知事「見てきたから安心」発言も……対話進まぬ神奈川の被災地がれき受け入れ問題

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「対話の広場」はUSTREAMでも配信された。
画面は参加者の質問に応じる神奈川県知事・黒岩氏
 1月30日夜、東日本大震災で生じたがれきの受け入れを表明している神奈川県の黒岩祐治知事は、県民への説明会を横浜市中区の県庁で開催した。こうした説明会は過去2回開かれているが、黒岩知事が県民と直接対話することで県民の理解を得ようという趣旨だったものの、約220人の参加者のほとんどが受け入れ反対の立場なだけに今回も物別れに終わった格好だ。それどころか、参加者からは「論点をそらすばかりで、こちらの質問にまったく答えていない」「全然対話になっていない噴飯ものの説明会」などと批判が相次いだ。  「緊急開催! 黒岩知事との対話の広場」と題されたこの説明会だが、開始早々から場内から怒号が飛び交う騒然とした雰囲気。ヤジで県側の説明も聞こえないほどで、興奮した参加者同士が小競り合いを始める場面も見られた。登壇したのは黒岩知事のほか、神奈川県の担当者や前川和彦・東大名誉教授、被災地の岩手県関係者らだったが、横浜市在住の40代の男性参加者は次のように憤る。 「がれきの処理で生じる放射線量の安全性を訴えるのにレントゲンや飛行機に乗ることによる被ばくを例に持ち出すなんて、今どき子どもだましですよ(苦笑)。とにかく、まず"受け入れありき"の県側のスタンスに不信感を持ちましたね。大体、前川教授なんて原子力安全研究協会の御用学者じゃないですか。黒岩知事にしても『自分は実際に被災地へ行って見てきた。安心だ』と、科学的に無根拠なことを繰り返すばかり。『見てきた』なんて、大体、放射能が目に見えるのかという話ですよ!」  "対話の広場"と謳う割には主催者側の説明ばかりが続き、実質的な質疑応答の時間も短かった。説明会そのものは2時間にわたって行われたが、質疑応答に当てられた時間はわずか30~40分程度。質問は1人1問で3分以内のため、質問者は10人にも満たない上、追加の質問ができないので対話は一向に深まらない。しかも、参加者らの厳しい追及に対して論点をそらし、まともに応じようしないので、彼らのフラストレーションも溜まるばかり。 「質問しようと放射能問題に精通していそうな市民運動関係者が挙手しても、司会者がスルーしていましたからね。面倒臭そうな人は最初からしゃべらせる気がなかったようです。それと、記録のためと称して説明会の様子を撮影していましたが、なぜかヤジを飛ばしたりしている人たちを中心に撮影していました。撮影者も県の職員じゃないような気がしましたね。とにかくイライラばかりが募る説明会で、質問者の口調も自ずと厳しくなってしまい、終盤では黒岩知事もしどろもどろになって答えていました」(同参加者)  黒岩知事側としては、神奈川県民と直接対話することでがれき受け入れに対する不安を払拭しようという思惑があったのかもしれないが、これではまるで逆効果。"シャンシャン総会"を目論んではみたものの失敗して荒れてしまった企業の株主総会のようだった。黒岩知事は「今後も地元のみなさんと膝を突き合わせて丁寧に説明していく」と意欲をみせているが、現状を見る限りでは県民の理解を得るのは困難だといえそうだ。 (文=牧隆文)
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【シリーズ・震災遺体(下)】震災死を受け入れられない遺族

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はこちらから  岩手県釜石市にある日蓮宗の寺・仙寿院。ここの本堂の裏には、約百個の骨壺が収められている。東日本大震災によって亡くなった人々の遺骨だ。被災地には、身元の分かっていない遺骨や、墓が流されて埋められなくなった遺骨が数多くある。仙寿院の住職・芝﨑惠應(55歳)はそれらの遺骨を無償で預かっているのだ。  震災からもうすぐ1年。震災は風化しつつあるが、遺された家族はどんな心情でいるのか。発生直後の遺体安置所や遺体捜索の状況を活写したノンフィクション『遺体――震災、津波の果てに』(石井光太著、新潮社)がベストセラーになり話題を呼んでいる。その舞台となった釜石市における遺族たちの「その後」に迫った。  現在、仙寿院の本堂の裏に並べられた骨壺には、遺骨の入っていないものが少なからずある。  骨壺の中に収められているのは本人の遺影や思い出の品だ。あの日、津波に流されたまま見つかっておらず、遺された家族がせめてもの気持ちとして遺影を入れてお寺に収めているのである。  住職の芝崎は震災発生当初から遺体安置所や火葬場などで鎮魂に関する仕事をしてきた人物だ。『遺体』という本の中でも遺体安置所でずっとお経を読んでいたことが記されている。いわば、震災のすべてを見てきた人物だ。その彼は次のように語る。 「家族が肉親の死を受け入れるには、遺骨が必要です。しかし、未だに多くの遺体が海に沈んだままなのです。遺された家族は懸命に死を受けようとして遺影をつくったり、空の骨壺を用意したりします。しかし、なかなか死を受け入れることはできないのです」  芝崎はそう言って「遺骨を持ってみてください」と言った。その遺骨は、まるで中身の入っていない紙箱のように軽かった。遺影を収めたところで重さを感じることはできないのだろう。 「こんなに軽い骨壺を持ったとしても、肉親の死を認められるはずがありません。そのため、家族の中で意見が分裂してしまうケースもあるのです。たとえば、夫は行方不明の子供の死をいい加減に認めようと思い、息子の葬儀をしたいと思う。そして遺影しか入っていない骨壺を用意して寺へ相談に行く。一方、妻は行方不明の息子はどこかで生きているのではないかと思っている。だから、夫が葬儀をしようとしていることについては猛反対する。こうしたことが夫婦の仲を引き裂いてしまうこともあるのです。遺族は今そうした段階に差し掛かっており、苦しんでいると言ってもいいでしょう」  多くの遺体はまだ海底に沈んでいる。たとえ、見つかったとしても、今は部分遺体であることがほとんどだ。腕や足しか見つからないのである。こうなると、DNA鑑定をしたところで、はっきりとした結果が出るとは限らない。  では、遺体さえ見つかれば家族は死を受け入れられるのかといえば、決してそういうわけではない。遺体発見後も、また別の苦悩が家族を襲うこともある。  釜石市の消防団に、福永勝雄氏(当時・66歳)という人物がいた。地震が町を襲った時、福永氏は自宅にいたが、慌てて外出先から帰って来た妻を残して消防署へ向かった。消防団の副団長であったため、指示を出動しなければならなかったのだ。  津波が釜石の町に襲いかかる1、2分前、消防署の署員や消防団員たちは入り口の前に集まっていた。全員がふと気がついた時、なぜかその場にいた福永は姿を消していた。車に乗ってどこかへ行ったのである。  その瞬間、津波が町を襲った。消防士や消防団員は建物の階段を駆け上がってかろうじて助かったが、町を車で走っていた福永は津波に流されたらしく行方不明になった。  そして震災から約2カ月が経った日、福永は乗っていた車ごと遺体となって発見されたのである。  遺体が発見された時、消防士や消防団員たちは次のように語った。 「福永さんは、きっと津波がくると考えて水門を閉めに行ったにちがいない。それで死んでしまったんだ。彼は町を守ろうとして死んだのだ」  そして彼らは町の恩人として福永に感謝し、その話は英雄談として町中に広まった。  だが、妻の安子さん(62歳)の思いは異なる。遺体が見つかった直後に訪れると、妻は黒い喪服を着て現れた。  仏壇の前には夫の遺体と一緒に見つかった腕時計や財布が砂だらけになって置かれていた。いくら洗っても落ちない汚れは、津波の激しさを物語っている。  妻の安子さんは次のように言った。 「消防団の方々は、夫が水門を閉めに行って命を落としたと言っています。しかし、私はどうしてもそう思えないのです。夫は、私たち家族のことが心配になって帰ろうとしたのではないでしょうか。家族のために死んだ。そう思わなければ、私のような家族が浮かばれないのです」  誰一人として、津波が来る直前に福永が消防署を離れた理由はわからない。だが、消防団員たちは「きっと町のために水門を閉めに行って死んだのだ」と言いたがる。福永を消防団や町の英雄にしたがるのだ。  妻は違う。妻は夫が町の人ではなく、自分のために死んだと受け止めたい。だからこそ「家族を助けに帰ろうとした」と思いたいのだ。  何が正しいわけではない。一人の死を受け入れるには、それを支えるだけの「物語」がなければならないのだ。そしてそれこそが遺された者たちにはもっとも必要になる。それがあって初めて死を受け入れることができるのだ。  だが、福永は未だに消防団の中で英雄として祀られているらしい。『岩手日報』の記事によれば、11月14日に盛岡で消防協会主催の慰霊祭が行われたらしい。岩手県では消防関係者98人が命を落としている。その魂を鎮める会が催されたのである。  遺族430名が参列する中、福永の妻安子さんが遺族代表として感謝の言葉を述べたという。それは次のようなものだった。 「はんてんを着て家を飛び出した後ろ姿が目に焼き付いている。命を張って地域を守ってくれた故人を誇りに思う」(『岩手日報』)  安子さんは地域のためではなく、家族のために命を落としたと思いたかったはずだ。だが、消防協会が主催する慰霊祭では、その思いを殺して「地域のため」と言わなければならなかったのではないか。  そう思うと、遺された人々がいまだに苦しみながら、肉親の死と向かい合っていることがわかるのである。 ●作家・石井光太ら、「震災遺体の現実」を語る【ダイジェスト】 http://www.youtube.com/watch?v=A5btjESRWQY
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【シリーズ・震災遺体(中)】震災後約1年 今見つかるのは部分遺体ばかり

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はこちらから  東日本大震災における犠牲者は、死者・行方不明者合わせて約2万人の人々が犠牲になった。  だが、そのうち身元不明者数は3,000人以上にのぼる。つまり、犠牲者のうち5人に1人は未だに見つかっていないというのが実情なのだ。  そろそろ震災から1年が経とうとしている現在、メディアも人々も一時期ほど震災について語らなくなっている。こうした現状の裏で、膨大な数の身元不明者や、発見されても身元がわかっていない遺体は、今どういう状況におかれているのだろうか。  昨年10月に発売されて瞬く間に9版を重ねたベストセラー『遺体――震災、津波の果てに』(石井光太著・新潮社)。これは岩手県釜石市における震災直後の遺体安置所や遺体捜索の状況を克明に記録したノンフィクションだ。  舞台となった釜石市では、震災の翌朝から廃校になった中学校が遺体安置所となり、毎日何十体という遺体が運び込まれていた。そこで、市の職員による遺体搬送、地元の医師による死体検案、歯科医による歯型確認などが行われ、身元がわかった順に遺族に引き渡されたのである。  市内中心部にある遺体安置所は、約2カ月で閉鎖されることになった。遺体の発見数が減ったことで、後の作業は警察に任されることになったのである。  震災直後に遺体安置所で死体検案を行っていたのは、地元の医師小泉嘉明(当時65歳)だ。小泉は数週間死体検案の中心で働いていたが、4月以降は県外から来た大学病院のチームなどに作業を任せ、自分は町の復興や自身のクリニックの仕事にもどった。  だが、6月頃に大学病院のチームが去ると、再び警察から死体検案の仕事が小泉のもとに回ってきた。津波による遺体は、医師免許を持った者が死体検案を行って死因を解明した後でなければ火葬を行うことができない。それで再び小泉に任されたのだ。  そこで目にした遺体は、震災発生時とは大きく異なっていた。小泉氏は次のように語る。 「震災の直後には多くの遺体が運ばれてきました。ただ、大半が傷ついてはおらず、きれいでした。窒息で亡くなっていたため、体に傷があまりなかったのです。しかし、夏以降に見つかった遺体は違います。がれきや海の底から発見されてくるので、かなり傷んでいるのです。腐敗が相当進んでいるケースもありました」  海に流された遺体は魚に食われたり、ガスがたまったりして傷みが激しい。また、津波とともに流れてくる瓦礫に巻かれているうちにバラバラになってしまうこともある。夏を過ぎて発見されたのは、ほとんどがそういう遺体だったのだ。  しかし、年末から年始にかけて見つかる遺体はさらに悪くなっているという。 「最近の遺体は、全部が残っていることは少ないです。特に海底から発見されるものはそうですね。部分遺体、つまり、手だけとか足だけ、あるいは頭だけという遺体が大半なのです。医師としては部分遺体も一体として死体検案を行わなくてはなりません。しかし、腐敗したそれだけを見ても、死因や性別がわかるはずもありません。発見場所を除けば死体検案書の内容はほとんど『不詳』と書いて提出するのです。あとはDNA鑑定に回されて、身元が明らかになるのを祈ることになります」  かつて自分の患者だったかもしれない地元の人々が部分遺体となって発見される。その死体検案書に「不詳」と書きつづけなければならない作業はどれだけ虚しいことか。  それでも小泉は部分遺体が見つかる度に警察署へ赴き、所見を書かなければならないのである。  部分遺体の身元が明らかになることは決して多くはない。そうなると、部分遺体は「身元不明遺体」となって一カ所に預けられることになる。  遺骨を預かるのは、『遺体――震災、津波の果てに』でも描かれた仙寿院の住職である芝崎惠應(55歳)だ。芝崎は震災の直後、自らの寺が避難所になっているにもかかわらず、ボランティアで連日遺体安置所を訪れた。そして、まだ火葬が終わっていない遺体や、身元のわかっていない遺体に対して読経をしつづけた。  こうした経緯もあり、芝崎は身元不明の遺骨や、引き取り手のない遺体を自身の寺で預かることにしたのだ。  今、仙寿院の本堂の裏には、身元がわかっていて引き取ることができずにいる遺骨が70体ほど、完全に身元がわかっていない遺骨が30体ほど置かれている。芝崎は毎日、これらの遺骨に向かって経を唱えているという。身元不明遺体について、こう語る。 「遺体の損傷が激しくなると、DNA鑑定が有効ではなくなるようです。鑑定結果の数値が80%を超えると身元が確実になるらしいのですが、今見つかる部分遺体は60%前後が多いのです。つまり、なんとなくはわかっていても、確定できないのです。こうした遺体は部分遺体のまま火葬され、部分遺骨となって運ばれてきます。それをうちの方で番号だけふって安置するのです。身元不明遺体なので、名前をつけることができないのです」  しかし、部分遺体でも、稀に後で身元がわかることがあるという。昨年の夏頃のことだ。芝崎は部分遺体として運ばれてきた遺骨をまとめて並べていた。  ある日、男性がやってきてそのうちの一つがDNA鑑定によって妻の遺体だとわかったと言った。だが、遺体は頭部と胴体が切り離されてしまっていて、残りの部分はまだ見つからないのだという。  数日すると、また同じ男性がやってきた。そして、DNA鑑定によって残りの部分遺体も見つかったと言った。調べてみると、頭部の遺骨と、胴体の遺骨は隣同士に安置されていた。偶然隣り合わせになっていたのだ。  男性は安堵した顔をして、頭部の遺骨と胴体の遺骨を両脇に抱えて帰っていこうとした。玄関で靴を履いていた時、男性は突然骨壺を抱えたまま崩れ落ち、妻の名前を叫んで号泣した。部分遺体が見つかったことに対する安堵と、妻を失った悔しさがこみ上げてきたのだろう。  芝崎は言う。 「マスコミは部分遺体についてほとんど報じません。しかし、こうした悲しい出来事は今もずっとつづいているのです。そして、部分遺体は少しずつ増えているのです。おそらく最終的には百体を超す遺体が身元不明のまま残されるのではないでしょうか。お寺はそれを10年間預かる必要があるのですが、その後はどうなるかまったく決まっていません。その頃には人々の記憶から震災や犠牲者のことも忘れ去られているでしょう。また、遺骨が見つからず、骨壺に遺影だけを入れている人もいらっしゃいます。そうしたことが、少しずつ風化していくことがやりきれません」  たしかにあれだけの大惨事があったにもかかわらず、震災の記憶は薄れつつある。  だが、仙寿院では少しだけ明るい出来事もあるらしい。町の人々が身元不明の遺骨を憐れに思い、自らの判断でやってきて花を供え、手を合わせているのだという。年末には50人ほどが手を合わせにきたそうだ。  芝崎は語る。 「先日は、『遺体』を読んだ方が香川県からきましたよ。70代の男性が一人でやってきたのです。あの本で人々がどのように亡くなり、葬られ、今どうなっているのかを知って、『お焼香をあげさせてほしい』と言ってきたのです。もちろん、こちらからもお願いしました」  たしかに震災の風化は避けられないのかもしれない。  しかし、香川県から『遺体』という震災の本を読んで釜石市にきた人のように、心ある人々たちの思いによって、身元不明遺体や部分遺体の尊厳は守られている。  そのような輪を少しずつ広げることこそが、震災を記憶するということなのだろう。
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【シリーズ・震災遺体(中)】震災後約1年 今見つかるのは部分遺体ばかり

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はこちらから  東日本大震災における犠牲者は、死者・行方不明者合わせて約2万人の人々が犠牲になった。  だが、そのうち身元不明者数は3,000人以上にのぼる。つまり、犠牲者のうち5人に1人は未だに見つかっていないというのが実情なのだ。  そろそろ震災から1年が経とうとしている現在、メディアも人々も一時期ほど震災について語らなくなっている。こうした現状の裏で、膨大な数の身元不明者や、発見されても身元がわかっていない遺体は、今どういう状況におかれているのだろうか。  昨年10月に発売されて瞬く間に9版を重ねたベストセラー『遺体――震災、津波の果てに』(石井光太著・新潮社)。これは岩手県釜石市における震災直後の遺体安置所や遺体捜索の状況を克明に記録したノンフィクションだ。  舞台となった釜石市では、震災の翌朝から廃校になった中学校が遺体安置所となり、毎日何十体という遺体が運び込まれていた。そこで、市の職員による遺体搬送、地元の医師による死体検案、歯科医による歯型確認などが行われ、身元がわかった順に遺族に引き渡されたのである。  市内中心部にある遺体安置所は、約2カ月で閉鎖されることになった。遺体の発見数が減ったことで、後の作業は警察に任されることになったのである。  震災直後に遺体安置所で死体検案を行っていたのは、地元の医師小泉嘉明(当時65歳)だ。小泉は数週間死体検案の中心で働いていたが、4月以降は県外から来た大学病院のチームなどに作業を任せ、自分は町の復興や自身のクリニックの仕事にもどった。  だが、6月頃に大学病院のチームが去ると、再び警察から死体検案の仕事が小泉のもとに回ってきた。津波による遺体は、医師免許を持った者が死体検案を行って死因を解明した後でなければ火葬を行うことができない。それで再び小泉に任されたのだ。  そこで目にした遺体は、震災発生時とは大きく異なっていた。小泉氏は次のように語る。 「震災の直後には多くの遺体が運ばれてきました。ただ、大半が傷ついてはおらず、きれいでした。窒息で亡くなっていたため、体に傷があまりなかったのです。しかし、夏以降に見つかった遺体は違います。がれきや海の底から発見されてくるので、かなり傷んでいるのです。腐敗が相当進んでいるケースもありました」  海に流された遺体は魚に食われたり、ガスがたまったりして傷みが激しい。また、津波とともに流れてくる瓦礫に巻かれているうちにバラバラになってしまうこともある。夏を過ぎて発見されたのは、ほとんどがそういう遺体だったのだ。  しかし、年末から年始にかけて見つかる遺体はさらに悪くなっているという。 「最近の遺体は、全部が残っていることは少ないです。特に海底から発見されるものはそうですね。部分遺体、つまり、手だけとか足だけ、あるいは頭だけという遺体が大半なのです。医師としては部分遺体も一体として死体検案を行わなくてはなりません。しかし、腐敗したそれだけを見ても、死因や性別がわかるはずもありません。発見場所を除けば死体検案書の内容はほとんど『不詳』と書いて提出するのです。あとはDNA鑑定に回されて、身元が明らかになるのを祈ることになります」  かつて自分の患者だったかもしれない地元の人々が部分遺体となって発見される。その死体検案書に「不詳」と書きつづけなければならない作業はどれだけ虚しいことか。  それでも小泉は部分遺体が見つかる度に警察署へ赴き、所見を書かなければならないのである。  部分遺体の身元が明らかになることは決して多くはない。そうなると、部分遺体は「身元不明遺体」となって一カ所に預けられることになる。  遺骨を預かるのは、『遺体――震災、津波の果てに』でも描かれた仙寿院の住職である芝崎惠應(55歳)だ。芝崎は震災の直後、自らの寺が避難所になっているにもかかわらず、ボランティアで連日遺体安置所を訪れた。そして、まだ火葬が終わっていない遺体や、身元のわかっていない遺体に対して読経をしつづけた。  こうした経緯もあり、芝崎は身元不明の遺骨や、引き取り手のない遺体を自身の寺で預かることにしたのだ。  今、仙寿院の本堂の裏には、身元がわかっていて引き取ることができずにいる遺骨が70体ほど、完全に身元がわかっていない遺骨が30体ほど置かれている。芝崎は毎日、これらの遺骨に向かって経を唱えているという。身元不明遺体について、こう語る。 「遺体の損傷が激しくなると、DNA鑑定が有効ではなくなるようです。鑑定結果の数値が80%を超えると身元が確実になるらしいのですが、今見つかる部分遺体は60%前後が多いのです。つまり、なんとなくはわかっていても、確定できないのです。こうした遺体は部分遺体のまま火葬され、部分遺骨となって運ばれてきます。それをうちの方で番号だけふって安置するのです。身元不明遺体なので、名前をつけることができないのです」  しかし、部分遺体でも、稀に後で身元がわかることがあるという。昨年の夏頃のことだ。芝崎は部分遺体として運ばれてきた遺骨をまとめて並べていた。  ある日、男性がやってきてそのうちの一つがDNA鑑定によって妻の遺体だとわかったと言った。だが、遺体は頭部と胴体が切り離されてしまっていて、残りの部分はまだ見つからないのだという。  数日すると、また同じ男性がやってきた。そして、DNA鑑定によって残りの部分遺体も見つかったと言った。調べてみると、頭部の遺骨と、胴体の遺骨は隣同士に安置されていた。偶然隣り合わせになっていたのだ。  男性は安堵した顔をして、頭部の遺骨と胴体の遺骨を両脇に抱えて帰っていこうとした。玄関で靴を履いていた時、男性は突然骨壺を抱えたまま崩れ落ち、妻の名前を叫んで号泣した。部分遺体が見つかったことに対する安堵と、妻を失った悔しさがこみ上げてきたのだろう。  芝崎は言う。 「マスコミは部分遺体についてほとんど報じません。しかし、こうした悲しい出来事は今もずっとつづいているのです。そして、部分遺体は少しずつ増えているのです。おそらく最終的には百体を超す遺体が身元不明のまま残されるのではないでしょうか。お寺はそれを10年間預かる必要があるのですが、その後はどうなるかまったく決まっていません。その頃には人々の記憶から震災や犠牲者のことも忘れ去られているでしょう。また、遺骨が見つからず、骨壺に遺影だけを入れている人もいらっしゃいます。そうしたことが、少しずつ風化していくことがやりきれません」  たしかにあれだけの大惨事があったにもかかわらず、震災の記憶は薄れつつある。  だが、仙寿院では少しだけ明るい出来事もあるらしい。町の人々が身元不明の遺骨を憐れに思い、自らの判断でやってきて花を供え、手を合わせているのだという。年末には50人ほどが手を合わせにきたそうだ。  芝崎は語る。 「先日は、『遺体』を読んだ方が香川県からきましたよ。70代の男性が一人でやってきたのです。あの本で人々がどのように亡くなり、葬られ、今どうなっているのかを知って、『お焼香をあげさせてほしい』と言ってきたのです。もちろん、こちらからもお願いしました」  たしかに震災の風化は避けられないのかもしれない。  しかし、香川県から『遺体』という震災の本を読んで釜石市にきた人のように、心ある人々たちの思いによって、身元不明遺体や部分遺体の尊厳は守られている。  そのような輪を少しずつ広げることこそが、震災を記憶するということなのだろう。
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【シリーズ・震災遺体(上)】釜石市、市長たちが語る遺体安置所の光景

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「東日本大震災では政策ばかりが議論される。しかし大切なのは、犠牲になられたご遺体にどう接して、どう尊厳を守るかということだった。そして、それをやってくれていたのが、遺体安置所で働いていた地元の人たちだった」(岩手県釜石市、野田武則市長)  東日本大震災で岩手県釜石市は約1,100人の死者・行方不明者を出した。昨年10月には同市の遺体安置所を舞台にしたノンフィクション『遺体――震災、津波の果てに』(石井光太著・新潮社)が発売。現在九刷のベストセラーとなっているが、その発売を記念して、仮設商店街にある「復興ハウス」で講演会が行われた。  講演会では、野田市長をはじめ、遺体安置所での仕事にかかわった人々が登壇。当時の遺体安置所でくり広げられていた光景について語った。  市長によれば、遺体安置所の設置が決まったのは、3月11日の震災直後だった。津波が町を襲った後、警察関係者が被災した市役所にいた野田市長(当時58歳)のもとへ駆けつけた。 「膨大な数の遺体が出る可能性がある。すぐに遺体安置所を設置したい」  すぐにそれに応じ、5年前に廃校になっていた釜石第二中学校の体育館を遺体安置所にすることに決めた。野田市長は当時の思いを次のように語った。 「波が去った後、町はがれきの山になり、そこにご遺体がバラバラと転がっている状態でした。あっちで2体見つかった、こっちで4体見つかったと次から次に報告が来るのです。一体どれだけの犠牲者数になるか想像もつきませんでした。私としては、がれきの中にあるご遺体の尊厳を守りたいという一心で遺体安置所をいち早くつくったのです」  町で見つかった遺体は、報告があった順から体育館の床に並べられた。棺もなく、毛布にくるまれた状態のままだった。  翌朝の明け方には、岩手県警のチームが到着。9時からは地元の開業医や歯科医が遺体安置所に集結し、停電で明かりすらつかない冷たい体育館内で、死体検案、歯型確認、身元確認作業が行われた。  当時、遺体安置所にいた関係者は、犠牲者数がまさか1,100人にのぼるとは想像もしていなかった。大半の者たちが津波によって沿岸への道が行き止まりになっていたため、わずか3キロ先の被災地まで行けず、何が起きていたのかわからなかったのだ。  だが、この日の朝に秋田県から入った陸上自衛隊が被災地で次々と遺体を発見する。瓦礫をどかす度に、次々と遺体が出てくるのだ。また、地元住民からも「倒壊した家に知らない人の遺体がある」とか「うちの父の遺体が車の中にある」という通報が入った。  急遽、これらの町で発見された遺体を遺体安置所へ運ぶ班が必要となった。  釜石市で遺体搬送を行うことになったのは市の職員だった。遺体安置所の管理や遺体の搬送は自治体の責任で行われていたため、働くのは市の職員になる。  その一人、松岡公浩(当時46歳)は教育委員会に属する生涯学習スポーツ課の職員だった。13日の朝、課長から呼び出され突然辞令を出された。そしてわけもわからぬままダンプカーを運転して被災地へ赴いた。  そこで目にしたのは、空き地に並べられた遺体の山だった。毛布をめくると、松岡の知り合いが冷たくなって横たわっていた。お腹の大きな妊婦もいた。母子ともに津波に飲まれてしまったのだ。  松岡は語る。 「初めは愕然としました。しかし、犠牲者を泥だらけのまま、ここに放置しておくわけにいきません。なんとか家族のもとへ返してあげたい。そういう思いで、3体ずつダンプカーの荷台に載せて遺体安置所へ運びました。しかし、次から次に運ばなくてはならない遺体は増えてくる。一体いつになれば終わるのかという思いでした」  一方、遺体安置所では急ピッチで死体検案や身元確認作業が行われていた。  この時、70歳になる一人の男性が遺体安置所を訪れる。千葉淳だ。彼は民生委員として避難者の支援を行っていたが、膨大な犠牲者が運ばれていると聞いて遺体安置所に駆けつけたのだ。  そこで目にしたのは、体育館の床に隙間もなく並べられた遺体だった。どの遺体も死後硬直し、助けを求めるように手が曲がっていたり、苦しそうに口を開けていたりしていた。家族がこれを見たらどう思うだろうか。  千葉は3年前まで地元の葬儀社で働いていた。自分ならば、遺体の尊厳を守り、家族に引き渡してあげられる。  そう決心すると無償のボランティアとして遺体安置所の管理人をすることになった。  千葉が行ったのは冷たくなった遺体に声をかけることだった。生きていた時と同じように声をかければ死者は尊厳を取り戻す。  毎朝5時半に遺体安置所へ行くと、千葉は一体ずつドライアイスを取り換えながら声をかけた。 「昨日は寒かったね、ごめんね。でも、今日こそ家族が見つけに来てくれるからね。それまできれいでいるために少しだけ辛抱してね」  昼になると、少しずつ家族がやってくるようになる。行方不明の肉親が運ばれてきていないかどうか捜しに来るのだ。家族は次々と肉親が遺体となって横たわっているのを発見する。あちらこちらで嗚咽する声が響く。  ある親は毎日のように安置所にやってきて、生後54日の赤ちゃんの遺体の前で泣いていた。津波に飲み込まれた際、手を離したばかりに赤ちゃんだけ波に飲まれてしまったのだ。親は遺体の前で泣きながらくり返し謝っていた。 「ごめんね。死なせてしまってごめんね」と。  悔やんでも悔やみきれなかったのだろう。そんな時、千葉はそっと傍に寄り添い、こう語りかけた。 「坊やは、ママやパパが助けようとしてくれたことを感謝しているもんな。恨んでなんかいないもんな。天国からありがとうって言ってるもんな」  この言葉によって、遺された両親はどれだけ救われただろう。  千葉は、このように遺体や遺族に語りかけつづけた。死化粧をしたり、死後硬直をほどいたりしながら声をかけたこともあった。そのようなことのつみ重ねでしか、遺族の心を和らげることはできないことを知っていたからだ。  震災発生から約2カ月間、被災地の遺体安置所ではこうした光景が絶え間なくくり広げられていたのである。  2012年、1月14日に仮設商店街の「復興ハウス」で行われた講演会では、野田市長、遺体搬送班の松岡、民生委員の千葉などが次々と登壇。2時間にわたって、当時遺体安置所で起きていたことを生の言葉で語った。  千葉は涙にむせびながら当時をふり返り、松岡は奥歯をかみしめてうつむいていた。生後54日の赤ちゃんを失った夫婦も客席にすわり、涙を流していた。  その前で、野田市長は次のように話した。 「ああいう状況下では、行政にできることは限られています。遺族や犠牲者の尊厳を守ることまで手が回らなくなってしまうのです。また、ルールとしてできることも限られています。しかし、今回の震災では遺体安置所にかかわった一人一人の〈思い〉が足りない部分を補い、傷ついた遺族を支えました。こうした〈思い〉こそが、被災地の復興において非常に大切なことになってくるのです」  あと1カ月強で、被災地は一周年を迎えようとしている。だが、今でも月に何体も遺体が見つかっている。それをささえているのが、地元の人たちの一人一人の〈思い〉なのである。  現在、野田市長は仮設住宅などのインフラを整える一方で、ことある度に遺体安置所の光景が書かれた『遺体――震災、津波の果てに』を読むように勧めているという。先日は岩手県知事にも勧めた。  被害者の心の復興のために必要な〈思い〉を考えてほしいからだという。  テレビや新聞は、遺体の尊厳ということに、ずっと目をつぶりつづけていた。  しかし、被災地では一年が経ち、尊厳についてもう一度考え直そうという動きが生まれつつある。  被災地以外の地域に暮らす人々も、今だからこそ改めてそのことについて考えていかなければならない。
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【関連記事】 ・遺体安置所で遺体と向き合う人々を追った壮絶ルポ『遺体 震災、津波の果てに』「ご先祖様に会ったときに恥ずかしくないように」被災地で死者に語り掛ける納棺師最下層で生きる子どもたちの生の声が鋭く心に突き刺さる『レンタルチャイルド』

「こんな店は存在しないほうがいい!?」放射能測定ショップ「ベクミル」を直撃!

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300万円のドイツ製放射能測定器による水道水の検査結果。
 食品に含まれる放射線量を測定することができる放射能測定器レンタルスペース「ベクミル」が昨年10月、千葉県柏市にオープンした。市民が気軽に放射線量を測定できる店舗として、開店時は15台ものテレビカメラが並ぶほど、大々的にマスコミに報道された。12月には上野店もオープン。人々が放射能に怯えるご時世、開店から3カ月を経てさぞ儲かっているんだろう......と思いきや、意外にも「全然儲かっていません。赤字です」と語るのは代表の高松素弘氏。「当店で使用しているドイツ製の放射能測定機器は1台300万円。現在のところ3,000検体あまりを調査していますが、1検体の価格は測定機器によって980円と3980円の2種類です。正直、まだまだ人件費が捻出できるくらいですね......」 ■放射能測定は行政が行うべき  放射能の測定にはおよそ数万円の費用がかかる検査機関も多くある。放射能測定の価格破壊ともいえるこの料金設定が、そもそも赤字の原因だった。 「ほぼボランティアのつもりで運営しているので、利益はあまり考えていません。そもそも、火事場で儲けるようなことは、あまり人として好ましくないと思っています」
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千葉県柏市のベクミル店内。
ドイツ製の検査機器が並ぶ。
 高松氏は柏市でIT系企業を営んでいる。もともと原子力に精通していたわけでも、市民活動家として熱心に社会運動に関わっていたわけでもなかった。震災前は、一介の経営者だった。 「震災に直面し、小さい子どもがいるので、『家族を守らなくては』という思いから、直後にAmazonでガイガーカウンターを購入したんです。計測してみると、異常に高い値を示しました。3月15日のことです。そこで、検出数値をUSTREAMで中継したら、世界中の人がこのチャンネルを視聴していて驚きました」  もう一台のガイガーカウンターを駆使して、市内のあらゆる場所を測定しはじめた高松氏。しばらくすると、その関心は外部被曝だけでなく、内部被曝にも移行した。そこで、車を買い換えるための貯金を崩し、放射能測定器を購入。片っ端から食品のセシウム含有量を計測したという。この知見を活かし、自身の経営するシステム会社の向かいにオープンしたのがベクミルだ。  意外にも、店舗を開設すると当初見込んでいた小さい子ども連れの母親ではなく、高齢者の利用が断トツで多かった。
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(1)検体の重さを量る。
(2)検体を機器にセットし、
20分待つ。
(3)コメの検査結果。左が
セシウムの含有量。
右は人体に無害なカリウム
の含有量
「お客さんの平均年齢は60歳くらいですね。柏という土地柄か、家庭菜園でつくった野菜や、土を測定される方が多いんです。『孫に食べさせたい』といって、米や野菜などを持ち込んでくるんです。セシウムが検出されずにほっと胸を撫で下ろす人もいますし、もちろんそうではない人もいます」  しかし「本来ならばこういったサービスは行政が行うべきだと思います。こういった店舗があることがおかしいんです」と憤りを隠せない高松氏。 「昨年6月に、市民団体から柏市でも放射線量測定器を購入してほしいという請願が出されていたものの、認められませんでした。そもそも議員の誰も、シーベルトとベクレルの違いすら知りません。放射能測定器を導入するという意味が分からなかったんだと思います」  このような状況から、あくまで行政が動き出すまでの「過渡期」のサービスとしてベクミルを開店。 「対応が後手に回る行政を批判しているだけでは、内部被曝から子どもを守ることはできません。あくまで過渡期のサービスなので、行政による測定環境がしっかりと整う時期が来れば現在の営業スタイルは終わりになるかもしれません」 ■セシウムも"忘年"された?  ものは試しにと、筆者の住む江東区の水道水と新潟産の米を持ち込んで測定したところ、放射性セシウムの値は0.0Bq。日常的に放射線を意識しながら生活を送っているわけではないものの、検査の結果、安全が証明されると、やはり気持ちはほっとする。 「当店としてはお客様が持ち込まれた食品の放射線量を公表することはありません。どの食品がヤバイというためのサービスではなく、あくまでも、市民に安心してもらうためのサービスなんです」
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ベクミル代表の高松氏。
 しかし、昨年末あたりから店舗にはある変化が見られているという。 「クリスマス前から、だんだん利用客が減少して、年をまたぐとそれまでの4割程度の客数になっています。セシウムも忘年会とともに忘れ去られてしまったようですね......」  もちろん、年をまたいだところでセシウムの危険性が消えるわけではない。  今年1月からは、高松氏は個人的に食品の放射線量測定データベース「ベクまる」(http://bq-maru.com/)を公表。こちらは、閲覧者からのリクエストに応じて、全国流通している加工食品を無料で測定、その検査結果をHP上で公開するというサービスだ。  なぜそこまでする必要があるのか。高松氏のその使命感の理由とはいったい何なのか?  「自分でもよく分からないんですが、きっと震災で目覚めてしまったんじゃないでしょうか(笑)。まあ、赤字にならない程度にやっていければと思っていたんですが、営業スタイルを変えていかないと赤字で終わりそうですね」  言葉とは裏腹に、高松氏の表情はどこか晴れやかだ。  原発事故から10カ月。ようやく消費者庁が放射能測定器の150台導入を行い、各自治体で無料検査ができるようになった。そのおかげで、千葉県我孫子市や茨城県取手市では無料で測定が可能となったものの、機器が一台しか導入されていないことから予約待ちの状況が続いているという。柏市でもようやく導入の検討が本格化されてきたものの、放射能という新しい問題に対して、行政の対応はやはり後手に回るばかりだという。「過渡期」のサービス、ベクミルがその役割を終えるのには、まだまだ時間がかかるだろう。 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●ベクミル ドイツ製の機器を使用した放射能測定器レンタルスペース。利用者が自身の手で機器を操作し、食品や土壌などの放射性セシウム含有量を計測することができる。2011年10月、千葉県柏市にオープンしたのに続き、12月には上野にも2号店をオープン。料金は、機器によって、1検体980円と3980円の2種類。 <http://bq-center.com/bqmil/
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【関連記事】 ・「住民票を移すか、子どもを関東に戻すか」原発事故 自主避難家族に迫られる理不尽な選択「原発周辺は宝の山?」商機を求めて"放射線を吸収する菌"に群がる東電関係者たち「井戸端会議で話題にもできない」"ホットスポット"で闘う母親たちの苦悩

閉塞感漂う仮設住宅に革新! "これから"を見据えた『木造仮設住宅群』

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『木造仮設住宅群 3.11から
はじまったある建築の記録』
(ポット出版)
 雪が降りつもる東北地方のプレハブ住宅で新しい年を迎える被災者の様子が、年末年始にかけてテレビ各局で放送されていた。震災から10カ月、いまだ復興の足取りは鈍く、沿岸地域に明かりの灯る家は少ない。東日本大震災で建設された仮設住宅はおよそ7万戸。被災地が広範におよんだこと、津波によって流された家が多かったことなどから、その建設数も前代未聞の数字となった。そんな仮設住宅に対して、今回の震災では新たな試みがなされている。『木造仮設住宅群 3.11からはじまったある建築の記録』(ポット出版)は、前例のない木造による仮設住宅の建設に挑んだ記録である。  木造仮設住宅の建設に取り組み、この本を上梓したのは福島県会津地方に本社を置く建築事務所「はりゅうウッドスタジオ」。本書には、福島県に建設された史上初の木造ログハウスによる仮設建設の様子や、その具体的な工法とともに、そこに住む人々の写真が多数収められている。  震災直後から仮設住宅建設は急ピッチ進められたものの、前例のない需要量はプレハブ住宅の供給量をはるかにオーバーしていた。そこで注目されたのが、木造による仮設住宅。建築費用はおよそ400万円と、プレハブ仮設住宅の300万円に対して割高であるように見えるが、プレハブ仮設がリースであるのに対して、木造仮設は買い取りとなる。つまり、被災者が仮設から別の場所に移ったら、コテージや簡易宿泊所として転用したり、解体して「復興住宅」のための建材としてリサイクルをすることもできるのだ。さらに、使用した木材は福島県産のスギ材が使用されており、震災によって危機的な痛手を負った地場産業の活性化という意味でも効果を発揮する。  仮設住宅は一時避難場所としての住居であり、原則として使用期間は2年間と定められている。だが、入居者の状況によって期間は延長され、1995年に発生した阪神大震災の際は、最長で5年もの間を仮設住宅で過ごした被災者もいた。今回の震災で、福島県はいつ収束するともしれない原子力災害に見舞われており、被災者が仮設住宅を出られるめども立っていない。  プレハブ住宅は遮音性が低く、外や近隣住民の物音が筒抜けとなってしまうことが以前から問題視されていた。また、夏は暑く冬は寒いという居住性は、一般の住宅に比べて快適とはいえない。そんな問題点を抱えた仮設住宅で長期間避難生活をすることは、被災者にとって少なからぬストレスとなるだろう。プレハブに比べ、居住性の面で圧倒的に優れた木造仮設住宅は、先の見えない日々を送る被災者たちに安心感を与えてくれる。木材の温もりが伝わってくるような杉板張りの内装や、そこに生活する人々の明るい表情、本書に掲載された仮設住宅の写真を見ていると、思わずここに住んでみたいという気持ちにすらなってしまう。 ■畑がある仮設住宅  仮設住宅をつくることは、新しい街をつくることでもある。本書には、その町づくりに対する工夫も記されている。  東日本大震災における仮設住宅の建設の際に重要視されたのがコミュニティー機能だった。阪神大震災発生時は、「地域コミュニティー」という感覚が乏しく、仮設住宅で新たな人間関係をつくりなおさなければならない被災者が続出。そのため、新たなコミュニティーからこぼれ落ちた老人たちの孤独死が発生し、社会問題にまで発展した。震災前と同じコミュニティーを維持しての避難生活や、そこでの人間関係の育成も仮設住宅に課せられた任務となった。  「とりあえず住む」という機能面ばかりが重視されてきたこれまでの仮設住宅は、まるで高度経済成長期の公団住宅のように、画一的で表情がなく、閉塞感を感じさせるような住宅だった。今回、はりゅうウッドスタジオでは、木造仮設住宅を建設するにあたり、家の配置を意図的にずらすことによって、画一性をできるだけ回避した。また、菜園スペースや談話室などを設けることによって、住民たちの会話が生まれるような仕組みもつくられている。 「仮設住宅に住む人々が建物をどう受け止めていくとしても、避難したすべての人々の生活が前向きなものでなくてはならず、避難している今現在の生活を容認することから、新しく復興が始まると思う」 本書のあとがきで、木造仮設住宅を設計したはりゅうウッドスタジオの芳賀沼整氏はこう語る。数年、あるいは数十年の単位によって行われる復興計画。一時的な避難場所としてではなく、「これから」に向けた第一歩として木造仮設住宅を建設することは、震災後の社会をつくる第一歩にもつながることだろう。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])
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「住民票を移すか、子どもを関東に戻すか」原発事故 自主避難家族に迫られる理不尽な選択

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この"外側"の人たちの悲劇
 東京電力福島第1原発事故によって、国が指定した区域外から九州や沖縄に自主避難した人々の間に、現地の教育委員会からの"ある通達"が困惑をもたらしている。  これまでは特例措置として、自主避難した家族の児童については住民票を移動することなく現地の学校への通学が認められてきたが、来年度以降はこの"特例"が認められないというのだ。「だったら、住民票を移せばいいだけではないか」と指摘されそうだが、自主避難している母子にとってはそう単純な話ではない。場合によっては、避難先から追い出されるか、関東で離れて暮らす夫との離婚か、の"二者択一"を迫られるケースすらあり得るのだ。  法律上では義務教育の場合、転居を伴う転校の際には住民票の移動が必要。各地の教育委員会によって毎年編纂される学齢簿も住民票をベースに作られるため、転校と住民登録は一体のものだ。自主避難の児童については一時的な措置として、現地への住民登録なしでの通学が認められているが、それ以前に自主避難の母子の多くは住民票を移したがらないという。なぜか。小学生の息子を連れて那覇市に自主避難している横浜市の40代主婦は、こう事情を明かす。 「指定区域外からの自主避難ということで、『避難なんて大げさ』と夫や義父母などの周囲から必ずしも理解があるわけではないんです。避難している多くのママたちは周囲に必死で頼み込んだり、反対を押し切ったりしながら、肩身の狭い思いをして何とかここ(沖縄)で暮らしているのが実情。そんな状態なのに住民票を移したらどうなると思いますか。夫から『そんなにオレと離婚したいのか!』などとなじられたりして、たださえギクシャクしている夫婦仲がさらに険悪になってしまいかねません。教育委員会は、そんな自主避難者たちの事情をまったく分かっていないんです」  実際に、離婚に至ってしまったケースもある。東京から熊本市へ避難して小学生の娘と雇用促進住宅で暮らす30代主婦は、「もともと避難に大反対だった都内で暮らす夫から『住民票を移したら離婚だぞ!』と言われていたのですが、住民票を移さないと住宅から追い出されると匂わされ、教育委員会から半ば脅されるように泣く泣く住民登録したんです。その結果、離婚ということに。子どもの健康を守ることを第一に考えたあげくがこれですからね、本当に原発が憎いです」と憤る。  周囲の猛反対を押し切っての自主疎開に、夫が妻の自分に対する愛情を疑うという感情的なしこりもさることながら、住民票を移せない現実的な事情を抱える母子も存在する。前出の横浜市の主婦もその1人だ。「わたしも夫や姑の反対を押し切って、家出同然に避難したんです。もし、居場所が知られると無理矢理連れ戻されてしまうので、住民票の移動は本当に困るんです」と途方に暮れる。  法律では転居を伴う転校の際には住民票を移動しなければならないと前述したが、もちろん例外もある。DVやストーカー被害などに遭った児童については、当事者と学校、教育委員会などとの話し合いによって住民票を移動しなくても転校が認められるケースもある。自主避難についても、これに準ずると考えてもいいのではないか。 「わたしもそう思っていたんですけど、12月の初旬に教育委員会から手紙が届いて、来年3月末までに住民登録して正式な転校手続きを取るようにと一方的に通告してきたんです。電話で教育委員会に問い合わせても『このままだと4月以降、今の学校に通えなくなりますからね。いいですか、わかりましたね』と非常に高圧的な対応。でも、よくよく話を聞いてみると、3月末までに自主避難中の児童を元の居住地に戻すよう、どうやら国から教育委員会に指示があったようなんです。いずれにせよ、避難者へ事前に何の相談もなく、住民登録をしなければ沖縄から出ていけというのは乱暴だし理不尽すぎます」(前出・横浜市の主婦)  こうした自主避難者たちの憤りに対して、教育委員会はどう答えるのか。那覇市教育委員会に話を聞いた。 「指定区域から避難者と区域外の自主避難者は明確に分けて、後者に関して自主避難を継続する場合には正式な転校手続きを踏まえるように、という文部科学省からの通達が11月の終わりにありました。そうしたこともありますし、やはり法律上でも本来転校には住民登録が必要ですので、自主避難の方々に通知させていただいたわけです。住民登録されていないと、教育委員会としても児童のみなさんの居住地の把握が困難ですからね。もちろん、それぞれ事情がおありでしょうから、個別に相談に乗らせていただくことはあります。ただし、自主避難だからという理由だけで、住民登録なしの通学を認めることはできません」(那覇市教育委員会学務課学事グループ)  「法律で決まっていることだし、自分たちの都合で避難しているわけだから、たかが住民登録のことで文句を言うのは身勝手だとは分かっているんですけどね......」と東京から沖縄市に疎開中の20代主婦は自嘲するが、それは違う。そもそも、自主避難者たちは物見遊山で九州や沖縄へやって来ているのではない。放射能被害から子どもたちを守るために、周囲との軋轢を引き起こしながらもやむにやまれず南の地に避難しているのだ。  確かに行政側の立場からすれば、実際の居住地と住民票の住所が異なるのは福祉手当の支給などの面で多少の不都合もあるかもしれない。しかし、那覇市に居住する自主避難中の児童はたかだか60人程度である。事情を考えれば、大した問題ではないはずだ。那覇市教育委員会も「すぐに行政面で支障があるわけではないのですが......」と認めている。文科省からの指示がなかったら特例措置を継続していたか、という問いにも「まあ、そうでしょうね(笑)」と苦笑する。つまり、これまでの特例措置を唐突に打ち切る必然性は何もないのだ。加害者である東電が本来は破綻処理されるべきなのにさまざまな特例が認められ、あまつさえ存続のために兆単位の税金が注ぎ込まれているというのに、被害者である自主避難者らが法律を盾に住民登録というささやかな特例すら認められないのは、どう考えても理不尽であるし不平等だろう。  12月16日、野田佳彦首相は原発事故の「収束」を宣言した。これには多くの人々が違和感を覚えたが、そこには強引にでも事故を収束させたいという政府の思惑が透けて見える。そして、それは「自主避難を続けたければ住民票を移せ」という文科省からの指示にも同じことが言えないだろうか。避難者らが住民票を移さずに自主避難を断念して関東の自宅へ戻るもよし、住民票を移せば外形上は通常の転校と変わらなくなるので避難を継続してもよし。いずれにせよ、自主避難という政府にとって"不都合な事実"が消えてしまう――。そんなことを勘繰ってしまうのは、うがちすぎだろうか。 (文=牧隆文)
報道写真全記録2011.3.11-4.11 東日本大震災 来年も続きます。 amazon_associate_logo.jpg
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地元紙は"アルジャジーラ"になれるのか?『河北新報のいちばん長い日』

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『河北新報のいちばん長い日 震災下
の地元紙』
(文藝春秋刊)
 仙台市を拠点にニュースを発信し、宮城県内で48万部の発行部数を誇る地方新聞・河北新報。宮城県の世帯数が91万世帯というから、単純に計算すれば県民の半数以上が閲読している計算になる。そんな河北新報社から、震災後の同社の動きを記録したルポルタージュ『河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙』(文藝春秋刊)が発売された。  前例のない震災を経験して戸惑う現場。ガソリンが尽きそうになる中、続けられる取材活動。がれきの中の配達。新聞制作現場からのルポは、あらためて震災の大きさ、恐ろしさを浮かび上がらせる。また、記者として前線に出ることのできない辛さや、前線にあっても被災者を助けられず取材をすることしかできない苦しみ、避難したものの、報道人としてそれが適切であったのかについて悩まされる描写に現れる葛藤は、一介の地方新聞社という枠を越え読者の心を打つ。  震災が起こった当初、「われわれはみな被災者だ」と河北新報報道部次長の鹿又氏は言った。  河北新報では、津波によって支局が流され、販売拠点も多く失った。販売員やその家族たちも犠牲になった。しかし、河北新報が「被災者」と考えるのは、それ以上に「地元」が傷つけられたという悲しみによるものだ。 首都圏に軸を置く全国紙とは、「地元」へのこだわりが決定的に異なる。例えば、震災直後の死者数を伝える見出し。「死者1万人」なのか、「犠牲1万人」なのか、伝える事実は同じであるものの、その言葉が与える印象は大きく異なる。他紙がよりインパクトのある「死者」という言葉を選ぶ中、河北新報は「犠牲」という言葉を選んだ。被災者は「死者」という言葉を受け取ることができないのではないか、という判断だった。  新しいメディアに対して、新聞は「遅れた」メディアであるとされることが多い。ネット上で即時に伝えられる情報とは違い、新聞は毎朝・夕の2回しか発行されず、アーカイブもしにくい。しかし、今回の震災では、その「遅れている」ことが功を奏した。  停電によりテレビもつけられない。携帯電話も不通。急いで避難してきたからラジオを持っている人もごく一部。そのような状況となったときに、新聞の力は発揮された。これまで培ってきた強力な販売網によって避難所に運ばれた新聞の山はあっという間になくなってしまった。人々はそれを手にすると、むさぼるように読んでいた。外がどのような状況になっているのかも分からない。どれくらいの津波が襲ったのかも定かではない。生活インフラの復旧はいつになるのか。いつもは空気のような存在だった新聞のもたらす情報は、被災者にとっては単なる知識以上に死活問題だったのだ。  この20年間にさまざまなメディアが出現したことによって、新聞、特に地方紙の役割もだんだんと変わりつつある。20年前であれば河北新報は宮城県民や一部東北の住民だけを念頭に紙面を制作していればよかった。しかし、インターネットによって配信される記事は、県境を越え、世界中からのアクセスを可能にする。地元の声をそのまま日本中に広めることも可能になった。  ジャーナリストの津田大介氏は自身のメールマガジンで「地方新聞をはじめとするローカルメディアに求められているのは、『どうやって日本のアルジャジーラになるか』という視点ではないか」と語る。震災から月日が経てば、大手メディアはほかのニュースを追い求めて規模を縮小したり、引き上げてしまうことも多い。しかし、仙台に本社を置く河北新報には当然引き上げる場所はない。「あそこ」で起こった震災ではなく、「ここ」で起こった震災として、今でも被災者に寄り添った報道を続けている。それは、全国をカバーする大手メディアにも、組織を持たない個人が発信するTwitterやブログにも真似できない「報道」のあり方なのではないか。  本当に、新聞は「遅れた」メディアなのだろうか? (文=萩原雄太[かもめマシーン])
河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙 報道とは何か。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 ・遺体安置所で遺体と向き合う人々を追った壮絶ルポ『遺体 震災、津波の果てに』地震、津波、原発事故......それでも続く、日常を生きる意味『神様 2011』「僕たちが住んでいる社会はやっぱりおかしい」小説家・高橋源一郎と3.11
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「僕たちが住んでいる社会はやっぱりおかしい」小説家・高橋源一郎と3.11

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 高橋源一郎の最新作『恋する原発』(講談社)は、「不謹慎」の塊のような小説だ。「3.11のチャリティーAVをつくる」「靖国神社は韓国も中国も関係なく祀られるようになった」「学校では文字を教えずに、セックスを教える」などなど、軽妙な語り口ながら、そこには思わず眉をひそめてしまうような描写が連発されている。世間の自粛ムードをまるで無視したかのようなその不謹慎さは、作家からの挑発にも読めてくる。  どうしてこんな小説が生まれてしまったのか? なぜ、彼はこの作品を書かずにはいられなかったのか? そして、ここに描かれているものは、一体何なのか? 高橋氏を直撃した。 ――そもそも、この小説はどのような意図で書かれたものなのでしょうか? 高橋源一郎(以下、高橋) 10年くらい前に、『群像』(講談社)で、『メイキングオブ同時多発エロ』という小説を2年くらい連載していました。これは2001年に発生した9.11米同時多発テロのチャリティーAVを作るという話でした。でも、全然うまくいかず、途中で連載を終わらせてしまった。その後、ずっと寝かせておいたんですが、この小説を途中で止めた理由がずっと分らなかった。でも、3.11が起こって、これを書けなかった理由が分かったような気がしたんですね。 ――「書けなかった理由」というのは? 高橋 ひとことで言うと、9.11は他人事だったからです。だから、逆にすごく真面目な小説になってしまった。でも3.11は僕もある意味で当事者と言える。だからこそ、「原発なんて関係ないよ」とか「被災地なんて知らん」とも堂々と言えるんです。「しょせん他人事ですよ」と言えるのは、実は自分が"外"ではなく"中"にいる時なんです。そういう発言をすれば、当然、問題になるでしょう。何を言っても問題が発生するというのは、非常にいいことです。言論とはそういうことなんです。 ――ご自身の"事件との距離感"というものが左右した、と。 高橋 3.11から最初の数日間のこと、覚えてます? 結構、明るかった。ニューヨーク・タイムズに東浩紀や村上龍とともに寄稿したんですが、論調はほぼ同じでした。「すさまじい被害にあったけど、国民はパニックに陥っていない。日本には閉塞感があったけど、これを機会に変われるかもしれない」。でも、そんな空気もいつの間にかもとに戻ってしまい、前よりひどくなってしまう。 ――どういった部分で、前よりもひどくなったと感じますか? 高橋 暗くなってると思います。僕はTwitterをやっています。3.11の前のTwitterはまったりしていて、つまんないことを言える空間だったんです。でも、3.11以降、Twitterが「戦場」になってしまった。他人を攻撃するような言論が多くなり、みんながそういう相手を求めるようになった。 ――「まったりする」余裕がなくなったことによって、他者を攻撃するようになってしまった。 高橋 もともとそんなに余裕はなかったんだけど、なんとなくあるような気がしてたんですね。「お金ないし景気悪いし、嫌だよね」と言いながらも、カタストロフィーは起こっていなかった。  例えば、ある家族がいたとするでしょう。楽しく暮らしていたんだけど、ある日、お父さんの浮気がバレた。おじいちゃんの多額の借金がバレた。お母さんは難病だった。子どもは非行に走っていました。みんな実は隠してたんだけど、1つバレたらみんなバレちゃった(笑)。そうしたら「浮気したのはお前が悪いんだ」「よかれと思って借金したんだ」と罵り合いになってしまう。今回は、お父さんがラブホテルの鍵を落としたから発覚したんだけど、落とさなくても、遅かれ早かれ、すべて分かるはずだった。 ――まさに、みんなが犯人探しのために互いを攻撃し合っているような雰囲気ですね。 111130bt_0031_bw.jpg 高橋 みんな、「自分は悪くない」と言いたいんです。誰かをディスる言論の中身は、「誰が悪い」っていうことと「俺は悪くない」っていうことの2つでできています。政府が悪い、エネルギーどうするんだって。沈没船の中で「誰が船を壊したんだ!」と首を絞め合いながら沈んでいくんです。 ――つまり、高橋さんの見方としては、3.11以降、何かが変わったわけじゃないんですね。 高橋 もともと日本の社会には展望などなく、破滅を先伸ばしにしていただけなのかもしれない。原発って、その意味でとても典型的ですよね。放射性廃棄物をどうするんだという問題があったのに、「なんとかなる」って言い続けてきた。原発から出たゴミは東北のどこかに置いて、その代わりに金をばら撒いておけば、あとはもう知らない。沖縄の米軍基地も同じ構造ですよね。だったら、東京に置けばいい。基地も原発も全部東京に置いたら地産地消でしょ(笑)。成田を米軍基地にして、皇居や国会議事堂の地下を原発にすればいい。そうしたら厳重に管理するようになるでしょう、怖いから。 ■「ヤバいものを見せない」という社会構造が創造力を奪う ――そのような現状認識で書かれた『恋する原発』ですが、作品自体はネガティブになることなく、とてもポジティブです。こうなったのは必然性があったのでしょうか? 高橋 小説は楽しくなきゃいけないと思います。今回の目標は「笑い」でした。怒りや悲しみにも、いい面はあります。けれども、それらは直截的な感情だから、思考停止になったり何も見えなくなってしまうこともある。「笑い」は俯瞰的になるんですよね。どんなことでも距離を取ればおかしいでしょ? 下がれば下がるほど、いろんなモノが見えてくるんです。 ――いわゆる「カメラを引く」ような作業ですね。 高橋 血まみれで、倒れている人がいたら胸が痛む。けれども、カメラが下がっていくと、それは映画かもしれない。さらに下がれば「目指せ、(芦田)愛菜ちゃん」とか言っているママがいるかもしれない。  カメラを引いていくことは、周囲を「認識」をしていく作業なんです。騙されてて本当に馬鹿だったねと、自分を笑うこと。そうしないと、今のこの空気に対抗できないだろうと思ったんです。 ――一方で、『恋する原発』では、作品中に「服喪」についての言及もなされています。震災によって2万人が命を落とした今、死を考えることによって何を見いだせるのでしょうか? 高橋 さっきの話の続きで言うと、平穏な家庭はいろいろな問題を隠しています。お金とか、セックスとかを見せないようにして、日常生活を楽しく過ごしている。その中の1つが「死」ですね。テレビだと、陰部にモザイクがかかるでしょ。それから、死体と手錠にもかかる。陰部、死体、手錠。客観的に見たらすごく変な組み合わせです。あらゆる場所は映すのに、この国では、その3つは絶対に映らない。 ――「ニューヨーク・タイムズ」のウェブサイトには遺体の写真がいくつも掲載されていて、国内でも話題になりました。 高橋 2万人が亡くなったのに、「大災害」という言葉だけで、日本には遺体の写真が1枚もない。死体を1体も見せないっていうのは異常ですよね。この社会の妙な雰囲気は、「ヤバいものは見せない」という社会の構造が原因なのかもしれない。空気なんて見えないのに、それを感じろっていうのはダメでしょう。ものを見ないということが、逆に想像力を失くしてしまうんです。 ――本作で言及されている「1,000年後の子ども」というモチーフも、「死」と同じように普段は隠れている存在ですよね。前作『悪と戦う』(河出書房新社)でも、同じくまだ生まれていない子どもがモチーフにされていました。 高橋 こういうことを考えるのは、子育て中だからかもしれません。今、僕は60歳で、子どもたちは5歳と7歳。彼らが30歳くらいになった時には、僕はもういない。だから、彼らの未来は想像するしかない。この子たちはあと80年くらい生きるんだから、僕が死んだらバイバイっていうわけにはいかないでしょ。僕は、自分が死んでから50年後の世界について責任があるんです。  僕たちは共同体の中に生きています。共同体は今生きている人だけのものじゃない。歴史的にいえば過去の人もいるし、未来の人もいる。現在の人間がエネルギーが足りないといって原発を使い、処理することのできない放射性廃棄物を生み出したり、国の借金を増やし続けたりしていたら、同じ共同体の未来の人たちに迷惑がかかるでしょう。 ■3.11後に小説を書くということの意味 ――震災後、あらためて、小説の役割が問われているように思います。高橋さんは、どのように考えていらっしゃるのでしょうか? 高橋 「小説の特性とは何か」と考えると、この世界にいること、この世界があることの不条理、人間はなぜ生きねばならないのか、といった形而上的な問題を扱うことだと思います。「この人が好き」という感情を表現することや、歴史の変動を描くのは映画でも可能かもしれない。楽しいコメディーは韓流ドラマでもいいかもしれない。こういう危機的な状況において、形而上的な問題を扱えるという小説の特性は、より発揮されるんじゃないでしょうか。 ――ただ、震災を受けて、「フィクションよりも現実のほうがすごい」という言説が説得力を持ってきています。 高橋 3.11以降、読める小説と読めない小説が出てきました。実は、それは3.11以後に書かれたのか以前に書かれたのかは関係ありません。3.11以前に書かれていても、まるでこの現実に対応しているかのように書かれているものがあります。「僕たちが住んでいる世界はやっぱりおかしくないか?」という認識が根底にある小説は、3.11以降に読んでもやっぱり面白いんです。 ――高橋さんはTwitterでも積極的に発言をされていますが、小説の言葉とTwitterの言葉に違いはあるのでしょうか? 高橋 Twitterでやっている「小説ラジオ」(不定期に深夜0時から行われる高橋自身の連続ツイートのシリーズ)の言葉ってストレートですよね。フィクションのように、多義的な言葉ではありません。フィクションのいいところは「これはどういう意味」と聞かれても、答えなくてもいいこと。読者は「作者の考えをもとにした別のこと」を考えることができるんです。だから、日常ではない舞台で考えられる、想像できる、という「空間」を提供するのが小説家の仕事だと思います。いわば、喫茶店みたいなもの。ものを考えるカフェ。ただ、横に死体が転がってたり、後ろのカップルがセックスを始めるかもしれないけど(笑) ――全然くつろげませんね(笑) 高橋 だから、日常じゃないんだけど、「結構面白いかも」って思ってもらえたらいいよね。 ――お話を伺っていて、やはり『恋する原発』は、高橋さんの作品群の中でもとても意味のある作品なのではないかと感じました。例えば、デビュー作の『さようなら、ギャングたち』(講談社)では、「執筆時のことをほとんど覚えている」とおっしゃってられていましたが、『恋する原発』も、それと同じくらい高橋さんにとって重要な作品でしょうか? 高橋 僕の実質的なデビューは『さようなら〜』ではなく、『ジョン・レノン対火星人』(講談社)という作品です。『さようなら〜』は、優しさと美しさを求めて書いた小説でしたが、『ジョン・レノン〜』はできるだけ汚く書こうとしていた。文学も作家もみんな死ねばいいと思って書いたんですよ。  そう、だから、自分を間違えていたのかもしれない。僕はやっぱり『さようなら〜』のほうではなく、こっち側だった。今の僕は、妙に作家っぽいし、評論もいっぱい書くし、社会的発言もする。キモいよね(笑) ――その意味では『恋する原発』は、『ジョン・レノン〜』の原点に戻ろうとした作品なんですね。ちなみに、次回作のご予定はあるんですか? 高橋 実は、いま少々ウツ気味なんです。何も書きたくない。この小説は世間のひんしゅくを買うかもしれない。でも書いているときは楽しかったんですよね。その反動ですごく疲れてしまって......。こういうことを楽しく書いちゃう自分は人としてどうなんだろう、と思うところもあって。書いているときはこれしかない、こういう方法が正しいと思って書いているんですが、ときどきカメラを引いてみると、「これでいいの?」と自問自答してしまう。これ自体、爆笑だって思ってしまう。そういう意味では、作家ってみんな、二重人格なんですね。 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン]/撮影=尾藤能暢) ●たかはし・げんいちろう 1951年広島生まれ。81年、『さようなら、ギャングたち』で「群像」(講談社)新人長編小説賞優秀賞受賞。88年、『優雅で感傷的な日本野球』で第1回三島由紀夫賞受賞。著書に『虹の彼方に』、『ジョン・レノン対火星人』、『ペンギン村に陽は落ちて』、『日本文学盛衰史』など。05年より明治学院大学国際学部教授を務めている。
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