東西17人の作家が描いた3.11の短編集『それでも三月は、また』

sangatsu.jpg
『それでも三月は、また』(講談社)
 芽が吹き、風が花粉を運び、三寒四温で春が訪れる。昨年の今ごろは、計画停電により都市が暗闇に包まれ、スーパーでは欠品が相次ぎ、みな福島第一原発の行く末を注視していた。われわれは3月が来るたび、津波の惨劇とあの騒然とした日々を思い出すのだろう。  日本を代表する作家たちは3.11後の世界をどう見たのだろうか。『それでも三月は、また』(講談社)は、国内外の作家や詩人が“あの日”について書いたアンソロジーだ。谷川俊太郎、多和田葉子、重松清、小川洋子、川上弘美、川上未映子、いしいしんじ、J.D.マクラッチー、池澤夏樹、角田光代、古川日出男、明川哲也、バリー・ユアグロー、佐伯一麦、阿部和重、村上龍、デイヴィッド・ピースが名を連ねる豪華な一冊となっている。掲載された作品の多くが書き下ろしで、日本・アメリカ・イギリス同時刊行と、非常に力の入った企画であることがうかがえる。  同じ主題を扱っているが、内容は書き手により大きく異なっている。それぞれの作家の技巧を読み比べられることが、この本の魅力のひとつだといえる。3月からの雑感をエッセー風に仕立てた村上龍の『ユーカリの小さな葉』や、デビュー作『神様』を震災後の世界に移してリライトした川上弘美の『神様2011』、各家庭に支給されるという配給用の箱をファンタジー調に描いた、ドリアン助川こと明川哲也の『箱のはなし』など、年齢も立ち場も異なった作家が違ったアプローチで震災以後をとらえており、それぞれに味わい深い。  中でも、日本在住のイギリス人作家・デイヴィッド・ピースの『惨事のあと、惨事のまえ』が白眉だ。関東大震災のさなかの芥川龍之介を主人公に描いた掌編で、下町の火災による焼死体、軍隊・警官・自警団が警戒する物々しい雰囲気、在日朝鮮人の虐殺に対する憤りなど、当時の混乱を克明に描写している。 「惨事のあと、公の記録は関東大震災はリヒター・スケールでマグニチュード七・九、(中略)龍之介は公の記録を信じなかった。龍之介はこの地震が収まることなどないと信じていた。惨事はこれからやってくるのだと信じていた。」(本文より)  此度の東日本大震災でも、惨事はいまだ続いている。3.11にまつわる物語もまた、いまだ終わっていないのだ。それでも、来年も再来年も3月はまたやってきて、記憶もだんだんと遠ざかっていくだろう。そんなとき『それでも三月は、また』のページを繰れば、いつだって“あの3月”が思い出されるのだ。 (文=平野遼)
それでも三月は、また それでも……。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 ・「僕たちが住んでいる社会はやっぱりおかしい」小説家・高橋源一郎と3.11地震、津波、原発事故......それでも続く、日常を生きる意味『神様 2011』 遺体安置所で遺体と向き合う人々を追った壮絶ルポ『遺体 震災、津波の果てに』 文化人、タレント、脳科学者......それぞれの体験した3.11 「正直、自分が受けたショックの100分の1も描けていない」しりあがり寿が見た3.11とマンガの可能性

「日本人はもっと情報公開を求めるべきだった」スペイン人から見た福島とチェルノブイリ

cheruno01.jpg
 福島第一原発事故以降、原子力や放射性廃棄物、被ばくなどをテーマにした本や映画が多数発表されている。いったいなぜこんな大事故が起こってしまったのか、そして私たちはこれからどう原子力や放射性物質と向き合っていくべきなのか――。答えが見えない闇の中、ひとつの手掛かりとして再注目されているのが、1986年4月26日に旧ソビエト連邦(現・ウクライナ)で起こったチェルノブイリ原発事故だ。“史上最悪の原発事故”とされるこの事故では、大気中に50トンもの放射性物質が放出、600近い村や町が避難対象となり、30万人もの人が愛する土地を離れることを余儀なくされたといわれている。原発から3キロのところにあり、4万7,000人もの人口を有した中都市・プリピャチは事故直後に放棄され、事故から26年たったいまでは完全にゴーストタウンと化している。事故による汚染が2万5,000年と続くともいわれるが、いまなお300人ほどが避難区域内に住み続けているとされる。  そんなチェルノブイリに生きた人々の心情を軸に、この事故を描いたグラフィックノベル(漫画)『チェルノブイリ――家族の帰る場所』が昨年スペインで発売された。奇しくも出版のタイミングが福島第一原発事故と重なり話題を集めた本作が、この度日本でも出版されることになった。ここに描かれたストーリーを通して、いま福島で起こっていること、土地を失うということ、土地に留まり続けることの意味が痛切にわかり始めるだろう。スペイン人である彼らは、どうしてこの題材を描こうと思ったのか。そして、福島の事故をどのように見ているのか。来日中の原作者フランシスコ・サンチェスと作画を担当したナターシャ・ブストスに話を聞いた。 ――2006年にスペイン・バルセロナで開催されたチェルノブイリ原発事故20周年を記念する展示会がきっかけでこのテーマを扱うことに決めたそうですが、事故当時、チェルノブイリ事故はスペインではどのように受け止められていましたか?
_MG_9926.jpg
フランシスコ・サンチェス
フランシスコ チェルノブイリ原発事故では周辺の20カ国にも影響があり、その範囲は16万平方キロにおよんだといわれていますが、スペインではほんの一部のエリアが影響を受けただけで、直接的な被害はあまりありませんでした。そういったこともあり、個人レベルでも、国全体としてもそれほど強い関心を集めなかったように思います。昨年はチェルノブイリ原発事故25周年ということに加え、福島第一原発の事故があり、原発や原子力に対する国民的関心は以前よりも高まってはきているのですが、残念ながらいまも昔もやはり、“遠い国のこと”として見ている感じですね。 ――本書では、原発事故によって村からの避難を余議なくされた祖父母、事故によって命を落とした父、そして幼いころに母とともにプリピャチの町を追われた兄妹、3世代にわたる家族の物語が描かれています。事実よりも主人公たちの疎外された戸惑いや不安といった感情に焦点を当てたそうですが、一番描写に苦労したのはどんなところですか? フランシスコ 当事者であるなしにかかわらず、人に焦点を当てれば、その気持ちというのは推し図れると思います。同じ体験をしなければその人がどういうことを感じたのかわからないという部分ももちろんありますが、だからこそさまざまな資料を集め、被害者・犠牲者の気持ちに近づこうと努力しました。悲惨な状況に陥ったときの人間の感情というのは、人種や文化を超えて共通するものがある。だからこそ、その感情を表現したいと思ったんです。 ――スペインでは昨年4月に刊行されましたが、国内での反応はいかがでしたか? フランシスコ 出版の1カ月前に起こった福島の原発事故と偶然にもタイミングが重なったということもあり、マスコミからは多く取り上げられましたが、それがすぐ売り上げに直結するという感じではありませんでした。こういった出来事というのは、スペイン人全体からすると自分の生活からかけ離れたものとして認識されているところがあるんです。
_MG_9876.jpg
ナターシャ・ブストス
ナターシャ この本(スペイン版)が印刷に入ったときにちょうど福島の事故が起こりました。チェルノブイリ事故から25年というタイミングに合わせて出版するつもりだったのですが、急にマスコミから脚光を浴びることになってしまい、正直、複雑な心境でした。 ――福島第一原発事故は、スペインではどのように報道されていますか? ナターシャ 最初の爆発から1カ月くらいは毎日、新聞の一面で伝えられ、テレビでもトップニュースとして扱われていました。でも、なんとかコントロールできる状態になってきたというニュースをきっかけに、だんだんと取り扱われ方が小さくなっていきました。先日は事故から1年ということで再びクローズアップされましたが、その後は“終わってしまったこと”として、忘れ去られつつある印象を受けます。 フランシスコ 事故直後は原発が制御されているかどうかがスペインの人々の関心事だったようで、これ以上大きな被害にならないだろうと思われた時点で、パタっと関心が失われたような気がしますね。事故発生当初、私たちはこの本を出版する準備をしているときだったので、これはチェルノブイリのようなことが繰り返されるのではないかと危惧していました。当時はメルトダウンとまではいかなくても、冷却水が漏れ出るといったような事故が起こるのではと思っていました。 ――チェルノブイリでは当時、社会主義国で起こった事故だったということもあって、なかなか情報が公表されず、被害が拡大しました。今回の福島の事故でも、先進国であり民主主義国家であるにもかかわらず、なかなか正確な情報が公表されず、逆に海外のメディアの情報を頼りにする人も少なくありませんでした。スペイン、あるいはヨーロッパから見て、このような日本の状況をどう思われますか?
img-326181435-0001.jpg
『チェルノブイリ――家族の帰る場所』本文より
フランシスコ 日本人のみなさんは、もっともっと情報を要求するべきだったと思います。情報を追究して、隠されているかもしれない事実を見つけ出し、それを公にしていく。それはメディアの使命でもあります。その情報がどんな悲惨なものであっても、すべてに透明性を持たせるように要求すべきです。それがたとえ、実は避難区域が原発から20キロや30キロでは済まなかった、あるいは、もっとひどい被害や影響が出ているというような、私たちにとって辛い現実であっても、真摯な報道、情報公開を求めるべきです。 ――スペインでも現在8基の原発が稼働していますが、たとえば国内で同じような事故が起きた場合、スペインの人々も積極的に情報公開を求めていくのでしょうか? またメディア側には、人々の要求に応えるだけの土壌がありますか? ナターシャ スペインにもそういうことをすべきという考え方の人は多いとは思いますが、実際に事故が起こったときにはたぶん、スペインでも情報が隠されたり、あえて公表しないといったことが起こると思います。そういったときの国民のリアクションというのは、日本のみなさんと同じでしょう。原発問題に限らず、ある特定のテーマに対してセンシティブに反応する人がいて、心配する人がいる。何か行動を起こさなくてはならないと人々に呼び掛ける人もいると思います。けれども、大多数の人は、なるだけ自分からはアクションを起こしたくない。日々の生活が無難に過ごせればそれでいいという人が大半でしょうし、そういった場合、自分から進んで「この情報をくれ」と言う人は日本と同じくらいいないのではないかと思います。
img-326180501-0001.jpg
――今回、来日することを躊躇しませんでしたか? ナターシャ まったくしませんでした。この本を作ったことで原発や放射能に対する基本的な知識はありましたし、日本全体を恐れる、ということはありませんでした。 フランシスコ 放射能についていえば、自然放射線をはじめとして地球上のどこにいても影響を受けるわけで、ここにいるから安全だというのは、この地球規模では言えません。そういう意味で、絶対安全という場所はないんです。このことを、みなさんの心に刻んでほしいと思っています。今回の滞在ではスケジュール的に福島に行くことができなかったのがとても残念です。将来、自分たちの目で見て肌で感じて、グラフィックノベルというかたちかどうかはわかりませんが、福島をテーマにした作品をつくりたいと思っています。 ――最後に日本の読者へのメッセージをお願いします。 ナターシャ この本はチェルノブイリの「事故」についての物語ではなく、チェルノブイリに住んでいる「人」、住んでいた「人」のヒューマンストーリーです。この事故が人々にどんな影響を与えたのかを自分なりに考え、結論を出すひとつの扉になってくれればうれしいです。 フランシスコ わたしたちの本が福島第一原発事故とその後の事態を憂いている日本人のみなさんに役立つことを望んでいます。チェルノブイリと福島の事故が関連しているというのは避けようがない事実ですし、この本で語られている人間の営みは双方の事故を経験した人々に共通しているものがあると思います。「人間の経験」として、ここから日本のみなさんが何かを読みとってくださればうれしく思います。 (取材・文=編集部/撮影=後藤匡人)
チェルノブイリ――家族の帰る場所 1,155円(税込)/朝日出版社刊/絶賛発売中 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 ・「自分が受けたショックの100分の1も描けていない」しりあがり寿が見た3.11とマンガの可能性「僕たちが住んでいる社会はやっぱりおかしい」小説家・高橋源一郎と3.11「私たちはどこへ向かうべきなのか」写真家・広川泰士氏が語る"日本の風景"としての原発 「シャブ中の作業員も......」福島第一原発潜入ジャーナリスト・鈴木智彦の見た景色(前編)【シリーズ・震災遺体(上)】釜石市、市長たちが語る遺体安置所の光景

「原発がどんなものか知ってほしい」ネット上を浮遊する原発現場監督の遺言

genba_hirai.jpg
『福島原発 現場監督の遺言』(講談社)
 「原発がどんなものか知ってほしい」というタイトルのテキストがネット上に出回っている(http://www.iam-t.jp/HIRAI/)。  さまざまなサイトに転載されているこのテキストは、現場監督として原発に携わってきた一級プラント配管技能士・平井憲夫氏の講演録だ。1997年、58歳の若さで亡くなった平井氏。しかし、このテキストだけが独り歩きし、これまでネットの世界で生き延びてきた。  そんな平井氏とともに、原発を取材してきたのが『福島原発 現場監督の遺言』(講談社)を刊行したジャーナリストの恩田勝亘だ。本書は、生前に行われた平井氏との取材の様子や、平井氏が遺した言葉などから、原発の現場が抱える構造的な問題を浮かび上がらせる。  恩田と平井氏の出会いは86年。折しも、チェルノブイリ事故が起こるほんの数カ月前のことだった。きっかけは当時、恩田が在籍していた「週刊現代」(講談社)編集部に平井が電話をかけてきたこと。かねてから原発問題を追いかけていた恩田が平井氏の口から耳にしたのは、隠蔽された「大量被曝事故」の存在だった……。  ある日の作業終了後、突然、放射線管理者からホールボディカウンター検査を受けるように指示された平井氏のチーム。平均1,000カウント/分程度の結果となるところ、ある一人の作業員が出した数値は52万カウント。以降、彼は放射線管理区域に入る仕事から外されたものの、身体のだるさや歯茎からの出血、吐き気など、被曝症状に悩まされたという。この事故は、「週刊現代」が報道するまで、まったく世間に知られることがないまま闇に葬られようとしていた。  平井氏の証言や恩田の追及から判明する原発の姿は、にわかには信じがたい。 「原発へ来て驚いたのは、何といっても技術レベルの低さです。とにかく質が悪い」(平井氏/本文より)  電力会社からは作業員1人あたり8万円/日の報酬が支払われていても、四次、五次まで回される下請けの職人に対する日当はわずか8,000円から1万円。許容される放射線量をオーバーすると作業に従事することができなくなってしまうことから、腕のよい職人は集まらず、職人たちの技術的な習熟もない。また、年間許容量をオーバーし、仕事を失ってしまうことを恐れ、職人たちの間では虚偽の放射線被曝量を申告することが常態化している。平井氏自身も自身が浴びた放射線量の記録を改ざんして、「許容範囲内」の線量を獲得し、作業を行っていたという。  さらに、工事のチェック体制にも問題があると指摘する平井氏。 「検査の大部分は、実際には業者が行っています。発電設備技術検査協会の人、ましてや通産省の検査官は、大部分業者がやった検査で検査の過程は一切見ずに、結果だけを見に来るか、書類だけの検査です」 「工事の業者は買い叩かれ、納期に追われ、で良心的にやろうとしても、どうしてもある程度のごまかしをせざるを得ません。ましてや原発では上は現場のことを理解せず、責任も取りませんし、設計者すら現場に来ない、他の業者との連携もない、工法も時代遅れで不合理、作業員は素人、監督は線量の限界があって完全には現場を監督できないという悪条件が重なっています」(平井氏/本文より)  その結果、看過できない事故は頻発している。本書で例として挙げられるのは、チェルノブイリ目前だったといわれる2つの事故だ。89年福島第二原発3号機で起こった事故では、圧力容器内の水を循環させるポンプの金属片30キロが破損、その一部が炉内に侵入した。その事故はあわや燃料棒や炉内を傷つけ冷却水喪失という大事故を誘発しかねないものだった。また、91年には美浜原発2号機で配管のギロチン破断事故が起こった。この事故によって、一次冷却水が漏れ出し、700万ベクレルの放射能が海へ、90億ベクレルが大気中へと放出された。さらに、冷却水を失ったことによって空焚き状態となった原子炉。手動で緊急炉心冷却装置を作動させたことで、危うく難を逃れたものの「あと0.7秒遅かったらまるっきりチェルノブイリ」という超緊急事態だった。  これらのような大事故のみならず、小規模な事故も数多く発生している。しかし、少なくない数の事故は発表されることがないまま忘れられていくという。これまで数多く指摘されているように、電力会社が隠蔽工作を行うから、だけではない。納期に追われる下請け会社が、事故の存在を電力会社に報告せず、現場レベルでもみ消すということもあるのだ。 「原発の事故の発表というのは、隠せないくらい大きな事故か、少々発表されても問題はない事故が発表されるわけで、その中間が発表されていないのと、それから業者サイドで黙っているのも多いです。(略)不都合なことがあったという場合には、電力会社にわからないように直してしまうんです。(略)だから、電力会社が知らない事故も非常に多いんですよね」(平井氏/本文より)  本書が告発する原発の姿は、にわかには信じがたいものばかりだ。僕は、震災前に、「原発がどんなものか知ってほしい」を偶然発見したとき、その内容を信じることができなかった。そこに描かれる仕事ぶりは「原発」というイメージからはあまりにもかけ離れたずさん過ぎるものだったため、逆に「アンチ原発派による恣意的な文章なのではないか」と疑った。まさか、「原子力」などという最先端かつ危険なものを取扱っている現場に、このようなずさんな工事があるはずがない。だが、福島第一原発事故以降の東電や政府の対応を見ていると、どちらが本当のことを語っているかは自ずとわかってくる。  これまで日本社会には、平井の言葉に耳を傾ける者はほとんどいなかった。そして、福島第一原発事故は発生した。  電力需要がピークを迎える夏までに、政府や電力会社、産業界は原発の再稼働をさせたい考えだ。平井の死から15年、今こそ、その恐ろしい遺言を真摯に受け止める時なのではないだろうか。今からでもまだ遅くはない。 (文=萩原雄太) ●おんだ・かつのぶ 1943年、島根県生まれ。法政大学卒。71年より「週刊現代」(講談社)記者としてチェルノブイリ事故など原発関連の記事を取材、執筆。評論家・内橋克人氏による同誌連載企画「原発が来た町」(1982年)のスタッフライターとして各地の原発立地地域や予定地を取材した。著書に『原発に子孫の命は売れない』『東京電力・帝国の暗黒』(以上、七つ森書館)などがある。
福島原発 現場監督の遺言 お願いだから聞いて。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 ・NHK『ネットワークでつくる放射能汚染地図』いま明かされる舞台裏「こんな店は存在しないほうがいい!?」放射能測定ショップ「ベクミル」を直撃!「シャブ中の作業員も......」福島第一原発潜入ジャーナリスト・鈴木智彦の見た景色(前編)【シリーズ・震災遺体(上)】釜石市、市長たちが語る遺体安置所の光景地元紙は"アルジャジーラ"になれるのか?『河北新報のいちばん長い日』

「係になっただけです」石巻の英雄が語る“ドラマがない”災害現場の実像

IMG_0780.jpg
 東日本大震災の中心被災地であり、3,000人以上が犠牲となった宮城県石巻市。この石巻の災害医療をリーダーとして支えた医師・石井正の活躍は広く報道された。一刻の猶予も許されないが、満足な医療設備も的確な情報も入らない。そんな中、石井医師の肩には石巻地域に住む20万人以上の人々の命がのしかかっていた。そのような過酷な状況をものともせず、石井医師は冷静な判断と迅速な行動によって多くの人々を救う――。  まさに英雄として活躍した彼が、この度『東日本大震災 石巻災害医療の全記録』(ブルーバックス)を上梓した。震災直後からの動きが生々しく記録されており、いつ起こるかわからない次の震災に対する備えともなる本書。はたして被災地の英雄は、どのようにしてこの未曾有の危機を乗り切ったのか? ――石井先生は東日本大震災発生直後から災害救護本部のリーダーとして、石巻を救う大活躍をされていました。いったい、震災の発生後どれくらい働き詰めだったのでしょうか? 石井正医師(以下、石井) 3月11日に震災が起こり、最初に家に帰ったのは4月下旬。1カ月半は泊まり込みの状態が続きました。 ――1カ月半も……。体力的には大丈夫だったんでしょうか? 本書の中には、過労で倒れてしまった医師のエピソードも紹介されていました。 石井 結構サボっていましたからね。 ――? 石井 普段なら外科医としての業務がありますが、震災時は当直や診察などの業務は行っていません。きっちりと災害対応の仕事をする時間を与えてもらえました。 ――いちばん過酷だった時期はいつ頃でしょうか? 石井 特にないですね……。僕自身、「どうにかしてやる!」と息巻くような熱血タイプではないんです。「係になった以上はベストを尽くそう」という感じですか。たまたま自分が立場にあったのでやっただけなんです。 ――“お仕事”として淡々とこなしている印象ですね。一般にイメージされるようなパニックに見舞われた災害医療の現場とは、とても大きな開きがあるように思います。 IMG_0746.jpg 石井 まず、外科医の業務と災害対応に求められることはとても似ているんです。外科医も手術中の不意の出血など予期しない事態に直面しながら、次々と判断を下していかなければいけません。それに、外科の経験から死体を見ても感情を支配されることもないんです。だから、運ばれてくる患者に対してパニックになることもない。僕じゃなくても、外科医ならば誰でもできるんじゃないでしょうか。 ――震災前からかなり周到な準備をされていたことも、冷静に対応できた一因だったのでしょうか? 石井 そうですね。石巻市は1978年の宮城県沖地震(M7.4、死者28人、負傷者1万人あまり)を経験しています。東日本大震災の前から、30年以内に99%の確率で大地震が起こると言われていたんです。また、私の勤務する石巻日赤病院は、石巻医療圏で唯一の災害拠点病院です。もし何かあったら僕らでどうにかしないといけない。だから、震災に対して準備をしなければならない、というメンタルが保てたのではないかと思います。 ――ただ、平時からそういった準備を周到に行うことはとても難しいことだと思います。周囲から反対されたり、「面倒くさい」と言われるようなことはなかったのでしょうか? 石井 誰も文句を言うような人はいませんでした。震災前に行っていたのは、5、6人の有志が集って週1回程度のマニュアル改訂会議です。そもそも、日赤病院は災害救護に対してとても熱心な病院。そういう下地もあって準備に支障はありませんでした。また、これは立川にある国立病院機構 災害医療センターの「全国災害拠点病院災害医療従事者研修会」で学んだことなんですが、担当者の名前を入れることでマニュアルを読む側の本気度が上がり、リアルなイメージが浮かびやすい。災害に備えてマニュアルを読もうという気持ちにもなるんです。 ――それらの結果、冷静に淡々と対応ができたということですね。 石井 東日本大震災発生直後の石巻日赤病院の初動は、実に淡々としていました。怒号を飛ばしたりするような現場ではなく、みんな落ち着いて何かを書いていたり運んでいた。まるで訓練のようでしたね。 ――そのような万全な状況があれば、冷静な対応も頷けます。ただ、未曾有の状況にさらされて、石井先生自身は感情的になったり、絶望することはなかったのでしょうか? 石井 3月17日の夜に見た光景は忘れられません。石巻市内は全域で停電状態。信号も泊まり、瓦礫とへどろで覆われた街並みが広がっていました。他に車や人もいなくて、物音ひとつしないとても静かな夜でした。この暗闇の中で何万人もの人々が、息をひそめながらじっと我慢している。そう考えると涙が出そうになりました。「なんとしてもこの人たちを助けなければ」と強く思ったんです。 ――石井先生の中で最も印象に残っている言葉は何かありますか? 石井 石巻圏合同救護チームとして、医療者をまとめ上げるために県庁と東北大学に直訴に行ったんです。そこでダメと言われたら、石巻医療圏の救護がばらばらになるという危機でした。難航すると思われていたその交渉がOKになったんです。とてもうれしくて、僕は「勝った!」と喜んでいました。その時に、ブレーンとして本部に入っていた浜松医科大学の吉野篤人先生に呼ばれ、こう言われたんです。「災害救護の現場では“勝った”ではなく、“よかった”と言いなさい」。頭から冷水を浴びせられた気持ちになりました。 ――確かに、災害医療に勝ち負けはありません。 石井 正直、その時は調子に乗っていたんですね。常に災害医療は被災者のためであり、勝ち負けや「俺がやった」といった功績の話ではありません。「勝った」という態度、「俺らはすごい」という態度は必ず足元を救われます。それ以降は、どんなにうまくいっても淡々と「ありがとうございます」と言うだけにとどめました。 ――本書には、市や県の対応が、ポジティブに描かれていました。災害医療というと、役所の壁のようなものを想像していたのですが、そういった事態には直面しなかったのでしょうか? 石井 もちろん、行政に対して頭に来ることもありました。セクショナリズム、要望主義、縦割り……“壁”に対してしょっちゅうケンカをしていたんです。ただ、彼らもサボっているわけではない。平時をスムーズに運営するためにそういうシステムの中でやってきただけなんですね。だから妥協点を見いだして連携をすることができました。むしろ、現場を知らない外部の人が「行政がけしからん」と言う方がまずいのではないかと思います。ある地方から来た医師が、行政の担当者の目の前で「行政がダメ」と言ったんです。そうしたら僕らは「そんな事言うならお前がやってみろ」と大ゲンカになった。「この人をバカにするような言い方は許さない」とみんなでかばったんです。 ――震災という大きな問題を目の前にして、行政か救護かということでいがみ合っていても仕方がありません。 石井 僕らも行政も、人々のためにどうにかしたいというマインドは共通なんです。彼らは決して敵ではないし、協働できる存在です。 ――今回の震災で、石井先生が得た最も大きな教訓はなんでしょうか? 石井 1つは大規模な救護活動をするなら本部機能がしっかりしていないとどうしようもないということ。司令部がないと組織的な動きができず、好き勝手に救護班が入って効率的な活動ができない状態になります。また、災害現場の客観性を担保するためにはデータも必須ですし、通信機能も大切。この3つはどのような災害でも重要になると思います。 ――もし次に震災が起こった場合、石井先生がリーダーであれば、被害者の数は減らせますか? 石井 被害者についてはなんとも言えませんが、今回の震災を踏まえて災害対応のバージョンは上がるはず。通信、本部、データを必須のものとし、具体的な対応については、状況によって判断するでしょうね。 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●いしい・ただし 1963年、東京生まれ。89年東北大学医学部卒業。公立気仙沼総合病院研修医を経て、92年東北大学第二外科入局。2002年石巻赤十字病院第一外科部長。07年医療社会事業部長となり、外科勤務の傍ら災害医療の世界に足を踏み入れる。11年2月、宮城県より災害医療コーディネーターを委嘱された直後に東日本大震災を迎えた。
東日本大震災 石巻災害医療の全記録 これが真実。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 ・「復興支援は新たなステージに」これからの被災地支援のカギとは?被災地の本当の話を知るべし! 陸前高田市長が見た「規制」という名のバカの壁とは?「シャブ中の作業員も......」福島第一原発潜入ジャーナリスト・鈴木智彦の見た景色(前編)【シリーズ・震災遺体(上)】釜石市、市長たちが語る遺体安置所の光景地元紙は"アルジャジーラ"になれるのか?『河北新報のいちばん長い日』

「子どもたちが希望を持てる国にするために」東日本大震災追悼イベントに坂本龍一が登場

IMG_0598s.jpg
 3月10日・11日の2日間、東京・日比谷公園で『311東日本大震災 市民のつどい Peace On Earth(ピースオンアース)』が開催された。  震災から1年、犠牲になった方々を追悼し黙とうを捧げ、これからの未来を共有する場をつくるという理念の下、学者や活動家、ミュージシャン、アーティストらが参加。トークイベントやライブが行われた。  11日には、この日のためにニューヨークから駆けつけた坂本龍一氏がトークイベントに登場。活動の拠点をニューヨークに移している坂本氏は、11年前の同時多発テロも体験している。 「9.11のとき現場のすぐそばにいたのですが、思考停止状態になりました。あのにぎやかなニューヨークが静まり返ったんですよ。誰も音楽をかけないし、ストリートミュージシャンもいなくなっちゃったし、車のクラクションも聞こえなくなった。こういうとき、人間って静かになるんだなと思いました」 IMG_0666s.jpg  3.11のときは9.11と同じような気持ちになり、「長いこと音楽が聴けなくなりましたね」という。また「メディアでよく音楽の力とか、音楽で元気を与えるというけど嫌なんだね、不遜な感じがして。音楽が寄り添うというのが合っているんじゃないかな」と独自の音楽観を語った。  また、原発に関しても強い危機感を持っている一方、「東電の中にも自然エネルギーを普及させようと考えている人たちもいるし、魔女狩りみたいに東電は悪だとか、その家族の人たちまで差別するのはいけないと思う」と冷静な視点も。  そして、日本のエネルギー自給率が低いことに対しては強い苦言を呈す。 「戦争とか災害が起きたときには、日本国民は生きていけない。エネルギーがなくなったら産業活動や生活ができない。日本はそんな脆弱なインフラの上に成り立っているのです。外国からエネルギーを毎年ものすごい量、年間11兆から12兆円も買っています。みなさんの税金が燃料と交換で海外に出ていく。そんなことをするよりは国内でエネルギーを自給するために使ったほうがいいんじゃないのか。やり方次第ではできると思うんです」  その実現のためには法整備が重要であると訴えた。 「まずは政治を変えなくてはいけない。(宗教学者の)中沢新一君みたいに、日本における『緑の党』を作ろうとしている、思いを託せる人を政治の場に送り込むことが大切なのでは」  子どもたちにとって希望の持てる国にするためにも、今こそ坂本氏の言葉をかみ締める必要があるのではないか。 (撮影・文=シン上田)
戦場のメリー・クリスマス 教授についてきます。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 ・震災特番生放送で古舘伊知郎が“原子力ムラ”に言及し波紋広がる震災2週間後の被災地を映した『311』 テーマは現代人が感じる"後ろめたさ"「怒りの声をあげられない人の声を代弁する」福島市住職のたった一人の闘い 「受注金額は言い値で決まる!?」東日本大震災の復興利権に群がるゼネコンの"焼け太り"「シャブ中の作業員も......」福島第一原発潜入ジャーナリスト・鈴木智彦の見た景色

「子どもたちが希望を持てる国にするために」東日本大震災追悼イベントに坂本龍一が登場

IMG_0598s.jpg
 3月10日・11日の2日間、東京・日比谷公園で『311東日本大震災 市民のつどい Peace On Earth(ピースオンアース)』が開催された。  震災から1年、犠牲になった方々を追悼し黙とうを捧げ、これからの未来を共有する場をつくるという理念の下、学者や活動家、ミュージシャン、アーティストらが参加。トークイベントやライブが行われた。  11日には、この日のためにニューヨークから駆けつけた坂本龍一氏がトークイベントに登場。活動の拠点をニューヨークに移している坂本氏は、11年前の同時多発テロも体験している。 「9.11のとき現場のすぐそばにいたのですが、思考停止状態になりました。あのにぎやかなニューヨークが静まり返ったんですよ。誰も音楽をかけないし、ストリートミュージシャンもいなくなっちゃったし、車のクラクションも聞こえなくなった。こういうとき、人間って静かになるんだなと思いました」 IMG_0666s.jpg  3.11のときは9.11と同じような気持ちになり、「長いこと音楽が聴けなくなりましたね」という。また「メディアでよく音楽の力とか、音楽で元気を与えるというけど嫌なんだね、不遜な感じがして。音楽が寄り添うというのが合っているんじゃないかな」と独自の音楽観を語った。  また、原発に関しても強い危機感を持っている一方、「東電の中にも自然エネルギーを普及させようと考えている人たちもいるし、魔女狩りみたいに東電は悪だとか、その家族の人たちまで差別するのはいけないと思う」と冷静な視点も。  そして、日本のエネルギー自給率が低いことに対しては強い苦言を呈す。 「戦争とか災害が起きたときには、日本国民は生きていけない。エネルギーがなくなったら産業活動や生活ができない。日本はそんな脆弱なインフラの上に成り立っているのです。外国からエネルギーを毎年ものすごい量、年間11兆から12兆円も買っています。みなさんの税金が燃料と交換で海外に出ていく。そんなことをするよりは国内でエネルギーを自給するために使ったほうがいいんじゃないのか。やり方次第ではできると思うんです」  その実現のためには法整備が重要であると訴えた。 「まずは政治を変えなくてはいけない。(宗教学者の)中沢新一君みたいに、日本における『緑の党』を作ろうとしている、思いを託せる人を政治の場に送り込むことが大切なのでは」  子どもたちにとって希望の持てる国にするためにも、今こそ坂本氏の言葉をかみ締める必要があるのではないか。 (撮影・文=シン上田)
戦場のメリー・クリスマス 教授についてきます。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 ・震災特番生放送で古舘伊知郎が“原子力ムラ”に言及し波紋広がる震災2週間後の被災地を映した『311』 テーマは現代人が感じる"後ろめたさ"「怒りの声をあげられない人の声を代弁する」福島市住職のたった一人の闘い 「受注金額は言い値で決まる!?」東日本大震災の復興利権に群がるゼネコンの"焼け太り"「シャブ中の作業員も......」福島第一原発潜入ジャーナリスト・鈴木智彦の見た景色

「最初は作品を作る気になれなかった」岩井俊二監督が新作映画に込めたメッセージ

IMG_0307s.jpg
 宮城県仙台市出身の岩井俊二監督が、震災以降に出会った人々、久しぶりに再会した友人と語る日本の未来を綴ったドキュメンタリー映画『friends after 3.11【劇場版】』。公開初日の10日には岩井監督、松田美由紀(女優・写真家)、藤波心(反原発アイドル)らが舞台あいさつを行った。  自身のブログで震災について語ったことから注目を集めるようになったアイドルの藤波。 「震災から1年が経ちますが、国民の関心は薄れてしまっていると感じます。このままでは第二の福島を作りかねない、人類の滅亡につながりかねないと思います。今日来ていただいたみなさんには、映画を見て感じたことを家族や仲間、大切な人と話し合ってもらいたいです」  そう語る口調は14歳とは思えないほどしっかりしていて熱い。  これまで環境や原発のことに特別関心があったわけではないという松田も思いは同様である。 「私は3.11以降、人生が変わりました。というのも、今まで見てはいけないとされてきたものに気づいてしまったからです。震災後、多くのことを知ってしまった。もう引き返せません」 「人種も職業も関係ないと思います。これからの環境問題を変えるのは、国民一人ひとりの自覚と結束です」  とアピール。  岩井監督は「最初、作品を作る気持ちにはなれなかった。そんなに簡単に作品にできるとも思わなかったから」とその当時を振り返る。だが、さまざまな人たちとの出会いを通じて考えが変わったという。 「今も地震が続いていたり、原発も危険な状態のまま。巨大地震とかつてない核の危機の二つに苛まれている状態ですが、われわれ大人だけでなく子どもたちも真剣にこれに向き合って生きていかなくてはいけないという気持ちでこの作品を作りました」  そんな前向きなメッセージが込められている『friends after 3.11【劇場版】』。オーディトリウム渋谷ほか全国順次公開。 (撮影・文=シン上田)
番犬は庭を守る 原子力崩壊後の世界。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 ・震災特番生放送で古舘伊知郎が“原子力ムラ”に言及し波紋広がる震災2週間後の被災地を映した『311』 テーマは現代人が感じる"後ろめたさ"「怒りの声をあげられない人の声を代弁する」福島市住職のたった一人の闘い 「受注金額は言い値で決まる!?」東日本大震災の復興利権に群がるゼネコンの"焼け太り"「シャブ中の作業員も......」福島第一原発潜入ジャーナリスト・鈴木智彦の見た景色

「番組を切られても本望」震災特番生放送で古舘伊知郎が“原子力ムラ”に言及し波紋広がる

null

furu0312.jpg
『報道ステーション』テレビ朝日
 昨年の東日本大震災から1年となる3月11日、テレビ各局は軒並み震災特番を放送したが、その中で、テレビ朝日系『報道STATION スペシャル』での司会・古館伊知郎の発言が波紋を広げている。  話題になっているのは、番組の終了間際のエンディングトークの場面。震災で不通となった三陸鉄道南リアス線三陸駅のホームに立った古舘は、「この番組に関して後悔することがあります」と神妙な面持ちで語りだした。古舘はまず、“牛の墓場”となった牧場について撮影・放送しなかったことを「一つ目」の後悔として語り、その後に、「二つ目の後悔は原発に関してです」として、以下のように語った。 「『報道STATION』ではスペシャル番組として、去年の12月28日の夜、原発の検証の番組をお送りしました。津波で原発が壊れたのではなく、それ以前の地震によって一部、(福島)第1原発のどこかが損壊していたのではないかという、その追求をしました。今回、このスペシャル番組で、その追求をすることはできませんでした。“原子力ムラ”というムラが存在します。都会はこことは違って目映いばかりの光にあふれています。そして、もう一つ考えることは、地域で、主な産業では、なかなか暮らすのが難しいというときに、その地域を分断してまでも、積極的に原発を誘致した、そういう部分があったとも考えています。その根本を、徹底的に議論しなくてはいけないのではないでしょうか。私はそれを、強く感じます。そうしないと、今、生活の場を根こそぎ奪われてしまった福島の方々に申し訳が立ちません。私は日々の『報道STATION』の中でそれを追求していきます。もし圧力がかかって、番組を切られても、私は、それはそれで本望です。また明日の夜、9時54分にみなさまにお会いしたいです。おやすみなさい」  テレビ朝日の看板キャスターが生放送中に、原子力業界からの圧力で番組内容に変更があったことについて明確に認めるという異例の事態に、放送直後からネット上は紛糾。「古舘、よく言った」という賞賛だけでなく「今さらか」といった批判もあふれ、一夜明けた12日朝になっても活発な議論が続いている。  ともあれ、今後同番組内で「それを追及していく」とした古舘と『報道STATION』スタッフに“自由な報道”が許されるか否か、注意深く見守っていきたい。いずれにしろ、メインキャスターである古舘が自由に発言するために「番組を切られる」覚悟でカメラの前に立たなければならなかったという事実は、現在のテレビの報道番組が置かれた、極めていびつな構造を表している。
「原子力ムラ」を超えて―ポスト福島のエネルギー政策 ムラ。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 ・NHK『ネットワークでつくる放射能汚染地図』いま明かされる舞台裏震災2週間後の被災地を映した『311』 テーマは現代人が感じる"後ろめたさ"「怒りの声をあげられない人の声を代弁する」福島市住職のたった一人の闘い 「受注金額は言い値で決まる!?」東日本大震災の復興利権に群がるゼネコンの"焼け太り"「シャブ中の作業員も......」福島第一原発潜入ジャーナリスト・鈴木智彦の見た景色

「番組を切られても本望」震災特番生放送で古舘伊知郎が“原子力ムラ”に言及し波紋広がる

furu0312.jpg
『報道ステーション』テレビ朝日
 昨年の東日本大震災から1年となる3月11日、テレビ各局は軒並み震災特番を放送したが、その中で、テレビ朝日系『報道STATION スペシャル』での司会・古館伊知郎の発言が波紋を広げている。  話題になっているのは、番組の終了間際のエンディングトークの場面。震災で不通となった三陸鉄道南リアス線三陸駅のホームに立った古舘は、「この番組に関して後悔することがあります」と神妙な面持ちで語りだした。古舘はまず、“牛の墓場”となった牧場について撮影・放送しなかったことを「一つ目」の後悔として語り、その後に、「二つ目の後悔は原発に関してです」として、以下のように語った。 「『報道STATION』ではスペシャル番組として、去年の12月28日の夜、原発の検証の番組をお送りしました。津波で原発が壊れたのではなく、それ以前の地震によって一部、(福島)第1原発のどこかが損壊していたのではないかという、その追求をしました。今回、このスペシャル番組で、その追求をすることはできませんでした。“原子力ムラ”というムラが存在します。都会はこことは違って目映いばかりの光にあふれています。そして、もう一つ考えることは、地域で、主な産業では、なかなか暮らすのが難しいというときに、その地域を分断してまでも、積極的に原発を誘致した、そういう部分があったとも考えています。その根本を、徹底的に議論しなくてはいけないのではないでしょうか。私はそれを、強く感じます。そうしないと、今、生活の場を根こそぎ奪われてしまった福島の方々に申し訳が立ちません。私は日々の『報道STATION』の中でそれを追求していきます。もし圧力がかかって、番組を切られても、私は、それはそれで本望です。また明日の夜、9時54分にみなさまにお会いしたいです。おやすみなさい」  テレビ朝日の看板キャスターが生放送中に、原子力業界からの圧力で番組内容に変更があったことについて明確に認めるという異例の事態に、放送直後からネット上は紛糾。「古舘、よく言った」という賞賛だけでなく「今さらか」といった批判もあふれ、一夜明けた12日朝になっても活発な議論が続いている。  ともあれ、今後同番組内で「それを追及していく」とした古舘と『報道STATION』スタッフに“自由な報道”が許されるか否か、注意深く見守っていきたい。いずれにしろ、メインキャスターである古舘が自由に発言するために「番組を切られる」覚悟でカメラの前に立たなければならなかったという事実は、現在のテレビの報道番組が置かれた、極めていびつな構造を表している。
「原子力ムラ」を超えて―ポスト福島のエネルギー政策 ムラ。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 ・NHK『ネットワークでつくる放射能汚染地図』いま明かされる舞台裏震災2週間後の被災地を映した『311』 テーマは現代人が感じる"後ろめたさ"「怒りの声をあげられない人の声を代弁する」福島市住職のたった一人の闘い 「受注金額は言い値で決まる!?」東日本大震災の復興利権に群がるゼネコンの"焼け太り"「シャブ中の作業員も......」福島第一原発潜入ジャーナリスト・鈴木智彦の見た景色

NHK『ネットワークでつくる放射能汚染地図』いま明かされる舞台裏

hotspot_nhk.jpg
 震災から2カ月を経た昨年5月15日、Twitterを中心に、NHKで放送されたある番組が話題となった。ETV特集『ネットワークでつくる放射能汚染地図~福島原発事故から2 か月~』。元理化学研究所の岡野眞治博士や元独立行政法人労働安全衛生総合研究所の研究官・木村真三博士らの全面的な協力の下、福島県内の2,000キロに及ぶ道路を測定したこの番組。専門家と共に調査された詳細なデータから、福島で進行する放射能汚染の現状を紹介した。この番組によって、ホットスポットとして知られる浪江町赤宇木地区の現状が映し出され、政府の指定した緊急時避難準備区域である30キロ圏の外側も、必ずしも安全ではないという事実を教えた。  文化庁芸術祭賞、早稲田ジャーナリズム大賞、日本ジャーナリスト会議大賞など、数々の賞を贈られたこの番組はシリーズ化され、現在までに『海のホットスポットを追う』『子どもたちを被ばくから守るために』などを放映。震災から1年となる2012年3月11日にはシリーズ5作目として『埋もれた初期被ばくを追え』と題した弘前大学による事故初期の甲状腺調査や、気象シミュレーションによる各地のヨウ素131の濃度が紹介される。  そして、この番組の制作者たちの手記が集められた『ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図』(NHK ETV特集取材班・講談社刊)が刊行された。これは、原発事故の真実を追いかけたドキュメンタリーの裏側を明かす1冊である。  番組制作の中心を担ったのはディレクターの七沢潔氏。『チェルノブイリ・隠された事故報告』『放射能 食糧汚染~チェルノブイリ事故・2年目の秋~』『原発立地はこうして進む 奥能登・土地攻防戦』など、原子力に関連した良質なテレビドキュメンタリーをつくってきた人物として知られている。しかし、東海村JOC臨海事故を取材した『東海村 臨界事故への道』を制作直後、放送文化研究所に異動。その後は番組制作の現場から遠ざかってしまった。国内の原子力問題を追求したことが仇となり、閑職へ追いやられてしまったのだ。  だが、福島第一原発事故は七沢を必要とした。原発を特集したドキュメンタリーを企画した大森淳郎チーフディレクターは、七沢の携帯電話を鳴らす。「やっぱりあんたに来てもらいたい」。  この番組でスタッフと共に、各地の詳細な放射線量を計測した木村博士もまたリスクを背負って参加をした人物だ。厚生労働省が所轄する労働安全衛生総合研究所研究員だった当時、「パニックを防ぐ」という名目で、同所には厳しい研究規制が敷かれていた。「行動は本省並びに研究所の指示に従うこと。勝手な行動は慎んでください」そのメールを受け取り、彼は辞表を書いた。翌日、番組の打ち合わせに出席し、彼は七沢らと共に福島へ向かう車に乗り込んだ。  今年86歳を迎える岡野博士にとって、長距離の移動だけでも体力的には無理がある。さらに、低血糖症であるため、1時間に1度ブドウ糖を補給しなければ身体がまったく動かなくなってしまうという症状を抱えていた。しかし、岡野博士もまた、妻の郁子さんと共に現地取材班に合流し、福島で彼オリジナルの測定器を操った。  ほかのスタッフたちにもさまざまな物語がある。放射線を浴びるかもしれないという危険だけでなく、それぞれがリスクを抱えていたのだ。  なぜ、彼らはそのようなリスクを背負ってまで福島に向かったのか。七沢は、それまでの原発取材の経験からこのように記している。「原発と、それを押し進める巨大な体制に根こそぎにされ、人生を奪われた人々を取材するにつけ、その行き場のない怒りと悲しみを知り、解決できない現実から逃れることができなくなった」  放送後、苦労の甲斐あって番組は高く評価された。しかし制作当時、この番組はNHK局内から冷ややかな視線が送られていたという。局内のルールとして30キロ圏内での取材が規制されていたにもかかわらず、彼らはその規則を破った。番組内容を聞きつけた上層部は「偏向しているのではないか」と危惧し、当初4月3日の放送を予定していた番組は5月に延期された。チーフプロデューサーの増田秀樹は「放送ができなかったら切腹では済まされない」と思いつめた。この番組の評価を考えれば、今では考えられないことばかりだ。  しかし、彼らは番組を制作し、社会に対して大きなインパクトを与えた。放送終了後、電話やメールなどで1,000件以上の再放送希望が寄せられ、NHKオンデマンドでは大河ドラマを凌ぐリクエストが集中した。  増田は、本書にこう寄せる。 「私たちは報道機関の端くれとして『事実を取材して伝える』という当たり前の仕事を、当たり前にやっただけで何も特別なことはしていない。山奥に置き忘れられていた非常用電源のようなもので、たまたま水没を免れ稼働を続けたに過ぎなかった」  この“非常用電源”が機能していなかったならば、福島第一原発と同様、メディアもまた暴走を続けてしまっていたかもしれない。『ネットワークでつくる放射能汚染地図』という番組は、日本にもまだ信頼できるメディアが存在しており、正しい情報を与えてくれるということを人々に確認させてくれた。  七沢はあとがきに記す。  「この本では通常の番組本では書かれない機微な舞台裏も描かれている。それはNHKという組織内の状況も含め、番組が制作され、放送にまで至ったプロセスを描かなければ、原発事故直後、日本中が『金縛り』にあったかのような精神状況、メディア状況下で作られた番組のメイキングドキュメントにはならない。(中略)有事になると、組織に生きる人々が思考停止となり間違いを犯すことも含めて描かなければ、後世に残す3.11の記録とはならないと考えたのである」 (文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●ETV特集『ネットワークでつくる放射能汚染地図5 埋もれた初期被ばくを追え』 3月11日(日)夜10時~ <http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2012/0311.html
ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図 NHKの底力。 amazon_associate_logo.jpg
【関連記事】 ・「シャブ中の作業員も......」福島第一原発潜入ジャーナリスト・鈴木智彦の見た景色(前編)【シリーズ・震災遺体(上)】釜石市、市長たちが語る遺体安置所の光景地元紙は"アルジャジーラ"になれるのか?『河北新報のいちばん長い日』