ダミーサークルで信者を勧誘する教団と、それにハマる市民はなぜ生まれる?

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アーレフ公式サイトより
前編はこちらから    オウム真理教幹部でアーレフの元代表でもあった野田成人氏と、新進気鋭の宗教学者・大田俊寛氏との対談は、宗教学や社会学のあり方と、そこに携わる研究者たちの姿勢に疑義を呈しつつ、「公として、死の扱い方には関知しない」といった国家的な構造が、オウムを生んだ一因という議論に発展していった。後半は、そんなオウムの後継団体であるアーレフ(現アレフ)の信者たちが「なぜ今も教団を離れないのか?」という疑問から、話は展開していった。 ――オウムの中では、「死」というものはどのようにとらえられていましたか? 野田成人氏(以下、野田) 教義の中では、輪廻転生という思想とその再生の過程というように解釈していました。 大田俊寛氏(以下、大田) それに関連して、野田さんにお聞きしたいことがあります。『革命か戦争か』(サイゾー)の中で、アーレフという教団においては、かつての終末予言は魅力を失っているし、人類の救済という大義名分もいまや非現実的なものとなっていると論じられている。ところが、なぜまだアーレフという教団にある程度の数の出家信者が残っているのかと言えば、いま教団や麻原を見捨ててしまうと、自分自身が来世で地獄に堕ちてしまうかもしれないという恐怖感があるからだと書かれています。しかし、現代人の一般的な見方からすれば、地獄に堕ちることが怖くて教団から離れられないというのは、あまりリアリティーが感じられない部分だと思われるのですが。 野田 補足して言うならば、大田さんがご著書で書かれていたように、アーレフという全体主義的な共同体の価値観の中に溶け込んでいたいという願望は、大きな要因としてあると思います。一生懸命やっている信者は、しっかり修行をすれば来世は大丈夫なのだと思っている。教団を離れられない信者は、そういったところを否定しきれないのです。また、事件後に新しく入ってきた信者がアーレフにはいるのですが、彼らは都市化した無機質な、つながりのない群衆の中での孤独にさらされていて、そういった状況から、統一的な全体像をつかむための価値観を求めている部分があります。現状、アーレフには新しい信者も古い信者もいますが、来世で自分は良い世界に行けるか行けないかというのは、信者の中の中心的な興味のひとつであると思います。それだけではありませんが。 ――オウムでは、洗脳する時に、地獄に堕ちるというような、かなり恐ろしい映像を見せていると言われていますが。 野田 過去にはそういうこともしていました。映像を見せていたのは、95年前後ではないでしょうか。 大田 野田さんも、そういう映像を見せられた経験があるのですか? 野田 私は94~95年には幹部でしたので、そういった映像を見た記憶はありません。私が出家したのは、87年の10月頃です。それから、アメリカやドイツへ布教活動に行きました。87年当時は、教団はまだかなりソフトで、麻原への帰依も強要されませんでした。昔は教団で出していた月刊誌があったのですが、その表紙は美人信者だったりしました。ところが、いつのまにか麻原を表紙にして、麻原色を強めていきました。それがどんどん強くなっていったのが、90年代半ばくらいです。 大田 現在、アーレフの信者数は、増加傾向にあるのでしょうか。 野田 辞める人もそこそこいますので、大体、横ばいか少し増えている程度だと思います。私は、アーレフは死んだ宗教だと思っています。新しく入って来る信者は、年齢的には20歳前後で、地下鉄サリン事件が起きた時は4~5歳だったりするので、事件があったことすらよく知らない信者もいます。 大田 新しい信者を惹きつける、一番の魅力になっているものは何でしょうか?
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大田俊寛氏。
野田 それは端的に言って、麻原です。教団の中では、麻原は10億宇宙にただひとりの存在であると見なされています。宇宙が10億集まった中で、一番の魂だということになっているのです。地下鉄サリン事件のことをどう説明しているのかというと、教団の中で統一的にどうかは分かりませんが、ひとつは「陰謀論」です。事件はやっていないけれども、フリーメイソンによってそう仕立て上げられているとか、そういう説明をしています。だから、本当の救世主である麻原は不当に牢獄に閉じ込められていると。 ――そのような陰謀論が信じられているのですか? 野田 信じる人は信じるし、おかしいと思う人の中には、私のところに相談に来てから、アーレフを辞めていった人もいます。言い方を変えると、いまの宗教が私的領域に追い込まれているので、何でもありという形になってしまっているところがあるのです。 ――偶像として麻原が掲げられているのは分かるのですが、麻原やアーレフが自分たちに何をしてくれるのかということについては、どう考えているのでしょうか。 野田 アーレフの勧誘形態として、自己啓発セミナーで新たに勧誘するということがある。教団の幹部が、セミナーで麻原の役を演じることもあります。もうひとつの要因としては、信仰というものの特性です。信じることそのものが、力を持つことがある。信じることによって、実際に麻原を拝んでいたら仕事が見つかったとか、願いが叶ったとか、「暗示の効果」に近い部分もあります。生きた教祖は教団にはいませんが、アストラル次元でつながっていると教団では言うのです。それを信じて、実際に力を得ている人もいますね。 ――教義はともかく、麻原を信じれば救われると考える人もいるということですが、確かに、いきなり素人に難しい教義の話をするよりは、その方が分かりやすいのかもしれませんね。 野田 教義に惹かれる人も、ある程度はいます。一応、仏教的な戒律を一生懸命守っていますので。何が正しいか、何が間違っているか分からない今の社会の中で、ひとつの指針になるものとして惹かれる人もいます。 大田 地下鉄サリン事件への関与をオウムが正式に認めたのは、95年からかなり時間が経ってからのことですよね。それは現在、内部でも正式に認めているのですか? それとも、先ほどうかがったように、陰謀勢力の仕業と言っているのでしょうか。 野田 結局、教団が公に認めたのは、99年のことです。96年から98年までは、事件への関与を認めるべきかどうか、現役信者や在家信者への影響を考えていました。認めるかどうかの判断は、私が意思決定をしていた部分でもあります。結果的に、表に対しては認めたのですが、信者はほとんど関心の対象としていないようです。あまり考えないようにしているというか、考えても整合性がつかないから、答えようがない。少なくとも出家信者に関しては、修行をしておけば高い世界に行けるからという理由で、その問題を棚上げしています。 大田 その辺りが、外部から見ると腑に落ちないところです。新しい信者が来た際、当然、地下鉄サリン事件とは何だったのか聞かれると思うのですが、納得のいく説明をするのは非常に難しいのではないですか? 野田 そうですね。教団内の信者で、それを整合的に説明できる信者はいないと思います。だから、陰謀論を出してきたり、ともあれ自分はこの修行によって恩恵を受けているのだから、といった形で済ませてしまう。しかしやはり、事件が勧誘のネックになっていることは事実です。ですから、ヨガや仏教のダミーサークルを作って、そこで信頼関係を構築してから、その後でアーレフということを明かします。そこでもちろん、離れていく人もいます。しかし逆に、あんなに悪い教団と思っていたのにイメージと違うということで、中に入って確かめようという人もいます。 ■カリスマ言論人を求める出版界の事情 ――最近では、スピリチュアルなものが盛り上がっています。スピリチュアルなものは新興宗教に入るひとつの入口になると思うのですが、アーレフはそういったものに関わっているのですか? 野田 GREEやmixiなどで、ヨガや潜在意識で能力を開花させるといった、ダミーサークルを作っています。 ――スピリチュアルなものを求めている一般の方についてはどう思いますか?
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野田成人氏。
野田 今の社会の構造として、死や生の意味付けに関する取り扱いの基準が欠けているという状況があるため、いろいろなものが乱立し、スピリチュアルなものを求めるという現象も生じていると思っています。 ――宗教学者としては、スピリチュアルなものの隆盛をどう思われますか? 大田 やはり、今回の対談で話してきたように、何のために生きているのかというとても大きな問題があります。人は生きている間に、さまざまな喜怒哀楽の感情を経験したり、日々の努力を重ねて必死に生きたりしていますが、そもそも死ねば全てがなくなってしまうのに、なぜこんなに苦労して生きていかなければならないのだろうと、ふと分からなくなる瞬間がある。生きるということは、死ねば全てが無に帰するのではないかという圧倒的な問いの前に、常にさらされているわけです。スピリチュアルなものは、その問いに対して非常に分かりやすく、簡略的で簡便な答えを与えようとしているように思われます。 ――占いなどでは、とても簡便な答えが求められているように感じますね。 大田 スピリチュアルなものが、本当に社会のあり方を変えるのかと言われれば、私にはとても信じられません。資本主義的な社会を生きていく上で、その生きづらさをごまかすというか、生や死の問題について仮初めの幻想的な答えを与えて、生きづらさを一瞬だけ緩和するという機能しかないのではないかという印象を持っています。ただ、一時的にではあれ、それらに触れて救われたように感じる人がいることも否定できないので、ナンセンスの一言で済ませられない部分もありますね。 ――オウムを総括する本を出された大田さんや、大田さんの世代(30代半ば)が今後果たして行く役割とは何でしょうか? 大田 近代のシステムは万能ではないし、野田さんのおっしゃるように、資本主義は陰を生んでいく。それは本質的にぜい弱なシステムであり、いつ崩壊するかも分からないシステムです。しかしだからといって、悩める現代人に対して俺が生き方を教えてやろうとか、こうすればこれまでの問題がすぐに解決できるといったことを軽々に発言しないということが、研究者が今後最も気をつけるべき点だと思います。人々に生き方を教える「カリスマ言論人」になって欲しいという圧力は、研究者や知識人の周囲にとても強く存在しています。それこそ資本主義の問題なのですが、そういうカリスマ言論人の本は部数も伸びるので、出版社側も、一大ブームを起こして本を売りたいという願望があるのでしょう。 ――カリスマ言論人に出てきてほしいという思いは、我々出版に関わる人間には、根強いのかもしれません。 大田 オウム事件のような宗教的問題を含め、ある問題が生じたときには、不安定な社会に生きる一員として、研究者もそういう状況に巻き込まれて生きていかざるを得ません。そして、その問題をどう解決できるのかということはすぐには分からないけれど、その問題自体がどのようにして成立してきたのか、どのような構造を備えているのか明らかにするということが、研究者の役割であると思っています。 ――お2人とも、出版後の反響はどうでしたか? 野田 私は叩かれると思っていたのですが、本はほとんど売れず、あまり反響はなかったですね。ある意味で事件を肯定するようなことも言っていたので、拍子抜けしました。 大田 次の本を書きませんかという依頼はいくつかいただきましたが、肝心の宗教学者からの反応は、一部を除いてほとんどありませんでした。どう考えても、私の本に応答するべき、オウム問題について私より責任の重い先人たちがたくさんいるはずなのですが。  最後に、私の方から申し上げたいことがあります。私は元々、グノーシス主義という古代の宗教を研究していたことから、今でもどこか、古代から現代を見ているところがあります。そういう歴史的な目で見ると、近代というのはとても特殊な時代に思われます。それまで人間社会の規範として存在してきたもの、その運動を制御するリミッターとして機能していたものが外されて、人口が膨大に膨れ上がり、その人口を支えるための政治的・経済的システムが、ここ100~200年の間に急速に複雑化しました。そして、誰も社会の全体がどうなっているのか分からないという、前代未聞の状況が成立してしまった。そういう世界を生きているのだということを、我々はよく自覚する必要があると思います。 ――そういった社会に、どう対処すればいいのでしょうか? 大田 社会がどのような仕組みで動いているのか、そこで生じるさまざまな問題にどのように対応するべきなのかといった事柄に答えを見出すことは、実際には非常に難しく、また当然そこから、「誰か答えを教えてほしい」という社会的欲求が出てくることになります。そして、そうした欲求に答える存在として、「私が答えを教えてあげよう」と称する知識人が輩出され、それと並行する形で、結局のところ人類の行く末はハルマゲドンかユートピアかだという、オウム的な二元論も生まれてきたのです。しかし、複雑な問題や状況に対して、安易な答えを与えることや、それらを単純な二元論にすり替えることは、私はすべて虚偽であると考えています。その意味において、野田さんの提示する「革命か戦争か」という二元論は、オウム的な思考の枠組みを、まだ完全には脱していないところがあるのではないか。むしろ、簡便な答えにすがったり、単純な二元論に陥ったりすることなしに、社会や人間に関わる問題をいかに粘り強く探求し続けることができるのかということが、真の「オウム以後」の課題ではないかと思うのです。 ※ ※ オウム真理教の内側を綴った『革命か戦争か』、オウム真理教事件を外側から総括した『オウム真理教の精神史』(春秋社)。内側と外側を対比させながら、オウムの事件について再度考察してみるのはどうだろうか。 (構成=本多カツヒロ) ●のだ・なるひと 1966年生まれ。1987年東京大学物理学科在学中にオウム真理教に入信・出家。95年教団内で正悟師の地位に就く。以降、幹部として教団運営において指導的役割を果たす。2007年アーレフ代表に就任。09年3月「麻原を処刑せよ」と主張したことによりアーレフから除名。現在はNPO「みどりの家族」を立ち上げ、ホームレスの自立支援や脱会信者の支援に力を注ぐ。独自にオウム事件被害者の賠償問題にも取り組んでいる。 ●おおた・としひろ 1974年生まれ。専攻は宗教学。一橋大学社会学部卒業。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻宗教学宗教史学専門分野博士課程修了。博士(文学)。現在、埼玉大学非常勤講師。著書に『グノーシス主義の思想――<父>というフィクション』(春秋社)がある。
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自ら「グル」になろうとした中沢新一ら研究者たちの罪と罰

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 オウム真理教による地下鉄サリン事件から、今年で16年が経過した。15年の節目には各出版社もオウム問題を総括すべく、書籍の刊行や雑誌で特集を組むなどしたが、大きな反響もなく、もはや事件は風化したというのが現実ではないだろうか。しかし、オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件は、いまだにきちんとした総括が行われているとは言いがたい。宗教学者の大田俊寛氏は、今年3月に出版された『オウム真理教の精神史 ロマン主義・全体主義・原理主義』(春秋社)において、宗教学者の責務を果たすべく、オウム事件の総括を試みた。今回、その大田氏と、元オウム真理教幹部でアーレフ(現アレフ)の元代表でもあった野田成人氏に対談を行ってもらった。野田氏自身、事件を総括すべく、昨年オウム真理教とアーレフ時代の出来事を克明に綴った『革命か戦争か オウムはグローバル資本主義への警鐘だった』(サイゾー)を上梓している。オウムという存在を、内側と外側から考察してきた2人の言葉から見えてくるものとは? ――野田さんは昨年『革命か戦争か』を出版されましたが、やはり地下鉄サリン事件から15年が経過して、あらためて事件を総括したいとお考えになったのでしょうか? 野田成人氏(以下、野田) 昨年、『革命か戦争か』を出したときには、私はすでにアーレフを辞めさせられていました。事件に関しては、元オウムの幹部としては、平謝りするしかありません。ただ、オウムの中でもいろいろな問題がありましたが、世の中を見ていて、日本社会の構造の問題について書いてみたいと思いました。 ――日本社会の構造の問題というのは? 野田 例えば、非正規雇用の問題であったり、他には僕が学生の頃はコンパが盛んに行われ、酒を一気飲みさせられたり、頭から酒を浴びせられたりしました。こんなことの何が楽しいのかとあきれていました。ちょうどバブルの真っ只中だったこともあり、世間はお金と物であふれていました。そういった物質主義的なところに違和感を覚えていたのも確かです。 ――大田さんは以前に「グノーシス主義」を研究されていますが、グノーシス主義とは何でしょうか? 大田俊寛氏(以下、大田) 一言で言えばグノーシス主義とは、紀元二世紀頃、初期キリスト教に発生した異端的宗派のことです。しばしば「キリスト教の最初にして最大の異端」とも呼ばれています。 ――グノーシス主義やキリスト教神学の研究から、今回出版された『オウム真理教の精神史』のように、考察の対象がオウムという現代宗教へ移ったのはなぜですか? 大田 グノーシス主義をテーマに博士論文を書き終え、非常勤講師として大学の教壇に立つ頃には、私は、宗教学は人文社会系の諸科学の中でも、とても重要度が高い学問であると考えるようになっていました。その理由は、人間が作る社会というのは、必ず何らかの「信用」や「信仰」を基礎にして成り立っているからです。例えば現代の資本主義では、それ自体としてはただの紙切れでしかない「貨幣」という存在への信用や信仰を中心に、社会が成り立っている。社会の構成要素には、必ず信用や信仰の次元が存在します。そして宗教についての学というのは、社会の中心にどのような「信仰」があるのかということを第一義的に明らかにするための学問である。ゆえに本来、社会科学の最も根幹にあるべき学問であると考えています。  ところが、現在の宗教学を見てみると、地下鉄サリン事件当時、東京大学の宗教学の先人たちがひどい振る舞いをしてしまったこともあり、まともに物を考えることができる人であれば、日本の宗教学者の言うことには耳を傾けようとしないという状況が続いています。サリン事件以降、宗教学者は完全に社会的信用を失ってしまったわけです。一方で宗教学の中では、宗教学はディシプリンを必要としない「ゲリラ学」であるといった、根本から誤った認識がいまだに拡がっており、私はこうした考え方が、オウム事件を後押しすることにつながったのではないかと考えています。私自身、一人の研究者として、宗教学の再構築に携わりたいと思っているのですが、その第一歩として、オウム事件を学問的にどう捉えることができるかということをあらためて問題にしてみたいと思いました。
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野田成人氏。
――今回の対談にあたって、お互いの著作を読んできていただいたのですが、率直な感想はいかがでしょうか? 野田 大田さんの『オウム真理教の精神史』を読んで大変興味深く思ったのは、オウムに対しての今までの批判というのは、オウムは仏教でもチベット密教でもないただの異端であるとか、その異端が勝手にサリン事件を起こしたのだというものが多かった。しかし大田さんは、オウム事件の背景には、近代の体制において、死を扱う宗教というものを私的領域に追い込んでしまったという構造的問題が存在すると言っています。私は、資本主義が生んだ構造的問題からオウムにアプローチしていますが、オウムという存在が、社会が抱えている構造的な矛盾からにじみ出てきたものであると見る点で、共通の捉え方ができるのはないかと思います。そういうことを宗教学者の立場から言っていただけるとありがたいです。 ――大田さんは野田さんの『革命か戦争か』を読んで、どう思われましたか? 大田 オウム真理教の元信者によって書かれたこれまでの著作は、地下鉄サリン事件がどのようにして起こったのかというところで終わっているものが多かった。しかし野田さんの著作では、地下鉄サリン事件の後、教団がどのような紆余曲折を経たのかについて書かれている。具体的には、教団内において麻原信仰への回帰の動きが見られることや、アーレフ内における松本家の支配体制の在り方、そして最終的に野田さんがそこから排除される過程についてなどが克明に記されており、その点でとても価値のある本だと思います。 野田 大田さんの本の帯の、「近代の暗黒面を暴く」というのはいいですね。 大田 この言葉は、編集の方が考えてくれました。野田さんの本では、近代に発展してきた資本主義のシステムが背景にあって、資本主義から排除されたものが巡り巡ってオウムのような集団になったという分析が見られるので、「近代の暗黒面を暴く」という視点において、私の著作と共通性が見られると思います。私自身はこれまで、グノーシス主義やキリスト教教義史といった分野を研究してきましたので、宗教現象を見るときに、そこにある理念や教義が、いつ頃現れてどのように発展していったのかということを歴史的に考えてみるということが、体質として染み込んでいるところがあります。95年以降、オウム真理教に関する論考は膨大に発表されましたが、しかしそれらはどれも歴史的な視点を欠いていました。ゆえに、オウムに対して研究者が行うべき仕事が果たされていない、中でも島田裕巳さんや中沢新一さんに対しては、本来宗教学者としてやるべき仕事をまったく行っていないと考えていたのです。 ■中沢新一の著作は、ネタ本として教団内に転がっていた ――著書の中でも、中沢さんや島田さん、また宮台真司さんについては批判的ですが、学者が本来、オウム事件に関してやるべきこととは何でしょうか? 大田 まず第一に、善悪の価値判断に関わることや、個々人の生き方を左右するようなことを、軽々に発言するべきではないということです。私は中沢さんに対して極めて批判的ですが、彼は事件当時、方向性を見失ったオウム信者たちを今後は自分が引き受け、彼らに生き方の指針を示すといったことを発言した。また、社会学者の宮台真司さんは、『終わりなき日常を生きろ』(筑摩書房)という著作を発表し、麻原の打ち出した方向性は間違っていた、ゆえに今後の主体はこうあるべきだというヴィジョンを、あたかも「新たなグルの指令」のような仕方で発信した。研究者という立場にありながら、「次は俺がお前たちの生き方を示す」といったメッセージを軽薄に発してしまったことには、大きな問題があったと思います。むしろ研究者は、安易に状況に介入するのではなく、その事件や現象がどのような歴史的経緯とメカニズムの上に成り立っているのか、あるいは、それが社会的に蓄積されてきたどのような問題によって生み出されたのかを、可能な限り客観的に説明することに努めるべきであると思います。 ――中沢新一さんの『虹の階梯』(平河出版社)はオウム真理教のネタ本であると言われていますが、実際、オウムの教団内では読まれていたのでしょうか? 野田 教団の中では麻原の書籍以外は読んではいけないのですが、『虹の階梯』だけは転がっていましたね。 ――麻原が『虹の階梯』について直接言及したことはあったのですか? 野田 それはありませんでしたが、教団の中ではネタ本として半ば公になっていたので、みんな参照はしていました。 大田 ポアという言葉をオウムに教えたのは、『虹の階梯』ですからね。 ――ネタ本を書いて、その後、オウムに関する論考を発表していた中沢新一さんの学者としての態度についてはどう思われますか? 大田 宗教学者として、近代における宗教の在り方や問題をどのように捉えるかという、学問的フレームワークを持っているべきだったと思います。しかし中沢さんの経歴を見てみると、そういった学問的フレームワークを十分に時間をかけて習得したという形跡がどこにも見当たらない。研究者としてのアイデンティティーに思い悩んだままネパールに渡り、チベット密教の修行のノウハウを身に付けて日本に帰ってきた。そしてニューアカ・ブーム(1980年代に日本の人文社会系で起こった流行)の一躍を担う人物として、広く世間から受け入れられた。こうして、一研究者としてのエートスや倫理観であるとか、学問的ディシプリンをどの段階でも身に付けることなく、ニューアカ・ブームに引きずられるように「売れっ子知識人」になってしまったのだと思います。 ――本書の中で書かれていますが、そうしたことが、中沢さんがオウム事件を総括していない理由なのでしょうか。 大田 私から見ると、中沢さんは、オウム事件を総括しようにも、そもそも「できない」のではないかと思います。中沢さんはニューアカ・ブームの波に乗って著名な知識人となり、その影響力から、非常に無自覚な仕方でオウムの運動を後押ししてしまったわけですが、そうした経緯全体を客観的に分析するための学問的フレームワークを、彼は持っていないのですから。ゆえにいつまでも、メディアからの言外の欲求に応じるような仕方で発言してしまう。そして学者という立場にありながら、その場その場の状況に流され続けてしまう。 野田 先ほど、宮台さんについても触れました。宮台さんは、ハルマゲドンを待ち望む「男の子的終末観」に対して、ブルセラ女子のように生きることが解決策だ、みたいなことを言っていましたね。
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大田俊寛氏。
大田 宮台さんはオウム的な終末論に対して、自分が生きる意味を考えたり、歴史に目的を求めたりするような主体はもう古いと訴えました。そして、自分の体を売りたいときに売ってお金を稼ぎ、欲望を叶えていくような、意味に囚われない主体というものをブルセラ少女に仮託し、こうした新しい世代によって「まったり革命」が起こると唱えた。本書の中でも指摘しましたが、こうした発想のベースにあるのは、ポストモダン的なニーチェ主義です。目的なき永劫回帰の流れに身を任せ、意味に縛られていた畜群的主体性を脱却して、超人という新しい主体として生まれ変わるという、ニーチェ主義の焼き直しであると思います。中沢さんや宮台さんの言説の背景にあるポストモダン的なニーチェ主義は、思想史的に見ればまさにオウムと同根であるということを誰かが指摘するべきでしたが、そのような人物は当時どこにもいませんでした。 ――話は戻りますが、大田さんはご著書と野田さんの本には共通性があるとおっしゃっていましたが、野田さんはどう解釈されますか? 野田 私は、死の問題について、『革命か戦争か』でもっと触れたかったのですが、どう考えていいか迷っている部分がありました。そして大田さんの本から、死の問題に関するヒントを得られたと思います。中世以前のキリスト教が支配している社会では、国家を含めたひとつのシステムの中で、死の位置づけが与えられていた。死を含めた、人生の意義づけが成立していた。しかし近代においては、宗教と死の問題が私的領域に追い込まれ、オウムのような宗教が出てきてしまった。近代の社会では、死というものを公の領域から遠ざけている一方、それに対して統一的な見解を見つけ出したいという欲望を反動的に掻き立てたところが、オウムにはあったのではないか。もちろん、中世のキリスト教社会での死の取り扱いが真実かどうかは別問題として、ひとつの基準があった。その基準がないというのは、近代におけるひとつの問題だと思います。 大田 死の問題についてですが、人間とは死者からいろいろなものを継承して生きている存在であるし、それによって社会を成り立たせている存在です。我々が話している言語だって、いま生きている人たちがすべて自分たちで創り上げたものかといえば、決してそうではない。我々より前に生きていた人たちが使っていたものを継承するという形で、言語を使い、生活して、社会を成り立たせているわけです。このように、死者との関係がどのようなものであるかということが、社会を成立させていく上で常に重要な事柄なのです。もちろん物理的に言えば、死者はもうこの世には存在しないので、死後の世界がどういうものか、死者の魂はどうなっているのかということは、宗教学の立場から赤裸々に言ってしまえば、どんなお話を作ってもその真実性を証明することはできないし、あくまでひとつの「フィクション」でしかないのですが。 ――現代では死の問題は、非常にタブー視されているというか、なかなか触れづらい問題ではありますね。 大田 しかし、奇妙なことではあるのですが、死者に関するフィクションを創設し、そのフィクションを中心に据えておかないと、人間の社会はアノミー的状況に晒されてしまう。人類は、歴史が分かる限りでは、もう何万年にもわたって、死者に関するフィクション──それはすなわち「宗教」と言っても良いかもしれませんが──を中心に、社会や歴史を作ってきたわけです。しかし、ヨーロッパというある特定の地域で宗教戦争が数多く起こってしまったために、宗教的な事柄をめぐって争うのはもう止めよう、宗教を社会の中心に据えるのは止めにしようという合意が成立した。これは歴史的に見ると、大変例外的な状態です。そしてそこから、政教分離という非常に特異な社会形成の様式が編み出され、それによって近代という時代が作られたのです。 ――日本も近代化において、政教分離原則を受け入れていますよね。 大田 私は、日本という国家は、近代という仕組みに「過剰適応」してしまったところがあるのではないかと思うのです。欧米では、さまざまな意見や議論があるにせよ、死に関わる問題は最終的にはキリスト教が担うのだという暗黙の了解がある。ところが日本では、近代が成立した歴史的経緯が捨象され、その表面的原理に過剰に適応してしまったところがある。そして、死とは何かという問題については、個々別々に勝手に考えてくださいという状況になってしまった。そこから、麻原が抱いたようなある種の幻想、社会ではとても共有できないような幻想が力を持つという状況が生まれてしまったのではないかと思います。 (構成=本多カツヒロ/後編に続く) ●のだ・なるひと 1966年生まれ。1987年東京大学物理学科在学中にオウム真理教に入信・出家。95年教団内で正悟師の地位に就く。以降、幹部として教団運営において指導的役割を果たす。2007年アーレフ代表に就任。09年3月「麻原を処刑せよ」と主張したことによりアーレフから除名。現在はNPO「みどりの家族」を立ち上げ、ホームレスの自立支援や脱会信者の支援に力を注ぐ。独自にオウム事件被害者の賠償問題にも取り組んでいる。 ●おおた・としひろ 1974年生まれ。専攻は宗教学。一橋大学社会学部卒業。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻宗教学宗教史学専門分野博士課程修了。博士(文学)。現在、埼玉大学非常勤講師。著書に『グノーシス主義の思想――<父>というフィクション』(春秋社)がある。
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広いトピックについて語り合った苫米
地氏と辛酸氏。
──2011年8月号まで本誌にて「サバイバル女道」を連載していた辛酸なめ子氏。今回は、ソーシャルネットワーク時代に必要となる知恵について綴った新著『現代版 魔女の鉄槌』(フォレスト出版)が話題の脳機能学者・苫米地英人氏と邂逅。苫米地氏は、中世ヨーロッパにおいて、権力とキリスト教が結託して魔女狩りを生んだように、現代では、権力とネットが結びつくことで、新たな魔女狩りが行われていると訴える。そんな時代を生き抜くすべとは? 「わたし、ロックフェラー家やロスチャイルド家のような闇の巨大権力とかに興味があるのですが、苫米地さんはロックフェラー家当主のデイビッド・ロックフェラーとお知り合いだったのですか?」 「うん。三菱地所がロックフェラーセンターを買収した際の財務担当だったからね。それ以降、デイビットとは4半期に1回のペースで一緒にお茶とかしてたよ」  そんな話から始まった、苫米地英人氏と辛酸なめ子氏の対談は、インターネットで生中継され、1万人以上の視聴者を集めた。ここでは、その中から、苫米地氏の著書『現代版 魔女の鉄槌』に書かれた、宗教と権力との関係性などを軸に、辛酸氏が聞き出した話をダイジェストでお届けする。 辛酸(以下、) 『現代版 魔女の鉄槌』を読ませていただいてわかったのですが、苫米地さんは宗教にもお詳しいんですね。宗教といえば気になるのは、宗教団体の教祖って、信者の前で手から金粉を出したり、空中浮揚したり、怪しい人が多いですよね。 苫米地(以下、) そういうのはすべて幻想だから。相手の内部表現=脳と心が認識している空間の情報を書き換えてしまえばいいの。こう言うと難しいけど、僕のセミナーに参加して訓練すれば誰でもできるようになる。その技術をどう使うかは、自己責任。教祖になろうと思えば、なれちゃうよ。  教祖は、見た目がやばい人も多いですよね。ああいうのが、カリスマ性につながるんでしょうか?  オウム信者は、麻原彰晃を本気でカッコイイと思ってた。洗脳されちゃっていたわけだ。ただ、テレビでも、大してカッコよくもないタレントが、キャーキャー言われているよね。プロダクションやテレビ局がその気になれば、メディアを駆使して、数万人単位で洗脳できちゃうってこと。原理は、教祖をあがめる宗教団体と変わらないよ。  女性はミーハーな部分があるので、有名人というだけで好きになってしまったりしますから......。 ──メディアこそが私たちを洗脳する元凶だと、苫米地さんは常々指摘されていますが、『魔女の鉄槌』では、最近のフェイスブックやツイッターといったソーシャルネットワークが持つ弊害と、中世ヨーロッパで起こった魔女狩りに類似性が見られると書かれています。どういうことでしょうか?  先日、ある国会議員の仲介で、僕とコーチングの世界的権威ルー・タイスが共同開発した能力開発プログラムを全国の小学校に無償提供するっていう話を、ある官僚に説明に行ったんだ。そしたら、「苫米地さんはネットでいろいろと悪口を書かれてるから、危険なんですよね」と言ってきた。アメリカの大学で博士号を取って、著書も多数刊行し、社会的に申し分ない経歴を残し、実力のある国会議員の仲介で会いに行っても、なんの根拠もないネットの書き込みやツイートが、それらを上回ってしまう。難しい試験をパスした官僚ですらこのレベルの認識なのだから恐ろしい。特にツイッターは強力だよ。デマを流したツイートがあったとして、それを第三者が肯定的にリツイートを繰り返していくと、見る側は「その通りだ」と刷り込まれてしまう。裏取りなんかせず、デマツイートを追認するツイートがあると、信ぴょう性がぐっと増す。たった数人のツイートやリツイートが、世間の常識であり、民意であり、正義であるなどという錯覚すら起こしてしまうんだ。  そうした状況は魔女狩りが行われていた頃と似ていると?  そう。中世ヨーロッパで、魔女狩りのベースとなった非科学的なデマが影響力を持ったのは、グーテンベルクの印刷技術が大きな要因だよ。1486年に書かれた、噂やデマといったアングラ情報で成り立った『魔女に与える鉄槌』という魔女狩りマニュアル──設問形式で、魔女の定義とその裁判方法が記述されているんだけど──は、どんどん刷り増しされ、大ベストセラーになってしまい、魔女狩りをさらにエスカレートさせてしまうんだ。印刷物というメディアには本当のことしか載るはずがないという市民間の合意があったわけ。現在におけるツイッターと同様だね。結果、現代でも魔女狩りのような吊るし上げが、ネット発で多発している。  恐ろしいですね......吊るし上げに遭わないためには、どうすればよいでしょうか? ネットを一切しない生活で山にこもるとか?  魔女狩りも、異端審問官という当時の裁判官が、処刑したキリスト教異端者の財産を没収できるという権益を広げるために、魔女というありもしない異端を作り上げていった側面があった。また、干ばつや飢饉で苦しめられていた庶民は、その怒りや不安の矛先を魔女という存在に向けたわけ。つまり、誰かを吊るし上げる人たちは、そうすることで経済的・心理的なメリットがあるからやるの。だから、自分を吊るし上げてもメリットがないようにすればいい。それって、結局、お金とか地位とかに固執しないで、もっと自由な世界で自分の喜びを発見することじゃないかな。でも、やっぱり知識やキャリアに裏付けられた主張が、ツイッターの一言で一瞬にして終わっちゃうってすごくない?  そんなときは、苫米地さん得意の気功パワーとかで、なんとかなりませんか?  うーん......気功より、人間の煩悩の問題かな。問題なのは、他人を吊るし上げたり、引きずり下ろしている本人たちが、自らのエゴや嫉妬心に気が付いていないこと。自分のほうが劣っていると感じたら、自分のレベルを上げるのではなく、他人のほうを引きずり下ろしてしまう。それによって溜飲を下げたり、他人の経済的優位を奪おうとする。ツイッターは、よりそれを簡単にさせてしまう。  そうした作用を大国アメリカが活用していると、苫米地さんは著書に書いていますね。フェイスブックがチュニジアをはじめとした中近東に民主化をもたらしたと言われていますが、それは違うと。私も前に、ネット発の反社会運動は、バックに米国防省がいると聞いたことがあります。  あれは、99%、CIAの仕掛けだと言っていいだろうね。工作員が現地人になりすまして、フェイスブックで民衆を扇動したんだ。中東では、パソコンを使いこなすような富裕知識層の多くは体制側の人間だし、もし反体制側にそんな人間がいたとしても、SNSなんていう足がつく方法で政権打倒を訴えることはないでしょ。戦略兵器による戦争は、多額のコストと多くの国民の犠牲者が生じるため、アメリカは早い時期から、ソーシャルメディアによる戦争の可能性を模索していた。とうとうそれが、実践されたわけ。  2011年2月には、オバマ大統領が、スティーブ・ジョブズほか、フェイスブックやグーグル、ツイッターを運営する企業のトップを集めて晩餐会を開き、そこで策略を練っていたとのことですが。  これも、世界を動かす世論を作ったり、戦争に勝つために、ネット市民の声を利用したりしようという、国家的な動きだろうね。  なるほど。そうすると、私たちはフェイスブックには入ったほうがいいですか? 入らないほうがいいですか?  テレビを見るよりは、フェイスブックのほうが、情報に多様性があるのでマシでしょう。大事なのは、その中の声に対して、常に事実や根拠を求める姿勢。耳を傾けているだけじゃダメだよ。