山口は、長い間糖尿病の合併症で苦しんでいた。なので当初は病気かドラッグのオーヴァードーズが死因かと思われたが、報道によれば、どうやら軍属の米国人親子から暴行を受けたのが死因ではないかという見方が強まっている。長年不摂生を続けてきた彼のカラダは、持ちこたえられなかったのだろう。
「村八分」の山口冨士夫さん死去 路上で突き飛ばされる / 朝日新聞デジタル
米軍属男ら傷害容疑逮捕=会社員ら殴りけがさせる/時事ドットコム
「村八分」ギタリスト山口冨士夫さんが死去 1カ月前に突き飛ばされ頭部強打 / msn産経ニュース
彼の名を日本のロック史に永遠に留めることになったのが1970年に結成され、1973年に解散した村八分だ。冨士夫にとって、ダイナマイツに続く2つめのバンドだった。
ぼくはこの時のライヴを見ている。中学生の時だった。それまで見知っていた日本のロックとはまったく違っていた。音も、ヴィジュアルも、ファッションも、ステージ・アクションも、なにより存在感がすごかった。ステージにあがった瞬間にその場の空気が変わるのがわかった。なにかもが完璧にかっこよかったのだ。なかでも冨士夫の、ぞくりとするほど妖艶で危険なヴィジュアルと、恐ろしくシャープでリズムの切れるギターは衝撃だった。上記の断片的な映像でそれがどれだけ伝わるかわからないが、評論家的に後付で分析してしまえば、彼らはエロスとタナトスがギリギリにせめぎ合う、危ういまでのデカダンスを全身で体現していた。まさしくジャン・コクトーの描く「アンファン・テリブル」そのものだった。彼らは刃物のように尖っていて、風花のように美しかった。そんなバンドは、そう、ほかにローリング・ストーンズしかいなかった。ぼくは村八分によって、理屈ではなく直感で、ロックを学んだ。

村八分『Live '72 三田祭』
彼らと同世代で交流もあった角田ヒロは、当時「村八分なんてストーンズとアリス・クーパーのコピーじゃないか」と言っていた。またCHARがセックス・ピストルズを聞いて「これ、村八分と同じじゃん」と言ったのは有名な話だ。ストーンズ⇒村八分⇒ピストルズというラインは、確かに実感がある。そしてぼくと同じように村八分のライヴに異様な衝撃を受けたのが、後にフリクションを結成したレックだった。レックは以前、ぼくとのインタビューでこんなことを言っていた。
「できかたが違うっていうか、冨士夫ちゃんやチャー坊がそれまで経験してきたものが、自分とは全然ちがうっていうか。(中略)それまでの日本のバンドとは全然ちがう匂いがあった」(『NU SENSATIONS 日本のオルタナティヴ・ロック 1978-1998』)
その「まったく違う経験」とはなにか。それはたとえば海外放浪生活でリアル・ヒッピーなライフスタイルが完璧に身に付いていたチャー坊(ヴォーカル)の身のこなしやたたずまい、あるいは日本人の母と英国軍人の黒人の父の間に生まれ、3歳の時に施設に預けられ、過酷な差別体験を味わったという冨士夫の、戦後日本の混乱と矛盾を一身に背負った境遇なのかもしれない。もちろんぼくだって当時そんなことを知識として知っていたわけではない。だがロックとは音楽スタイルの一種ではなく、その人の人生や生き方の集積であり、「人間」そのものなのだと、村八分が教えてくれたのだった。
「オレたちは、あのくだらない戦争の、まさに傷あとそのものなんだ。わかるか? こんな話を聞いているあんただって、実はそうなのかもしれないぜ」(山口冨士夫・大野祥之『SO WHAT』)
今となっては奇異に思われるかもしれないが、当時村八分のライバルと一部で見なされていたのが、矢沢永吉のキャロルだった。
実際、1973年5月12日には日比谷野音で「ロックン・ロール・タイトル・マッチ 村八分vsキャロル」というコンサートが企画されていた。当時ヒットを連発してセンセーションを巻き起こしていたキャロルと、まだデビューもしていなかった村八分が対等の立場でライヴをやるのである。当時の村八分の存在感がうかがいしれると同時に、両者に同質の匂いがあったことの証拠でもあるだろう。結局コンサートは中止となるのだが、『ニューミュージックマガジン』1973年7月号によれば、キャンセルを申し出たのは、当時コンサートのドタキャンやライヴの中断中止で悪名高かった村八分ではなく、キャロルの方だったという。
矢沢と冨士夫は同じ学年で誕生日は一ヶ月しか違わない同世代である。戦争の煽りを受け、両親を早くに失い、幼少期から差別やいじめを受け貧困にあえいでいたのも同じだ。アーティストとしても、強烈なインパクトのグラマラスなヴィジュアル、「生き方としてのロック」を体現するような危険な匂い、圧倒的な存在感、ロックンロールの原点の魅力を叩きつけてくるシンプルでエネルギッシュな音楽性も、それまでの日本のバンドとは一線を画す演奏力という点でも、共通項がある。そしてフジテレビの番組「リブヤング」に出演することで一気に知名度を上げたのも同じだ。
両者がお互いをどう思っていたのかはわからない。だが長い間英米の借り物でしかなかった日本のロックが、彼らによって真にオリジナルな次元へと飛躍していったのは間違いない。60年代後半以降の英米のロックは当時の公民権運動やベトナム反戦運動など反権力・反体制運動と連関して、カウンター・カルチャーの象徴として若者の圧倒的な支持を受けたが、日本でカウンター・カルチャーとしての若者音楽の役割を果たしたのはロックではなくフォークだった。結局日本のロックは(頭脳警察などの例外はあるにせよ)、政治性や思想性を抜きにした、若者の<理由なき反抗>、言い換えれば「不良の音楽」として側面を強めていくのだが、キャロルと村八分こそは、その動きを推し進めた両輪であったという見方も成り立つだろう。
今でも村八分の曲は、NHKで放送ができない。曲以前に、バンド名が内規にひっかかってしまうのだ。そんなバンドはほかにない。生まれついて社会から疎外され、はみ出し続けてきた男。それだけに、90年代以降の冨士夫が、反戦・反核・反原発といった社会運動に身を投じていくのは興味深い。
The Teardrops「湾岸戦争反対集会 1991 Feb.10. 1」
ぼくはあまりにも村八分のことに字数を費やしすぎたようだ。村八分は1973年5月5日京大西部講堂のコンサートを実況盤としてリリースするが、アルバム・リリース時にすでにバンドは解散状態だった。

村八分『ライブ』
その後の冨士夫はよりパーソナルな表現世界を追求したソロ・アルバム『ひまつぶし』(1974年)のような傑作もあるとはいうものの、バンドを作っては壊し、村八分の再結成も実りなきまま終わって、長い間一線を退いていたという印象だった。その間にぼくはオトナになり、社会人になって、やがてフリーライターになった。そのとき、久々にパーマネントなバンド<ティアドロップス>を率いて再びメジャーに殴りこんできた冨士夫に、思いもかけず取材という機会で対面することができたのである。1990年前後のことだった。
The Teardrops「瞬間移動できたら」
所属レーベルだった東芝EMIの会議室で会った冨士夫は、圧倒的な威圧感を発していた。詳しい会話の内容は覚えていない。長年の憧れであり「ロックの師」に初めて会えた緊張感ですっかり固まっていたぼくを見透かすかのように、冨士夫はこんな言葉を投げつけてきた。
「つまんねえ質問すんなよ」
「そんなこと訊いて面白いか?」
インタビュアーとしての己の未熟さを痛感し、戸惑い恐縮しながらも、なんとか取材が終わりに近づいたころ、冨士夫はぼくの顔を覗きこんで、こう言った。
「お前、オレの本書くか?」
なるほど。このオッサンはオレをわざと挑発して、試していたんだ。そう理解した。食えないオヤジだな。そう思った。
残念ながらそれに対してどう答えたか覚えていない。だが結局冨士夫に会ったのは、それが最後になった。もちろん本を書くこともなかった。ぼくの冨士夫に対する思いは、会って会話を交わすことで、すっかり沈静化して、冷めてしまったようだった。それ以降、何回かライヴを見たり、あるいはフジロックのフィールド・オブ・ヘヴンで見かけたり、あるいは3.11以降のこんな場所で歌う動画を発見して健在を確認したりしたものの、ぼくにとって彼はすっかり「過去の人」になっていた。闘病中だったことは知っていたが、ふだんの動向もほとんどチェックしていなかった。そして彼に出会って31年がたったころ、ぼくは訃報を受け取ったのだった。
山口富士夫@経済産業省前「原発いらない福島の女たち」
そんなぼくにこんな文を書く資格があるかどうかはわからない。だがそれでも、ぼくにとって冨士夫は、昔も今も最大のロック・アイコンのひとりであり続けている。おそらくこれからもそうだろう。彼によってロックのなんたるかを知ったのだから。
フジオさん、ありがとうございました。あなたのことは忘れない。
2013年8月16日 小野島大