『おもかげ復元師』震災で300人以上の遺体を修復した「復元納棺師」が見た風景とは?

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“復元”のようす
 容貌が変化してしまった遺体の硬直を解き、マッサージで顔色を変え生前の安らかな表情に復元して納棺を行う「復元納棺師」として、岩手県を拠点に活動している笹原留似子さん。東日本大震災の折には、ボランティアとして300人以上の方の遺体を復元した。その際の様子を含めた死の現場を描いたエッセイ『おもかげ復元師』と、震災で復元した方のお顔を描いた『おもかげ復元師の震災絵日記』(共にポプラ社)を8月に上梓。『震災絵日記』は、ボランティア活動を終えたあと、実際に遺体を復元したひとりひとりを思い出しながら描いたという。 ――震災の時は、10キロも痩せたそうですね? 笹原留似子(以下、笹) そう、もともとはすごく細かったんですけど(笑)。被災地はどこもお店は開いていないし、また、たとえ食べ物を持参していても、復元作業に入って集中すると、途中で休憩はしません。3時間の復元が3件続くと、朝から晩まで食事する時間はないですね。体力も必要ですが、あの時は神経も使いました。遺体安置所では、遺体の復元を必要とするご遺族がいつでも話しかけられるような雰囲気も作っておかないとならないから。  * * *  震災では津波によって傷ついた遺体も多く、また発見されたのが数日後というのは早いほう、中には数週間後、数カ月後というケースも珍しくなかった。当然ながら時間がたつほど傷みは激しくなる。愛する人を亡くすということだけでも耐え難いのに、その変わり果てた姿にさらにショックを受け、死を受け入れることができない遺族も多い。愛娘を直視できない両親、「こんなのお父さんじゃない!」と泣き叫ぶ子ども……。エッセイを読むと、どのような姿でどうお別れするかは、遺族がその後どう生きていくかに大きく影響することがわかる。  一般的な納棺師は、遺体から出る臭いを抑える処置や死化粧はするが、激しい損傷の復元はしない。海外ではエンバーマーが復元を請け負う場合もあるが、それは亡くなって間もない場合だけ。たとえ腐敗しウジがわいていても復元を請け負う笹原さんのような存在は、世界を探しても非常にまれだ。  * * *  例えば顔に穴が開いている時は、そこから体液や血液が出ないよう止める作業をしながら、同時に陥没部を埋めていきます。亀裂で顔が広がってしまっている場合は元に戻し、それを火葬まで安定した状態でもたせるようにします。震災では、一部が白骨化したような方の復元も行いました。それまで経験したことがなかった作業なので難しかったけれど、ご遺族の前で「できない」とは言えませんでした。物資が不足する中、生前の写真を見ながら、脱脂綿など、あるものをなんとか組み合わせて復元しました。ワックスを使うこともありますが、それだけでは形が崩れるので、さらに加工して、ご遺族が触れられるような状態に仕上げていきます。お別れの際、「実際に触れる」ということは、とても大事なことですから。
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笹原さんのメイク道具
――技術はすべて独学だそうですね。  そうです。だから復元を始めた頃は、「このご遺体にはどう向き合ったらいいんだろう」と、よく困りもしました。けれどそういう時には、どこからか泣き声が聞こえてくるんですよ。「お父さんに会いたい」「お母さんに会いたい」「子どもに会いたい」って。そうすると、なんとかしてこの方をご家族に受け入れてもらいたい、という気持ちになるんです。がんばって生きてきたのに、最期に受け入れてもらえないなんて寂しいじゃないですか。残されたご家族が大好きだった顔に戻れば、その方の人生がさわやかに締めくくられるんです。責任は大きいですよ。特に震災では、幼い子どもを残して亡くなった方も多くいらっしゃいました。あまりに損傷が激しいと、子どもとの対面を避けるご遺族もいる。子どもが親と対面してちゃんとお別れするのは、死を受け入れるために大切なことのひとつです。  * * *  笹原さんは、ただ姿形を復元するだけではなく、遺族の心のケアも行うという。そのため、復元後は残された家族に参加してもらい、一緒に死化粧をしたり仏衣を整えたりして納棺する「参加型納棺」を提唱している。そこで遺族は初めて涙を流すことができ、思い出を語り、生前の家族の関係が戻ってくることも少なくないのだ。  * * *  納棺の時、私は、例えば「目は閉じますか? 開けますか?」とご家族に相談します。「みなさんのことを確認されたいかもしれないから、開けたままでもいい。でも、開いていると眼球の水分が抜けて、高さがちょっと変わったりする可能性もありますよ」と。そうした会話によってご家族は、亡くなった方のためを思って、どうすればいいかを一生懸命考える。参加型納棺は、そうした時間の積み重ねです。そうしてご家族は、ご遺体と対面しながら、いろんな感情を吐き出すことができる。私もご家族とコミュニケーションを取りながら、悲しみの中に何があるのかを把握し、お話をさせていただいています。私が話した内容を、亡くなった方の言葉として受け止める方も多いですね。「まるでお母さんが言ってるみたい」って。でも本当はそれは、ご家族自身の潜在意識の中にある声を、私が引き出してあげただけなんです。 ――過酷な復元処置をし、遺族の話をひたすら聞いて、笹原さんご自身には相当なストレスがたまるのではないでしょうか? 笹 この参加型納棺は、私にとってのケアにもなっていると考えているんです。ご家族同士、深いところで心が通じている、本当にいい時間なんですよ。そこに私も入れてもらって……大好きなんです、この仕事。ただ「つらい」ばかりだったら、続けていないと思います。もちろんご家族によっていろんなケースがありますから、たまに悪口で終わることもあります。ご遺族の嘘泣きも、すぐにわかりますよ(笑)。「嫌いだったけど、実際にいなくなると寂しいね」なんて言う人も。家族、いろいろあって当たり前、それもありだと思うんです。ふだん社会の中では仮面をつけているけれど、死の場面では、人の“素”の部分が出るんですよね。  * * *  死を受け入れて生きるとは、どういうことなのか? 笹原さんの著書は、それを教えてくれているのではないだろうか。 (文=安楽由紀子) ●笹原留似子(ささはら・るいこ) 1972年、北海道生まれ。岩手県北上市在住の「復元納棺師」。復元・納棺を専門とする株式会社「桜」の代表を務める。東日本大震災で300人以上の遺体を生前の姿に戻す「復元ボランティア」を行ったことが高く評価され、2012年、社会に喜びや感動を与えた市民に贈られる「シチズン・オブ・ザ・イヤー」を受賞。同年8月には、納棺現場での忘れられないエピソードなどを綴ったエッセイ『おもかげ復元師』と、震災後に復元して見送った方々の顔を描いたイラストエッセイ『おもかげ復元師の震災絵日記』(共にポプラ社)を出版した。

『ガレキ』──日本を席巻した200日の瓦礫問題が投げかけた震災後の「当事者性」【前編】

 東日本大震災の津波によって発生した大量の瓦礫は、福島第一原発の事故で流出した放射性物質を帯びているとされ、その後の瓦礫広域処理に際して大きな波紋を呼んだ。今年5月、北九州市で震災瓦礫搬入に際して受け入れ反対派が行なった抗議活動も記憶に新しい。  その後メディアの注目が大飯原発の再稼働問題へと移行したこともあり、広域処理問題への関心は後方に追いやられた。しかし、世間の関心が小さくなることに比例して問題そのものが小さくなったことを意味しない。  この現状に瓦礫広域処理問題への注目を再び促し、議論の材料とするために上梓されたのが丸山佑介著『ガレキ』(ワニブックス刊)である。同書には宮城県の村井知事、陸前高田の戸羽市長をはじめとする各地の首長、東松島市の臨時職員や元原発作業員など、被災地に今も暮らす人々を含めた、多くの当事者へのインタビューや現地ルポが収められている。  瓦礫広域処理問題が我々に投げかけたものは何だったのか。本書を契機としてあらためて議論すべきこととは何か。著者の丸山氏と津田塾大学准教授の萱野稔人氏の対談を軸にして、本書の意義と瓦礫広域処理問題であらわになった課題を聞いた。 ■「震災がやってくる」 丸山佑介(以下、丸山) 昨年11月に東京都の石原慎太郎知事が瓦礫の受け入れに反対する声に対して、「放射能のガンガン出ているものを持ってくるわけじゃない。『黙れ』っていえばいい」と発言してから、今年5月に北九州市で起きた受け入れ反対の抗議騒動までがおおよそ200日間でした。その北九州市での騒動と前後して生じた、大飯原発再稼働に関する議論が活発になると、瓦礫広域処理の問題は収束してしまったかのようになった。本書『ガレキ』ではこの約200日間の現象を「ガレキ問題」として捉えているんですが、この時期の現象が今ではあまり顧みられなくなっているんですね。 萱野稔人(以下、萱野) 大飯原発再稼働の問題が生じてから、瓦礫の問題が後景に退いてしまって、ぷっつり瓦礫の話題がなくなってしまったという印象はありましたね。そもそもこの震災瓦礫の問題とは何であるのかという検証もされていないままで、そのための呼びかけがなされなければならない。本書はその役割を担う、第一級の材料になるのかなと思います。当事者の意見が集められているというのは本当に大きい。 丸山 単純な瓦礫受け入れの推進や反対を促したいのではなく、震災瓦礫の問題を議論するための記録にこの本がなればと考えています。瓦礫に対して異常にヒステリックになっていた、あの状況って何だったんだろうというのは国民全体の中に少なからずあると思う。 萱野 昨年9月に愛知県の花火大会で福島産の花火が使用されることに苦情が来て打ち上げが中止になったり、京都五山送り火に使用する予定だった陸前高田市の薪が受け入れ中止になったりと、こうした事態の前兆はありました。それら受け入れ問題の、いわば本丸が瓦礫広域処理です。これは関東以西に居住する人たちにとっては、初めて「東日本大震災がやってくる」という状況であったとも言えます。つまり、揺れなどの被害を直接受けなかった人々が、この震災において初めて当事者になりうる事態になった。 丸山 「震災がやってくる」という感覚はその通りですね。対岸の火事ならば落ち着いていられるのに、自分たちのこととなるとこんなに右往左往してしまう。被災地でインタビューをしていて印象に残ったのは、これまで全国の人々は支援してくれていたのに、瓦礫広域処理の問題となると途端に、反対運動をしている人たちの罵声が自分たちに直接突き刺さったと。反対派が「けがれている」として拒絶するその瓦礫の、すぐ横に被災地の人々は住んでいるわけですから。 萱野 そうした声は被災地そのものに対する否定の言葉になってしまいますよね。いざ当事者になってしまうと自分のことしか見えなくなってしまって、自身の言葉が被災地への否定となっていることに考えが及ばない。 丸山 受け入れに関して意見が分かれるのは当然だとしても、声を上げる際に、そこに配慮した言い方というのはあるはずじゃないか。そんな思いも、この本を書いた動機としてはあります。 萱野 福島から他地域に避難した子供がその地域の学校でいじめられたという話もありましたが、被災地の人々は県外に行けば自分たちがそうした扱いを受ける存在になってしまったのだと感じるわけですよね。いわれのない差別が生じていて、福島の女子高生たちが、私たちはもう福島の人としか結婚できないよねという話をしていたりする。県外に出た人たちや震災瓦礫がそうした扱いを受けることで、被災地に暮らす人々は被災地全体が否定されたと、当然受け取ってしまう。そのことに思い至らないくらいパニックになってしまう人が多く出るような事態になった。 ■東京に当事者性があったということ 丸山 先ほどの関東以西が初めて東日本大震災の当事者になったという話でいうと、震災発生直後は、地域による温度差を確かに感じました。震災後に、九州や沖縄を取材していたのですが、東京ではいたるところに貼ってあった「絆」ステッカーが、西に行くほど少なくなっている。現地で話を聞いてみても、当事者性の薄さというのは感じられました。 萱野 関東以西の温度差は違いましたね。逆に言えば、東京があそこまで揺れて、計画停電の実施や、荒川区で高い放射線量が検出された等の出来事がなければ、全国問題としてここまでの大きな扱いにはなっていないかもしれない。東日本大震災は東京が巻き込まれた災害だった、つまり東京に当事者性があったということです。だからこそここまでのナショナル・インタレストになったということはあるでしょう。 丸山 石原都知事の瓦礫受け入れについての発言も、まさに東京に当事者性があったことを示しています。 萱野 関東以西などの地域の人たちにとっては、瓦礫受け入れ問題によって初めて当事者性に直面した。そうした時に、それまでとは違う側面、被災地を否定するような反応も見えてきたということですね。 (後編へ続く/取材・構成=香月孝史 http://katzki.blog65.fc2.com/●まるやま・ゆうすけ maruyama000.jpg ジャーナリスト、ノンフィクション作家。1977年宮城県仙台市生まれ。考古学を専攻し國學院大學大学院修了後、日雇いや派遣労働などを経てビジネス書出版社に勤務。その後、フリージャーナリストとなる。裏社会の要人や犯罪者へのインタビュー、国内外の危険地帯への潜入取材を得意とし、これまで週刊SPA!、週刊現代、FLASH、週刊アサヒ芸能、日刊サイゾーなどの各媒体で北九州連続企業テロ事件、東日本大震災の火力発電所原油流出事故、避難所の性問題、福島原発5km圏内の被災動物などのルポを発表している。 ●かやの・としひと kayano000.jpg 1970年、愛知県生まれ。03年、パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。哲学博士。津田塾大学准教授。主な著書に『国家とはなにか』(以文社)、『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、『権力の読みかた』(青土社)など。近著に『最新日本言論知図』(東京書籍)、『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)など。

震災から1年半……「傷ついた心の復興は進んでいない」福島のいま

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 マグニチュード9.0の揺れが東北地方を襲った3月11日から1年半。一見すると、日本社会はかつての落ち着きを取り戻しているかのように見える。「震災から1年半『も』たった」という言葉も聞かれるほど、震災の記憶は遠いものとなっている。東京に限っていえば、まるで震災などなかったことのように、いつもの日常が繰り広げられている。しかし、被災地に流れている時間は、東京のそれとはまったく異なっていた。今年8月後半に、福島県いわき市から楢葉町までを訪れた様子をレポートする。  常磐道を使えば、わずか2時間あまりで福島県内に入る。現在も至るところで「東日本大震災復興工事」の標識を立てた修復工事が行われていた。いつもと変わらない交通量の常磐道。しかし、いわき中央ICを通り過ぎると、通行する車の数は激減する。いわき中央ICの次にある広野ICから先は、原子力災害対策特別措置法に基づいて、いまだに通行止めとされているからだ。その広野ICを降りて、国道6号線方面に向かう。 ■手付かずのままの楢葉町  高速道路を降りて3分も走れば、福島第一原発事故の対応拠点となっているJヴィレッジにたどり着く。かつてはこの場所に検問が敷かれており、ここから先は立入禁止区域に指定されていたものの、この8月から避難区域が再編。原発から20km以内となる楢葉町も立入禁止となる「警戒区域」から、日中の出入りが自由となる「避難指示解除準備区域」に変わった。それに伴って、検問はJヴィレッジ前から数キロ先にある楢葉町と富岡町の境界付近まで後退することとなる。
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 旧検問を通り過ぎ、楢葉町に足を踏み入れると、これまで見てきた風景は一変する。  出入りは自由となったものの、いまだに夜間の宿泊は認められておらず、そこで生活を送ったり、店舗の営業を再開することはできない。楢葉町では8月初旬まで立入禁止区域に指定されていたことから、復旧作業も手付かずのままになっている。  かつて田んぼや畑が広がっていたであろう場所には、稲の代わりにセイタカアワダチソウが生い茂り、人の背の高さにまで成長している。国道沿いには民家が点在しているものの、カーテンが閉められ、生活の息遣いは聞こえてこない。さらに車を走らせていくと、地震で崩れたままの家屋や家の塀、看板なども散見された。  国道から外れ、海のほうへと車を走らせると、津波でぐにゃぐにゃにねじ曲げられたガードレールや、雑草の間に横たわるがれき、折れたままの電柱などが目に付く。ちょうど1年前にも僕はいわき市を訪れたのだが、まさにその時に見たままの状態だった。
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 以前、ある避難民が「家に戻るつもりはない」と語る姿をテレビで見たことがある。避難先で、あくまでも“仮の生活”を送る彼らが、いったいどうして故郷に戻る気持ちを失ってしまうのか、その時はまったく理解できなかった。しかし、楢葉町の風景を見るにつれ、なんとなくその気持ちもわかってくる。  1年半の歳月をかけて、彼らは避難先での生活を積み上げた。その生活を捨て去り、ゼロ以下のマイナスから新たな生活をスタートさせるのは、とても難しいことだろう。すでに世間や自分の中にあった非常時の一種の高揚感も静まった。荒れ果てた故郷を元に戻そうというパワーが出ず、避難先での現状維持を望むのは決して特殊なことではないだろう。 ■観光バスが被災地に乗り付ける  続いて訪れたのは、いわき市の北端沿岸部に位置する久之浜地区。地震発生直後、津波、火災が重なり壊滅的な被害を受け、この地域だけでも数十人の人々が亡くなった。  昨年訪れた際は、緊急にがれきを撤去し、やっと車が通れるような状態だった。そこから1年を経て、現在ではがれきやボロボロの建物のほとんどは撤去され、基礎だけしか残されていない更地の状態が広がっている。  地元住民によれば「がれきや壊れた建物が残っていると、暗い気持ちになってしまうから、なるべく早く取り除いたんです」と、スピーディな歩みを進めてきた久之浜。だが、ここに来て、ある問題点が湧き上がっている。「集団移転をするのか、この場所で住み続けるのか、役所のほうで今後の方針が定まらず、建物を建てることもままならない。方針が決まれば着工できるんだけど……」と、対応の遅い行政にいら立っている様子だ。
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 そんな久之浜地区を取材していると、観光バスに乗った集団がやってきた。遠目から見ると、オバチャンたちの集団だろうか。まるで、観光地に降り立ったかのように日傘を差しながら久之浜の状況を写真に収めている。自分のことを棚に上げ、どことなく感じてしまう違和感。だが、その風景を見たある住人が語った言葉が印象深かった。 「久之浜の現状を見てもらうことは、次の防災につながると思うんです。いろいろな意見はあると思うが、個人的にはどんどん来てほしいと思っている」  これは、あくまで一部の意見であり、地元住民の総意ではない。しかし、被災地を“観光”し、その被害の様子を自分の目で確認することで、テレビで見たものとは異なった印象を受けるに間違いない。 ■市民と避難民との軋轢  ひとたび沿岸部を離れ、市街地のほうに足を運ぶと、そこには東京とほとんど変わることのない日常が広がっている。建物や道路の復旧工事の多くは完了し、放射線量はおよそ0.1マイクロシーベルトと、南関東の数値とほとんど変わらなくなってきている。いわき市の中心部に限っていえば、「被災地」としての姿を見つけることのほうが難しい。  しかし、そんないわき市で取材を行うと、聞こえてきたのはいわき市民と原発近くから避難している避難民との軋轢。 「彼ら(避難民)の一部は、東電からの補償金で、昼間から酒を飲みパチンコに行くような生活をしている。いわきの道路を使って、いわきの施設を使用しているのに、いわきに税金を払っていません」 「いわき市内では避難民による交通事故が増えています。聞いた話では、事故を起こしながら、第一声が『私は避難民だ』ということ。避難していることと、事故を起こしたことは関係ないはずなのに、同情を買おうとしているんです」  こういったウワサの真偽は不明だが、避難民の話を始めると、顔をしかめながらこの手のウワサ話を語る人は多い。こんな状況を指して、ある住民はこう嘆く。 「建物や道路などの表面上では、いわき市内の復旧は進んでいます。しかし、市民の心はまだ復興されていないんです。他人に向ける心の余裕がなく、こういったウワサ話が流布してしまうのではないでしょうか……」  今回、被災地を取材して感じたことはやはり、震災から1年半「も」たったのではなく、震災から1年半「しか」たっていないということだった。表面上は取り繕われていても、まだ震災の感覚はリアリティーを持ってわたしたちの記憶の中に刻まれている。いわき滞在中の8月31日深夜、フィリピン沖で発生したM7.6の地震によって、日本全国に津波注意報が発令された。わずか50cmという予報だったが、その時、僕の頭にはありありと1年半前の記憶が蘇り、言いようのない不安に身体が支配された。  では、震災から1年半「しか」たっていない状況で、わたしたちが目指していく「復興」とはなんなのだろうか? 何が達成されたら、「復興した」ということができるのだろうか? 最後に、今回の滞在中に経験したある出来事を記して拙稿を締めくくりたい。  1年前に訪れた時、Jヴィレッジ前の検問付近には、どこか物々しい雰囲気が漂っていた。赤いサイレンが明滅し、数台の護送車と10人ほどの警察官が警備にあたっていた。国道6号線を歩く人もおらず、歩道には伸びきった夏草が刈り取られないまま放置されていた。  だが、今回同じ場所を訪れた時、昨年とは異なった感覚を味わった。検問がないこともそうだが、そこには除染作業や工事を行っている人の姿があり、1年前は国道を走る車の音しかしなかった場所で、重機を動かす音や、何かを話している人の声も聞こえてきた。最前線の物々しい雰囲気はそこにはなく、人間が生活をしている時間が流れていたのだ。1年を経て体験した時間の流れ方の変化は、建物や道路が元に戻る以上に「復興へ近づいた」と感じられた。 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン])

盛り上がりを見せる脱原発デモの行く末は? 成田闘争に見る、“未決着”市民運動の現在

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 毎週金曜日、首相官邸前には数万人ものデモ参加者が足を運び、「脱原発」の声を上げている。8月にはデモ主催者が野田佳彦首相と面会するという快挙を達成し、日本における市民運動が新たな局面を迎えたことは広く報道された。  しかし、複雑な思惑が入り乱れる原発問題が、早晩の解決を迎えるとは言い難い。現に、原子力の安全規制を担う新組織「原子力規制委員会」の人事は相も変わらず原子力ムラからの人選が濃厚となっているし、産業界では“脱原発は経済に悪影響を及ぼす”との声が強い。仮に野田首相が言う「脱原発依存」が正式に閣議決定されたとしても、避難生活を強いられている福島の人々は、場合によれば数年、あるいは数十年にわたって故郷を追われる。彼らが故郷に戻れる日が来るまで、原発問題は続いていくのだ。長期化するにつれ、現在盛り上がりを見せる脱原発運動はどのような形になっていくのだろうか……。  そのヒントとなる運動が、日本の玄関口である千葉県・成田空港で展開されている。  年間18万回も航空機が離発着し、旅客数は2,800万人を数える成田空港。いまやアジア有数の大空港であり、交通だけでなく物流の拠点としても欠かすことはできない。だが、この成田空港の内側に「民家」があることを知っている人はあまり多くないだろう。空港の内側に取り残された東峰地区、天神峰地区にこの民家は点在している。道路標識を見ると、「空港整備区域」と表示され、矢印は示されていないものの、地図を見ればしっかりと道が続いているようだ。 IMG_5377.jpg IMG_5404.jpg  空港の外側から、きれいに整備されたトンネルを潜り100メートルほど進むと、ぱっと視界が開けてくる。そこに現れるのは、雑木林に囲まれたいくつかの民家と野菜畑。四方を取り囲む塀のすぐ向こうは成田空港の敷地内であり、常に飛行機の轟音が響き渡っている。「第3誘導路粉砕!」という看板とともに、ここで生活を送っている人々がいる。  この奇妙な風景が生まれた原因は、40年以上前の活動にさかのぼる。  成田空港は「三里塚御料牧場」と呼ばれる皇室の広大な土地を払い下げられて、1960年代より建設が開始された。この土地を利用して40%の敷地は獲得できたものの、あと60%を得るためには、そこに住んでいた千数百人の人々を移転させなければならなかった。空港予定地の周囲では反対運動が噴出し、計画も二転三転。1966年に、政府は地元の合意も得ないまま、空港建設地を現在の三里塚・芝山地区に決め、強引に計画を推進することとなる。だが、当然この強硬な土地買収がうまくいくはずもなく、住人と政府側との軋轢は広がるばかりだった。  この新空港反対運動に、東京などの都市から学生や活動家らが参加するようになると、事態は混迷を極めてゆく。機動隊との衝突、過激派による放火事件、さらにはセクト間のいざこざなど、反対運動は激化の一途をたどる。三里塚闘争とも成田闘争とも呼ばれるこの運動の結果、警察・市民合わせて6人もの死者を出してしまった。 IMG_5387.jpg IMG_5391.jpg  このような経緯を経て、成田空港が開港したのは1978年。だが、開港から30年あまりの月日を経ても、買収に応じずいまだに生活を続けているのが東峰・天神峰地区の人々だ。  実際にこの地区に足を踏み入れると、ゲバ文字で書かれた看板のほかに「らっきょう田舎漬 小売販売します」といったものや、「オーガニック&スローフード」といった看板までも並んでいる。また、空港に隣接した別の未買収地域には、「三里塚空港粉砕!」の言葉とともに「TPP反対」といった最新のメッセージまでもが加えられていた。  また、東峰地区には、「東峰神社」と呼ばれる地域の神社も残されている。資料によれば、戦前に地元住民によってしつらえられたものだそうだが、空港の敷地を示す白い塀で四方を囲まれた境内は、異様な空間としか思えない。過激派の動きに備えてか、常時警備がなされているようで、そこに赴くと空港敷地内からは警備員が、道路側には警察車両がいつの間にか待ち構えていた。職務質問などはなされなかったが、正直、居心地がいい場所ではない。 IMG_5320.jpg  地域の住人に話を聞いたところ、現在でも十数名の人々が東峰・天神峰地区で生活を送っているという。ただ、かつてのように強硬な反対運動を続けているわけではないようだ。 「多くの住人が『闘争は終わった』という認識です。徹底抗戦をして飛行機を止めようと言っている人は極めて少数です」  彼によれば、空港側からも「ここに住み続けていい」という認定を得ており、警察からの圧力もないそうだ。では、いったいどうして彼らは、お世辞にもよい環境であるとはいえないこの地域に住み続けているのだろうか? 長い空白の後に、彼はためらいがちに答える。「……まあ、過去をそのまま引きずっているという面が強いのでしょうね」  当時を知る地元の元空港公団職員も「確かに、空港と住民との間に『ボタンの掛け違い』があった。公共事業の進め方として反省すべき点は多い」と過去の過ちをはっきりと認めている。昨年6月、空港公団では芝山町に「成田空港 空と大地の歴史館」を建設。成田空港の建設にまつわる反対運動の歴史をまとめた資料を展示している。そこに設置された記帳台には、はるばる福島から訪れた人もその心境を書いており、空港によって故郷を追われた人々に対するシンパシーを綴っていた。  安心して暮らせる社会を目指して脱原発に舵を切るのか、それともこれまで通り原発と共に暮らす経済優先の道を選ぶのか、その決着はまだ見えない。脱原発運動がどのような結果となるにしろ、「声を上げない」「政治に無関心」と言われていた国民が、10万人以上も集まって運動に参加しているという現実は、日本社会にとっても大きな意味を持つ。政府・市民双方が、成田闘争をはじめとする過去の政治運動の反省を踏まえ、このデモ活動が私たちの明るい未来につながることを期待したい。 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン])

「アートには本当に力があるのか?」アートセンターから避難所へ 被災地の劇場・いわきアリオスの挑戦

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いわきアリオス
 福島県いわき市にある公共劇場「いわきアリオス」は2008年4月にオープンした公共劇場だ。4つのホールとともに16のリハーサル施設、キッズルーム、交流施設などを備えた総合的なアート施設として、常に市民に開かれた活動を行ってきた。2011年3月11日、開館からの延べ来館者数が200万人を突破するであろう記念すべきその日、アリオスは震度6弱の地震に見舞われた。『文化からの復興 市民と震災といわきアリオスと』(水曜社)は、開館から震災後までのいわきアリオスの活動をまとめた一冊だ。  2008年の開館より、一貫して市民のための運営を行ってきたアリオス。公共劇場には珍しいマーケティング部を設置し、市民にとって何が必要なのかをリサーチしながら運営されてきた。世界的に有名なオーケストラや劇団のステージ、有名なアーティストのライブ、そして、市民参加型のアートプロジェクトなど、その活動は多方面に及ぶ。しかし、3月11日を境に、その活動は大きな変更を余儀なくされた。  3月11日からアリオスに与えられたのは、被災者の避難所としての役割だ。もともと、避難所に指定されていたのはアリオスの前庭だけだったが、「屋根のある公園」というコンセプトのためか、自然と屋根のあるアリオス内部が避難所として使用されるようになった。間断なく強い余震が襲い、およそ50km離れた福島第一原発では水素爆発が発生する中、避難所の人々は人生で味わったことのないような不安に苛まれている。「アートには本当に力があるのか?」これまで、市民とともに活動を行い続けてきたアリオスは、アートの現実に直面した。 「いわきアリオスは『アートセンター』として、何も期待されていないことだけは明らかだった。(中略)そもそも、避難所暮らしをしていたスタッフたちすら、舞台芸術に触れようとする意欲が失せ、舞台芸術の持つ『力』が信じられなくなっていた」(本書より)  アートに関わる人間だけでなく、日本中のほとんどの人々が「今、自分に何ができるか」を考えただろう。原発から50km、“被災地の劇場”として、アリオスはその最前線に立たされた。そんな混乱した状況の中、支配人の大石時雄はこのように語った。 「まずは、これからここに暮らし、生きようとしている人たちが、今本当に何を必要としているのかを、見て、考えるべきではないか。それなしに、自分たちの『思い』だけで走れば、断言するが、アリオスは市民にとって『要らないもの』と思われるはずだ」  そして、震災後のアリオスの活動は、リサーチから始まった。東京23区の2倍という広大な面積を持ついわき市。同じ市内とはいえ、津波に襲われた小名浜地区をはじめとする海岸沿いと山間部では、被災の状況がまったく異なっている。その被災格差を熱心にリサーチしながら、要望のあった地域に向けて、出張コンサートやワークショップなどを行う「おでかけアリオス」を再開。劇場そのものは、安全性の確認が取れるまで長期休業となるが、それ以外の場所ならば活動が可能だ。音楽家や劇団、落語家などを招聘して行われた「おでかけアリオス」のプロジェクトは2011年度に90回を数え、震災後を生きる多くの市民にとっての希望となった。  アリオスのマーケティングマネージャー・森隆一郎が掲げるのが、「OS」としての劇場だ。これまでの文化施設はアプリケーションとしての「作品」の提供に主眼が置かれていた。しかし、OSという考え方を導入すれば、ロビーの運営というインターフェース、市民に向けてソースコードを公開し、新たなアプリの開発を促すなど、これまでの公共劇場が見えていなかった部分が明らかになってくる。  震度6の地震に襲われても、この軸はブレなかった。アリオスはOSとして、市民たちが震災後のモヤモヤとした感情を話し合う「いわき復興モヤモヤ会議」を開催したり、市民からは映画の巡回上映会や、原発事故によって外で遊ぶことのできない子どもたちに遊び場を提供する「こどもプロジェクト」などが提案され始動した。アリオスというOSにのっとって、市民からさまざまなアプリが開発され、それをまた別の市民が楽しむ。一時はビジー状態だったOSは、1年半を経て、復興に向けて徐々に起動を開始している。  パソコンを例にすれば、「パソコンがあればなんでもできろんだろ?」と、PCを使えないおじさんたちが言う言葉にイラッとするように、「アートはなんでもできる」と、関係者ですら考えがちだ。しかし、パソコンにもできることとできないことがあるように、アートは万能薬ではない。そのユーザーの使い方によってもまた、効果は異なってくる。だからこそ、アリオスでは熱心に市民にリサーチを行い、マーケティングを実施しながら「必要な」アートを模索し、それが本当に効果を上げるための施策に頭を悩ませてきた。その結果、未曾有の災害が襲ってきても、アリオスは「今すべきこと」と「今すべきでないこと」を冷静に選択できた。 「震災のおかげで、『いわきアリオスはこうあらねばならない』という固定概念は、さらに取り払われた。いわきアリオスの未来の台本は、このまちに住む人たちが、日々、少しずつ描き足していくのだ。  大震災から1年の経験は、いわきアリオスのこれからに、確かなビジョンを与えてくれた」(本書より)  今年7月にいわきの街を訪れると、あたかも平静を取り戻しているように感じた。しかし、夏休みの子どもたちが外で遊ぶ姿は見られず、ところどころ地震によって歪んだアスファルトがそのままになっている。建物だけではなく、そこに住む人々の心が復興を遂げるためには、まだまだ多くの時間がかかることだろう。その中で、200万人目の来館者に被災者を迎えたアリオスが果たす役割は大きいはずだ。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

“ふるさとをあきらめない”詩人が耳を傾ける、25人の福島の現実

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『ふるさとをあきらめない—
フクシマ、25人の証言—』(新潮社)
 2011年10月17日、作家・高橋源一郎はTwitter上で展開する「午前0時の小説ラジオ」で、このようにツイートした。 「その分断線は誰が引いたのか。ぼくたちが自分の手で引いたのだ。その、いったん引かれた分断線は、二度と消えることがないのだろうか。分断線を越えること、分断線を消すことは不可能なのだろうか。自分が引いた分断線から、ぼくたちは出ることができないのだろうか」  東日本大震災は、日本中のほとんどすべての人々に深い断絶をもたらした。東日本/西日本、東北/首都圏、原発推進/脱原発、そして、被災者か否か。詩人・和合良一の新刊『ふるさとをあきらめない—フクシマ、25人の証言—』(新潮社)は、福島の「被災者」たちへのインタビューで構成されている。酪農家、アナウンサー、カフェ経営者、主婦、パチンコ店、それぞれ立場の違う25人が、和合に自身の震災の経験を語る。  現在では3万人あまりが県外に流出してしまったものの、震災直前に「福島県民」と呼ばれる人々は200万人を数えた。そのほとんど全員が、あの日を境に「被災者」と呼ばれるようになった。しかし、広大な面積を持つ福島県には、一言では言い表すことができないほど多様な被災者たちが存在する。津波で家を流された者、原発事故により避難生活を強いられている者、風評被害に苦しめられている農家、さまざまなレイヤーによって「福島の被災者」という総体は織りなされているのだ。和合は、そんな違いを持った彼らの声に丹念に耳を傾ける。「3月11日午後2時46分を、どのように受け止めたのか」「どんな生き方をしていきたいのか」という2つの大きな質問を軸に、対話は進んでいく。  福島が直面する「原発事故」に対しても、そのスタンスはさまざまだ。「子どもを守るために」と避難をした者もいる。あるいは「新しい環境は子どものストレスになるから」と福島にとどまった者もいる。「原発は即時撤廃させなければならない」と息巻く被災者も、「仕方がないのではないか」とあきらめ顔の被災者もいる。  松田文は37歳、いわき在住の介護士であり、仕事中に震災に直面した。毎時23マイクロシーベルトの放射線量を恐れ、彼女の勤める作業所は一時東京に避難した。しかし、東京で避難生活を送っていた彼女の気持ちは休まらなかった。 「受ける側というか、被災者の『被』っていう立場でただ何もせずにいる状況はどうなのかな、と。なんかこう、自分の中で擦り切れてくる部分があって。人として失っていく何かが、尊厳っていうか、なんて表現すればいいんだろう」(本文より)  そして、原発事故をきっかけに国やメディアに対しての信頼を失った彼女は、自分が子どもを授かることも「やっぱり厳しいかな」と思っているという。 「遺伝子に傷がつくんじゃないかとか。生んだ子どもが健康だとしても、次の世代、その次の世代を考えた場合、やっぱり何か影響が出てくるんじゃないかとか」(本文より)  そして、「個人的には私は福島、郡山はもう人が住むべきではないと思っている」という率直な気持ちを明かす。活字なので、その語り口はわからないものの、おそらくそこにはさまざまな感情が渦巻いているはずだ。  和合は、「福島県民は福島に残らず『避難したほうがいい』」という、ある文学者の言葉を読み、苛立ったという。その言葉はあたかも、避難する者/しない者の間にきっぱりと線を引き、福島に残ることが無知であると語っているかのように感じたからだ。しかし、詩人はただ苛立っているだけではない。その苛立ちを祈りに変えて、新たな言葉を紡ぎ上げる。あとがきで、和合はこう語る。 「ここに込められているインタビューの集合体に、いつしか私の震災の日々の思考を、他者の言葉であらゆる限りに込めたいと願うようになった。自分ではなく誰かに語ってもらったものに<宿る>何かこそが真実だと確信した」  その意味で、本書のインタビューは、和合にとっての新たな「作品」である。  「被災者ではない」我々は、いとも容易く「被災者の気持ちを考えろ」というような言葉を発してしまう。しかし、それは「被災者」として分断線を引かれた人々を一様にしかとらえられていない。「被災者」などという人間は存在しない。そこには「被災した人間」が存在しているのだ。そんな分断線を乗り越えるために、本書は刊行された。分断線を乗り越えた先には、とても単純ではあるものの、時として忘れがちな「福島の人々」の姿が浮かび上がってくる。 ●わごう・りょういち 1968年福島生まれ。福島市在住。詩人。高校の国語教師。『AFTER』(思潮社)で中原中也賞受賞。『地球頭脳詩篇』(思潮社)で晩翠賞受賞。2011年3月11日、伊達市にある学校で被災。避難所で数日過ごした後、自宅からTwitterで詩を発信し続け大反響を呼ぶ。近著に、『詩の礫』(徳間書店)、『詩の邂逅』(朝日新聞出版)、『詩ノ黙礼』(新潮社)など。Twitterは今も続けられている。

“ふるさとをあきらめない”詩人が耳を傾ける、25人の福島の現実

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『ふるさとをあきらめない—
フクシマ、25人の証言—』(新潮社)
 2011年10月17日、作家・高橋源一郎はTwitter上で展開する「午前0時の小説ラジオ」で、このようにツイートした。 「その分断線は誰が引いたのか。ぼくたちが自分の手で引いたのだ。その、いったん引かれた分断線は、二度と消えることがないのだろうか。分断線を越えること、分断線を消すことは不可能なのだろうか。自分が引いた分断線から、ぼくたちは出ることができないのだろうか」  東日本大震災は、日本中のほとんどすべての人々に深い断絶をもたらした。東日本/西日本、東北/首都圏、原発推進/脱原発、そして、被災者か否か。詩人・和合良一の新刊『ふるさとをあきらめない—フクシマ、25人の証言—』(新潮社)は、福島の「被災者」たちへのインタビューで構成されている。酪農家、アナウンサー、カフェ経営者、主婦、パチンコ店、それぞれ立場の違う25人が、和合に自身の震災の経験を語る。  現在では3万人あまりが県外に流出してしまったものの、震災直前に「福島県民」と呼ばれる人々は200万人を数えた。そのほとんど全員が、あの日を境に「被災者」と呼ばれるようになった。しかし、広大な面積を持つ福島県には、一言では言い表すことができないほど多様な被災者たちが存在する。津波で家を流された者、原発事故により避難生活を強いられている者、風評被害に苦しめられている農家、さまざまなレイヤーによって「福島の被災者」という総体は織りなされているのだ。和合は、そんな違いを持った彼らの声に丹念に耳を傾ける。「3月11日午後2時46分を、どのように受け止めたのか」「どんな生き方をしていきたいのか」という2つの大きな質問を軸に、対話は進んでいく。  福島が直面する「原発事故」に対しても、そのスタンスはさまざまだ。「子どもを守るために」と避難をした者もいる。あるいは「新しい環境は子どものストレスになるから」と福島にとどまった者もいる。「原発は即時撤廃させなければならない」と息巻く被災者も、「仕方がないのではないか」とあきらめ顔の被災者もいる。  松田文は37歳、いわき在住の介護士であり、仕事中に震災に直面した。毎時23マイクロシーベルトの放射線量を恐れ、彼女の勤める作業所は一時東京に避難した。しかし、東京で避難生活を送っていた彼女の気持ちは休まらなかった。 「受ける側というか、被災者の『被』っていう立場でただ何もせずにいる状況はどうなのかな、と。なんかこう、自分の中で擦り切れてくる部分があって。人として失っていく何かが、尊厳っていうか、なんて表現すればいいんだろう」(本文より)  そして、原発事故をきっかけに国やメディアに対しての信頼を失った彼女は、自分が子どもを授かることも「やっぱり厳しいかな」と思っているという。 「遺伝子に傷がつくんじゃないかとか。生んだ子どもが健康だとしても、次の世代、その次の世代を考えた場合、やっぱり何か影響が出てくるんじゃないかとか」(本文より)  そして、「個人的には私は福島、郡山はもう人が住むべきではないと思っている」という率直な気持ちを明かす。活字なので、その語り口はわからないものの、おそらくそこにはさまざまな感情が渦巻いているはずだ。  和合は、「福島県民は福島に残らず『避難したほうがいい』」という、ある文学者の言葉を読み、苛立ったという。その言葉はあたかも、避難する者/しない者の間にきっぱりと線を引き、福島に残ることが無知であると語っているかのように感じたからだ。しかし、詩人はただ苛立っているだけではない。その苛立ちを祈りに変えて、新たな言葉を紡ぎ上げる。あとがきで、和合はこう語る。 「ここに込められているインタビューの集合体に、いつしか私の震災の日々の思考を、他者の言葉であらゆる限りに込めたいと願うようになった。自分ではなく誰かに語ってもらったものに<宿る>何かこそが真実だと確信した」  その意味で、本書のインタビューは、和合にとっての新たな「作品」である。  「被災者ではない」我々は、いとも容易く「被災者の気持ちを考えろ」というような言葉を発してしまう。しかし、それは「被災者」として分断線を引かれた人々を一様にしかとらえられていない。「被災者」などという人間は存在しない。そこには「被災した人間」が存在しているのだ。そんな分断線を乗り越えるために、本書は刊行された。分断線を乗り越えた先には、とても単純ではあるものの、時として忘れがちな「福島の人々」の姿が浮かび上がってくる。 ●わごう・りょういち 1968年福島生まれ。福島市在住。詩人。高校の国語教師。『AFTER』(思潮社)で中原中也賞受賞。『地球頭脳詩篇』(思潮社)で晩翠賞受賞。2011年3月11日、伊達市にある学校で被災。避難所で数日過ごした後、自宅からTwitterで詩を発信し続け大反響を呼ぶ。近著に、『詩の礫』(徳間書店)、『詩の邂逅』(朝日新聞出版)、『詩ノ黙礼』(新潮社)など。Twitterは今も続けられている。

殺風景な仮設住宅のイメージがガラっと変わる!?『仮設のトリセツ』

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『仮設のトリセツ――もし、仮設住宅で
暮らすことになったら』(主婦の友社)
 「首都圏で4年以内に70%」「東海地方では30年以内に88%」など、近い将来、巨大地震の発生が予測されている地震大国ニッポン。いまや、“仮設住宅住まい”は、他人事ではないのかもしれない。  東日本大震災から早1年。今も多くの被災者が仮設住宅での生活を余儀なくされている。仮設住宅というと、避難所よりはずっといいけれど、殺風景でなんとなく生活感のない印象があるが、そんなイメージをガラっと変える1冊『仮設のトリセツ――もし、仮設住宅で暮らすことになったら』(主婦の友社)が発売された。  「仮設住宅」と「トリセツ」――。一見、違和感がある言葉の組み合わせだが、「もし、仮設住宅で暮らすことになったら……」というネガティブな問いをポジティブに変えるヒントがつまっているのだ。  仮設住宅には、意外と知られていないルールがいくつかある。入居期限は原則2年(場合によって延長できることもある)。家賃は無料だが、水道・ガス・電気は居住者負担となる。生活に必要な電化製品6点は日本赤十字社によって希望者に支給されるが、テレビは32インチの液晶、炊飯器は5.5合などサイズが決まっている。また、こまごまとした物は家族構成に合わせて支給され、「100点セット」と呼ばれることもあるが、下着は上下3セット、靴下2枚などのほか、綿棒や目ざまし時計などもある。  一言に“仮設住宅”といってもさまざまなタイプがあり、コンテナユニットによるちょっぴりおしゃれな3階建て、切妻屋根、ログハウス型、一戸建てなどなど。さらに海外では、トレーラータイプ(アメリカ)、ブルーシート(インド)、高床式(インドネシア)など、日本以上にバリエーションに富んでいる。 ■仮設の達人~究極のリフォーム~  たとえ、期間限定の仮住まいとはいえ、仮設住宅は“自分の家”であることには変わりない。本書では、そんな仮設住宅の住み心地をよくするためのリフォーム術が写真やイラスト付きで多数紹介されているが、リフォームというより、カスタマイズに近いのかもしれない。軒先のひさしは当たり前。洗濯物も干せる玄関前の「風除室」や、花壇、ベンチ、キッチンカウンターなど居住者のアイデア満載だ。さらに、床下や隙間をうまく使った収納上手さんまで登場。仮設住宅には次の入居者はいないため、すぐに取り壊せるレベルのDIYが可能。よってこのようなリフォームが手軽にできるのだそうだ。  車も通らない仮設団地の通路には子どもたちもいっぱい。元気に遊びまわり、夏にはお祭り、おえかき教室やボランティアさんとの鬼ごっこ……。家の中から子どもたちの様子が手に取るように分かることも含めて、古き良き昭和の長屋のような雰囲気だ。  「誰にでも住める」仮設住宅は、「誰にでも住みにくい」住宅でもある。そんな殺風景な仮設住宅が並ぶ仮設団地は、カスタマイズによって人の手が入ることでだんだんと街らしくなっていくのだ。 ■『仮設のトリセツ』著者は大学教授  本書の著者は、新潟大学工学部建設学科准教授の岩佐明彦氏。新潟では、2004年から07年にかけて、7.13水害、中越地震、中越沖地震という3つの災害が続いた。これらの3つの災害で計5,500戸の仮設住宅が建設され、たくさんの人が一時的に不自由な生活を強いられた。新潟大学工学部の岩佐研究室では“同じ新潟に住む者として何かできないか”と、「仮設de仮設カフェ」というプロジェクトを実施。実際に被災地へ足を運び、仮設住宅に住む人々から仮設住宅の暑さをしのぐ方法や彩りを与える方法、ご近所さんと仲良くなる方法など、さまざまな「仮設の知恵」をヒアリング。居住者による環境改善策に注目しながら、仮設住宅の居住環境支援に取り組んできた。  東日本大震災ではこれまでに蓄積されたアイデアをもとに、ウェブサイト「仮設のトリセツ」(http://kasetsukaizou.jimdo.com/)を開設。被災地へ何度も足を運び、居住者に仮設住宅の改善策をレクチャーしたり、冊子を配布するなどの活動を行ったそうだ。 「つらいことばかりじゃありません。この本のアイデアで前向きに暮らしています」(福島県いわき市好間仮設住宅自治会長 藤井和彦さん)   と本書の帯には書かれているが、この本から見えてくるのは逆境にも負けない人間のたくましさや、地震や津波によって失われた町が少しずつ再興していく確実な息吹。一見、仮設住宅のマニュアル本やリフォームアイデア集のように見える本書だが、復興を支援する一つの表現なのかもしれない。 ●いわさ・あきひこ 新潟大学工学部建設学科准教授・博士(工学)。1994年東京大学工学部建設学科卒業。2000年同大学院博士課程修了。同年新潟大学工学部助手。03年より現職。 ●仮設のトリセツ』

「一家に一台ガイガーカウンター?」竹書房が放射線測定器付き書籍を発売

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『家庭用放射線測定器エアカウンターS』
(竹書房)
 竹書房が、家庭で放射線量を計測できるガイガーカウンター「エアカウンターS」を付録にした書籍『家庭用放射線測定器 エアカウンターS』を4月23日に発売する。  「エアカウンターS」は、タカラトミーアーツが企画・開発し、今年2月よりエステーが発売しているスティック型の計測器で、これまで20万個を販売しているヒット商品。今回、竹書房で本とパッケージ化し、6, 980円で販売されるという。  初版は1万部で、特典冊子として、放射能汚染から身を守る方法を説いたマニュアル本「武田邦彦が教える子どもの放射能汚染はこうして減らせる」が付いているという。  昨年の原発事故発生直後、放射線測定器の販売店やメーカーには問い合わせが殺到し、世界的に品不足となっていたが、最近では一般家庭向けの比較的手頃な測定器が各メーカーから発売され始めている。  有名ブランドとコラボしたバッグや美顔ローラー、はたまたフライパンなど、付録付き雑誌がブームとなって久しいが、放射線測定器までもが付録になる時代とは……。一体どういった経緯で企画されたのか、竹書房の担当者に話を聞いた。 「もともと震災直後から、放射線測定器付きの書籍を販売したいなとは思っていたんですが、当初はほとんどが海外製の高価なもので、製造コストと機能性を検討した結果、一旦は話が頓挫していたんです。そんな中、昨年秋ごろにエアカウンターSの製造元であるタカラトミーアーツさんと別件でお仕事をさせていただく機会があり、こういう商品が出るという話をうかがったんです。エアカウンターSはすべて国内生産ということもあり、性能に関してもまったく問題がない。検討した結果、ぜひムック本として出そうということで話が進みました」(竹書房・星野さん)
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エアカウンターS
   ムック本の“付録”ということで、一般的に市販されているものよりも性能的に劣るのではないかという心配もあるが、それはまったく問題ないという。 「薬局や家電量販店などで販売されているエアカウンターSとまったく一緒のものですし、環境や原発問題の専門知識を持つ中部大学の武田邦彦教授にいろいろとご相談して、アドバイスをいただいております。それに測定器に関しては、高性能だからいいというわけではなく、メリット・デメリットがあるんです。空間線量を測定するにはガンマ線を計測しなくてはならないんですが、ガンマ線以外も測定できる高性能の測定器を使うには、使用する本人にも深い知識が必要です。それに、何度か観測しないと正しい数値が計れないという点は、どの測定器も一緒です。結果、一般家庭で使うには、最低限の機能を備えた低価格のエアカウンターSがちょうどいいのではないかと思いますね」  今回、タカラトミーアーツはいろいろな販路でこの測定器を販売したいということで、竹書房とのコラボに快諾してくれたということだが、書店からの注文状況はどうなのだろうか。 「地域によってばらつきがありますね。やはり西日本よりも、関東より北のエリアのほうが反応がいいですね。とくにホットスポットエリアの書店さんでは多めに注文をもらっていますが、自重というか、慎重派な書店さんももちろんいます」  最近では、よほど高い数値が出ない限り、放射線量はあまり話題にならなくなっているが、生活エリアの一角が知らぬ間に“ホットスポット”になっている可能性は十分にある。小さな子どもがいればなおさら心配だが、なかなか声高に不安感を口に出せない空気はある。 「政府の発表は“後出しじゃんけん”が多い。いま屋外で測定器を持って放射線量を計る、という行為は物々しい感じがしますが、少しでも心配な場所があったら測定器で計る、という空気になったほうがいいんじゃないかと思いますね。後々『あそこのエリアは危険だった』と言われるよりは、自分で計って確かめたほうがいいのではないかと。10年後、15年後に、やっぱりあのときちゃんと計って対策しておいたほうがよかった、となっても取り返しがつかないですからね。比較的手が出しやすい価格帯になったので、ぜひ試してみてほしいですね」  原発事故から1年以上が経ち、当初に比べると原発や放射能関連のニュースは少なくなってきているが、今もまだ福島第一原発からは放射能が漏れ続けている。なんとも物騒ではあるが、一家に一台ガイガーカウンター、という時代が来ているのかもしれない。

「一家に一台ガイガーカウンター?」竹書房が放射線測定器付き書籍を発売

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『家庭用放射線測定器エアカウンターS』
(竹書房)
 竹書房が、家庭で放射線量を計測できるガイガーカウンター「エアカウンターS」を付録にした書籍『家庭用放射線測定器 エアカウンターS』を4月23日に発売する。  「エアカウンターS」は、タカラトミーアーツが企画・開発し、今年2月よりエステーが発売しているスティック型の計測器で、これまで20万個を販売しているヒット商品。今回、竹書房で本とパッケージ化し、6, 980円で販売されるという。  初版は1万部で、特典冊子として、放射能汚染から身を守る方法を説いたマニュアル本「武田邦彦が教える子どもの放射能汚染はこうして減らせる」が付いているという。  昨年の原発事故発生直後、放射線測定器の販売店やメーカーには問い合わせが殺到し、世界的に品不足となっていたが、最近では一般家庭向けの比較的手頃な測定器が各メーカーから発売され始めている。  有名ブランドとコラボしたバッグや美顔ローラー、はたまたフライパンなど、付録付き雑誌がブームとなって久しいが、放射線測定器までもが付録になる時代とは……。一体どういった経緯で企画されたのか、竹書房の担当者に話を聞いた。 「もともと震災直後から、放射線測定器付きの書籍を販売したいなとは思っていたんですが、当初はほとんどが海外製の高価なもので、製造コストと機能性を検討した結果、一旦は話が頓挫していたんです。そんな中、昨年秋ごろにエアカウンターSの製造元であるタカラトミーアーツさんと別件でお仕事をさせていただく機会があり、こういう商品が出るという話をうかがったんです。エアカウンターSはすべて国内生産ということもあり、性能に関してもまったく問題がない。検討した結果、ぜひムック本として出そうということで話が進みました」(竹書房・星野さん)
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エアカウンターS
   ムック本の“付録”ということで、一般的に市販されているものよりも性能的に劣るのではないかという心配もあるが、それはまったく問題ないという。 「薬局や家電量販店などで販売されているエアカウンターSとまったく一緒のものですし、環境や原発問題の専門知識を持つ中部大学の武田邦彦教授にいろいろとご相談して、アドバイスをいただいております。それに測定器に関しては、高性能だからいいというわけではなく、メリット・デメリットがあるんです。空間線量を測定するにはガンマ線を計測しなくてはならないんですが、ガンマ線以外も測定できる高性能の測定器を使うには、使用する本人にも深い知識が必要です。それに、何度か観測しないと正しい数値が計れないという点は、どの測定器も一緒です。結果、一般家庭で使うには、最低限の機能を備えた低価格のエアカウンターSがちょうどいいのではないかと思いますね」  今回、タカラトミーアーツはいろいろな販路でこの測定器を販売したいということで、竹書房とのコラボに快諾してくれたということだが、書店からの注文状況はどうなのだろうか。 「地域によってばらつきがありますね。やはり西日本よりも、関東より北のエリアのほうが反応がいいですね。とくにホットスポットエリアの書店さんでは多めに注文をもらっていますが、自重というか、慎重派な書店さんももちろんいます」  最近では、よほど高い数値が出ない限り、放射線量はあまり話題にならなくなっているが、生活エリアの一角が知らぬ間に“ホットスポット”になっている可能性は十分にある。小さな子どもがいればなおさら心配だが、なかなか声高に不安感を口に出せない空気はある。 「政府の発表は“後出しじゃんけん”が多い。いま屋外で測定器を持って放射線量を計る、という行為は物々しい感じがしますが、少しでも心配な場所があったら測定器で計る、という空気になったほうがいいんじゃないかと思いますね。後々『あそこのエリアは危険だった』と言われるよりは、自分で計って確かめたほうがいいのではないかと。10年後、15年後に、やっぱりあのときちゃんと計って対策しておいたほうがよかった、となっても取り返しがつかないですからね。比較的手が出しやすい価格帯になったので、ぜひ試してみてほしいですね」  原発事故から1年以上が経ち、当初に比べると原発や放射能関連のニュースは少なくなってきているが、今もまだ福島第一原発からは放射能が漏れ続けている。なんとも物騒ではあるが、一家に一台ガイガーカウンター、という時代が来ているのかもしれない。