震災2年、都内最大規模「Peace On Earth」に延べ4万人「入ってはいけない日本があった……」

IMG_8641.jpg  311東日本大震災から2年。今年も3月10日(日)、11日(月)の2日間、東京・日比谷公園で「311東日本大震災 市民のつどい Peace On Earth」が開催された。都内で行われた311関連のイベントでは最大規模。初日には約3万人、震災から2年目にあたる2日目は平日であるにもかかわらず、約1万人もの市民が全国から集まった。  11日の震災が発生した14時46分18秒には、ステージ上でアーティストや文化人が一同に介し、約3,000人の市民と共に黙とう。その発声を行ったC・W・ニコル氏は「北極や砂漠に行っても寂しいとは思わなかった。しかし先週、南相馬の街を通った時は寂しかった。昼間、カラスもいなかった。検問があって、警察が入ってはいけないと止めている。入ってはいけない日本があったんです。僕は、日本はどこでも自由があると信じていたんです。日本を返してくれ、と言いたいです。それでも、私は未来を信じる。みなさん、2年前のことを忘れないでください」と熱いメッセージを投げかけた。
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ニコル氏の話に聞き入る坂本龍一

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積極的に反原発活動に参加しているアイドル
藤波心は「ふるさと」を熱唱
 この日のステージ上でのトークにおいて、原発の問題と共に議論の対象となったのが、お金の価値。命よりも経済を優先する日本や世界の風潮に対する意見が飛び交った。 「お金ってなんですか? 人間が作ったものじゃないですか。自然は受け取ってないんです。私たちは天の恵みがあって初めて、命を耕せているんです」(加藤登紀子) 「お金って、人間だけが考えた規則ですよね。自分たちが勝手に作った規則に縛られるのはおかしいじゃないかと。それで人が死んだりするのは、もう嫌だよね」(坂本龍一)
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加藤登紀子も登壇
 人間にとって何が大切なのか。東日本大震災の教訓を踏まえ、もう一度考え直してみる時が来たのかもしれない。 (撮影・文=シン上田)

震災2年、行方不明者なお2,800人──【震災遺骨】砂浜に流れ着く命の欠片をめぐって

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東松島市の野蒜海岸
 震災からの復興が叫ばれる中で、いまだに解決していない問題は数多い。その中でも、解決の目処が立たないのが行方不明者である。「まだわかっていないの?」と思う人もいるだろう。確かに震災から過ぎ去った2年の歳月を考えれば、その疑問はもっともといえる。だが、それでもいまだに行方不明者たちは家に戻れていないのが現実なのである。  その実態を探るべく宮城県の沿岸部を歩いた仙台出身のジャーナリストである丸山氏がレポートする。 ■いまだ戻れない行方不明者の現実  東日本大震災から2年。記念番組では「復興」に目を向けたものが多い。しかし、今一度目を向けてもらいたい問題がある。それが「震災遺骨」である。  2011年3月11日、あの時に失われた命の数を覚えているだろうか。関東まで含めて1万8,684人である。さらに、いまだに遺体を確認できないでいる行方不明者が2,800人ほどいる。その多くは、津波に飲まれて命を落としたとみられている。海中での遺体捜索には限界があり、すでに打ち切られている。亡骸すらない状態では、生き残った被災者も区切りをつけて前に進むことができない。沿岸部で行方不明者の遺骨を探索する活動をしている人たちがいると聞き、取材することにした。 <東日本大震災で700人以上が死亡・行方不明となった宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区で(2月)9日、遺族やボランティアが海岸を捜索した。家族2人を亡くし、長男(当時8カ月)ら2人が行方不明のままの竹澤守雅さん(45)夫妻=仙台市若林区=の思いを知ったボランティアが呼びかけ、福島県南相馬市などから約100人が集まった。「家族に会いたい」「会わせてあげたい」。思いは変わらないまま、震災は(2月)11日で1年11カ月を迎える>(毎日新聞2013年02月09日より)  遺骨回収のための一斉捜索を実施しているのは、南相馬市で被災した市民がつくった「復興浜団」や東京で被災地を支援するボランティアグループ「絆JAPAN」など。団体はすでに複数ある。  宮城県内の警察による捜索自体は打ち切られている。沿岸部での遺骨収集は彼らボランティアや住民の有志によって支えられている活動である。
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周辺の墓地からも遺骨が流失した
■命の欠片が流れ着く砂浜  こうしたボランティアグループが活動しているのは、宮城県南部の閖上地区が多い。では、最大の死者約3,000人を出した石巻市の現状はどうなっているのだろうか? 統計によると、現在でも448人が行方不明のままである。一方で隣接する東松島市は、死者1000人、行方不明者が29人。石巻市と東松島市は行政としては区切れているが、地理的には地続きのエリアである。  石巻・東松島エリアでの震災遺骨の探索には、難しい現実がのしかかってくる。実際に沿岸部を歩いてみればわかるが、このエリアは県の南部と違って砂浜が少ない。護岸用のテトラポットが置かれていたり、工業地帯や港として整備されているため、骨が流れ着いても陸地に打ち上げられないのだ。  東松島市の野蒜海岸は、一部は海水浴場になっているものの、漂流物も多く骨かどうかの判別がつくような状態ではない。また沿岸部は工事用車両のみならず漁業や工業などの物流が集中するエリアでもあり、一般の人が近寄れる場所とは言いがたい。  石巻市の隣の女川町や石巻の雄勝エリアは、リアス式海岸で入り組んだ独特の地形をしているため、遺骨が陸地に流れ着くとは限らない。  もちろん希望的な観測は必要だし、地道な作業を続けるのは大切なことだ。実際、そんな思いをくみとった人や震災をきっかけに縁をもった人たちの協力により、これまでに多数の震災遺骨が発見されている。また、浜辺で骨を見つけたとしても、それで終わりとはならない。発見される骨すべてが人間のものとは限らないからだ。家畜や野生動物、周辺の墓地から流出した骨の可能性もある。  こうした骨を識別するため、DNA鑑定が行われている。行方不明者の身元確認を実施しているのは警察だ。宮城県警察本部は現在では、「DNA型資料の提供依頼について」と題して、行方不明者の血縁者に鑑定用のサンプルの提出をホームページで呼びかけ続けている。それにもかかわらず、長時間海水に浸かっていた骨の欠片から鑑定に耐えうるだけのデータを抽出できないこともあり、DNAの鑑定作業は順調には進んでいない。それでも、ほかに本人確認の手段はないのが現実なのだ。  骨のひとつもない状態では、大切な人の「死」を受け入れることは到底できない。震災から2年の歳月が経過した現在でも、大切な人のもとに戻れない人たちがいる。「震災遺骨」という言葉がなくなる日が来たとき、本当の意味で被災地に生きるすべての人が納得して次のステップへと踏み出すことができるのだろう。 (取材・文=丸山佑介/犯罪ジャーナリスト http://ameblo.jp/maruyamagonzaresu/

震災後2年を経て見つめる、遺体安置所の光景『遺体~明日への十日間~』

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左から小橋めぐみ氏、君塚良一監督、石井光太氏。
「“死体”と“遺体”。意味は同じですが、全く違うものです。遺体安置所では、津波で流されてヘドロだらけで冷たくなって死後硬直している死体が足の踏み場もないくらいに床に置かれていました。それを遺体安置所で働く人たちが、一体一体きれいに洗って、丁寧に並べ、遺族を見つけ、納棺をして、火葬場に送り出すところまで行う。そうすると、死体が「遺体」になるんです」 (『遺体――震災、津波の果てに』(新潮社)の著者でノンフィクション作家・石井光太氏)――。  東日本大震災から2年がたとうとしている。東北地方を襲った未曾有の震災による死者・行方不明数は1万8,574名(2月27日現在)に上る。  震災のその後を扱うテレビや新聞報道が増える中、メディアが報じきることができなかった被災地の姿、遺体安置所を舞台にした映画『遺体~明日への十日間~』(http://www.reunion-movie.jp/)が封切られた。その公開を記念して、東京都港区のシナリオセンターで講演会(主催:Youlabo)が行われた。  講演会には、映画『遺体』の君塚良一監督、原作であり、震災ノンフィクションとしては最大級のベストセラーとなった『遺体――震災、津波の果てに』の著者・石井光太氏、同映画に出演した女優・小橋めぐみ氏が登壇。3人がそれぞれの『遺体』についての思いを語った。  映画『遺体』の舞台は、原作同様に岩手県釜石市の遺体安置所。釜石市は約1,100人の死者・行方不明者を出した。原作には「体育館の面積はバスケットボールのコート一面分。床に隙間なく敷かれたブルーシートの上に、遺体が所狭しと置かれている。毛布にくるまれた遺体、納体袋に入れられた遺体、ビニールシートに包まれた遺体など様々」といった壮絶な遺体安置所の光景が描かれている。  原作者の石井氏は次のように語る。 「遺体安置所が舞台というだけで、『どれだけ悲惨な描写がされているのか』『どれだけの悲しみが書かれているんだ』という悲劇に関心が寄せられますが、僕はそこが描きたいわけではなかった。僕はただ、遺族や遺体に優しく声をかける『人の言葉』や、必死になって遺族のもとへご遺体を返そうと思って働いている方々の『想い』が、どれだけ温かくて、強くて、そこで生きた人を支えたかを伝えたかった。死体が遺体になる過程の中で、どれだけ多くの人間が携わって、人間の尊厳を守り、遺族を支えたのか。そしてそこには人間の温かさや優しさ、勇気があったということを描きたかったんです」
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(c)2013フジテレビジョン
■事実と「真実」  映画『遺体』の主人公は、西田敏行氏が演ずる相葉常夫(66歳)。定年後は地区の民生委員として働いていたが、震災後はそれまでの葬祭関連の仕事に就いていた経験をもとに遺体安置所でボランティアとして働いた男性だ。  相葉さんは来る日も来る日も遺体安置所で、遺体と向き合った遺族に「ご家族に迎えに来てもらって、とても喜んでいると思います」と声をかけ、体育館に並ぶ身元不明遺体にも「つらいだろうけど、頑張ってくれな」と言葉をかけ続けた。  原作はノンフィクション作品のため、当然、主人公にはモデルがいる。君塚監督は映画化する際に、まずこうした関係者に「映像化することをどう思いますか」と尋ねにいった。それについて次のように語る。 「原作の『遺体――震災、津波の果てに』を読んで、同じ被災者が同じ町の犠牲者のために働いたという内容に、神話のようなある種の物語性があり、驚いた。読み終えてから4日後に、石井さんとお会いしました。その時に、石井さんから『映像化の前に釜石に行って、モデルとなった全員に会ってほしい』と言われました」  そこで関係者に言われたのが、次の言葉だった。映画にも出てくる住職のモデルになった人物から言われた言葉だ。 「事実はあなたにはわからないかもしれないけれど、真実は曲げないでくれ。真実を動かさず、描いてくれ」  だからこそ、君塚監督は「真実」に向かうべく、震災直後からの遺体安置所の十日間を描いた。現地に入ったのが震災から1年後だったこともあり、関係者の言葉も変わり、物語化しているとのことで、「原作をありのままに映像化しようと思った」という。  君塚監督は「僕は現場にいなかったのでわからないです。ここでどういうふうに遺体安置所で働いた人たちが動いたのかは知りません。だから、皆さんで考えましょう」と俳優やスタッフといった映画の関係者に説きながら、この作品を作っていく。  「この台詞は絶対に言ってくれ」だとか「泣かそう、感動させよう」とかという気持ちはまったくなかったという。むしろ、「俳優が言えないことは言わせない。違う言葉を選ぶならば、それを尊重するということをしました。現場で追体験をしている俳優が紡ぐ言葉をそのまま撮った」  映画の中で、この「真実」をめぐる、象徴的なシーンがある。それは主人公の相葉さんが遺体安置所のある体育館の中に、靴を脱ぎながら入るシーンだ。  このシーンは原作にはない。つまり、「事実」ではない。しかし、主人公を演じる西田氏が「自分だったらこうする」ということで、遺体安置所のある体育館には靴を脱いであがり、最後まで演じたのだ。  原作者の石井氏は次のように語る。 「主人公のモデルになった千葉さんは映画を見て、『実は自分もそうしたかったんだ』と話していた。当時は、物理的に靴を脱いで作業するのは不可能だった。でも千葉さんは、靴を脱がずにあがることはつらかったし、誤っていると思っていました。これは事実とは違うけれど、違う形で真実というものにつながった。映画化したことで、ノンフィクションという原作とは違ったものが伝わった」
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(c)2013フジテレビジョン
■150体の遺体を泣きながら作った  君塚監督にとって、映画『遺体』は特別な作品だという。 「遺体安置所を舞台にするのだから、劇映画とはいえ被災地にカメラを向ける。劇映画とはいえ、被災者やご遺族にカメラを向ける。劇映画とはいえ、遺体にカメラを向ける。僕の人生に関わってくる映画なので、この作品が終わったからといって、次のテーマにいけないくらいの覚悟を決めて撮りました」  映画『遺体』は、出演する俳優たちにも『覚悟』のいる現場だったという。  主人公の西田氏以外にも、遺体の検案をする医師役の佐藤浩市氏、歯科医師役の柳葉敏郎氏、歯科助手役の酒井若菜氏。さらに釜石市職員役を演じた沢村一樹氏、筒井道隆氏、志田未来氏、勝地涼氏。市長役の佐野史郎氏や葬儀社社員役の緒形直人氏……。  母親を亡くした遺族の役として出演した小橋めぐみ氏は「役名はありましたが、実際に遺体安置所のセットに入ると、自分自身が追体験するような感じだった」と話す。  小橋氏が演じたのは、亡くなった母親にお化粧をする娘役。原作も脚本も、主人公の相葉さんが母親に化粧をすることになっていたが、当日になって急遽、娘役の小橋氏が化粧をすることになった。それは、1カ月間、ご遺体に寄り添う小橋氏の演技を見てきた西田氏が「僕だったら、この娘さんに化粧をさせてあげたいと思う」と提案し、シナリオを変更。リハーサルなしで、すべてアドリブで撮ったという。撮影現場では、そういうことも起きたという。  映画『遺体』で覚悟を決めたのは、スタッフも同様だったという。 「美術部は、人形とはいえ、心を込めながら、ご遺体を150体も作った。追体験をしながら作っているわけだから、毎日泣きながら作っていましたね」(君塚監督)
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■残すということ  今回の映画の舞台である釜石市のある被災者からは、次のような意見が寄せられたという。 「僕は申し訳ないですが、つらかったので原作も途中で読むのをやめました。映画に関しても、まだ行く勇気がありません。自分は家族を津波で失いました。だけれども作ってくれて、ありがとうございました」。  原作者の石井氏は次のように語る。 「これから生きる人たちが、津波から目をそらして生きることは仕方がないことだと思うんです。だけれども、作り手として、知るためのきっかけはきちんと作っていかなければいけない。これは絶対にそうだと思うんです。映画化の話をもらった時に反対しなかったのは、原作のノンフィクションを読まない人間が、映画ならば見る可能性もあると思ったからです。自分が見てきた、携わってきたことを残さなければという想いがあるからです。だからこそ、君塚監督にあれだけの強い想いで『遺体』を映画化していただけたのはありがたいことだと思います」 ●『遺体~明日への十日間~』 原作:石井光太『遺体 震災、津波の果てに』(新潮社刊) 脚本・監督:君塚良一(『誰も守ってくれない』/モントリオール世界映画祭最優秀脚本賞受賞) 出演:西田敏行 緒形直人、勝地涼、國村準、酒井若菜、佐藤浩市、佐野史郎、沢村一樹、志田未来、筒井道隆、柳葉敏郎(五十音順)ほか 企画協力:新潮社/製作:フジテレビジョン/制作プロダクション:FILM/配給:ファントム・フィルム 全国公開中 <http://www.reunion-movie.jp/> (c)2013フジテレビジョン

ジャーナリスト・武田徹が推挙 メディアの矛盾と欺瞞を突くドキュメンタリー映画

【サイゾーpremium】より ■武田徹(たけだ・とおる) [ジャーナリスト]1958年生まれ。恵泉女学園大学人文学部日本語日本文化学科教授。著書に『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』(中公新書ラクレ)、『原発報道とメディア』(講談社現代新書)など。
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 今回、メディアのタブーに挑んだ映画を紹介するということで、メディアとは、ジャーナリズムとは何かという問いを、見る者に突きつけるドキュメンタリーを3本選びました。 『チョムスキーとメディア』【1】は、哲学者であり言語学者でもあるノーム・チョムスキーが延々としゃべり続けているのに圧倒されるのですが(苦笑)、テーマはマスメディアによって合意がいかに捏造されていくかということ。彼は作品内で、たとえばカンボジアの虐殺に比べて、ティモールの虐殺はなぜ西側諸国で報道されなかったのかといった問題を突き詰めながら、寡占状態となっているメディアが、国家の利益と一致する形で情報を出すことで、世間の合意が作られていくということを論証しようと試みます。ただし、先進国でそれは国家の検閲によるものではなく、マスメディアが持つシステムによって自然に行われていると訴える。マスメディアの中で現状に批判的な意見は少数派のものとして影響力を持てない。しかしそれでも言論の自由は大切で、彼はユダヤ人でありながら、ホロコースト否定論者に発言の機会を与えないメディアを批判します。言論の内容は肯定できなくても、言論の自由は保証されなくてはならないとする姿勢は極めて筋が通っています。メディアをとことん疑いながらも、人間は話せばいつかわかり合えるのだという理想を追い続けて話し続けるチョムスキーに、希望を感じさせられますね。 『311』【2】は、森達也ら4人の監督が、震災約2週間後にワゴン車に乗って東北に行き、各々カメラを回して現地の様子を撮影した作品。まず原発を撮りに行こうとするものの、装備が不十分で被爆しかねないので撤退、津波被害地域を見に行くことに。こうして彼らがうろたえるさまは、震災後、我先に現場入りしようとしたフリーのジャーナリストたちの姿をカリカチュアライズしているかのように見えます。最後は津波で多くの子どもが流された大川小学校に行って、遺体と遺族の対面のシーンを撮ろうとして、怒った住民から角材を投げつけられる。災害という大きな悲劇の前で、取材の正当性を主張して、悲しみにくれる人たちの心情を土足で踏みにじるメディアの暴力性を反面教師的に見せつけますが、同時に、それでも伝えることを諦めてはならず、歴史的事実を伝えていくべきだと訴えかけてくる内容です。  原発をめぐる作品としては、ドイツの原発関係施設を淡々と映し続けた『アンダー・コントロール』【3】も、示唆に富む作品です。巨大原発施設とそこで働く人々を見ているうちに、どうして人類が原発を求めたのかが言語を超えた説得力で迫ってくる。大きな力を制御したいというマッチョイズムが原発を生み出した根源であることが、表面的なイデオロギーを凌駕して伝わってきます。そして同時に自らが生み出した技術を制御しきれない人間の悲しさを感じる。脱原発にいち早く舵を切ったドイツですが、実は実際にそれを成し遂げる目途は立っていない。  では日本はどうか。3・11後、民主党は30年後に原発撤廃と言っていたのを、反原発派は30年も待てないと反対しているうちに、選挙に敗れ、自民党ではなし崩し的に原発再稼働へと進みつつあります。原子力の力を求めるマッチョイズムに、反原発の声の大きさで勝とうとする別のマッチョイズムで戦うことに問題があったのでは。反原発を主張する映画が多い中、限りなく静かなこの映画は原子力のあり方を見つめ直すヒントとなり得るように思います。 (構成/里中高志)
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【1】『チョムスキーとメディア』 監督:ピーター・ウィントニック、マーク・アクバー/出演:ノーム・チョムスキー/発売:トランスビュー(5040円) ノーム・チョムスキーが、民主主義のプロパガンダはマスメディアのシステムによって自然に行われると、問いを投げかけていく様子と行動を追い続ける。(92年公開)

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【2】『311』 監督、出演:森達也、綿井健陽、松林要樹、安岡卓治/マクザム(5040円) 4人の映像ジャーナリストが、震災をその目で確認したいという動機で被災地に入り、ビデオカメラを回すことで生まれた作品。遺族を前に撮影をする彼らは厳しい批判を浴びる。(11年公開)

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【3】『アンダー・コントロール』 監督:フォルカー・ザッテル/配給:ダゲレオ出版 福島第一原発事故を受けて、2022年末までに原発を完全に停止することを決めたドイツ。本作は福島原発事故以前から撮影され始めていた作品だが、ドイツにおける原発の終焉を記録した映画としての意味を持つことになった。(11年公開)

「サイゾーpremium」では他にも映画のタブーに迫った記事が満載です!】元警察官・高橋功一が見る 潜入捜査官の苦悩を描き切った『ディパーテッド』サイエンス作家・竹内薫が推す ノーベル賞研究に剽窃疑惑!? 真実を追った作品精神科医・岩波明が注目する 閉鎖病棟独特の”閉塞感”をリアルに描いた映画
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被災者はサバイバーズギルトにどう対処している? 中田秀夫監督による映像碑『3.11後を生きる』

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『リング』シリーズの世界的ヒットで知られる中田秀夫監督。
今回は被災地で働く人々の姿を丹念に取材して回った。
 中田秀夫監督が自主製作として完成させたドキュメンタリー映画『3.11後を生きる』が2月23日(土)より劇場公開される。東日本を襲った大震災から4か月後となる2011年7月から中田監督は津波の被害が大きかった岩手県、宮城県の沿岸エリアに入り、4か月間にわたって取材撮影を続けた。津波によって家族を一瞬にして失うという悲劇に見舞われた人々があの日をどのように受け止め、また“3.11後”をどのように生きているのかを中田監督は追っている。中田監督といえば、『リング』シリーズを大ヒットさせたホラー映画の名手。『リング』(98)や『仄暗い水の底から』(02)では家族と引き離される恐怖を描いてきたが、本作との関連性について問うと大きく首を振った。「今回のドキュメンタリーと劇映画はまったく別物」と明言する。海外でも活躍する人気監督を突き動かしたものは、果たして何だったのだろうか。  中田監督はこれまでに3本のドキュメンタリー映画を撮ってきた。『唇からナイフ』などで知られるジョセフ・ロージー監督の評伝『ジョセフ・ロージー 四つの名を持つ男』(98)、中田監督の師匠である小沼勝監督と“にっかつロマンポルノ”を扱った『サディスティック&マゾヒスティック』(00)、ハリウッド映画『ザ・リング2』(05)での体験をベースにした『ハリウッド監督学入門』(08)とどれも映画業界を題材にしたもの。いわば、ドキュメンタリー製作を通して中田監督は自分の足元を見つめてきた。
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岩手県山田町でスナックを経営する三浦恵美子さん。
ひとり娘と3人の孫を失い、自分が代わりになれなかったことを責めている。
中田 「今までに撮った3本のドキュメンタリーはそうですね。もともと僕は学生の頃からドキュメンタリー映画が好きで、『岩波映画製作所』に入りたいなと思っていたんです。岩波映画はもうないんですが、羽仁進、黒木和雄、土本典昭といったドキュメンタリー監督たちが活躍していた映画会社で、憧れていました。結局、僕は『にっかつ撮影所』に入り、劇映画の世界に身を置くことになったわけですが、今回はドキュメンタリーを撮ることで現実の社会と向き合わざるを得なかった。でも現実社会と向き合うほどの思想を持たない人間が社会問題を扱うドキュメンタリーを作ることはおこがましいという気持ちもあり、自分がいる世界を撮るのが順当だろうという気持ちで今まではやってきていたんです。ですから、被災地で取材を進めた今回は、今までの自分が撮ってきたドキュメンタリーとは大きく異なりますね」  中田監督の劇場デビュー作となった『女優霊』(96)は、もともとは英国留学中に撮影を始めた『ジョセフ・ロージー 四つの名を持つ男』を完成させる資金を捻出するために撮ったもの。その後、『リング』シリーズをヒットさせた後に『サディスティック&マゾヒスティック』、ハリウッドデビュー後に『ハリウッド監督学入門』を撮っている。中田監督のキャリアを振り返ると、節目節目にドキュメンタリーを残していることが分かる。 中田 「確かにそういう一面はあるかもしれません。今回の企画は、最初はテレビ用のドキュメンタリー番組としてスタートしたものでした。でもかなり初期の段階で、テレビ局側とどうまとめるか話し合った結果、今回は僕個人の自主映画としてやった方がいいという判断で進めていくことになったんです。ドキュメンタリーを撮るときは、自分の中で“やりたい”という衝動と“やらねば”という気持ちが重なると“何がなんでもやる”という心境になるんです。今回は最初こそテレビ局からの話でしたが、自分自身でやると決めてからは、がむしゃらにやるという気持ちになりました。自分のお金で撮るわけですから、そうならざるを得なかったわけです(苦笑)。劇映画の場合はほとんどがオファーを受けて向こうの提示したテーマに沿って撮ることになるんですが、それに対して自分の中から沸き上がってくるものを撮っているのがドキュメンタリーだと言えるかも知れません」
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家族5人を失った漁師の五十嵐康裕さん。
「海を糧にしてきたので、海を憎いとは言えない」とタラ漁を再開することに。
 自宅に残した両親、妻、2人の子どもを失ったタラ漁師の五十嵐康裕さん、車で迎えにきたひとり娘と3人の孫が目の前で津波に呑み込まれたスナック経営者の三浦恵美子さんらが“あの日”を振り返る。ナイーブな演出で知られる中田監督にとって、家族と引き裂かれた人たちにカメラを向けることは容易な作業ではなかったはずだ。 中田 「辛い、大変だと思うと、もうカメラは向けられません。そこは事前にリサーチして、お話できる状態かどうか確認してからカメラを回しています。アポなしで撮影するような突撃取材はしていません。向こうも、『こいつなら話せるかな』という、お互いに感じ合うものがあってインタビューが成立したように思います。カメラに向かって話すことで気持ちの整理ができたのではないか? いや、インタビュー中はとてもじゃないけどこちらも余裕はないし、僕の口からはそんなことは言えない。ただ、まだ被災から4か月で行方不明の方たちが多い状況だったので、身内に行方不明者がいる方の場合は過去形にならないよう語尾には注意しました。恐る恐るインタビューしていては取材になりませんが、最低限そういうことは気を遣いました」 ■懸命に働くのは悲しみを一瞬でも忘れたいがため  町を呑み込んだ津波のニュース映像や被災後の生々しい情景も盛り込まれているが、本作の主眼は“3.11”を生き延びた人々が被災地で懸命に働く姿だ。新たにスナックを始めた三浦さんはお化粧をしてカウンターに立ち、お客さんに笑顔を見せる。漁師の五十嵐さんは家族を奪った海に向かって仲間たちと漁へ出ていく。仕事とは単にお金を稼ぐ行為ではなく、個人と社会を結びつけるものでもあることがポジティブに描かれている。
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「取材を始めたからには途中で止めるわけにはいかなくなった。
完成させることが最低限の義務だと思った」
と中田監督は製作過程を振り返った。
中田 「働かざるを得ないというよりも、何もしないでジッとしていると頭を掻きむしり、どこかに消え去りたくなるような苦しみに襲われるんだと思います。僕もそのような立場だったら、そうなるでしょうね。三浦さんの場合は仏壇に供える花代を稼ぐためでもあるし、三浦さんと同様に家族や家を失ったスナックの従業員たちを食べさせていくためでもあるわけです。だからこそ、前向きに働いている。いや、まだ前向きという言葉は早過ぎるかもしれません。ばっくりと開いた心の傷を、仕事をすることで少しでも縫い合わせる、縫い合わせるのは無理でも、ヒリヒリする痛みを仕事に集中することで一瞬でも忘れることができる。それは長いスパンで見れば、傷の回復に繋がるのかも知れない。もちろん、傷自体は一生消えることはないでしょう。傷という言い方も失礼かも知れない。喪失感とでも言いましょうか。飲み屋とかに行くと、意外とみなさん明るいんですよ。でも、それは笑っていないとやっていられないから。笑いながらも、五十嵐さんが『タイムマシンがあって、あの日のあの時刻の1~2分前に戻ることができたら』と口にすると、みんな泣き出してしまうんです。前向きに懸命に生きようとする気持ちとどうして自分は生き残ってしまったんだろうという、二つの引き裂かれる想いの中で大きく揺らぎながら、被災地の方たちは暮らしているんです」  『3.11後を生きる』は、残された人たちは復興を目指して懸命に働いているという美談だけでまとめることなく、被災地の問題点についても言及する。被災地では略奪行為や暴動は起きなかったと報道されているが、実際にはショッピングセンターで衣料品の略奪が行なわれ、警察も金銭がらみでないものは見逃していたこと。ほぼ海抜0mという危険な場所に介護老人保健施設を建て、入居していた高齢者たちや介護スタッフが犠牲となったことへの行政責任についても触れている。 中田 「被災地のネガティヴな面を強調するつもりはありません。本当に『うわぁ……』と言葉を失ってしまう部分に関しては編集でカットしています。やはりカットしましたが、避難所では食料品の分配を巡るトラブルも起きていました。『日本人は譲り合いの精神で、略奪行為はなかった』というイメージは外国人やマスメディアが伝えているものであって、現実は違うんだよということだけはちゃんと言っておきたかった。危険な海沿いに介護施設を建てたことに対する行政責任は当然問われるべきですが、その危険性を事前に報じなかった地元メディアにも責任があるように思います。原発問題もそう。福島第一原発の危険性を指摘していた物理学者の高木仁三郎先生がいましたが、どれだけのメディアが高木先生の言葉に耳を傾けたことか。そういう僕自身も学生の頃は原発反対運動に参加したりしていたのに、映画の世界に入ってからは何もせずにいた。でも、今回はジャーナリスティックに問題を追求するというよりも、“職業意識”について描いたものにしています。海抜0mに建てられた介護老人施設で介護スタッフの責任者として働いていた加藤譲さんは車椅子で待機していた高齢者を救おうとして施設に戻り、波に呑まれてしまった。船長だった父親の加藤昭二さんから『責任者が逃げるのは、いちばん最後だ』と教えられ、その教えを忠実に守ったわけです。オーナーや行政側の責任を問うと昭二さんは話していますが、その一方では自分の教えを守ったことで息子を失ったことに苦しんでいる。本当に引き裂かれる想いでしょう……」
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三浦さんらは青森県恐山へ。菩提寺・南院代の「前世の因果という考えは、
亡くなった人を軽んじることになる」という言葉に耳を傾ける。
■“前世の因縁”に悩む、残された人たち  撮影クルーは終盤、日本三大霊山のひとつに数えられる恐山へと向かう。「恐山菩提寺」の院代・南直哉さんが説く「死者は生きている人以上に強烈に存在する。あせらずに亡くなった人との付き合い方を学ぶことが大切」という言葉が印象的だ。南さんの著書を読んでいた中田監督から、自分が生き残ったことに悩んでいた三浦さんを誘って恐山まで会いに行ったそうだ。 中田 「僕自身が震災の前から人の生き死について関心を持ち、永平寺で19年間修業された南院代にお会いできればと思っていました。被災地沿岸部には曹洞宗の信者の方が多かったこともあり、曹洞宗を宗旨とする菩提寺に行くことを考えたんです。もちろん、遺族の方たちが『行きたくない』と言えば、違った終わり方を考えなくてはいけなかったんですが、三浦さんは『娘や孫たちの供養をしたい』と言ってくれた。三浦さんを始め被災地の多くの方たちが、『自分は何か悪いことをしたのだろうか』『前世の因縁があるのだろうか』という考えに囚われている。サバイバーズギルトに悩んでいるんです。南院代の話を聞きに行くことで、救済にはならなくとも、大きな喪失感に覆われた人にどういう言葉を掛けてあげられるか、どういう会話が成り立つのかが分かれば……という想いがありました。」  3.11によって日本人の意識は大きく変わったと言われている。『3.11後を生きる』を撮った中田監督はどのように感じているだろうか? 中田 「3.11によって世界がガラリと変わった人もいるでしょうね。僕自身は、被災地にいたわけでもないし、家族や家を失ってはないので、そんなことを言える立場にはありません。でも、被災地の方たちは大きく変わっているはずです。南院代が言われていたことですが『日本は明治以降は富国強兵で進み、敗戦以降は経済最優先で来て、バブル以降は新自由経済を追求したところに震災が起きてしまった。』と。仏教用語で『少欲知足』という言葉があります。そもそも欲するものが少なければ、比較的楽に足ることを知る境地に至れるわけです。経済成長=幸福という考え方は改める必要はあるでしょう。もちろん経済不況からは脱しないといけないけど、国土強靭化や公共事業への投資による経済再生だけでいいのかとは思います。まだ2年も経っていないのに、メディアも含めて『喉元すぎれば熱さ忘れる』になっていないかということも気がかりです。被災地の方たちにもう少し気を配れる為政者はいないものかと思いますね」  中田監督が撮った『3.11後を生きる』は自戒の念も込めた映像による鎮魂碑なのかも知れない。編集を終えた中田監督はDVDを持って、被災地を再訪。五十嵐さんの新居で、三浦さん、加藤さんと一緒に鑑賞している。上映終了後、3人の口から言葉は出なかった。ただし、最後まで見届けてくれたそうだ。 (取材・文=長野辰次/写真=名鹿祥史) 『3.11後を生きる』 製作・監督/中田秀夫 撮影/さのてつろう 編集/高橋信之、山中貴夫 録音/三澤武徳 整音/柿澤潔 効果音/柴崎憲治 音楽/川井憲次 配給/エネサイ 2月23日(土)よりオーディトリウム渋谷にてロードショー <http://wake-of-311.net> ※ 2月24日(日)~3月1日(金)オーディトリウム渋谷にて中田秀夫監督によるドキュメンタリー映画『ジョセフ・ロージー 四つの名を持つ男』(98)、『サディスティック&マゾヒスティック』(00)、『ハリウッド監督学入門』(08)を連日特集上映。 ●なかた・ひでお 1961年岡山県生まれ。1985年にっかつ撮影所に入社。助監督を経て、92年にテレビドラマ『本当にあった怖い話』(テレビ朝日系)で監督デビュー後、文化庁芸術家在外研修員として渡英。帰国後、『女優霊』(96)で劇場デビュー。『リング』(98)の大ヒットでJホラーの旗手となる。『ザ・リング2』(05)でハリウッドデビュー。『Chatroom/チャットルーム』(10)はイギリスで製作・撮影された。その他、『ラストシーン』(02)、『仄暗い水の底から』(02)、『怪談』(07)、『L change the WorLd』(08)、『インシテミル 7日間のデス・ゲーム』(10)などを監督。5月には前田敦子、成宮寛貴主演作『クロユリ団地』の公開が控えている。

殺された街、牛、心…福島警戒区域内で積み上がり続ける”屍”

【サイゾーpremium】より
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(写真/針谷 勉)
 福島第一原発から半径20キロ圏内は警戒区域に指定され、同区域内への立ち入りは法律で厳しく制限されている。原発事故前、同区域では牛約3500頭、豚約3万頭、鶏約44万羽が飼育されていたが、事故後は、鶏は全羽、牛や豚はその過半数が餓死した。生き残った家畜は、国の指示で殺処分が今も実施されている。  そんな中、自身の被ばくを顧みずに事故後も警戒区域に残り、牛の世話を続けている農家がいる。吉沢正巳(58歳)。吉沢の牧場から福島第一原発までは約14キロ、牧場から排気筒や復旧作業中のクレーン群が見える。 「ド~ン、ド~ンと2回、花火を打ち上げるような音がした」  2011年3月14日の3号機建屋の爆発音と立ち上る噴煙を目の当たりにした吉沢。だが、逃げ出さなかった。 「数日もすると、近所の牛舎では、痩せ細った牛が水や餌を求めて悲鳴を上げ、その隣では牛の死骸を豚が食べている。まさに地獄のような光景だった」  それから約1年8カ月たった今、吉沢の牧場では約400頭の牛が毎時約3マイクロシーベルトの環境下で飼育されている。被ばくした牛は、当然売り物にはならない。 「被ばく牛を原発事故の生き証人として、俺は牛と運命を共にする」  国は警戒区域内での牛の飼養どころか、餌の搬入さえ認めていない。牛は栄養失調に陥り、弱い個体から次々と死んでゆく。これまで約100頭が死んだ。写真は、牧場内にあるその”墓場”だ。昼間はカラスが、夜になると野良化した犬が、その死肉をむさぼりにやってくる。 「深い絶望の先には、きっと希望がある」――牛飼い吉沢の闘いは始まったばかりだ。 (針谷勉) 『警戒区域』 原発事故後、福島第一原発から半径20キロ圏内を警戒区域として設定。市町村長の許可がない立ち入りは禁止され、違反すると10万円以下の罰金又は拘留となる。
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■衝撃写真と物語!緊急出版 『原発一揆 警戒区域で闘い続ける~ベコ屋~の記録』 警戒区域内に取り残された牛たちの命を守るため、被ばく覚悟で牧場の維持を決意した吉沢正巳氏。彼が国や東電と闘いながら、絶望の淵で「希望の牧場」を生み出すまでの記録をまとめたフォトルポルタージュ『原発一揆』が、小社から発行された。本書には「原発事故の真実」が収められているが、ここに掲載した写真もその”一幕”だ。 著者/針谷勉 発行/サイゾー 価格/1365円 【「サイゾーpremium」では他にも『原発』を多角度からぶった斬る記事が満載です。】事故処理の下請けはヤクザだけじゃない!! 原発お膝元のイビツな利権構造新左翼がオルグしている!? 大手マスコミでタブー視される首相官邸前反原発デモの現場アウトローが語る原発労働の実態 久田将義×鈴木智彦「東電はヤクザを黙認している」
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震災が浮かび上がらせた「本」の意味、「書店」の役割とは?『復興の書店』

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『復興の書店』(小学館)
 東日本大震災後、岩手、宮城、福島から本が消えた。  本だけではない。書店も消えた。2011年4月の時点で、東北全体の9割の書店が震災によって被害を受け、岩手、宮城、福島の3県では70以上の書店が全半壊。さらに、廃業を余儀なくされる店も、その後の数カ月で20軒近くに増えていった。  流通網は途切れ、本が思うように流通できない時期が1カ月近く続いた。とくに、情報を最も切実に欲していた福島県沿岸の書店には、原発事故の影響でより一層、到着が遅れた。  そんな混乱の中にあって、震災による被害を受けてなお「本」を届けようとする人たちの姿は、同じ紙の本にかかわる仕事をしている自分たちが記録し、伝えるべきことの一つではないか? 「週刊ポスト」(小学館)編集者のそんな提案で、ノンフィクション作家の稲泉連氏が現地へ飛んだ。断続的に続けてきた連載に大幅加筆して出来上がった本が『復興の書店』(同)だ。  岩手県内に3店舗を展開するブックポートネギシの本店・地ノ森店は、津波によって跡形もなく流された。書店員だった高橋葉子さんは、店が津波にのみ込まれていく一部始終を目の当たりにした。 「見たというよりも、見てしまったっていう感じで……。お店が完全に浸水してしまったときはつらくて、もうそれ以上見ていたくないと思いました」(本文より一部抜粋)  だが猪川店は、ほとんどの商品が床に落ち、店内はめちゃくちゃになっていたものの、建物自体は難を逃れた。町で残った唯一の書店ということもあり、客が殺到した。  3月15日、三陸沿岸でもいち早くお店を再開させると、「アサヒグラフ」(朝日新聞出版)や「フライデー」(講談社)、「フォーカス」(新潮社)といった緊急発売された写真週刊誌、震災を特集した各週刊誌をはじめ、『心に響く「弔辞」―葬儀のあいさつ実例集』(新星出版社)や『1000万円台で建てた家』(ニューハウス出版)といった書籍、中古車情報誌「Goo」などの雑誌も瞬く間に売れていった。その様子には、書店には似つかわしくない、どこか切迫した雰囲気があったという。   また、福島第一原発から約40キロの場所にある相馬市で、11代続く老舗「丁子屋書店」を営む佐藤さん夫婦は、避難ではなく、この地にとどまり、店を再開することを決めた。 「店を開いたのは、本が売れた、何が売れた、っていうことじゃなかったんです。ああ、お店が開いている、という声。最初はただそれだけで嬉しくてやっていたようなものです」(佐藤さん)  本書では、公園に設置された大型テント内で仮営業を続けてきた「大手書店」、計画的避難区域内で営業する日本で唯一の村営書店「本の森いいたて」、スタッフ全員が書店員として働いた経験がない新規参入の「一頁堂書店」など、12店舗の書店を中心に話が展開される。  町を歩けば、風景の一部として、当たり前のようにある書店。けれど、もしその書店がなくなったら――――。  インターネットが普及し、情報が「無料」になった現代。そんな中、やはり書店が必要だと意気込み、奮闘する被災地の書店に、これからの「本」、そして、「書店」のあり方を考えさせられる。 (文=上浦未来) ●いないずみ・れん ノンフィクション作家。1979年、東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒。05年『ぼくもいくさに征くのだけれど―竹内浩三の詩と死』(中央公輪新社)で大宅賞を受賞。他の著書に、『僕らが働く理由、働かない理由、働けない理由』(文藝春秋)、『仕事漂流 就職氷河期世代の「働き方」』(プレジデント社)、『命をつないだ道 東北・国道45号線をゆく』(新潮社)などがある。

“最後の避難所”に身を寄せる、双葉町避難民へのしかかる“時間”の重み

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(c)2012 Documentary Japan, Big River Films
 福島県双葉町は、福島第一原発事故後、1,200人の住民とともに、町からおよそ250キロ離れた埼玉県加須市の旧騎西高校に避難した。この避難所で、双葉町の住民たちが過ごした1年間に焦点を当てたドキュメンタリー映画『フタバから遠く離れて』が公開される。  一つの教室にいくつもの家族が詰め込まれ、段ボールで仕切られた“家庭”の中で、避難者はそれぞれの生活を送る。遅々として政府の方針が示されないまま過ごす毎日、いつ帰れるともわからない不安、そして一時帰宅を迎えた喜び……。避難者と同じ目線で、1年間という時間を追体験することができる貴重な作品だ。  この作品を監督した舩橋淳監督の目には、双葉町の避難民や原発問題は、どのように映ったのだろうか? ――原発や放射能問題に対しては、以前から関心があったんですか? 舩橋淳監督(以下、舩橋) 原発はよくないだろうとは思っていましたが、その程度でした。僕はアメリカに10年住んでいたんですが、アメリカでは電力自由化が進んでいて、手軽に自分が使う電気の種類を選ぶことができた。ところが帰国してみると、東京には東京電力しかなかった。チョイスも何もないから、勝手に電気が来るもんだと思ってしまっていたんです。それが原発事故が起こって初めて、その電力の一部が福島第一原発から来ているということを認識しました。恥ずかしながら、そこで作られた電気が100%関東圏に来ているということも知らなかったんです。 ――舩橋監督のお父様は広島出身で、幼いころに原爆被害に遭われたそうですね。 舩橋 はい。僕は被爆2世なんですが、日本映画史でも原爆についてのドキュメンタリーはたくさん作られていたから、自分がそういう作品を作るつもりはずっとなかった。もうやり尽くされていて、自分にできることはないと思っていたんです。ところが、テレビで原発事故の報道を見ているうちに、「被ばく」ということに関して、原爆も原発も同じだと気づいたんです。それなのに、原発はあたかもクリーンであるかのようなイメージが作られていて、その存在を疑問視する声はありませんでした。それに矛盾を感じたんです。臭いものにフタをするかのように、見えないようにしてきたという歴史が少しずつわかるようになって気づいたのは、原発とは原爆なんじゃないかということ。原爆と同じことが現代に起こっているのだから、何かしらこの状況に対する映画が作られるべきなのではないかと感じ始めたんです。 ――そんなときに、双葉町が加須市の旧騎西高校に避難してきた、と。 舩橋 はい。福島県の自治体はだいたい県内に避難していたんですが、どれくらい避難するべきかという論争が起こっていました。20キロか、30キロか。アメリカは50マイル(80キロ)逃げるべきだと主張していました。学者でさえもそれぞれ違うことを言っている中、双葉町は250キロも離れた埼玉県加須市に避難した。状況がわからないんだから態勢が整うまでは遠くに逃げる、という判断はとても正しいことのように思えたんです。いったい、どういう人がこの判断を行ったのか、どういう人々がそこへ避難してきたのか、興味が湧いて、昨年の4月上旬に旧騎西高校を訪れました。 ――初めはドキュメンタリーを撮影するつもりはなかったそうですね。 舩橋 これまでは電気はどこからともなくやってくるものだと思っていて、僕はそれを湯水のように使っていた。自分の使っている電気で、自分が避難しなきゃならなくなったのであればまだ理解ができます。しかし、実際は他人が避難を強いられている、という事実が納得できなかった。避難所に行っていろいろな人に話しかけながら、この疑問を解消したかったんです。何度か足を運ぶうちに、徐々に「これは映画にできるのではないか」という考えになりました。  震災後、テレビではさまざまなドキュメンタリーが作られましたが、「どれだけ気の毒な体験をしているのか」「どれだけかわいそうな人々なのか」を描くばかりで、それは原発事故に関しては本質からずれているような気がしていたんです。原発事故では、視聴者や放送局の人間も加害者であるかもしれない。もちろん、「東電が加害者であり、われわれは電気を使っていただけだ。加害者ではない」と言う人もいるかもしれませんが、一部の人間が犠牲を強いられるような電気の供給システムに依存し、それを支えてきたのは私たちなんです。しかし、避難者を「かわいそうな人たち」という描き方をしたら、視聴者はそれを「他人事」として納得してしまう。安心できてしまうんです。作り手は当事者意識を棚上げにするのではなく、視聴者をぐらつかせるくらいの刃を突きつけなければならない。
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――それは、非常に後味が悪いものでもありますね。 舩橋 はい。でも、“お気の毒な方々”と描くことが正しいことだと思えなかったんです。どうしてこんなことになってしまったのか、電気の生産者であった双葉の避難民と消費者であった自分たちとの対話を記録するように作品を作ろうと思ったんです。 ■東電には「ありがとう」と言わなければならない ――撮影を進めるうちに、どんなことが見えてきましたか? 舩橋 加須と東京を行き来するということは、電気の生産者と消費者の間を行き来することでもあるんですが、地理的に距離が離れていることで、うまくリスクを分散させる不公平な日本のシステムというものが見えてきましたね。地方は地方で都合のいいように、東京は東京で都合のいいようなシステムが組まれてきたんです。地方には雇用や交付金などのお金が落ちてきます。これまで、双葉では農閑期である冬は出稼ぎに行かなければならなかったのですが、原発ができたことによって自分の町で生活できるようになりました。一方、東京では、地理的に距離があるので原子力のリスクを考えないで済む。節電したほうがいいのか、と感じなくて済むくらい、たくさん電気を使えるんです。こうやって双方を往復すると、原発のリスクは不均等に分散し、一部の人に犠牲を押しつけるシステムとなっていることが見えてきました。 ――そのシステムに組み込まれてしまった双葉の避難民に触れる中で、印象に残っている言葉はありますか? 舩橋 「これまでは、東電におんぶにだっこで生きていた」と言う避難者がいました。かつて、双葉は「福島のチベット」と言われているくらい、過疎がひどく、貧乏な地域だったんです。東電がなければ、双葉町は存在できなかったかもしれない。今まで30年間お世話になって、東電には仕事もおカネももらってきたのだから、「ありがとう」と言うべきなんじゃないかと語る避難者がいました。  ――報道には、なかなか取り上げられない声ですね。映画では、一時帰宅の様子も撮影されています。 舩橋 この時も、東電社員がかいがいしく世話をしていたのが印象的でした。4~5回にわたって一時帰宅を取材したんですが、ある日は土砂降りの天候。一時帰宅した住民は、ビニール袋にそれぞれの荷物を入れて帰ってくるんですが、荷物で両手はふさがっています。そこで、東電社員は避難者が濡れないように傘を差し、自分がびしょ濡れになりながら世話をしていたんです。会社が悪いことしたんだから、社員である自分たちがやらなきゃならないという、ある種の真剣さが伝わってきました。  やっぱり、東電に対する多くの避難者の姿勢は厳しいもので、彼らが避難所に来たら非難轟々になります。「東電の○○です」と挨拶しただけで「バカタレ」と怒号が飛んでいました。下々の社員は避難者の世話をしながら「すいません」と謝り続け、社長をはじめとする上層部の人々は姿を現さない。不公平だなと思いますよね。謝罪する人間はそんな下々の社員ではなく、もっと別にいるはずなんですけどね。 ■延々と続く時間の積み重ね ――旧騎西高校には、現在でも180人(9月18日現在)あまりの方が生活されていますが、みなさんの雰囲気もだいぶ変わってきましたか?
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舩橋 そうですね。今年9月から、無料で配られていたお弁当が有料化されました。が、肝心の土地や家の賠償はまだ始まっておらず、再スタートのためのお金をもらえていない。避難者も時間がたつことによって余裕がなくなってくるから、賠償も「いくらでもいい、なんでもいいからちょうだい」となってしまうでしょう。これは水俣病の時にも行われていた、卑怯な方法なんです。日本は水俣病の当時からまったく成長していません。 ――行政に対しては、何が一番の問題だと思いますか? 舩橋 時間軸方向での被害を見積もるのが、日本人は下手ですよね。どこが何マイクロシーべルトなのかとマメに放射線量を測定することは得意なのですが、「何年まで住むことはできない」と、時間軸方向で被害を見積もることができません。「いつか改善されます」「わからない」で済ませてしまうことが多い。わからないのであれば、仮に「40年は住めない」と設定して合理的な判断をしていけばいいのに、避難者の時間は引き延ばされて、どんどんと待ちぼうけにされてしまう。それは時間的な損害なんです。その損害によって、避難者はどんどん疲弊してしまいます。 ――では、このような状況で、双葉町民にとっての希望とはなんなのでしょうか? 舩橋 「仮の町」だと思います。今、双葉町では「7000人の復興会議」として町民を集め、どうやって次の町を生み出していけばいいのかを町民たちが議論しています。時間がたつと、人々がばらばらになってしまいますから、できるだけ早く仮の町構想をまとめてほしいですね。その構想を知るだけでも、避難者にとっては生きる希望となるはずです。 ――観客には、どのようなことを感じてほしいですか? 舩橋 映画を編集する際は、観客も避難所で日々を過ごしていると感じられるように腐心しました。朝起きて、散歩して、弁当食べて、タバコ吸って、テレビのニュースでは原発の作業は何も進んでいないと言われ、夜が更けていく……。避難者を取り巻いている、延々と続く時間の重みを感じ取ってほしいと思います。 ――それは「当事者」を疑似体験することにほかなりませんね。 舩橋 避難を他人事とせず、できるだけ感情移入してほしい。まさしく自分が避難所で毎日を過ごしていて、やっと3カ月ぶりに2時間だけ一時帰宅することができる。そんな時間の流れを、時系列で体感してほしいんです。5分のニュースでは伝えられない時間の重みを描くことができるのが、ドキュメンタリーですからね。 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン])
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●ふなはし・あつし 1974年大阪生まれ。東京大学教養学部表象文化論分科卒後、ニューヨークで映画制作を学ぶ。長篇映画『echoes』は仏アノネー国際映画祭で審査員特別賞、観客賞を受賞。第2作『BIG RIVER』(2006年 主演オダギリジョー、製作オフィス北野)、第3作『谷中暮色』(2010年)と本作『フタバ〜』は、3作品連続ベルリン国際映画祭に正式招待と、国際的な評価を得ている。 ●『フタバから遠く離れて』 10月13日(土)より、オーディトリウム渋谷ほか全国順次ロードショー <http://nuclearnation.jp/jp/

巨大な“ケガレ”の一塊から被災者個々の声を浮き彫りにする、インタビュー集『ガレキ』

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宮城県女川町の現在の様子(2012年9月撮影)。
 大飯原発再稼働への是非が問われた2012年の夏。最も厳しい需給が見込まれた関西でも計画停電は回避されたが、再稼働が妥当であったか否かについての検討はまだ入り口の段階だ。  今年の春以降、その大飯原発再稼働に関わる議論が紛糾する中で、後景に押しやられてしまったトピックがある。それが、丸山佑介著『ガレキ』(ワニブックス)が再提起する、震災がれき広域処理の問題である。  2011年11月に東京都の石原慎太郎都知事が震災がれきの広域処理に反対する声に対して、「(放射線量などを)測ってなんでもないものを持ってくるんだから『黙れ』と言えばいい」と発言して賛否の声が巻き起こってから、今年5月に北九州市で起きた受け入れ反対の抗議騒動までの約200日間を本書は「ガレキ問題」と捉え、何ひとつ過去の問題になどなっていない震災がれきについて、再度目を向けることを促す。  『ガレキ』は東北各地の首長や元原発作業員、福島県で震災を経験した広域処理反対派市民など、被災地に暮らす人々を含めた多くのインタビューおよびルポルタージュで構成されている。原発再稼働問題の陰で、検証や議論が尽くされないままに世間的なトピックとしては収束してしまったように見える、がれき広域処理の問題を考え直すための記録となっている。  がれき広域処理問題が、受け入れ賛成か反対かという単純な二択に収斂してゆく中で忘れ去られがちになっているもので、著者が忘れるべきでないと強調したのは、膨大な量のがれきがただの廃棄物ではなく、人々の財産であったもの、日常に在ったことを思い起こさせる具体的な品々であるということだ。遠目には廃材と映るものが、近づいてみれば子どものおもちゃであり、洋服であり、家具や本のかけらである。  また、それは平穏な日常の記憶であると同時に、悲惨な大災害の爪痕でもある。岩手県陸前高田市の戸羽太市長は、目の前に取り残されているがれきはもともと市民の財産であると同時に、「自分の子どもを轢き殺した車が家の玄関に置いてあるようなもの」でもあると語る。かけがえのない日々の面影と、2011年3月11日の痛ましい記憶とが表裏一体になっている。震災がれきは、そんな複雑さをはらむものである。  本書の編集時点で、陸前高田市内の死者は1,555人、行方不明者232人。その中には、戸羽市長の愛妻も含まれている。家族を失い、町の舵取りに追われる中で我が子たちへのケアを満足にできない不甲斐なさを滲ませる戸羽市長の言葉は、いまだ何も決着していない被災地の日々を、読む者に強く認識させる。共感する、などと軽々に口にできるものではない。けれども、これらインタビューでそれぞれの立場から語られる言葉には、せめて敏感でありたい。  しかし、これが震災がれき問題として括られてしまうとき、被災地の息遣いへの配慮は失われ、忌避すべき巨大な一塊として扱われる。がれき受け入れの是非を問うことであったはずの論点が見失われ、判断基準が不明瞭なまま拒絶の意識ばかりが際立ち、ついにはその地で生活する人々をも否定してしまうような言葉が拡大してゆく。  言葉を発する側に被災地の人々そのものに向けているつもりなどなくとも、被災地に暮らす人々にとっては自身を否定する声として突き刺さってくるのだ。  本書に収められたインタビューで繰り返し映し出されるのは、そうした否定の声に傷つく人々の姿である。  拒絶され無配慮な言葉を投げられる震災がれきは、被災地の日々の暮らしのすぐ横に存在する。何よりがれきは彼らにとって、自分たちの暮らしの礎となる我が家だったものなのだ。「それ(がれき)を放射能で汚れたとか言われると、私たちが汚れているみたいな感じがする」という人々の声に、受け手はどれほどの想像力を働かせられるだろうか。  時に脊髄反射的ともいえる震災がれきへの拒否反応の根底に、著者は「ケガレ」の意識を読み取る。個人に明確な判断基準があるわけではなく、抽象的な感覚による不浄の意識が、科学的な根拠よりも先行して震災がれきへのイメージを生み出してしまう。間接的で確度の定かでない大量の情報のみによって作られていったケガレのイメージはそのまま肥大し、議論の入り込む余地が限りなく乏しい禁忌の意識を強固にしてゆく。この意識に多くの人たちが縛られていることにすら気がついていない。  著者が本書で震災がれきを「ガレキ」とカタカナ表記しているのは、がれき広域処理問題が本質からはぐれてゆく中で、そのようなケガレのニュアンスが、がれきという言葉に含まれるようになっていったという問題意識に基づいている。ケガレの意識に基づいた過剰な禁忌への疑念、そして再考を促すのが本書『ガレキ』である。  もっとも、著者はこの本を通じて、がれき広域処理の受け入れ賛成あるいは反対いずれかを促そうとしているわけではない。むしろ、単純化された回答を即座に出すような振る舞いから離れ、丁寧な議論をおこすための材料となる「当事者の記録」として扱われることこそが、この本の意図するところだろう。  そして何よりも、本書を通じ、過去の話題になってしまったかのような震災がれき広域処理について、まだ先に進むには多大な課題が残されている現在形の問題としてあらためて考えるためのきっかけとしたい。 (香月孝史/http://katzki.blog65.fc2.com/

『ガレキ』──日本を席巻した200日の瓦礫問題が投げかけた震災後の「当事者性」【後編】

gareki002.jpg 前編はこちらから ■データ開示と議論の客観性 丸山 被災した自治体の方でも、できる限り自分たちで瓦礫を処理しようとしていたのと、想定よりも瓦礫の量が少なかった地域もあったので、当初予定していた県外受け入れが不要になったケースも出てきました。そうなると反対運動は、結果的に右往左往しただけで終わったものもある。その時に、反対運動が正しかったと考えている人もいれば、反対の声を上げたことをなかったことにしているような人も見受けられました。一過性の祭というか、声を上げることに意義を見出したような感じの人もいる。そうした人たちの中には、大飯原発再稼働反対など、別の市民運動に行動を移していった人もいます。 萱野 やはり広域処理反対派だった人たちは、再稼働反対、反原発といった立場の人が多いのでしょうか。 丸山 そういう印象を受けました。とはいっても、瓦礫処理のプロセス、行政、民間の携わる範囲を把握して反対活動をしている人は少ないです。ピックアップしてくる情報に偏りが生じてしまうことも多い。 萱野 政府に対して情報を隠しているんじゃないかという批判の声があがる一方で、都合のいい情報を共有する空間がメディアの中に生まれてしまったりする。そうなると客観性も損なわれてしまいますね。 丸山 各首長に話を聞くと、政府についてはともかく各自治体レベルではもう持っているデータは開示しきっているといいます。そうしたデータは「県政だより」のような媒体で公表している。県知事の名前で出したデータで県民に不利益が出るようなことがあれば、当然県が補償をすることになります。各首長はその覚悟でデータ開示をしている。そうである以上、データ開示や信憑性に関しては落ち着いて受け止めてもいいのではないかと思います。 ■ケガレとしての「ガレキ」 丸山 本書の中では震災瓦礫を“ガレキ”とカタカナで表記しています。一連の広域処理問題の中で、瓦礫という言葉には「ケガレ」の意識が含まれるようになってきたと捉えているためです。それはイメージの中で作られた「ガレキ」、イメージの中で作られた「放射能」です。実態と離れた「ガレキ」はケガレの概念が生み出した産物となってしまい、それゆえに感情的な拒絶に繋がってしまっている。 萱野 人間は日々暮らしている中で、それほどクリーンな存在でいられるわけではありません。生活習慣にせよ摂取するものにせよ、日々健康を侵すようなリスクを気にしないで生きていたりする。いわばケガレた存在であるとも言えるわけです。体に良くないものも食べるし、酔っ払って街を歩きもする。それらにだって充分リスクがある。けれども放射性物質の一点にだけ過剰に注目し、さらにその過剰な反応が道徳的に正当化されてしまっているところがありますね。 丸山 リスクの点で言えば、福島第一原発で働くような場合は別にして、多くの人にとっては放射線の問題で懸念されるのは発がんのおそれですよね。がんであれば初期段階ならば対応できるものも少なくない。そう考えると、転居を繰り返すよりも、定住していた方が、医療ケアなど自治体からの補償も求めやすいのではないかと思います。 萱野 低線量被曝についてはわかっていないことも多いですが、低線量であるぶん、事後対策に費用や時間をかけることが建設的でしょう。今後の長期的な健康診断などを整備する方が、リスクのことを考えるならばよっぽどいいはずです。 ■問われたのは自分自身だった 丸山 市民が声を上げることにはもちろん意味があります。ただそうした声には代案が伴わないことが多い。脱原発、クリーンエネルギーへの移行を唱えつつ、同時に不景気を拒否し、生活レベルの維持を求めていては、リスクも背負わず代案も提示しない文句になってしまう。 萱野 文句を言うだけの立場は政策決定に責任をとらなくていい。しかし決定をする側に立つと、自分がクリーンな立場にいられるかどうかだけでは物事が進められません。責任を負うには、あっちを立てればこっちが立たずという中で、ベターな道を選んでいくしかない。 丸山 陸前高田市の戸羽太市長は、市長選に当選して一ヶ月後に震災に遭い、ご夫人も行方不明になってしまいました。取材でお会いした時には、ご夫人のことは整理がついたと仰っていました。それでも、お子さんたちに何もしてあげられていないということについて、何度か涙ぐまれていました。お子さんたちが市長の苦悩を悟って我慢している姿を見た時に、情けなくてしょうがなかったとも仰られていました。そういうことも抱えながら責任を持ち決定する任にあたっている。「何かあった際に責任をとるといっても、職を辞するだけだろう」などとよく言われますが、当人のその後の人生を考えたら、責任をとって公の職を辞めるというのは結構なダメージであるはずです。 萱野 いろんなことを背負いながら任務にあたっている人たちがいます。福島の遺体捜索が遅れた地域でも最後まで捜索にあたったのは、現地の警察官。彼らは被曝するのを覚悟の上で、身を呈して活動している。 丸山 今回の本では求職中の若者にもインタビューしています。はたから見れば無職の青年ですが、彼は被災時には臨時職員として働いていました。身分としてはアルバイトになるわけですが、職員と同じように働いて、それこそ遺体をケアしたり避難所の運営にあたったりしていました。自分の家も被災した状況でそういうことをやっている。それだけ公に尽くした果てに、今は無職なわけです。そういった人たちの声がもっと届けられていいはずなのですが、瓦礫の受け入れや原発再稼働に反対するような大きな運動の声の方ばかりに注目がいってしまう。 萱野 震災瓦礫の危険性に過剰反応してしまうとそれしか見えなくなって、冷静になれずに声を上げてしまう。瓦礫受け入れ反対の運動が、被災地に心理的なダメージを与えていることに思い至らない。そしてそのことが“クリーンな言葉”で正当化されてゆく。客観的に測れないのがリスクなので、それぞれの反応が主観的な要素に左右されてしまうのは仕方がありません。けれども主観的なものが入るだけに、そこには各人の人間性などが反映されることになります。 丸山 震災瓦礫問題で問われたのは、自分自身でもあったということですね。浮き彫りになった自分を見つめることは大事です。それが、どんな姿であっても変えることはできませんから。最後に被災地の取材をするたびに思うことがあります。離れていて、どんなことを言っても、しょせん他人事だと思ってもいいから、震災に無関心になることだけは避けて欲しい。極端かもしれませんが、それだけは本当に強く思います。 (取材・構成=香月孝史 http://katzki.blog65.fc2.com/●まるやま・ゆうすけ maruyama000.jpg ジャーナリスト、ノンフィクション作家。1977年宮城県仙台市生まれ。考古学を専攻し國學院大學大学院修了後、日雇いや派遣労働などを経てビジネス書出版社に勤務。その後、フリージャーナリストとなる。裏社会の要人や犯罪者へのインタビュー、国内外の危険地帯への潜入取材を得意とし、これまで週刊SPA!、週刊現代、FLASH、週刊アサヒ芸能、日刊サイゾーなどの各媒体で北九州連続企業テロ事件、東日本大震災の火力発電所原油流出事故、避難所の性問題、福島原発5km圏内の被災動物などのルポを発表している。 ●かやの・としひと kayano000.jpg 1970年、愛知県生まれ。03年、パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。哲学博士。津田塾大学准教授。主な著書に『国家とはなにか』(以文社)、『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、『権力の読みかた』(青土社)など。近著に『最新日本言論知図』(東京書籍)、『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)など。