しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 史上最高に「面倒臭い」音楽番組である。何しろ、取り扱う音楽ジャンルが複雑怪奇な「プログレッシブ・ロック」限定で、放送時間は10時間。1曲目から25分強の曲がかかり、やっと終わったかと思えば、今度はうんちくまみれの音楽語りが止まらない。9月23日に放送された『今日は一日“プログレ三昧”3』(NHK-FM 12:15~22:45)は、そんな面倒臭さが絶妙な違和感となって通りがかりのリスナーを惹きつけるような、ある種理想的な音楽番組のありようを提示してくれた。 そもそもこの番組は、毎回ひとつのテーマに特定して一日中音楽を流すという特番「三昧シリーズ」の一環であり、ほかにも『“パンク/ニュー・ウェイブ”三昧』『“プロ野球ソング”三昧』『“ひげ男(メン)ソング”三昧』など、オーソドックスなくくりから斬新すぎてピンとこないくくりまで、これまでもさまざまな『三昧』が放送されている。その中で「プログレ」というテーマは最も硬派な部類に入るが、だからこそ出演者、リスナー共にこだわりが強く、面倒臭いということでもある。 今回はそんな『“プログレ”三昧』の第3弾。番組は、ナビゲーターの山田五郎と音楽評論家の岩本晃市郎とプログレマニアのリスナーが、今回初登場でプログレ初心者のNHK荒木美和アナにプログレの魅力を伝えるプロセスを通じて、ラジオの向こうの初心者リスナーにもプログレの良さをわかってもらおう、という図式である。司会の山田自身がプログレマニアな上、専門の音楽評論家もいて、さらに山田から「プログレはリスナーも面倒臭い」といわれるほどにマニアックなリスナーが山ほどメールを送ってくる状況は、プログレ初心者の荒木アナにとって、すでに十分過酷なアウェイの場といえる。 しかし今回はそこに、さらに恐ろしく面倒臭い男が登場した。「スターレス高嶋」こと高嶋政宏である。キッスのメイクで弟の泥沼離婚問題に関する質問にまで受け答えしたことで、結果的にその天然っぷりと人のよさと比類なきロックへの忠誠心を示すこととなった、あの高嶋政宏である。何しろ、キング・クリムゾンの名曲「スターレス」をその名に冠する男、彼のプログレ愛はもう誰にも止められない(というと、「そんなメジャーなバンドの曲を名乗るようではまだまだ甘い」というのがプログレマニアの面倒臭さなのだが)。 高嶋は登場まもなく、プログレ初心者の荒木アナにロック・オン。映画『バッファロー’66』のサントラでプログレをちょっと聴いたことがあるという荒木アナに対し、「プログレをコンピで聴く女は信用できない」といきなり憤慨。「荒木さん、プログレはベースとドラムの技術を聴かないとダメなんですよ。バスドラの踏みとか」と頼まれてもいない個人教育を始め、「さっと流しちゃダメなんですよ。家帰ってライナーノーツ見ながらヘッドフォンでじっくり聴かなきゃダメ」と正しい聴き方まで熱血指南。その直前には高嶋自身、「キング・クリムゾンの『レッド』を聴きながら毎日ウォーキングしている」と言っていたのに、他人には「ながら聴き」を許さないという見事なまでの自己矛盾。そしてさまざまな曲と目の前のプログレマニア3人の解説を聴いていくうち、「何がプログレかわかんなくなってきました……」とこぼした荒木アナの反応に、「何がじゃないんですよ! 感じてくださいよ!」と突如ブルース・リー化。それまで長々と説明してきた自らの理屈っぽさをも、一撃で全否定してみせる。 ほかにも、荒木アナがプログレならではの長く面倒な曲名に出てくるカッコや「~」まできっちり読まないと急に不機嫌になったり、NEU!(ノイ!)というバンド名の「!」の部分が伝わるように語尾を強調して読んでほしいと言いだすなど、高嶋の面倒臭さは留まるところを知らない。ところが、次の箇所でその読み方を高嶋の指導通りに実践すると、「いいですよ、いいですよぉ」と村西とおる口調で突如、別人のように上機嫌になるあたり、驚くほどの純粋さをも感じさせる。 しかしこの、理屈であって理屈じゃない感じ、そして自己矛盾を抱えたまま進んでいく話の展開の読めなさは、まさにプログレ的なこじれ方といえるかもしれない。言われている方からしてみれば、単なる面倒なオヤジだが……。まさに山田五郎言うところの「プログレ・ハラスメント」である。 しかし同時に、その面倒臭さこそがこの番組の魅力でありプログレという音楽の魅力でもあって、そこを明確に自覚している山田が司会を務めているというのが、やはりこの番組の肝だろう。マニアとしてジャンルの内側にいながら、同時に外側からの視点をも持ち合わせている。内部にマニアックな知識欲を抱えながら、常に外側に向けて開かれた言葉を持っている。この日は20代女性から寄せられたメールも多く読まれ、中には10代のリスナーまでいて驚いたが、そういった70年代プログレ全盛期を知らないリスナーが増えているのは、山田がプログレ及びプログレファン(自身含む)を形容する際たびたび口にする「面倒臭い」という言葉があるからだろう。 通常、マニアがビギナーをその世界に引き入れるためには、何よりもまずその簡単さや取っつきやすさをアピールするものだが、マニア側にいる彼の口から「プログレは面倒臭い」という言葉が発せられることによって、逆に面倒臭いからこそプログレがいい音楽なのだということが伝わる。彼のように、マニアックなものに接したときの第一印象を持ち続けている人の言葉を聴くと、どんなマニアであっても、誰もが初めは初心者であったということに思い当たる。そしてその言葉につられて聴いてみると、プログレも高嶋政宏も、間違いなく面倒臭くて面白い。いや、面倒臭いから面白い。趣味にしろ人間にしろ、実はほとんどのものがそうなのだ。実に面倒臭く、真の意味でプログレッシブな音楽番組である。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからNHK-FM 『今日は一日“プログレ三昧”3』
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ケンドーコバヤシの「許され力」がすべてを笑いに昇華する、性的逸話の解放区『TENGA茶屋』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 世の中には、同じことを言っても許される人間と、そうではない人間がいる。たとえば女性の前で下ネタを言うと大半の男は嫌われるが、中には許される、あるいはむしろ積極的に下ネタを言ったほうがモテるとすら感じられる男がいる。そういう意味で、ケンドーコバヤシほど「許されている男」はいない。本質的には「許されざる男」の要素を多分に持っている彼こそが、いま最も世間に許され、愛されている。『TENGA presents Midnight World Cafe TENGA茶屋』(FM OSAKA 毎週土曜深夜1:30~2:30)とは、そんなケンドーコバヤシの本質的魅力が、余計なフィルターを通すことなくピュアに伝わってくる番組である。関西ローカルの番組だが、場所を問わずポッドキャストで聴くことができる。 そもそもこの番組のタイトルに含まれるTENGAとは、何しろあのアダルトグッズメーカーのTENGAである。日本一下ネタをノーモーションで自然と繰り出す男の番組スポンサーに、TENGAがついている。これぞまさに「Win-Winの関係」であり「鬼に金棒」状態である。これ以上、性的発言に関する自由度が確保された状況など、あり得ないだろう。 そんな解放区でのびのびと放たれるケンコバの発言には、強烈なインパクトと共に、妙なかわいげと後味の爽やかさがある。何事も極端に振り切れたものには、フルスイングの後のような爽快感が残るものなのかもしれない。 たとえば彼は番組内で、自らの自慰行為のスタイルについて赤裸々に語る。普通に考えれば、そんな話にかわいげも爽やかさもあるはずがない。しかし、かつて自慰行為を研究していた時期に、「毛の長いブラシの上をひよこ歩きして擦る」という「ひよニー」を行っていたと臆面もなく語られれば、「ひよこ歩き」というチャーミングすぎる言葉の衝撃と、その説明から思い浮かぶ構図のあまりのバカバカしさに、「性の求道者」という清々しい称号を与えたくもなる。ちなみにこの話は、その前にしていたカーリングの話からの流れであり、「カーリングの女子選手は確かに美人が多いし、あの股関節の可動域は魅力的だが、俺はそれよりもブラシのほうに痺れる」という場所へと見事に着地する。なぜか、カーリングと自慰行為とブラシが、一直線上にキレイにつながっている。何かがおかしいが、美しい。 実は、ケンコバの話術には思いがけぬ着地点が用意されていることが多く、その着地姿勢の見事さを聴き手は爽快感と錯覚する。もちろん本当に爽やかなことなどまったく言っていないのだが、彼の話の中ではなんらかのねじれや飛躍といった価値観の反転が頻繁に起こる。 「部屋に入るといきなり大外刈りされる風俗」にハマッたという話(その時点で十二分に面白いが)の先には、「そのあと受け身の研究するために、柔道の試合をじっくり見た」という本末転倒な着地点が待っている。この4月からアシスタントを務める若手芸人アインシュタインの稲田直樹のルックスに関する話(彼はブサイクであることを前面に出す芸風で知られる)になれば、「お前は前世で神を殺している」と突如スピリチュアル方面へと飛躍した発言を繰り出し、さらには「神話の世界に終止符を打った男」という途方もなくスケール感溢れる異名を授ける。内容的には単なる悪口がさらにエスカレートした形なのだが、そのファンタジックな言葉の響きにはもはや格好よさしかなく、その話の内容と着地点のギャップがもう面白くて仕方ない。すべてが笑いと共に許される。 自由を与えられた空間の中でこそ何かを極端にやり切れるし、極端に振り切れるとその先には逆サイドの端が見えてくる。行くところまで行けば善が悪になり悪が善になり、真面目が不真面目になり不真面目が真面目になり、下ネタにさえある種の品格が生まれてくる。この番組のコンセプトには「性を表通りに」という言葉が含まれているが、それはまさにケンコバが番組内で語っていた、かつての自身の体験に重なる言葉でもある。彼は若手時代、その行きすぎた芸風ゆえ腫れもの扱いされ、あるテレビマンから「お前なんか一生テレビ出れるか!」と言われたことがあるという。そんな男が、今メディアの最前線を張っている。現在のテレビが以前に比べて許容量を増しているとは到底思えないことを考えると、もちろん才能を認めてくれる人々との出会いというのも重要ではあるが、今のケンコバの「許される力」は、彼本来のファンタジックな発想力とトリッキーな話術を自ら大事に育み磨き続けてきたことによってもたらされた正当な結果だろう。この自由なラジオという空間で、それがあらためて明確になる。これほど痛快なことはない。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからFM OSAKA『TENGA presents Midnight World Cafe TENGA茶屋』
辛口2トップの知性と感性が絡み合う、禁じられた遊び『井筒とマツコ 禁断のラジオ』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 「禁断」という言葉には、間違いなく人を惹きつける魔力がある。何かを禁ずるのは、それによって人間がコントロール不能な状態に陥ってしまうからであり、逆にいえばそこには人知を越えた根源的な力があることを意味する。『井筒とマツコ 禁断のラジオ』(文化放送 毎週金曜深夜2:30~3:00)は、映画監督の井筒和幸とマツコ・デラックスの辛口2トップが敵陣自陣関係なくゴールを決めまくる、まさしくその名の通り禁断のラジオである。 番組は進行役の文化放送アナウンサー寺島尚正と、ツッコミ役で映画パーソナリティのコトブキツカサを含めた4名で進められるが、そもそも守備役を2枚置いたこの4人編成という大所帯のフォーメーションが、2トップがいかにアウト・オブ・コントロールであるかを逆説的に物語っている。さらに、それだけではやはり禁句の発動を止め切れぬため、最終的な防御策として「危険な発言部分にかぶせて『オクラホマミキサー』を流し続ける」という特例措置がとられており、時には延々と同曲が掛かり続けることもあって、ラジオをつけるタイミングによっては異様に牧歌的な音楽番組だと思うかもしれない(直後には間違いなくその夢から叩き起こされるが)。 2枚看板を置いた番組の場合、やはり気になるのはそれぞれの魅力が並び立つのか否かという問題だが、この番組においては井筒の放つ強力な言葉が主導権を握る場面が多く、マツコはそこに反応する形でコンビネーションを形成している。毒舌同士という意味ではテレビで有吉と組んでいる時のマツコを連想するし、年輩者相手という意味では池上彰との組み合わせが思い起こされるが、ここでのマツコはそのどちらとも違う感触で、両者以上に井筒とのシンクロ率の高さを感じることが多い。特にエロスに関して手加減のない表現を好む井筒の言語感覚が、マツコの中にある女の部分を思いがけず引き出しているようなところもあって、反対にどんな言葉(たとえば「自衛隊」)からもエロスを連想できるマツコの想像力に、井筒が感心する場面も少なくない。 トークの内容は政治から井筒とコトブキの主戦場である映画、そしてドのつく下ネタに至るまで森羅万象にわたるが、それらが分け隔てなく、理屈と感情を総動員して同じまな板の上でシームレスに語られるのがこの番組の特徴である。真面目な戦争の話と下世話な下ネタの果てに共通の「死」を見だし、徹底的に考え抜いた上で感情を爆発させる。何が上で何が下というのではなく、あらゆる物事を並列に扱うことで見えてくる真実がある。エロ雑誌の付録の使用済みパンティを全員で嗅いでみるという謎の時間帯の直後に、内閣の話をするなんていうカオティックな展開もあった。ちなみに井筒は、かつてはみんな嗅いでいたし自分も嗅いだことがあると告白したのち、しかし雑誌の付録としてつけることには異議を唱え、「もっと牧歌的なノリで嗅げよ。オーガニックに」と憤慨してみせた。付録という、その取ってつけたような形式が「詩的じゃない」とのことだが、この怒るポイントの意外性と、わかるようでわからない、でもやっぱりちょっとわかるというギリギリのラインを突いてくるこの厳密な表現力は、目の前の対象がどんな題材であれ、やはり知性というべきだろう。 そして話題が井筒の本分である映画に及ぶと、その表現はさらに鋭さを増し、暴力的にすらなってくる。レオナルド・ディカプリオを「ガキ顔だろ」と揶揄した流れで「釣りキチ三平みたいな顔しとる」と謎の比喩を繰り出してくるこの跳躍力。見てもいない『戦火の馬』のラストを「最後、馬刺しになって終わりかい」と決めつける力業。そして「3Dメガネが煩わしい」という話になると、目の前のコトブキツカサのメガネが伊達メガネだということを持ち出し、「レンズ入ってへんメガネかけてる奴なんかね、まず泥棒と思ったほうがええよ!」と無茶苦茶な持論へ持ち込む驚異的な展開力。ここまで来るともうすっかりわけがわからないが、でも伊達メガネ掛けてる奴は確かに信用できないような気がしたり、馬の出てくる映画のラストが「馬刺しオチ」だったら間違いなく伝説に残る一本だなと思ったりもして。とはいえ、さすがに釣りキチ三平のたとえはまったくピンと来ないのだが、それでもここまで自信を持って言い切られると、なんだかもう面白くて仕方ない。 つまりこういうのを「痛快」というのだろう。ここでは「禁断」の果てに「痛快」がある。万事につけて手加減がなく、あらゆる言語表現が振り切れた結果としての「痛快」さ。手加減のないものは常に禁ずべき対象と見なされ、実のところ世の中は手加減のおかげでスムーズに回っていたりもするのだが、本当の面白さはそんなスムーズさから外れた場所にこそある。この番組に対する不満は唯一「時間が短すぎること」だけだが、それもすでに聴き手としての禁断症状の一種かもしれない。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから文化放送『井筒とマツコ 禁断のラジオ』
大人の死角から真っすぐに繰り出される、子どもたちのスリリングな質問力『夏休み子ども科学電話相談』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 大人の世界では近ごろ頻繁に「ソリューション」なんて言葉がもっともらしく連呼されているが、解決以前にまず「そこにどんな本質的問題があるのか」を見出せなければ話にならない。答えの前には必ず疑問があり、質問がある。そういう意味では「ソリューション」より、「クエスチョン」のほうが偉大だ。今年で30年目を迎える長寿番組『夏休み子ども科学電話相談』(NHKラジオ第1 月~金曜8:05~11:45)をいい大人が聴いていると、つくづくそう思わされる。子どもは「気づき」の天才だ。 いまやネット上であらゆる解決手段が見つかる(本当にそれが解決なのかは別にして)時代だが、この番組は子どもたちと生電話をつなぎ、各分野の専門家の先生方が答えるという古典的スタイルを貫いている。生放送で、相手が子ども、その上表情が見えないという不確定要素の多いこの状況は、自由度の高いラジオの世界でも今どき稀少であり、サプライズ発生率の高さと対話のスリルという意味では、むしろ先鋭的ですらある。 子どもたちの質問の面白さは、何よりもその「角度」にある。見えている世界が同じでも、眺める角度を変えると世界はまったくの別物になる。そしてその想定外の角度は、多くの場合「前提となる知識がない」ことによって生まれている。無知は時にクリエイティブな発想を生む。たとえば6歳の女の子は、「どうして亀は鳴かないんですか?」と質問する。鳴くことよりも、鳴かないことを不思議に思うという発想は、彼女の中に「動物はすべて鳴くものだ」という、知識に基づかない独自の前提条件があることを意味している。「鳴かない動物もいる」と彼女がすでに知っていたら、きっとこんなユニークな質問は出てこないだろう。 加えて子どものすごさは、やはりその発想の異様なストレートさにある。ある少女が発した「ビワの木に砂糖水をあげたら、ビワの実は甘くなりますか?」という問いには、「そういえば、なんでそうじゃないんだろう?」と思わせる不思議な説得力がある。「甘いものを育てるために、甘いものをやる」というのは至極当たり前の発想に思えるが、どうやらそうではなく普通の水をやるべきだということは、みんななんとなく知っている。常識として知ってはいるが、しかし本質的にわかってやっているわけではない。「知っていることを習慣的にやっている」というだけの場面が、人間の生活には少なくない。子どもが真正面に捉えている視野が、大人にとっては死角であるということも珍しくない。この質問には、「知る」ことを「わかる」ことだと勘違いしている大人に警告を発するような、真っすぐな破壊力がある。もちろん質問した本人にそんな意図は微塵もない、というところが微笑ましいのだが。 ほかにも「猿は熱中症にならないのか?」という心優しい問いかけから、「家にあるもので雲を作りたいが、どうすれば作れるのか」という未来の科学者の質問、そして「むかし人間は猿だったと聞いたが、なぜ今いる動物の猿は人間にならなかったのか?」という『猿の惑星』さながらの壮大なクエスチョンに至るまで、大人の価値観に揺さぶりをかけるような鋭い質問が次々と繰り出されてゆく。その一方で、子どもらしい部分も随所に炸裂していて、そんなユルさも番組の大きな魅力になっている。 聴いていてまずドキッとするのは、突如としてすべてに興味を失う瞬間が子どもたちに訪れることで、解答者の先生の口から知らない専門用語が出てくると、彼らは最初の元気な挨拶がまるで別人であったかのように、あからさまにトーンダウンする。そうなると手練の先生方でも状況を立て直すのは難しく、いくら噛み砕いて説明しても、帰ってくるのはとても自分から質問したとは思えない生返事の連続で、しかも話が長くなると子どもがスタミナ切れを起こすという地獄の悪循環が待っている。 もちろん、会話が噛み合わないなんてのは日常茶飯事で、先生が子どもに質問を返すと子どもが突如黙り込んで放送事故寸前になるというのもすっかり定番の事態だ。しかしこれは考えてみれば当たり前のことで、知識レベルも年齢もかけ離れている者同士の間に通用する共通言語を見出すのはひどく難しい。先生方には「専門用語を使わずに専門領域を解説する」という難問が常に課されており、結局のところ最後は理屈ではなく、感覚的に通じ合えるかどうかにかかっている部分もある。考えてみればむしろ、専門用語や共通理解を前提とした普段の我々の対話のほうが例外であって、対話とは本来、共通項という甘えの存在しない場所から立ち上げていくべきものなのかもしれない。 しかし、そういう子どもたちの素直でビビッドな反応は聴いていて本当に楽しく、ラジオという映像のないメディアだと余計に声のトーンや呼吸が如実に伝わるから、ここには普段の大人同士の対話ではあり得ない妙なスリルがあって、一度聴くとどうにも癖になる。しばらく聴いていると、「この子いま先生の質問に焦って『知ってる』って答えたけど、本当は知らないな」なんて知ったかぶりも声のトーンで見抜けるようになってきて、まるでサッカーの試合でも見るように、局面ごとの変化をいちいち楽しめるようになってくる。もちろんそんな楽しみ方は邪道なのかもしれないが、子どもが本来持つ素直さがもたらす想定外の反応は、大人が提示する計画的な「ソリューション」とはまったく別の自由な角度を、いつも我々に突きつけてくる。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからNHK『夏休み 子ども科学電話相談』
キュウリから原発まで語り尽くす、硬軟自在の吉川ワールド『D.N.A.ロックの殿堂~吉川晃司 Samurai Rock~』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 いま最も格好いい歳の重ね方をしている男のひとりが、吉川晃司だろう。ミュージシャンとしての活躍はもちろん、大河ドラマ『八重の桜』(NHK)の西郷隆盛役から『チョコモナカジャンボ』のCMに至るまで、ある種、ムチャ振りとも思えるキャラクターすら演じてみせる吉川の振れ幅と懐の深さは、ちょっと驚異的ですらある。そしてこの「幅」と「深さ」の両立こそが、吉川の魅力の真髄である。穴を深く掘るには幅が必要であり、幅を保つには深く根差した揺るがぬ軸が必要だ。 『D.N.A.ロックの殿堂~吉川晃司 Samurai Rock~』(JFN系 FM秋田 毎月第4月曜20:00~20:55ほか)は、まさにそんな吉川の「幅」と「深さ」を同時に感じられるラジオ番組である。残念ながら関東では放送されていないが、ポッドキャストで聴くことができる。 番組を聴いてまず驚くのが、その話題の振れ幅の大きさである。「今年はキュウリが大豊作で、毎朝2本ずつ収穫しております」といった趣味の家庭菜園の話や、飼っているメダカやウーパールーパーの話、そして音楽やドラマなど仕事の話はもちろん、震災以降は原発、TPP、消費増税やアベノミクス等の政治的話題に至るまで、吉川のトークは硬軟分け隔てなく自在に展開する。そして、放送初回冒頭で吉川が「自分なりの価値観を話していければ」と語ったように、ジャンケンでグーでもチョキでもパーでもない何かを堂々と繰り出してくるような、吉川独自の価値観があらゆる箇所で思わぬ角度から提示される。 たとえば正月の放送で吉川は、おみくじでは「凶」が好きだと語った。3年連続で「凶」を引いたがいずれも当たり年だった、とのことだが、「俺は名前に『吉』がついてるから、あんまり『吉』がめでたくない。普段からあるから別にいらない」という。なんだかものすごい屁理屈にも思えるが不思議と説得力があって、何より面白い。既存の価値観をそのまま受け入れるのではなく、新たな角度から自分流に解釈するのが吉川流である。彼は「知識をいかに知恵に変換するか」が大事だと語る。「知識は己の身体に一回入れてから頭に戻さないと、知恵には変わらない」と。 またある時は、豪雨の中、ずぶ濡れの人に自分の差している傘を貸してあげるべきだったかどうかと今も悩んでいるというリスナーのメールに対し、吉川は意外な答えを述べる。そのずぶ濡れの人は、雨に打たれることで、何かを洗い流して帰りたかったのかもしれない、と。もちろん、それが正解かどうかは永遠にわからないが、非常に想像力豊かで詩的な発想であり、思い悩む相談者の心も少なからず軽くなったのではないだろうか。 一方で震災や原発について語る際には、「臭いものにはフタをする」この国の政治体質に真っ向から異を唱え、後世に汚名を残すなと警鐘を鳴らす。そしてもちろん、自らも被災地のために具体的な行動を起こしている。 そんな吉川独特の価値観の根底には、彼が歴史から学んだ骨太な人生観がある。吉川は「亡くなったときに初めて人間がひとり完成する」と語り、「死ぬ直前まで夢の途中。旅の途中」だと断言する。さらには、「『人生折り返し地点』という言葉が好きじゃない。折り返してどうすんだよ」と市井の価値観を覆しにかかる。彼が番組内で口にする「朱に交わっても赤にならない」「長いものには巻かれず巻き返せ」「石橋は泳いで渡れ」といった言葉も、吉川が歴史から学び自ら実践してきたこと、あるいは自ら実践したことの答えを歴史の中に見出したものだろう。そしてどんなに真面目なことを語っても、そこにユーモアがあるというのがまさに吉川晃司である。 そもそも価値観というものは、わざわざ振りかぶって提示するものではなく、その人の根底に常に横たわっているものだから、硬軟問わずどんな話題においても必ず見え隠れするはずのものなのだが、それがメディアに乗っかって表れてくるシーンは、残念ながらあまり多くはない。局や番組側の事情によってフィルターをかけられているか、語り手自らがフィルターをかけて過剰防衛しているか、あるいは自分なりの価値観なんてものが語り手に最初からないか。しかしパーソナリティーの価値観が明確にあり、周囲が無駄なフィルターをかけなければ、番組は確実に面白いものになる。もちろんその人選と環境整備が何より難しいのだが、それがラジオ本来の魅力であり、昨今の演出過剰なエンタテインメントが見失いがちな本質でもあるだろう。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからiTunes Storeより
同僚アナとノーガードで打ち合う、本音トークの地下闘技場『田中みな実 あったかタイム』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 ある女性のキャラクターを語るとき、その言動が「天然」か「ぶりっ子」かという判断を、人は無意識のうちに下している。存在を丸ごと全肯定することに喜びを覚える一部の寛容なアイドル・ファンでない限り、そのキャラクターが作為的であるか否かというのは、好き嫌いの決定的な判断材料になり得る。たとえばTBSアナウンサーの田中みな実は、今のところ明らかに後者と見られているだろう。「週刊文春」(文藝春秋)の「嫌いな女子アナ」アンケート二連覇という実績が、それを如実に物語っている。 では、田中はどこまで本物のぶりっ子なのか? いや「本物のぶりっ子」は「人として偽物」ということになるので紛らわしいのだが、「本音のメディア」といわれるラジオであれば、きっとその真偽が明らかになるはずである。 彼女のラジオ番組『田中みな実 あったかタイム』(TBSラジオ 毎週土曜18:30~19:00)は、どういうわけか、いま最も緊張感あふれるラジオ番組のひとつである。すでに番組タイトルからして十二分にきな臭いが、その異様に牧歌的な番組名は、結果としてむしろ内容の危うさを際立てるために存在している。そしてここで言う「緊張感」や「危うさ」とは、シンプルに「リアリティー」や「面白さ」と言い換えることも可能で、実はこの番組、「真正面から本音をぶつけ合う」という、非常にラジオ的な根本原理で回っているのである。 とはいえ番組の基本構造は、会社の同僚であるTBSアナウンサーをゲストに呼んで語り合う「あったかトーク」というコーナーを中心に、その前後に彼女の一人しゃべりを配した、至ってシンプルなもの。アナウンサー同士、しかも同じ会社の社員同士のトークとなると、互いに保身前提で全方位的に気を遣うような、いかにも生ぬるい内容を想像してしまうが、実際にはむしろその逆。同じ職場であるという互いの距離の近さを利用したノーガードの近接格闘の様相で、遠慮会釈なく踏み込んだステップから喜怒哀楽、さまざまなパンチが繰り出される。 たとえば、後輩アナウンサーの小林悠を迎えた回では、小林の趣味である「仏像好き」「ダム好き」を「作戦」だと田中が激しく追及。「美人が親近感を持ってもらうためのかわいさアピール」とまで言ってのけ、しまいには「なんか嫌なことあった? だからダムとか見て、気持ち解放されちゃってんじゃないの?」と勝手に心配までし始めるという怒濤の展開。しかし、必ずしも田中の一方的な攻勢ではなく、田中が「あざとさを感じる」と小林を評すれば、「あなたにあざといと言われたくないです」と、後輩の小林も返す刀で激しく切りつける。 また、先輩アナウンサーの駒田健吾を迎えた回では、「距離がある感じ」「苦手なタイプのアナウンサー」と番組冒頭から田中への苦手意識を表明していた駒田が、トークが進むにつれ田中からのダメ出しにロープ際へと追い込まれてゆき、「(TBS社屋に)田中さんと会わなくて済む動線がほしい」という、本気でそう思ってなければ絶対に出てこない究極の一言が駒田の口からリリースされるに至る。 いやもちろん、同僚だからこそここまで言っても大丈夫、という意識はところどころ垣間見えるし、互いの声のトーンからはユーモアも少なからず感じられる。しかし一方で、本気であり本音であるというのも、そのフレーズの端々から如実に伝わってくる。 だが何よりすごいのは、相手にこれだけ厳しいセリフを、面と向かって言わせてしまう田中のキャラクターである。これはある意味、「ゲストから本音を引き出す力」という、アナウンサーに不可欠な能力といっていいだろう。「引き出す」というよりは「火をつける」に近いが、結果として対話が盛り上がり、聴き手を惹きつけているのは間違いない。 では、田中はなぜ相手の本音を引き出すことができるのか? それは、彼女が非常にストレートな発想を持ち、なおかつそれに自覚的だからだろう。 通常、素直でストレートな思考回路を持っている人間は、そのことに意外と自覚的でない場合が多い。それを世間では「天然」と呼ぶのかもしれず、いい意味でも悪い意味でも「空気が読めない」という表現が当てはまる。反対に、空気を読み真っすぐな思考を隠し通すことで何者かを演じ続けるのが「ぶりっ子」ということになるだろうか。 しかし番組を聴いていて驚くのは、時に語られる彼女の自己分析が、恐ろしく的確であるように思えることだ。「上昇志向の塊」「野心家」「頑固」「0か100かみたいな人間」「すぐ顔に出る」「意外と自分に自信がない」「奥ゆかしさや遠回りする感じが足りない」「社交的に見えて、まったく心を開いていない。開けない。開くのが怖い」―世評とほぼ変わらぬその自己分析からは、予想外の客観性が見て取れる。そして、世間で言われていることに自覚があるからこそ、相手に何を言われても受け止めることができるし、相手にも同等のパンチを受け止めることを要求する。いかにも帰国子女っぽいコミュニケーション術だといえるかもしれないが、「何者かを演じている」わけではないのは確かだろう。少なくともこの番組において彼女は、どちらかというと本当のことを言い過ぎている。 つまり田中は、「天然」でも「ぶりっ子」でもない。「天然」にしては自分を知りすぎているし、「ぶりっ子」にしては脇が甘すぎる。しかし、目の前の相手につい思ったことを口走ってしまうそのストレートな言動が、複雑怪奇な世の中とたびたび衝突することは容易に想像できるし、そんな他者との衝突こそがこの番組の面白さになっている。ラジオを聴くことで、多くの人にとってその印象が大きく変わるアナウンサーの一人だろう。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからTBSラジオ『田中みな実 あったかタイム』
信玄とノムさんを融合させる松村邦洋至高の技が、歴史への扉を開く『DJ日本史』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 歴史とはつまり「ワイドショー」であり、四次元版「すべらない話」である。数年に一度レベルの衝撃的事件という「点」の連続によって歴史という「線」は成立しているが、つまるところ個々の「点」は当然のことながら生々しい人間ドラマであって、単なる客観的事実の連続ではない。そんな人間臭い歴史のエンタテインメント性を如実に感じさせてくれる番組が、『DJ日本史』(NHKラジオ第1 隔週月曜21:05~21:55)である。 番組MCを務めるのは、大河ドラマ狂であり日本史通として知られる松村邦洋と、江戸文化歴史検定一級を持つ「お江戸ル」の堀口茉純の2人。松村に関しては、テレビ(特に『電波少年』)におけるイジられキャラのイメージが強いが、ラジオの世界では『オールナイトニッポン』のパーソナリティーを担当していたこともあり、そのしゃべりの評価は高い。そしてこの番組はまさに、松村の芸人としての確かな力量をベースに作られている。 しかし『DJ日本史』という番組名であるからには、DJは「日本史に登場する人物」でなければならない。ここで松村の、稀有な特殊能力が生きてくる。松村といえばビートたけしなどのモノマネ芸でおなじみだが、彼のモノマネには、二つの大きな特徴がある。一つは「発言の方向性までマネる」という技で、何を質問されても「本人が言いそうな答えをアドリブで返す」という能力を持っている。そしてもう一つは「モノマネのモノマネをする」というスタイルであり、この二つの能力が、松村の「偉人モノマネ」を可能にしている。 番組内の要所要所で松村は、歴史上の偉人になりすましてフリートークを繰り広げる。彼のモノマネが似ているあまり、つい普通に受け入れてしまいそうになるのだが、そこで行われていることは、実のところ、とんでもなく複雑怪奇なことなのである。なぜなら聴き手である我々は、それら歴史上の人物本人のしゃべりを、まったく聴いたことがないからだ。それなのに彼のモノマネは間違いなく面白いし、似ているとさえ感じるのである。これは一体どういうことなのか? この偉人モノマネにも、二種類の型がある。一つ目のパターンは、「大河ドラマで徳川家康の役をやっていた津川雅彦のマネをする」というような、「モノマネのモノマネ」というスタイルである。松村は津川のモノマネを得意としている上、無類の大河ドラマ好きでもあるので、「徳川家康役の津川雅彦」のマネができるという図式が自然と成り立つ。これならばセリフもドラマ内のものが使えるため、聴き手のイメージも、ドラマ内の津川を通じて徳川家康に到達することができる。 これだけでも十分に変則的なスタイルなのだが、問題はニつ目のパターンで、こちらははるかにスタートからゴールまでの経路がねじれている。たとえば松村は野村克也の口調で、武田信玄のマネをする。本人は信玄だと言っているのだが、そのボヤき口調は完全にノムさんのものだ。確かに「智将」というイメージは共通しているが、もちろんノムさんが信玄役をやったことなどない。信玄にボヤく印象もない。しかしその発言内容からは、それぞれの息子の名前が「勝頼」と「克則」で似ていて、ともに同程度に期待外れだったという共通点が、細い糸のように浮かび上がってくる。するとそのボヤき口調までが、不思議と徐々に信玄のものであるように思えてくるのである。これはちょっと異様な体験であり、ある種の発明であるといってもいいだろう。 松村は同様に、ビートたけしの口調で聖徳太子のマネをし、在原業平に出川哲朗口調で「ヤバイよヤバイよ!」と言わせ、足利義昭の口からは「信長神の子不思議な子」というノムさんが田中将大を評した名ゼリフが飛び出す(つまりノムさんは、信玄にも義昭にもなる)。こうなるともう完全にカオスの様相だが、しかしモノマネにはなぜか、「マネされた本人に突如として親近感が湧く」という効能があるのも事実。おかげでその後、素に戻った松村と堀口によって語られる歴史上のエピソードが、抵抗なくすんなりと入ってくるようになる。 歴史をエンタテインメントとして楽しむには、キャラクターを入口とするのが最もスムーズであり、大河ドラマや歴史小説、あるいは『信長の野望』や『戦国BASARA』のようなゲームから入る人も多いが、一瞬にしてキャラクターに入り込めるという意味では、この番組で繰り広げられる松村のモノマネ芸は、歴史への入口として最適かもしれない。 そして実は、この松村のモノマネ芸自体にも興味深い歴史がある。彼はまず、2004年に糸井重里の『ザ・チャノミバ Tea for us.』(TBSラジオ)という番組でこの偉人モノマネ芸を披露。その翌年、糸井の働きかけにより、『ほぼ織田信長のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)が実現し、その放送は一部ラジオリスナーの間で伝説化。そしてさらにしばしの時を経て、11年には『JUNK 爆笑問題カーボーイ』(TBSラジオ)内でこの芸が、再び大々的にフィーチャーされることになる。その際、爆笑問題の2人が松村のモノマネに大爆笑し続ける様子が非常に印象的だった。 そんな紆余曲折の末、いまNHKという場所で、その絶品のモノマネ芸はようやく定位置を得た。さまざまな識者に引き立てられ、計3つの局を渡り歩きながら力をつけてゆくそのプロセスは、まるで主君を替えつつも家を守り抜く戦国武将のようでもある。『DJ日本史』とは、そんなたくましい芸をきっかけに日本史への入口を切り拓いてくれる、斬新な歴史エンタテインメント番組である。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらからNHKラジオ第1『DJ日本史』
「わからない」を楽しむ先に真実が見える、ふかわりょうの思考遊戯場『ROCKETMAN SHOW』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 今、ふかわりょうが面白い。『ひるおび!』(TBS系)や『5時に夢中!』(TOKYO MX)における彼の話術は、その独自の角度と不可思議な「間」において、他と一線を画する妙な存在感を放っている。特に後者においては、マツコ・デラックスや岡本夏生といった猛獣系コメンテーター陣に急所を噛まれつつもなお餌をやり続けるような、過去に類を見ぬ勇敢かつ斬新な司会者像を作り上げており、番組全体に異様な緊張感をもたらしている。 いや、もちろんふかわりょうは、最初から面白かった。登場時の、無表情で踊りながら攻撃的なフレーズを放つあるあるネタも絶大なインパクトを放っていたし、その後はこの『ROCKETMAN SHOW』(J-WAVE 毎週土曜25:00~29:00)という番組が、7年にわたり彼の実力を証明し続けてきた。ただその一方で、テレビの中のふかわは、シュールなネタを武器に切り込むキャラクターから、いつの間にか天然系イジられキャラへと変貌していった。それは『内村プロデュース』(テレビ朝日系)など、先輩芸人に囲まれる状況の中で自然と後輩キャラが根づいていった結果であるともいえるし、やはりネタよりもキャラを求められる昨今のバラエティ事情によるところが大きかったともいえる。 つまりふかわは、アウェイに弱かった。しかしこれは彼だけでなく、多くの若手・中堅芸人が共通して抱える問題である。芸人にとって自分のネタをやっている時間は、自らの世界観に周囲を巻き込めるという意味でホームだが、彼らの出演する多くのバラエティ番組は、すでにある状況に自らを合わせなければならないという意味で完全にアウェイである。すなわち、今の芸人の基本はアウェイなのである。 そんな過酷な状況に置かれている芸人にとって、自らがパーソナリティーを務めるラジオ番組というのは、単独ライブ以外ではほとんど唯一といっていい絶対的なホームになり得る。『ROCKETMAN SHOW』は、まさしくホームのふかわりょうを余すところなく堪能できる解放区である。「ROCKETMAN」という名称がふかわの音楽活動時の名義であること(先日自身のブログで、この名義を封印することが発表された)、そして放送局がFMであることから、音楽を主体とする番組であると思われかねないが、この番組の本質は間違いなくふかわの、わからないことと真摯に向き合い続ける粘り強い「語り」にある。 特にふかわの、今という時代と一般の感覚でフラットに接する姿勢は、芸人のラジオとしては珍しいといえるだろう。「スマホが奪ったもの」をメールテーマに掲げ、利便性の裏に眠る失われた豊かさをリスナーとともに考える。「あなたにとってテレビとは!?」というテーマを軸に、時代によって役割が変わってしまったかもしれない「今のテレビ」についてじっくりと語る。それも芸能人・業界人目線ではなく、あくまでリスナーと同じユーザー目線でリアルに語られる。そこでは、そもそもが「あるあるネタ」を出発点としている彼らしい観察眼が存分に発揮されるが、ラジオならではの長尺のしゃべりになると、あるある的なひとことの行間や裏側に隠されていた真理が浮かび上がってくるのが面白い。 たとえばふかわは、「自転車の車輪にテニスボール挟んでたの、あれなんだったの?」と、あるある的な疑問をまず投げかける。それに対し、この番組でふかわの相方役を務める放送作家の平松政俊(この人のふかわに対する是々非々っぷりは絶妙)が「あれはもう格好つけです」となんとなく断言。その言葉に呼応し、車輪のスポークにジャラジャラしたプラスチックの輪っかをつけるのが流行っていたこともついでに思い出しつつ、ふかわは「自転車に乗るという高揚感が昔と今では違う」というところにまで思考を飛躍させることで、「時代による価値観の違い」という根本的な地点にまで一気に到達する。ふとした笑い話がいつの間にやら思いがけぬ真実を炙りだす、というのはラジオにおけるトークの醍醐味であり、それはテレビで求められがちな短いコメントではなく、長尺のしゃべりの過程で湧き上がってくる思考のうねりがあってこそ可能になるものだが、この番組にはそうした思考のグルーヴが常に渦巻いている。 その思考の渦の根底にあるのは、ふかわ自身が番組内でよく口にする「『わからない』を楽しむ」という姿勢だろう。彼はいつだって、結論を急がない。答えを出すために問題を意図的に単純化したり、説明を楽にするために不純物を切り捨てて簡略化したりすることなく、むしろそこに多様性と新たな角度を見出し、より問題を複雑化させた状態で話を終えることが多い。その証拠に、彼の話のラストには、「難しいところだよね」「何が正しいかわからないよね」等の、不安定な言葉がフワッと置かれることが少なくない。だがそれは決して、その時点で考えることを投げ出した結果ではなく、そもそも彼が、いくら考えても結論の出ない話題を好んで題材として選んでいるからである。すでにわかりきっていることなど面白くないし、考える必要もない。そして人生について重要なことは、先人たちがいくら考えても結論の出なかったことばかりである。結論よりも考えるプロセスの楽しさを伝えるというのは、まさにラジオの本領でもある。 そんなふかわりょうが、ラジオで練り上げた思考のグルーヴを武器に、アウェイの地で異彩を放ち始めている。こんなに痛快なことはない。もちろんテレビという場で広大な自由が与えられることは滅多にあるものではないが、少ないスペースでも個人技を発揮できる体幹の強さは、間違いなくこの『ROCKETMAN SHOW』というホームの地で粘り強く培われてきたものだ。ホームでの地道な活動が、アウェイの地を引き寄せる。そしてアウェイの地も、やがてホームに感じられるようになっていく。理想論に思えるかもしれないが、それ以外に本領を発揮する方策はないだろう。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから『ROCKETMAN SHOW』(J-WAVE)
無礼講的な対話関係がつくり出す異文化交流の宴『吉田照美 飛べ!サルバドール』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 吉田照美はすぐムキになる。ムキになるから面白い。 人は物事を真に受けたとき、ムキになる。何事も、いったん真に受けなければ面白くもなんともない。真面目な話は互いが真に受けることで意義ある議論になり、冗談は相手が真に受けることで初めて冗談になる。つまりその場が面白くなるかどうかは、目の前の相手をムキにさせられるかどうかにかかっている。そこに初めて、単なる「会話」を越えた「対話」が生まれるからだ。 この4月から始まった番組『吉田照美 飛べ!サルバドール』(文化放送 月~金曜15:30~17:50)で、早朝から夕方へと活動の場を移した吉田が生き生きとしている。その理由は、もちろん単純に朝と夕方における自身の体調やテンションの違いや、聴取者層の違い、またそれに伴って求められる役割の違い等の環境的要因が考えられる。しかし一番の要因は、この番組がパーソナリティーの吉田を中心とする、全方位的な対話構造によって成り立っているという点にあるだろう。つまりは番組全体が、吉田をムキにさせる方向へと徹底的に最適化されているのである。 『飛べサル』は「日本だけのジョーシキにとらわれない なんでもありの情熱バラエティー」というコンセプトのもと、スイス出身で政治家マニアの春香クリスティーン、ハーバード大卒芸人の「パックン」ことパトリック・ハーラン、エジプト出身で歯に衣着せぬTwitter発言が話題のフィフィなど、曜日ごとに多国籍なコメンテーターを迎え、彼らと吉田との文化を越えた意見交換を軸に構成されている。成長環境や価値観を越えた意見交換というのは、共感を前提とする「会話」ではなく、前提を必要としない率直な「対話」を自然と生む構図であり、日本人にとって思いがけぬ意見がポンポン飛び出してくる面白さがある。 だが、対話といっても構える必要はまったくない。政治の話もあれば、「日本人のカブトムシ好きは異常。アメリカでは飼わない」とか「スイスの学校には校歌がない」なんて日常レベルのカルチャーショックも、吉田がここぞとばかり的確に掘り下げる質問攻撃に導き出されてきたりして、対話とは硬軟問わず「違和感との出会い」であり「発見のプロセス」であるということをあらためて痛感させられる。 以上のように、『飛べサル』における外見的に最も明快な対話構造はこの「国籍を越えた意見交換の場」という部分にあるのだが、実はさらに重要な対話関係が、それとは別の場所にある。それは、番組アシスタントを務める女子アナウンサー・室照美の存在である。北陸放送から今年文化放送に入社したばかりの彼女は、品のあるトーンを保ちながらも吉田に対しコンスタントに意外性のあるコメントを返す。そのナチュラルなセンスと肝の据わりっぷりは、間違いなく吉田をムキにさせる相手としてふさわしい逸材である。 たとえば毛量の話題になった際には、「でも62歳にしてはいっぱい生えてると思います」と非情な条件つきの褒め言葉をやさしい口調で投げかけ、吉田の絵が三軌展で受賞したという事実を前に「また絵が高くなりますね!」と邪心のないトーンで明るく言い放つ。かと思えば、「何か好きなブランドとかあったら言っといたほうがいい。誰かくれるとも限らないから」というフリに対し、「ミュウミュウのバッグが欲しいです」と即答。その鮮やかな答えを受け、すっかり他人事だと思って油断して「みんな聴きましたか?」と喜んでいる吉田に、「照美さんに言ってるんですよ!」と急角度の切り返しでたじろがせるその当意即妙っぷり。時にかなり厳しくツッコんでいく吉田のスタンスに対し、対等あるいは一枚上手の答えを返す彼女の存在は、早くも番組を盛り上げていく重要な装置として機能している。もちろんそんな答えを呼び込む吉田の、「誰かくれるとも限らないから」という魔性の誘い水が、対話の取っかかりとして見事に効いているのだが。 さらにこの番組には「飛び出せ!子ザル」という、若手リポーターに番組の街頭宣伝をさせるコーナーがあり、ここでの吉田は、後輩アナウンサーらに無理難題を言いつける「無茶ブリの鬼」と化す。しかし、リポーター側も時に反抗心を露わにし、泣き言を言ったりフリを無視したり、時には吉田からの指示を遮断するためイヤホンを外すなどといった暴挙に出たりもする。このコーナーは、そうやってムキになった結果として思いがけぬ言動が飛び出すことでそれぞれのキャラクターが立ってくるという、いわばキャラ開発のための仕組みにもなっており、吉田は自分自身だけでなく、相手をムキにさせる能力にも長けている。そして互いが熱くなったところで初めて熱湯を掛け合うように対等な、無礼講的な笑いが生み出される。 こういった対話的な構造にあふれた番組づくりの基盤には、そもそもスタッフとパーソナリティー間の対話的な信頼関係が必要不可欠である。両者が生ぬるく支え合うような関係ではなく、互いに相手を出し抜いてやろうと常に狙っているような緊張感のある対話が、ここでは番組という作品を通じてとり交わされている。そして何よりもまずそういう空気をつくり出すのが、ずっと一線を張ってきたラジオパーソナリティーとしての吉田の根本的な強みであり、『飛べサル』は結果として吉田照美でなければ成立し得ない番組になっている。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから文化放送『吉田照美 飛べ!サルバドール』
無礼講的な対話関係がつくり出す異文化交流の宴『吉田照美 飛べ!サルバドール』
しゃべりと笑いと音楽があふれる“少数派”メディアの魅力を再発掘! ラジオ好きライターが贈る、必聴ラジオコラム。 吉田照美はすぐムキになる。ムキになるから面白い。 人は物事を真に受けたとき、ムキになる。何事も、いったん真に受けなければ面白くもなんともない。真面目な話は互いが真に受けることで意義ある議論になり、冗談は相手が真に受けることで初めて冗談になる。つまりその場が面白くなるかどうかは、目の前の相手をムキにさせられるかどうかにかかっている。そこに初めて、単なる「会話」を越えた「対話」が生まれるからだ。 この4月から始まった番組『吉田照美 飛べ!サルバドール』(文化放送 月~金曜15:30~17:50)で、早朝から夕方へと活動の場を移した吉田が生き生きとしている。その理由は、もちろん単純に朝と夕方における自身の体調やテンションの違いや、聴取者層の違い、またそれに伴って求められる役割の違い等の環境的要因が考えられる。しかし一番の要因は、この番組がパーソナリティーの吉田を中心とする、全方位的な対話構造によって成り立っているという点にあるだろう。つまりは番組全体が、吉田をムキにさせる方向へと徹底的に最適化されているのである。 『飛べサル』は「日本だけのジョーシキにとらわれない なんでもありの情熱バラエティー」というコンセプトのもと、スイス出身で政治家マニアの春香クリスティーン、ハーバード大卒芸人の「パックン」ことパトリック・ハーラン、エジプト出身で歯に衣着せぬTwitter発言が話題のフィフィなど、曜日ごとに多国籍なコメンテーターを迎え、彼らと吉田との文化を越えた意見交換を軸に構成されている。成長環境や価値観を越えた意見交換というのは、共感を前提とする「会話」ではなく、前提を必要としない率直な「対話」を自然と生む構図であり、日本人にとって思いがけぬ意見がポンポン飛び出してくる面白さがある。 だが、対話といっても構える必要はまったくない。政治の話もあれば、「日本人のカブトムシ好きは異常。アメリカでは飼わない」とか「スイスの学校には校歌がない」なんて日常レベルのカルチャーショックも、吉田がここぞとばかり的確に掘り下げる質問攻撃に導き出されてきたりして、対話とは硬軟問わず「違和感との出会い」であり「発見のプロセス」であるということをあらためて痛感させられる。 以上のように、『飛べサル』における外見的に最も明快な対話構造はこの「国籍を越えた意見交換の場」という部分にあるのだが、実はさらに重要な対話関係が、それとは別の場所にある。それは、番組アシスタントを務める女子アナウンサー・室照美の存在である。北陸放送から今年文化放送に入社したばかりの彼女は、品のあるトーンを保ちながらも吉田に対しコンスタントに意外性のあるコメントを返す。そのナチュラルなセンスと肝の据わりっぷりは、間違いなく吉田をムキにさせる相手としてふさわしい逸材である。 たとえば毛量の話題になった際には、「でも62歳にしてはいっぱい生えてると思います」と非情な条件つきの褒め言葉をやさしい口調で投げかけ、吉田の絵が三軌展で受賞したという事実を前に「また絵が高くなりますね!」と邪心のないトーンで明るく言い放つ。かと思えば、「何か好きなブランドとかあったら言っといたほうがいい。誰かくれないとも限らないから」というフリに対し、「ミュウミュウのバッグが欲しいです」と即答。その鮮やかな答えを受け、すっかり他人事だと思って油断して「みんな聴きましたか?」と喜んでいる吉田に、「照美さんに言ってるんですよ!」と急角度の切り返しでたじろがせるその当意即妙っぷり。時にかなり厳しくツッコんでいく吉田のスタンスに対し、対等あるいは一枚上手の答えを返す彼女の存在は、早くも番組を盛り上げていく重要な装置として機能している。もちろんそんな答えを呼び込む吉田の、「誰かくれないとも限らないから」という魔性の誘い水が、対話の取っかかりとして見事に効いているのだが。 さらにこの番組には「飛び出せ!子ザル」という、若手リポーターに番組の街頭宣伝をさせるコーナーがあり、ここでの吉田は、後輩アナウンサーらに無理難題を言いつける「無茶ブリの鬼」と化す。しかし、リポーター側も時に反抗心を露わにし、泣き言を言ったりフリを無視したり、時には吉田からの指示を遮断するためイヤホンを外すなどといった暴挙に出たりもする。このコーナーは、そうやってムキになった結果として思いがけぬ言動が飛び出すことでそれぞれのキャラクターが立ってくるという、いわばキャラ開発のための仕組みにもなっており、吉田は自分自身だけでなく、相手をムキにさせる能力にも長けている。そして互いが熱くなったところで初めて熱湯を掛け合うように対等な、無礼講的な笑いが生み出される。 こういった対話的な構造にあふれた番組づくりの基盤には、そもそもスタッフとパーソナリティー間の対話的な信頼関係が必要不可欠である。両者が生ぬるく支え合うような関係ではなく、互いに相手を出し抜いてやろうと常に狙っているような緊張感のある対話が、ここでは番組という作品を通じてとり交わされている。そして何よりもまずそういう空気をつくり出すのが、ずっと一線を張ってきたラジオパーソナリティーとしての吉田の根本的な強みであり、『飛べサル』は結果として吉田照美でなければ成立し得ない番組になっている。 (文=井上智公<http://arsenal4.blog65.fc2.com/>) ◆「逆にラジオ」過去記事はこちらから文化放送『吉田照美 飛べ!サルバドール』








