柄谷行人、雨宮処凛らが緊急記者会見! 反原発デモで警察官が暴行!?

hangenpatsudemo_ust.jpg
記者会見の模様(画像は『USTREAM』より)
「デモでは、撮影しているのが警察官だとは知らず、カメラに向かって楽しそうにピースサインする若い参加者もいましたよ」  作家・雨宮処凛の言葉に、国内外の記者で埋まった会場が笑いに包まれた。  9月29日15時、東京・有楽町の日本外国特派員協会で、反原発とデモの自由を訴える「『デモと広場の自由』のための共同声明」を発表する記者会見が行われた。壇上には雨宮氏の他に、起草者である柄谷行人(文芸評論家)、鵜飼哲(一橋大学教授)、小熊英二(慶応義塾大学教授)という、日本のアカデミズムを代表するメンバーが顔を揃えた。  この声明の内容は、東日本大震災による福島第一原発事故が、すでに片づいたかのようにふるまう政府や経産省、東京電力の姿勢に加え、反原発デモを妨害する警察と、それを報じないマスメディアの姿勢に抗議するというものだ。  会見の冒頭、柄谷氏が声明を紹介するなかで、6月~9月に行われた「原発やめろデモ」に自らが参加した理由を語った。 「1980年代後半以降、それまではさかんに行われていた反原発デモがなくなり、マスメディア含め原発賛否の意思表示ができなくなってしまいました。こうした状況と、現在54基もの原発が日本に存在するという事実は、決して無関係ではありません。また、今回の震災では、被災地の方々の冷静なふるまいが海外メディアから賞賛を受けましたが、私は『なぜ日本国民は異様なほど怒らないのか?』と疑問を感じていました。昔はもっとみんな怒っていましたが、このような風潮はここ20年くらいで形成されました。そこで重要になってくるのがデモです。なぜならデモは、私のような素人や若者など誰もが参加でき、個々人が意思表示を行うことができるからです。つまりデモは国の成熟度を示すのです。そのようなデモに協力するのはとても面白いと思い、参加しました」  次にマイクを握った雨宮氏によると、6月以降都内で5回行われた「原発やめろデモ」の参加人数は計7万人以上にも及び、デモの現場では警察による妨害や参加者への暴行が行われていたという。 「9月11日のデモでは、正式に東京都に申請し承認されていた出発地やコースを、都は当日2日前になって変更を命令しました。当日も、トイレのためにデモの隊列を離れようとした女性を大勢の警官が取り囲み、沿道に出られないようにし、具合が悪くなる人が続出しました。隊列に大勢の警官が強引に割り込み、意図的に混乱状況をつくり出すなかで、警官から暴行を受け負傷した人もいます。結局、公務執行妨害などで12人が逮捕されました。私たちは、日弁連(日本弁護士連合会)に対し彼らの人権救済の申し立てを行う方針を決定しました」  しかし、こうした事実について大手全国紙などは、ベタ記事で短く報じるのみである。本誌がその理由について、今回の会見を外国特派員協会で行う理由と合わせて質問すると、小熊氏はこう答えた。 「記者クラブでの会見だと、国内大手メディアの記者しか参加できないにもかかわらず、彼らが会見内容を報道する可能性も低いからです。海外メディアの皆さんは信じられないかもしれませんが、日本の大手メディアには、『政治とは、政党内や政治家同士の駆け引きであり、一般市民のデモなどは報じるに値しない』という考えが未だに根強いと感じます」  会場の外国人記者たちは、小熊氏の言葉を聞きながらしきりにうなずいていた。  それにしても、会見で起草者たちは一様にデモの重要性を訴えていたが、TwitterやSNSなどネット上のコミュニティも広がり、情報を発信する手段が多数あるなか、なぜデモなのか? 会見終了後に柄谷氏に尋ねた。 「Twitterでの主張は発言者が見えない。つまり人権が伴っていないので、効力は限定的です。しかしデモには参加するのは生身の人間であるため、人権が伴っていますので、国家が最も嫌がります。それゆえ国家は、道路交通の安全などを理由に、デモをやらせまいとしてきました。しかし、国民の基本的人権より道路交通法が優先されるなど、あってよいのでしょうか? これは憲法違反です」  また、同様の質問について小熊氏はこのように答えた。 「デモには体温があるということです。個々人の自由意志で集まったさまざまな人びとが、リアルな行動を共にし、主張を発信することによる効果は、ネットとは比較になりません」  今回の起草者が参加する「原発やめろデモ」は、今後も定期的に行っていくという。 (取材・文=編集部) ●「デモと広場の自由」のための共同声明http://jsfda.wordpress.com/statement/●9月11日「原発やめろデモ」における警官と参加者の映像http://www.youtube.com/watch?v=xnruDaMxPO0
東京原発 [DVD] やめて~。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 「"お祭り"デモは社会を変えるか?」活発化する反原発・脱原発運動に見る現代デモ事情 当代随一の「封印作品」 安全神話を語り続けた禁断の「原発PR映画」上映会が東大で開催! 「正直、自分が受けたショックの100分の1も描けていない」しりあがり寿が見た3.11とマンガの可能性

当代随一の「封印作品」 安全神話を語り続けた禁断の「原発PR映画」上映会が東大で開催!

PDVD_016.jpg
いま現在も、福島第一原発周辺は立ち入り禁止になっているが......。
 3月11日の東日本大震災から早くも半年。いまだに福島第一原発事故の処理作業は終わらない。日本列島の中に人が立ち入ってはならない禁断の地が形成されるSFのような出来事が、現在進行形で続いている。そんな中、前代未聞の原発PR映画上映会が10月30日に東京大学本郷キャンパスで開催される。  「原子力発電と安全神話―原発PR映画を見る」と題されたこの上映会は、東京大学大学院情報学環などが行っている「記録映画アーカイブ・プロジェクト」の一環。このプロジェクトは、消失したり散逸してしまっている記録映画を、収集・保存・公開し、今後の研究や教育のために役立てようという目的で行われているもので、東京大学大学院情報学環、東京藝術大学大学院映像研究科、東京国立近代美術館フィルムセンターが参画している。  これまでも、ダムの建設を記録した『佐久間ダム』(全3部の超大作記録映画。音楽は、芥川也寸志)というダムマニアにはたまらない作品を上映するなど、忘れ去られつつある傑作記録映画を次々と公開している。  今回の上映会では「原子力発電の推進・普及とPR映画が果たした役割」について議論することを目的に、日本初の商用原子力発電所である茨城県の東海原発の建設を記録した『東海発電所の建設記録』、さらに、原子力発電所の安全対策を解説する『原子力発電所と地震』などが上映される予定だ。  また、1976年に完成直後の福島第一原発を取材し「安全神話」への疑問を投げかけたテレビ・ドキュメンタリー『いま原子力発電は...』も上映される。  上映後には、『いま原子力発電は...』を演出した羽田澄子氏や、社会学者の吉見俊哉氏らによる討論も行われる、盛りだくさんの内容だ。  被爆国であり原子力に対するアレルギーがある日本で「夢のエネルギー」である原発建設を進めるべく、電力会社などは膨大な広報活動を行ってきた。映画のみならず、著名人を用いたり、マンガで分かりやすく解説して、原発がいかに安全かを国民に知らしめる活動は繰り返されてきた。  そのことの是非や、原発の是非は別にして、それらの膨大な広報資料は、今や決して陽の目を見ることはない「封印作品」になってしまった。  今回上映される作品も、電力会社などからしてみれば「なかったことにして欲しい」作品ばかり。この機を逃しては、二度と見ることができないであろうラインアップだ。この時期に、この企画を進めた人々を賞賛するよりほかない。  研究者はもちろんのこと、さまざまなマニアにとっても垂涎の作品群であることは間違いない。しかしながら、会場の定員は180名とやや少なめである。早めの申込みをオススメする。 ●記録映画アーカイブ・プロジェクト第7回ワークショップ 「原子力発電と安全神話―原発PR映画を見る」 日時:2011年10月30日(日) 13:30-17:30(開場は13:00) 場所:東京大学本郷キャンパス(赤門横) 福武ホール・ラーニングシアター(B2F) 主催:東京大学大学院情報学環(記録映画アーカイブ・プロジェクト)  入場無料・HPにて事前登録制 <http://www.kirokueiga-archive.com/event/index.html>
(スモールデザイン) smalldesign プルトくん てへっ♪ amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 あの原発でゲリラ撮影を敢行! 原発不安で話題の映画『原子力戦争』が見たい! あまりにリアルな"原発マンガ"『白竜~LEGEND~』突如休載の理由とは? 「原発周辺は宝の山?」商機を求めて"放射線を吸収する菌"に群がる東電関係者たち

「写真はここで生きていたという証」被災者の思い出を取り戻す、被災写真洗浄ボランティア

S11.jpg
 東日本沿岸部を襲った大津波は、多くの家々を飲み込んでいった。そこにあった生活の痕跡はすべて洗い流され、残されたがれきの山々は震災から半年を経過しても、まだ片付け終わることがない。  流されたのは家だけではない。津波被災地を歩くと、それぞれの家庭で大切に収められていたであろう思い出の品々が、がれきと一緒に野ざらしにされていることに気づく。食器やノート、ランドセル、ぬいぐるみ、泥だらけになった生活用品たちは、そのどれもが震災以前にあった生活を思い起こさせる。  そんな品々の中でも、最も強烈な印象を与えるのが、思い出を切り取った写真たち。どんな家の棚にも、記念日を写したアルバムは存在する。観光地での記念写真や、人生で最高の1コマ、仲間たちとのふざけたスナップ。それらを大津波は例外なく飲み込んでしまった。
S6.JPG
S8.JPG
 そんな、思い出の写真を洗浄するボランティア活動が盛んに行われている。8月下旬、秋葉原のアートスペース「3331 Arts Chiyoda」で行われたイベントに足を運んだ。 ■もしかしたらこの人も津波で......   この日、洗浄を行ったのは、津波が逆流した宮城県・名取川河口近くにある名取市閖上(ゆりあげ)地区で回収された写真。このイベントのために、およそ70名あまりのボランティアたちが集結した。アート系施設ということもあり、参加者は20〜30代の比較的若い人々が多い。
s1.jpg
 現像液に浸して絵を浮かび上がらせる写真は、そもそも水に強い構造を持っている。しかし、海水に流され、泥にまみれることにより、微生物を原因とした劣化が進む。すると印画紙にプリントされた写真画像は、ドロドロに溶けたような状態になってしまう。写真の腐食を食い止め、どんな写真かが分からなくなる前に写真を持ち主のもとに届けることが、このプロジェクトの目的だ。  午前10時30分、主催する富士フイルムのスタッフからのオリエンテーリングが終わると、あらかじめ決められていたグループごとに分かれて作業開始。比較的年齢層が若いせいか「真剣に集中して取り組む」というボランティアのイメージとは異なり、どことなく和気あいあいとした雰囲気を感じる。しかし、ある参加者に話を聞いたところ、やはりその心境は複雑なようだ。ある参加者は「もしかしたらこの人も津波で......と考えると怖くなってしまうこともあります」とうつむきながら語っていた。アルバムに収められた写真は人生の幸福な一瞬を切り取ったものが多く、現在とのギャップに耐え切れないボランティアも多いという。
S5.JPG
S2.JPG
 また別の参加者は、この活動に参加する意義をこう語った。「震災に対しては、自分でも何かできないかと、ずっとモヤモヤした気持ちを抱えていたんです。今回、思い切って参加したんですが、やっぱり自己満足なんじゃないかという意識は消えません。ただ、先ほど結婚式の写真を洗浄したんですが、洗っているこちらも幸せな気持ちになりましたね」。  筆者も実際に洗浄ボランティアを体験してみたが、気持ちはやはり複雑だった。筆者が携わったアルバムは、1995年頃に撮影された女の子の赤ん坊の写真。水が染み込んでアルバムに張り付いてしまった写真を丁寧にはがし、筆などで優しく汚れを洗い流し、乾燥させる。見ず知らずの他人の写真を洗浄するのは不思議な気分だが、やはり気になるのは写真に写った人が無事であるかどうか。カメラの前で笑っていた彼女は、今はもう16歳のはず。「死者・行方不明者合わせて2万人」という言葉には、あまりリアリティーを感じられないが、この赤ん坊だった女性だけは無事でいてほしいと思ってしまう。 ■「これで遺影にできます」
S10.JPG
富士フイルム・板橋氏。
 この活動のプロジェクトリーダーを務める富士フイルムの板橋氏は、震災直後からこの活動を開始し、4月にはすでに現地に赴いて写真洗浄を行っていた。「被災地では写真を洗うための桶もなく、冷たい水で手もかじかみ、なかなか作業が進みませんでした」と振り返る板橋氏。それでも、丹念に写真を洗浄し続けた。 「被災された方は『写真を手にすることで、ここで生きていたということが実感できるんです』とおしゃっていました。写真は他のものとは異なり、一度失ってしまったら二度と取り戻すことはできません。できるだけ多くの写真が無事な姿のままで持ち主のもとに戻ってほしいですね」  この活動の意義について質問すると「ある意味でのアフターサービスじゃないでしょうか」とこともなげに語る板橋氏。しかし、被災地でのあるエピソードの話になると、その顔には影が差した。「被災者の方に依頼されて、泥だらけの写真を洗浄しました。きれいになった写真をお渡しすると、『よかった、これで遺影にできます』とおっしゃったんです」。
S3.JPG
S4.JPG
 同社広報の宮田さんは、「ボランティアは3331のホームページでのみの募集だったのですが、Twitterなどで情報が広まり、すぐに定員に達してしまいました。この活動をきっかけとして、写真の価値が見直されたのではないかと思います。いろいろな人に、写真の力を感じてほしいですね」と語る。注目を集める写真洗浄活動だが、この日、70人がかりで一日中作業を行っても、洗浄を終えた写真はアルバム40〜50冊分に過ぎない。被災地に埋もれたままとなっているアルバムのすべてを洗浄するには、まだまだ膨大な時間がかかりそうだ。 (取材・文・写真=萩原雄太[かもめマシーン])
誕生用アルバム 大切なものだからこそ。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 「正直、自分が受けたショックの100分の1も描けていない」しりあがり寿が見た3.11とマンガの可能性 「この身体が、被災者のためになるなら」乙武洋匡 自分の感情よりも、美学よりも【1】 【6.11 SHARE FUKUSHIMA】大破したコンビニでチャリティーライブ 被災地"圏内"に響く歌声

被災地の本当の話を知るべし! 陸前高田市長が見た「規制」という名のバカの壁とは?

IMG_5343_.jpg
 東北地方に甚大な被害を与えた東日本大震災。発生から半年近い年月がたとうとしている今も、復興のめどは見えてこない。死者・行方不明者2,000人以上の被害を出した陸前高田市でも、がれきの撤去にはまだ数年を要するとさえ言われている。同市の戸羽太市長は、著書『被災地の本当の話をしよう -陸前高田市長が綴るあの日とこれから-』(ワニブックス)の中で、復興を阻害するさまざまな法規制の存在を冷静な視点で記している。被災地の復興をことごとく阻む壁の正体とは何なのか。これまで報道されてこなかった被災地の現実について、戸羽市長に語ってもらった。 (聞き手=浮島さとし/フリーライター) ――被災地を取材していますと、どこへ行っても「法律や条例の壁があって何もできない」といういら立ちの声を耳にします。戸羽市長もそれをずっとお感じになってきたのではないでしょうか。 戸羽市長(以下、戸羽) その繰り返しに尽きますね。たとえば、がれきの処理というのは復興へ向けた最重要課題のひとつなわけですが、現行の処理場のキャパシティー(受け入れ能力)を考えれば、すべてのがれきが片付くまでに3年はかかると言われています。そこで、陸前高田市内にがれき処理専門のプラントを作れば、自分たちの判断で今の何倍ものスピードで処理ができると考え、そのことを県に相談したら、門前払いのような形で断られました。 ――県が却下した理由は何なのですか。 戸羽 現行法に従うといろいろな手続きが必要になり、仮に許可が出ても建設までに2年はかかると言うんです。ただ、それは平時での話であって、今は緊急事態なんですね。こんな時にも手続きが一番大事なのかと。こちらも知り合いの代議士に相談をし、国会で質問をしてもらったのですが、当時の環境相も「確かに必要だ」と答弁してくれた。さぁ、これで進むかと思うと、まったく動かない。環境省は「県から聞いていない」と言い、県は「うちは伝えたけど国がウンと言わない」と言う。そんな無駄なやりとりを繰り返すうちに1カ月、2カ月が過ぎてしまう。ですから、どこが何をするかという基本的なことが、この国は全然決まっていないんですよ。 ――そういう場合に、県や国は決して代案を出しませんよね。「ダメ」「無理」で話が終わる。 戸羽 そうなんです。がれき処理に限らないことですが、プランを練り上げて持って行って「ダメ」と言われたら、我々は振り出しに戻るしかない。せめて「この部分は方法論として無理だけど、代わりにこうしたら目的は果たせますよ」と、解決の道を一緒に模索してくれたら、あっという間に決まるんです。よく国会議員の方々は「未曾有の国難」とか「千年に1度の災害」とか口にされていますが、であるなら、千年に1度の規制緩和をしてくれと、未曾有の国難に対応できる法律を早く作ってくれと、3月11日からずっとそれを言い続けてきてるわけです。 IMG_5328_.jpg ――規制緩和といえば、陸前高田市に最近、スーパーマーケットがプレハブの仮設店舗で再開したと報じられましたが、あれも農地転用(農地を農地以外の目的に転用すること。農地法により農水相か県知事の許可が必要)で大変だったと聞いていますが。 戸羽 あれはOKが出るまでに4カ月かかりました。津波で流された量販店さんが、プレハブの仮設店舗で営業を再開してくれると言ってくれまして、食料が枯渇していた時期でしたから、市としても大変ありがたいと。そこで民間の方の農地を借りてスタートしようとなったら、国から「待った」がかかった。その土地は中山間(地域等)直接支払制度が適用された農業振興地域の農地だからダメだ、と言うわけです。ようするに、補助事業で整備した農地なのだから、どうしても店を作りたいなら補助金を返還しろと。しかも農地転用にも時間がかかると。 ――復興の支援どころか邪魔をしているだけですね。何が被災者のためになるかではなく、現行法を守ることにしか関心がない。 戸羽 ふざけるなと言いたいわけですよ。食料の調達は死活問題ですよと、あくまで緊急の仮設の店舗なんですと、いくら言っても「絶対にダメ」としか言わない。それを新聞やテレビで私が言い続けているうちに世論が動き始めて、県を批判する声が高まると、ようやく4カ月たって規制を緩和してもらった。 ――メディアが報じて世論が騒がないと動かない。 戸羽 残念ながらそれが現実です。被災地が生死の境目で声を上げ続け、やっと4カ月たって動く。じゃ、あなたが4カ月前に「絶対にダメだ」と言って守っていたものは何だったのと。許可が出てうれしいというより、逆にガックリきちゃうんですよね。だからよく「一喜一憂」と言いますけど、実感としては「一喜三憂」くらいの印象ですね。 ――それと、これも著書を拝見して唖然としたのですが、ガソリンを送ってくれた省庁が「そのガソリンは自衛隊に触らせるな」と言ってきたそうですね。 戸羽 あれも本当に......。被災直後はとにかくガソリンがなくて、内閣府の東(祥三)副大臣が来られたときに相談したら、彼は行動派ですぐに担当省庁に電話してくれまして、ガソリンがドラム缶で届くことになったんです。その後、自衛隊の連隊長と私と東副大臣で現地を車で回った時に、あまりに壮絶な現場を見た副大臣は「作業も相当危険なものになる」と心配されたんですが、連隊長に「われわれがやりますから大丈夫です」と力強く言っていただき、本当にありがたいと思いまして、話はまとまったわけです。 ――それには当然ガソリンがいるわけですが。 戸羽 そうなんです。それで「副大臣の配慮で明日にもガソリンが届きますから」と連隊長にお話ししたんですが、その日の夜に担当省庁から連絡が入り、ガソリンは送るけど自衛隊にノズルを触らせるなと言うんですよ。 ――何が問題だと言うんですか。この期に及んで危険物取扱資格のことですか。 戸羽 表向きはそうなんでしょうが、簡単に言えば縦割りですよね。自衛隊は防衛省からガソリン送ってもらえ、ということでしょう。そんなこと言ってる場合じゃないんですよ。あの頃はまだ、今生きている人が明日死ぬかもしれないという極限状態で、そこを自衛隊が体を張って助けてくれると言ってくれた。やっとガソリンも届く。そう喜んでたら、その言葉ですからね。担当省庁が言うには、空になったドラム缶を自衛官が片付けるために転がすのはいいけど、ノズルで給油するのはまかりならんと。もう、あきれましたね。仕方なく、危険物取扱資格を持っている方を急きょ探したりと、もう考えられないことがたくさんありましたよ。 ――官僚も官僚ですが代議士も代議士で、現地に来て記念撮影して帰っていった人もいたとか。 戸羽 そういう方はかなりいました。職員から「○○さんという代議士が見えています」と言われて行ってみると、初めてお会いする方が「市長、一緒に写真を撮ってくれ」と。私とのツーショット撮影が終わったら「よし行くぞ」と帰ってしまった。被災地の現状なんて何にも聞かない。資料一枚持っていかない。中には、破壊された庁舎の前でVサインして記念撮影して帰られた東北出身の議員さんもおられますよ。 ――そういった信じられないバカげたことが、3月の震災以来、被災地でずっと起き続けてきたということが、著書を読むと嫌と言うほどわかります。 戸羽 もちろん、一所懸命な代議士さんもおられますし、フレキシブルに対応していただいた省庁もあります。東北地方整備局(国土交通省の出先機関)の整備局長さんからは、「(大畠国土交通)大臣から何でも対応しろと言われていますから、要望を言ってください」と言っていただき、「本当に何でもいいですか、国交省の業務と関連性がないことなんですが」と聞くと「大丈夫です」と。 ――国交省と関係ない何をお願いしたのですか。 戸羽 その時は棺桶をお願いしたんです。当時はご遺体が学校の体育館に満杯の状態でして。棺桶なんて全然ないので、火葬の際にベニヤの上にご遺体を寝かせ、段ボールで囲むというような状態でした。ご遺族も辛かったろうと思います(編注:戸羽市長も震災で奥様を亡くされている)。 ――整備局は棺桶を手配してくれたのですか。 戸羽 すぐにしてくれましたね。本当にありがたかったです。ですから、すべての議員さんや関係機関をどうこう言うつもりはないんです。ただ、あまりにひどい話が多過ぎるというのも事実なんです。私がこういった批判的な意見を言うと新聞に出ますよね。そうすると記事のコピー持って県の人間が飛んでくるんです。こんなこと言っちゃ困ると。でも、残念なことに言わないと何も変わらないんですよね。 ――そうした中で、復興までの目標年限を、市長は8年と区切りました。 戸羽 もちろん8年で完全に復興するなんて思ってません。とにかく家や職場、交通網がある程度回復し、なんとか普通には住めるという次元までに8年というのが目標です。早いもので、震災からもうすぐ半年がたちますが、がれきがほんの少し減っただけで、事態は何も変わっていないんです。そのことを皆さんに知っていただきたい。これから徐々に報道も減ってくると思いますが、被災地の存在をどうか忘れずに、これからも見守っていただきたいというのが私たちの強い思いです。 ●とば・ふとし 1965年、神奈川県生まれ。東京都町田市育ち。1995年から陸前高田市議を務め、07年に助役に就任。11年2月の市長選に初出馬、初当選を果たす。市長就任の直後に東日本大震災が発生。陸前高田市は甚大な津波被害を受けた。
被災地の本当の話をしよう これが、真実です。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 「この身体が、被災者のためになるなら」乙武洋匡 自分の感情よりも、美学よりも【1】 「正直、自分が受けたショックの100分の1も描けていない」しりあがり寿が見た3.11とマンガの可能性 「自衛隊はスーパーマンじゃない」被災地で活躍する自衛隊員の知られざる苦労

復興報道の影に隠れ、いまだ埋まらぬ「メジャー被災地」と「マイナー被災地」の格差

P1020580.jpg
七夕でにぎわう石巻市内の様子。
 東日本大震災から5カ月が経過した被災地では数々のイベントが開催され、注目が集まっている。中でも、"メジャー被災地"としてその名を全国に知られるようになったのが、宮城県石巻市だ。この夏はディズニーパレードなど、地元自治体以外も協力した大きなイベントも企画された。  このような復興関連のニュース以外でも、震災発生直後から「石巻」という言葉を見聞きすることが多かったのではないだろうか。これまで渡哲也や舘ひろしをはじめとする石原軍団など、多くの芸能人が慰問のために石巻を訪れたと報道されている。なぜマスコミ出現率、つまり著名人の訪問率が高いのだろうか。その最大の理由は交通の利便性にある。  仙台から石巻は、主要幹線道路を走れば1時間以内の距離だ。震災発生後も比較的入りやすいエリアであったため早くからマスコミに取り上げられ、メジャー被災地となった。  このような被災地は他にもある。たとえば釜石、陸前高田、気仙沼、南三陸、南相馬などは震災後に知名度が全国区になっている。こうしたメジャー化した被災地では、救助や支援の車両を通すために道路が整備され、移動ルートが確保されたためにスムーズな移動が可能となり、早くからボランティアや支援を受け入れる土壌ができ上がっていた。 P1020236.jpg  そのため石巻市には、多くの芸能人たちが支援に訪れることができた。被害の大きな石巻に東京から日帰りで往復できるとなれば、現実的な選択肢となるのだろう。もちろん、何らかの形で復興を支援したいという芸能人たちの気持ちは本物であろうが、芸能人のスケジュールと被災地への移動時間を考えて妥協点となっていたことも否定できない。  一方で、芸能人のボランティア活動は地元の人にはどのように映っているのだろうか。石巻市に暮らす30代の男性は次のように語る。 「芸能人の慰問って言っても、避難所とか炊き出しの場所でしょ。すでに自宅で生活を始めている人にとってはあまり関係ないんだよね」  この男性に限らず、芸能人が訪問することに特別な意味を見出していない被災者も少なくない。それでも多くの人たちは「石巻に注目が集まるのはうれしい」と感謝の言葉を口にする。だが、それと同時に、一向に埋まらない復興格差について心配する声も多い。 「石巻が注目されるのはありがたいことだと思っています。でも、せっかく来ていただくならもっとほかの町に行ってもらって、現状をもっと伝えてもらいたいです。こんな言い方をするのも図々しいけど、今は支援を受けないとすべてが回っていかないから」  これは石巻で被災した40代男性のコメントだが、同様の意見は多くの人から聞かれた。この男性はいまだに安定した仕事に就くことができず、最低限の生活費を稼ぐことすら難しいという。避難所から仮設住宅に入ることができても、その先の生活がまったく見えない状況なのだ。 P1020114.jpg  実際、メジャー被災地であってもまだまだ恵まれた状況とは言えない。石巻市内でも、いまだに電気ガス水道などのインフラが十分に整っていないエリアは多い。これはほかのメジャー被災地でも同じことが言える。  こうした現状と今後の動きについて、どのような対策が取られていくのか。多忙な職務の間を縫って被災体験と被災地のこれからについてまとめた『被災地の本当の話をしよう』(ワニブックス)を出版した陸前高田市の戸羽市長は、「周辺の自治体と連携を始めています。とくに環境エネルギー分野では、周辺自治体との連携は不可欠ですね」と、今後の復興プランについて言及している。ゼロになったからこそできることを模索する姿勢は、今後の被災地にとって必要だろう。  だが、戸羽市長は被災地の現状を指して「まだ、何も始まっていない」と言う。瓦礫が回収され仮設住宅が建ち避難所が解体されたが、これではまだ復興に向けて前進したとは言えない。復興格差を埋めるために行政や被災者がどうすべきなのか、いまだ模索中なのが現状なのである。メジャー被災地ですらこの状況なのだから、マイナー被災地は復興へのスタートラインにすら立てていないことになる。  この格差がマスコミにより作られた要素が多少でもあるのだとしたら、いま注目が集まっていないエリアを知らしめるのもマスコミの役割だろう。ジャーナリストの端くれとして活動している筆者としては、そう考えざるを得ない。問題提起すると同時に現状を伝え続けることにこそ、マスコミの役割がある。これは、多くの被災地の人々の願いでもある。  この夏に行われたパレードや各地の祭りなどのイベントだけを注目するのではなく、復興が進む一部の地域といまだ復興の兆しすら見えない地域があり、先の見えない生活、現実的に必要なお金の心配がつきまとって気を抜く間もない人たちがまだ多くいることを知ってもらいたい。そして、私たちにできる復興支援のひとつに「被災地を忘れない」ことがあるのを心に留めておいてもらいたい。 (取材・文=丸山ゴンザレス/http://ameblo.jp/maruyamagonzaresu/
東日本大震災 宮城・石巻沿岸部の記録 DVD 忘れない。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 「南三陸町って、一体どこ?」平成の大合併が復興の足かせになっている!? 【震災5カ月】先の見えない状態がさらに不安をあおる......宮城県石巻市現地レポ 「正直、自分が受けたショックの100分の1も描けていない」しりあがり寿が見た3.11とマンガの可能性

「正直、自分が受けたショックの100分の1も描けていない」しりあがり寿が見た3.11とマンガの可能性

_MG_6148.jpg
 マンガ家・しりあがり寿が東日本大震災以降に描いたマンガをまとめた単行本『あの日からのマンガ』(エンターブレイン)が話題を呼んでいる。震災からわずかひと月後に掲載され大きな反響を呼んだ「月刊コミックビーム」(同)発表作や、朝日新聞夕刊に連載中の時事4コマ「地球防衛家のヒトビト」などが収められた本作。"あの日"から現在進行形で続く信じがたい現実を前に、なぜしりあがり氏は震災をテーマにしたマンガを描き続けているのか。話を聞いた。 ――「地球防衛家のヒトビト」では3月14日掲載分から震災をテーマにマンガを描き続けていらっしゃいますが、創作意欲は衝動的に湧いてきたものだったんですか? しりあがり寿(以下、しりあがり) 11日に地震が来た後、すぐに描き始めたんです。衝動的でもあったし、「地球防衛家のヒトビト」という時事ネタを扱ったマンガを描いているのだから、描かないわけにはいかなかったんです。 ――震災から1カ月後には岩手県でボランティア活動をされたそうですね。その前後で、描く4コママンガに何か変化はありましたか? _MG_6061.jpg しりあがり ちょっと吹っ切れた感じはありました。僕は小心者だしボランティアとかガラじゃないけど、被災地に行かずに想像だけで描くっていうのは、どこか気が引けてしまって。本当に描いていいのかな、とか、被災者の気持ちはどうなのだろうとか思うけれど、でも描かなきゃいけない。どうしたらいいんだろうとモヤモヤしていたんです。でも実際に現地に行ってみると、たとえ2~3日でも、この目で見たことはウソじゃない。ストーリーがなくてガレキだけしか描いていない回もあるんだけれど、あれはしょうがないよ。何も浮かばなかったんだもの。あれしか浮かばなかった。 ――「コミックビーム」に掲載された短編「海辺の村」は特に大きな反響を呼びました。震災から50年後の未来を描いたこの作品ですが、「いつ失われるか分からない不安の中で豊かな生活を送ることをやめ、いつまでも続く幸せを選んだ」という一節はすごく印象的でした。まるで昭和30年代に戻ったかのように人々はつつましやかに暮らし、福島第一原発の周辺は風力発電でいっぱいになる、という風景は、現在のしりあがりさんが思い描く、理想の未来なのでしょうか? しりあがり 「海辺の村」は、3月20日くらいから描き始めたのかな。あのエンディングは僕の理想の未来というわけじゃなくて、消去法みたいなもんだよね。今までは、"幸せの中の不安"というのをテーマにマンガを描くことが多かったんだけれど、この時は逆だった。どこを向いても不安だらけだから、せめて希望を描かないといけないなって思ってね。で、その時点で自分なりにいろいろ考えたら、希望ってやっぱり、50年先まではないなって思ったんです。すぐは無理でも50年くらいのスパンで考えれば、下降から反転する可能性はあるかもしれない。再生エネルギーがうまく行き出すとか、それによって災害や放射能だけでなく戦争の不安からも解放されるような。戦争って結局は資源の取り合いだから、それがなくなるって希望じゃない? 逆に言うと、そこまでいかないと希望を見つけられなかった。みんなが明るく楽しくやっている時は「ちょっとどうなのよ?」って言いたいし、ヤバくなると、希望を見つけなきゃって思う。そういう意味では、僕は相当なへそまがりだよ。
anohi01.jpg
『あの日からのマンガ』「地球防衛家のヒトビト」より
――マンガというのはフィクションなわけで、もっとハッピーなエンディングにしようと思えばできたはずですが、ものすごくリアリティーのある形に落とし込んだのはなぜなんですか?  しりあがり 僕のマンガって、自分ではすごくリアリズムだと思っているんです(笑)。たとえば、シュールレアリスムって、ダリとかあり得ない光景を描いているけれど、ある意味、人の意識の中まで入ってきているから、見えるままの風景を描くよりもリアルでしょ? 不安な人にとっては、そういう風景の方がリアルだったりする。そういう意味では、常にリアルに描こうと思っているし、ずっと追求しているつもりでいるんだけどね。  マンガって割とファンタジーが多いけど、ファンタジーにしてもどこか現実に足場がないとリアリティーがない。僕は現実方向にもう一歩近づきたいなという気持ちがあって。10年前、9.11が起こったときにそれをテーマにしたマンガってあまり目にしなかった。文学とか音楽がそういう社会と連動するのに、それに比べてマンガってちょっと鈍いなって感じがして。力があるのにもったいないなって。僕は「くだらないもの」が大好きだけど、「くだらないもの」も「ファンタジー」も結局ある程度世の中が豊かで安定してないと成立しない気がしていて。だから少しは社会にコミットする必要があると思っているんです。そこにこの震災だからなー。  でも正直、自分が受けたショックの100分の1も描けていない気がするんです。だから期待して読まれるとすごく困る(笑)。そんなたいしたこと描いていないというか、その都度その都度の断片でしかないからね。
anohi03.jpg
『あの日からのマンガ』「海辺の村」より
――いま振り返ると、もうちょっと違う描き方ができたんじゃないかと? しりあがり うーん、やっぱり僕の力じゃ......っていうところもある。手を抜いたわけじゃないし、その時は一生懸命だったけれど、もっと絵がうまくてストーリーがうまい人が描いたら違うものが描けただろうし。逆にこれがきっかけになって、みんないろいろ描けばいいと思う。1,000年に1度の大地震だよ? 後世の人は、この地震が記されたマンガをいっぱい読みたいんじゃないかな? (ページをめくりながら)懐かしいね、今見ると。なんで僕、こんなに絵がヘタなんだろう?(笑) もうちょっと上手だったら泣けるのに......。泣けるシーンなのに、なんか笑えちゃうんだよね。 ――作品によってそれぞれ違うと思いますが、誰に向けて、どういう立場で描かれたんですか? しりあがり 特別に誰かに向けて描いたというよりは、それぞれの連載の一部分なので、それまでのシリーズの中で描いたっていう感じですね。しょせん、自分目線からは逃れられないし。 ――自分の気を静めるために描いていたという部分もあるんですか? しりあがり それもあるよね。さっき、希望というか未来を探したって言ったけど、それは自分のためだよね。モヤモヤとしていることを定着させることで落ち着くというか、踏ん切りがつくんじゃないかな。作品として描くことで、自分の体から切り離される感じ。変な話、例えば僕の身内に不幸があったとしても、僕は作品を描くと思うよ。 ――今回のマンガにはどれも、政府や東電に対する怒りの表現はありません。しりあがりさんご自身としては、今回の震災や原発に対して憤りはないんですか?
anohi02.jpg
『あの日からのマンガ』「川下り双子のオヤジ」より
しりあがり 本の中で「大きな賭けに負けた」っていう文章を書いているんだけれど、僕はまさかこんな大きな地震は来ない方に賭けていた。危険を訴える人がいるのは知っていたけれど、まさか原発が爆発するなんてことにはならない 方に賭けていた。誰が悪いというより、日本まるごと「しくじった」という思いが強かった。  マスコミや政府を批判するのも大切だけど、結局真実もウソもひっくるめて不信感に包まれただけじゃ元も子もないからね。代わりに信頼できる情報が出るようになったかというと、そんなに簡単な話じゃない。こうなったら怒っているよりも、小さなコミュニティーでもつくって、大切な人たちと生きていけるような仕組みをつくる方に力を使ったらいいんじゃないかと思ってしまう(笑)。 ――原発事故はまだ収束していないし、日々、放射能汚染が目に見えるかたちで表れてきています。現在進行形の問題をフィクションにして描くことには、作家として相当の覚悟があったと思うのですが。 しりあがり やっぱり怖かったですよ。だって、描いていることが変わっちゃうかもしれないから。3月下旬に描いたものが4月10日くらいに発売される間に致命的な爆発が起こるかもしれなかったし、状況は刻々と変わっていくから。それに、今回の震災は地域によって受け止め方に差があって、誰かの共感は呼ぶけれど別の誰かの反感を買う恐れもある。でも、描かざるを得ない感じだったなー。マンガのルーツにはポンチ絵とか風刺マンガとかもあるんだけれど、あれって写真の技術がそこまで普及していなかった時代に、従軍マンガ家が描いていたのが元だったみたい。戦場の様子をスケッチして新聞に載せる。マンガはジャーナリズムの一端を担っていた。そういう意味では、そこにあるものを描くっていうのは、基本っていう感じがしますね ――なるほど。実はそれとはまた別の視点になるんですが、想像を絶するような恐ろしい「現実」と向き合うには、やっぱり何らかのフィルターが必要だと思うんです。その役割の一端を、マンガも担えるということを証明した作品なのではないかという気がしています。不謹慎だとか自粛とかいう言葉がはびこる窮屈な状況の中で、「フィクションとして震災を捉える」という視点は、ひとつの風穴を開けてくれた。エンタテインメントとしてだけではない、マンガの新しい可能性を見せてくれたのではないかと。 しりあがり 「エンタテインメントって何か?」って、これも難しいけれど、僕は30年くらいマンガを描いてて、常にマンガの可能性を広げていきたいというのはあった。マンガって、コマがあって絵があって、そういうシンプルなものから広がって無限の可能性があるじゃん? ストーリーを入れなくたっていいし、何をしたっていい。最近、美術館で絵を描かせてもらう機会もあるんだけど、それって自分ではアートではなく、マンガの延長線上にある気がしているんです。 ――帯には「『たとえ間違っているとしても、今描こう』と思った」とありますが、このマンガを通して伝えたいメッセージとはどんなものなんでしょうか? しりあがり メッセージはないんです。今までの作品は何か伝えたいことがあってそのためにマンガを描くみたいなところがあったんだけど、今回は断片ばかりだから。もう、「あの時、自分はあんな想いでした」という記録でしかない。それぞれの作品に深みとかひねりや表現としての新鮮さがあるわけじゃないし、そもそも面白いとかうまいとかいうものではない。だけど、迷ったり、混乱したりしながらその都度描いたマンガは少なくとも「ウソ」じゃない。「確かにあの日からマンガを描いた」という証のようなものです。正直、1冊の本として出版するには自信がなかったんです。でも僕の周りの信頼している何人かが「これはいいよ」って言ってくれて、それで世に出してもいいかなって。これからも震災をテーマにした作品は描き続けたいなという思いはあるけれど、そろそろ本当に力がある人が描き始めるんじゃないかな(笑)。 (取材・文=編集部/写真=後藤匡人) ●しりあがり・ことぶき 1958年静岡市生まれ。81年多摩美術大学グラフィックデザイン専攻卒業後キリンビール株式会社に入社し、パッケージデザイン・広告宣伝等を担当。85年単行本『エレキな春』でマンガ家としてデビュー。パロディーを中心にした新しいタイプのギャグマンガ家として注目を浴びる。94年に独立後は、幻想的あるいは文学的な作品などを次々に発表、マンガ家として独自な活動を続ける一方、近年ではエッセイ・映像・ゲーム・アートなど多方面に創作の幅を広げている。
あの日からのマンガ あの日からの記録。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 「福島から、一緒に未来を歩いてゆく」詩人・和合亮一 その言葉とともにあるもの 「なぜ"24時間ニュース番組"がない?」デーブ・スペクターが日本の震災報道を斬る! 「この身体が、被災者のためになるなら」乙武洋匡 自分の感情よりも、美学よりも【1】

【震災5カ月】先の見えない状態がさらに不安をあおる……宮城県石巻市現地レポ

ishinomaki00.jpg
商店街から数分歩いただけで手付かずの光景。
 東日本大震災発生から5カ月が経過する中、いまだ震災のつめ跡が深く残る宮城県石巻市。地震と津波によって、死者数は3,153人、行方不明者849人(8月11日現在/県発表)という甚大な被害を受けた。駅周辺には、石ノ森章太郎の「石ノ森萬画館」があり、「いしのまきマンガロード」として『仮面ライダー』『サイボーグ009』などのキャラクターの像が立ち並ぶ。だが、商店街にはいまだに手付かずの商店などが多数あり、街中にまだ津波で流されたヨットが放置されている。
ishinomaki_a.jpg
内科医院までもが3.11のまま。
ishinomaki01.jpg
津波が人々の営みを一変させた。
 駅付近の飲食店の男性店主にその理由を尋ねると、「手がついてない家や店は、家主がまだ消息不明だから。見つかってないと、行政もどうすることもできない。誰も手を出せない」と言う。壁がはがれかけ、"落下注意"と書かれた家もまだあるが、しばらくはまだこの状態が続くようだ。
ishinomaki02.jpg
いつはがれてもおかしくない危険な状態のまま。
ishinomaki_b.jpg
大きく景色が変わった日和山からの景色。
 店主が営む飲食店は、昨年12月に開店したばかりで、開店資金を支払い終わらないまま、3月11日に震災が発生。店主は「まだオープンしたばかりだし店をやるしかないから、4月18日から再開しました。最初はガスが来てなかったから、ホットプレートでたこ焼きを焼いて、カセットコンロでうどんを作って出していた。でも、店舗や事業所には今のところ震災の救援金などが出ないんですよ。仙台市や気仙沼市は知事権限だけど、石巻市は市長権限で状況が違う。市の対応も後手後手に回っている」と状況を語った。  駅周辺の片付けなどは進んでいるものの、夏休みに入り新たな問題が発生しているという。飲食店に来ていた客のひとりが語った。 「夏休みになって、ボランティアとも冷やかしとも言えない"バカチン"が増えた。手伝いに来てくれたのはいいけど、すぐに『疲れたから帰る』とか文句を言う。観光客も来てくれてお金落としてくれるならうれしいけど、『(被害が)一番ヤバイのどこっすか?』と聞かれたことがあって、そういう無神経な行動はやめてほしい」  交通機関も復旧したことから新たな騒動も起きているようだ。実は震災発生当初に、こんなトラブルもあったという。前出の店主は次のように続ける。 「震災後、被災地のマナーは良かったと報じられたけど、泥棒はかなりあった。ウチの店の片づけをしていたら強盗が来て、店員を強盗仲間と間違えたのか『何かいいのあったか?』と聞かれた。返事をしたら、一目散に逃げていったけど。もう当時は『北斗の拳』の世界みたいでしたよ。コンビニのATMから強盗した若者もいて、それは逮捕された。でも、そういうことは地震が起きた直後だったら言えなかった。直後にそれが報じられていたら、もっと泥棒が増えたかもしれないから」  今だから話せる当時の真相だ。だが、石巻の人々は長い将来を見据えて、やはり不安を抱いているという。地元の女性はこう心情を吐露する。 「みんな不安が増してきていると思います。地震が起きた当初は、がむしゃらに頑張るしかなかった。でも、事態が長期化して、これからどうなるのか分からないという先の見えない不安を抱えていますね」
ishinomaki03.jpg
橋は渡れるものの津波のつめ跡はそのまま。
 長期化への不安、怒りをぶつけられないもどかしさ......。抱えきれない思いを胸にしながらも、石巻の商店街の人々は自ら立ち上がり、別の場所で仮店舗として営業を再開した商店も多い。ある飲食店は、現在は避難所に身を寄せながらも「ここで再建します」というメッセージを店頭に掲げていた。今なお、石巻市では2,600人を超える人々が避難所で暮らすなど、苦境とも言える状況は続いている。これからも日刊サイゾーでは、震災を風化させないように現地の最新情報を伝えていく。
ishinomaki04.jpg
再建を決意する看板。下に小さく「食べに来ます!」と客からの文字も。
東日本大震災 宮城・石巻沿岸部の記録 DVD まだ終わってはいないよ。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 日本一有名になってしまった村・飯舘村村長が綴った"までい"な暮らし 「この身体が、被災者のためになるなら」乙武洋匡 自分の感情よりも、美学よりも【1】 【震災3カ月】「昨日もここで遺体が出た」津波被害の岩手県・陸前高田市 現地レポ(1)

日本一有名になってしまった村・飯舘村村長が綴った"までい"な暮らし

iitate.jpg
『美しい村に放射能が降った
~飯舘村長・決断と覚悟の120日~』
(ワニブックスPLUS新書)
 前例のない原発事故が多くの人々を混乱させている。右往左往する政府や自治体、東京電力、原子力安全・保安院、そして学者や知識人、言論人と呼ばれる人々も例外ではない。ある人は「不謹慎であるけども」という前置きをしながら「原発は現代アートみたいなもの」と皮肉っていた。受け取る側の解釈一つによって、同じ数字が「ただちに健康に影響はない」ものであると同時に「今すぐに避難しなければならない」ものとなってしまう。  ホットスポットであることが判明し、計画的避難区域に認定された福島県相馬郡飯舘村。わずか人口6,000人あまりの小さな村は、突如として日本でいちばん有名な村となってしまった。この村の村長である菅野典雄氏による手記『美しい村に放射能が降った ~飯舘村長・決断と覚悟の120日~』(ワニブックスPLUS新書)が発売された。  阿武隈高地の北部に位置する飯舘村を、3月11日以前に知っていた人はどれほどいただろうか? 美しい自然とおいしい農作物、人間味あふれる人々。「平凡な日本の美しい田舎」と菅野氏が表現するように、そこは数ある小村の一つでしかなかった。本書には、この飯舘村を豊かにするために村長として奔走した彼の日々が綴られている。村の女性たちを海外に送り出す「『若妻の翼』プロジェクト」や、男性の育児休暇促進のために制定した「パパクォーター制度」など、そこには菅野氏が飯舘村のために全力を尽くしてきた歴史があった。  そんな飯舘村の歴史を象徴するような言葉が、「までい」という方言だ。  「真手」、つまり両手が揃った状態のことであり、「丁寧に」「心を込めて」といったニュアンスのこの言葉。それにあやかり、村長は村の生活を「までいライフ」と表現する。飯舘村では村人たちがともに支え合いながら楽しく、美しく、心安らかに歩んでいける暮らしを目指していた。  しかし、3月11日、村を大地震が襲い、降り出した雪とともに放射能が舞い降りた。  住民たちは避難する者、取り残される者、あるいはこの村に残ることを決める者とに分かれた。村長は村に留まることを決意し、「村を残すこと」を最大の目標とする。「放射能の害よりも避難の害の方が大きい場合だってある」と本書で綴っているように、村人にとって、故郷としての村を残すことは、命と同じくらい重要なことだった。  4月11日、計画的避難区域に指定され、1カ月を目安に全村避難を迫られるも、なかなか避難は進まない。避難にあたり、村長が政府に対して粘り強く交渉を続けていたためだ。そのような村長の行動は、「命を危険に晒すな」といった批判を全国から集めた。確かにその批判は正論かもしれない。しかし、避難"後"の村を考えた場合、村人たちの生活を守ることもまた村長としての重要な仕事だった。  6月22日、飯舘村役場は福島市役所飯野支所に開設され、一部の老人ホームや事業所を除き、避難は完了。この避難にあたり、村長は飯舘村に戻るまでの時間を「2年間」と明言した。しかし、この8月にも新たにプルトニウム239の親核種であるネプツニウム239が数千ベクレル検出され、その状況が絶望的であることが改めて明らかとなってしまった飯舘村。本当に「2年間」で村民たちが村に戻ることができるかは定かではない。しかし、村人たちの希望をつなぎ止めるためには「2年間」という約束が必要だった。この数字には、村長の村人に対する「までい」な気持ちが表れている。  『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)で一躍時の人となった社会学者の開沼博氏は、当サイトのインタビューで以下のように語った。 「何か原発について声を大にして主張したがる人に読んでいただければと思います。主張するなと言っているのではありません。その気持ちが圧倒的な「善意」に基づくという自覚があったとしても、実は知らぬ間に暴力や抑圧に転化してしまっていることを受け止めなければならない」  原発事故は、それぞれの立場の違いを浮き彫りにした。東京に住んでいる人/福島に住んでいる人、原発に関連のある人/原発とは無関連の人、子どもがいる人/いない人、それぞれの立場によってそれぞれの正論が存在する。今必要なのは、その正論を別の立場から批判することではなく、立場の違いを尊重しながら、他人の言葉に耳を澄ますことではないだろうか。  「村を守る」ことを仕事とする、菅野村長の言葉に静かに耳を澄ませてみると、東京では想像できない飯舘村の「までい」な暮らしが広がってくる。 (文=萩原雄太[かもめマシーン] ●かんの・のりお 1946年、現・飯舘村生まれ。70年帯広畜産大学草地学科卒業。酪農を営み、乳牛60頭を飼うかたわら、89年から7年間、飯舘村公民館の嘱託館長を勤める。96年10月、村長選挙で当選し、第5代目飯館村村長に就任、以来4期連続で勤める。合併しない「自主自立の村づくり」を進め、小規模自治体の良さを活かした子育て支援や環境保全活動、定住支援などユニークな施策で知られる。「丁寧に、心を込めて、大切に」という意味の方言から取った「までいライフ」を村の暮らしのモットーに掲げる。
美しい村に放射能が降った ~飯舘村長・決断と覚悟の120日~ 東電さん、読んでくれましたか? amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 原発依存症に陥った福島を生んだのは「中央への服従心」だった!? 「私たちはどこへ向かうべきなのか」写真家・広川泰士氏が語る"日本の風景"としての原発  「福島から、一緒に未来を歩いてゆく」詩人・和合亮一 その言葉とともにあるもの

原発依存症に陥った福島を生んだのは「中央への服従心」だった!?

kainuma.jpg
著者の開沼博氏。27歳の冷静な視点が光る。
 未曽有の大震災から早くも5カ月近くが過ぎた。ここに来て、首都圏の人々の注目は、津波による被災地よりも福島原発に多くが向けられていると言っていいだろう。自治体独自に放射線量を測ったり、個人でガイガーカウンターを購入し、家の周辺を測ったり、また脱原発デモを行ったりと。  しかし、そもそもなぜ福島県に原発が作られ、周辺住民がどう感じて生きてきたのかということを知らない「都会の人間」は多いのではないか? 福島県いわき市出身の社会学者・開沼博氏は、震災前の2006年から福島原発に興味を抱き、フィールドワークを重ね、内側から原発問題を考察してきた。その集大成が『「フクシマ論」 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)である。今回、福島と原発の関係、そして震災後の世間の動きについて開沼氏に話を聞いた。 ――そもそも福島原発に興味を持ったのはなぜですか? 開沼博氏(以下、開沼) 最初は2006年の夏前くらいに青森県・六ヶ所村核燃料再処理施設に行ったんです。行く前は「今でも根強く施設立地の反対運動が行われ、施設に嫌悪感を抱きながら声をひそめて生活しているじゃないか」というありがちなイメージを持っていた。しかし、実際にそこに住んでいる人に話を聞いてみると「原燃さん(六ヶ所村核燃料再処理施設の事業者)が来てくれたお陰で生活ができている」「1年の内の半分は出稼ぎに出ないといけない土地だったが、施設が来てから1年中家族と一緒にいれるようになった」と言う。福島に行ってみても、特に原発のある4町(双葉町、大熊町、楢葉町、富岡町)では「東京電力(以下、東電)が来てくれたお陰で」という雰囲気がある。そして、それは今も大きくは変わりません。そういう原発を抱える現地のことは東京から見ていたらわかりづらいことであって、その実態に興味を抱き調査をはじめました。 ――開沼さんは福島県いわき市出身ですが、いわき市ではそういう雰囲気は感じられませんでしたか? 開沼 いわき市民が普段、原発を意識することはそれほどなかったですね。原発のある4町の人々も原発があることは知っているけれども、毎日「原発あるなー、怖いなー」と意識するかと言えば、そんなことはなかった。それは東京の人が「東京タワーがあることは知っているけれども、別に改めて昇ることはない」という感覚に近いのかもしれない。福島の4町には40年間にわたって原発があるわけですから、多くの人にとって「生まれた時から記憶の中に自然とある風景」なんです。 ――本書のテーマは「日本の戦後成長と地方」ですが、このテーマに興味を抱いたのは? 開沼 そもそもの学術的な話で言うと、「成長社会が終わったあとは、どういった社会になるのだろう」ということを考えたかった。「ポスト成長社会」と私は呼んでいますが、これまでもそれを「成熟社会」とか「縮小社会」と名づけて捉えようとしたり、もちろん「成長はまだ終わっていないんだ、そうするためにがんばるんだ」という立場もある。でも、こんなことになってしまったのも含めて、どうすればいいのか考えあぐねているのが実情だと思います。このテーマについて、もうひとつ抽象度を上げると「近代」がテーマになります。社会学は「近代社会とは何か」を問う学問だと私は思っています。しかし、その近代社会が曖昧になりつつある。成長が終わるとは、そういうことかもしれないなと。じゃあ今までの理論で捉えられない近代を、どういう視座から捉えていくことが必要なのかと考えたのが、最初の問題意識でした。そこで考えたのが、戦後の成長を、私が理論的な下敷きとしたポストコロニアリズム(ポスト植民地主義)との関係で捉えていくという方法でした。日本の中央と地方との関係にある種の「植民地性」を見ることで新たな社会の描き方ができるのではないかと思ったんです。 ■地元民には、東電に対する「信心」がある ――福島県は只見川電源開発、常磐・郡山の新産業都市などを誘致しています。かつて貧しかった一帯が地域振興策の中で一番魅了的な原発を誘致したのは、貧困を克服するためというのが一番大きかったのでしょうか? 開沼 原発のある地域が取り立てて貧困だったかというと必ずしもそうではないんです。1950年代、60年代の日本はまだ道路もコンクリートになる途中の「途上国」です。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の世界ですね。その場その場に合った地域開発が日本のあらゆるところで行われていました。たまたま福島県の沿岸地域では、すべての市町村に発電所を置いていくような開発が行われた。発電所は大量の雇用を生みますし、地域開発としては有効でした。そういう流れの中で、たまたま原発が置かれたというのが私の認識です。 ――仮に原子力でなくても良かったということですか? 開沼 原子力でなくても良かったと思います。それが巨大公共事業とか工場などであっても良かったと思います。だから、用地と海水の確保などの条件さえ整えば、どの地域でも福島になる可能性はありました。 ――テレビで見る成長著しい東京と地方ではかなり違ったのでしょうか? 開沼 その当時、日本は豊かであるという幻想ができ始めていました。それはメディアを通して作られていた。ベネディクト・アンダーソンの言葉でいう「想像の共同体」ですね。テレビでは東京オリンピックや『ひょっこりひょうたん島』が流れるのを見ながら、自分たちの想像の中では、日本という国は非常に豊かで、イケイケドンドンであるというイメージがある。にもかかわらず、いざテレビを消して、家の外を眺めてみると、とんでもないクソ田舎であると。当然都会になりたいという欲望が生まれる。そこでスッと差し出されたものが原子力であったんだと思います。 ――本書の中で、そうしたムラと国・中央がaddictional(常用的に、依存的に)な関係になってしまうと指摘されています。addictionalな関係とは具体的にどういうことでしょうか? 開沼 ムラが原発をどんどん欲していくような中毒的な状況を指します。経済的な話が一番わかりやすい。原発は一回置くと、最初はかなりのお金が入るんです。ですが、固定資産税からの税収は年々下がり、一方で金がある時に作った施設のメンテナンス費はかさむ。時間が経つとともに財政的に厳しくなっていきます。減った収入分を埋め合わせるために原発なり関連施設なりをさらに建設してくれということになってしまいます。 ――他の観点だと? monaka.jpg 開沼 本書の中でも触れていますが、一番肝になるのは文化的にもaddictionalになってしまうことです。たとえば、「原子力モナカ」というお土産物が売られていたり、国道沿いに「回転寿しアトム」という寿司屋があったり。東京の人から見れば特異な光景かもしれませんが、地元の人にとっては大きな違和感もなくそれが存在している。それだけ「原子力ブランド」が浸透し、原発と共生する社会が確立していると言える。 ――そうした地域に、原発によって経済的な恩恵を受けている人はどれくらいいるんですか? 開沼 いろんな捉え方がありますが、人口の3分の1から4分の1は原発関連で生計を立てていると思います。その家の人が原発関連で働いていなくても、親戚付き合いや近所付き合いはあるので、なんらかのステークホルダーになってしまう。そう簡単に「原発は危ないから嫌だ」と言える状況ではないんです。原発関連で働くと言っても、今メディアで報じられるように白い服を着てマスクをつけている人だけではなくて、実際にはガードマンの仕事があれば、瓦礫をトラックで運び出す仕事や仕出しの弁当を作る人、原発の中で働く人を相手にした保険外交員もいる。年配の人や技術がない人も含めて原発ではたくさんの人が働いている。 ――ムラと中央がaddictionalな関係になると、ムラが中央に「自動的かつ自発的に服従」するような関係が生まれると分析されていますが?
atomsushi.jpg
開沼 それは何段階かに分けて分析しています。最初の段階では、どうにか自分たちの田舎を都会に近づけるために、他の地域と競い合いながら新幹線や高速道路を持ってくるみたいな形で、中央に対して「自発的な服従」をしていくようになった。それがいつの間にか財政的な問題や文化的な問題でaddictionalになっていき、「自動的かつ自発的な服従」が完成したという風に私は捉えています。ここでのポイントは「服従」が、その言葉から想像しやすいような権力による強引な支配によるどころか、むしろ、服従する側が勝手に権力にひれ伏してしまうという一見奇妙な現象が起こっているということです。 ――こうしたムラと国の服従の関係は日本の他の地域でもみられますか? 開沼 一番理解しやすい例が、財政破綻した夕張市です。かつて賑い日本中に名が通った街が、巨大資本の撤退とともに一気に寂れる。地域と国との間にある種の共依存関係ができている。同じようなことはどこでも起こりえます。 ――そうした服従の中で東電信仰のようなものが果たした役割は? 開沼 それを本書の中では「信心」と呼びました。2000年代の初めに東電で事故や隠蔽事件がありましたが、ある町長さんは「東電を信じて共に歩んでいくことが私たちにとっていいことなんです。それしかありません」と発言している。そして、地元の人も「東電が大丈夫だと言っているから、大丈夫でしょう」と納得してしまっていた。それ故に3.11間際まで原発は維持され続けた。 ――もし福島に原発がなかったら、福島はどうなっていたと思いますか? 開沼 財政状況は現状以上に悪かったでしょう。ただ、原発がなくてもやっていける自治体は他にいくらでもありますから、なにか困ることがあったかというとそれはわからないです。しかし、歴史を振り返れば「原発なき福島」を想像すること自体困難だとも言えます。本書の中でも検討しましたが、明治以来、福島は東京から「ほどよい位置」にあった。明治の初期から水力発電で東京の蒲田まで電気を送ったり、戦中は、石川町でウラン鉱石を採って、日本の原爆開発計画に貢献した。戦後すぐ、只見川電源開発や、映画『フラガール』でも有名になった常磐炭田のように「エネルギーの供給地」として東京の成長を助けていた。東京の成長を常にサポートする役割を日本の近代化の中で福島は担わされてきたんです。 ■デモが起きても「フクシマ」は忘れられる運命!? ――ここからは3.11以降のお話を中心に聞きたいのですが。まず、4月10日には高円寺で脱原発デモが行われ、1万5,000人の人が集まりました。これに対して本書の中では批判的に言及しています。 開沼 いや、やってる方がいるのは全然いいんです。でも私自身は参加する気はない。震災前から労働組合のある党派は、40年間原発反対運動をしてきたわけですね。それが有効な手段ではなかったから原発はなくなっていない。答えは、もう出ています。1万5,000人は確かにすごいと思います。いわゆる「生きづらい若者」にとっては「居場所」として非常に意味があったとは思いますが、脱原発という点では無効だと言わざるを得ない。そして、ただ無効なだけなら放っておけばいいですが、デモ自体がハラスメントにつながりかねないことに無自覚なままになされている故に批判をせざるをえない。「即座に原発をなくせ」ということが、ただでさえ生活が苦しい原発立地地域の人間にとっては仕事を奪われることになる。それがどれだけウザいか。「奇形児を作らせるな」と障がいがある方もデモに参加している中で叫ぶ。新たな抑圧が生まれかねない状況がある以上、手放しでは見過ごせません。 ――1年前、沖縄米軍基地問題では人々はあんなに熱狂していた。にもかかわらず今では誰もそんなことを気にしないままに粛々と問題の処理が進められている、という例を出されていましたが、福島原発もいずれ忘れ去られてしまうのでしょうか? 開沼 それは間違いありません。東電なり経済産業省なり文部科学省の原子力政策を担う部門は、とりあえず福島の原発から放射能物質が出ないように押さえ込みさえすれば、この問題は解決すると思っている。押さえ込んでしまえば、今原発に関心を持つ人も、少なからず、元通りの無関心派になります ――自分たちの生活に直接危害がなくなると関係がなくなってしまう? 開沼 原子力ムラの当事者ではない人の関心は2点に収斂されます。結局、この復旧作業の落とし所はどこなのかということと、出ちゃっている放射能はどんだけ危険なのかということです。その答えがわからないから、イライラしてデモに行ったり、ガイガーカウンターを買って計測したりしている。逆に、その答えがある程度明らかになれば、そこに「日常」が戻ってこざるをえない。もはや原発に関心を持つ理由はなくなっていく。言い方を変えれば、デモを今の規模で続けるためには福島に不幸であり続けてもらう必要がある。これはある面で事実です。「イライラ」をガソリンにして「脱原発」のエンジンを回している。その裏にある「ありものの知識や知識人への信頼の仮託」の構造は、3.11の前も後も何も変わっていません。そして、それは時間の経過の後に形は違えど同じ問題を反復することにつながります。そこから逃れるためには、シンプルに言えば、歴史を見ることであり、東京からは見えにくい現場のリアリティに向き合うことなんじゃないかと思います。 ――いわゆる知識人の発言が右往左往している印象もありますが。 開沼 勝手に右往左往するだけならいい。ただ、必死に逃げてよくわからない言い訳をしたり、よくわからないにもかかわらず、とりあえずヒステリックに脱原発派を煽ったりすることは混乱を増長させるだけ。知らないなら知らないでいい。怖いなら怖いでいい。あとは黙ってればいい。今回の原発を受けての知識人たちの行動、インテリと呼ばれる層にいる人間たちの短絡的な行動が、結果的に一般の人たちの不安をますます煽っているだけなのだとすれば残念です。 ――そういう中で自然エネルギーの話も出ていますが。 開沼 自然エネルギーは悪いと思いません。また、原発の是非の立場を問われた時に「長期的には脱原発に向かうのがいいと思う立場です」と答えておくのが現状のベストアンサーです。どっから弾が飛んできても怪我をしません。でも、少なくとも原発周辺に住む人々にとっては、今食っていけるか否かが重要。今、あるいはこの先に自分たちの生活を支えるものでないなら、どうでもいい。「外野からどうこう語る知識人」ほどの理想主義的な幻想は持っていない。現実を見ている。当然のことです。そして、もとから原発で働いていた人にとっては、得体の知れない幻想に乗り換えろと騒ぎ立てられるより、淡々と原発を動かしてほしいというのがとりあえずの本音。「自然エネルギーを導入すれば新たに雇用が生まれる『はず』です」と言う「善意」ある言葉を投げかけた時に「そんな不確定のことのために人生をかけられません」「それまでどうやって食っていけばいいんですか、生活費あなたが払ってくれるんですか」という問いは当然返ってくる。 ――今後、原発について考えていかなければならないことは何でしょうか? 開沼 まず第一に、成長のために地方を踏み台にしてきたことを認識しなければなりません。本書の中で「2つの原子力ムラモデル」を提示しました。つまり一方には、電力会社や政府を中心とした「原発を置きたい側」=中央のムラ、もう一つは、「原発を置かれたい側」=地方の側の原子力ムラがある。政府叩き・東電叩きをしてカタルシスを得ることに終始するのは無意味。この、私たちが無意識のうちに踏み台にしてきた「2つの原子力ムラ」を変えて行く必要があることを認識しなければなりません。 ――最後にこの本をどんな人に読んでほしいか。また、まだ読んでいない人へ一言お願いします。 開沼 何か原発について声を大にして主張したがる人に読んでいただければと思います。主張するなと言っているのではありません。その気持ちが圧倒的な「善意」に基づくという自覚があったとしても、実は知らぬ間に暴力や抑圧に転化してしまっていることを受け止めなければならない。一言で言うならば、「まず原子力ムラを肯定せよ」ということです。私たちは、原子力ムラの上に乗っかってきたし、黙認しながら生活をしてきた。必死に何かを叩きのめしたい気持ちはよくわかります。ただ、間違いなく、その叩きのめしたいものは、昨日の自分自身の顔そのものです。これまでは改めて鏡に映して意識することはなかったかもしれないけれども、事実としてこういう顔をしていたんだということをまず受け止めなければならない。日本の近代、あるいは戦後成長が無意識的に乗っかってきた基盤がそこにある。不安・不満解消のためのセンセーショナルな反応はすでに一巡しつつある。その先にあるのは愚かな反復でしかない。原子力ムラを一度受け入れる、つまり、それによって成り立ってきた「原発がある幸せ」を無意識的にせよ選択してきてしまっていた、今もいる、ということを改めて捉えなおす必要がある。その後に初めて「原発なき幸せ」についての議論が始められます。  * * *  福島原発関連の本は数多く出版されているが、内側から迫った本は少ないのではないだろうか。福島原発に対する新たな視点を与えてくれることは間違いない。 (文=本多カツヒロ) ●かいぬま・ひろし 1984年福島県いわき市生まれ。2009年東京大学文学部卒。2011年東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。
「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか なぜ? amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 「この身体が、被災者のためになるなら」乙武洋匡 自分の感情よりも、美学よりも【1】 「私たちはどこへ向かうべきなのか」写真家・広川泰士氏が語る"日本の風景"としての原発  「福島から、一緒に未来を歩いてゆく」詩人・和合亮一 その言葉とともにあるもの

「この身体が、被災者のためになるなら」乙武洋匡 自分の感情よりも、美学よりも【3】

IMG_8559.jpg
【1】【2】はこちらから ──やはり、テレビが障害者を映さないことで、乙武さんの『五体不満足』の言葉を借りれば「不便をもって生きている人」がたくさんいるという現状が伝わりづらくなっていると思うんですが、そうした中で乙武さんご自身が思うところを聞かせてください。 乙武 最近それこそTwitter上で「カタワ」という言葉を意図的に使っているんですけど、それに対して、差別的用語だから使うべきではないっておっしゃる方が当然いるんですね。僕の意図としては障害者そのものに対する概念を変えていかなければ意味がないと思っていて、最近、障害者の「害」の字をひらがなにして「障がい者」と表記しようという動きが広まっているじゃないですか。「世の中に害になる」とか何とか。僕はあれ、くっだらないと思うんです。そんなことを言ったら、きっと10年20年経ったら今度は障害者の「障」の字は「差し障る」という意味があるからひらがなにしようという動きが出てきて「しょうがい者」って全部ひらがなになっちゃう。だったらそもそも、全部ひらがなにした「しょうがい者」だって「カタワ」だって一緒でしょ、と。障害者に対する概念が変わってないのだから、どんな言葉を使ったって「これは差別的なんじゃないか」って常に考えてしまう。  例えば「背が高いですね」という言葉は一般的にほめ言葉のように使われますけど、それを言われて傷つく女の子って絶対いますよね。モデルさんやバレーボール選手なら、言われた方も喜ぶかもしれない。だけど、目の前のこの人は傷つくかもしれない。それって、みんな普通にコミュニケーションしてたら気付くことじゃないですか。そういうコミュニケーションが、対障害者になると、目の前にいる相手がどう感じるかということはスッ飛ばされてしまって、一般的に「カタワはやめよう、障害者の害の字は開こう」となる。そんな風に一概に否定するんじゃなくて、手足のある人、障害のない人と接するときと同じように、その人の前で使っていい言葉かどうか考えながらコミュニケーションをしようよっていうのが、僕が言いたいことなんです。 ──よく分かります。ただひとつ難しいのが、障害者本人よりも障害児を持つ親のほうがそういう言葉にデリケートになっていると思うんです。「うちの子を傷つけるな」という母親の気持ちって、やっぱり最強のものであって。個対個で話すときは、もちろん相手を慮ってケースバイケースで判断すべきことなんですが、メディアの中でそういう言葉を使っていくときに注意しなければいけない場面は少なくない。実際に、障害者の親たちからテレビ局にクレームが来る、テレビは過度に自粛する、言葉がなくなっていく、障害者という存在そのものが社会からスポイルされていく、という悪循環が起こっていると思うんですが、乙武さんが「大人になった障害者」という立場から、障害のある子を持つ親たちに言えることってありますか。 乙武 そうですね、もし子どもを守るつもりで言葉に敏感になったり、他に対して過剰な要求をしてしまっているんだとすれば、それが本当にその子のためになるのかということを考えてほしいな、と思うんですよね。そうやって障害のある人を特別視する社会、障害のある人を指す言葉に対してあれこれ考えさせるような、つまりは障害のある人を腫れ物を触るような存在にしてしまうことが、本当にこの後、その子にとって生きやすい社会になるのか。 IMG_8584.jpg  確かに僕がTwitterで発言している内容というのは一見過激に見えるし、障害者をバカにしていると捉えてしまう人がいるかもしれない。でも、僕が言っていることが少しでも実現に近づいたら、絶対に障害のある人の生きやすさにつながっていくと思っているから、わざとそうしているんです。  だから、その瞬間、その痛みだけを考えるんじゃなくて......親なんて、先に死ぬんですよ。その子が、その後の社会の中で生きていくときに、どんな社会になっていたら彼らが生きやすいのかってことを、もう少し視野に入れていただくと、「おまえ、カタワだろ」って気軽に言い合える関係性を他と築けたほうが、僕は絶対に楽だと思うんですよ。 ──そうですね、大人は次の世代に社会を遺さなければいけない。子どもたちの話で言えば、今現在も福島の原発周辺にはたくさんの子どもたちが暮らしていて、彼らは大きな悩みと苦しみの中にいると思うんです。なんで親が引っ越さないんだろう、なんで自分は避難できないんだろう、という中で生きている何十万人の子どもたちに今、私たち、日本の大人たちは何を伝えられるのでしょうか。 乙武 うーん......。なんと言うか、今、福島にいる子どもたちを、まるで地獄にいるように語る人たちがいっぱいいて、もちろん、3.11の前と後だったら、前のほうがいいに決まってるし、原発の近くに住むよりも遠くに住むほうがいいに決まっていると思うんですけれど、とにかく、今置かれている状況の中で常にベストを尽くすということしか言えないな、と思うんですよね。海外に目を向けたときに、もっと悲惨な環境の中で生きている子もいっぱいるし、二十歳まで生きられないという子どももいる。子どもたちの役割と大人の役割はやっぱり違うし、子どもたちは、それがどんな状況であれ、自分のできる限りのベストを尽くす、東京の子どもであれ福島の子どもであれ、ルワンダの子どもであれ、とにかくベストを尽くす。大人は、いかにその子どもたちがベストを尽くせる環境を整えてあげるのかってことなんですよね。その、子どもたちにとってベストの環境が何なのかっていうのは、今きっと議論をしている最中だと思うんですけど......。 ──なかなか答えは出にくい。 乙武 そうですね、うん......。ただその、僕自身のこともそうだし、すべての人間がそうだと思うんですけど、現在地の自分に対して肯定できていれば、そこまで生きてきた時間のすべてがプラスに感じられると思うんですよ。つまり、今僕が幸せだなって思えれば、この手足がないことも含めて幸せなんですよね。もし僕が幸せじゃないって感じていたとしたら、きっといろいろなことに原因を求めて、手足がないから幸せじゃないんだとか、そういうことを言い出していたと思うんです。だからこそ、失ったという事実がもう変えられないんだとしたら、今は深い悲しみの中にあり、大きな喪失感に包まれている中でも、これからの心の持ちよう次第で、数年後、数十年後に、幸せだなって感じられるときがきて、振り返れば、あんなこともあったね、あれがあったから自分は強くなれた、あれがあったから僕はあなたと出会うことができた、そういうふうに、プラスに、少しでもプラスに捉えられるように、これからの歩みを重視していくしかないのかな、ということを感じてますね。 (取材・文=編集部/写真=岡崎隆生) ●おとたけ・ひろただ 1976年、東京都生まれ。早稲田大学在学中に出版した『五体不満足』(講談社)が多くの人々の共感を呼ぶ。卒業後はスポーツライターとして活躍。その後、05年4月より、東京都新宿区教育委員会の非常勤職員「子どもの生き方パートナー」。07年4月~10年3月、杉並区立杉並第四小学校教諭として教壇にも立った。おもな著書に『だいじょうぶ3組』、『オトタケ先生の3つの授業』(共に講談社)など。 Twitterアカウント:@h_ototake
希望 僕が被災地で考えたこと いまできること。 amazon_associate_logo.jpg
amazon_associate_logo.jpg
オトタケ先生の3つの授業 こういう先生に教わりたかった。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 「誰のための自粛なの?」乙武洋匡の"不謹慎厨"に対する思いとは!? 「誰が小人を殺したか?」小人プロレスから見るこの国のかたち(前編) 「"差別用語"を使って何が悪い?」過剰な自主規制にモノ申す!