
『ひとり暮らしの東京事典 84年版』
株式会社CBS・ソニー出版、1984年2月
いまだに年末から年度末にかけてのこの時期には、文房具店の手帳売り場は賑わっている。でも、その需要は確実に減っているはずだ。筆者自身も手帳を使わなくなって長い。スケジュール管理は、スマホとGoogleカレンダーで完璧だ。手帳と共に必需品だったポケットタイプの地図も、もはや持ち歩く必要はない。
そろそろ大学受験も終盤を迎え、続々と若者たちが上京してくる時期。かつて、上京してきた若者は、マニュアル本やら何やらを買い漁り、地下鉄の使い方からどこでナニを買えばよいとかを必死に覚えていた。地図やガイドブックも必携である。20世紀の終わりくらいまでは、ファッションやグルメだけでなく書店ガイドだけでも一冊の本として成立しえていたのを思い出す。今回は、そんな時代の若者たちが読んだであろう一冊を紹介する。『ひとり暮らしの東京事典 84年版』である。
隔世の感を感じさせるのは、本の構成だ。まず表紙を開くと、地下鉄路線図と主要路線の所要時間一覧表が挟まれている。いまやスマホで目的地を入力すれば、行き方のすべてを教えてくれる時代。でも、10数年前までは、出かける時には、自分で行き方を組み立てなければならなかったんだよな。
そんな本書はターミナル駅のガイド(当然だが、駅構内の地図つき)に始まって、生活術、各地域のガイドと続く構成だ。考えてみれば、30年あまりも昔の話。ターミナル駅のガイドだけでも隔世の感がある。新宿駅の項目では「新宿発23時45分、アルプス13号は、北アルプスに登る若者たちであふれている」とある。急行アルプスはともかくとして、いま「新宿駅のアルプス広場」といって、通用する人はどのくらいいるのだろうか?
今回、紹介するにあたってじっくり読んでみたのだが、東京の地理に疎い人にとって、この本は親切なことこの上ない。東京都心部の路線の解説なんかは、とてもわかりやすいのだ。
「みどりの山手線は円! まず、このことを頭に入れること。そして、この円を西からまっすぐに横切るのがオレンジ色の中央線だ。横切った円の東側に延びていくのが黄色の総武線、縦は南北に青い京浜東北線だ」
なんて簡潔な説明だろう。で、この後、私鉄の解説もあるのだが「(私鉄は)円の内側はまったく走っていない」と、これまた時代を感じさせる記述が。いや、東京の鉄道網ってどんどん便利な方向へ進化しているのだなあと、感慨深くなる。

東京の地下鉄路線は、まだこれだけ。今は便利になりました。
そして、田舎から上京してきた人が困惑するラッシュについても、親切に指南してくれる。そこで記された人の流れに乗る方法は、こうだ。
「決意したらまわりを見渡そう。同じことを考えている人がいるはずだ。その人の後ろまで近づき、横切る方向に向かって後方45度にぴったり付く。要するに便乗するのである」
現代でも使えそうな項目はココだけ。なにせ自動改札機に対しては「差し込むとそれはもうSF的スピードで吸い込まれ、改札機方向にピッと出る仕掛けになっている」なんて書いているんだから。加えて、各路線の一覧表には「スト状況」の項目も。80年代はまだストライキで電車が止まることも多かったんだなと実感する。
■人気スポットは中央線沿線

挿入されているイラストとかがとても時代を感じさせる。
こうしたイラストレーターの人って、どうしているんだろうか?
さて、生活編のページでは様々なジャンルのお店を紹介していくのだが、目に付いたのは定食屋の解説だ。「満足顔でしっかり食べて、それでも500円をオーバーすることはメッタにない」という記述をみると牛丼屋チェーンが全盛の今は、なんて不幸なんだ! と感じてしまう。なにより、ここで紹介されている学生街の定食屋には、今なお現存しているところも。ちょっと羅列してみると
・おふくろ(早稲田)
→消滅。ビルになっている
・三品食堂(早稲田)
→営業中、というかB級グルメブームもあって有名
・森川町食堂(本郷)
→営業中
・市ヶ谷食堂(市ヶ谷)
→居酒屋になっている
・大戸屋食堂(池袋)
→この後、チェーン展開
・三福林(下北沢)
→消滅

地図が手書きなのはもっとも技術の変化を感じさせるポイントだ。
もちろん、当時と比べると値段は変化しているのだが、いまだに現存しているところが多い。どうも、学生が多い街で定食屋という商売はハズレがないようだ。もし、何か商売を始めるなら、選択肢に入れたほうがよいような気も。生活編の記述を見て気づくのは、現在よりも外食のチェーン化が進行していないこと。そして、スーパーは生活に密着しているが、コンビニはまだまだ珍しい存在であったことだ。セブン-イレブンの説明では「名前のとおり朝7時から夜11時まで営業だが、24時間営業の店も多い」と記されている。深夜営業の記述では博報堂の調査を紹介する形で午前零時に都内の街で買えるものを記しているのだが、これも目を見張る。これによれば、もっとも深夜の買い物が便利なのは池袋で、ワーストは上野。池袋では深夜でもコーラはもちろん、菓子パンでも生理用品でも、香典袋でも、英和辞典でも買うことができる。対して、上野ではコーラは買える物の、コンドームも菓子パンも売っていない。つまり当時、午前零時を過ぎた上野では、店がまったく営業していなかったというわけだ。いまやどこでもコンビニがあって、大抵のものは手に入る時代。なんて便利になったのだろうかと、感動せざるを得ないだろう。
■ロリコンが喜ぶ街は茗荷谷
もう一つ、本書の現代的な価値を感じるのが「キャンパスのある街」の紹介だ。東京を扱うテーマの本だけに、筆頭で紹介されるのはお茶の水。まずは、明治大学の紹介から始まって、写真は今のリバティータワーのところ……すなわち、ボロい建物があって某新左翼党派の看板があったところ。なんだって、こんな写真をセレクトしたのだろうか(その後、21世紀になって、とんでもない内ゲバがあった挙げ句に大学が暴力ガードマンを雇ったり、出資金を返還しないまま生協がなくなったりとか……予測できない未来だったろうな)。
それはともあれ、本文中で紹介されているけっこうな数の店が現在でも残っている。三省堂や東京堂など書店はともかく、ヴィクトリアなどのスポーツ用品店は当時から繁盛していたらしい。対して数を減らしているのが喫茶店。ここでは、レモン・ファイン・マロニエ・きゃんどるが紹介されているが、現在も喫茶店営業を続けているのは、きゃんどるだけ。学生街の喫茶店も今は昔になってしまった。

20世紀の終わりまでは、なにかと電話番号一覧が掲載されているのがデフォ。
街の紹介よりも、関係者は今は何をやっているんだろうか? と思ってしまうのが一部の大学の紹介ページにある珍サークルだ。当時、早稲田大学にはロリコンを地でいく「おじさん少女の会」、童貞であることが絶対条件の「童貞を守る会」があったそうだ。また、東大にはアイドルを育てる「アイドル・プロデュース研究会」が、立教大学には男しか入会できない「パフェ研究会」があると記されている。……二次元嫁がナンタラとかAKBがウンタラとかの話しかしないのって、現代の若者の分析とか批判に使われるけれど、昔も一緒じゃないかと納得。なお、この本の茗荷谷の項目では「小中高が集まり女学生も多くロリコンにはうれしい」という記述も……。
80年代の雑誌はもとより、こうした若者向け生活マニュアル本も収集している筆者だが、現在との違いを(無理矢理)引き出すなら「前向き、だけど方向が違う」という点だ。こういったマニュアル本からは「誰かに認められたい」とか「失敗したくない」といった感覚はまったく感じられない。とにかく「楽しく暮らしたい」という意識が前面に押し出されているのだ。
80年代前半、消費社会が進行し選択肢が増えた中で、マニュアル本が量産されるのは当然のことだった。しかし、ネットの発達と共にこういった本が消えたことで逆に不便さは増したのではなかろうか。ネットは、本よりも数多くの情報を教えてくれはするものの、それは精査し取捨選択されたものではない。つまり、情報は多いが迷うことは増えた。あるいは、情報が多すぎてホントに必要な情報にたどり着くのが困難になったということができる。
と、評論家でもないのに評論っぽいことでまとめにしつつ、リアルタイムでこのような本を読んでいた人は、どんな印象を抱いていたのか聞いてみたいと思った次第である。
(文=昼間たかし)