「自衛隊はスーパーマンじゃない」被災地で活躍する自衛隊員の知られざる苦労

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写真=名和真紀子
 「自衛隊ってすごい!」――。今回の大震災であらためて自衛隊の活動に舌を巻いた人は多いことだろう。被災地で活躍するその勇敢な姿は、被災者のみならず、日本中の希望として各メディアにこぞって報道された。しかし、震災現場で自衛隊が具体的にどのような活動を行う集団なのかということはこれまであまり知られてこなかった。はたして、震災現場や社会における自衛隊の役割とはどのようなものなのだろうか。過日、『ありがとう自衛隊 ~ヒゲの隊長が綴る日本再興奮闘記~』(ワニブックスPLUS新書)を出版したばかりの元・自衛官、イラク派遣隊長を務めた際は「ヒゲの隊長」のあだ名で親しまれた参議院議員・佐藤正久氏に、知られざる自衛隊の現場について話を聞いた。 ――今回の震災における自衛隊の活動で、佐藤議員が一番印象に残っているものはどのようなものですか? 「行方不明者の捜索ですね。この任務は、生存率が大きく下がる最初の72時間が勝負と言われます。震災発生当初はガソリンも供給できず、水や食料も届かないという状況の中で自衛隊が活躍をしました。自衛隊は自己完結性を持った組織のため、食事も風呂もガソリンもすべて自ら賄うことができ、備蓄もある。ただ、今回の震災では被災地域が広範囲に渡り、当初は自衛隊でも物資が足りませんでした。ご遺体を発見してもそれを運ぶ担架すら不足しており、ご遺体を背中に背負って運んだり、ゴム長などもないので、カッパを上から着ただけの状態で海水の中に入っていったりしていました。瓦礫で傷んでしまったご遺体の中には手足がなかったり顔がつぶれていたり、とくに津波では服が脱げてしまうため、裸のご遺体もたくさんありました。そのため、泥だらけになったご遺体を洗ったりすることもあったんです。とても厳しい状況でしたが、そういったご遺体の回収作業ができるのは自衛隊しかいないわけですから、やるしかないんです」 ――自衛隊の災害派遣部隊の活動というのは、まず行方不明者の捜索から始まるんですか? 「はい。最初は人命救助、捜索ですね。その際、ご遺体も見つかるわけですから、一番優先順位が高い。同時に後方部隊は食事や水の支援を行います。今回は東北地方に住んでいる500人以上の隊員に出動命令が出ましたが、自分の家族と連絡も取れないまま現地へ向かい、行方不明者の捜索、あるいは孤立者の救出といった任務にあたった隊員も数多くいました。実際に家族が亡くなったり、家が流された隊員もいます。でも、自衛隊員は自分の身内よりも一人でも多くの被災者を救い出し、少しでも早くご遺体を家族の元に戻す、という使命感を持っているんです」 ――自衛隊では行方不明者の捜索や瓦礫撤去など、災害派遣のための特殊な訓練もされているのでしょうか? 「あくまで国防のための訓練であり、災害用の特別な訓練をしているわけではありません。訓練には精神面、肉体面、スキル面の3つがあります。まず、精神面は日ごろから鍛えておかないと、いざ任務にあたる時に心が折れてしまいますよね。今回、若い隊員の中にはご遺体を見たことがなかった者も多く、本当につらい状況だったと思います。さらに雪や雨が降る中、かん水しているところに入り捜索活動を行い、戦闘服は2着しかないので次の日もまた濡れた服を着ていかなければならない。食事も被災者の前で食べるわけにはいかないので、場合によってはご遺体を運んだ車の中で食べなければなりません。精神的な強さというのは、現状よりももっとつらい訓練の中で培っておかなけえれば絶対に耐えられるものではありません。  肉体的な強さについてもそうです。例えば30~50キロの重い荷物を背負いながら、100キロの道のりを歩くという訓練があります。実際の戦場では体力温存のため、そのような長距離を歩くことはありません。しかし、日ごろから訓練を行っていれば、いざという時に無理が利くようになるんです。  スキル面もすべて応用です。日ごろから組織として動くという訓練をしておくことによって現場でバラバラにならず、指揮官の命令一つでどのようにでも動ける。自衛隊というのは人数が十分ではないので、駐屯地ごとにそれぞれ専門部隊が分かれています。任務があると、それぞれの駐屯地から必要な隊員をつまみ出してプロジェクトチームをつくるんです。"ミッション・オリエンティッド"とよく言いますが、日ごろからそういう訓練をしておかないと、現場現場のニーズに対応できないんです」 ――スキルといえば、今回は原子力災害派遣も行われましたが、原子力についても専門的な知識が必要とされると思います。そういった訓練もされているのでしょうか? 「一部の部隊はそういう知識を持っていますが、ほとんどの隊員は持っていません。ですから、今回も専門的な教育を受けた隊員がみんなに教育をしながら活動を行っています。自衛隊員と言っても、大多数の人は放射能や原子力のことまでは分かりませんから。ただやること自体は日ごろの国防の応用です。ヘリから原子炉への散水や、放射能除染もそうです」 ――すべての訓練が応用として現場で生かされているんですね。しかし、そんな自衛隊員でも、精神的にまいってしまうこともあるともあるんじゃないですか? 先日、仙台に行ったときに、自衛隊員の人が「もうつらい」と漏らしていたという話を聞いたんですが。 「今までにないような経験をしていますからね。たとえば、ご遺体にまつわる話ですが、ご遺族の方から探してほしいと頼まれて沼地などにボートや、あるいは胸まで沼に浸かりながら自衛隊員が捜索します。ご遺族はその様子を周りで見ているわけです。ようやく見つかったときに、ご遺体が想像していない状態であっても、自衛隊員はご遺族との対面に立ち会うわけですよね。あるところでは、行方不明だった3歳の男の子のご遺体が自衛隊の捜索で見つかったんですが、ご遺体の状態は直視できるものではなかった。そのご遺体を遺体袋に入れて引き渡すときに、お母さんが『よかったね、自衛隊の人たちが助けてくれたよ。今度生まれ変わって大きくなったら自衛隊に入れてもらおうね』と泣きながら語りかけたそうです。自衛隊員たちはみんなで線香をあげて合掌し、見送ったりするわけですが、そういう場面に何度も立ち会わなければならない。自衛隊員たちにも家族がいるわけですから、やはりつらいものがあります」 ――被災地での活躍ぶりを見ると自衛隊員はスーパーマンだと思ってしまいがちですが、人の死に立ち会うということはやはりつらいことなんですね。本書では災害現場での口内炎や便秘といった、自衛隊員の身体的な苦労も語られていますが、他にも病気などに罹ることはあるのでしょうか? 「自衛隊は大"痔"主と言われています。野外で用を足す場合が多いので、痔になりやすいんです。それと、水虫も多いですね。瓦礫を踏み抜かないようなブーツを履いているので足が蒸れやすいんです」 ――佐藤議員も自衛官の時代はそういった悩みを抱えていたんですか? 「私は痔は大丈夫だったんですが、水虫は今でもダメですね(笑)。あんな水浸しのところを歩くんだから、直るはずがないですよ」 ――自衛隊に対する特別手当が、わずか1,620円ということにも驚かされました。 「そこは言っても仕方がないことですが......。ただ、自衛隊員が一番求めているものは名誉と誇りです。被災者からの感謝の気持ちや、『生まれ変わったら自衛官になりたい』という言葉、それに天皇陛下からの頂いた感謝のお言葉......。自分の身を犠牲にしてでも国のためにというのが自衛隊員の精神的な軸になっています。その見返りはお金ではなく、名誉と誇りなんです」 ――震災から3カ月が経過しました。今後、自衛隊はどのような活動を行っていくのでしょうか? 「災害派遣の現場では、行方不明者の捜索は一段落するでしょう。しかし、仮設住宅ができるまでは引き続き生活支援、つまり水と食事の支援が求められます。また、いまだ収束していない福島第一原発事故でもモニタリングや除染などの活動が続いていきます。現場から離れたところでは、今回の災害派遣を踏まえた教訓づくりが行われます。今回の教訓事項を洗い出し、次に反映させる。首都直下型地震や東海、東南海地震などが発生した場合に備え、準備を進めていきます」 ――復旧活動を通して、あらためて自衛隊の活躍がクローズアップされています。佐藤議員としては、この状況をどのようにご覧になりますか? 「震災の直後から多くの方々を救出し、ご遺体の捜索にあたるなど大活躍する自衛隊の姿は誇らしく感じています。しかし一方で、自衛隊に対して間違ったイメージを持っている人も多くなっていると思いますね。自衛隊を『災害派遣部隊』と見ている人や、災害派遣専用の部隊として強化すべきじゃないかという議論も出てきています」 ――「自衛隊の本来の活動」とはどのようなものでしょう? 「自衛隊の任務には国際貢献や災害派遣もありますが、あくまでも『国防』が中心の軸です。その応用で国際貢献や災害派遣などが可能になるわけで、そちらが中心になってしまったら間違いなく"弱い"自衛隊になってしまうでしょうね」 ――最後に、佐藤議員から、現地で活躍する自衛隊員にメッセージはありますか? 「参加されている隊員の方々の汗と想いが被災者の希望になり、安心の糧になります。だから最後まで力と汗を振り絞って活動していただきたいですね」 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン]) ●さとう・まさひさ 1960年、福島県生まれ。陸上自衛官として国連PKOゴラン高原派遣輸送隊初代隊長や、イラク先遣隊長、復興業務支援隊初代隊長などを歴任。2007年に退官し、現在は自民党参議院議員として外交防衛委員会理事、自民党「影の内閣」防衛副大臣、国防部会長代理などのポストに就任している。
ありがとう自衛隊 ~ヒゲの隊長が綴る日本再興奮闘記~ 本当にありがとうございます。 amazon_associate_logo.jpg
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「南三陸町って、一体どこ?」平成の大合併が復興の足かせになっている!?

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ダメージを受けた事務所。
 震災発生直後の報道で、東京に暮らす被災地出身者が違和感を覚えたことがあったという。それは現在の市町村名だ。 「南三陸町って一体どこのことなんだろうって思いました」  Twitterをはじめ、各種ブログなどでこのような書き込みが散見された。一方で、地元の人々から発せられた言葉の中にも同様のものがあった。 「女川の隣まで石巻市って言われても、実感がないんだよね」  これは、現在も石巻に暮らす30代の男性の言葉だ。現在の行政上の「石巻」について違和感があるという。彼によると、多くの人が現在の被災地の地名にしっくりいっていないという。
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一般業務の滞り。
 そもそも現在の行政区分は、「平成の大合併」によって誕生した巨大な新しい自治体だ。平成の大合併は、1999年から政府主導で始まった大規模な市町村の合併政策。小さな自治体同士を一緒にして広域な自治体をひとつの行政組織が主導することで業務の効率化を図り、行財政基盤の強化や地方分権の推進を目的としていた。つまりは地方行政の"スリム化"を図ろうとしていたのだ。2000年代にピークを迎え10年には全国で合併が終了、まさに地方分権改革を代表する大規模な政策となった。  宮城県でも30以上の市町村が消滅し、編入合併している。だが、大合併でスリム化された行政は地元の人間に定着する前に今回の大震災に直面してしまった。そしてその弊害は最悪のタイミング、つまり震災直後から明るみに出ることとなる。  まず、県外にいる出身者からの生存者や行方不明者の身元確認などの問い合わせ窓口としての役割を十分に果たせなかった。大合併以前の地名で問い合わされるために、役所の人間も旧町名で対応することがあったそうだ。  さらにより深刻な問題となったのは、復興を目指して再始動を開始してからだ。
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石巻市役所。
 震災の罹災証明書や支援金の申請で多くの住民が列をなし、担当者が裁ききれなくなっているという。しかも、役所の施設そのものが津波で水没したり、業務用のデータが入ったパソコンが故障したり流されるなどの被害を受けているところもある。このような状況に加えてスリム化された業務体制では提出された大量の書類の処理が追いつかないのが現状だ。これも地方行政のスリム化の弊害と言えるだろう。  また、大きな弊害として、先ほども触れた「行方不明者」の問題がある。それは今もなお、親類や知人の安否情報を求めて役所にやってくる人が絶えないことからも分かる。すでに各地では捜索が打ち切られているが、まだすべての人の安否確認すらできていないのが現状だ。  その安否確認にしても、市町村合併で各自治体の人口が大幅に増えたにもかかわらず、「避難者名簿」や「行方不明者名簿」などの紙ベース作られた書類を片っ端から確認するというアナログな方法しかないのだ。そのため現時点では、遺体安置所での身元確認も進んでいない。  このように、平成の大合併は被災地の復興に実害とも言える問題をもたらしている。  しかし、今回の震災をきっかけに「住民の顔が見えるような小さな行政こそが必要だ」と、断じるのは極論だろう。市区町村の行政区分を旧市区町村に再び分けることは現実的な方法ではない。  一度変更してしまったことを元に戻すこともできないのであればこそ、震災後の街づくり、新たな都市計画を議論していくときに、広域の市区町村を役所がすべてカバーしきれずに通常の行政サービスを均一に提供できないような現状を反省材料としていくべきだろう。 (取材・文=丸山ゴンザレス/http://ameblo.jp/maruyamagonzaresu/
村が消えた―平成大合併とは何だったのか これもまた、小泉内閣が落とした影。 amazon_associate_logo.jpg
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「なぜ"24時間ニュース番組"がない?」デーブ・スペクターが日本の震災報道を斬る!

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震災後、得意の"クールギャグ"で
日本中に笑いを届けたデーブ氏。
 東日本大震災から3カ月。この間、地震と津波、そして原発事故という三重苦をさまざまな形で報じてきた日本のテレビメディア。衝撃的な映像とともに多くの情報を視聴者のもとへ届けてきたが、その内容には懐疑的な声も少なくない。一部では海外メディアの報道姿勢と比較しながら、政府の"大本営発表"をタレ流ししてきたと指摘する声も多い。そこで、日米両国のテレビ事情に詳しいデーブ・スペクター氏に、災害報道における日米の違いや、制作サイドから見たテレビの問題点を語ってもらった。(聞き手=浮島さとし/フリーライター) ――東日本大震災から3カ月が経ちました。デーブさんも連日テレビに出演されていたわけですが、当時のスタジオの空気はいかがでしたか? デーブ氏(以下、デーブ) 経験したことがない異様な雰囲気でしたよね。スタッフもみんな寝てないし、判断力も落ちてたし、疲労でイライラしてて。それでいて、原発の危険さをあおってはいけないというようなムードもありましたし。何をしゃべっていいのか、よくないのか。そんな空気が充満してましたよね。 ――スタッフから「こういう発言はしないように」という指示はあったのですか。 デーブ それはなかった。ただ、重たい空気はありましたよね。常識に照らして暴走した発言はしないようにって、みんなピリピリしてました。山本太郎みたいな人もいたわけなんですけど。 ――スポンサーサイドからは何か圧力があったとかは? デーブ 無いってことになっているんですけどね。直接の圧力がなくても、東電が大スポンサーなんで配慮はあったとしか思えないけど。気を使いすぎだとボクは思いますね。 ――海外メディアは震災発生当初から原発の危険性を遠慮なく報じていたようですが。 デーブ 日本よりもっと扇情的にやってましたね。早くから「メルトダウンはしてるかも」とか。今思えばその騒ぎ方が正しかったわけですけど。日本は伝える側も放射能や原発のことを理解できていなかったでしょう、もちろんボクらコメンテーターも。分かるのは津波の被害とか瓦礫のこと。だからそれを流すしかない。だって、専門家だって分かってないんだから。 ――アメリカでも自然災害は多いわけですが、日米で報じ方に違いはありますか。 デーブ 文化の違いだと思いますが、たとえば日本人って生まれ育った土地へのこだわりが強いでしょう。とても不便な面があるけれど自然が豊かな山間部の土地に何世代も住んで、そういう生き方をリスペクトする文化がある。そこで土砂災害とかあっても、間違っても「そんなところに住んでいるからだ」なんて言われない。でも、アメリカでは結構言うんですよ。言われる側も、それをある程度承知してるというかね。トレーラーハウスに住んでる人は、ハリケーンで飛ばされるリスクを承知して生活をしてますからね。 ――土地に対する信仰心がまるで違うんでしょうね。日本は森羅万象に神が宿る自然崇拝の国なんで。アメリカ人はもっと合理的に引っ越しちゃうわけですか。 デーブ そう、合理的。1990年代にフロリダにハリケーン「アンドリュー」が来たのですが、もともとフロリダはハリケーンが多くて、あまりに多いから「もう住んでられない」って、あの時は10万人くらいが移住したんです。日本では埼玉の夫婦が定年後は沖縄に住もうとか、あんまり思わないですよね。田舎暮らしって一部だし。でもアメリカだと、寒い土地の人が老後にアリゾナとかへ抵抗なく移住してる。どちらがいいという問題じゃなくて、違いですよね。それによって報じ方も違ってくるということで。 ――テレビ業界のプロとして伺いますが、今回の震災報道の中で「テレビ」と「活字」の違いをどうお感じになりましたか。 デーブ これはね、ものすごく感じました。まず、テレビというのは映像の必要性が先行するでしょ、『朝生』(テレビ朝日系)を除いて。どうしてもいい画を求める。これは仕方ない。そういう縛りの中で、今回のように内容が専門的で、暴走するとクレームが来るという状況だと、もう無難に収めるしかないんですよね。批判精神なんかゼロ。でも、新聞にはすごく細かくて具体的で批判的な情報がたくさんあったでしょ。週刊誌はさらに細かくて、スクープもあったし。つまり、テレビで伝えきれない情報が紙の上にたくさんあった。でも、地上波を責めるのも酷なんですよ。だって、専門家にコメントもらおうにも「尺」がないんですよ、2、3分しか。伝えきれない。 ――アメリカとの違いがあるとすれば、一番は何ですか。 デーブ 一番の違いは、日本に24時間ニュース番組がないってこと。これにつきますよ。CNNとかFOXとかがない。全然ない。一つもない。ゆっくりニュースを放送する局が一個もない。アメリカで今回みたいな災害が起きたら、地上波は最初の数時間は流すけど、あとはニュース専門局に完全にシフトするんです。視聴者はニュースをそこで見る。 ――日本もBSやCSでそれに近い形のものはありませんか。 デーブ だってあれ、本気じゃないでしょ。同じニュースを繰り返し流してるだけだし、自前で取材したわけじゃない。しいて言えば、『BSフジLIVE PRIME NEWS』が近いかな。一つのテーマを2時間じっくりやってる。あれなら新聞情報にもじっくり触れられるけどね。 ――アメリカ人はネットでも結構ニュースを読んでますよね。 デーブ めちゃめちゃ読みます。アメリカのテレビだってすべては伝えきれないけど、新聞系のサイトは相当読まれてますよ。ネットから取得する情報がものすごく多いんです。日本人は「Yahoo! JAPAN」しか見ないでしょ。あれは、要約されたニュースがトピックスとして並んでいて、見出しみたいなものですよね。一つの情報を掘り下げて読むのとは違うから。 ――日本にニュース専門局ができない理由は、国民がニュースを見ない、読まないということに加えて、一番はやっぱりお金ですかね。スポンサードする企業がない。 デーブ そう、お金はものすごくかかる。通信社から買わずに独自で取材するようになったら、もう大変ですよ。この不景気な時代に視聴率が取れないニュース専門局にお金を出そうなんて企業は、今の日本にないでしょう。やれるとしたらNHKだろうけど、そしたら地上波を見なくなるからね。NHKの視聴率はニュースが支えてるから。地震があったらとりあえずテレビはNHKをつけるとかね。そのNHKが専門局を始めたら、視聴者はそっちに流れるだろうから。だから、共食いになっちゃうんですよ。 ――民放はともかく、NHKは共食いしてでもやるべきかもしれませんけどね。 デーブ だと思いますけどね。これだけテレビ文化が成熟してる国なのに、24時間ニュース局がないなんて不思議なんです。ラジオでさえやってないんだから。ラジオなんて、一社提供の持ち込み企画とか、事務所のお荷物のタレントに番組を持たせたりとか、古いやり方をずっとやっている。流動性がないんだよね。ラジオでやれないんだから、テレビだと100年かかるかもね。 ――メディアと言えば、今やTwitterも一つのメディアと言える時代ですが、デーブさんの震災直後のつぶやきが大反響でした。「低気圧にお願いです。被災者ではなく、原発を冷やしてください。ボクも一所懸命、寒さを原子炉に送りますんで」とか、「日本で略奪があるのは愛だけですからね、山路さん」とか(笑)。日本全体が重苦しい空気の中で、デーブさん流のギャグで癒やされたという日本人は多かったようです。 デーブ クールギャグと呼んでるんですけどね(笑)。あれはびっくりしました、反響がすごくて。普通にいつものようにつぶやいてただけなんですけど。あのころはまだ「冗談言っちゃいけない」みたいな空気で。日本全体が首を絞められてるような、なんていうのかな......。 ――閉塞感のような。 デーブ そうそう、閉塞感。それがあったでしょ。みんな笑いたかったのに笑えなかった。そこにニーズがあったんでしょうかね。 ――それを一冊にまとめた『いつも心にクールギャグを』(幻冬舎)が発売中ですが。本を出されるのが10年ぶりくらいとのことで、意外ですね。 デーブ ボクは基本的に本は出さない主義なんです。だって、さほど伝えることもないのに、タレントだから本を出すというのも、ちょっと抵抗があるというか。今回はちょっと特別で、社会現象としてあまりに反響が大きかったし、残しておこうというのもありまして。ま、脱力して気楽に読んで、癒やされていただけたらうれしいです。 ●でーぶ・すぺくたー アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ出身。日本を拠点に活動する米国人テレビプロデューサー・放送作家・コメンテーター。1983年、米国ABC放送の番組プロデューサーとして来日。ポイントをおさえた的確なコメント、鋭い批評は多方面から好評を博し、テレビ出演の他、全国各地の講演や執筆活動等で多忙な毎日を送っている。2009年「オリコン好きなコメンテーターランキング」第1位獲得。話題のTwitterは「ツイナビ」アカウントランキングで『総合TOP100』『有名人・芸能人』『エンタメ』各部門で第1位(2011年3月22日ツイナビ調べ)。
いつも心にクールギャグを 定価1,260円/幻冬舎刊/好評発売中。 amazon_associate_logo.jpg
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【震災3カ月】「サイゾー? 結構読んでるよ」主婦がそう言う福島県いわき市四倉町 現地レポ(4)

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一体どうしたらこの惨状を復旧できるのだろうと思ったが、
瓦礫も自動車もみごとに撤去されていた。
 漁港で知られる福島県いわき市四倉町は、久之浜町と並んで県内で最も震災被害を受けた地域だ。同市の6月14日現在の被害状況は、死者306人、行方不明50人、住家被害は2万7,450棟(うち、全壊・大規模半壊9,300戸)。市内全域で道路や河川、橋梁などに損壊・浸水の被害が発生した。  取材班が前回(3月22日)訪れたときは、まだ街中が瓦礫の山で覆われていた状態。住民の一人が「瓦礫を寄せてやっと昨日あたりから車が通れるようになった。作業したのは地元業者。市外の業者は放射能を怖がって来てもくれない」(40代男性)と嘆いていたのは既報の通りだ(詳しくは前回記事参照)。  市では地震発生から2時間後には県知事へ自衛隊派遣を要請し、同日23時からは陸上自衛隊が災害支援活動を開始(現在も継続中)。復旧は地道に進められ、1カ月後の4月10日には、主要幹線である国道6号線の四倉町から久之浜町間の4km区間で応急復旧が完了し、法面崩落の恐れで通行止めとなった区間もようやく通れるようになった。現在、国道6号線は一部迂回路の利用も含めて全線で通行が可能となっている。
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横転した自動車に道をふさがれて呆然としていた男性は、
今どうしていることだろう。
 3月に取材したエリアを、3カ月後の今回あらためて歩いてみると、住宅街や道路、施設の多くは見違えるように復旧されていた。国道6号線沿いにある道の駅「よつくら港」は、前回は津波の被害で爆撃を受けたかのような惨状をさらしていたが、今回訪れると既に新しいのれんや旗などが飾られ、活気を取り戻したような様相。住民によれば、「販売所だけ土日に営業してるけど、商品が限られているから売り切れたら終わり。駐車場もまだ使えないから、隣の海水浴場の場所を借りてる」とのこと。完全復旧ではないにせよ、できるところから始めていこうという住民の気持ちが伝わってくる。  同町で鮮魚販売を営む「大川魚店」は、自家製のかす漬けやみそ漬け、天日干しの干物などが人気の昭和25年創業の老舗店。今回の津波では多大な被害を受けたものの、6月中には店舗の修繕工事を終え、7月には再開できる見込み。一部で営業も再開している様子で、ご主人のTwitterには時折「本日9:00~16:30まで営業いたします」「脂ののっためじまぐろのお刺身がお勧めです」などのつぶやきも見られる。  一歩一歩前へ進みつつある四倉町だが、いまだ多くの住宅でライフラインが復旧していないのも事実だ。市水道局によれば「まだ550戸で水道が復旧されていません。道路や施設の復旧の道筋が決まらないと、地盤が決まらないところに水道菅だけ先に埋めて直すというわけにはいかないという事情があります」。14日現在で368人の避難所生活者がいるのもそのためで、3カ月が経過した今も厳しい生活を強いられている住民は少なくないのである。
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瓦礫が撤去された県道の様子。蛇行していると勘違いしていた道は
直線だった。式子さんの乾物屋はこの通り沿いにある。
 一方、前回の記事で、ゴーストタウン化した県道沿いで乾物屋を営む鈴木式子(すねこ)さんを紹介したが、今回寄ってみると平日ながらお店は閉まっていた。お隣に住む主婦の方にお話を聞いてみると、「今日は定休日だけど、普段は元気に商売してるよ」と教えてくれた。思わず安堵する我々に対し、この主婦は意外な(?)言葉を続けた。 「もしかしてサイゾーさん? こないだの記事読んだよ」  なんと! ここ福島県いわき市の四倉で、「サイゾー」の固有名詞が聞かれるとは。 「サイゾーなんて、ご存じなんですか」 「知ってるよー、結構読んでるよ。これ(携帯電話)でGREEに登録してて、ニュースも配信されてくるから、それ読んでるの」 「ご愛読ありがとうございます」 「サイゾーって、突っ込んでるけど、逆に突っ込まれたりもしてるよね」  その通り。さすがは四倉の母。鋭いつっこみに、こちらは返す言葉もない。とにもかくにも、日刊サイゾーが被災地で主婦層にも読まれていることが明らかになった。  その後、外資系通信社の記者にこのことを話すと、「非常に興味深い」と食い付いた上で、次のような"解説"をしてくれた。 「地方の主婦層にまで携帯ゲームが普及して、そこから情報を得ているという構図は、ある意味で日本的で、そして象徴的だ。ネット情報の影響力が、良くも悪くも強くなっていることの表れ。マスメディアだけが情報を発信する時代でなくなったことは確かだ」  ともあれ、サイゾーはこれからも被災地を含む全国のユーザーへ向けて情報を発信していくだろう。 (文=浮島さとし)
報道写真全記録2011.3.11-4.11 東日本大震災 少しずつ、動き出している。 amazon_associate_logo.jpg
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被災地レポート「仮払金支払い窓口で働く東電末端社員の対応」

toden0000.jpg  福島第一原発事故の対処をめぐって企業としての威信が揺らいでいる一流企業「東京電力」。  東京電力は関東1都6県と山梨県、さらに静岡県の一部を独占的に事業地域とする電力会社だ。歴史は古く1883年(明治16年)に東京電燈が設立されたことに企業としての歴史が始まっている。その後は半官半民のスタイルで、ほぼ国営に近いインフラ企業として東証一部上場を果たしている。  東電に関する情報は連日のようにニュースなどで報道され続けてきたので、すでに周知のとおりだとは思うが、震災後のトップや役員の対応、企業自体の隠ぺい体質にも注目が集まった。学閥主義は官僚よりも官僚体質と揶揄されるように、社内の派閥争いは熾烈を極めるとの話もあり、世論の批判がその企業風土に集中しているのも事実だ。  それほどのエリート集団が勤めている一流会社であろうとも、原発事故の責任は取らなければならない。避難している住民への補償金支払い義務は当然発生する。しかも金額だけでなく、企業としての誠意も示さなければならない。誠意を示すため被災者への仮払い補償の説明の窓口対応にあたっているのが、このエリート社員たちなのだ。高学歴で一流企業に入り生涯安泰を約束されたはずの当人たちにしてみれば"まさか"の展開だろう。  彼らはどのような態度で被災者に接しているのか。そのことを確かめるべく、南相馬市役所内に臨時設置された窓口で被災者を相手に補償金の支払い手続きの説明に当たる東電社員を取材した。 「このたびはご迷惑をおかけしました」  開口一番、窓口を訪れた被災者に対して謝罪と同時に深々と頭を下げた。そして、補償金の仮払いについて懇切丁寧に説明していく。 toden000000.jpg  世帯当たりの支払額や過払いした場合の返還方法など具体的に細々と説明する。その間、彼らは一様に腰が低い。 「1世帯当たり100万円、単身世帯は75万円を銀行などの口座に振り込みます」  東電社員たちの説明する言葉から聞き取れるイントネーションから、地元(福島)の人間でないことが分かる。今回の補償の件に絡んで、東京から出張してきたのだろう。  南相馬市役所に仮払い金の申請に来る人たちが、福島第一原発事故の被害をダイレクトに受けた地域の被災者であることは、彼らも十二分に承知しているはずだ。  実際、取材中にも怒りをあらわにしている人を何人も見たが、ひたすら謝罪を続けながらの誠心誠意を込めた対応に最後はみな「ありがとう」と言って立ち去っていった。  一人ひとりを相手にするのは、相当な心労であることは容易に想像できる。しかし、そうは言っても簡単に同情はできない。東電に賠償すべき責任があることは誰の目にも明らかで、放射能漏れの被害報告が後手に回ったことも問題視してしかるべきだろう。それほどまでに東電がもたらした被害は甚大なのだ。  現在のところ東電は200億円以上を避難住民たちに支払ったとしている。「お金だけで責任が果たされるものではない」、そんな意見も多く聞かれる。これから東電の責任をめぐる議論はますます活発化していくだろう。  実際に補償のために動く末端の社員たちには、テレビだけでその姿を確認できる経営陣への怒りがそのまま向けられる。だが、責められるべきはあくまで会社であり、その企業体質。そこで働く末端の社員にその場での謝罪を求めても根本的に解決するはずもない。  東電の社員ではなく組織と経営陣、そこにこそ問題の本質があることを常に忘れないように、そして問題の本質がズレることのないように、今後も責任問題の推移を見続ける必要があるだろう。 (取材・文=丸山ゴンザレス/http://ameblo.jp/maruyamagonzaresu/
東京電力・帝国の暗黒 まさに伏魔殿。 amazon_associate_logo.jpg
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【震災3カ月】「防災対策庁舎は保存すべきか?」津波被害の宮城県南三陸町 現地レポ(3)

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震災3ヶ月目の6月11日に、防災対策庁舎の前で
黙祷をする町民たち。既に「震災の象徴としてモニュメント化して
いる」(町民)との声も多い。(クリックすると画像が大きくなります)
 3月11日の地震と津波で甚大な被害を受けた宮城県南三陸町。同町役場では地震直後、危機管理課の24歳の女性職員が、防災無線で津波到達の寸前まで避難を呼び掛け、自らは津波に流されて命を落とすという悲劇が起こった。この事実はテレビや新聞で報道され、女性職員が死の直前まで放送を続けた防災対策庁舎の"残骸"の映像が繰り返し全国へ流されることになった。
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復興が待たれる震災後3カ月を迎えた宮城県南三陸町の現状。奥右
に見える四角い建物が災害対策庁舎(クリックすると画像が大きく なります)
 震災時にはこの庁舎の3階にいて、自身も建物の手すりにしがみついて一命を取り留めたという佐藤仁町長が、「私個人としては」との前提で、「この庁舎を残すことは震災を後世へ、心に残す方法だと考えている」と、保存に前向きな発言。これを機に町民の間では、庁舎を「防災モニュメント」として残そうという動きが起こっている。一方、「見るたびにつらくなる。早く壊して」との声も少なくなく、町民の間でも保存か解体かで意見が分かれているようだ。  その庁舎は現在、赤錆びた鉄骨の骨組みだけが残り、津波で流されてきた魚網や瓦礫をまとわりつかせながら、焼け野原のように荒涼とした大地にたたずんでいる。外壁がすっかり破壊されてしまったため、外からは倒壊した什器や事務机、防災用の機械類などが見える状態だ。正面入り口には今も献花がたえず、震災3カ月後の6月11日には、何組もの町民が訪れて手を合わせ、僧侶を伴い経を唱えてもらう町民の姿も見られた。  いきおい、取材陣にとっては"象徴的な"絵が撮れる場所でもあり、6月11日にはNHKはじめ民放各社のカメラクルーが早朝から待機し、町民が献花に訪れると一斉に動きだして撮影を開始するという光景が見られた。この建物がさまざまな意味で、今回の震災を象徴する存在であることは確かなようだ。
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献花に訪れた遺族とそれを撮影する報道陣
 そんな中、震災から3カ月が経過した今、町民は庁舎の保存をどう思っているのだろうか。現地で声を拾ったところ、ある20代の男性は「年が上にいくほど残そうという声が多い。若い世代は早く解体して次へ進もうという空気が強い」(20代男性)と言い、その割合については「正確なアンケートはされてないけど、役所の友人から聞いたところでは半々くらいらしい」(40代男性)、「仲間内の話では6:4で『残すべき』が多いという印象」(40代男性)とさまざま。年代や置かれた立場により意見は分かれるが、一定数の町民が「なんらかの形で後世へ残そう」と考えていることは確かなようだ。以下は、ある男性町民の声。 「自分は55歳。南三陸町の志津川(地区)で育ったこの年代の人間は、チリ地震津波、宮城県沖地震、それに今回の震災と、大規模な津波を3回も経験している。規模の比較的小さい津波を含めたら50回、あるいはもっとだと思う。だから、若い人と比べて津波の怖さは身に染みている。過去の経験の蓄積を伝えてきたけど、それでも全然ダメだったじゃないかという悔しさはある。それだけに、津波被害を風化させないという気持ちは、どうしても若い世代より強くなると思う」  実際、議論されている防災対策庁舎は、「一般基準の125%の強度で設計されていて、自家発電装置も3階に置くなど、配慮はされていた」(町関係者)といい、さらに町では詳細な解説が付された「ハザードマップ」を全戸配布し、「過去の津波の浸水実績をもとにした避難所や避難経路、水門、防波堤などの整備を進めてきた」(同関係者)ともいう。100年に一度の巨大津波とはいえ、こうした取り組みが必ずしも十分に効果を発揮しなかったことへの悔しさが、中高年層には特に強いということなのだろうか。  もっとも、「保存派」の中にも「なにも広島の原爆ドームみたいに全部残さないでも」という意見はあるようだ。別の30代の男性は、「なんらかの形では残すべき」と言いつつ、「鉄骨の一部を高台の公園にモニュメント化して残すことで、津波の悲惨さと防災の重要性を後世へ残すという目的は果たせる。それが現実的で合理的」と提言する。  折しも、前述の亡くなった女性職員の両親が、このほど仮設住宅への入居を辞退。その理由を「仮設住宅から防災庁舎が見えてつらいから」と説明したことが現地紙で報じられた。「そういう人たちの気持ちも配慮すべき」(50代女性)と、"原爆ドーム式保存"に疑問を呈する声も少なくない。  残すべきか、壊すべきか。同じ町民でも思いはさまざまだ。同町震災復興推進課では、「あくまで震災復興基本方針に基づきながら、今後の地域懇談会などで住民の声を吸い上げて決めていきたい。具体的なことはまだ何も決まっていない」としている。 (文=浮島さとし)
報道写真全記録2011.3.11-4.11 東日本大震災 この目に、焼き付けておく。 amazon_associate_logo.jpg
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【震災3カ月】被災地から上京した被災者の違和感「まだ、明日の生活も見えないよ」

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反原発運動が盛り上がる東京を、被災者はどう見ているか。
 JR東日本は、被災地復興に向けた取り組みの一環として東京~仙台間の新幹線料金の値引き率を50%に設定した「やまびこ自由席片道きっぷ」を販売。これにより所要時間が約2時間程度、価格にして5,000円で首都圏と被災地が結ばれることとなった(この切符の販売期間は6月13日まで)。  震災発生直後に比べれば飛躍的に便利に往復できるようになったため、5月の連休以降には多くの人々が被災地入りしてボランティア活動や被災地観光をすることとなった。さらに現在では、被災地から東京に来る人も増えている。  宮城県石巻市から友人に会うために東京を訪れた30代の男性Aさんは、「なんていうか、震災の爪あとのようなものは、まったく感じなかったね。東京の人たちはテレビで見ただけだから徐々に記憶が薄れていくのかもしれない。でも、実際に自分の目で見た僕たちは忘れたくても忘れられないよ」と都内では震災の影響を見出すことができなかったと話す。一方でAさんは「震災の記憶を忘れてほしくはないけど、震災だけに縛られてもね」とも語り、別段気にした素振りもなかった。  それというのも今回の上京は友達に会うだけでなく、自分自身の息抜きをすることも目的の一つなのだという。 「地元は少しずつ落ち着きが戻ってきたけど、どうしても遊ぶところがないんだよね。僕たちも震災にあう前は普通に遊んできたわけだし、我慢も限界でさ。今なら片道5,000円で東京に行けるし、とにかく楽しいことがしたかった」  交通機関が発達した現代では、仙台と東京の距離は近いものといえるだろう。Aさんの気持ちは容易に理解できる。新幹線が復旧したいま、彼らにずっと地元で待機していろとは言えない。  仙台市の沿岸部に住む40代のBさんは、東京の取引先に挨拶をするために上京した時「出会った人に宮城から来たと言うと、被害のことばかり聞かれるので、それには疲れたかな」と語る。Bさんの気疲れの原因は、被害の程度が軽かったことにあるという。自宅は若干のダメージを受けたが、津波の被害もなく家族も全員無事だったそうだ。 「みんな心配してくれるけど、私は全然苦労していないから、かえって申し訳ない気持ちになるよ。馬鹿げた考えだけど、自宅でも半壊していてくれたら話しやすかったかな......なんて思ったりするよ」  Bさんは「東京」そのものに違和感を抱くことはなかったという。そして東京と被災地の間での温度差については「東京の人は気にし過ぎじゃないかな。東京が元気であれば日本の将来に希望がもてるので、むしろ安心した」と語る。  一方でAさんやBさんのみならず、東京に来た被災地の人々が共通して語るのが「地元から出て行くときの地域の目に、必ずしも好意的でない雰囲気がある」ということだ。Bさんのように仕事ならまだしも、遊びや息抜きでの上京は口に出せない「自粛ムード」があるのだという。  被災地には家族や家、学校や仕事を失った人が数多くいる。それだけに生き残った人たちが遊ぶなど論外で「喪に服すべき」と考える人もいる。そのため地元を離れることすらはばかられる空気が立ち込めている。このことは、私も取材をしていく中で、AさんBさん以外からも複数の意見として耳にした。  さらに、被災地に暮らす人との温度差は、東京と比較した場合だけでなく、ネットの世界でも生じている。  140文字の短文を発信できるTwitterは、震災発生当初から使用されてきた。携帯電話が使えなかったために、情報やメッセージをやりとりする手段として急速に認知度を高めたツールだ。その結果、被災地と東京などのそれ以外の地域でのコミュニケーションの手段にもなり、2カ月以上が経過した現在でもその形は受け継がれている。 「Twitterでのやりとりで違和感があるのは、原発問題かな」  そう語るのは宮城県の沿岸部で被災したCさん、32歳だ。彼は避難所で暮らしている時から携帯電話でTwitterにアクセスしていた。Cさんの言う「原発問題に関する違和感」とは何なのだろうか。 「原発と地震の被害を同一視している人が意外に多くて。なかには、『地震は一回だからいいけど、原発は何年も引きずるんだよね』と、私に言ってくる人もいた。それは十分に分かっている。だけど、こっちはその一回のおかげで明日の生活が見えない。震災から3カ月たったけど、まだ何も変わってない。そんな状況を分かってないのは仕方ないと思う。だけど、わざわざ言うべきことではないと思う」  Cさんによれば、この人は特に変わった人ではないと思うとのこと。実際、その発言をした人物の普段のツイートを見てみたが、バランス感覚が悪い人だとは思えなかった。もちろん、東京などの首都圏やそれ以西に住む人間たちにとって普段の生活に戻ることは重要だ。しかし、便利になったネットツールは、我々と被災者との温度差がダイレクトに伝わってしまうことも忘れないでおきたいものだ。一方で悲惨な記憶を消し去るには、新しい記憶で上書きする方法しかない。生き残って動ける人たちのためにも震災後の間違った自粛ムードや行動を規制するような空気を払拭して、日本全体で明るい空気をつくる努力をしていく必要があるだろう。 (取材・文=丸山ゴンザレス/http://ameblo.jp/maruyamagonzaresu/
岩手日報社 特別報道写真集 平成の三陸大津波 東日本大震災 岩手の記録 日本の"震災後"は、まだ始まったばかり。 amazon_associate_logo.jpg
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【6.11 SHARE FUKUSHIMA】大破したコンビニでチャリティーライブ 被災地"圏内"に響く歌声

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会場となった「セブンイレブンいわき豊間店」。
 今年もそのビーチは、多くのサーファーや海水浴客で賑わうはずだった。東北地方でも有数の美しさを誇り、「鳴き砂の浜」としても有名な豊間海岸は、3月11日に発生した東日本大震災に伴う大津波で壊滅的な被害を受け、多くの死者・行方不明者を出した。3カ月が経過した現在でも1階部分が完全に破壊された民家群がその無残な姿をさらし、田畑には乗用車やトラックが転がっている。  そんな豊間地区の海岸線から目と鼻の先で営業していた「セブンイレブンいわき豊間店」もまた、がれきに埋もれた建物のひとつだった。店内に流れ込んだ木材や土砂や自動車が撤去されると、ひしゃげた鉄骨と天井だけが残っていた。  過日、同店の店長・金成伸一は、被災地取材に訪れたジャーナリスト・津田大介に、こんな話をしたのだという。 「つらいことはたくさんあるけど、ここで楽しいことをたくさんやって、楽しいことでつらいことを上書きしたい」  その思いが、ちょうど3カ月目の6月11日に、チャリティーライブ「SHARE FUKUSHIMA」という形で結実した。 ■ボランティアツアーは即日完売  「SHARE FUKUSHIMA」の参加告知が行われたのは、開催のわずか2週間前。早朝に東京をたち、正午を挟んで被災地見学、がれき撤去やゴミ拾いなどのボランティア活動を行い、午後2時30分から約2時間のライブに参加し、夕刻に現地をたって東京に戻るというスケジュールのバスツアーは、たった1日で定員の84席を埋めてしまった。1万円のツアー参加費全額と義援金を合わせた100万円が、募金団体などを通さず直接いわき市豊間地区に寄付された。  「SHARE FUKUSHIMA」をプロデュースした津田大介は、こう語っている。 「ボランティアをやりたい人、こっち(被災地)でライブをやりたいと思っているミュージシャンはたくさんいる。ただ、まじめな人ほど、そういうものに二の足を踏んでしまうんです。そういう二の足を踏んでいる人の背中を押して、しかもそれが具体的な復興につながるようなことがやりたかった」
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 そんな津田の思いに共鳴したのが、音楽家・渋谷慶一郎とシンガーソングライター・七尾旅人。それに、いわき市在住のアーティスト・YDMだった。  5月9日に移動販売車による営業を再開した「セブンイレブンいわき豊間店」。むき出しになったフロアには不釣り合いなグランドピアノが運び込まれ、アンプセットやネット中継用の機材が次々に設置されると、簡易ステージが出来上がった。朝から降り続いた雨は上がったが、吹き抜けた海からの風には、ほんの少し腐敗臭が混じっていた。 「これから最高のライブが始まりますが、大きな地震が起きたら、このイベントをやめます。やめて逃げます。津波が来たら、あっちに高台があるので、あそこに逃げようということも決まっています。トラブルが起きたら、一緒に逃げましょう」  開演を心待ちにする参加者を前に津田がそうあいさつして、「SHARE FUKUSHIMA」は幕を開けた。 ■3カ月目の「2時46分」、捧げられる黙とう  2時30分、渋谷と七尾による即興演奏から、ステージは始まった。渋谷のピアノに乗せて、七尾が言葉を、歌声を散りばめてゆく。やがて音楽が豊間の浜を包み込んだころ、渋谷のピアノがやみ、津田があらかじめ予定されていた一言をつぶやく。 「黙とう──」  2時46分だった。アーティスト、参加者、スタッフ、地元の方々、「SHARE FUKUSHIMA」に集まった100人以上の誰もが目を閉じ、1分間の沈黙を捧げた。あの日、すべてを奪い去っていった猛烈な津波の水面は、いま我々がいる場所の、はるか頭上にあったのだ。  長い長い1分間の黙とうの後、再び音楽は奏でられた。まずは渋谷がピアノソロを披露。まるで十指で語り掛けるようなその調べの合間を縫うように、地元のアーティスト・YDMがステージをカラフルなテープで彩っていった。最後に渋谷が「七尾の声をイメージして作った」という曲を演奏し、再び七尾とのセッションが始まる。 ■被災地で歌う、ということ  七尾は震災後、精力的にチャリティーイベントなどでライブを行っているアーティストの1人だ。福島にも何度も足を運んでおり、その際いろいろな人と出会って生まれたのが、福島第一原発事故の影響で警戒区域となっている地域のことを歌った「圏内の歌」という楽曲だという。
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七尾旅人氏。
「こういう場所で歌うことに、どれほどの意義があるのか分からない。いま、歌が意味を持つということはものすごく難しくて、津田さんが音楽イベントをやりたいって言ったときに僕も慎重になってしまって、どういう形だったらいいのかということをものすごく考えた。それでもやっぱり歌いたい曲もできてきて、この歌もそのひとつ。福島で歌うのは2回目です」  一言ひとこと、七尾はかみしめるように参加者に語り掛けると、ゆっくりとギターの弦を弾いた。 「子どもたちだけでも/どこか遠くへ逃がしたい/どこか遠くへ逃がしたい/離れられない小さなまち」  福島第一原発から50km圏内で奏でられたそのストレートなメッセージは、「SHARE FUKUSHIMA」スタッフによるUstream中継と、5名の中継班を現地に派遣した「ニコニコ生放送」によって、リアルタイムで数万人の視聴者に届けられた。  終演後、津田の紹介で、今回のライブの発端となった「セブンイレブンいわき豊間店」の店長・金成がステージに立った。「そんなに大した男じゃないよ」と照れ笑いを浮かべながらも、金成は参加者への感謝の言葉とともに、現地の苦しい状況と決意を打ち明けた。 「津波だけじゃなく、地震も、原発の問題もあって、地域のきずながズタズタになってしまったところもある。だけど、行政に頼るだけじゃなく、自分たちでこういうことを『やってみっぺ』と、何か始めてみたいと思った。そういう小さなことが、そのうち、大きな渦になっていくんじゃないかと。世の中には、いつも目の前に迷いがある。その中で、楽しい道を選んでいく。自分が夢中になれることに、夢中になっていく。そうすれば、道は開ける......っぺ!」 ■「やってみたら、できちゃうもの」  搬出されるグランドピアノを見送りながら、「イベントのプロデュースなんてまったく初めてだった」という津田に話を聞いた。 「東京から連れてきた人たちに、被災地の現状を何の後ろめたさもなく見てもらって、それを持ち帰ってもらう。かつ、被災地のためになることをやってもらって、ライブを見て幸せな気持ちで帰ってもらうというパッケージを考えるまでは、すごく大変だった。でも、(七尾)旅人くんと渋谷くんがすごく共鳴してくれていたし、やれば絶対面白いイベントになるというのは分かりきっていた」
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渋谷慶一郎氏。
 参加した人、ネットで見ていた人には、この体験を「SHARE」してほしいと津田は語った。それが「SHARE FUKUSHIMA」の目的だった、と。  準備期間はたった2週間。グランドピアノの手配が整ったのは、わずか2日前だったという。演出スタッフとしてUstream中継を担当した編集者・伊藤ガビンは「回線がつながったのは開演の10分前。まったく、津田組はいいかげんでどうしようもないよ」と大口を開けて笑い、津田も「ガビンさんに言われたくないよ! でも、やってみたらできちゃうもの。信頼関係もあったしね」と今日一番の笑顔を見せた。  震災以降、Twitterをはじめとしてジャーナリスト・津田大介の存在感は日増しに大きくなってゆく。野暮と知りつつ、ずっと津田に聞きたかったことを聞いてみた。その猛烈なモチベーションは、いったいどこから来るものなのか、と。 「ソーシャルメディアの情報というのは可能性があるものなんだよっていうことを説いてきた立場だったので、最初はそれをどれだけ示せるかっていうのを自分で見極めたい気持ちもあった。正直な話、もっと役に立たないと思っていたけれど、思っていたよりも役に立ったな、というのが震災直後に見えてきた中で、じゃあこれから先、復興というところで、もっとソーシャルメディアの役割って大きくなるんじゃないかなって、ずっと感じていて。その中でひとつ具体例を作るというか、その積み重ねが大事だと思っているので、これが唯一の正解ではないけれど、ひとつのものとして面白いケースがつくれたんじゃないかなと」  確かに津田はこの日、土曜日の昼間に約100人の若者をボランティアとして被災地に連れ出し、100万円を現地に置いてきた。しかも、かかわった誰もが満足する形で、それを達成した。  その思いを、行動を、もっと多くの人が「SHARE」できたら──。  6月11日現在、東日本ではいまだ10万人近くが避難所で暮らし、罹災によって仕事や生活の目処が立たない方々はその何倍にも上るだろう。実際、ライブ後に立ち寄ったいわき市の久ノ浜地区では、2カ月前に訪れたままに(http://www.cyzo.com/2011/04/post_7045.html)、がれきの山が手付かずで残っていた。収束の兆しさえ見えない原発事故による被曝への恐怖は、静かに、しかし確実に東日本全体に広がりつつある。  それでも。  あの日の午後2時46分で止まった時計の針が、また少しずつ回り始めていることだけは間違いないはずだ。 (文中敬称略/取材・文=編集部) ●SHARE FUKUSHIMA <http://www.asaho.net/share-fukushima/>
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【震災3カ月】「津波の恐怖は一生忘れない」津波被害の岩手県・陸前高田市 現地レポ(2)

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眼下を走る国道とは約8mの高低差があるが、津波は「すぐ足元まできた」。
かつて家屋が建ち並んでいた場所には今、スクラップになった自動車が積まれている。
 岩手県陸前高田市に住む秋山博一さん(仮名・46歳)は、3月11日の大震災以降、4月11日、5月11日という"節目"に、当時を思い出して不安感に襲われたという。 「夢に見るとかいう話はよく聞くけど、自分の場合は昼間、普通に生活をしていて急に不安になったりした」  精神科医の香山リカ氏は、震災から1カ月が経過したころ、こうした心理状態について毎日新聞の連載「ココロの万華鏡」で次のように書いている。 「1カ月前のあの日のことが生々しく思い出され、恐怖、悲しみが再び襲ってきた、という人もいるのではないだろうか(中略)。大きなできごとから1週間、1カ月、1年など節目節目のときに、感情が激しく揺れてしまう。これは、精神医学の世界で『記念日反応』と呼ばれる現象で、それ自体は異常でも病気でもない」  「記念日反応」とは一般にPTSDにおける反応のひとつとされ、家族や大切に思っている友人の命日などに気持ちが大きく落ち込んでしまうような現象を指す。秋山さんの症状がそれに相当するかは断定できないが、震災後の4月11日や5月11日の前後に、こうした心理状態に陥ったという声は、ブログやTwitterを介して多くの国民が吐露しているところだ。
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今回の震災では6つの「道の駅」が被害を受
けたが、国交省によれば「壊滅状態(再開困難)
が4つあり、陸前高田市の「高田松原」はその
1つに含まれている。
 こうした中、3回目の"節目"である6月11日を迎えた秋山さんは、数日前からやはり似たような不安感に包まれているという。  津波のトラウマに悩む秋山さんの自宅は、かなりの高台にある。眼下を走る国道との高低差は約7~8メートル、海岸線からの距離も3キロ以上はある。にもかかわらず、津波は「すぐそこまで来た。あの恐怖は忘れない、もうダメだと思った」。  見晴らしのいい場所として"自慢"だった家。しかし、そこから見えた"その時"の光景は、音をたててうねり、濁り、猛り狂う波だった。あり得ない光景を目の当たりにしながら、秋山さんは自分の頭がおかしくなったかと真剣に思ったという。  幸いにも波は家屋まではギリギリ届かず、家族も全員が無事だったという秋山さんは、津波が引いた後は地元の消防団OBとして復旧作業を手伝った。かつて自分も通った小学校の体育館には大量の遺体が毎日運ばれ、その中に知った顔を見つけるたびに涙を流す日が続いた。 「若く経験値が低い団員も多く、連日死体を見てふさぎ込むようになったやつもいた。人間っていうのは思った以上に弱い。この3カ月はみんな本当に必死だった」  宮城県気仙沼市に職場があった秋山さんだが、この震災の影響でその会社も休業状態。当面の収入が絶たれたことで厳しい生活を余儀なくされている。 「まぁ、それでも借金がなくてよかった。それだけで生きていけると思える。もっとも、貯金もほとんどないけど(笑)」  震災以降の時間は、その時の精神状態によって「やっと3カ月」とも、「もう3カ月」とも感じられる。いずれにせよ、これからの3カ月もそうして時間が過ぎていくのだろうと考えている。秋山さんが言う。 「津波の恐怖もどうせ一生忘れることができないだろうし、これからもその思いを持ちながら我々は生きていくしかないと、最近ようやく覚悟を持てるようになった。なにより、家族の命が助かっただけで十分と思わないと」 (文=浮島さとし)
心に傷をうけた人の心のケア こちらも早急に対応願います。 amazon_associate_logo.jpg
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【震災3カ月】「昨日もここで遺体が出た」津波被害の岩手県・陸前高田市 現地レポ(1)

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瓦礫撤去が進む陸前高田市の市街地。通りすがりの住民が「なんに
もない街になっちゃったね」とつぶやいた。
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 日本全土に甚大な被害をもたらした東日本大震災から3カ月が経過した。100年に一度といわれる大地震と津波、度重なる原子力発電所の爆発と核燃料の漏洩。かつて経験したことのない悲劇から立ち上がろうと、この間、日本はもがき苦しみながら闘ってきた。  津波で市街地全域が押し流され、死者1,465名、行方不明者738名(消防庁資料/5月10日現在)の被害者を出した岩手県陸前高田市では、今日も瓦礫の撤去作業が粛々と進められていた。同市高田松原で撤去作業を見守っていた建設会社の男性は「昨日もここで遺体が一人出た。もうこの時期なんで、本人が特定できたかどうか......」と顔を曇らせた。 「3カ月も経ってまだこんな状態かと思えるでしょう。せっかく自衛隊が撤去の救援にきてるのに、民業の圧迫をしないようにという配慮もあって、早めに切り上げたりしている。彼らも忸怩たるものがあると思う。民間業者の仕事を守るとか言ってる場合じゃないんだけどね。もっとも、これでも『撤去』は進んでるほう。問題は『処理』。瓦礫は山になって溜まってく一方だね」  そう言って男性が指差す「仮置き場」には、木材や金属、コンクリート、自動車のスクラップなどに"分別"された瓦礫がうず高く積み上げられ、時折突風で吹き飛ばされては四方に飛び散っている。その間を縫うように何十台ものダンプが連なって走る光景が、「ここ3カ月ずっと続いてる」と男性は言う。
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瓦礫の「仮置き場」に集められた自動車スクラップ
「作業員の中には地元の人間がたくさんいるし、家族や親戚が流されたという奴らも多い。みんな、黙々と作業をしてるけど、あと3カ月後にどうなってるとか、年末にはこの街がどこまで立ち上がっているとか、具体的にイメージできてる人間はいないと思う」
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かつて千昌男が経営していたこともある海沿いのホテル。周囲の瓦
礫撤去が粛々と進む中、ここだけは時間が3カ月前から止まったままだ。
 一方で、仮設住宅の設置は「ここ1~2カ月でだいぶ進んだようだ」と男性は言う。自身の親戚や友人の多くも、既に入居を済ませて避難所生活から「ようやく脱却できた」のだそうだ。  住民にとって最も重要な生活基盤といえる仮設住宅については、災害救助法に基づく国の予算で設営が進められており、一戸当たりの広さは約30平米(2DK、2~3人用)。陸前高田市によれば、「10日現在で1,450戸の入居が完了している」という。以下は同市建設課。
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陸前高田市高田町長砂地区に新設
された仮設住宅
「市の最終的な計画は2,210戸。建設完了が7月上旬から中旬と県から報告を受けているので、電化製品などの搬入までを含めても、7月末にはすべての希望者が入居できると考えています」  一方で、入居者には厳しい現実もつきつけられている。これまで国が行ってきた食料配給が11日から避難所住民だけに限定され、仮設住宅入居者は配給が打ち切られた。これについては厚労省が次のように説明する。 「国では災害救助法にもとづいて仮設住宅や食料、水などの提供を行っていますが、これらはあくまで避難所などで緊急避難的な生活を強いられている方々を対象としています。『仮設』とはいえ、水や電気のライフラインが確保された住居で生活をされている方は、自力で食糧調達ができるとの解釈のもと、自己負担での生活をしていただくよう、ご理解をお願いをしているところです」(援護局災害救助・救援対策室)  実際に仮設住宅で生活をしている数人から聞いたところ、「たしかに理屈では理解できる。甘えてばかりもいられない」(40代男性)と多くが理解を示す一方、「もちろんぜいたくは言えないけど、現実に現金が流されてしまったので、自己負担といわれても......」(30代女性)ととまどう声も聞かれた。  ともあれ、地域住民がこうした自治体からの支援で「なんとか今日という一日を生き延びている」(入居者の一人)という中、政府は内閣不信任案を巡るドタバタで遅れていた「復興基本法案」を、この10日に遅まきながら衆議院で通過させた。「復興庁」創設など、日本の復興へ向けた基本理念を定めた法案で、今後は参議院での審議を経て17日には成立する見通しだ。  もっとも、省庁設置のためには、さらに設置法案をも国会で成立させる必要があり、これについてはまだ「年内には成案を得たい」(枝野官房長官)との段階。さらに、法案の内容も曖昧な部分が多く、与野党の間でも権限の位置づけについて激しい綱引きが続いている。待ったなしでの事態収束が求められる中、今の日本に政局争いをしている余裕は残されていないだろう。 (文=浮島さとし)
報道写真全記録2011.3.11-4.11 東日本大震災 まだこの国は、災害のなかにいる。 amazon_associate_logo.jpg
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