
第1位
「島田紳助 独占告白90分」(「週刊文春」4月26日号)
第2位
「GOROの時代」(「週刊ポスト」5月4・11日合併号)
第3位
「2012年版『全国長者番付』を実名公表する」(「週刊現代」5月5・12日合併号)
私が週刊誌の現場にいた頃、確か5月1日だったと思うが、高額納税者、いわゆる長者番付というのが発表になった。
新聞などには、国税庁から1週間ぐらい前に名簿が手渡される。その名簿を親しい新聞記者から流してもらって、こちらも取材を始める。中でも注目は芸能人やスポーツ選手の番付で、作家・文化人というのも人気があり、私たち週刊誌編集者にとっては、ゴールデンウイーク前の大イベントであった。
これが合併号の売り物だったが、毎回トラブルになった。それは5月1日前に雑誌が発売されるためで、国税庁からはもちろんのこと、新聞社も資料を流した犯人捜しに躍起になったが、われわれは知らぬ存ぜぬで押し通した。
それが2005年を最後に発表が廃止されてしまった。なんでも「当初の目的であった『第三者のチェックによる脱税牽制効果』の意義が薄れているという指摘があることや、政府による犯罪の助長になってしまっていること、05年4月1日から個人情報保護法が全面施行されたことを受け、この制度は06年(05年度分)から廃止された」(ウィキペディアより)。
今回は現代が、独自に47都道府県の大金持ちをリストアップして「長者番付」を作成したとある。
まず、総資産ではユニクロの柳井正社長が約8,800億円でぶっちぎり1位で、2位にサントリー創業家の鳥井信宏(兵庫)が約6,500億円、3位に愛媛の今治造船会長・檜垣俊幸が約3,000億円、4位にアパホテル創業者の元谷外志雄と続く。
都道府県別では、北海道は総合家具チェーン「ニトリ」の似鳥昭雄社長。個人の総資産は約970億円、年収は約1億2,000万円。
似鳥はこう言っている。
「お金が欲しいとかお金を儲けたいと考えて仕事をしていませんからね。なぜなら会社でも個人でも『儲けたい』と思って商売すると、それは必ずお客様に伝わるんです。(中略)何よりもお客様に得をしてもらうことを優先する。品質が価格を上回った時、そこに初めてバリューが生まれると私は考えます」
似鳥社長は08年のリーマンショックを予見し、それに先がけてニトリでは値下げを断行して躍進した。
岩手県では、盛岡冷麺を全国区にした「ぴょんぴょん舎」のオーナー邉龍雄(ぴょん・よんうん)社長で総資産は約10億、年収は約2,000万円。
彼は在日二世で、父親はクズ鉄屋で生計を立てていた。高校時代までは「朝鮮人」といじめられ続けたそうだが、そんな彼を励まし、助けたのも岩手の人だったと語る。
千葉では、年収約3億6,000万円で全国6位に入った「銀座ステファニー化粧品」の創業者・一家明成。彼は、こう経営哲学を語っている。
「お客様からの電話の対応が極めて重要ですから、独自のトークマニュアルを作りました。電話だから見えないと思いがちですが、受ける社員が足を組んでいたり、煙草を吸っていたりしたら、お客様にはすぐわかる。本当の誠意とは何かを、ウチの社員には叩き込みました」
一家は、会社が完全に軌道に乗った05年、あっさり娘に会社を譲り、娘に子どもが生まれて社長業が困難になると、韓国のLGグループに株を売却してしまった。
愛知では、中日新聞最高顧問の大島宏彦には敵わないが、名古屋で一番勢いがあるといわれる「カレーハウスCoCo壱番屋」の創業者・宗次徳二の半生は壮絶である。
「戸籍上は石川県生まれですが、両親が誰なのかわかりません。兵庫の孤児院で育ち、3歳の時に雑貨商を営む夫婦に引き取られました。ところが養父がギャンブル(競輪)にはまって財産をなくし、夜逃げするように岡山に移ったんです」
電気も水道もない生活が何年も続いたという。泣いている暇もなく、学校から帰ると養父の帰りを待ちながら、ローソクの灯りで掃除や炊事をするのが仕事だった。だが、そんな養父を嫌いにはならなかった。
「大好きでした。年に一度だけ、職安でもらう年末一時金で私の大好きなリンゴを二つ、お土産に買ってきてくれる。あのリンゴの味は格別でした」
宗次はほぼ毎日、名古屋・栄の街を早朝掃除する。「お金を自分のために使うのは恥ずかしくてできない」という。時計は9,800円、シャツは980円で、自宅は接待用に少し大きなものを建てたのだが、「それも恥ずかしい」と話す。
壱番屋のカレーは私も好きでよく行く。創業者の話を読んで、また行きたくなってきた。
こうした宗次の対極にあるのが、徳島の「タカガワグループ」創業者の高川晶だ。
学校法人やゴルフ場、医療・介護施設と幅広く事業を展開している。本人がこう語る。
「トップには『この人じゃないと任せられない』と思わせる圧倒的なオーラが必要です。そのためには人間の本能の部分でも憧れの存在であるべき。大企業の経営者でも服にこだわらない方もいますが、私はそうは思わない。腕時計でも車でも、少なくとも社員よりリッチでなければならない」
彼は南フランスの城を模したゲストハウスを持つ。年収約1億5,000万円だから、勝手におやんなさい。私のような由緒正しい貧乏人は、ついそう思ってしまうのだ。
そのほかにも、29歳の時に事業で騙され、4,000万円の借金を抱えてアメリカに飛んだのが縁で知ったインディアンが身につけていたターコイズブルーに魅せられ、ビジネスへとつなげた九州・福岡の「STONE MARKET」社長の中村泰二郎。長崎には「ジャパネットたかた」の創業者・高田明。熊本には「再春館製薬所」会長の西川通子がいる。
こうした「金持ち」を見て、今の若者はどういう思いを抱くのだろうか。俺も今にと思うのか、世界が違うと諦めてしまうのか。聞いてみたいものだ。
第2位には、雑誌が輝いていた頃に、山口百恵やアグネス・ラムなどのアイドルを登場させて一世を風靡した「GORO」(小学館)を、グラビアと坪内祐三の文章で特集したポストを挙げたい。
現代には、袋とじ「女性器の最新研究」がある。「警告!人前では絶対に開かないでください」(私がヘアヌード・グラビアをやっていたとき、よくこの文句を使った)とあるが、中身はさほどのことはない。
ポストのカラーグラビアに登場するのは、若き日の宮沢りえ、西田ひかる、浅野ゆう子、浅野温子、森下愛、手塚理美、川島なお美、石田ひかり、紺野美沙子などなど。
袋とじでは、小池一夫と叶精作の伝説劇画『実験人形ダミー・オスカー』を復刻している。といってもほんのさわりだけであるが。
「GORO」が創刊されたのは74年(昭和49年)6月。中でも篠山紀信の「激写」が評判を呼び、百恵はもちろんだが、アグネスはグラビアアイドルとして有名になった。
だが、この雑誌の魅力は読み物ページにあったという。
山口瞳の「礼儀作法」、安岡章太郎の「新アメリカ感情旅行」、丸山健二の「告白的肉体論」など。
インタビューは沢木耕太郎や海老沢泰久、山際淳司、河村季里が担当した。
河村がインタビューした女優・関根恵子は大きな話題を呼んだ。「小学校4年生の処女喪失が、私のすべての原点だったんです」と衝撃的なタイトルが付けられていた。
私はすでに編集者になっていたし、「GORO」世代ではなかったが、この雑誌の輝きは知っている。「GORO」は18年続いて91年12月で休刊する。「平凡パンチ」(マガジンハウス)、「週刊プレイボーイ」(集英社)、「週刊少年マガジン」(講談社)、「朝日ジャーナル」(朝日新聞社)など、雑誌が輝いていた時代が確かにあったのだ。
歌手・南沙織も大変な人気だった。私のカミさんの弟は南の大ファンで、何のツテもないのに結婚式に来てくれと頼みに行き、出席してもらったことを、いまでも人生最大の幸福だったと話すが、あの頃は、アイドルさえも遠く仰ぎ見て胸震わせる存在だった。
カネさえ出せば触れられる身近なアイドル・グループが人気だが、銀幕の女優(古いいい方だね~)やアイドルは遠きにありて想うものだと、私などは思ってしまう。
雑誌を通じてアイドルと読者がつながっていた「幸せな時代」だった。いまいちど甦らせるのは無理なんだろうね。
グランプリへ行く前に、惜しくもベスト3に入り損ねたが、週刊朝日の「福島第二原発も地震で壊れていた!」に触れておきたい。
フクニ(福島第二原発)で現在も働いている、ジャーナリスト・霧島瞬の告発ルポである。
この中に、こういうくだりがある。
「東電は今回の被害は津波によるもので、原発は地震に耐えたといっている。しかし、それを疑わせるようなものがある。(中略)写真で明らかなように、そこの配管にダメージがあったということは、地震の揺れで起きた被害ということだ」
筆者は、東電は「フクイチ、フクニの事故の全容を公表すべきだ」と結んでいる。
福島第一原発、第二原発の調査も道半ばなのに、野田佳彦首相は大飯原発の稼働を強引に進めようとしている。なぜそんなに慌てるのか。
「二度と同じ過ちを繰り返さない」ためにも、事故原因の徹底的究明を行うことが最優先されなければならないということは、言うまでもない。
今週のグランプリは、文句なしに週刊文春の島田紳助インタビューに捧げる。天晴れである。
なぜこの時期にインタビューに答えたのか。芸能界に戻りたいとは思わないと言いながら未練を口にするところ、復帰への地ならしを始めたのではないかと思われる箇所もいくつかある。
だが、こうしたインタビューは相手が嫌がったらできはしない。紳助の思惑が文春と一致したから成立した記事であろうことは間違いない。
そうしたことを割り引いても、なかなか面白いインタビューである。
引退の理由は暴力団との交際だったのかと聞かれ、こう答えている。
「暴力団との交際がすべてではないんですよ。自分の中では違う理由があった。でもそれは会社の人にも言うてないことなんです。(中略)いろんな自分の中の思いがあり、年齢的な思いがあり、仕事への思いがあり。芸能界でやるべきことはやり尽くしたんじゃないかとか、このまま何もせんと終わってしまうのかとかね。芸能界の中で死に場所を探していたけど、ここちゃうんじゃないかとか。何十年も自分がこの仕事に携わってきて、夢見て、夢を達成してきた。でも夢を達成するということは夢を失っていくことじゃないですか。自分の夢がいっぱいあって、夢が消えていくなかで、いろんなことを五十過ぎたら感じるんですよね」
要は、芸能人としてではない人生があるのではないかと思っていたところに、暴力団と交際の話が出てきたので、潔く彼なりの美学を貫いたということのようだ。
記者会見では暴力団とのツーショット写真の存在を否定し、「ウソを言っていたら、みんなの前で腹を切りますよ」と大見得を切ったのに、フライデーが暴力団と紳助のツーショット写真を掲載したことについては、
「ただ一つ、写真の件だけは僕のミスです。あの写真は何年前のか知らんけど、ホンマに記憶になかった」
と、あっさり認めている。
だが、所有している不動産取引に暴力団が関与していたという報道に対しては、激しく否定している。
「それが一番腹が立つねん。僕は使いきれないくらいの十分な給料を貰っていました。マジメな話、そんな人間が『企業舎弟』とか『暴力団と地上げ』をするリスク背負うわけがないやないですか。そんなことしていたら、いまごろとっくに警察に逮捕されていますわ」
逮捕情報もあったがという問いには、
「逮捕どころか、警察に呼ばれてもいないでしょ。何でかと言うたら、不動産って売買記録が残っている訳です。いくらで買っていくらで売ったか。調べたら明らかなんですわ。高く買って、暴力団に裏金渡していたらアホですわ、俺」
女性関係については、
「共演した女性タレントと全部関係あるみたいな書き方ですやん。男の友達もいるけど女の友達もいるでしょ。女友達で、書かれた中で95%はウソですわ。ゼロとは言わんけど」
暴排条例のスケープゴートにされたと思うかという問いには、
「ひとつの目玉になったんかな。人の悪口言うつもりはないけど、ヤクザと飯を食ったことのある人、いっぱいおるんちゃうの? 他の方も写真が出たり、会うたりしたんでしょ? なんで俺だけ? まったく一緒なのに、なんで俺だけ犯罪者みたいな言われ方をされなあかんの」
と反論し、あの時「すいませんでした」と謝罪して、そのまま仕事を続けていてもよかったと「後悔」しているという。
だが、それとは反対に、55歳でキッパリ芸能界を引退した上岡龍太郎を尊敬していて、ああなりたいと思っていたともいう。まだ完全引退か復帰かで揺れているのであろう。
芸能界には、
「あんだけ書かれて、そんなに嫌われてるんなら戻る必要はないわ、というのが正直な気持ち。こんな世界やったんかって、終わってからあらためて気がついた」
と話す反面、「ただ、いつか『テレビに出れる人』には戻してほしい」と、こう語っている。
「自分の中で確定していることが2つあります。『もう仕事はしない』『政治家にならない』。芸能界への未練はぜんぜんない。もうやり尽くしたと思っています。ただ、いつか『テレビに出れる人』にはしてほしい。一連の報道の中で、まるで島田紳助が犯罪者のようになっているのが嫌や。犯罪者やからテレビはNGという空気になっている。テレビに出れる人に戻してくれよというのはある」
これからは、世界中を旅行して回ろうと思っているようだ。一時は自殺まで考えたという。
「引退して苦しいこと、悔しいことばかりでした。でも生きているだけで人間、幸せなものなんです。いやー死なんで良かった、生きていて良かった。今ではホンマにそう思ってます」
以前公開されたメールでも、確か「死にたい」と何度か言っていたと思うが、この男、本性は気弱で甘ったれな人間なのだろう。
潔くなどと言いながら、上岡のようにすっぱり芸能界から身を離すことができず、テレビや視聴者から「戻ってこいよ」と言われるのを今か今かと待っているのだ。
だが、こんな世界やったんかと気がついたのなら、芸能界などには二度と戻らず、第二の人生を歩くことを勧める。
一度懐に飛び込んだ人間を、暴力団が放っておくはずがない。それが彼らのやり方なのだから。また同じようなトラブルを起こす可能性が高いと思う。
このままいけば、紳助という面白い芸人がおったなと、視聴者の心に残り続けるはずだ。それを胸に、違う道で成功するのが格好いい生き方だと思うが、どうかな、紳助さんよ。
(文=元木昌彦)

撮影/佃太平
1945年11月生まれ。早稲田大学商学部卒業後、講談社入社。90年より「FRIDAY」編集長、92年から97年まで「週刊現代」編集長。99年インターネット・マガジン「Web現代」創刊編集長を経て、06年講談社退社。07年2月から08年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(2006年8月28日創刊)で、編集長、代表取締役社長を務める。現「元木オフィス」を主宰して「編集者の学校」を各地で開催、編集プロデュースの他に、上智大学、法政大学、大正大学、明治学院大学などで教鞭を執る。 【著書】 編著「編集者の学校」(編著/講談社/01年)、「日本のルールはすべて編集の現場に詰まっていた」(夏目書房/03年)、「週刊誌編集長」(展望社/06年)、「孤独死ゼロの町づくり」(ダイヤモンド社/08年)、「裁判傍聴マガジン」(イーストプレス/08年)、「競馬必勝放浪記」(祥伝社/09年)、「新版・編集者の学校」(講談社/09年)「週刊誌は死なず」(朝日新聞社/09年)ほか














