日本では少子高齢化が著しいものの、世界に目を移してみると、1日に生まれる子どもの数はおよそ3.8万人にも及ぶ。この記事を読んでいるまさにこの瞬間にも、地球上のどこかで新しい生命が産声を上げているのだ。しかし、日本のように衛生的な環境で生まれる赤ん坊はごくわずか。世界中の母親たちの大半は、過酷な環境で子どもを産み、育てているのだ。 そんな世界のお産に迫ったのが、ルポライターの石井光太氏。『物乞う仏陀』(文藝春秋)、『神の棄てた裸体-イスラームの夜を歩く』『レンタルチャイルド-神に弄ばれる貧しき子供たち』『遺体-震災、津波の果てに』(新潮社)などで知られる彼は、2013年から3年間にわたって9カ国を歴訪し、『世界の産声に耳を澄ます』(朝日新聞出版)を上梓した。 中米のグアテマラ共和国では、第二次大戦後、36年間にわたって内戦が繰り広げられ、国土は徹底的に荒廃。先住民の多くが虐殺され、20万人以上の人々が死亡したといわれている。和平合意から20年以上を経ても、いまだこの国の政治・経済は停滞したままだ。石井氏は、この国でかつて行われてきた人身売買の実態に迫る。 「昔は外国人がやってきて、子どもを買っていったの。貧しい家に5人も6人も子どもがいると育てられないでしょ。だから、親も赤ちゃんを売っちゃう」 農家の女性がこう証言するように、年間4,000人あまりの子どもたちが養子としてアメリカに送られるグアテマラは、中国に次いで第2位の養子提供国。養子提供はひとつの「ビジネス」となっていた。そんな国で、子どもをアメリカ人に「売った」男性は、石井氏の取材に対してこのように答えている。 「裕福なアメリカ人の里親に預けられるなら、グアテマラよりずっといい生活ができる。どうせここにいたって、コヨーテ(不法越境を助ける仲介業者)に大金を払ってアメリカに行くことになるんだ」 貧しい家に生まれた子どもは、病気になったり、ストリートチルドレンになる可能性が高い。また、成長しても、ろくな仕事のないグアテマラではなく、不法移民としてアメリカに生きる道を見いだす人は少なくない。グアテマラの過酷な現実が、親に人身売買という道を選ばせるのだ。 08年から、グアテマラ政府は国外へ養子に出すことを制限し、養子ビジネスに対する規制に乗り出した。しかし、その結果生まれたのが、代理母出産という新たな搾取の方法だ。先進国の不妊症カップルや同性愛カップルが、グアテマラ人女性の子宮を借りて子どもを産ませる。そんなビジネスが今、特に貧しい先住民の間で広まっている。美人で有名なツツヒル族は人気で、アメリカ人好みの目鼻立ちのくっきりとした子どもが生まれるといわれる。石井氏は「これでは、ペットショップで高値で売れる犬をつくるために種を混ぜるブリーダーと同じ発想ではないか」と憤りながらも、ストリートチルドレンが行き交うエクアドルの現実を見れば、単にそれを否定することもできない。代理母には、多額の報酬が支払われるのだ。 エクアドルと同じ中米のホンジュラスでは、ストリートチルドレンが、売春やレイプによってできた子どもを産む。まともな教育も得られず、母親としての知識もない彼女らは、子どもたちを病院に連れて行くこともなく劣悪な環境で育て、そのほとんどが1~2歳になるまでに死んでしまう。また、国民の3人に1人がHIVに感染するアフリカ南部のスワジランド王国では、親をエイズで亡くした孤児が親戚の家をたらい回しにされたり、ストリートチルドレンと化し犯罪に手を染める。日本では気づかないが、親の愛情を一身に受けて育つというだけでも、とても恵まれていることなのだ。 しかし、そんな状況を目の当たりにしながらも、石井氏は本書のあとがきで「ひとつひとつの命が持つ可能性は、すべて等しく無限だ」という希望を記している。どうして、そんな楽観的な希望を語ることができるのか? それは、彼の見た光景が、決して絶望だけではなかったからだ。 内戦が続いたスリランカで出会った女性は、兵士にレイプされて妊娠した。 堕胎をするには、経済的にも時間的にも余裕がなかった。彼女は子どもを産み、施設に預けることにした。しかし、首が据わるまで3カ月間、生まれた男児を抱き続け、母乳を与えていた彼女は、子どもを手放さずに、自分の手で子どもを育てることを決意する。両親には猛反対され、出生の秘密を知る村人は彼女をあざけり、彼女の周囲にはいつも非難の目が向けられていた。しかし、彼女はわが子のために涙を流さず、村民に対しては気丈に振る舞い、息子の前では明るい笑顔を見せた。成長した息子は「なんでお父さんがいないの?」と友達から聞かれると、必ずこう答える。「ママはなんでもできるすごい人なんだ。お父さんなんていらないほど、すごいんだぞ!」 レイプの末、望まない妊娠によって生まれた子どもに対して葛藤はないのか? 当然の疑問に対して、彼女ははっきりとこう答えた。「うちの子って、すごくかわいいの。誰が父親なんて関係ない。私の息子だから」 世界中の過酷な現実を見続けてきたルポライターは、「子どもの持つ無限の力は、現実の不条理を打ち破ることができる可能性を秘めている」と書く。本書には、戦争の続く中東シリアを逃れた難民たちが、キャンプにおいて多くの新たな生命を育んでいる様子も描かれている。子どもの持つ「可能性」が現実を変える日が、一刻も早く訪れることを願ってやまない。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])『世界の産声に耳を澄ます』(朝日新聞出版)
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ノンフィクション作家・石井光太が迫る、虐待家庭の闇『「鬼畜」の家~わが子を殺す親たち~』
2014年に発覚した「足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件」を覚えているだろうか? この事件は、東京都足立区に住む、元ホストの皆川忍(当時30歳)と、元ホステスの朋美(27歳)夫婦が、3歳になる玲空斗君を長期にわたり、ウサギ用ケージに監禁。ある日の深夜、玲空斗君が「あー」「うー」と叫ぶので、忍が「静かにしろ!」と怒鳴り、タオルをくわえさせ、窒息死させた。 このような残忍な事件を起こす犯人夫婦とは、いったいどんな人間なのか? おそらく大半の人は、こう思うだろう。人を人とも思わないような“鬼畜”に違いない、と。けれど、彼らは言う。 「愛していたけど、殺してしまいました――」 『「鬼畜」の家~わが子を殺す親たち~』(新潮社)は、ノンフィクション作家・石井光太氏が、わが子を殺してしまった事件の真相を追ったルポだ。扱うのは「足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件」に加え、未熟な夫婦が5歳の子をアパートに放置、死に至らしめて7年間放置した「厚木市幼児餓死白骨化事件」、奔放な男性遍歴の果てに妊娠を繰り返し、周囲に妊娠を隠したまま二度にわたり出産、嬰児の遺体を自宅の天井裏や押入れに隠した「下田嬰児連続殺害事件」の3件。 石井氏は、本人をはじめ、その両親や祖父母などに会い、どのような家庭環境で育ち、これまでどう生きてきたのか、事件を起こすまでの経緯を2年間かけて徹底的に取材している。 まず驚くのは、彼らの両親にはそれぞれ著しく問題がある、という点だ。中でも「足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件」を起こした忍の母・桜田亜佐美(仮名)には、絶句する。忍は児童養護施設で育った。亜佐美は育てるつもりがないのに、忍のほかに4人もの子を産み、出産と同時に施設へと預けている。それでも、長男の忍だけは唯一かわいがり、頻繁に一時帰宅させ、一緒に夜の町に出かけ、明け方まで飲み歩いたり、恋人に会わせたりした。中学卒業時には、なんの気まぐれか、忍を家に引き取るも、ソープランドで働いていたので、帰宅は深夜で昼まで眠り、食事もろくに作らなかった。 彼女の行動は、すべて思いつきだった。忍は、その性格をそっくりそのまま受け継いだ。彼には、派遣会社の運送の仕事で月15万円ほどの稼ぎしかなかった。しかし、7年間で7人もの子どもをもうけた。次女が言うことを聞かないので、リードでつないで殴った。同じく次男が言うことを聞かないので、ウサギのケージに入れ、死んでしまったから、バレないように棄てた。彼はこうしたら、こうなるという想像ができない。 また、朋美の母は、子どもを持つ身でありながら不倫し、その男が自分の長男の彼女に手を出し、怒ったところ、男にマンションの3階から突き落とされるような人物であった。 忍と朋美には、いわゆる“世間一般の温かい家庭”のイメージというものが、おそらくない。それでも、なんとかいい家庭を築こうとしていた形跡がある。それが、忍がある窃盗容疑で捕まった時に、朋美が書いた手紙だ。 「子供達は相変わらず面会で見ての通り元気だけど、皆パパが大好きだから、いないのは寂しいんだよ。でも、私がこんなんだから、ああやって元気にふるまってんだ…どんなに小さくても皆が、分かってる。パパがいないとママはダメになっちゃうって(中略)。1人で5人は、とっても大変…やっぱ、パパがいて7人揃ってウチは仲良し家族だよ!!」 実際、石井氏があるルートから手に入れた彼らの家族写真を見ると、Vサインをしたり、笑顔で頬と頬をくっつけたりしている、仲睦まじい家族写真ばかりだった。にもかかわらず、残忍な虐待によって次男を殺し、「埋葬」をするため、“長男と長女とともに”山梨県へと向かうなど、正常な頭では考えられないような行動も起こす。この矛盾が、どうして起きてしまうのか? その点について石井氏は、彼らの過去をできる限りさかのぼることで、丹念に追っている。 最後まで読み終え、思わず深いため息が出た。彼らは、本気で子どもたちを愛していたのかもしれない。だが、あくまで彼らなりに。どの事件も、まったく罪のない子どもが亡くなっているだけに、軽々しく同情はできない。けれど、幼い頃に身につけた感覚というのは、おそらく一生消えない。一体何がどうなったら、このような残酷な事件が起きるのか――。その背景を、この本で知ってもらいたい。 (文=上浦未来) ●いしい・こうた 1977年、東京生まれ。国内外を舞台にしたノンフィクションを中心に、児童書、小説など幅広く執筆活動を行っている。主な著書に『物乞う仏陀』(文藝春秋)、『神の棄てた裸体-イスラームの夜を歩く』『レンタルチャイルド-神に弄ばれる貧しき子供たち』『遺体-震災、津波の果てに』『浮浪児1945-戦争が生んだ子供たち』(新潮社)、『絶対貧困-世界最貧民の目線』(光文社)、『地を這う祈り』(徳間書店)ほか、児童書に『ぼくたちは なぜ、学校へ行くのか。―マララ・ユスフザイさんの国連演説から考える』(ポプラ社)、『幸せとまずしさの教室―世界の子どものくらしから』(少年写真新聞社)、小説『蛍の森』(新潮社)、責任編集『ノンフィクション新世紀』(河出書房新社)などがある。『「鬼畜」の家: わが子を殺す親たち』(新潮社)
震災後2年を経て見つめる、遺体安置所の光景『遺体~明日への十日間~』
「“死体”と“遺体”。意味は同じですが、全く違うものです。遺体安置所では、津波で流されてヘドロだらけで冷たくなって死後硬直している死体が足の踏み場もないくらいに床に置かれていました。それを遺体安置所で働く人たちが、一体一体きれいに洗って、丁寧に並べ、遺族を見つけ、納棺をして、火葬場に送り出すところまで行う。そうすると、死体が「遺体」になるんです」 (『遺体――震災、津波の果てに』(新潮社)の著者でノンフィクション作家・石井光太氏)――。 東日本大震災から2年がたとうとしている。東北地方を襲った未曾有の震災による死者・行方不明数は1万8,574名(2月27日現在)に上る。 震災のその後を扱うテレビや新聞報道が増える中、メディアが報じきることができなかった被災地の姿、遺体安置所を舞台にした映画『遺体~明日への十日間~』(http://www.reunion-movie.jp/)が封切られた。その公開を記念して、東京都港区のシナリオセンターで講演会(主催:Youlabo)が行われた。 講演会には、映画『遺体』の君塚良一監督、原作であり、震災ノンフィクションとしては最大級のベストセラーとなった『遺体――震災、津波の果てに』の著者・石井光太氏、同映画に出演した女優・小橋めぐみ氏が登壇。3人がそれぞれの『遺体』についての思いを語った。 映画『遺体』の舞台は、原作同様に岩手県釜石市の遺体安置所。釜石市は約1,100人の死者・行方不明者を出した。原作には「体育館の面積はバスケットボールのコート一面分。床に隙間なく敷かれたブルーシートの上に、遺体が所狭しと置かれている。毛布にくるまれた遺体、納体袋に入れられた遺体、ビニールシートに包まれた遺体など様々」といった壮絶な遺体安置所の光景が描かれている。 原作者の石井氏は次のように語る。 「遺体安置所が舞台というだけで、『どれだけ悲惨な描写がされているのか』『どれだけの悲しみが書かれているんだ』という悲劇に関心が寄せられますが、僕はそこが描きたいわけではなかった。僕はただ、遺族や遺体に優しく声をかける『人の言葉』や、必死になって遺族のもとへご遺体を返そうと思って働いている方々の『想い』が、どれだけ温かくて、強くて、そこで生きた人を支えたかを伝えたかった。死体が遺体になる過程の中で、どれだけ多くの人間が携わって、人間の尊厳を守り、遺族を支えたのか。そしてそこには人間の温かさや優しさ、勇気があったということを描きたかったんです」左から小橋めぐみ氏、君塚良一監督、石井光太氏。
■事実と「真実」 映画『遺体』の主人公は、西田敏行氏が演ずる相葉常夫(66歳)。定年後は地区の民生委員として働いていたが、震災後はそれまでの葬祭関連の仕事に就いていた経験をもとに遺体安置所でボランティアとして働いた男性だ。 相葉さんは来る日も来る日も遺体安置所で、遺体と向き合った遺族に「ご家族に迎えに来てもらって、とても喜んでいると思います」と声をかけ、体育館に並ぶ身元不明遺体にも「つらいだろうけど、頑張ってくれな」と言葉をかけ続けた。 原作はノンフィクション作品のため、当然、主人公にはモデルがいる。君塚監督は映画化する際に、まずこうした関係者に「映像化することをどう思いますか」と尋ねにいった。それについて次のように語る。 「原作の『遺体――震災、津波の果てに』を読んで、同じ被災者が同じ町の犠牲者のために働いたという内容に、神話のようなある種の物語性があり、驚いた。読み終えてから4日後に、石井さんとお会いしました。その時に、石井さんから『映像化の前に釜石に行って、モデルとなった全員に会ってほしい』と言われました」 そこで関係者に言われたのが、次の言葉だった。映画にも出てくる住職のモデルになった人物から言われた言葉だ。 「事実はあなたにはわからないかもしれないけれど、真実は曲げないでくれ。真実を動かさず、描いてくれ」 だからこそ、君塚監督は「真実」に向かうべく、震災直後からの遺体安置所の十日間を描いた。現地に入ったのが震災から1年後だったこともあり、関係者の言葉も変わり、物語化しているとのことで、「原作をありのままに映像化しようと思った」という。 君塚監督は「僕は現場にいなかったのでわからないです。ここでどういうふうに遺体安置所で働いた人たちが動いたのかは知りません。だから、皆さんで考えましょう」と俳優やスタッフといった映画の関係者に説きながら、この作品を作っていく。 「この台詞は絶対に言ってくれ」だとか「泣かそう、感動させよう」とかという気持ちはまったくなかったという。むしろ、「俳優が言えないことは言わせない。違う言葉を選ぶならば、それを尊重するということをしました。現場で追体験をしている俳優が紡ぐ言葉をそのまま撮った」 映画の中で、この「真実」をめぐる、象徴的なシーンがある。それは主人公の相葉さんが遺体安置所のある体育館の中に、靴を脱ぎながら入るシーンだ。 このシーンは原作にはない。つまり、「事実」ではない。しかし、主人公を演じる西田氏が「自分だったらこうする」ということで、遺体安置所のある体育館には靴を脱いであがり、最後まで演じたのだ。 原作者の石井氏は次のように語る。 「主人公のモデルになった千葉さんは映画を見て、『実は自分もそうしたかったんだ』と話していた。当時は、物理的に靴を脱いで作業するのは不可能だった。でも千葉さんは、靴を脱がずにあがることはつらかったし、誤っていると思っていました。これは事実とは違うけれど、違う形で真実というものにつながった。映画化したことで、ノンフィクションという原作とは違ったものが伝わった」(c)2013フジテレビジョン
■150体の遺体を泣きながら作った 君塚監督にとって、映画『遺体』は特別な作品だという。 「遺体安置所を舞台にするのだから、劇映画とはいえ被災地にカメラを向ける。劇映画とはいえ、被災者やご遺族にカメラを向ける。劇映画とはいえ、遺体にカメラを向ける。僕の人生に関わってくる映画なので、この作品が終わったからといって、次のテーマにいけないくらいの覚悟を決めて撮りました」 映画『遺体』は、出演する俳優たちにも『覚悟』のいる現場だったという。 主人公の西田氏以外にも、遺体の検案をする医師役の佐藤浩市氏、歯科医師役の柳葉敏郎氏、歯科助手役の酒井若菜氏。さらに釜石市職員役を演じた沢村一樹氏、筒井道隆氏、志田未来氏、勝地涼氏。市長役の佐野史郎氏や葬儀社社員役の緒形直人氏……。 母親を亡くした遺族の役として出演した小橋めぐみ氏は「役名はありましたが、実際に遺体安置所のセットに入ると、自分自身が追体験するような感じだった」と話す。 小橋氏が演じたのは、亡くなった母親にお化粧をする娘役。原作も脚本も、主人公の相葉さんが母親に化粧をすることになっていたが、当日になって急遽、娘役の小橋氏が化粧をすることになった。それは、1カ月間、ご遺体に寄り添う小橋氏の演技を見てきた西田氏が「僕だったら、この娘さんに化粧をさせてあげたいと思う」と提案し、シナリオを変更。リハーサルなしで、すべてアドリブで撮ったという。撮影現場では、そういうことも起きたという。 映画『遺体』で覚悟を決めたのは、スタッフも同様だったという。 「美術部は、人形とはいえ、心を込めながら、ご遺体を150体も作った。追体験をしながら作っているわけだから、毎日泣きながら作っていましたね」(君塚監督)(c)2013フジテレビジョン
■残すということ 今回の映画の舞台である釜石市のある被災者からは、次のような意見が寄せられたという。 「僕は申し訳ないですが、つらかったので原作も途中で読むのをやめました。映画に関しても、まだ行く勇気がありません。自分は家族を津波で失いました。だけれども作ってくれて、ありがとうございました」。 原作者の石井氏は次のように語る。 「これから生きる人たちが、津波から目をそらして生きることは仕方がないことだと思うんです。だけれども、作り手として、知るためのきっかけはきちんと作っていかなければいけない。これは絶対にそうだと思うんです。映画化の話をもらった時に反対しなかったのは、原作のノンフィクションを読まない人間が、映画ならば見る可能性もあると思ったからです。自分が見てきた、携わってきたことを残さなければという想いがあるからです。だからこそ、君塚監督にあれだけの強い想いで『遺体』を映画化していただけたのはありがたいことだと思います」 ●『遺体~明日への十日間~』 原作:石井光太『遺体 震災、津波の果てに』(新潮社刊) 脚本・監督:君塚良一(『誰も守ってくれない』/モントリオール世界映画祭最優秀脚本賞受賞) 出演:西田敏行 緒形直人、勝地涼、國村準、酒井若菜、佐藤浩市、佐野史郎、沢村一樹、志田未来、筒井道隆、柳葉敏郎(五十音順)ほか 企画協力:新潮社/製作:フジテレビジョン/制作プロダクション:FILM/配給:ファントム・フィルム 全国公開中 <http://www.reunion-movie.jp/> (c)2013フジテレビジョン
【シリーズ・震災遺体(下)】震災死を受け入れられない遺族

■上、中はこちらから
岩手県釜石市にある日蓮宗の寺・仙寿院。ここの本堂の裏には、約百個の骨壺が収められている。東日本大震災によって亡くなった人々の遺骨だ。被災地には、身元の分かっていない遺骨や、墓が流されて埋められなくなった遺骨が数多くある。仙寿院の住職・芝﨑惠應(55歳)はそれらの遺骨を無償で預かっているのだ。
震災からもうすぐ1年。震災は風化しつつあるが、遺された家族はどんな心情でいるのか。発生直後の遺体安置所や遺体捜索の状況を活写したノンフィクション『遺体――震災、津波の果てに』(石井光太著、新潮社)がベストセラーになり話題を呼んでいる。その舞台となった釜石市における遺族たちの「その後」に迫った。
現在、仙寿院の本堂の裏に並べられた骨壺には、遺骨の入っていないものが少なからずある。
骨壺の中に収められているのは本人の遺影や思い出の品だ。あの日、津波に流されたまま見つかっておらず、遺された家族がせめてもの気持ちとして遺影を入れてお寺に収めているのである。
住職の芝崎は震災発生当初から遺体安置所や火葬場などで鎮魂に関する仕事をしてきた人物だ。『遺体』という本の中でも遺体安置所でずっとお経を読んでいたことが記されている。いわば、震災のすべてを見てきた人物だ。その彼は次のように語る。
「家族が肉親の死を受け入れるには、遺骨が必要です。しかし、未だに多くの遺体が海に沈んだままなのです。遺された家族は懸命に死を受けようとして遺影をつくったり、空の骨壺を用意したりします。しかし、なかなか死を受け入れることはできないのです」
芝崎はそう言って「遺骨を持ってみてください」と言った。その遺骨は、まるで中身の入っていない紙箱のように軽かった。遺影を収めたところで重さを感じることはできないのだろう。
「こんなに軽い骨壺を持ったとしても、肉親の死を認められるはずがありません。そのため、家族の中で意見が分裂してしまうケースもあるのです。たとえば、夫は行方不明の子供の死をいい加減に認めようと思い、息子の葬儀をしたいと思う。そして遺影しか入っていない骨壺を用意して寺へ相談に行く。一方、妻は行方不明の息子はどこかで生きているのではないかと思っている。だから、夫が葬儀をしようとしていることについては猛反対する。こうしたことが夫婦の仲を引き裂いてしまうこともあるのです。遺族は今そうした段階に差し掛かっており、苦しんでいると言ってもいいでしょう」
多くの遺体はまだ海底に沈んでいる。たとえ、見つかったとしても、今は部分遺体であることがほとんどだ。腕や足しか見つからないのである。こうなると、DNA鑑定をしたところで、はっきりとした結果が出るとは限らない。
では、遺体さえ見つかれば家族は死を受け入れられるのかといえば、決してそういうわけではない。遺体発見後も、また別の苦悩が家族を襲うこともある。
釜石市の消防団に、福永勝雄氏(当時・66歳)という人物がいた。地震が町を襲った時、福永氏は自宅にいたが、慌てて外出先から帰って来た妻を残して消防署へ向かった。消防団の副団長であったため、指示を出動しなければならなかったのだ。
津波が釜石の町に襲いかかる1、2分前、消防署の署員や消防団員たちは入り口の前に集まっていた。全員がふと気がついた時、なぜかその場にいた福永は姿を消していた。車に乗ってどこかへ行ったのである。
その瞬間、津波が町を襲った。消防士や消防団員は建物の階段を駆け上がってかろうじて助かったが、町を車で走っていた福永は津波に流されたらしく行方不明になった。
そして震災から約2カ月が経った日、福永は乗っていた車ごと遺体となって発見されたのである。
遺体が発見された時、消防士や消防団員たちは次のように語った。
「福永さんは、きっと津波がくると考えて水門を閉めに行ったにちがいない。それで死んでしまったんだ。彼は町を守ろうとして死んだのだ」
そして彼らは町の恩人として福永に感謝し、その話は英雄談として町中に広まった。
だが、妻の安子さん(62歳)の思いは異なる。遺体が見つかった直後に訪れると、妻は黒い喪服を着て現れた。
仏壇の前には夫の遺体と一緒に見つかった腕時計や財布が砂だらけになって置かれていた。いくら洗っても落ちない汚れは、津波の激しさを物語っている。
妻の安子さんは次のように言った。
「消防団の方々は、夫が水門を閉めに行って命を落としたと言っています。しかし、私はどうしてもそう思えないのです。夫は、私たち家族のことが心配になって帰ろうとしたのではないでしょうか。家族のために死んだ。そう思わなければ、私のような家族が浮かばれないのです」
誰一人として、津波が来る直前に福永が消防署を離れた理由はわからない。だが、消防団員たちは「きっと町のために水門を閉めに行って死んだのだ」と言いたがる。福永を消防団や町の英雄にしたがるのだ。
妻は違う。妻は夫が町の人ではなく、自分のために死んだと受け止めたい。だからこそ「家族を助けに帰ろうとした」と思いたいのだ。
何が正しいわけではない。一人の死を受け入れるには、それを支えるだけの「物語」がなければならないのだ。そしてそれこそが遺された者たちにはもっとも必要になる。それがあって初めて死を受け入れることができるのだ。
だが、福永は未だに消防団の中で英雄として祀られているらしい。『岩手日報』の記事によれば、11月14日に盛岡で消防協会主催の慰霊祭が行われたらしい。岩手県では消防関係者98人が命を落としている。その魂を鎮める会が催されたのである。
遺族430名が参列する中、福永の妻安子さんが遺族代表として感謝の言葉を述べたという。それは次のようなものだった。
「はんてんを着て家を飛び出した後ろ姿が目に焼き付いている。命を張って地域を守ってくれた故人を誇りに思う」(『岩手日報』)
安子さんは地域のためではなく、家族のために命を落としたと思いたかったはずだ。だが、消防協会が主催する慰霊祭では、その思いを殺して「地域のため」と言わなければならなかったのではないか。
そう思うと、遺された人々がいまだに苦しみながら、肉親の死と向かい合っていることがわかるのである。
●作家・石井光太ら、「震災遺体の現実」を語る【ダイジェスト】
http://www.youtube.com/watch?v=A5btjESRWQY
【シリーズ・震災遺体(中)】震災後約1年 今見つかるのは部分遺体ばかり

■上はこちらから
東日本大震災における犠牲者は、死者・行方不明者合わせて約2万人の人々が犠牲になった。
だが、そのうち身元不明者数は3,000人以上にのぼる。つまり、犠牲者のうち5人に1人は未だに見つかっていないというのが実情なのだ。
そろそろ震災から1年が経とうとしている現在、メディアも人々も一時期ほど震災について語らなくなっている。こうした現状の裏で、膨大な数の身元不明者や、発見されても身元がわかっていない遺体は、今どういう状況におかれているのだろうか。
昨年10月に発売されて瞬く間に9版を重ねたベストセラー『遺体――震災、津波の果てに』(石井光太著・新潮社)。これは岩手県釜石市における震災直後の遺体安置所や遺体捜索の状況を克明に記録したノンフィクションだ。
舞台となった釜石市では、震災の翌朝から廃校になった中学校が遺体安置所となり、毎日何十体という遺体が運び込まれていた。そこで、市の職員による遺体搬送、地元の医師による死体検案、歯科医による歯型確認などが行われ、身元がわかった順に遺族に引き渡されたのである。
市内中心部にある遺体安置所は、約2カ月で閉鎖されることになった。遺体の発見数が減ったことで、後の作業は警察に任されることになったのである。
震災直後に遺体安置所で死体検案を行っていたのは、地元の医師小泉嘉明(当時65歳)だ。小泉は数週間死体検案の中心で働いていたが、4月以降は県外から来た大学病院のチームなどに作業を任せ、自分は町の復興や自身のクリニックの仕事にもどった。
だが、6月頃に大学病院のチームが去ると、再び警察から死体検案の仕事が小泉のもとに回ってきた。津波による遺体は、医師免許を持った者が死体検案を行って死因を解明した後でなければ火葬を行うことができない。それで再び小泉に任されたのだ。
そこで目にした遺体は、震災発生時とは大きく異なっていた。小泉氏は次のように語る。
「震災の直後には多くの遺体が運ばれてきました。ただ、大半が傷ついてはおらず、きれいでした。窒息で亡くなっていたため、体に傷があまりなかったのです。しかし、夏以降に見つかった遺体は違います。がれきや海の底から発見されてくるので、かなり傷んでいるのです。腐敗が相当進んでいるケースもありました」
海に流された遺体は魚に食われたり、ガスがたまったりして傷みが激しい。また、津波とともに流れてくる瓦礫に巻かれているうちにバラバラになってしまうこともある。夏を過ぎて発見されたのは、ほとんどがそういう遺体だったのだ。
しかし、年末から年始にかけて見つかる遺体はさらに悪くなっているという。
「最近の遺体は、全部が残っていることは少ないです。特に海底から発見されるものはそうですね。部分遺体、つまり、手だけとか足だけ、あるいは頭だけという遺体が大半なのです。医師としては部分遺体も一体として死体検案を行わなくてはなりません。しかし、腐敗したそれだけを見ても、死因や性別がわかるはずもありません。発見場所を除けば死体検案書の内容はほとんど『不詳』と書いて提出するのです。あとはDNA鑑定に回されて、身元が明らかになるのを祈ることになります」
かつて自分の患者だったかもしれない地元の人々が部分遺体となって発見される。その死体検案書に「不詳」と書きつづけなければならない作業はどれだけ虚しいことか。
それでも小泉は部分遺体が見つかる度に警察署へ赴き、所見を書かなければならないのである。
部分遺体の身元が明らかになることは決して多くはない。そうなると、部分遺体は「身元不明遺体」となって一カ所に預けられることになる。
遺骨を預かるのは、『遺体――震災、津波の果てに』でも描かれた仙寿院の住職である芝崎惠應(55歳)だ。芝崎は震災の直後、自らの寺が避難所になっているにもかかわらず、ボランティアで連日遺体安置所を訪れた。そして、まだ火葬が終わっていない遺体や、身元のわかっていない遺体に対して読経をしつづけた。
こうした経緯もあり、芝崎は身元不明の遺骨や、引き取り手のない遺体を自身の寺で預かることにしたのだ。
今、仙寿院の本堂の裏には、身元がわかっていて引き取ることができずにいる遺骨が70体ほど、完全に身元がわかっていない遺骨が30体ほど置かれている。芝崎は毎日、これらの遺骨に向かって経を唱えているという。身元不明遺体について、こう語る。
「遺体の損傷が激しくなると、DNA鑑定が有効ではなくなるようです。鑑定結果の数値が80%を超えると身元が確実になるらしいのですが、今見つかる部分遺体は60%前後が多いのです。つまり、なんとなくはわかっていても、確定できないのです。こうした遺体は部分遺体のまま火葬され、部分遺骨となって運ばれてきます。それをうちの方で番号だけふって安置するのです。身元不明遺体なので、名前をつけることができないのです」
しかし、部分遺体でも、稀に後で身元がわかることがあるという。昨年の夏頃のことだ。芝崎は部分遺体として運ばれてきた遺骨をまとめて並べていた。
ある日、男性がやってきてそのうちの一つがDNA鑑定によって妻の遺体だとわかったと言った。だが、遺体は頭部と胴体が切り離されてしまっていて、残りの部分はまだ見つからないのだという。
数日すると、また同じ男性がやってきた。そして、DNA鑑定によって残りの部分遺体も見つかったと言った。調べてみると、頭部の遺骨と、胴体の遺骨は隣同士に安置されていた。偶然隣り合わせになっていたのだ。
男性は安堵した顔をして、頭部の遺骨と胴体の遺骨を両脇に抱えて帰っていこうとした。玄関で靴を履いていた時、男性は突然骨壺を抱えたまま崩れ落ち、妻の名前を叫んで号泣した。部分遺体が見つかったことに対する安堵と、妻を失った悔しさがこみ上げてきたのだろう。
芝崎は言う。
「マスコミは部分遺体についてほとんど報じません。しかし、こうした悲しい出来事は今もずっとつづいているのです。そして、部分遺体は少しずつ増えているのです。おそらく最終的には百体を超す遺体が身元不明のまま残されるのではないでしょうか。お寺はそれを10年間預かる必要があるのですが、その後はどうなるかまったく決まっていません。その頃には人々の記憶から震災や犠牲者のことも忘れ去られているでしょう。また、遺骨が見つからず、骨壺に遺影だけを入れている人もいらっしゃいます。そうしたことが、少しずつ風化していくことがやりきれません」
たしかにあれだけの大惨事があったにもかかわらず、震災の記憶は薄れつつある。
だが、仙寿院では少しだけ明るい出来事もあるらしい。町の人々が身元不明の遺骨を憐れに思い、自らの判断でやってきて花を供え、手を合わせているのだという。年末には50人ほどが手を合わせにきたそうだ。
芝崎は語る。
「先日は、『遺体』を読んだ方が香川県からきましたよ。70代の男性が一人でやってきたのです。あの本で人々がどのように亡くなり、葬られ、今どうなっているのかを知って、『お焼香をあげさせてほしい』と言ってきたのです。もちろん、こちらからもお願いしました」
たしかに震災の風化は避けられないのかもしれない。
しかし、香川県から『遺体』という震災の本を読んで釜石市にきた人のように、心ある人々たちの思いによって、身元不明遺体や部分遺体の尊厳は守られている。
そのような輪を少しずつ広げることこそが、震災を記憶するということなのだろう。
【シリーズ・震災遺体(中)】震災後約1年 今見つかるのは部分遺体ばかり

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東日本大震災における犠牲者は、死者・行方不明者合わせて約2万人の人々が犠牲になった。
だが、そのうち身元不明者数は3,000人以上にのぼる。つまり、犠牲者のうち5人に1人は未だに見つかっていないというのが実情なのだ。
そろそろ震災から1年が経とうとしている現在、メディアも人々も一時期ほど震災について語らなくなっている。こうした現状の裏で、膨大な数の身元不明者や、発見されても身元がわかっていない遺体は、今どういう状況におかれているのだろうか。
昨年10月に発売されて瞬く間に9版を重ねたベストセラー『遺体――震災、津波の果てに』(石井光太著・新潮社)。これは岩手県釜石市における震災直後の遺体安置所や遺体捜索の状況を克明に記録したノンフィクションだ。
舞台となった釜石市では、震災の翌朝から廃校になった中学校が遺体安置所となり、毎日何十体という遺体が運び込まれていた。そこで、市の職員による遺体搬送、地元の医師による死体検案、歯科医による歯型確認などが行われ、身元がわかった順に遺族に引き渡されたのである。
市内中心部にある遺体安置所は、約2カ月で閉鎖されることになった。遺体の発見数が減ったことで、後の作業は警察に任されることになったのである。
震災直後に遺体安置所で死体検案を行っていたのは、地元の医師小泉嘉明(当時65歳)だ。小泉は数週間死体検案の中心で働いていたが、4月以降は県外から来た大学病院のチームなどに作業を任せ、自分は町の復興や自身のクリニックの仕事にもどった。
だが、6月頃に大学病院のチームが去ると、再び警察から死体検案の仕事が小泉のもとに回ってきた。津波による遺体は、医師免許を持った者が死体検案を行って死因を解明した後でなければ火葬を行うことができない。それで再び小泉に任されたのだ。
そこで目にした遺体は、震災発生時とは大きく異なっていた。小泉氏は次のように語る。
「震災の直後には多くの遺体が運ばれてきました。ただ、大半が傷ついてはおらず、きれいでした。窒息で亡くなっていたため、体に傷があまりなかったのです。しかし、夏以降に見つかった遺体は違います。がれきや海の底から発見されてくるので、かなり傷んでいるのです。腐敗が相当進んでいるケースもありました」
海に流された遺体は魚に食われたり、ガスがたまったりして傷みが激しい。また、津波とともに流れてくる瓦礫に巻かれているうちにバラバラになってしまうこともある。夏を過ぎて発見されたのは、ほとんどがそういう遺体だったのだ。
しかし、年末から年始にかけて見つかる遺体はさらに悪くなっているという。
「最近の遺体は、全部が残っていることは少ないです。特に海底から発見されるものはそうですね。部分遺体、つまり、手だけとか足だけ、あるいは頭だけという遺体が大半なのです。医師としては部分遺体も一体として死体検案を行わなくてはなりません。しかし、腐敗したそれだけを見ても、死因や性別がわかるはずもありません。発見場所を除けば死体検案書の内容はほとんど『不詳』と書いて提出するのです。あとはDNA鑑定に回されて、身元が明らかになるのを祈ることになります」
かつて自分の患者だったかもしれない地元の人々が部分遺体となって発見される。その死体検案書に「不詳」と書きつづけなければならない作業はどれだけ虚しいことか。
それでも小泉は部分遺体が見つかる度に警察署へ赴き、所見を書かなければならないのである。
部分遺体の身元が明らかになることは決して多くはない。そうなると、部分遺体は「身元不明遺体」となって一カ所に預けられることになる。
遺骨を預かるのは、『遺体――震災、津波の果てに』でも描かれた仙寿院の住職である芝崎惠應(55歳)だ。芝崎は震災の直後、自らの寺が避難所になっているにもかかわらず、ボランティアで連日遺体安置所を訪れた。そして、まだ火葬が終わっていない遺体や、身元のわかっていない遺体に対して読経をしつづけた。
こうした経緯もあり、芝崎は身元不明の遺骨や、引き取り手のない遺体を自身の寺で預かることにしたのだ。
今、仙寿院の本堂の裏には、身元がわかっていて引き取ることができずにいる遺骨が70体ほど、完全に身元がわかっていない遺骨が30体ほど置かれている。芝崎は毎日、これらの遺骨に向かって経を唱えているという。身元不明遺体について、こう語る。
「遺体の損傷が激しくなると、DNA鑑定が有効ではなくなるようです。鑑定結果の数値が80%を超えると身元が確実になるらしいのですが、今見つかる部分遺体は60%前後が多いのです。つまり、なんとなくはわかっていても、確定できないのです。こうした遺体は部分遺体のまま火葬され、部分遺骨となって運ばれてきます。それをうちの方で番号だけふって安置するのです。身元不明遺体なので、名前をつけることができないのです」
しかし、部分遺体でも、稀に後で身元がわかることがあるという。昨年の夏頃のことだ。芝崎は部分遺体として運ばれてきた遺骨をまとめて並べていた。
ある日、男性がやってきてそのうちの一つがDNA鑑定によって妻の遺体だとわかったと言った。だが、遺体は頭部と胴体が切り離されてしまっていて、残りの部分はまだ見つからないのだという。
数日すると、また同じ男性がやってきた。そして、DNA鑑定によって残りの部分遺体も見つかったと言った。調べてみると、頭部の遺骨と、胴体の遺骨は隣同士に安置されていた。偶然隣り合わせになっていたのだ。
男性は安堵した顔をして、頭部の遺骨と胴体の遺骨を両脇に抱えて帰っていこうとした。玄関で靴を履いていた時、男性は突然骨壺を抱えたまま崩れ落ち、妻の名前を叫んで号泣した。部分遺体が見つかったことに対する安堵と、妻を失った悔しさがこみ上げてきたのだろう。
芝崎は言う。
「マスコミは部分遺体についてほとんど報じません。しかし、こうした悲しい出来事は今もずっとつづいているのです。そして、部分遺体は少しずつ増えているのです。おそらく最終的には百体を超す遺体が身元不明のまま残されるのではないでしょうか。お寺はそれを10年間預かる必要があるのですが、その後はどうなるかまったく決まっていません。その頃には人々の記憶から震災や犠牲者のことも忘れ去られているでしょう。また、遺骨が見つからず、骨壺に遺影だけを入れている人もいらっしゃいます。そうしたことが、少しずつ風化していくことがやりきれません」
たしかにあれだけの大惨事があったにもかかわらず、震災の記憶は薄れつつある。
だが、仙寿院では少しだけ明るい出来事もあるらしい。町の人々が身元不明の遺骨を憐れに思い、自らの判断でやってきて花を供え、手を合わせているのだという。年末には50人ほどが手を合わせにきたそうだ。
芝崎は語る。
「先日は、『遺体』を読んだ方が香川県からきましたよ。70代の男性が一人でやってきたのです。あの本で人々がどのように亡くなり、葬られ、今どうなっているのかを知って、『お焼香をあげさせてほしい』と言ってきたのです。もちろん、こちらからもお願いしました」
たしかに震災の風化は避けられないのかもしれない。
しかし、香川県から『遺体』という震災の本を読んで釜石市にきた人のように、心ある人々たちの思いによって、身元不明遺体や部分遺体の尊厳は守られている。
そのような輪を少しずつ広げることこそが、震災を記憶するということなのだろう。
【シリーズ・震災遺体(上)】釜石市、市長たちが語る遺体安置所の光景

「東日本大震災では政策ばかりが議論される。しかし大切なのは、犠牲になられたご遺体にどう接して、どう尊厳を守るかということだった。そして、それをやってくれていたのが、遺体安置所で働いていた地元の人たちだった」(岩手県釜石市、野田武則市長)
東日本大震災で岩手県釜石市は約1,100人の死者・行方不明者を出した。昨年10月には同市の遺体安置所を舞台にしたノンフィクション『遺体――震災、津波の果てに』(石井光太著・新潮社)が発売。現在九刷のベストセラーとなっているが、その発売を記念して、仮設商店街にある「復興ハウス」で講演会が行われた。
講演会では、野田市長をはじめ、遺体安置所での仕事にかかわった人々が登壇。当時の遺体安置所でくり広げられていた光景について語った。
市長によれば、遺体安置所の設置が決まったのは、3月11日の震災直後だった。津波が町を襲った後、警察関係者が被災した市役所にいた野田市長(当時58歳)のもとへ駆けつけた。
「膨大な数の遺体が出る可能性がある。すぐに遺体安置所を設置したい」
すぐにそれに応じ、5年前に廃校になっていた釜石第二中学校の体育館を遺体安置所にすることに決めた。野田市長は当時の思いを次のように語った。
「波が去った後、町はがれきの山になり、そこにご遺体がバラバラと転がっている状態でした。あっちで2体見つかった、こっちで4体見つかったと次から次に報告が来るのです。一体どれだけの犠牲者数になるか想像もつきませんでした。私としては、がれきの中にあるご遺体の尊厳を守りたいという一心で遺体安置所をいち早くつくったのです」
町で見つかった遺体は、報告があった順から体育館の床に並べられた。棺もなく、毛布にくるまれた状態のままだった。
翌朝の明け方には、岩手県警のチームが到着。9時からは地元の開業医や歯科医が遺体安置所に集結し、停電で明かりすらつかない冷たい体育館内で、死体検案、歯型確認、身元確認作業が行われた。
当時、遺体安置所にいた関係者は、犠牲者数がまさか1,100人にのぼるとは想像もしていなかった。大半の者たちが津波によって沿岸への道が行き止まりになっていたため、わずか3キロ先の被災地まで行けず、何が起きていたのかわからなかったのだ。
だが、この日の朝に秋田県から入った陸上自衛隊が被災地で次々と遺体を発見する。瓦礫をどかす度に、次々と遺体が出てくるのだ。また、地元住民からも「倒壊した家に知らない人の遺体がある」とか「うちの父の遺体が車の中にある」という通報が入った。
急遽、これらの町で発見された遺体を遺体安置所へ運ぶ班が必要となった。
釜石市で遺体搬送を行うことになったのは市の職員だった。遺体安置所の管理や遺体の搬送は自治体の責任で行われていたため、働くのは市の職員になる。
その一人、松岡公浩(当時46歳)は教育委員会に属する生涯学習スポーツ課の職員だった。13日の朝、課長から呼び出され突然辞令を出された。そしてわけもわからぬままダンプカーを運転して被災地へ赴いた。
そこで目にしたのは、空き地に並べられた遺体の山だった。毛布をめくると、松岡の知り合いが冷たくなって横たわっていた。お腹の大きな妊婦もいた。母子ともに津波に飲まれてしまったのだ。
松岡は語る。
「初めは愕然としました。しかし、犠牲者を泥だらけのまま、ここに放置しておくわけにいきません。なんとか家族のもとへ返してあげたい。そういう思いで、3体ずつダンプカーの荷台に載せて遺体安置所へ運びました。しかし、次から次に運ばなくてはならない遺体は増えてくる。一体いつになれば終わるのかという思いでした」
一方、遺体安置所では急ピッチで死体検案や身元確認作業が行われていた。
この時、70歳になる一人の男性が遺体安置所を訪れる。千葉淳だ。彼は民生委員として避難者の支援を行っていたが、膨大な犠牲者が運ばれていると聞いて遺体安置所に駆けつけたのだ。
そこで目にしたのは、体育館の床に隙間もなく並べられた遺体だった。どの遺体も死後硬直し、助けを求めるように手が曲がっていたり、苦しそうに口を開けていたりしていた。家族がこれを見たらどう思うだろうか。
千葉は3年前まで地元の葬儀社で働いていた。自分ならば、遺体の尊厳を守り、家族に引き渡してあげられる。
そう決心すると無償のボランティアとして遺体安置所の管理人をすることになった。
千葉が行ったのは冷たくなった遺体に声をかけることだった。生きていた時と同じように声をかければ死者は尊厳を取り戻す。
毎朝5時半に遺体安置所へ行くと、千葉は一体ずつドライアイスを取り換えながら声をかけた。
「昨日は寒かったね、ごめんね。でも、今日こそ家族が見つけに来てくれるからね。それまできれいでいるために少しだけ辛抱してね」
昼になると、少しずつ家族がやってくるようになる。行方不明の肉親が運ばれてきていないかどうか捜しに来るのだ。家族は次々と肉親が遺体となって横たわっているのを発見する。あちらこちらで嗚咽する声が響く。
ある親は毎日のように安置所にやってきて、生後54日の赤ちゃんの遺体の前で泣いていた。津波に飲み込まれた際、手を離したばかりに赤ちゃんだけ波に飲まれてしまったのだ。親は遺体の前で泣きながらくり返し謝っていた。
「ごめんね。死なせてしまってごめんね」と。
悔やんでも悔やみきれなかったのだろう。そんな時、千葉はそっと傍に寄り添い、こう語りかけた。
「坊やは、ママやパパが助けようとしてくれたことを感謝しているもんな。恨んでなんかいないもんな。天国からありがとうって言ってるもんな」
この言葉によって、遺された両親はどれだけ救われただろう。
千葉は、このように遺体や遺族に語りかけつづけた。死化粧をしたり、死後硬直をほどいたりしながら声をかけたこともあった。そのようなことのつみ重ねでしか、遺族の心を和らげることはできないことを知っていたからだ。
震災発生から約2カ月間、被災地の遺体安置所ではこうした光景が絶え間なくくり広げられていたのである。
2012年、1月14日に仮設商店街の「復興ハウス」で行われた講演会では、野田市長、遺体搬送班の松岡、民生委員の千葉などが次々と登壇。2時間にわたって、当時遺体安置所で起きていたことを生の言葉で語った。
千葉は涙にむせびながら当時をふり返り、松岡は奥歯をかみしめてうつむいていた。生後54日の赤ちゃんを失った夫婦も客席にすわり、涙を流していた。
その前で、野田市長は次のように話した。
「ああいう状況下では、行政にできることは限られています。遺族や犠牲者の尊厳を守ることまで手が回らなくなってしまうのです。また、ルールとしてできることも限られています。しかし、今回の震災では遺体安置所にかかわった一人一人の〈思い〉が足りない部分を補い、傷ついた遺族を支えました。こうした〈思い〉こそが、被災地の復興において非常に大切なことになってくるのです」
あと1カ月強で、被災地は一周年を迎えようとしている。だが、今でも月に何体も遺体が見つかっている。それをささえているのが、地元の人たちの一人一人の〈思い〉なのである。
現在、野田市長は仮設住宅などのインフラを整える一方で、ことある度に遺体安置所の光景が書かれた『遺体――震災、津波の果てに』を読むように勧めているという。先日は岩手県知事にも勧めた。
被害者の心の復興のために必要な〈思い〉を考えてほしいからだという。
テレビや新聞は、遺体の尊厳ということに、ずっと目をつぶりつづけていた。
しかし、被災地では一年が経ち、尊厳についてもう一度考え直そうという動きが生まれつつある。
被災地以外の地域に暮らす人々も、今だからこそ改めてそのことについて考えていかなければならない。
遺体安置所で遺体と向き合う人々を追った壮絶ルポ『遺体 震災、津波の果てに』

『遺体 震災、津波の果てに』(新潮社)
2011年3月11日、日本列島に激震が走った。
東北地方の三陸沖を震源とするマグニチュード9.0もの巨大地震が起こり、宮城、福島、岩手県沿岸の町は、高さ10メートルを超える大津波に襲われた。もっとも被害の大きかった陸前高田などは、一瞬にしてひとつの町が丸ごと消えてしまった。
東日本大震災の死者・行方不明者は、およそ2万人。膨大な数の遺体が、津波で廃墟と化した町に散乱した。瓦礫の上に横たわる遺体、ちぎれてしまった腕や脚......。
本書『遺体 震災、津波の果てに』(新潮社)では、著者の石井光太氏が2カ月半という時間をかけ、被災地で200名以上に取材。その中から岩手県釜石市で遺体の収容や身元確認、葬送に当たった15人にフォーカスし、遺体とどう向き合い、どうやって立ち直って生きていこうとしているのかを追っている。
舞台となった釜石市では、旧二中(正式名称は釜石第二中学校)が遺体安置所となった。
釜石市は、釜石湾に面した人口4万人の小さな町で、海沿いの建物はことごとく流され、死者・行方不明者は1,000人を超えた。しかし、海沿いからたった1、2キロ先の国道1本を隔てた内陸側は津波の直接的な影響はなく、津波が発生した時どこにいたか、が生死の境となった。
それゆえ、生き残った人々は何十人もの顔見知りの死を受け止めながら、元・葬儀業者で遺体安置所の管理者を務めていた千葉淳氏を中心に、「自分たちにできることをしなければ」という思いで自発的に遺体安置所に集まった。市の職員は遺体を安置所へと運び、地元の医師や歯医者は身元確認を1日30体も40体も行い、必死に遺体と向き合っていた。
遺体安置所には行方不明者を捜す遺族が、次々にやってきた。市の職員や警察官にともなわれ、遺体を確認していく。
「これではありません」
「これも違います」
そして、突然の悲鳴が上がる。
「母です! 私の母です! ああ、やっぱりここにいた!」
娘は遺体に抱きつくようにしゃがみ込んで泣き始め、異常に静まった体育館内にその声が響いた。「もしも自分の家族だったら......」。その場に居合わせた人は、誰しもが自分自身と重ね合わせ、感情があふれそうになるのを必死でこらえていた。
そんな中、避難所に指定されている仙寿院の住職が訪れる。館内は歩く隙間もないほど遺体が並び、住職が故人の顔を見てみると、助けを求めるように口を開けていたり、逃れようと体をよじっていたり、水を飲んで苦しそうにしていたりし、どの顔にも浮かんでいるのは「苦痛」だった。
千葉氏が住職を案内する。
「彼女は臨月の妊婦なんです」
「この3人は家族なんです」
千葉氏は遺体の尊厳を守り、彼ら一人ひとりの名前や家族構成をしっかりと覚えていた。彼らのことを伝えることが使命とばかりに、涙を懸命にこらえ、丁寧に説明していく。そして、住職に提案する。
「ひとつ、お経を読んでくれませんか。そうしてくれると遺体も喜びます」
住職はうなずき、学習机でできた手作りの祭壇の前で、お経を読もうとする。
しかし、すぐ近くで幼い子どもの遺体にしがみついてしゃくり上げている女性の姿を目にし、涙腺がゆるんでいく。目をかたく閉じ、感情を押し殺してお経を続けようしても胸が苦しくなり、読経は途切れていった。
津波の恐ろしさがどんなものであったか。彼らが乗り越えようとしているものが何なのか。おそろしいまでの現実が、本書には詰まっている。
(文=上浦未来)
●いしい・こうた
1977年、東京生まれ。海外ルポをはじめとして貧困、医療、戦争、文化などをテーマに執筆。アジアの障害者や物乞いを追った『物乞う仏陀』(文藝春秋)、イスラームの性や売春を取材した『神の棄てた裸体』(新潮社)、世界最貧困層の生活を写真やイラストをつけて解説した『絶対貧困』(同)、インドで体を傷つけられて物乞いをさせられる子供を描いた『レンタルチャイルド』(同)、世界のスラムや路上生活者に関する写真エッセー集『地を這う祈り』(徳間書店)など多数。







