TBS『情熱大陸』に出たくてしょうがない漫画家が描く異色のコミックエッセイ『情熱大陸への執拗な情熱』

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『情熱大陸への執拗な情熱』(幻冬舎)
『情熱大陸への執拗な情熱』(幻冬舎)は、『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』(新潮社)で話題を呼んだ漫画家・宮川サトシ氏がウェブサイト「オモコロ」で発表した、『情熱大陸』(TBS系)に出たくて出たくてしょうがない日々を描いたコミックエッセイを書籍化した1冊だ。  宮川氏は、『情熱大陸』に出演すること=“上陸”と呼び、いつでも上陸できるよう心がけている。まずは、毎朝のジョギングを始める。それは健康づくりでもなんでもなく、ただ『情熱大陸』っぽい、という理由から。車を運転する時も、左折しながら受け答えができるよう訓練済みだ。洗濯物をたたむ時も、「この男の朝は洗濯物をたたむことで始まる……」「意外と庶民的な朝である」などと窪田等さんのナレーションを当てる。そうやって、己の生活を『情熱大陸』に寄せながら、日々生きている。  そんなある日、故郷の岐阜県で小・中学校が一緒だった幼なじみ、海洋生物学者のワタナベ(渡辺佑基)氏が、生物学界のインディ・ジョーンズとして“上陸”を果たす。宮川氏は信じられない思いでオンエアを確認すると、そこには懐かしの彼の実家、そして母校まで映し出されていた。12回くらい見返した結果、ロードバイク通勤などのいかにも『情熱大陸』な“大陸感”がだんだんとしゃくに障ってきたため、「ほかの同級生たちもイラッとしていないか正直なところを聞いてくる!」と、東京の自宅を飛び出す。だが、故郷の町で待ち受けていたのは、同級生たちの称賛の嵐だった――。  あまりの『情熱大陸』への出たさに、当時連載していた妖怪ギャグ漫画の中に、己の情熱大陸への執着心をなんの脈絡もなくぶち込んだこともあった。しかし、担当編集の感想はいまひとつ。「次からはもっと普遍性のある話でお願いしますね」と言われ、大きなショックを受ける。誰しもが『情熱大陸』への愛があるわけではないのだ。  さらには「押してばかりではいけない。大陸側を引き寄せよう」と、『情熱大陸』と距離を置く、“離陸”生活を始めたり、『情熱大陸』とは相反する『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)に魂を売りそうになったりしながらも、尽きない『情熱大陸』への愛を描いていく。  最終話では、本書の担当編集・高部さんとの、こんなやりとりが描かれている。 高部「そもそもあの番組を好きになったきっかけって何なんですか?」 宮川「高部さんは毎日食べてる白いご飯を好きになったきっかけなんて覚えています?」  そろそろ、葉加瀬太郎氏の「Etupirka」は聴こえてきただろうか? その飽くなき『情熱大陸』への情熱を応援したくなる1冊だ。 (文=上浦未来) ●みやがわ・さとし 漫画家。1978年生まれ。岐阜県出身。東京で暮らす地方妖怪たちの悲哀を描いたギャグ漫画『東京百鬼夜行』(新潮社)で2013年デビュー。最愛の人を亡くした哀しみを描いて多くの共感の声を生んだエッセイ漫画『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』(同)は、WEBマンガサイト「くらげパンチ」で累計500万PVを突破し、話題を呼んだ。著書に『宇宙戦艦ティラミス』(新潮社)、『そのオムツ、俺が換えます』(講談社)、『僕!! 男塾』(日本文芸社)など。

破壊神ゴジラに命を吹き込んだ男の汗だく昭和史! CGにはない重みと妙味を感じさせる『怪獣人生』

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『怪獣人生 元祖ゴジラ俳優・中島春雄』(洋泉社)
 2017年8月7日、ゴジラ俳優が亡くなった。1954年に劇場公開された大ヒット映画『ゴジラ』で、怪獣ゴジラのぬいぐるみ役者(スーツアクター)を務めた中島春雄さんが88歳の生涯を終えた。14年に新書版が発売された中島さんの自伝『怪獣人生 元祖ゴジラ俳優・中島春雄』(洋泉社)を読むと、怪獣映画の金字塔となる第1作『ゴジラ』の撮影現場の熱気をありありと感じることができる。 「G作品」と表紙に書かれた奇妙な台本を、東宝撮影所で中島さんが渡されたのは25歳のとき。当時の東宝は所属俳優がおよそ200人いたが、スター級の「Aホーム」と大部屋俳優の「Bホーム」とに分かれていた。「Bホーム」はさらに2つに分かれ、東宝に入って5年目になる中島さんはエキストラや吹替え(スタント)もやるB2の役者だった。  戦争映画『太平洋の鷲』(53)で火だるまになる飛行兵を中島さんが演じたことから本多猪四郎監督に気に入られ、極秘に準備が進んでいた「G作品」の主演に抜擢された。特撮シーンを担当する円谷英二から「キツい仕事だけど、やれるかい?」と尋ねられるが、給料が安いB2の役者にとっては手当てが付くキツい仕事は大歓迎だった。しかも、中島さんは交際中だった奥さんとそろそろ身を固めようと思っていた矢先だった。かくして、中島さんは身長50mの大怪獣という設定のゴジラのぬいぐるみの中に入ることになる。  元祖ゴジラ俳優と呼ばれる中島さんだが、実はゴジラのぬいぐるみには先に入った俳優が存在した。仲間内からテッチャンと呼ばれた手塚勝巳という元プロ野球選手。当時41歳で、大部屋俳優の親分的存在だった。当初はプロ野球出身の体力自慢で年齢も上だったテッチャンが、国会議事堂の破壊シーンなどの目立つ場面が割り当てられたが、撮影が進むにつれて中島さんがゴジラの中に入る時間が増えていく。初期のゴジラのぬいぐるみは尋常ではないほどの重さで、100kgほどあったと言われている。また、一度入ればぬいぐるみの中はサウナ状態で、しかも素材はプラスチックのように固いゴムだったことから動かすことが非常に難しかった。最初のテストの段階でテッチャンが3メートルほど進んだ後に倒れて「とても無理だ!!」と声を荒げたのに対し、中島さんは体中から汗を吹き出しながらも「よーし、もういいよ」と声を掛けられるまで10メートルほど歩いてみせた。中島さんは学生時代に柔道を学び、戦時中は海軍で鍛えられていた。終戦後は食べていくために、どんな仕事でもやった。若くて、仕事を選り好みせず、またどうすれば怪獣らしい表現ができるか研究熱心だった中島さんは、次第 にゴジラと一体化し、スーツアクターの第一人者となっていく。  ぬいぐるみに入ることの大変さを東宝の上層部に訴え、手当てのアップに成功するなど中島さんにとってもありがたい存在だったテッチャンだが、第2作『ゴジラの逆襲』(55)以降は中島さんがメインでゴジラに入るようになり、『モスラ対ゴジラ』(64)の頃にはテッチャンは中島さんのサポート要員に回るようになっていた。ゴジラのぬいぐるみに入った際の2人の微妙な温度差が、中島さんに「元祖ゴジラ俳優」の称号をもたらすことになった。テッチャンのその後消息については不明だ。有名無名を問わず、様々なキャストやスタッフが撮影所に現われては消えていった。大部屋俳優でありながら、ゴジラ役で主演を張り続けた中島さんは希有な存在だったと言えるだろう。  第1作『ゴジラ』で中島さんが入ったゴジラは、銀座和光の時計塔や勝どき橋を豪快に壊してみせた。第1作から第29作『シン・ゴジラ』(16)まで度々にわたって東京を壊滅状態に追い込んだゴジラだが、これまで一度も皇居を破壊したことはない。第1作『ゴジラ』では皇居を迂回するようなコースを辿っている。そのため、ゴジラ=太平洋戦争で散った戦没者たちの魂の集合体とする説が唱えられてきた。だが、実際問題として海軍に所属していた中島さんに、ミニチュアとはいえ皇居を破壊することができただろうか。ゴジラ役にプライドを持ち、上野動物園に通ってアジアゾウ、クマ、ハゲタカなどの動きを1日中観察し、ぬいぐるみの中で汗だくになりながら熱演を続ける中島さんに、本多監督も円谷英二もそんな演出プランが仮にあったとしても、口にはできなかったに違いない。 『ゴジラ』シリーズ以外にも、馬淵薫脚本の名作『空の大怪獣ラドン』(56)、『マタンゴ』(63)、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(66)などにも出演している中島さん。『怪獣人生』では「オヤジさん」と呼んで慕った円谷英二たちと過ごした撮影所での思い出を楽しげに語っている。本著の中で中島さんの言葉に怒りが滲むのは、70年に円谷英二が亡くなった翌年、東宝が大部屋俳優の一斉リストラを行なったとき。中島さんをはじめ希望者にはボウリング場など東宝の関連会社への再就職が斡旋されたが、社員スタッフは最初から役付きだったのに対し、大部屋俳優たちは平社員としての契約で、薄給を余儀なくされた。同じ映画をつくるために苦労を共にしてきた仲間なのに、社員と契約俳優とで差をつけられたことが中島さんは悔しかった。  でも、晩年の中島さんは大スター級の好待遇を受ける充実した時間を過ごすことになる。初代ゴジラのスーツアクターとして中島さんは海外でも名前を知られ、ハリウッド版『GODZILLA』(98)の公開以降はファンイベントで引っ張りだことなっていく。奥さんや娘さんと共に海外旅行を楽しみ、各地のファンからサイン攻め&握手攻めに逢った体験をにこやかに振り返っている。俳優としてスクリーンに自分の顔が映る機会は少なかったが、ゴジラと一体化したことで中島さんは伝説のスーツアクターとして映画史にその名を刻んだ。  中島さんが最後にゴジラを演じたのは、シリーズ第12作『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』(72)だった。『ゴジラ対ガイガン』のラストシーン、怪獣島へと引き揚げていくゴジラは手を挙げて咆哮してみせる。中島さんいわく「ゴジラはこれで終わり」という決め芝居だったそうだ。 (文=長野辰次) ●『怪獣人生 元祖ゴジラ俳優・中島春雄』 著/中島春雄 発行/洋泉社 定価/925円(税別)
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「警察庁長官狙撃事件」の真犯人はなぜ黙殺された? 凶悪犯たちの肉声を聞け!『昭和・平成 日本の凶悪犯罪100』

「警察庁長官狙撃事件」の真犯人はなぜ黙殺された? 凶悪犯たちの肉声を聞け!『昭和・平成 日本の凶悪犯罪100』の画像1
『昭和・平成 日本の凶悪犯罪100』(宝島社)
 いつの時代も、殺人、強姦、強盗、放火など、スキャンダラスな事件が起こるたびに報道合戦は過熱、疑者の生い立ちや精神分析、近所の住人のコメントなど、さまざまな側面が取り沙汰される。だが、過熱するメディアの報道が、本人の声を取り上げることは少ない。そして、一定の時間がたつと、「世間を震撼させた」事件のニュースバリューはなくなり、別の話題へと移り変わっていく。  別冊宝島編集部による『昭和・平成 日本の凶悪犯罪100』(宝島社)は、凶悪犯罪の犯人たちの肉声を取材したルポライターによる記事を集めた一冊。塀の中で、凶悪犯たちは深い反省に沈むばかりでなく、時に冤罪を主張し、時に意気揚々と自分の「功績」を語っている。そんな彼らの素顔を、本書からのぞいてみよう。  2015年、淡路島で5人を殺害した平野達彦は、神戸拘置所の面会室でルポライター・片岡健に対面すると、真顔で事件の真相を「ブレインジャック」と答えた。犯行の数年前からFacebookやTwitterなどで「日本政府は何十年も前から各地で電磁波犯罪とギャングストーキングを行っている」と訴え、近隣住民を「日本政府の工作員」と中傷。裁判では「被害者は私であり、私の家族です」と語っている。判決公判で死刑を宣告されるも、顔色ひとつ変えなかった理由について「電磁波攻撃という、死刑以上のことを何年もされていますからね」と、悪びれる様子もない。彼は、いまだ被害者に謝罪するどころか、電磁波攻撃という妄想をまくし立てている。 「桶川ストーカー殺人事件」は、一定以上の年代であれば、ほとんどの人が覚えている事件だろう。1999年、JR桶川駅前で女子大生の猪野詩織さんが、元交際相手・小松和人の配下の男によって刺殺されたこの事件。主犯である和人が屈斜路湖で自殺したことにより、真相解明は困難を極めた。裁判の結果、和人の兄である小松武史がこの事件の首謀者のひとりとされたものの、彼はその容疑を否認し続けている。取材に対して、武史は「脅しをかけられた」「恐ろしい」と、弟に対する恨みつらみを証言。また、実行犯である久保田祥史も、裁判の中で「武史からの依頼であると、虚偽の供述をしていた」と認め、冤罪の可能性は高まる。この事件では、埼玉県警上尾署が詩織さんからの被害相談に対してずさんな対応をしていたことから批判にさらされたが、その裁判の結果も同様にずさんなものだった可能性が持ち上がっているのだ。   地下鉄サリン事件の直後となる、95年3月30日に、当時の警察庁長官・國松孝次が狙撃され、重傷を負った事件は、犯人が見つからないまま、10年に時効を迎えた。しかし、この事件の「真犯人」だと自ら主張しているのが中村泰という人物。02年に名古屋で現金輸送車を襲撃し、無期懲役刑に服している中村は、チェ・ゲバラに憧れ、ニカラグア革命戦争に参加すべくアメリカで射撃の腕を磨く。そんな彼は、地下鉄サリン事件以降も、容疑者を検挙できない警察の対応に業を煮やし、オウム信者を装って警察庁長官を狙撃することで警察のオウムに対する危機感を煽ろうとした。長官狙撃事件をオウムによる犯行と踏んだ警察は、次々と信者を逮捕。中村のもくろみは成功を収めた。だが、「世に知られないままに消えてしまうことに多少とも心残りを覚えていた」という中村は、時効成立前から狙撃事件の犯人であることを自供する。しかし、そんな「真犯人の証言」は、警視庁公安部がかたくなに否定したといわれている。真相は、いまだ闇の中だ。  凶悪犯たちの胸の内は、必ずしも裁判だけで明らかにされるものではない。塀の中までを取材し、事件の真相を解明しようとするルポライターたちの執念に脱帽するばかりだ。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

た、たまらん! ちっぱいから巨乳まで、全男子の夢をかなえる写真集『原寸大おっぱい図鑑』がヤバい!!

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『原寸大おっぱい図鑑』(一迅社)
 人気グラビアアイドル総勢30人のおっぱいを原寸大で掲載した写真集『原寸大おっぱい図鑑』(写真:須崎祐次/一迅社)が、ネット上を中心に話題となっている。  8月1日の「おっぱいの日」の翌日に発売された本書は、菜乃花や青山ひかる、森田ワカナをはじめ、A~Kカップまでを網羅。さらに、独自の“π周り”データ(脇から谷間までの距離)や“やわらかさ”まで掲載されているというから、まさに男性にとっては夢のような写真集だ。  担当編集の前田さん(女性)によると、「もともとは職人さんやお相撲さんの手のひらを原寸大で載せて比べるという企画を考えていたんですが、それでは面白くないということで、『じゃあ、おっぱいだったらどうですか?』と提案したら、編集部内ですごい盛り上がりまして……」という。  実は前田さん、これまでに天木じゅんの写真集『もしもうちの猫がかわいい女の子になったら』や、『なぞって楽しむ おっぱい練習ドリル』『wrap the BOOBs 着衣巨乳写真集』などを手がける、一迅社の“おっぱい担当”。本書には、女性ならではのこだわりも光っているようで……。 「“図鑑”ということで、あまりゲスい感じにならないよう、資料みたいな感じで、きれいめなデザインにしました。また、おっぱいを美しく見せるために、見開きではなく単ページにおっぱいを掲載しました。その結果、B4サイズという、かなり大きめの書籍になってしまいましたが(笑)」(同)  今回登場する30人のグラドルは、ネットなどで人気をリサーチし、最終的に50人からセレクトしたという。AカップからKカップまで網羅するというコンセプトだったが、意外にもAカップは少なく、見つけるのに苦労したとか。逆に一番多いのはEカップだったという。  ちなみに、本書に掲載されている“π周りデータ”とは、いったいなんなのか? 「これは完全にオリジナルなんですが、結局、カップ数って、トップとアンダーの差になるので、トップがすごくあってもアンダーが大きかったりすると、カップ数も下がってしまうんです。でも、今回は純粋におっぱいの大きさが知りたいということで、おっぱいの円周というか半周を測りました。あとは、やわらかさもあったほうが妄想しやすいかなと(笑)。やっぱり紙の難点は触れられないことなので……」  そのほか、巻末ではおっぱいの形についても解説。前田さんいわく、「しずく型(正面から見るとしずくが垂れているように見えるおっぱい)って、あまりいいイメージがない方もいると思うのですが、大きくなればなるほど、しずく型になる傾向にあるので、実は幸せな形なんです。また、今回登場したグラドルの中には、なかなかお目にかかれない半球型(全体に均等のふくらみがあり、バランスのとれたおっぱい)の方や、マンガでしか見たことのないつりがね型もいらっしゃいました」とのこと。  現在、第2弾も構想中で、「今度はグラドルではないバージョン」ということなので、楽しみに待ちたい。

個人的な記憶が染みついた、70枚70通りのTシャツ物語『捨てられないTシャツ』

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『捨てられないTシャツ』(筑摩書房)
 Tシャツの捨て時とは、いつなのか?  首元がよれよれになって破れたり、イラストがはげたり、「あまりにも」みすぼらしくなった時だろうか。Tシャツは、そう高い代物ではないにもかかわらず、何年も捨てられないことがよくある。 『捨てられないTシャツ』(筑摩書房)は、都築響一氏の有料週刊メールマガジン「ROADSIDE’ weekly」上で毎週連載されていた記事をもとに構成された1冊だ。  都築氏はTシャツについて、いつ頃からか、こんなことに気づく。通常、ファッションは値段が高かったり、有名ブランドだったり、誰が見ても「ヨシ」とされるものがリスペクトされるワケだが、Tシャツは違う。「誰も見たことないもの」や、「ヨシなのかダメなのか判断に迷う」ほうがリスペクトされたりする。そして、「ヨシなのかダメなのか判断に迷う」Tシャツには、着用する本人の確固たる意思や、根拠のない自信、なによりも個人的な記憶が染みついていることが多々あるのだ。  本書に登場するTシャツの持ち主は、年齢、性別、職業だけが記載されている。この話はあの人だな、とわかるようなかなり著名人の場合もあるが、9割方は一般人。けれど、一般人から語られるTシャツ物語にこそ、とてつもないすごみがある。  例えば、福島県出身/デザイナー/33歳女性の場合。  彼女の家はちょっと変わっていた。7人暮らしで、父親と母親は、町で変わり者呼ばわりされているじいちゃんに働いた金をすべて上納し、1カ月約1万円で、家計のやりくりを命じられていた。母親は発狂してはたびたび実家へ帰り、戻ってきては、じいちゃんにコテンパンに叱られる。そんな日々の中、父親がじいちゃんの命を狙って風呂場を襲撃するも、失敗。そこで、家族そろって夜逃げ同然で家を出た。健康ランドで1カ月過ごした後、父親の就職が決まって埼玉へ。学校生活は順風満帆だったが、両親の仲は破綻し、友達に何も告げられないまま、父親と福島へ戻ることに。ところが、福島では“標準語で気取っている”とイジメに遭い、不登校で勉強が遅れ、高校受験も失敗。荒れに荒れた生活の中、父親が再婚。家からも追い出され、16歳で付き合っていた彼氏の家に預けられる。親にも見放された時に、味方してくれていたばあちゃん。そんなばあちゃんを描いたオリジナルTシャツ――。  ものすごく要約してしまったが、このドラマにもなりそうな濃厚さは、なんなのか? 本書には1ページでさらっと書かれた話もあるが、多くは数ページを費やして、Tシャツの持ち主がどんな家庭環境で育ち、青春時代をどんなふうに物事を考えて過ごし、社会へ飛び出して今に至るのかまでつながっていく。そういった人生の回想録のようなものであり、15ページにも及ぶ短編小説レベルのものまである。  音楽を聴くと、あの頃を思い出すように、捨てられないTシャツには、個人の何か強烈な記憶を呼び覚ますスイッチがあるのかもしれない。 (文=上浦未来) ●つづき・きょういち 1956年東京生まれ。編集者。現代美術・建築・写真・デザインなどの分野で執筆活動、書籍編集を続けている。93年、東京人のリアルな暮らしを捉えた『TOKYO STYLE』(ちくま文庫)を刊行。97年、『ROADSIDE JAPAN』(ちくま文庫)で第23回木村伊兵衛写真賞を受賞。現在も日本および世界のロードサイドを巡る取材を続けている。2012年より有料週刊メールマガジン『ROADSIDERS'weekly(http://www.roadsiders.com/)を配信中。Tシャツのサイズは3L。

個人的な記憶が染みついた、70枚70通りのTシャツ物語『捨てられないTシャツ』

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『捨てられないTシャツ』(筑摩書房)
 Tシャツの捨て時とは、いつなのか?  首元がよれよれになって破れたり、イラストがはげたり、「あまりにも」みすぼらしくなった時だろうか。Tシャツは、そう高い代物ではないにもかかわらず、何年も捨てられないことがよくある。 『捨てられないTシャツ』(筑摩書房)は、都築響一氏の有料週刊メールマガジン「ROADSIDE’ weekly」上で毎週連載されていた記事をもとに構成された1冊だ。  都築氏はTシャツについて、いつ頃からか、こんなことに気づく。通常、ファッションは値段が高かったり、有名ブランドだったり、誰が見ても「ヨシ」とされるものがリスペクトされるワケだが、Tシャツは違う。「誰も見たことないもの」や、「ヨシなのかダメなのか判断に迷う」ほうがリスペクトされたりする。そして、「ヨシなのかダメなのか判断に迷う」Tシャツには、着用する本人の確固たる意思や、根拠のない自信、なによりも個人的な記憶が染みついていることが多々あるのだ。  本書に登場するTシャツの持ち主は、年齢、性別、職業だけが記載されている。この話はあの人だな、とわかるようなかなり著名人の場合もあるが、9割方は一般人。けれど、一般人から語られるTシャツ物語にこそ、とてつもないすごみがある。  例えば、福島県出身/デザイナー/33歳女性の場合。  彼女の家はちょっと変わっていた。7人暮らしで、父親と母親は、町で変わり者呼ばわりされているじいちゃんに働いた金をすべて上納し、1カ月約1万円で、家計のやりくりを命じられていた。母親は発狂してはたびたび実家へ帰り、戻ってきては、じいちゃんにコテンパンに叱られる。そんな日々の中、父親がじいちゃんの命を狙って風呂場を襲撃するも、失敗。そこで、家族そろって夜逃げ同然で家を出た。健康ランドで1カ月過ごした後、父親の就職が決まって埼玉へ。学校生活は順風満帆だったが、両親の仲は破綻し、友達に何も告げられないまま、父親と福島へ戻ることに。ところが、福島では“標準語で気取っている”とイジメに遭い、不登校で勉強が遅れ、高校受験も失敗。荒れに荒れた生活の中、父親が再婚。家からも追い出され、16歳で付き合っていた彼氏の家に預けられる。親にも見放された時に、味方してくれていたばあちゃん。そんなばあちゃんを描いたオリジナルTシャツ――。  ものすごく要約してしまったが、このドラマにもなりそうな濃厚さは、なんなのか? 本書には1ページでさらっと書かれた話もあるが、多くは数ページを費やして、Tシャツの持ち主がどんな家庭環境で育ち、青春時代をどんなふうに物事を考えて過ごし、社会へ飛び出して今に至るのかまでつながっていく。そういった人生の回想録のようなものであり、15ページにも及ぶ短編小説レベルのものまである。  音楽を聴くと、あの頃を思い出すように、捨てられないTシャツには、個人の何か強烈な記憶を呼び覚ますスイッチがあるのかもしれない。 (文=上浦未来) ●つづき・きょういち 1956年東京生まれ。編集者。現代美術・建築・写真・デザインなどの分野で執筆活動、書籍編集を続けている。93年、東京人のリアルな暮らしを捉えた『TOKYO STYLE』(ちくま文庫)を刊行。97年、『ROADSIDE JAPAN』(ちくま文庫)で第23回木村伊兵衛写真賞を受賞。現在も日本および世界のロードサイドを巡る取材を続けている。2012年より有料週刊メールマガジン『ROADSIDERS'weekly(http://www.roadsiders.com/)を配信中。Tシャツのサイズは3L。

年間被害総額は400億円! バッタ博士の狂気の奮闘記『バッタを倒しにアフリカへ』

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『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書)
『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書)の表紙を一瞥すれば、なんとフザけた学者なのか……と、あきれてしまうかもしれない。昆虫学者の前野ウルド浩太郎氏は、幼少期にファーブルに憧れ、夢は「バッタに食べられること」という、バッタを愛してやまない男だ。だが、バッタに触るとじんましんが出てしまうという、どこかキワモノ感が漂っている……。  しかし、彼のアフリカ・モーリタニア共和国でのフィールドワークを記した本書を読めば、彼が一流の昆虫学者であると同時に、純粋な心でバッタと向かい合うひとりの人間であることがわかるはず。ポスドク(博士研究員)として研究費の調達に悩み、バッタの大発生を粘り強く待ちながら、ようやく彼は成功を手に入れたのだ。  本書をもとに、彼の足跡をたどってみよう。  大学を卒業し、晴れて博士号を取得するも、日本にはほとんどバッタの被害がないために、研究の需要はない……。途方に暮れていた前野が飛びついたのが、アフリカでのサバクトビバッタの研究だ。アフリカでは、このバッタがたびたび大量発生し、「神の罰」と恐れられている。農作物を食い荒らし、年間の被害総額は西アフリカだけでもおよそ400億円に上るうえ、深刻な飢饉がもたらされているのだ。前野は「日本学術振興会海外特別研究員」として年間380万円の研究費・生活費を得て、2年間をモーリタニアでの研究に捧げた。  到着早々、バッタの発生が告げられ、意気揚々と調査に繰り出す前野。夢にまで見たバッタの大量発生を目の当たりにし、大興奮する。それまで日本の研究室で研究を行ってきた彼にとって、初となるフィールドワークは、好スタートを切った。しかし、ここからが長い長い道のりだった……。  前野はその熱意を認められ、バッタ研究所の所長から直々にモーリタニアで最高の敬意を込めたミドルネーム「ウルド」の名前を授かり、フィールドワークに赴くための体力づくりにも余念がない。しかしその冬、建国以来といわれる大干ばつに見舞われたモーリタニアにバッタの大群が現れることはなかった。仕方なく、砂漠を代表する昆虫「ゴミムシダマシ」を研究したり、偶然出会ったハリネズミを飼育したりしながら日々を過ごす前野。バッタが発生しなければ、もちろん研究もできない。「一体何しにアフリカにやってきたのか」。バッタ博士は、バッタの存在なくしては無用の長物だった。さらに、バッタの大量発生を解明する論文が書けなければ、研究者としての立場も危うくなる……。  そして、最初の遭遇から1年半、ようやくバッタの大群との邂逅が実現! 車に飛び乗り、バッタの元へと500キロの道程を突き進む彼の前に現れたのは、はるか地平線まで続くバッタの大群だった。大群を目の当たりにした感動に酔いしれながら、調査を始めた前野。しかし、飛び回るバッタを追いかけようとしたその先に待っていたのは、一歩立ち入れば命の保証はない地雷原だった。バッタたちは、前野をあざ笑うかのように、地雷原の上を飛び去っていった。  こうして、前野の2年間は終わった……。  研究期間を終え、無収入状態に陥った前野。しかし、バッタに対する尽きせぬ想いを捨てられない彼は、無収入であっても、その研究を進めていくことを決めた。日本に一時帰国し、バッタ研究の意義を広く知らしめ、バッタ問題の認知度を上げるため、率先して雑誌連載やトークショー、そしてニコニコ超会議などの場での広報活動にいそしんだ。そして、再び彼はいちるの望みをかけて、アフリカの地へと舞い戻ったのだ。  前野にとって3年目のアフリカは、例年にない大雨に見舞われ、各地でバッタの大群が猛威を振るっていた。バッタ発生の一報をつかみ、現場に飛び込んだ前野が見たのは、これまでに遭遇したものとはケタ違いの、空が真っ黒く覆われるほどの大群。念願の再会に、前野は観察ノートにペンを走らせながら、狂ったようにデータを収集していく。数日間にわたってバッタを追いながら、前野の手にはさまざまなデータが蓄積されていったのだ。その詳細な観察は、群れの動く法則すらも見えてくるほどだったという。前野の情熱は、この瞬間にようやく実を結んだ。  バッタへの情熱、自然の前になすすべもない悔しさ、不足する研究費、量産されるポスドクによって就職難にあえぐ苦しみ、そして、そんな苦悩をついに打ち破る瞬間……。かつて、これほどまでドラマティックなバッタ研究についての本があっただろうか? 残念ながらバッタに食べられるという夢こそかなわなかったものの、前野は無事日本での研究者としての椅子を手に入れることにも成功した。バッタ博士は、今日もバッタを観察しながらニヤニヤとした笑みを浮かべていることだろう。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

「佐藤秀峰さんには頭が上らない……」『やれたかも委員会』吉田貴司の屈辱の日々と、ウェブ漫画家としての生きる道

「佐藤秀峰さんには頭が上らない……」『やれたかも委員会』吉田貴司の屈辱の日々と、ウェブ漫画家としての生きる道の画像1
(c)吉田貴司
 最近ではウェブ上での展開を中心にしている漫画も増えてきたが、その中でも異彩を放つ作風で話題となっているのが『やれたかも委員会』だ。  あの時、もう一歩踏み出していたら、あの娘とやれたんじゃ……。  そんな甘酸っぱ~い思い出を『やれたかも委員会』が「やれた」のか「やれたとは言えない」のか判定するというこの作品は、新作が公開されるたびに「いや、やれただろう!」「ねーよ!」などのザ・不毛な議論がネット上でヒートアップし、作品外での盛り上がりも見せている。  有料サイトで連載され、それをまとめた第1巻が双葉社より6月28日に発売。さらに2巻に向けての制作費を募るクラウドファンディングもスタートと、紙の雑誌で連載して原稿料をもらうという形ではない、ネット発のヒット作となった『やれたかも委員会』。  ネット時代の漫画家は、どうやって生き抜くべきなのか!? そしてネット漫画で本当に食えるの? ……などなど、作者の吉田貴司氏に聞いた。

■「ハンバーグはおいしかったけど、それでいいんですか?」

――まず、どんな漫画を読んで育つと、こういう作風になるのかを聞きたいんですが。 吉田貴司氏(以下、吉田) 小学校の時に初めて買った漫画が『ドラゴンボール』です。それから『幽☆遊☆白書』『3×3EYES』などを読んできて……。19歳でフリーターになり、その期間にすごく漫画を読んでいましたね。星里もちるさんのラブコメとか、福本伸行さんの『カイジ』とか、だんだんと青年漫画を読むようになって。だから、自分で漫画を描く時も青年誌っぽい作品になりました。 ――投稿を始めたのも、その頃? 吉田 21歳で持ち込みを始めました。大阪出身なんで、夜行バスで東京まで出て出版社を回ったんですけど、どこに行っても全然ダメでしたね。そのまま、22歳になっても一向に漫画家になれなくて。彼女にも「漫画あきらめたほうがいいよ」なんて言われて、ハンバーグ屋さんに就職したんです。そしたら福岡県の店に転勤になって、タコ部屋……もとい社員寮で暮らしながら、朝から晩まで働いていました。 ――社員寮じゃ、漫画を描くのは難しいですよね。 吉田 描けなかったですね。フリーター時代に親友が2人いたんですよ。ひとりは音楽やってて、もうひとりが漫画描いてて。誰かの家に行って、この間読んだ本がああだこうだって話をするような仲間だったんです。僕が就職して、九州に行ってしばらくした頃に2人が店に来て、うれしくてハンバーグをごちそうしたんですけど、アンケートに「ハンバーグおいしかったです。でも、吉田くんはそれで本当にいいんですか?」って書いてあって。 ――青春ですね! クリエイター志向の3人だったのに、それでいいのかよと。 吉田 それを伝えに九州まで来てくれたというのに感動したのかなんなのか、その後いろいろ悩んだ末に仕事は辞めることにしました。それで、大阪に戻ってまたバイトをしながら漫画を描いていたんですが、「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)で初めて「これ面白いね」って言ってもらえたんですよ。その漫画で努力賞1万円をもらって、うれしくって東京に出てきました。 ――え、1万円もらっただけで!? 吉田 編集者も「何しに来たの?」って言ってましたね(笑)。それから日雇いバイトとかやりながらネームを描いたら「増刊に載っけてあげる」ということになってトントン拍子にデビューできて、このまま行けるのかなーと思ってたら……なんともならなかったですね。その頃、担当から「佐藤秀峰さんがスタッフ募集しているけど、行く?」って言われて、作画スタッフになりました。 ――絵柄も何も、全然違うじゃないですか! 吉田 佐藤さんが僕のデビュー作を読んで「すごい面白かった」と言ってくれたらしくて。佐藤さんにはそれから10年以上たった今でも、お世話になりっぱなしですね。絵柄も何も違いますがなんとか雇ってもらえて、ご飯が食べれました。もちろん、仕事は厳しい面もありましたが。 ――佐藤さんのところで、何を描いてたんですか? 吉田 紙コップとか(笑)。お察しの通り、僕は絵がヘタなんで、なんにも描けないんです。佐藤さんのところって、雇用期間が3年間なんですよ。3年たってダメだったら、漫画家の道をどうするか考えなさいという方針で。でも、僕は1年、2年たってもうまくならないし、下にうまいスタッフがドンドン入ってくるし。絵は毎日リテイクの繰り返しだし、2年半たった頃が地獄でしたね。 ――その頃、自分の漫画は描いていたんですか? 吉田 スタッフに入った当初は佐藤さんの原稿を目の当たりにして、自信喪失してしまいました。「こりゃもう何を描いても仕方ないな」と。みんな陥るらしいですけどね。でも、作画スタッフの仕事がまったくうまくいかないので、逃避のために自分の作品を描きたくなるんですよ。それで描いたものを「モーニング」(講談社)に送ったら、ちばてつや賞の準入選をもらえて。その後、『フィンランド・サガ(性)』という作品で連載させてもらえることになりました。 ――おお、初連載ですね。それで、佐藤さんのところから独立できたんですか? 吉田 しばらくは兼業で描いてたんですけど、2年10カ月目くらいで辞めさせていただきました。月刊連載で20ページ、20万円もらえたので、1人で描いてる分には食べていけたので。でも、それも3巻くらいで終わっちゃって。すぐに次が始まると思って余裕かましてたら全然ネームが通らないし、ほかのところに持っていっても、賞には入っても連載できないみたいな、3年ぐらいそんな生活でしたね。
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■作画家・編集者とモメて泥沼の展開に

――そんな時期に『やれたかも委員会』も描いていたんですよね。 吉田 そうなんですよ。第1話は2013年に描いています。くすぶっている時期に読み切りをたくさん描いていて、その中の1つでした。『やれたかも委員会』は「ビッグコミックスペリオール」(小学館)で奨励賞をもらったんですが、連載にはならなかったですね。あの形式だと、どうしてもオチがワンパターンになっちゃうと言われて……。 それから別の作品を描き始めて、15年に「これは面白いぞ」というものができたんですね。その『シェアバディ』という作品で連載をやれることになったんです。……絵がダメだから、原作者として。 ――それまでの期間って、何をやって食べていたんですか? 吉田 『フィンランド・サガ(性)』が終わってからは工場で働いていたんですけど、その工場も1年くらいで潰れちゃって。困り果てて、佐藤さんのところに行ったら「ウェブの仕事だったらあるけど、やる?」って言っていただけて。でも、1年くらいたった頃に『シェアバディ』の連載が決まったんで辞めました。 ――勝手ですねー! 吉田田 本当に申し訳ないです。でも初の週刊連載だし、ここは勝負かけようと思ってしまいまして。……その『シェアバディ』も、半年で打ち切られるんですけどね。作画家・編集者とモメるという泥沼の展開になっちゃいまして。 僕は話をじっくり考えたかったんで、持ち込む前に100ページ、連載が始まるまでに200ページ描きためていたんですよ。ところが、始まったら「人気がドベだから話を変えろ」っていうことになって。それまでは絶賛してたくせに。でも、先まで決まってるし、変えられないですよ。別案を作っても、元のクオリティーを下回るのがわかってますから。そしたら、作画家・編集者とで勝手に話を変えちゃったんです。 ――え、そんなことあるんですか! 吉田 そうなんですよ。原作者の僕が知らないキャラを出されても、困るじゃないですか! だから、最後の3巻は読んでもいないですね。……思い出したら、泣きたくなってきました。 それで連載が終わって、また佐藤さんのところに頭を下げに行って……。 ――ええーっ! 吉田 辞めて半年で戻っちゃって(笑)。頭が上がりませんよ、もう。
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■『やれたかも委員会』が話題になってザマア!

――再び佐藤さんのところで働きつつ、自分の作品も描いていた? 吉田 描いてはいたんですけど、『シェアバディ』の泥沼で心が折れ、もう編集者と何かをするのがイヤになっちゃって。だったら、ネットで描いて自分で電子書籍を出せばいいんじゃないかなと思うようになりました。 ――ネットでの展開というのは、佐藤さんの影響も大きいんじゃないですか? 吉田 そうですね。佐藤さんのところで電子書籍の仕事を担当してたので、電子書籍のストアのことや契約の仕方など、見て勉強させていただきました。それで、自分でネット展開するに当たって、どうすればいいかなと考えて、まあ考えてもわからないので、とりあえずTwitterに1ページ漫画を毎日上げるというノルマを課しました。それが16年の2月くらいのことです。 ――それ、お金にはならないですよね? 吉田 ならないですね。とりあえずいろいろと発信して、フォロワーを増やそうとしました。それから同人誌とか作って、500人くらいに売れるようになれば、別にいいかな……と思ってました。でも、最初はフォロワー700人くらいしかいなかったし、知り合いばっかりだったんで、作品を載せてもぜんぜん反応ないんですよ。毎日スベリ倒しで、心がバキバキに折れました。 ――それでも、編集者と一緒にやるよりはマシだと? 吉田 そうですね。 ――Twitterで初めて反応があったのは、いつ頃ですか? 吉田 『やれたかも委員会』がバズッたのが16年の9月なんですけど、それまでほとんど無反応でしたね。女の子がおじさんの気持ちを言う、みたいな漫画が1000RTいったくらいで。それから、9月に1万RTいったネタがあり、そのタイミングで過去の『やれたかも委員会』をネットの有名人の方が見つけてくれて、おかげでものすごく拡散しましたね。  13年にはブログとnoteに上げていたんですけど、それまではまったく無反応でしたから。16年4月に続編として『やれたかも委員会2』を描いて、noteで100円で販売したんですけど、それも4個しか売れず。 ――400円……。 吉田 振り込み手数料を引かれるから、振り込まれもしないんですよ。 ――でも、Twitterに漫画を上げ続けていたことによって、やっと『やれたかも委員会』に日の目が当たったと。 吉田 はい、「1」が20万PVいって、「2」も300個くらい売れて。「なるほどー、バズると、こういうことになるのか」と。そのタイミングでいろんな版元さんから「連載しませんか?」「書籍化しませんか?」って声をかけていただきました。ただ、連載をして原稿料をもらえるというのは魅力的だったんですが、やっぱり……電子書籍の権利を自分で持ちたかったんですね。それを要求したら、どこも通らなかったです。 ――佐藤秀峰さんレベルが要求したら通るけど……。 吉田 まあ、普通に考えて紙書籍のみで「原稿料が回収できるくらい利益になる」と思われないと、その条件はのんでもらえませんよね。打ち合わせで電子書籍の権利の話を出すと、みんな顔色変わるんですよ。「吉田さんと、そんな話はしたくなかった」と。 ――連載の話がナシになっても、電子書籍の権利は押さえたかった? 吉田 やっぱり、収入面についてももちろんそうですが、いろんな側面から電子書籍の権利を持つのは重要だと思います。実は、『フィンランド・サガ(性)』は佐藤さんの会社経由で電子書籍化してるんですよ。その時は電子書籍のことが出版契約書に盛り込まれていなかったので、自分で権利を持ってたんですね。一度、佐藤さんの漫画がセールでバーンと売れたことがあったんですが、僕の漫画もついでに売れて、100万円くらい収入がありました。その経験があったので、これを他人に渡しちゃう手はないなと。 ――とはいえ、noteの有料課金では、3万円くらいしか入っていないわけじゃないですか。原稿料のほうがよかったんじゃないですか? 吉田 いろんな人がその目先にとらわれて、契約に縛られたり、打ち切られたりしているのを見ているんですよ。権利を自分で持って継続して販売していけば、そのうち原稿料分はペイできるのではないかと思います。最初は苦しいけど、試してみる価値は十分あります。 ――ああー。お金以上に、出版社の都合で打ち切られたりしたくないと。 吉田 そうですね。絶対にあっちの都合で変えられたくないというのもあります。でも単行本って、あくまで出版社の商品なので、例えば「セリフを勝手に変えないで」って言っても、向こうの商品だから変える権利があるという理屈は残念ながら通ります。「じゃあ電子は自分でやりますよ。口出さないでください」となります。「スピリッツ」の担当者の時に散々な目に遭いましたからね。私は復讐鬼と化しています。 ――『やれたかも委員会』が話題になって、ザマアみたいな気持ちも……。 吉田 そりゃ、普通にあります。それからは、noteで自主的に連載する形を続けて、非独占だったらほかのサイトに転載してもらっても構わない、というスタンスでやっています。有料サイトのcakesさんからも話が来たんですが、あそこはPV数によってお金がもらえるんですよ。だからnoteで1話200円で販売しつつ、遅れてcakesで1週間限定で無料展開するというやり方にしたら、それが当たりましたね。noteだと、僕のことを好きな人が課金して読んでくれるだけだったけど、cakesで無料公開にすると話題になって、続きを読みたい人がnoteで課金してくれるという流れを作れたんです。 ――お金的には、どのくらいもらえるもんですか? 吉田 cakesとnote合わせて、月に12万円くらいですね。BuzzFeedさんなどのニュースサイトに取り上げられた時には、noteだけで10万とか15万とかいきました。 ――ああ、結構いいですね! まだ、佐藤さんのところの仕事も続けているんですか? 吉田 本当に申し訳ないのですが、先月末に辞めさせていただきました。 もちろんこのまま簡単にうまくいくとは思っていませんが、『やれたかも委員会』の書籍も出るし、クラウドファンディングも始まるし。忙しくなって、仕事がおざなりになっちゃうと申し訳ないと思ったので。
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■『やれたかも委員会』は純愛!?

――『やれたかも委員会』の中身の話もしたいんですが、この漫画のフォーマットって、ツッコミのある『BOYS BE...』ですよね。 吉田 確かに。僕は『BOYS BE...』あんまり読んでないんですけど、そういう青春! 純愛!みたいなものをガッツリやりたいのに、照れ隠しでこういう形式で描いているのかも知れませんね。先日対談させていただいた小説家の保坂和志さんに「今、純愛をそのまま描くとバカだと思われるから、みんな避けるんだけど、この形だと読者も純愛を照れずに読めるよね」って言っていただいて、確かにそうかもなーって思いました。 ――いろんな「やれたかも」な体験談が出てきますけど、吉田さん自身が一番好きな体験談はどれですか? 吉田 うーん、2話目の、ママさんバレーをやっている主婦ですかね……ああいう、女性からグイグイ来るタイプに弱いですね。自分からどう迫ったらいいのかわからない、っていうのもありますが。 ――「あの時、自分から行ってればやれたのに……」みたいな後悔が、たくさんある? 吉田 20代の頃はデートが終わって家に帰ってから「何やってんだろー」って、延々と蛍光灯眺めるみたいな、そんなのばっかりでしたよ。いまだに全然女性との距離の取り方がわからないところはあります。例えば、仕事で知り合った女性とプライベートで食事に行く……なんてことになったら、どうしたらいいのかわからないですもん。ファミレスだとあまりにも味気ないですし、ガッツリ間接照明みたいなところだと「口説く気か?」と警戒されて変な空気になるじゃないですか……。普通にご飯を食べたい時は、どこに行くのが正解なんですか!? ――「やれるかも」という期待が100%なければ、喫茶店でいいですもんね。 吉田 僕は、普通にご飯を食べられればいいと思ってるんです。でも、もしも女性側がアリだったとしたら、それはそれで話が変わってくるというか……。別の問題が出てきますよね? もしかして、最低なこと言ってる気がしてきましたが……すみません。 ――最新作では、初めて女性の体験談が出てきますが、そこでいきなり判定がゆるくなっている気がするんですが? 吉田 ゆるくなってますか? そうですか。特に自分では、そういう気持ちはなかったですが。女性が男性の体験談に対して「やれた」判定を出すことって、正直なかなかないと思うんですよ。女性のほうから「あの時やれたよ」って軽々しく言っちゃう作品なんか描いたら、性犯罪を助長しそうだし……。 ――そんなこと心配しているんですか! 吉田 でも、作品を通して、女性の性欲についても無視はしたくないわけです。僕は男なので、しょせん男都合の漫画しか描けないんですが、ギリギリまで女性の気持ちを考慮できたら面白いんじゃないかと思って描いています。  もちろん、女性の体験談でも「やれたとはいえない」ケースも出てくると思います。女性からアピールしたとしても、男側がダメってケースがあるじゃないですか。特に10代男子って「付き合わないと、やっちゃいけない」とか考えてたりするんで。 ――童貞相手だと、なかなか難しいですよね。 吉田 若い頃は「自分の中ルール」みたいなのが、やはり多い傾向がありますからね。 ――今後の展開ですが、自分の好きなことを描いて、読みたい人が課金してくれればいいというスタイルを続けていくんでしょうか? 吉田 そういう方向に行きたいとは思っています。「吉田さんの漫画だったら買います」という人が1000人くらいいてくれたら、ちょいちょい貯蓄しながらやっていけば大丈夫かなと思うんですよ。とりあえず、今年いっぱいは、書籍の印税も入るし、電子印税も入るし、グッズを作ったりスタンプを作ったりもしようと思ってるんで、食べていけるかなと。『やれたかも委員会』の単行本は年内にもう1冊くらい出したいんですけど、それと同時に新企画も立ち上げて、noteで動かしていこうと考えています。 (取材・文=北村ヂン)
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『やれたかも委員会 1巻』 本日発売! 「佐藤秀峰さんには頭が上らない……」『やれたかも委員会』吉田貴司の屈辱の日々と、ウェブ漫画家としての生きる道の画像6

体罰、セクハラ、長時間拘束……生徒も顧問も悩まされる「ブラック部活」の実態

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『部活があぶない』(講談社現代新書)
 6月12日、埼玉県の私立武蔵越生高校において、外部コーチがによる体罰の様子を記録した動画がTwitterに投稿され、7万以上のリツイートを記録。新聞、テレビなどのメディアでも広く報道され、同校では、このコーチを解雇。謝罪を行った。  体罰や長時間練習によって、生徒や顧問を追い詰める部活動は「ブラック部活」と呼ばれるようになり、問題視されている。2012年、大阪市立桜宮高校ではバスケットボール部のキャプテンを務めていた2年生の男子生徒が、部活における顧問からの体罰、暴言、理不尽な指導を理由に自殺。神奈川県横浜市の公立中学校では、行きすぎた指導によって柔道の生徒の脳の静脈が切断され、いまでも後遺症が残っている。  いったいなぜ、「ブラック部活」が横行してしまうのだろうか? そして、どのように改善すればいいのだろうか? この問題に迫ったライターの島沢優子による新著『部活があぶない』(講談社現代新書)から、その構造を見ていこう。  特に体育系の部活において、一番の問題となっているのが暴力行為だ。「スポ根」の時代は遠くなったとはいえ、顧問による体罰や暴言は、いまだに数多く行われている。では、いったいなぜ、体罰や暴言はなくならないのだろうか? 生徒の自殺という最悪の結末を迎えた桜宮高校の事件の後でさえ、元アスリートなどから「私たちのころは(体罰が)もっとすごかった」「僕らの時代はこんなもんじゃなかった」「亡くなった子は心が弱かった」など、体罰を正当化する発言が行われている。実際に体罰を行っているという現役顧問は、島沢の取材に対して「叩いてやらせる時代じゃない」と前置きしながらも、このような迷いを口にしている。 「ただ、(暴力のような)刺激を与えずに、選手が伸びるのだろうか。この先、結局は陰で叩いてやらせるコーチが得をするのではないか。教えるほうも、やるからには勝ちたいけど、どう指導していけばいいのかわからない」  また、女子生徒が活躍する部活においては、性暴力の事例も少なくない。16年には横浜市立中学校女子バレーボール部顧問が尻や胸を触る、足や腰をマッサージするなどの行為によって懲戒免職。同年、福岡大付属若葉高校の吹奏楽部男性顧問が「腹式呼吸の練習」と称し、女子生徒の下腹部を触ったり、ブラジャーのホックを外して楽器を吹くように指示をし、諭旨解雇となった。90年代には、九州の高校女子バスケット部顧問が、複数の生徒と性的関係を持っていたことも明るみに出ている。  部活において、暴力に直面した男性は、島沢の取材に対して本音を吐露した。彼は、暴力に対して「みんな我慢しているのに、自分だけチクったら卑怯」「自分が騒動のきっかけにはなりたくない」といった理由で被害を言いだすことができなかったと述懐する。  一方、生徒だけでなく、教師の側もブラック部活に悩まされている。「課外活動」である部活動のために、土日も返上で働く教師は数多い。しかも、土日の練習に参加しても日当はわずか3,000円……。テストの採点や授業で使用するプリントの作成、報告書の作成など、ただでさえ「ブラック」といわれる勤務を行っている教師たちに、部活の負荷は重くのしかかる。本書では、顧問を断ろうとしても「この学校は全員顧問制」と認められず、練習時間を少なくしようとすれば、保護者から「練習を減らして、勝てなくなったらどうしてくれるんだ?」とクレームが飛ぶ事例が報告されている。そんな現状を変えるために、公立中学校に勤務する教師たちが練習時間の縮小を訴えるオンライン署名活動を開始すると2万8,000人以上の署名が集まった。教師にとっても、部活は耐え難いものとなっているのだ。  では、なぜ、ブラック部活が生み出されてしまうのだろうか?  私立校であれば、部活の成績の向上は、学校の知名度の向上や、寄付金の増加、入学者数の増加といった利益をもたらしてくれる。また、「子どもがプロになれるのではないか」あるいは「スポーツ推薦を獲得できるのではないか」という希望から、生徒たちの親が体罰などの暴力を容認したり、長時間練習を是認する姿勢が見えてくる。しかし、すでに最新のトレーニング理論では、体罰よりもモチベーションの向上のほうが、はるかに技術の向上をもたらすことが証明されている。また、06年に全国高校総体でサッカー部を優勝させた元県立広島観音高校顧問の畑喜美夫氏は、平日の練習をたった2日に制限しながら、チームを優勝に導いているのだ。そんな事例を知らず、「勝つためには仕方ない」「強くなるためには仕方ない」といった強迫観念に支配されてしまうことが、部活の「ブラック化」の一因となっているのだろう。  もちろん、青春の1ページとして思い出に残るだけでなく、部活動は学校教育において大きな役割を果たしている。学習指導要領では、部活動について、「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動については、スポーツや文化及び科学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等に資するものであり、学校教育の一環」と記されている。そんな部活動によって追い込まれ、取り返しのつかないケガをしたり命を落としてしまうような「ブラック化」は、絶対に阻止しなければならない。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])

“昭和漫画”を現代へ受け継ぐ漫画家・史群アル仙が語る、ADHDとの付き合い方

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史群アル仙氏
 手塚治虫やちばてつや、永井豪といった漫画家に影響を受け、昭和を彷彿とさせる懐かしくてどこか哀愁漂う作風で人気の漫画家・史群アル仙(シムレアルセン)。不安障害やADHD(注意欠陥・多動性障害)など、メンタル面にさまざまな支障を抱える彼女が、自身の経験を赤裸々につづったコミックエッセイ『史群アル仙のメンタルチップス~不安障害とADHDの歩き方~』(秋田書店)を上梓した。WEB連載時から話題を呼んでいた本作だが、作品を描き上げた現在の心境と、社会的な認知が広がりつつあるADHDについて、アル仙氏に話を聞いた。 *** ――まず、本書を描こうと思った経緯について教えてください。 アル仙 知ってほしいことがある、伝えたいことがある、生きづらさを乗り越える工夫を共有したいという気持ちと、自分みたいな人間を主人公にしたらどんな漫画ができるんだろう? といった思いからです。 ――かなり赤裸々に描かれていますが、ご自身の過去を振り返ることは、つらくありませんでしたか? アル仙 前向きな気持ちが芽生えてからの執筆だったので、基本的にはつらくありませんでした。ふと強烈な出来事を思い出してつらい気持ちになった時は、本書にも登場する恩師・菩須彦(ボスヒコ)さんに助けてもらっていました。ただ、時系列を思い出す作業が一番難しくて、つらかったですね。1カ月の間に大きな出来事が連発したり、半年間何も起こらなかったりと波が大きかったので、どういうふうに描いたらいいのか悩みました。 ――この本を描く前と描いた後で、ご自身の中で変化はありましたか?  アル仙 ほんの少し冷静な目線で、自分の生き方を見つめられるようになったと思います。また、漫画に描けるようにと、日々、生きづらさ対策のアイデアを考えるようになりました。 ――医師の誤診が原因でクスリ漬けにされ、体もメンタルもボロボロの「ゴミクズ時代」のエピソードはかなり強烈です。夢遊病で街を徘徊するようになったり、幻覚に襲われたり、挙げ句の果てには自殺未遂……。この時期は、どれくらい続いたんですか? アル仙 それが詳しく思い出せないんです……。漫画では印象的だったことを抜粋して描きましたが、忘れていることもあるようです。週1でボスヒコさんの絵画教室に通っていた時期だったので、ボスヒコさんやメンバーから、当時の自分の言動を聞いて思い出すこともあります。感覚としては、とてつもなく長い間だった気がします。この時期は、人としての責任感やモラルを完全に失っていました。
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『メンタルチップス』より(以下同)
――そこから精神科病棟へ入院し、紆余曲折を経て、やっとADHDと診断されたわけですが、もっと早くそう診断されていたら……という思いはありますか? アル仙 小学校・中学校での生活が苦しかったので、その頃に自覚していたら、少しは違ったのかなとも思います。当時は、何度気をつけようと思っても「またできなかった」「なんでできないんだろう……」と、解決の糸口が見えなかったので。その一方で、診断されたところで、学校側も私自身も何もできなかっただろうなあ、とは思いますが……。 ――本書には「障害は免罪符にならない」と書かれていますが、初めからそのような考え方だったのでしょうか? それとも、何かきっかけがあったんですか? アル仙 ADHDだと診断されてすぐは、肩の荷が下りたような気持ちになったのですが、そのうち何かうまくいかないことがあるたびに「どうせADHDだから……」という言葉が頭をよぎりました。ADHDコンプレックスというか。しゃべっては自己嫌悪、行動しては後悔。やがて、いろいろなことをあきらめるようになってしまいました。ADHDを免罪符にして自分を甘やかして逃げて、堕落した生活を送っていました。その時、ボスヒコさんに叱られて、考え直したんです。「不得意なことはあっても、診断を免罪符にして何もかも仕方がないとあきらめていたら、どんどん何もできなくなっていく。診断は免罪符にならないし、してもいけない。不得意なことはあるけれど、できることもある。一生懸命やれば自信を持てる。可能性をあきらめてほしくないな」って。 ――アル仙さんはボスヒコさんとの出会いがきっかけでアートという喜びを知り、漫画家になりたいという夢を取り戻していきました。 アル仙 初対面の時は、体は大きいし、ただ怖い人だと思っていましたが、ハングリー精神とチャレンジ精神の塊で、とても尊敬しています。そして何より、初めて真面目に叱ってくれたことが大きかったです。今までは怒られることはあっても、ちゃんと正しく叱ってくれる人がいなかったから。そして、勇気が出ない時に、ポンと背中を押してくれるんです。 ――2014年からTwitterにアップし始めた1日1ページの漫画「今日の漫画」も、「ストーリー構成がなっとらん!」というボスヒコさんのアドバイスで始めたものなんですよね? 今日の漫画」はわずか半年でフォロワー数6万9,000人を超え、商業誌デビューのきっかけとなりましたが、ご自身にどんな影響を及ぼしたと思いますか? アル仙 そうですね、今から振り返ると、生きる意味をもらったんだと思います。幼い頃から漫画と一緒に生きて、漫画と一緒に死にたいと思っていたので、「今日の漫画」が拡散されたあの日がなかったら、商業誌デビューの際に支えてくれた方々がいなければ、私はとっくに死んでいたと思います。だから自分の命は、読者のみなさんと、支えてくれるみなさんから授かったものだと。そういう意味で「命を粗末にしてはいけない」という言葉は、本当だったんだなって。
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――現在、漫画家としてお忙しい日々を送っていらっしゃると思いますが、忙しすぎてパンクすることはありませんか?  アル仙 執筆量自体は忙しいといえるほどではありませんが、スケジュール管理が苦手で、些細なことでも変化があるとパンクして、パニックになります。その時は、ボスヒコさんに相談し、さらにわかりやすく整理してもらって、助けてもらっています。恥ずかしながら、まだまだ試行錯誤中です。 ――アル仙さんにとって、漫画はどのような存在ですか? アル仙 漫画は私にとって、命と直結しているものです。幼い時から大人になった今まで、人生の相棒でした。対人関係が苦手でも、漫画を通してだとコミュニケーションができました。漫画は私の恋人であり、親友であり、親であり、読者との対話であり、武器であり、目です。 ――最近ではADHD関連本が多数出版されていますが、このように世間の関心が高まること、認知が広がることは好意的に捉えられていますか? ADHDという言葉だけが独り歩きして誤解を生んだり、軽く捉えられてしまうのではないかといった懸念もありますが……。 アル仙 正直に言うと、不安です。執筆中に悩むこともあります。知り合いから、「書類1~2枚と少しの問診だけで、ADHDという診断書がもらえる」というウワサを聞きました。ADHDの症状は、パッと聞いたら誰にでも当てはまるようなこともあります。「自分はADHDなんだから仕方ないだろ」と開き直る人や「あなたはADHDなんだから気をつけてよ」という人にも出会いました。また、ADHDという名称は、あくまで生きづらさを取り除くヒントだと思うので、個人の姿をしっかり見た上で診断してほしい。ADHDの認知と共に、当事者が前向きに対応できるアイデアなどが広まっていったらいいなあと思います。 ――沖田×華さんの『毎日やらかしてます。アスペルガーで、漫画家で』(ぶんか社)や永田カビさん『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』(イースト・プレス)など、ADHDやアスペルガーといった生きづらさを赤裸々に明かした告白系漫画も増えていますが、実際に読まれた本はありますか?  アル仙 実は、薬局の待合室で沖田×華さんの漫画を読んだのがきっかけで、発達障害、ADHDの存在を知りました。当時、自分はADHDだと思っていなかったんですが、環境は違えど沖田さんの経験と自分の経験が重なることが多くて。笑えるけど笑えない、けど面白い。そして「自由に自分のことを描いていいんだ」と、感銘を受けたことを覚えています。 ――沖田さんも自分の障害をきちんと受け入れた上で、人生を謳歌されていますよね。それでは最後に、『メンタルチップス』をどんな人に読んでもらいたいですか? アル仙 当事者の方はもちろん、親御さんや周囲の人にも読んでほしいです。私たちは自分をコントロールするのが難しいです。自分でも予想がつかないことをやってしまったりします。そんな私たちが孤立すると、ヘタしたら私の「ゴミクズ時代」みたいになってしまうかもしれない。ADHDの人も、そうでない人も、みんな同じ人間。お互いが工夫して、協力して生きていけたらいいなと思います。  また、当事者の方には「できない」という言葉に押しつぶされないでほしいです。工夫したらできるようになることがある。できることが増えたら、生きづらさが減る。「少しずつでもいい、人生はチャレンジだ」と楽しみながら、ADHDと向き合ってほしいなと思います。生き続けるのがつらい、という言葉は否定できません。死にたいという気持ちも否定できない。だけど、1%の可能性を信じて行動を起こしたら、何かが変わるかもしれない。勝手な言葉かもしれないけど、生きることをあきらめないでほしいです。 (取材・文=編集部) ●史群アル仙Twitter https://twitter.com/shimure_arusen
 昭和漫画を現代へ受け継ぐ漫画家・史群アル仙が語る、ADHDとの付き合い方の画像4
史群アル仙のメンタルチップス 好評発売中!  昭和漫画を現代へ受け継ぐ漫画家・史群アル仙が語る、ADHDとの付き合い方の画像5