どぶろっく ヒット曲「もしかしてだけど」で“キングオブ営業芸人”にのし上がった3つの理由

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「新・もしかしてだけど」(テイチクエンタテインメン)
 お笑い芸人の仕事場は大きく分けて3つある。テレビやラジオなどの「メディア」、ライブハウスや劇場、寄席などの「ライブ」、そして「営業」だ。一般的には、芸人はテレビに出るものだというイメージがあるが、テレビに出られる芸人はほんの一握り。多くの芸人にとって主戦場はあくまでもライブや営業であり、中でも収入源として重要度が高いのが「営業」だ。  営業とは、イベント会場やショッピングモールなどで客寄せのために舞台に立って芸を披露する、というもの。たとえテレビにあまり出ていなくても、営業で日本中を回るだけで十分な収入を得ている芸人は大勢いる。営業で求められることはテレビとは違う。営業で稼いでいる芸人の実態は、世間にはあまり知られていない。  そんな営業の世界で現在人気ナンバーワンとの呼び声が高いのが、「もしかしてだけど」でおなじみの歌ネタ芸人・どぶろっくだ。6月18日放送の『水曜日のダウンタウン』(TBS系)で発表された「2013年芸人営業本数ランキング」でも、テツandトモ、ナイツといったライバルを抑えて1位をマーク。彼らこそが、営業の世界でトップをひた走る「キングオブ営業芸人」なのだ。  歌手の世界では、営業で稼ぐための大前提として「ヒット曲を持っている」というのがある。誰もが知っているヒット曲があれば、それを楽しみにして人が集まってくれるからだ。芸人にとってのヒット曲とは、ギャグだったり、キャラだったり、ネタだったりする。ただ、どぶろっくの場合は、文字通り「もしかしてだけど」というヒット曲を持っている。この曲がヒットしたからこそ、彼らは営業の世界で引っ張りだこになった。  「もしかしてだけど」が売れた理由は3つある。1つは、男性に支持されたということ。この曲では、主人公の男性がちょっとした女性の言動から勝手に妄想を膨らませて、自分に好意があるのではないかと深読みする。焼肉屋の会計でお釣りと一緒にガムを渡してきた店員には「サヨナラのキスを求めてるんじゃないの」と思い込む。勘違いだけで、すべてを自分に都合よく解釈してしまうのだ。さすがにここまでおめでたい男は、現実にはほとんどいないかもしれない。  だが、実際のところ、大なり小なり勘違いしていなければ、男は一歩前に踏み出すことができない。いわば、この曲では、前向きに勘違いする勇気と、勘違いしてでも前に進むしかない悲哀という表裏一体の男の生き様が歌われているのだ。  だから、この曲を聴くと、男性はバカバカしいと笑いながらも、スカッと明るい気持ちになれる。この曲の主人公は、何気ない日常の一場面を、妄想で鮮やかに彩ってしまう。それは、淡々と繰り返される日々を明るく生きていくのに欠かせない究極のポジティブ思考なのだ。  2つ目は、歌詞の内容が女性にも受け入れられた、ということ。どぶろっくがそれまでに作っていた歌ネタの中には、下ネタがややキツすぎるものがあった。すべての女性が下ネタを嫌うわけではない。ただ、あまりに露骨だったり品がなさすぎたりする下ネタは、受け入れられないことが多い。笑うことに後ろめたさを感じるような下ネタは、どうしても敬遠されてしまいがちだ。  「もしかしてだけど」には下ネタの要素が含まれてはいるが、女性にも受け入れられやすい。それは、下ネタの出力調整が絶妙だからだ。直接的な単語を使っているわけではないし、性的な話を露骨に語っているわけでもない。現実にはあり得ないほど妄想を膨らませることで、男の性欲をコミカルかつマイルドに見せることに成功している。これなら、女性が笑いづらくなる心配はない。  最後に、この曲がヒットしたのはメロディーがよかったから、というのももちろん外せない。メロディーのいい曲は何度でも聴きたくなるし、自分でも口ずさみたくなる。そして、歌詞の意味を理解できない子どもにもウケやすい。メロディーがいい曲がヒットするというのは、音楽の世界とまったく同じだ。  男が共感し、女が笑い、子どもが口ずさむ。お笑い史上屈指のヒット曲を引っさげて、「キングオブ営業芸人」として日本中を飛び回るどぶろっく。男の性欲で濁りきったどぶろくは、いつのまにか万人に愛される透き通った純米酒に生まれ変わっていたのだ。 (文=お笑い評論家・ラリー遠田)

加藤茶 “無邪気すぎる71歳”天才コント職人が過ごす「老いらくのユートピア」

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「加藤茶が衰弱している」と話題になっている。6月9日放送のNHK旅番組『鶴瓶の家族に乾杯』に出演したときにも、表情の変化が乏しく、笑福亭鶴瓶が話しかけても反応が鈍い。生気のない加藤を、鶴瓶が必死でフォローしているように見受けられる場面もあった。私たちはこの事態をどう受け止めるべきだろうか?  芸人には大きく分けて2つのタイプがある。しゃべりがうまい人と、コントを演じるのがうまい人だ。前者は漫才師、漫談家、落語家に多く、後者はコント芸人、喜劇役者に多い。最近の若手芸人は、両方を器用にこなす人も多いが、もともとはそれぞれ別の職業だと考えたほうがいいくらい、大きな違いがある。  言うまでもなく、加藤は後者に属する。彼は福島育ちでなまりも強く、しゃべりで人を笑わせるタイプではない。トーク主体のバラエティ番組に出る機会もそれほど多くないし、たまに出ても積極的にペラペラしゃべって場を盛り上げたりはしない。  そんな加藤が、年齢を重ねて肉体的にも衰えた結果、うまくしゃべれなくなっているのはそれほど不思議なことではないだろう。彼は何かのきっかけで急に衰えたわけではなく、ただ年齢を重ねているだけだ。もちろん肉体的な衰えは否定できないが、ここまで騒がれたり心配されたりするほどのことではないと思う。  加藤の衰えがこれほど注目されるのは、彼の本質的な部分を人々がはっきり理解していないからではないだろうか。加藤茶という芸人は何者なのか? ひとことで言えば、彼は「懲りない男」だ。  以前、雑誌「コメ旬 Vol.3」(キネマ旬報社)のインタビューで、『8時だョ!全員集合』(TBS系)のディレクターである高橋利明氏に話を聞いたことがある。高橋氏は加藤茶について「とにかく反省しない人」と答えていた。何かをやって失敗したら、それが良くなかったということは心の中では分かっている。でも、反省はしないし、何度でも同じミスを平気でする。それが加藤のスタイルだというのだ。  つまり、ザ・ドリフターズのコントでしばしば見受けられた、同じミスを繰り返していかりや長介に怒鳴られる加藤、というのは演技でもなんでもなく、彼の素顔そのものだったのだ。  加藤の頭の中では、どんな体験も出来事も1つ1つその場で消去されていく。彼はただ、いま目の前にあるものに向き合い、全力でぶつかるだけ。過去を振り返らず、未来への責任は負わず、今を楽しむ。コツコツと努力を重ねて社会的に立派な地位を築きたいとか、出世して偉くなりたいとか、そういう欲望は彼には一切ない。それが加藤の生き方なのだ。  『8時だョ!全員集合』でも、それを象徴する出来事があった。あの有名な「停電事件」だ。1984年6月16日、入間市民会館で生放送が始まった途端、会場中の明かりが消えてしまった。画面は真っ暗になり、出演者の声と会場のざわめきだけが聞こえている。リーダーのいかりやは、必死になって打開策を考えている。  真っ暗な中で、いかりやの顔が懐中電灯の明かりに照らされた。「15年やってて、こういうのは初めてだね」と、いかりやが水を向けると、加藤は笑顔で答えた。 「なんだか知らないけど、ワクワクするね」  この無邪気なコメントこそが、加藤の真骨頂だ。彼は、生放送中の停電という前代未聞のアクシデントを前にして、「面白くなってきたな」と、ひとりほくそ笑んでいる。徹底的に「今を楽しむ」という、加藤の生き方を象徴するせりふだと言えるだろう。  加藤には、過去に対する後悔はない。未来に対する野望もない。ただ、コントを演じる技術だけは本当に天才的だ。相棒の志村けんも「僕が多分加藤さんはこんなことをするだろうなと思っていると、現場では必ず予想以上のリアクションを返してくる」(『変なおじさん』新潮文庫)と加藤を絶賛している。動き、表情、反応、しゃべり方――そのすべてが笑いという一点に集約されていく天性のコント職人。それが芸人・加藤茶の姿だ。  加藤は、頭の中を空っぽにして、気ままに舞台を飛び回り、その場その場で笑いをもぎ取っていく。この芸風が、なんとも言えない愛嬌とかわいげを生んでいる。加藤は、その有り余る才能とかわいげによって、前期ドリフの絶対的エースとなり、志村が加わってからは志村と並ぶ二枚看板となった。  加藤は、進化や進歩といった近代的な観念に縛られない異能の人、ニーチェ風に言えば「超人」だ。世間で何かと話題になる歳の離れた妻との結婚生活も、きっと加藤本人はそれなりに満足しているに違いない。若くて美人の嫁と仲良く楽しく暮らす。誰に何と言われようと、そこには加藤にしか見えないユートピアがきっとあるはずだ。  70歳を過ぎても子供のように無邪気に遊び回る「加トちゃん」は、今を楽しみ人生を謳歌する異端の自由人だ。 (文=お笑い評論家・ラリー遠田)

加藤茶 “無邪気すぎる71歳”天才コント職人が過ごす「老いらくのユートピア」

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「加藤茶が衰弱している」と話題になっている。6月9日放送のNHK旅番組『鶴瓶の家族に乾杯』に出演したときにも、表情の変化が乏しく、笑福亭鶴瓶が話しかけても反応が鈍い。生気のない加藤を、鶴瓶が必死でフォローしているように見受けられる場面もあった。私たちはこの事態をどう受け止めるべきだろうか?  芸人には大きく分けて2つのタイプがある。しゃべりがうまい人と、コントを演じるのがうまい人だ。前者は漫才師、漫談家、落語家に多く、後者はコント芸人、喜劇役者に多い。最近の若手芸人は、両方を器用にこなす人も多いが、もともとはそれぞれ別の職業だと考えたほうがいいくらい、大きな違いがある。  言うまでもなく、加藤は後者に属する。彼は福島育ちでなまりも強く、しゃべりで人を笑わせるタイプではない。トーク主体のバラエティ番組に出る機会もそれほど多くないし、たまに出ても積極的にペラペラしゃべって場を盛り上げたりはしない。  そんな加藤が、年齢を重ねて肉体的にも衰えた結果、うまくしゃべれなくなっているのはそれほど不思議なことではないだろう。彼は何かのきっかけで急に衰えたわけではなく、ただ年齢を重ねているだけだ。もちろん肉体的な衰えは否定できないが、ここまで騒がれたり心配されたりするほどのことではないと思う。  加藤の衰えがこれほど注目されるのは、彼の本質的な部分を人々がはっきり理解していないからではないだろうか。加藤茶という芸人は何者なのか? ひとことで言えば、彼は「懲りない男」だ。  以前、雑誌「コメ旬 Vol.3」(キネマ旬報社)のインタビューで、『8時だョ!全員集合』(TBS系)のディレクターである高橋利明氏に話を聞いたことがある。高橋氏は加藤茶について「とにかく反省しない人」と答えていた。何かをやって失敗したら、それが良くなかったということは心の中では分かっている。でも、反省はしないし、何度でも同じミスを平気でする。それが加藤のスタイルだというのだ。  つまり、ザ・ドリフターズのコントでしばしば見受けられた、同じミスを繰り返していかりや長介に怒鳴られる加藤、というのは演技でもなんでもなく、彼の素顔そのものだったのだ。  加藤の頭の中では、どんな体験も出来事も1つ1つその場で消去されていく。彼はただ、いま目の前にあるものに向き合い、全力でぶつかるだけ。過去を振り返らず、未来への責任は負わず、今を楽しむ。コツコツと努力を重ねて社会的に立派な地位を築きたいとか、出世して偉くなりたいとか、そういう欲望は彼には一切ない。それが加藤の生き方なのだ。  『8時だョ!全員集合』でも、それを象徴する出来事があった。あの有名な「停電事件」だ。1984年6月16日、入間市民会館で生放送が始まった途端、会場中の明かりが消えてしまった。画面は真っ暗になり、出演者の声と会場のざわめきだけが聞こえている。リーダーのいかりやは、必死になって打開策を考えている。  真っ暗な中で、いかりやの顔が懐中電灯の明かりに照らされた。「15年やってて、こういうのは初めてだね」と、いかりやが水を向けると、加藤は笑顔で答えた。 「なんだか知らないけど、ワクワクするね」  この無邪気なコメントこそが、加藤の真骨頂だ。彼は、生放送中の停電という前代未聞のアクシデントを前にして、「面白くなってきたな」と、ひとりほくそ笑んでいる。徹底的に「今を楽しむ」という、加藤の生き方を象徴するせりふだと言えるだろう。  加藤には、過去に対する後悔はない。未来に対する野望もない。ただ、コントを演じる技術だけは本当に天才的だ。相棒の志村けんも「僕が多分加藤さんはこんなことをするだろうなと思っていると、現場では必ず予想以上のリアクションを返してくる」(『変なおじさん』新潮文庫)と加藤を絶賛している。動き、表情、反応、しゃべり方――そのすべてが笑いという一点に集約されていく天性のコント職人。それが芸人・加藤茶の姿だ。  加藤は、頭の中を空っぽにして、気ままに舞台を飛び回り、その場その場で笑いをもぎ取っていく。この芸風が、なんとも言えない愛嬌とかわいげを生んでいる。加藤は、その有り余る才能とかわいげによって、前期ドリフの絶対的エースとなり、志村が加わってからは志村と並ぶ二枚看板となった。  加藤は、進化や進歩といった近代的な観念に縛られない異能の人、ニーチェ風に言えば「超人」だ。世間で何かと話題になる歳の離れた妻との結婚生活も、きっと加藤本人はそれなりに満足しているに違いない。若くて美人の嫁と仲良く楽しく暮らす。誰に何と言われようと、そこには加藤にしか見えないユートピアがきっとあるはずだ。  70歳を過ぎても子供のように無邪気に遊び回る「加トちゃん」は、今を楽しみ人生を謳歌する異端の自由人だ。 (文=お笑い評論家・ラリー遠田)

流れ星 “当代一のギャガ―”ちゅうえいが生み出す「ギャグのための漫才」とは

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『流れ星ベストネタライブ「回帰」』(ポニーキャニオン)
 突然だが、これを読んでいるあなたは「ギャグ」というものに対して、どういうイメージを持っているだろうか? ギャグと言われて、何を思い浮かべるだろうか――? 実は、ギャグに対するイメージは、お笑い業界の内と外で180度異なる。  一般的には、ギャグというのは「お手軽に笑いを取るための手段の1つ」ぐらいに思われているのではないだろうか? だが、プロの芸人の多くは、そうは思っていないはずだ。むしろ、数あるお笑いのジャンルの中で、ギャグほど難しいものはない、というのが業界内での定説だ。  ギャグ(一発ギャグ)とは、瞬間的に特定のポーズを取ったり動作を見せたりしながら特定の言葉を発して、その動きや言い方の面白さで受け手を笑わせるというもの。ギャグのフレーズはときに流行語となり、爆発的な人気を博すこともある。お笑いの歴史の中では、ビートたけしの「コマネチ」、小島よしおの「そんなの関係ねえ」など、数々の名作ギャグが生まれている。  最近の若手お笑い界では、「ギャグ」は「大喜利」「フリートーク」「モノボケ」と同じような、1つのお笑いのジャンルとして認識されている。お笑いライブやバラエティ番組などで「何かギャグをやってみて」と言われたら、芸人はギャグで返すしかない。芸人の中には、ギャグが得意な人もいれば、苦手な人もいる。それでも、芸人を名乗るならギャグの1つや2つくらいできて当然だ、という風潮がある。  だが、そもそも、ギャグというのは単体で見ると決して面白いものではない。というより、そこで面白さを生み出すのが難しい構造になっている。いまギャグと呼ばれているものは本来、喜劇やコントや漫才の流れの中で繰り出されるものだ。長いネタの中に組み込まれているので、ギャグの前には十分な前振りがあり、ギャグの後にはそれを受けるツッコミやリアクションがある。だからこそ、ギャグの箇所で笑いが起きるのだ。ギャグだけを単体で切り出しても、それが笑いにつながることはめったにない。  「何かギャグをやってみて」というのは、地獄への片道切符だ。前振りなしでギャグをやっても、まずウケることはない。ウケないと分かっていても、振られたらやるしかない。芸人たちは、崖のてっぺんから谷底に飛び込むように、決死の覚悟でギャグに挑んでいくのだ。  だから、芸人がギャグをやるときには、スベることを想定して保険をかけておくことが多い。ギャグ自体で笑いが起こらなくても、スベッたときの周りからのツッコミやフォローで笑いが起これば問題なし。いわば、体に命綱をくくりつけて、バンジージャンプのように崖から飛び降りるのが一般的なギャグへの対処法なのだ。  だが、中にはあえてそれをしない豪傑もいる。命を懸けてギャグに挑む彼らは、敬意を込めて「ギャガー」と呼ばれる。そして、東京お笑い界を代表するギャガーこそが、流れ星のちゅうえいだ。彼は、テレビやライブでギャグを求められると、即座に披露する。そして、大抵の場合、彼はそのギャグできっちり笑いを取ってみせるのだ。これは並み大抵のことではない。  ちゅうえいはギャグを堂々とやりきる。スベッたときに備えるような打算が一切感じられない。それでいて、ギャグそのもののクオリティは高く、洗練されている。ギャグの型がパターン化されていないため、何本見ても次に何が飛び出すか分からない期待感が秘められている。  しかも、彼のギャグは持ちネタの漫才にも存分に生かされている。流れ星の漫才には、ほかの芸人と違う特色がある。それは、ギャグを生かすための漫才だということ。漫才としての基本的な流れはあるが、要所要所でちゅうえいの鋭いギャグが挟み込まれる。そして、漫才自体が、そのギャグを際立たせるために存在しているようなところがある。  ギャグが漫才の流れに乗って自然に組み込まれている。いわば、漫才のためにギャグがあるのではなく、ギャグのために漫才がある。こういう漫才ができる芸人はほかにいない。彼らにとっては、漫才すらギャグを表現するための手段にすぎないのかもしれない。  いまテレビの第一線で活躍している芸人でさえ、ギャグできっちり笑いが取れる人はほとんどいない。お笑い界屈指の実力派ギャガーを擁する流れ星は、「ギャグで人を笑わせる」という多くの芸人が果たせなかった“願いごと”を叶えることに成功したのだ。 (文=お笑い評論家・ラリー遠田)

日本エレキテル連合 「ネタ番組ゼロ時代」に輝く“衝動のコント”とは

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『シリアル電気』( アニプレックス)
 2014年3月23日に『オンバト+』(NHK)が終了したことで、十数年ぶりに「お笑いネタ番組ゼロ時代」が到来した。5月現在、全国ネットの地上波テレビでレギュラー放送のお笑いネタ番組は存在しない。漫才、コント、ピン芸といった若手芸人のネタを視聴者が手軽にチェックする機会は失われたままだ。  この「お笑いネタ番組ゼロ時代」では、若手芸人が売れるための道のりは限りなく険しいものになっている。いくらネタが面白くても、センスがあっても、見た目が良くても、それだけではなかなかのし上がることはできない。  そんな逆風の中、ネタの力だけで着実に人気を伸ばし続けている異色の若手芸人がいる。「ダメよ~、ダメダメ」のフレーズで知られる日本エレキテル連合だ。衣装やメイクの細部にまでこだわったコントの数々で、多くの人を虜にしている。  彼女たちの演じるコントは、ある種の「衝動」から生まれている。このせりふを言いたい、この衣装を着たい、このキャラクターを演じてみたい、という原初的な衝動。一番最初にある感覚を決して手放さず、そこに軸足を置いてネタが組み立てられているのだ。  だから、日本エレキテル連合のコントでは、特別な出来事が何も起こらないことも多い。2人の人物が出てきて、一つの状況が提示される。そして、ただそれだけで終わってしまうケースが目立つ。これはかなり珍しいスタイルだ。  ほかの芸人の演じるコントでは、状況の説明は最小限にとどめて、その状況の中で起こるハプニングやアクシデントが主題となることが多い。学校、コンビニ、病院といった特定のシチュエーションがあって、そこに人物が出てくる。そして、誰かが変なことをする、変なことを言う、変なことが起こる。そこが、笑わせどころになっている。  ところが、日本エレキテル連合のコントでは、そのような展開になることがあまりない。奇抜な衣装を身にまとったクセのあるしゃべり方の人物が現れて、一つの状況が提示される。そして、これという進展もないまま、唐突にコントは終わってしまうのだ。  ただ、それが面白くないかというと、抜群に面白い。なぜなら、せりふ、衣装、小道具の細部にまで徹底的なこだわりが感じられ、それを一つ一つ味わい尽くす楽しみがあるからだ。彼女たちの代表作である「未亡人朱美ちゃん3号」というネタでも、繰り返される「ダメよ~、ダメダメ」というフレーズが妙に印象に残る。ネタの密度が濃いので、見る者はそこに安心して浸ることができるのだ。  いわば、ほかの芸人のコントが物語性のある「映画」だとしたら、日本エレキテル連合のコントは一つの状況を切り取った「絵画」に近い。受け手は、絵画を鑑賞するようにして、ネタの細部をじっくり堪能してその世界に没入することができるのだ。  実際、ネタ作りを担当する中野聡子は、自分の思い描く世界観に合わせて演技をする相方の橋本小雪を「真っ白なキャンバス」に例えている。中野という新進気鋭のアーティストが、ゴッホ顔負けのゴテゴテした厚塗りで橋本というキャンバスに絵筆を入れていく。そうやって、あのグロテスクで魅惑的な作品の数々が生み出されているのだ。  もちろん、彼女たちのネタにストーリー性が皆無というわけではない。「未亡人朱美ちゃん3号」というネタが面白いのも、ひとひねりしたオチが鮮やかに決まっているからだ。「ダメよ~、ダメダメ」という決まり文句があれだけ繰り返されるのも、朱美ちゃんの顔が不気味に白く塗り上げられているのも、すべてに意味があったということが結末で明らかになる。ミステリー仕立てで、何度も見返したくなる傑作だ。  「お笑いネタ番組ゼロ時代」という逆風をものともせず、着実にファンを増やしている日本エレキテル連合。見る者すべてを一瞬でしびれさせる、キケンな高電圧芸人だ。 (文=お笑い評論家・ラリー遠田)

陣内智則 “大女優との離婚”で受け入れた「ありのままの2つの顔」とは

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吉本興業公式サイトより
 5月4日、陣内智則が『アッコにおまかせ!』(TBS系)に出演。その中で「アナと『アナと雪の女王』見た」と発言した。大ヒット中のディズニー映画『アナと雪の女王』を誰と一緒に見に行ったのか問い詰められて、交際中とウワサされるフジテレビの松村未央アナウンサーと行ったことをほのめかし、笑いを誘っていた。  いまや陣内は、押しも押されもしないお笑い芸人の1人となった。「離婚」「浮気」「二股」というキーワードで芸人仲間には徹底的にイジり倒され、世の女性たちからは冷たい視線を浴びせられながらも、しぶとく這い上がって現在のポジションを確立した。彼がここまでたどり着くには、人知れぬ苦難の歴史があった。  陣内は、リミテッドというコンビでデビュー。大阪の心斎橋筋2丁目劇場を拠点に、活動を続けていた。のちにピン芸人となった陣内は、映像と音を使った1人コントを開発。分かりやすく万人受けするネタを量産して、『爆笑オンエアバトル』(NHK)、『エンタの神様』(日本テレビ系)といったネタ番組にも数多く出演。朝の情報番組『なるトモ!』(読売テレビ)などではMCを務めた。  若手の頃、芸人としての陣内には2つの顔があった。「ネタもMCもそつなくこなす器用なキャラ」と、「先輩芸人からイジられる、底抜けの天然キャラ」だ。これらは「ツッコミ気質」と「ボケ気質」と言い換えてもいい。いわば、陣内は、芸風としてはツッコミ寄りでありながら、同時に天然ボケという一面も備えていたのだ。  陣内の天然エピソードは、彼をよく知る千原ジュニアやケンドーコバヤシといった先輩芸人によってしばしば語られてきた。黒いゴミ袋を黒猫と見間違えて話しかけていた事件、濡れた犬を電子レンジで乾かそうとした事件などは特に有名だ。  見た目も芸もスマートで、誰にでもズケズケと攻めていく大胆さもあるのに、本人は隙だらけでイジられやすい。しっかりしているようで、抜けているところもある。この2つの異なるキャラクターをどう両立させるべきか、というのが彼の長年の課題だった。  ところがある日、このギャップが一気に埋まるきっかけが訪れた。それが、女優・藤原紀香との離婚騒動だ。2人は2007年に結婚。大物女優と若手芸人の「格差婚」は大きな話題となり、結婚式はテレビ中継されて24.7%という高視聴率をマークした。  そんな彼らが09年に離婚。原因は陣内の浮気だと報じられた。世の女性たちにとって「浮気する男」ほど忌み嫌われるものはない。この騒動で陣内は「最低の男」という烙印を押されてしまった。バッシングの嵐の中で彼も深く傷つき、大きな精神的ダメージを負ったことは想像に難くない。  だが、陣内はそこから立ち上がった。先輩芸人たちが彼に「イジり」という救いの手を差し伸べたのだ。なぜ離婚したのかとしつこく尋ねられて、陣内は力強く「浮気、山ほどしたからや!」と返した。怒濤のイジりラッシュに、陣内も負けじと応戦する。開き直って離婚騒動を笑いに変えたとき、陣内は1つ上のステージに達した。  おそらく、離婚前の陣内は、自分の天然キャラをイジられることを心のどこかで受け入れられていなかったのだろう。自分がイジられるのは理不尽だと思う気持ちが多少なりともあったからこそ、そのイジりに全面的に乗っかることができなかった。  だが、離婚騒動によって彼は「空前絶後のイジられキャラ」へと押し上げられた。イジられるしかない状況に追い込まれたら、それを受け入れて一つ一つ打ち返していく以外に生きる術はない。このとき、「怒濤のイジりをスマートに返す」という形で、陣内の中の2つの人格が1つになった。  今の陣内はもう、ただの器用なキャラでもなければ、ただの天然キャラでもない。離婚騒動でタレントとしての好感度は下がったかもしれないが、芸人としての好感度は間違いなく上がった。  「大女優との離婚」という人生を懸けた大ボケによって、2つのキャラクターのギャップが埋まった。『アナと雪の女王』よろしく、陣内は開き直って「ありのままの姿」を見せることでありのままの自分になることに成功したのだ。 (文=お笑い評論家・ラリー遠田)

博多華丸・大吉 地味ささえも武器に……“九州芸人”の象徴的コンビが「二度売れた」理由とは

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『博多華丸・大吉式ハカタ語会話』(マイクロマガジン社)
 お笑い界では「関西芸人は二度売れなくてはいけない」という定説がある。笑いの都・大阪には東京とは違う独自のお笑い文化があり、テレビ、ラジオ、劇場で多くの関西芸人がしのぎを削っている。関西芸人は、関西でいったん人気を得てそれなりの地位を築いてから、東京に出てきて全国区で通用するかどうかの勝負をしなくてはいけない、というわけだ。  関西以外の地方では、お笑いを取り巻く環境が十分に整備されていないため、全国区を目指す芸人は初めから東京に出てきてしまうことが多い。「関西芸人は二度売れなくてはいけない」という定説の根底にあるのは、「そもそも関西でしか一度目に売れる環境が整っていない」という事実なのだ。  ただ近年、関西以外の地域からついに「二度売れた」芸人が現れた。それは、福岡吉本出身の博多弁漫才師、博多華丸・大吉だ。彼らは福岡を拠点として芸人活動を開始。1990年にデビューするとすぐに地元でレギュラー番組が始まり、MCを務めることになった。それが実現できたのは、彼らがたまたまこの時期に設立されたばかりの、福岡吉本の初期メンバーだったからだ。  華丸・大吉はローカル番組に数多く出演し、九州芸人のリーダー的な存在として長きにわたって君臨してきた。ただ、この恵まれた環境のせいで、のちに彼らは思わぬ苦労を強いられることになる。  2005年、華丸・大吉は満を持して東京進出を果たした。だが、ここで彼らは、これまで経験していなかった未知の分野に挑戦することになった。それは、全国ネットのバラエティ番組における、ひな壇での立ち振る舞い方だ。ローカル番組でずっとMCを務めていた彼らには、ひな壇芸人としての経験がほとんどなかった。横並びで大勢の共演者がいる状況で、いつどうやって前に出ればいいのか分からない。このときの彼らは、関西で天下を取った芸人が東京に出たときに直面するのと同じような壁にぶつかっていたのだ。  そんな苦手意識を打ち破るきっかけになったのは06年、華丸がピン芸日本一を決める『R-1ぐらんぷり』で優勝したことだ。このとき彼が披露したのは、『アタック25』(朝日放送)司会者で俳優の児玉清(故人)のものまね。華丸のものまねは、全国ネットのバラエティ番組に挑む彼らにとって貴重な飛び道具となった。  また08年、大吉は『アメトーーク!』(テレビ朝日系)の「中学の時イケてないグループに属していた芸人」に出演。冴えない学生時代を過ごした芸人たちが、その頃の思い出を面白おかしく語るこの企画は大きな反響を呼んだ。  大吉は、文化祭のときに焼却炉でゴミを燃やす仕事に没頭していたため、「焼却炉の魔術師」というあだ名が付けられたというエピソードを披露。「焼却炉の魔術師」は、この年の「アメトーーク!流行語大賞」に選出された。徹底的に地味で目立たないという大吉のキャラクターの魅力が、このときにようやく開花した。  これ以降、彼らはピンでもコンビでもバラエティ番組に通用する戦力として少しずつ認められていった。11年には『THE MANZAI』で決勝進出。博多弁漫才師としての確かな実力を見せつけた。  タモリ、内村光良を筆頭に、九州出身の芸人は今までにも大勢いた。だが、九州で確固たる地位を築いてから、ローカル色の強い芸風を貫いて全国区で成功を収めた芸人は今までいなかった。  博多ラーメンのとんこつスープのように、濃厚でこってりした芸風の華丸。辛子明太子のように、ピリッと辛口でクールな目線が冴えわたる大吉。九州仕込みの2つの個性がぶつかり合うことで、博多華丸・大吉という唯一無二のコンビが誕生した。彼らは関西以外の地域から「二度売れる」という前人未到の偉業を成し遂げて、生きる伝説となった。 (文=ラリー遠田)

ウーマンラッシュアワー・村本大輔 「THE MANZAI」優勝候補“ネット炎上請負人”の計算とは

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『WOMAN RUSH HOUR SOLO LIVE DVD I love you』(よしもとアール・アンド・シー)
 一般に、「好き」の反対語は「嫌い」だと思われている。だが、芸能人の人気ということに関していえば、これは必ずしも正しくない。  例えば、「1,000万人に嫌われているタレント」と「誰にも嫌われていないタレント」を比べてみてほしい。タレントとして売れているのは、明らかに前者のほうだ。なぜなら、1,000万人に嫌われているというのは、1,000万人に知られている、そして関心を持たれている、ということだからだ。誰にも知られていないような人は、初めから嫌われもしない。  人々がタレントを好きだったり嫌いだったりするのは、どちらも「関心がある」ということの表れだ。その関心がポジティブなものであれば「好き」になるし、ネガティブであれば「嫌い」になる。初めから興味がなく視野に入っていない人は、好かれも嫌われもしない。  芸能人にとって、「好き」の反対は「無関心」だ。「好き」や「嫌い」は関心があることを前提とした感覚であるため、関心がないという状態がその対極に位置することになる。  芸能人は、必ずしもすべての人に好かれようとしなくてもいい。嫌われてもいい。むしろ、何も思われないくらいなら、嫌われたほうが、はるかにましなのだ。嫌われるくらい誰かの心に強烈な印象を植え付けたのなら、それは別の人には必ずポジティブな形で刺さっている。誰かに嫌われている人は、別の誰かには好かれている。芸能人とは、そうやって好かれたり嫌われたりしながら多くの人に認知されていくものなのだ。  最近、芸能人のブログやTwitterがきっかけで「炎上」騒動が起こることがある。芸能人の炎上には大きく分けて2つの種類がある。それは「売れている人の炎上」と「売れていない人の炎上」だ。  売れている人の炎上騒動は、社会常識に反することや法律に触れるようなことであれば、大きな問題に発展するおそれがある。売れている芸能人がトラブルを起こすと、レギュラー番組やCMなどの仕事に影響が出るからだ。一方、売れていない人の炎上は、失うものが少ない分だけリスクが低い。むしろ、本人にとっては知名度を上げるためのまたとないチャンスになる場合がある。  お笑い界でそのことにいち早く気付いたのが、ウーマンラッシュアワーの村本大輔だ。彼はいまや、自ら炎上を呼び込み、その炎を燃え広がらせて話題をさらう「炎上請負人」としてカリスマ的な人気を誇っている。  もちろん、違法なことや市民感情を逆なでするような行為で炎上するのは避けなければいけない。だが、それ以外のことなら脅える必要はない。むしろ、騒ぎをできるだけ大きくして、多くの人の注目を集めたほうが本人にとって得になる。  村本はそのことに気付くと、力強く自分自身にゴーサインを出した。Twitterでは一般人にケンカを売り、テレビやライブでは自らの炎上騒ぎをネタにして笑いを取り、どんどん火に油を注いでいった。  また、「ファンに手を出している」「相方の妻やほかの芸人のファンも狙っている」などと公言。お笑い界のタブーを破り、ほかの芸人があまり言いたがらないようなゲスな話を、積極的に自分から語り始めた。  するとどうだろう。この炎が燃え広がると共に、彼の知名度はグングン上昇して、仕事も増えていった。アンチが村本を叩けば叩くほど、それが村本の利益になる。彼は、インターネットというシステムの上に自然発生した「炎上」というバグを逆手に取って、自身の知名度を高めることに成功したのだ。  そんな彼は、本業の漫才でもきちんと結果を出している。早口でまくしたてる「超ハイスピード漫才」を武器にして、ウーマンラッシュアワーは関西の賞レースを総なめ。「THE MANZAI」では3年連続で決勝に進んだばかりか、今年2013年には予選1位通過を果たして優勝候補の筆頭とウワサされている。  確かな漫才の実力があるからこそ、ネット上でどれほど無茶をしても平気でいられる。そこは村本の主戦場ではないからだ。彼にとってネットとは、アンチという雑魚キャラを倒す炎上というイベントをクリアして、話題性という得点を稼ぐ単純なゲームにすぎない。村本はゲーム感覚で炎上を仕掛けて無邪気に遊んでいるのだ。  彼の表の顔は、自ら炎上テロを仕掛ける不気味な放火魔。だが、裏の顔は、その炎を養分にして永遠に輝き続ける不死鳥である。燃えれば燃えるほど、彼の憎たらしい微笑みはいっそう輝きを増していくのだ。 (文=お笑い評論家・ラリー遠田) ●ニコニコ生放送 完全実況!!「THE MANZAI 2013」をとことん楽しむ!! 2013年12月15日(日) 開場:18:27/開演:18:30 【出演】ラリー遠田、データ石浜 <http://live.nicovideo.jp/watch/lv161244804>

オアシズ・大久保佳代子 セクハラ・下ネタで完全ブレークしたアラフォー女芸人の「変わらない」という強み

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撮影=尾藤能暢
 この1~2年、テレビ界では空前の「大久保佳代子ブーム」が起こっている。アラフォーと呼ばれる年齢に差しかかった頃からセクハラと下ネタの破壊力に磨きがかかり、じわじわと仕事が増え始めた。彼女は現在、単独で6本のレギュラー番組を抱える売れっ子芸人。しかも、そのほとんどの番組でMCを務めている。なぜ今、大久保がそんなに求められているのだろうか。  大久保の芸風やキャラクターに何か急激な変化があったのかというと、そんな様子は見受けられない。彼女はいつも淡々としている平熱芸人。昔も今も変わらないたたずまいで、与えられた仕事をこなしているだけだ。なんらかの転機があって、急に評価が高まったわけではない。  むしろ、彼女の強みは「変わらないこと」にある。大久保はもともと、芸能活動と平行して一般企業にも勤める「素人キャラ」として『めちゃ×イケてるッ!』(フジテレビ系)などに出演していた。そして、タレントとOLの二足のわらじを履く生活は、ごく最近まで続いていた。この二重生活を通して、大久保の「素人っぽさ」は純粋培養されていった。  普通、テレビタレントはテレビに出続けることで、どんどんタレントっぽくなっていく。テレビを見ている一般人との考え方や感じ方のギャップが少しずつ大きくなり、良くも悪くも芸能人らしくなっていくのだ。  だが、大久保はそうはならなかった。テレビの現場で多少ちやほやされることがあっても、翌日にはいつも通りの地味なOL生活という現実が待ち受けている。これでは調子に乗りたくても乗れない。しかも、お笑い芸人とは、女優やモデルのように女性としての自尊心を満たす仕事ではない。「ブス、ブス」と呼ばれ、笑われてなんぼの世界。大久保はいつまで経っても「プロの芸能人」を気取ることができなかった。  その結果、大久保は「それなりのキャリアがあって、それなりの年齢に達しているのに、素人っぽさが消えない」という不思議な属性を帯びることになった。彼女は夢も希望も持たず、タレントとして与えられた役割を淡々とこなすようになった。それが彼女の独特のスタンスにつながっていった。  大久保の代名詞といえば露骨な下ネタ。ただ、その下ネタには生々しさがなく、どこかカラッとしている。彼女は「下ネタを言う人」という役割を演じているだけ。その平熱ぶりが視聴者にも伝わっているからこそ、彼女の下ネタは支持されているのだ。  例えば、同じ女性芸人の下ネタでも、友近の下ネタとはずいぶん印象が違う。友近の下ネタはもっと生々しく、血と肉のにおいがする。女性としての「業」をまざまざと見せつけるような、赤裸々で毒々しい下ネタだ。一方、大久保の下ネタは無味無臭。毒にも薬にもならないからこそ、気楽に笑って見ていられる。  一般に、大久保佳代子という芸人は「大久保さん」と呼ばれる。この呼び方は『めちゃイケ』で一般人扱いされたときに誕生したものだが、今では世間の人も大久保を「大久保さん」と呼ぶことが多い。大久保がさん付けされるのは、彼女が一般人にとって「身内」だと思われているからだ。  芸能人は手の届かない存在だと思われているので、別世界の住人として呼び捨てにされることが多い。どんなに年上でどんなに実績があっても、「たけし」「さんま」などと呼び捨てにされるのが普通だ。だが、大久保だけは「大久保さん」と呼ばれる。それは、彼女が生粋の芸能人ではなく、会社の同僚ぐらいの身近な存在として世間に認識されているからだ。  ただ、大久保は素人っぽさを売りにしているが、ただの平均的な一般人ではない。彼女は一流大学卒のインテリで、そのユーモアは知性に裏打ちされている。下ネタや悪口が嫌みにならない品の良さがあり、後輩にも慕われている。外見はさておき、女性としてのスペックは意外なほど高い。  未熟という意味の素人ではなく、成熟した大人の素人。大久保は「最強の素人」という看板を背負って、スターがひしめく芸能界を華麗にハッキングしているのだ。 (文=お笑い評論家・ラリー遠田)

小籔千豊 するりと東京に進出した“ミスター座長”が操る「ひねくれ」と「クール」の境界線

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「プリン」(ネギヤキ)
 お笑いの世界では、東京と大阪の間に深い溝がある。大阪には関西固有のお笑い文化というものがあり、ナニワ芸人たちが独自の世界を築いてきた。そんな風土で育った関西の芸人が東京に出てくるときには、大なり小なり芸風を変えることを余儀なくされる。いわば、東京と大阪では周波数が違う。チューニングを間違えると、東京に足場を築くことができない。  お笑い東海道の難所である箱根の山を越えるとき、関西芸人は肩の力を抜いて「全国ネットのテレビで勝負をする」という覚悟を決めなければならない。  関西のテレビ業界は「大いなる内輪」である。テレビを見ている視聴者もテレビに出ている芸人やタレントも、同じ文化と価値観を共有しているから、タブーを気にせずのびのびと話ができる。  えげつない話や下世話な話が平気で飛び交う街の飲み会の延長線上に、トーク番組がある。毒も下品も下世話も温かく包み込んでくれる。それが関西のテレビだ。  でも、東京のテレビではそうはいかない。全国ネットのテレビはみんなのもの。さまざまな年齢と文化背景の視聴者が、テレビという交差点で交わる。そこでは、芸人は多数派に通じる笑いを提供しなければいけない。 「東京がナンボのもんじゃい!」 「東京モンには負けへんで!」  今どきこんな薄っぺらい考えの関西人はいないのかもしれないが、例えばこれに近い心構えで上京してくる関西芸人がいたとしたら、多くの場合、彼らは手痛いしっぺ返しを受けることになる。東京への過剰な対抗意識は、東京への劣等感の裏返しでしかないからだ。  そんな状況の中で最近、1人の宣教師がスルリと箱根の門をくぐった。「吉本新喜劇を東京に布教したい」という名目で、ちゃっかり東京行きの切符をつかんだ男。彼こそが今をときめくミスター座長、小籔千豊である。  小籔は『人志松本のすべらない話』(フジテレビ系)への出演をきっかけに、全国ネットへ進出。現在では、レギュラー番組を複数抱える売れっ子となっている。芸人としての彼の売りは、フリートーク、MC、いじり、例えなど、すべてを器用にこなす圧倒的な話術。しゃべりの基礎体力の高さが、彼の大きなアドバンテージになっている。  だが、それだけではない。彼の最大の魅力は、独自のひねくれたクールな視点だ。「ひねくれ」と「クール」は普通なら両立しないもの。ひねくれている人は冷静になれないし、クールな人はひねくれたりしない。ひねくれた精神を持ちながら、それをクールに表現できるのが小籔のすごさだ。  例えば、「一般人なのにプロの芸人のまねごとをして調子に乗ってはしゃいでいるやつがいた」という話をするとき、小籔は彼のことを「だんじりの上に乗って踊ってるやつ」と表現する。その例えを何度も繰り返して、冷ややかな目線で彼の言動を描写していく。淡々とした語り口で、偏見と独断を織り交ぜながら話を進めて、じわじわと笑いを誘う。独断を論理で補強して、激情を静かに語る。こんなトークができる芸人は、ほかにいない。  そこには、嫌われることを覚悟しながらも己を解き放つ捨て身の力強さ、時には相手を傷つけることもいとわない芯の強さがある。それができるのは、彼が大阪で伝統ある吉本新喜劇の座長を務めているからだろう。  座長という確固たるポジションを得ている小籔は、東京で安全策を採る必要がない。だからこそ、万人に伝わるかどうか分からない自分の芸風を、堂々と貫き通すことができる。それが、全国区の視聴者には新鮮な驚きと感動をもたらしたのだ。  ……とこれだけ語ってみても、小籔という芸人の笑いの本質を語り尽くしたとは思えない。語っても語っても、まだ裏がある、と思わせる底知れなさも彼の魅力である。  肉が食べられないベジタリアンとしても知られる小籔。実は彼自身がつかみどころのない「食えない男」でもある。小籔が本当に布教したいのは、吉本新喜劇ではなく、関西流の「えげつなさ」そのものなのかもしれない。 (文=お笑い評論家・ラリー遠田)