「児島美ゆき」という名前を聞いて「あー、あの人ね」とうなずくのは、若くても40歳以上だろうか。その児島が、6月17日放送の『有吉反省会』(日本テレビ系)に出演したことで“プチブレーク”の兆しを見せているが、一筋縄ではいかないようだ。 番組で児島は「65歳にもかかわらず、自慢のGカップをアピールしまくっている」ことを反省。1970年代に出演した映画・ドラマシリーズ『ハレンチ学園』で知名度を上げ、名作ドラマ『北の国から』(フジテレビ系)にも出演。基本的に色気ムンムンの役柄が多かった児島は、番組出演者の前でも自慢の胸を散々アピール、みそぎとして「ぱいぱい美ゆき」への改名を命じられた。実際、事務所のHPや児島のオフィシャルブログは、「ぱいぱい美ゆき」に改められている。 これだけキャラが際が立っていればバラエティ番組から声がかかるのは時間の問題だが、業界内には彼女の“復活”に顔をしかめる人も。それは、2014年に亡くなった高倉健との関係だ。映画関係者が語る。 「高倉さんが亡くなった時、『週刊現代』(講談社)が児島美ゆきのインタビューを掲載。児島は、高倉さんとの関係について『彼を恨んで恨んで、恨み続けてきたんです』『私を振った、ひどい男』などと語っていました」 高倉といえば、言わずと知れた国民的スター。一方、プライベートについてはほとんど語らず、私生活が謎に包まれていたことでも知られているが、そういう“健さん”のプライベートのデリケートな部分をペラペラと話す児島に、一部の映画関係者は怒りを抱いているという。 「週刊誌では、児島は“初めて結ばれた夜”や『膝枕をしてあげたら、高倉が“こんな幸せでいいのかな”と泣きだした』など、高倉さんのイメージを壊しかねないようなエピソードまで暴露していたんです。国民的スターの死にみんなが悲しんでいる時に、誰も知りたくないような裏話をペラペラ話したことで、映画関係者はあきれ顔でした。もちろんあれだけの人ですから、高倉さんがモテないわけはありません。けれども、相手が亡くなってしまったから話していいわけではなく、男女の色恋沙汰は墓場まで持っていけばよい話。“売名行為”のレッテルを貼られても仕方ありません」(同) 本人が私生活を語らなかった以上、「人間・高倉健」を知るには周りが証言するしかないが、カリスマ的な人気を誇り、男が惚れる男だったのが高倉。今後、児島がバラエティでブレークする可能性はあるが、高倉の名前に泥を塗った児島が画面に映るたびに、苦々しい思いでそれを見つめる人間は、確実に一定数存在するようだ。ぱいぱい美ゆきオフィシャルブログより
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高倉健が淹れたコーヒーは実は美味しくなかった!? 人格者ではない“昭和のスター”の人間くさい素顔
スクリーンの中のこの人に何度励まされたことだろう。この人の映画を観る度に、自分の抱えている悩みはとてもちっぽけなものに思えた。到底手が届かないスターとしての風格を備えながら、でも遠い親戚のような親しみやすさも感じさせた。この人がいなくなって、本当に淋しい。2014年11月10日に映画俳優・高倉健が亡くなって、もうすぐ2年になる。男女を問わず、誰もが憧れた“昭和の大スター”高倉健の魅力を検証した初のドキュメンタリー映画が『健さん』だ。『ブラック・レイン』(89)で共演したマイケル・ダグラス、長年にわたって手紙でのやりとりを重ねていたマーティン・スコセッシ監督、高倉健への憧れから『君よ憤怒の河を渉れ』(76)のオマージュ作を製作中のジョン・ウー監督ら海外のビッグネームたちに加え、実妹の森敏子さん、元付き人の西村泰治氏ら総勢20人以上がそれぞれの心の中に今も生きている高倉健について語っている。 本作を撮ったのはNY在住、写真家として活躍する日比遊一監督。俳優としてのキャリアも持つ日比監督は高倉健の大ファンだったが、生前の高倉健とは直接的な交流はなかった。言ってみれば本作は、海外在住歴の長いひとりの日本人クリエイターが、映画俳優・高倉健の中に失われつつある日本人像、日本人の美意識を見出し、その残像を追い求めたものとなっている。 日比遊一「僕が日本を出て、米国に渡ってもう30年になります。昭和から平成に変わる頃でした。ある意味、日本で暮らしている日本人以上に僕は日本人っぽいと思うことが多いんです(笑)。今の日本人は昭和の日本人の美しさを忘れかけているように、僕には思えるんです。昭和の日本人の美しさって、高倉健さんの美しさでもあるわけです。昭和を生きた男・高倉健さんのかっこよさを多くの人にきちんと伝えたいという想いから、この映画を撮ったんです」“最後の映画スター”高倉健。これまであまり語られることがなかったが、海外からも様々な出演オファーが届いていたことが明らかになっていく。
日比監督は名古屋出身の1964年生まれ。高倉健の代表作『昭和残侠伝』シリーズが始まったのが1965年だから、高倉健の人気が爆発した任侠映画の全盛期をリアルタイムで体感したわけではない。高校卒業後に上京し、新宿駅南口にあったヤクザ映画専門館「昭和館」などに通い、東京でひとり暮らしを始めた日比監督は唐獅子牡丹を背負った高倉健の姿に魅了されていった。 日比「高校まではずっとスポーツひと筋で過ごし、あまり映画は観たことなかった。それなのにTVドラマ『探偵物語』に主演していた松田優作さんに憧れて上京し、日活の俳優養成学校(日活芸術学院)に入ったんです。学校ではロバート・デ・ニーロ派とアル・パチーノ派に分かれて演技論が飛び交っていたけど、僕はちっとも理解できなかった(笑)。それでオールナイト上映をやっている映画館に通って、浴びるように映画を観ているうちに、高倉健さんが主演している任侠映画の大ファンになったんです。当時は新宿の昭和館の他にも、池袋や鶴見にも任侠映画を上映している映画館がありましたね」 松田優作への憧れも冷めることなく、日活の撮影所に松田優作が現われたと聞くと、「弟子にしてほしい」と本人に頼み込みに行った。このとき、弟子入りは断られたが、松田優作から掛けられた言葉が、日比監督の生涯を大きく変えることになる。 日比「優作さんに『俺がお前くらいの年齢なら、米国に渡っている』と言われ、その言葉を真に受けて、渡米したんです。若気の至りってやつですね(笑)。すぐには英語が話せなかったので苦労しました。そんなとき、日本から持ってきた高倉健さんの主演映画をビデオで見たり、健さんが書いた本を読むことで元気をもらっていたんです。健さんは僕にとってバイブルみたいな存在なんです」 この頃、日比さんが観ていた映画は、『昭和残侠伝』シリーズや『網走番外地』(65)に『冬の華』(78年)といった硬派な作品。映画の中で懸命に耐える健さんに励まされながら、日比監督は一本気な性格のまま米国で根を降ろすことに。 日比「俳優として渡米したものの、ハリウッドでもNYでもなかなか仕事はなく、日本と米国を行き来していました。『波止場』(54)や『エデンの東』(55)を撮ったエリア・カザン監督が第2回東京国際映画祭のゲストで来場していたことから、下手なりに懸命に自分の想いを綴った手紙を送ったところ、カザン監督はとても親切な人で、『米国に来たら訪ねて来い』と返事をくれたんです。それで本当にお邪魔して、3カ月間ほど自宅に居候させてもらい、いろんなことを学ばせてもらった。しかもアクターズ・スタジオの共同設立者ロバート・ルイスを紹介してもらい、彼に弟子入りして7年間ほどアクターズ・スタジオで勉強させてもらったんです。その間、デニス・ホッパーに僕が撮った写真を褒められたこともあって、写真も撮り続けていたら今では写真家としての稼ぎのほうが多くなりました(笑)。でも、写真はあくまでも映画を撮るための絵コンテの勉強のつもりで、自分からは写真家と名乗ったことはない。映画への憧れはずっと変わらず持ち続けたんです」NYから帰国した日比遊一監督。「高倉健さんの俳優としての評価をきちんと伝えるものを残したかった」と語る。
■高倉健は本当は器用な俳優だった! 米国で山あり谷ありの人生を歩んできた日比監督。そんな日比監督は高倉健の佇まいの美しさだけでなく、日本人としてのブレのなさにも魅力を感じている。その一例としてハリウッド映画『ブラック・レイン』を挙げた。 日比「松田優作さんが出演していることもあって、『ブラック・レイン』の撮影現場には何度か足を運んだんです。遠くから見ていただけで、撮影が終わってから優作さんと少し話したりはできましたけどね。完成した『ブラック・レイン』には感激して、劇場で10回は観ましたね。健さんがソバをすするシーンがあるんですが、健さんはズルズルと音を立てながら食べるんです。日本人って外国人の前では『音を立てて麺類を食べるのは恥ずかしい』と思いがちだけど、健さんは『ソバは音を立てて食べるもんだよ』と日本人のスタイルを変えなかった。ハリウッド映画だからといって、変えてしまうと日本の文化のひとつがなくなってしまうわけです。健さんは日本人のスタイルを守り、日本人はかっこいいんだということを海外にも伝えていたように思うんです」 撮影現場の待ち時間は椅子に腰掛けることがなかったなど、高倉健の人格者としての逸話は有名だが、本作ではこれまであまり語られることのなかった意外な素顔を伝えている。東映時代の高倉健はいつも寝坊して、撮影現場に遅れて現われることが多かった。また同じく東映出身で共演する機会が多かった八名信夫は、高倉健が淹れたコーヒーを「美味しくなかった。ミルクや砂糖を入れようとすると怒られた」と打ち明ける。意外と疑り深い性格だったことも触れられる。 日比「マイケル・ムーア監督の突撃インタビューみたいなスタイルではないので、スキャンダルを暴くという狙いのものではありません。かといって健さんのことを聖人君子として語っても面白くない。健さんの意外な一面や人間くさいエピソードを盛り込んでいますが、それでも尚かつ健さんのことが好きになってしまうはずです。取材をしながら、健さんは自分が思っていた以上の高みにいた人だったんだなと感じさせられることが多々ありましたね」マーティン・スコセッシ監督は高倉健と手紙を交わす仲だった。遠藤周作原作『Silence』への出演を打診していたことを打ち明ける。
写真家の立木義浩氏は「車を出た瞬間から高倉健を演じていた」と語る一方、降旗康男監督は「高倉健という看板を掲げていたが、『俺は小田剛一だ』という想いが彼の俳優としての成り立ちだったように思う」とコメントする。高倉健の海外でのマネージメントを担当していた阿部丈之氏は「俳優・高倉健と本名の小田剛一との二面を持ち、周りの人によって使い分けていた」と振り返る。様々な高倉健像が語られ、実に興味深い。 日比「『不器用ですから』というCMの影響で高倉健さんのことを不器用な人と思った人も少なくないようですが、健さんはとても器用な人です。不器用を演じられるほど器用だった。晩年は寡黙なキャラクターを演じることが多くなったけれど、『網走番外地』などはものすごい量の台詞をしゃべっています。あれだけの台詞をうまくコントロールしながら演技ができる俳優って、今の若手俳優ではそうそういない。ひとりの人間はいろんな面を持っているように、健さんも様々な面を持っていたと思います。そういうところも含めて、健さんは僕にとってのアイドル。憧れのアイドル(偶像)を持つのは、とてもいいことだと思うんです。アイドルに少しでも近づこうと頑張るわけじゃないですか。今はAKB48みたいに手の届くアイドルが人気なんでしょうけど、健さんは僕がどれだけ頑張っても手が届かない永遠のアイドルなんです。40歳の若さで亡くなった松田優作さんもそうだけど、昭和って時代にはこんなにかっこいい男たちが日本にはいたんだぞ、と若い人たちに伝えたいんです」 このドキュメンタリー映画を見終わった人は、きっとこう叫びたくなるだろう。「健さん!」と。高倉健は今もスクリーンの中に、そしてファンの心の中に生き続けている。 (取材・文=長野辰次/撮影=尾藤能暢)高倉健に憧れ続けたジョン・ウー監督。『ミッション:インポッシブル2』(00)のトム・クルーズは高倉健のイメージで演出した。
『健さん』 監督/日比遊一 出演/マイケル・ダグラス、ポール・シュレイダー、ヤン・デ・ボン、ユ・オソン、チューリン、ジョン・ウー、マーティン・スコセッシ、阿部丈之・真子、石山希哲・英代、今津勝幸、梅宮辰夫、遠藤努、老川祥一、川本三郎、佐々木隆之、澤島忠、関根忠郎、立木義浩、中野良子、西村泰治、降旗康男、森敏子、八名信夫、山下義明、山田洋次、中井貴一(語り) 配給/レスペ 8月20日(土)より渋谷シネパレス、新宿K’s cinemaほかロードショー (c)2016 Team“KEN SAN” http://respect-film.co.jp/kensan
●ひび・ゆういち 1964年愛知県名古屋出身、NY在住。フォトグラファーとして活躍する一方、映画監督として写真家ロバート・フランクのドキュメンタリー『A Weekend with Mr. Frank』を製作。2013年には長編プロジェクト『ROAD KILL』がカンヌ映画祭アトリエ部門に米国代表として招待された。現在、コンスタンチン・スタニスラフスキーの“メソッド”を探るドキュメンタリー『Method or Madness ?』を製作中。
高倉健出演“幻の企画”『ヤクザ名球会』と『龍三と七人の子分たち』に北野武監督が込めた思い

各映画賞の申し出も固辞! 突然出てきた高倉健さん“養女”の行動に戸惑う周囲
昨年大みそかのNHK『紅白歌合戦』で放送予定だった高倉健さんの追悼コーナーが急きょ中止になった裏側を、「週刊文春」(文藝春秋/1月15日号)が報じている。 紅白には、歌手の薬師丸ひろ子が紅組で出場。同誌によると、薬師丸はかつて映画『野性の証明』で高倉さんと共演しており、当初は追悼コーナーに登場する予定だったという。ところが、健さんの映像などの使用許可をめぐって、所属事務所の「高倉プロモーション」との交渉が難航。そのため、制作責任者の判断で、企画自体の放送を取りやめることになったというのだ。 「以前の高倉プロの体制ならば、喜んで企画を引き受け、映像の使用を許可しただろう。ところが現在、高倉プロを取り仕切るのは、昨年末発売の『文春』がその存在をスクープした、元女優で健さんの最後を看取った養女。養女は献身的に健さんに尽くしてきたため、健さんは『長年世話になった人に財産を残したい』として2013年5月に養子縁組したが、その養女の行動が、これまで健さんを支えてきた周辺関係者の間で大きな波紋を呼んでいる」(レコード会社関係者) 「女性セブン」(小学館/1月22日号)によると、健さんが亡くなり1カ月ほどたったころ、養女の弁護士が高倉プロに対し、「今後、高倉健さんに関する一切の業務は相続人(=養女)が担当する」という旨のメールを送付。さらに、昨年12月24日付で事務所を明け渡すことを要求し、唯一の従業員を1月末に解雇することも通告したというのだ。 その養女は、健さんの死後、健さんに関する“実権”をすべて把握した模様。健さんに「特別栄誉賞」を贈ると発表していた「日本レコード大賞」の制定委員会ならびに実行委員会は12月中旬、高倉プロから賞辞退の申し出を受け、レコ大の同受賞記録を削除したことを発表しているが、それだけにはとどまらないという。 「毎年3月に授賞式が行われる『日本アカデミー賞』をはじめ、各映画賞は健さんになんらかの賞を贈ろうと、高倉プロ、つまり養女と交渉しているが、ことごとく断られているそうで、健さんと親交があった大手映画会社の幹部らは頭を抱えているという。さらには、健さんの妹を葬式にも呼ばず、妹は周囲に『遺体にも会えなかったし、このままだとお墓参りもできない……』と、健さんと親しい関係者に不満を訴えているという。今後、妹との間でトラブルが起きないか危惧されている」(映画業界関係者) 健さんの養女は、多少なりとも周囲の言葉に耳を傾けたほうがよさそうだ。
ヤクザ映画、政治活動……菅原文太さんの“追悼特番”にテレビ各局が苦悩するワケ
高倉健さんに続く大物俳優の訃報だ。菅原文太さんが11月28日、転移性肝がんによる肝不全のために亡くなった。81歳だった。 高倉さんと共通して言えることは、各テレビ局が出世作であるヤクザ映画の放送ができないでいることだ。高倉さんが亡くなった際、訃報を特集した各番組では『網走番外地』シリーズなど代表的なヤクザ映画のシーンではなく、『幸福の黄色いハンカチ』や『鉄道員(ぽっぽや)』のワンシーンが使われたが、菅原さんの訃報報道においても、代表作『仁義なき戦い』のシーンはことごとく使われず『トラック野郎』が使われていた。 当然ながらこれは、暴力団排除の世相に対する配慮であるが、情報番組の関係者は「文太さんが演じたヤクザは実在の美能組初代組長、美能幸三をモデルとしたもので、広島抗争を描いている作品も事実に基づいた部分が多々ある。その中で、かなりヤクザをかっこよく描いてしまっていて、局や故人の立場を誤解されそうなものは、どうしても避けてしまう」と話す。 また、映画ライターの杉浦倫太郎氏はこう語る。 「映画界からの視点で見ると、大きな声では言えないのですが、菅原文太は出世するほどに『過去を切り捨てた』ので、あんまり芳しくないですな。と申しますのも、大部屋時代からお世話になり、40歳で日本映画の金字塔ともいえる『仁義なき戦い』で東映から押し出してもらい、『トラック野郎』シリーズの一番星桃次郎の役をもらいシリーズ化してさんざん稼がせてもらったのに、NHKの『獅子の時代』で主役をもらえたら、ことごとく東映のオファーを蹴ったのです。そこが、東映を出てからもスタッフとの付き合いを大切にしてきた高倉健さんとの違いです」 そうした業界内の評価があるからか、菅原さんの訃報に対して各テレビ局の特集は残念ながら小粒だ。テレビ東京は12月4日に『トラック野郎 天下御免』(鈴木則文監督)を放送、テレビ朝日は同6日に『わたしのグランパ』を放送する予定だが、フジテレビ、日本テレビ、NHKは2日の夕方時点でいずれも「現在、予定はない」との回答だった。 また、前出の関係者からは、菅原さんが死の直前まで沖縄で政治活動をしていたことに「背を向ける業界人も多かった」と話す。 菅原さんは12年に引退後、政治支援グループを立ち上げ、安倍政権の進めた特定秘密保護法や原発再稼働などの方針に反対。米軍普天間飛行場移設問題が争点になった沖縄県知事選では、移設反対派候補の集会に参加した。 「政治色を持ったタレントは敬遠するのが基本で、扱いにくくなってはいた」と前出関係者。 実際、衆議院選挙の公示が過ぎたタイミングとあって、テレビ側がそういった活動も併せて伝えるのは難しかったようだ。 高倉さんの死の直後でヤクザ映画への配慮に敏感になっていた時期、さらには政治が動いた時期が重なって、菅原さんの生きざまはテレビでは十分に伝えられないままとなっている。 (文=ハイセーヤスダ)『仁義なき戦い」(TOEI COMPANY,LTD.)
ベールに包まれていた私生活──高倉健さんが最後に愛した女性は、いったい誰だった?
11月10日に悪性リンパ腫のため、83歳で亡くなった俳優の高倉健さん。生前、その私生活はプライベートに包まれていたが、健さんの女性関係を「週刊新潮」(新潮社/12月4日号)が報じている。 これまで世間に知れ渡っている健さんの女性関係といえば、1959年2月に映画の共演がきっかけで交際に発展した女優の故・江利チエミさんと結婚。71年9月に離婚すると、以後、女性関係は一切浮上せず、“ゲイ疑惑”までささやかれていた。 「江利さんとの間に子どもを授かったものの、江利さんが重度の妊娠中毒症を発症して中絶を余儀なくされ、子宝には恵まれなかった。そのことは後々まで残念に思い、江利さんとの離婚翌年に神奈川・鎌倉市内の霊園に購入した自分の墓には、水子地蔵を建て、供養した。それからは、まったく女性に興味がないような感じで、晩年は自分の出演するCMに突如お気に入りの格闘家を抜てきして、現場ではかなり親しげにしていたこともあり、ますますゲイ疑惑が根強くささやかれるようになってしまった」(ベテラン芸能記者) ところが、同誌によると、プライベートではなかなかお盛んだった様子。健さんが60代半ばに差しかかった90年代後半、札幌・すすきのにある道内随一と呼び声が高い人気すし店を貸し切り、当時独身で30代半ばだった歌手で女優の石野真子と会食。何度もデートに誘われていた石野は、健さんの熱意にほだされて会食をOKし、そのすし屋のデートで健さんが石野を口説き落としたという。 また、この数年後には、40代の女性を伴い、都内の高級レストランでお忍びで食事を楽しむ様子が目撃されていたというのだ。 「石野の事務所は同誌の取材に対し、真っ向から事実関係を否定したが、石野は健さんとの思い出をお墓の中まで持って行くつもりだろう。その後、02年には一部週刊誌の報道で、極真空手の元全日本王者で元市議会議員の警備会社社長だった男性との不倫同棲が発覚。歌手の長渕剛らと2度の離婚も経験しており、石野は波瀾万丈なプライベートを歩んでいるが、そんな人生経験が、年齢をまったく感じさせない色気を醸し出しているのだろう」(女性誌記者) 石野の口から、今後も健さんとの関係が語られることはなさそうだ。『ゴールデン☆アイドル 石野真子』(ビクターエンタテインメント)
高倉健に森光子、森繁久彌……老舗芸能プロ幹部も震え上がる“11月10日の呪い”とは
「ここまで偶然が重なることってあるんですかね……」 そうこぼすのは、老舗芸能プロダクションの幹部だ。11月10日――。いま芸能界で、この日付が話題騒然となっている。 11月10日といえば、昭和を代表する名俳優の高倉健さん(享年83)が悪性リンパ腫で亡くなった日だ。だが、これだけではない。2012年11月10日には、国民的女優の森光子さん(享年92)が心不全のため亡くなった。さらに09年11月10日には、森繁久彌さん(享年96)が老衰により亡くなっている。どの御三方も、芸能界のトップに長らく君臨した「超」の付く大物俳優だ。単なる偶然なのか、それとも……。 先のプロダクション幹部は「高倉さんが今月10日に亡くなっていたと聞いて、ゾッとしました。森さんが死去した時、その前に亡くなった森繁さんのことを思い出し『昭和の偉大なスターが、どんどんいなくなっていくね』と話していたんですから。まさか、健さんまでもが11月10日に亡くなるとは思いませんでした」と話す。 現在、芸能界では「11月10日の呪い」として、にわかに話が広がり始めているという。音楽関係者は「3人とも私生活で交流があった。次はどんな昭和の“大物”が11月10日に……と心配する声が上がっている」という。 森さんは生前、森繁さんは死後に国民栄誉賞を授与されている。健さんにも現在、国民栄誉賞の機運が高まり、来年早々にも正式に授与が決まる見込みだ。つまり国民栄誉賞クラスの功績がある者だけが、“運命の日”に旅立っていくのか……。単なる偶然であることを祈りたい。『鉄道員(ぽっぽや)』(TOEI COMPANY,LTD.)
故・高倉健さんが『レコ大』の特別栄誉賞受賞で「便乗商法だろ!」との声も
日本を代表する映画スター・高倉健さんが亡くなり、日本中が悲しみに包まれている。テレビ各局では追悼番組の放送が決まり、また政府は国民栄誉賞を授与することを検討しているとも報じられ、その存在の大きさを示している。 そんな中、日本作曲家協会が主催する『第56回輝く!日本レコード大賞』の各賞が19日に発表され、高倉さんに「特別栄誉賞」が贈呈されることが決まった。スポーツニッポン(11月20日)の報道によると、これは高倉さんのためだけに新設された賞で、同様のケースとしては1989年に、同年6月に亡くなった美空ひばりさんに贈られた「特別栄誉歌手賞」がある。事務局は授賞理由として「映画界での活躍はもちろん、映画の主題歌や挿入歌を歌ってきたことで、音楽界に多大な影響を与えた」と説明している。 『レコ大』は近年、「権威が失われた」「存在意義がわからない」などと批判を浴びてきた。今回の件に対しても、ネット上では「便乗商法だろ!」「もうなんでもありだな」という冷ややかなコメントが多い。音楽業界関係者はこう話す。 「高倉さんは代表作の『網走番外地』の主題歌で200万枚のヒットを飛ばしたり、八代亜紀とのデュエット曲『挽歌』を発表したりと、確かに歌手という側面も持っている。しかし、リリースは96年の『旅人』が最後と時間がたっていますし、一般的に歌手という印象は薄い。渋い声と朴訥とした歌い方には味がありますが、あくまでも“俳優・高倉健”の仕事の一つとして受け止められてきたので、“音楽界に影響を与えた”と言えるかは疑問。歌手活動をリアルタイムで知らない若い世代から『さすがに無理がある』という反発が出るのも頷けます。『レコ大』としては、偉大な高倉さんに何か賞を……という純粋な気持ちもあったのでしょうが、視聴率アップのための話題作りにしか見えず、むしろ“健さんの死を利用している”とイメージダウンにつながったのでは」 高倉さんは15年前に演歌をレコーディングし、自分が死んでから出すようにと音楽関係者に託しているという。タイトルは「対馬酒唄」で、歌詞はすべて九州弁でつづられているようだ。リリース日などは発表されていないが、高倉さんの遺志通り、お茶の間で楽しめる日はきっとくるはずだ。12月30日に『レコ大』が放送されるTBSで、これまでの楽曲とともに紹介される可能性もある。授賞については批判も多いが、とくに若い世代にとっては、歌手としての高倉さんを知る機会になったともいえるだろう。 (文=久保カズヨシ)『高倉健 Blu-ray COLLECTION BOX』
高倉健さん追悼テレビ番組に“ヤクザ映画”使える? 一方、DVD業界は「ビジネスチャンスに躍起」
日本映画界の超大物俳優、高倉健さんが10日、悪性リンパ腫のため逝去したが、テレビ各局で懸念材料となっているのが、高倉さんの追悼特集だ。ある放送作家によると「追悼番組として過去の名作の放映をしたいと東映など権利者と交渉に入っていますが、代表作といえるヤクザ映画は、昨今の暴力団排除の風潮に鑑みて、ゴールデンタイムの放送などは控えたほうがいいという声がある」という。 高倉さんの代表作である『網走番外地』『日本侠客伝』『昭和残侠伝』の各シリーズは、いずれも暴力団組員を主人公にした話で、近年はこうした任侠モノのテレビ放送が激減していた。高倉さん自身、昨年の文化勲章を受章した際「私みたいにヤクザ映画ばかり出ていた俳優がいただけるとは、夢にも思いませんでした」とコメントしたほどだ。 高倉さんの訃報を伝えた番組では、過去の出演映画の映像の一部が使われたりもしたが、任侠モノではない作品が選ばれたり、任侠モノであっても過激なヤクザ色が感じられない場面が選ばれたりと、各局の配慮が感じられた。 一方、映画ライターは「“テレビが放映しなければ、こっちが儲かる”と、DVDの発売メーカーや出版社が躍起になっている」と明かす。 「マイケル・ジャクソンが亡くなったとき、マイケルの使用映像について複雑な利権争いが背景にあったことから、往年の映像を求めて過去の映像ソフトがバカ売れしました。高倉健の出演作品を集めたDVDボックスが出せるのなら、ヒットは間違いない。聞いたところでは、健さんが生前に書いていたという日記の書籍化を求める動きや、インタビュー集の再録出版なども企画が持ち上がっていますね」(同) 高倉さんの出演作品は200本以上。偉大な俳優の死を偲ぶどころか、ビジネスチャンスと捉える関係者が続出しているようだ。 高倉さんのヤクザ映像を自主規制するテレビ局の動向について、実際に放送した場合に問題となるのかどうか、放送倫理上の問題に対応するBPOに聞いてみたところ「まだ放映されていない案件についてお答えできない」とのことだった。 (文=ハイセーヤスダ)『網走番外地 望郷篇』(東映ビデオ)
追悼・高倉健さん──果たせなかった北野武監督との約束「一緒に映画を撮ろう」
芸能取材歴30年以上、タブー知らずのベテランジャーナリストが、縦横無尽に話題の芸能トピックの「裏側」を語り尽くす! “日本映画界の最後の大スター”高倉健さんが、悪性リンパ腫のため11月10日に他界していたことが明らかになった。享年83歳。 生前、北野武監督ことビートたけしに「一緒に映画を撮ろう」と語っていたが、実現しないまま他界。さぞ、無念だったことだろう。 たけしと健さんの出会いは、1985年に公開された映画『夜叉』での共演だった。たけしは「『夜叉』で共演することになったんで、ロケ先の福井県に向かったんだけど、健さんは雪の中で、花束を持ってオイラを福井の駅のホームで待っててくれたの。『たけしさんですか? 高倉健です。私の映画に出てくださって、ありがとうございます。よろしくお願いします』。電車から降りたらそう言われて、花もらっちゃってさ。ああ、今のは高倉健だ。どうしよう。参ったなと思った」と、筆者に出会いを語っていた。 その後、健さん行きつけの銀座のフランス料理店を筆者がたけしに紹介したところ、その店を気に入り、頻繁に通うようになった。ある日、店の責任者M氏が、健さんに「最近、たけしさんに頻繁にお店を利用していただいています」と伝えたところ、「一緒に映画を撮りたいから、連絡先を教えてください」と言われ、オフィス北野の電話番号を教えた。すると、後日、健さん自ら電話したという。 「健さんが俺の事務所に電話くれたんだ。『もしもし、高倉健です。たけしさんと連絡を取りたいんですが』と。ところが、まさか健さん本人から電話がくるとは思わないから、出たヤツが『何言ってんだ。この野郎』と、すぐに電話を切った。さらに、2度目の電話は『松村(邦洋)だろ。モノマネばっかりしやがって』と、ガチャンと電話を切っちゃったんだよ」 後日、電話をかけたのが健さん本人だということを知ったたけしは、昔、東映の大部屋役者時代、健さんの名前から一字もらって芸名にした俳優の石倉三郎をつなぎ役に立てて、健さんに謝りの電話を入れたところ、「たけしさんのところに電話すると、すぐに切られるんですよ。モノマネするなと言われるんです」と、ちゃめっ気ある対応をしてくれたという。 「怒って当たり前なのに、この気遣いに頭が下がったよ。さらに、健さんから『一緒に映画を撮ろう』と言ってもらった。うれしくなって、いろんな企画が頭に浮かんだよ。ロートルのヤクザが世直しする『ヤクザ名球会』とかね」 ところが、その後、健さんからパタッと音沙汰がなくなったという。そこで筆者が前出の店のスタッフに確認すると、健さんは恩人といわれる建設会社の会長が亡くなったために、3年間喪に服し、仕事関係の連絡を遮断していたという。その話をたけしにしたところ、「健さんみたいな粋は少なくなった。粋をテーマに本を作れないか」と打診があり、4年前に筆者がプロデュースして出版されたのが『下世話の作法』(祥伝社)だった。 喪が明けた健さんは。映画『あなたへ』(2012)で、たけしに出演をオファー。せっかくの誘いは断れないということで受諾したが、健さんと一緒に映画を撮るという話を現実化したかったたけしは、一方で“大阿闍梨”をテーマにした『阿闍梨』という企画を温めていた。 しかし、その話が実現する前に、健さんは他界してしまったのだ。健さんの側近は「健さんは糖尿病だと言ってましたが、がんについては、周囲が心配するから最後まで誰にも言いませんでした」と語る。最期まで気遣いを忘れなかった健さんに、あらためて合掌! (文=本多圭)













