「そんなに文春文庫って買ってたかな……」 昨週開催された「全国図書館大会 東京大会」で、文藝春秋の松井清人社長が行った、図書館に文庫の貸し出しを止めるように求める報告が、さまざまな論議を呼んでいる。 大会前から、各所で話題を呼んだ報告は、大会内の「公共図書館の役割と蔵書、出版文化維持のために」をテーマにした分科会で行われたものだ。報告前に「朝日新聞」などで報じられたこともあってか、分科会の会場は立ち見も出る盛況となった。 発表要旨は大会のサイトで読めるようになっているが(http://jla-conf.info/103th_tokyo/index.php/subcommittee/section21)、松井氏は「確たるデータはないが、近年、文庫を積極的に貸し出す図書館が増えている」として「文庫市場低迷の原因などと言うつもりは毛頭ないが、少なからぬ影響があるのではないか」としている。 確かに、これまでも世間でブームになっている話題の本の購入希望が利用者から殺到。図書館が、それに応えて同じ本を大量購入するところもあり、その是否が問われたりもしていた。しかし、松井氏の報告に対して、図書館関係者からは疑問の声のほうが多い。 中には「文春文庫をそんなに揃えている図書館ってあったっけ……」という声も。 「タイトルによっては、最初から文庫本でしか発行されないものもあります。それを貸し出ししないということは、利用者の目的をゆがめることにもなりかねません。そんなことを、出版文化を担う人間がいってよいのでしょうか」 そう話すのは、広島女学院大学特任准教授の西河内靖泰氏。以前は、荒川区内の図書館にも長く勤務していた西河内氏は、この問題を報じた「朝日新聞」10月12日付の記事(http://www.asahi.com/articles/ASKBC4CTMKBCUCVL00D.html)を取り上げて解説する。 この記事では、出版社側の意見を次のように解説している。 「出版社側の調べでは、文庫本の貸し出し実績を公表していた東京都内の3区1市で、15年度、荒川区は一般書の26%を文庫が占めた。ほかの区市では新書も合わせた統計で2割前後に上った」 これに対する、西河内氏はこうだ。 「確かに荒川区では文庫本の貸し出しが目立ちます。というのも、選書にあたって講談社学術文庫や東洋文庫など、学術的な文庫を多く購入してきた実績があるからです」 また、今年3月に、荒川区では中央図書館の機能を備えた「ゆいの森あらかわ」がオープン。この際に移動させた蔵書もあるため、パッと見で文庫本の蔵書が目立つという指摘も。 「図書館は、文庫本に関しても従来よりバリエーションを持った選書をおこなっているものです。そのことをわかっていないのは迷惑ですね」(西河内氏) 出版不況が常態化した昨今、出版業界が解決策を求めて四苦八苦する中での椿事なのだろうか。 (文=昼間たかし)(イメージ画像 Photo By LWYang from Flickr)
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アウシュビッツ、チェルノブイリから福島の旧警戒区域まで……『ダークツーリズム入門』で巡る81カ所の「負の遺産」
“ダークツーリズム”とは、何か。 それは、戦争や災害をはじめとする悲劇が起きた現場を巡る旅のこと。代表的なものでいえば、アウシュビッツやチェルノブイリなどがある。『ダークツーリズム入門 日本と世界の「負の遺産」を巡礼する旅』(イースト・プレス)には、後世に残したいダークツーリズムスポットが、世界と日本で81カ所が網羅されている。入門書として、これまで“意識して”ダークツーリズムを体験したことがない人に向け、比較的アクセスしやすい場所が多く取り上げられている。 だが、このダークツーリズムは、まだまだ日本には浸透していない、新しい旅の形。本書に登場するダークツーリズムの第一人者である、観光学者の井出明氏は、東日本大震災から約8カ月後、「観光による被災地の復興」をテーマにした記事を発表した。その中で、「悲劇の記憶を見せることで復興に寄与する可能性がある」と伝えたものの、当時、ほとんど理解を得られなかった。「みんなで地域を盛り上げようとしているのに、なぜそんなことを言うんだ」「被災地の復興を阻む行為じゃないか」と。震災後には、被災した建物を残すべきか否かについても、大きな議論が巻き起こった。「つらい記憶がよみがえる」「後世の人々に恐ろしさを伝えたい」と、意見は真っ二つに割れた。 けれど、現場が残っていると、やはり強く訴えかけるものはある。個人的に、カンボジアの首都・プノンペン市内にある、もともと学校だった「トゥール・スレン虐殺博物館」を訪れたことがある。カンボジアでは、1970年代後半の旧ポル・ポト政権時、偏った思想のもと、国民の4分の1ともいわれる大量虐殺が行われた。そのリアルな現場のひとつが、博物館になったスポットだ。 ここでは、わかっているだけでも、2万人もの罪なき人々が投獄され、処刑された。実際に訪れてみると、敷地内に入るだけで、重苦しい空気が流れ、少しずつ気分が悪くなっていく。館内には、拷問を受け、亡くなった遺体が放置されていたベッドが置かれた独房がある。今はどうか知らないが、15年近く前に訪れた時は、独房の中へ入ることができた。何気なく足を踏み入れた瞬間、全身にずどん、と重みを感じ、思わず尻もちをつきそうになった。あたりを見回しても、誰かがいるわけでもない。そのあと、欧米系の観光客がやって来て、ゆっくりと歩いて独房内を見学していたが、わたしはあまりの恐怖で、その場に長くいられず、博物館を出た。それから3日間ほどは、怖くて、よく眠れなかった。そんな体験は、人生でそれきり。その感覚だけは、なぜか今もとてもリアルに覚えている。 本書では、20名近くの執筆者に加え、旅好きで知られる作家の角田光代氏、バックパッカー界の重鎮である旅行作家の下川裕治氏も、自身の体験を語っている。一体、どんな場所へ行き、どんな衝撃を受けたのか。悲劇を繰り返さないように、後世に伝えるためにも訪れておきたいスポットや体験談が、この1冊に詰まっている。 (文=上浦未来) ●風来堂(ふうらいどう) 編集プロダクション。国内外問わず、旅をはじめ、歴史やサブカルチャー、地域文化まで、幅広いジャンル&テーマで取材・執筆活動を展開している。編集制作を担当した本に、『世界ダークツーリズム』『日本のふるさと百景』(洋泉社)、『秘境路線バスをゆく』シリーズ(イカロス出版)、『全国ゲストハウスガイド』(実業之日本社)、『NHK世界で一番美しい瞬間』(三笠書房)、『路線バスの謎』(イースト新書Q)など。 http://furaido.net『ダークツーリズム入門 日本と世界の「負の遺産」を巡礼する旅』(イースト・プレス)
紙の本にアクセスする機会も増加する? Amazonの「Prime Reading」は便利だと認めよう
Amazonプライム会員向け新サービス「Prime Reading」の日本での提供が始まり、話題を集めている。 すでに多くの人がプライム会員に登録して、映画やドラマなどの見放題「プライム・ビデオ」を利用しているハズである。映画見放題の時点で「あなどれないサービス」であることを実感した人は多いだろう。 何しろ、最新作だけでなく「見たいとは思っていたけど機会がなかった」とか「もう一度見たいとは思っていた」作品を絶妙に突いてきている。『トラック野郎』シリーズは全作品があるし『男はつらいよ』も投入された。アニメも、見逃した最新作だけでなく『重戦機エルガイム』とか『戦闘メカザブングル』とか、これぞをいう作品をうまーく投入しているのだ。 そこに新たに投入された「Prime Reading」。これ以前から、Amazonは定額読み放題サービス「Kindle Unlimited」を実施している。 現段階では「Prime Reading」は「Kindle Unlimited」に比べると、読むことのできる本の数は少ない。ただ、利用方法にもよるだろうが「Prime Reading」はタダだからと決して手を抜いていない。 とりわけ雑誌は「AERA」(朝日新聞出版)や「DIME」(小学館)などをはじめ「山と渓谷」(山と溪谷社)まで入っていたり。単行本も含め「買うとなると考えるけど、タダなら読んでおこうか」と思わせるラインナップになっているのである。 年間数千円の対価としては、オトク感の強いプライム会員。とはいえ、出版業界に身を置いていると、いまだAmazonに対する忌避感は根強い。地方都市や、街場の書店が減っていくことへの危機感はよく話されるのだが「Amazonが便利!!」という話はまず表立って聞かれない。 先日、出版労連が毎年行っている催し・出版研究集会で講師の一人だった永江朗さんが「毎日、Kindleストアで、その日のバーゲン(割引)本をチェックしている」と話していた。するとなぜか、けっこうな数の人がギョッとした顔をしていた。 決してAmazonが万能かつ聖人君子ばりの企業とはいえない。けれども便利かつ安価なサービスを利用しないばかりで、忌避感だけを抱いているのはどうかと思う。筆者もKindleを利用しているが、万能とは言い難いものの紙の本を持ち歩くよりも軽くて便利である。 おそらく出版業界では、多くの人が「Prime Reading」によって、より本が売れなくなることへの恐怖を抱いているのではなかろうか。けれども、むしろこれによって紙の本に触れる機会も増えるのではないか。 というのは、電子化され読み放題になっているのは一部だけ。同じ作者の作品を読もうと思ったら、有料で紙の本を買うしかなかったりするのだ。そして、クリックだけで本が届くというシステムは、財布からお金を取り出すよりもハードルが低いのも事実。 膨大なまだ見ぬ本にアクセスする機会を提供しているくれるAmazon。それは、書店の店頭での「偶然の出会い」よりも頻度が高い。賛否があろうとも「これは便利だ!!」とサービスに耽溺してみないと、対抗策だって思いつかない。 (文=昼間たかし)Amazon「Prime Reading」より
【書評】地下アイドルブームの核心に迫る一冊 ―姫乃たま『職業としての地下アイドル』
世の中には「知らない方がいいこと」がたくさんある。 好きなタレントの裏の顔や、社会の闇につながるような世界、はたまた世間の人の平均年収や好きな相手の恋愛経験など。とにかく「知らない方が幸せだった」と思うことには事欠かない。 一方で、人には知的好奇心というものがある。 「知らない方がよい」「知ったところで何の役に立つのか」そう思えるようなことでも、「それでもいいから知りたい」という気持ちが勝って調べてしまう。そこに好奇心を満たされた満足感がついてくることは多いだろう。 大雑把に言ってしまうと「新書」というカテゴリーで出版される書籍の多くは、その知的好奇心を満たすためのものである。あるテーマに類することを調査し、掘り下げ、見解を述べる。そうすることによって、その世界の事柄を大局的にまとめることができるのだ。 9月13日に発売された『職業としての地下アイドル』(朝日新書)もそういったカテゴリーに含まれる一冊だ。著者の姫乃たまが、自身が経験してきたことと、地下アイドルの現場でアイドル・ファン双方から集めたアンケート結果により、その実態を赤裸々にあぶり出している。 「地下アイドル」という言葉に、ある種猥雑な印象を持つ方もいるかもしれない。あるいは、「興味はあるが立ち入るのはちょっと」という方や、もしかすると地下アイドルに憧れを持っている女性もいるかもしれない。そんな人への“入門書”としてこの本は最適である。 冒頭には、著者が地下アイドルになった経緯と、活動していく中での心の動きが描かれている。むろん、地下アイドルになった理由やその後の経験は、人によってさまざまだが、3年続ければよい方だといわれる世界で、8年もの間、一線で活躍している彼女の経験を追うのは、貴重なことだと言えよう。 第一章では、現代のアイドルブームに至るまでの歴史を振り返り、地下アイドルの生まれた背景や、今のアイドルシーンでの位置付けなどを分析している。私などは、その黎明期から、一アイドルファンとして現場を経験してきた身なので、懐かしく振り返るとともに、多くの人に知ってもらえるよう、丁寧にまとめた本書が実にありがたかった。 第二章からは、いよいよアンケート結果を元に、その生体や心理状況に迫っていく。多くの場合において、(アイドルファンではない)一般の人の回答と比較しているため、地下アイドル界がいかに特殊なものであるのかどうかを探るための明確な指標となっている。 例えばアイドルに対しての「恋人はいますか?」「平均月収は?」といったやや突っ込んだ質問や、アイドルファンの年齢や地下アイドルのどんなところが楽しいか、とった質問など、その結果により、「地下アイドル業界」といった世界の全体像が見えてくるのだ。それは、その世界に身を置いていた人ですらも曖昧模糊としていた点を、すっきりさせてくれたとも言える。 何よりも興味深いのは、それぞれの結果に対する著者のコメントだ。 一般の研究者というのは、多くの場合、被験者となる人とは別なものだ。青少年の実態を調査する人はだいたい大人だし、地方の人の暮らしを調査するのは東京のリサーチャーだったりする。 もちろん、それには理由がある。調査する側、分析する側が対象自身であった場合、そこに「主観」というフィルターがかかってしまう。真実を見つけ、正しく解説するには、そのフィルターを外さなければならないのだ。 では、姫乃たまの場合はどうか。 地下アイドルのアンケート結果を評する時、彼女の視点は実に冷静で的確だ。それはおそらく、彼女が地下アイドルであるとともに、ライターという仕事をしていることが大きいだろう。自分の中にある、感情や経験を客観的に見つめ文章にする、その類まれなる才能によってこそ、この本は成り立っている。 アイドル側からの視点と、それを正しく世間の人に伝えるという使命を持ったライターとしての視点。それがうまく書き分けられてていて、真実に近づいていくような感覚が心地よい。 何より、今や空前のアイドルブームといわれる中、その中のいちジャンルである「地下アイドル」にスポットを当てたこの本の意義は大きい。いわゆる「アイドルファン」としてさまざまな思いを抱いてきた私としても、書いてくれたことに対して感謝をしたい気持ちだ。 そして、この本の一番の魅力を言わせてもらうなら、さまざまなデータや実績をもって地下アイドル業界を語る姫乃たまの言葉の向こうに、その世界への限りない愛情やファンへの思いが透けて見えることだ。今までの経験を通し、つまずいたり、倒れたり、たくさんの葛藤もあったと思う。しかし、それらを超えて地下アイドルを続けた果てに見えた景色、それがとても素晴らしいことであったことを、姫乃たまは伝えたいのだろうと思った。 実用書としてこの本を読み、知識欲を満たした後は、ぜひ、姫乃たまの中に内在する、暖かい思いと人に対する愛情を感じ取ってもらいたい。きっと、世界が少しだけ変わって見えるはずである。 (文=プレヤード)『職業としての地下アイドル』(朝日新書)
【書評】地下アイドルブームの核心に迫る一冊 ―姫乃たま『職業としての地下アイドル』
世の中には「知らない方がいいこと」がたくさんある。 好きなタレントの裏の顔や、社会の闇につながるような世界、はたまた世間の人の平均年収や好きな相手の恋愛経験など。とにかく「知らない方が幸せだった」と思うことには事欠かない。 一方で、人には知的好奇心というものがある。 「知らない方がよい」「知ったところで何の役に立つのか」そう思えるようなことでも、「それでもいいから知りたい」という気持ちが勝って調べてしまう。そこに好奇心を満たされた満足感がついてくることは多いだろう。 大雑把に言ってしまうと「新書」というカテゴリーで出版される書籍の多くは、その知的好奇心を満たすためのものである。あるテーマに類することを調査し、掘り下げ、見解を述べる。そうすることによって、その世界の事柄を大局的にまとめることができるのだ。 9月13日に発売された『職業としての地下アイドル』(朝日新書)もそういったカテゴリーに含まれる一冊だ。著者の姫乃たまが、自身が経験してきたことと、地下アイドルの現場でアイドル・ファン双方から集めたアンケート結果により、その実態を赤裸々にあぶり出している。 「地下アイドル」という言葉に、ある種猥雑な印象を持つ方もいるかもしれない。あるいは、「興味はあるが立ち入るのはちょっと」という方や、もしかすると地下アイドルに憧れを持っている女性もいるかもしれない。そんな人への“入門書”としてこの本は最適である。 冒頭には、著者が地下アイドルになった経緯と、活動していく中での心の動きが描かれている。むろん、地下アイドルになった理由やその後の経験は、人によってさまざまだが、3年続ければよい方だといわれる世界で、8年もの間、一線で活躍している彼女の経験を追うのは、貴重なことだと言えよう。 第一章では、現代のアイドルブームに至るまでの歴史を振り返り、地下アイドルの生まれた背景や、今のアイドルシーンでの位置付けなどを分析している。私などは、その黎明期から、一アイドルファンとして現場を経験してきた身なので、懐かしく振り返るとともに、多くの人に知ってもらえるよう、丁寧にまとめた本書が実にありがたかった。 第二章からは、いよいよアンケート結果を元に、その生体や心理状況に迫っていく。多くの場合において、(アイドルファンではない)一般の人の回答と比較しているため、地下アイドル界がいかに特殊なものであるのかどうかを探るための明確な指標となっている。 例えばアイドルに対しての「恋人はいますか?」「平均月収は?」といったやや突っ込んだ質問や、アイドルファンの年齢や地下アイドルのどんなところが楽しいか、とった質問など、その結果により、「地下アイドル業界」といった世界の全体像が見えてくるのだ。それは、その世界に身を置いていた人ですらも曖昧模糊としていた点を、すっきりさせてくれたとも言える。 何よりも興味深いのは、それぞれの結果に対する著者のコメントだ。 一般の研究者というのは、多くの場合、被験者となる人とは別なものだ。青少年の実態を調査する人はだいたい大人だし、地方の人の暮らしを調査するのは東京のリサーチャーだったりする。 もちろん、それには理由がある。調査する側、分析する側が対象自身であった場合、そこに「主観」というフィルターがかかってしまう。真実を見つけ、正しく解説するには、そのフィルターを外さなければならないのだ。 では、姫乃たまの場合はどうか。 地下アイドルのアンケート結果を評する時、彼女の視点は実に冷静で的確だ。それはおそらく、彼女が地下アイドルであるとともに、ライターという仕事をしていることが大きいだろう。自分の中にある、感情や経験を客観的に見つめ文章にする、その類まれなる才能によってこそ、この本は成り立っている。 アイドル側からの視点と、それを正しく世間の人に伝えるという使命を持ったライターとしての視点。それがうまく書き分けられてていて、真実に近づいていくような感覚が心地よい。 何より、今や空前のアイドルブームといわれる中、その中のいちジャンルである「地下アイドル」にスポットを当てたこの本の意義は大きい。いわゆる「アイドルファン」としてさまざまな思いを抱いてきた私としても、書いてくれたことに対して感謝をしたい気持ちだ。 そして、この本の一番の魅力を言わせてもらうなら、さまざまなデータや実績をもって地下アイドル業界を語る姫乃たまの言葉の向こうに、その世界への限りない愛情やファンへの思いが透けて見えることだ。今までの経験を通し、つまずいたり、倒れたり、たくさんの葛藤もあったと思う。しかし、それらを超えて地下アイドルを続けた果てに見えた景色、それがとても素晴らしいことであったことを、姫乃たまは伝えたいのだろうと思った。 実用書としてこの本を読み、知識欲を満たした後は、ぜひ、姫乃たまの中に内在する、暖かい思いと人に対する愛情を感じ取ってもらいたい。きっと、世界が少しだけ変わって見えるはずである。 (文=プレヤード)『職業としての地下アイドル』(朝日新書)
膨大な情熱と調査が生んだ、作りたくなるレシピ46品『海軍さんの料理帖』が誕生するまで
「この製法で7割から8割は、合っていると思います」 新宿の高級喫茶店で、テーブルを挟んで座った取材相手は力強く話した。その背後には、彼の丹念な取材と実践に裏打ちされた自信が輝いていた。 この8月に発売された有馬桓次郎・著『海軍さんの料理帖 明治~昭和まで 歴史で辿る日本海軍レシピ46品』(ホビージャパン)は、発売前から、ぜひ取材をしてみたいという期待を抱かせてくれた本であった。 日本海軍の料理数十点のレシピと、その歴史を紹介する本が発売されるということを初めて知ったのは、7月はじめのことであった。幾人かの関係者がTwitterで、築地の料理スタジオで調理と撮影、試食の様子をツイートしているのを見つけたのである。3日間に及ぶ撮影。その写真だけで、これは絶対に読まなくてはならない本だと確信した。 『艦隊これくしょん-艦これ-』を機に、数十年ぶりに、私の軍艦熱が高まって数年。その中で漠然と興味を持っていたのは、軍艦の中での食事である。理由は様々だが、そうした料理を食べることで、同時代を味わうことができるのではないかと思ったからである。 ネットで検索すると、当時の海軍料理のレシピを紹介している人は幾人かいる。それらを参考にしながら、メジャーどころの料理は、自分でも挑戦してみた。 それだけでも発見は大きかった。例えば、肉じゃがである。ネットで見つけた、明治時代の日本海軍のレシピでは、玉ネギは最後に入れて短時間だけ火を通すと記されていた。料理をしたことがある人ならばわかるだろうが、通例、肉じゃがを作るときには、玉ネギもとろとろになるくらいに煮込むものである。それが、半生だとどうなるのだろうか。 食べてみて、目を瞠った。 シャキシャキした食感の玉ネギ。それが、薬味のようにジャガイモやニンジン、牛肉と絡み合って、新鮮なうまさを与えてくれたのだ。 日本海軍は、こんなうまいものを作っていたのか。ならば、もっと様々な料理を作ってみたい。そんな思いはあったけれども、一筋縄にいくものではなかった。ネットで得られる当時のレシピは限られたものなのである。偶然、元海軍主計中佐の瀬間喬『日本海軍食生活史話』(海援舎)を手に入れたときには、大いに期待した。けれども、残念なことにレシピはほとんど掲載されていない。その上、資料の中に多くの料理名が掲載されていたものだから、余計にフラストレーションがたまってしまった。 きっと、海軍料理に興味を持っている大勢の人が、もっと手軽にもっとたくさんのメニューに挑戦してみたい。そんな思いを抱いているのではないかと考えていた。 ■マカロニは「竹管の如き饂飩」 そこへ降臨したのが『海軍さんの料理帖』であった。別件の仕事に追われていたため、私は、発売から数日遅れて、届いていたAmazonの封を開いた。 そして、まずパラパラとページをめくっただけで、この本のとんでもない価値を瞬時に理解した。 美麗に盛り付けられた、各々の料理写真と共に紹介されるレシピ。必要な材料も、実際の調理法も、分量や煮込む時間など、ひとつひとつが丁寧に記されている。その料理に添えられた文章もまた、海軍に限らない、当時の日本の食文化を伝えてくれるものであった。 例えば「チキンマカロニー」のページ。そこには、レシピと共に、こう記されている。 * * * 洋食を推奨していた日本海軍でも頻繁に登場するのだが、当時のマカロニは「竹管の如き饂飩」と呼ばれ、多くが30cmほどの長い棒状をしており、直前に適当な長さに切って使っていたのである。 * * * この、わずかな文章だけで、様々なことに気づかないだろうか。戦前から、日本でもマカロニが食べられていたこと。それが海軍でも親しまれていたこと。その形状の違い等々……。各章の合間のコラムはもちろんのことだが、こうしたレシピを紹介するわずかな文章にも、膨大な情報量が注ぎ込まれているのだ。惜しげもなく、様々な知識を提供してくれる著者の有馬という人物は、いったいどれだけの調査と実践を重ねているのだろうか。早くも尊敬の念を浮かべながら、読んでいく中で、ひときわ、目が近づいたページがあった。 ■間宮羊羹レシピ解明の軌跡 それが、間宮羊羹のレシピを紹介したページであった。給糧艦・間宮は、その一隻だけで番組が作られるほどにエピソードに富み、水兵に愛され、現在も語り継がれる船である。艦艇に食糧を供給することを任務にするこの船は、大量の食材と、腕に覚えのある職人たちを乗せて太平洋を西へ東へと奔走した。普段の食事だけでなく、アイスクリームやラムネなどの嗜好品も製造し、供給していた間宮。 その中でも、羊羹は特に人気のお菓子として、現在に至るまで語り継がれている。今でも、軍港の町として栄えた呉などでは、土産品として間宮の名前を冠した羊羹が売られている。けれども、それは海軍の標準的なレシピを参考にしたもの。専門の菓子職人が乗艦し、製造していた間宮羊羹のレシピは、今ではわからなくなっていると聞いていた。 ところが、ここには、幻のはずの間宮羊羹のレシピが掲載されている。それも、写真を見たところ、普段目にするような羊羹とは、見た目も違う。表面に砂糖が浮いた姿は、それだけで「これは、うまい」と語りかけてくるようであった。 いったい、どうやって、このレシピにたどり着くことができたのか。それは、取材の時に必ず教えてもらわねばならないと思った。 そして、いくつかの質問の後に、間宮羊羹の話を切り出した私に、有馬氏の口から出たのが冒頭の一言であった。 思わず身を乗り出しそうになりつつ、どうやって、そこまでたどり着いたのかを聞いた。有馬氏はもったいぶることなどなく、丁寧に解明までの経緯を教えてくれた。 前述のように、いま間宮羊羹という名前を冠して売られているものは、昭和17年頃に海軍が教科書として作成した『海軍主計兵調理術教科書』に掲載されているレシピである。 「これは、違うんじゃないか」 そう考えた有馬氏は、間宮のことを丹念に調査することを決めた。その最中に、ある人物から連絡が寄せられた。それは、実際に間宮に乗艦していて亡くなられた菓子職人の遺族からであった。 「その方もご自身で羊羹の再現に挑戦されていました。そこで、乗艦された方の経歴をお伺いしてみると、鹿児島の小林のお菓子屋で働いていたときに、友人伝いに当時の間宮の艦長に誘われて、乗艦したそうなんです」 そのわずかな情報を手がかりに、有馬氏は調査を続けた。間宮そのものだけでなく、九州の羊羹が、どのようなものかということを、である。 「小林で修行した味に艦長が惚れ込んだというのであれば、当時の小林の羊羹はどんなものなのかと考えました。そうして調査しているうちに、九州の和菓子文化は多くが佐賀県の小城を発祥とすることがわかりました。かつて小城で修業した多くの職人が、九州各地に散らばっていって独自の和菓子文化をつくりあげていった、という背景がわかってきたんです」 その小城で知られるのが、明治中頃から始まった小城羊羹である。この羊羹の特徴は、表面の糖衣。乾燥した表面に砂糖の結晶をまとわせていることである。その砂糖の効果で、外はパリッとして歯ごたえがあり、中はもちっとした食感を楽しめるのである。 「ご遺族の方にお伺いすると、間宮で作られていた羊羹を当時お土産にもらって、実際に食べたことがあるというのです。その見た目は金つばによく似ていたといいます。金つばよりもパリッとして、もちもちして、ずしんと甘いが後を引かない。そこで、同じ特徴を持つ小城羊羹のような作り方をしていたのが、間宮羊羹ではないかと思ったんです」 さらに調べていくと、いくつか残っている海軍兵の証言でも、同様の見た目や食感を記しているものが多くあった。当然、お土産として持ち帰ったものよりも、製造してから食べるまでの時間は短いはずだ。 「間宮は南太平洋に進出して、羊羹を製造し供給していました。通常の羊羹でも、時間がたてば表面が乾燥してパリッとしてくる。しかし南太平洋の高温多湿な環境では、短時間に表面が糖衣化することはありません。ということは、間宮では実際に表面を糖衣化する手順を加えていたのではないかと考えたんです」 ここまで聞いて、このレシピに間違いがあるはずがないと思った。でも、有馬氏はさらに、精緻なレシピの再現のために情熱を注ぐことをやめなかった。 「SF作家の野尻抱介さんが、比重計を用いた科学的アプローチで間宮羊羹の再現を試みていることに、私はいたく感銘を受けていました。ですので、私の検証内容に野尻さんのアプローチを組み合わせてレシピを組み立て、撮影の時にも実際に来ていただいて、様々なご意見をいただきました」 言葉にして語ればわずか数分。とはいえ、メール1本とか、数冊の本を読むだけで解明できるようなことではない。その情熱に圧倒されながら7~8割と言い切ることができる自信を得るまでに費やした時間を聞いた。 「だいたい2年はかかりましたね。10割といきたいところですが、職人の技術や当時の砂糖の精製度、小豆の品種違いなどで、どうしても違いが出てくるでしょう。そんな不確定要素を加味したのが7~8割という数字です」 間宮羊羹のページのレシピを除いた文字数は、わずかである。そのわずかな文字数のために注がれた時間。さらには取材費も。絶えることのない好奇心と情熱が結実したのが、この本なのだと、改めて考えた。 ■はじまりは一冊の献立集から この本のはじまりは、ひとつの資料との出会いだった。「もともと、食いしん坊ではあるけど」という有馬氏だが、10年ほど前まで海軍料理の知識は、まったく持ち合わせていなかった。 「海軍の料理といえば、水が少ないし制約があるのではないか、という程度に思っていました」 けれども偶然、「第一艦隊で料理コンテストが開催されたことがある」と聞いたことが、意識をガラリと変えるきっかけになった。そのコンテストを記録した『第一艦隊献立調理特別努力週間献立集』。何かの話のタネになるかも知れないと、有馬氏は資料を所蔵する舞鶴の海上自衛隊第四術科学校に問い合わせた。 「快くコピーしていただいたのですが、驚きました。なんていうのか、海の上の料理がこんなに幅広く、艦によっても違いがある。そこで興味を持って調べていったら、年代ごとに料理の内容も少しずつ変わっていく……そんなことがわかって、現在に続くという感じです」 今回の本では、明治時代から3章構成で、年代ごとに海軍料理を紹介していく。洋食が積極的に取り入れられた明治時代にはじまり、時代を追うごとに料理はバリエーションを増していく。明治期の日本風にアレンジしつつも積極的に洋食を取り入れようとしていた時代のレシピ。そこから、様々な食材を取り入れてアレンジしたレシピが考案されていく広がりは、目を瞠る。 「日本の食文化の変化を反映しているが、そのときの料理の最新のモードも導入している。当時の海軍は、世界の文物にいちばん早く触れることができる組織だった。なので、日本の食文化の中でも、もっとも最新のモードを導入していたのだと思います」 そうした最新モードを取り入れていくことが奨励される空気があったのだろうか。『第一艦隊献立調理特別努力週間献立集』で、もっとも絶賛されたのは戦艦・伊勢の「ホワイトシチュー素麺」だったという。あさりを具材に使ったホワイトシチューに、素麺をつけ麺のようにして食べる料理である。 「よく考えたらスープスパゲッティ。当時の人の味に対する考え方が柔軟だったのがわかります。当時の人は、味噌汁にカレー粉を入れたりしてますからね」 様々な資料を調査し、多くの海軍料理に出会った有馬氏だったが、ここで一つの問題に出くわした。当時の海軍料理を記した資料には、写真もなければ材料の分量すら書いていないのである。 「写真にはたくさんの情報が詰まっているんですが、それが一切ない。見た目も分量もないということは、例えば<生地に青のりを振りかける>と書いてあっても、どれくらいかければいいかわからない。生地を丸めるときの形もわかりません」 分量が書いていないのには理由がある。当時の調理を担当する主計兵への教育は「舌で覚えろ」が基本だったからである。 「何をどう炒めるか、どのタイミングで味付けするかなどの大まかな流れは書いてあります。けれども分量が書かれた資料は、戦時下で新兵に速成教育を施さねばならなくなった昭和17年頃まで現れません」 「そこで着目したのが、当時の一般の料理書です。海軍は全国あらゆる地域から集められた人々が、各地の艦船や部隊に配属される組織ですから、そこで食べられる料理は地域性が少ない味になっていく。そして、時代ごとの食文化の平均は家庭料理に現れるものです。ですので、当時の一般的な家庭料理書の中から同種の料理レシピをひもといていけば、海軍のそれと近似値になると考えたのです」 それはつまり、何もわからないところからスタートしたということか。そう尋ねると、有馬氏は首を縦に振った。ここに、さらなる本の価値が現れている。 『海軍さんの料理帖』は、いうなれば海軍料理を再現した本である。でも、単に当時の資料をもとにして再現したのではない。残された資料から、レシピを再構築し再現したのである。つまり、すべての料理の背景に膨大な資料が存在するのだ。 「ひとつの料理あたり、重複はありますが50冊くらいの文献は読んでいます。一番簡単だったのは出汁の取り方です。それは、当時の海軍兵の回想記にも書いてありますから」 そうして解明されたレシピを、有馬氏は自分で調理して検証した。時には大失敗することもあったというが、少しずつ正解が導き出されていった。それを有馬氏は、同人誌『提督の食卓』シリーズとして刊行。それが、今回の『海軍さんの料理帖』へとつながっている。 今回、収録されたレシピのうち、明治時代の一部を除けば、ほとんどが有馬氏が自分で試したものなのである。 でも、実は、これはまだまだほんの一部だと有馬氏は言う。 「自分が作ったことのある料理は90~100種類くらいです。今、わかっている料理の数は500~600くらいはあって、これから少しずつ検証していこうと思っています」 すでに何年もの時間を費やしたが、それでも海軍料理は奥が深い。そして、間違った都市伝説なども生まれてしまっているという現状がある。本の中でも記されているが、海軍では金曜日はカレーを食べていたというのも、実はまことしやかな都市伝説だったのである。 「この都市伝説ができたのは新しい。海上自衛隊では毎週金曜日にカレーを食べる習慣がありますが、これがかつての海軍でもそうだったのだ、という誤解につながったのでしょう。実際には、海軍では特定の曜日にカレーを食べる習慣はありませんでした」 そうした都市伝説が、一人歩きしてしまう背景には、海軍料理に関する資料で失われたものが多いこともあるようだ。 「太平洋戦争中、ある作戦の前に何を食べたか。それは証言はあっても文献としてはほとんど残っていません。各艦艇では、毎食の食事内容を『献立簿』に記録しておく義務があったのですが、現在残っている献立簿は昭和3年の戦艦・長門の1カ月分の記録だけです。あれだけ大量の艦艇があったのに」 そのように資料が散逸してしまった中で、情熱によって生まれた『海軍さんの料理帖』。これは、日本海軍の食生活を知ることができる資料本だろうか。いや、もし資料として読むだけだとしたら、とてももったいない。 ■実践によって歴史を体感することのススメ レシピをもとに実際に料理をつくる実用書として使ってこそ、読者は本を購入した意義を感じるだろう。なぜなら、ここに記録されたレシピを試すのは、単にうまいものを作るのではなく、五感で当時を味わうことになるからだ。 カルチャー また、間宮の話に戻るが、収録されている間宮のアイスクリームのレシピでは、卵が使用されていない。ここにも意味がある。 「当時の日本の卵は、現在よりもサルモネラ菌の保菌率が高く、生では食中毒を起こしやすかった。だから、熱帯で活動する間宮では、アイスクリームに卵を使わなかったんです」 文字で読むだけなら「ふうん」で終わってしまう。けれど、実際に作って食べてみたらどうだろうか。当時を感じ、現代のアイスクリームとの味の違いを知ることもできる。 何より「同じものを食べている」という行為は、様々な方向へ思いを広げていくはずだ。 「海軍料理というと難しいと思われる人もいます。でも、少なくとも下士官や兵にむけた食事は短時間で大量に作る給食スタイルなんだから、誰だって作れる程度に簡単なレシピなんですよ」 私も取材から、原稿を書くまでの数日間の間に、初めて知ったいくつかの料理を試した。とりわけ、ホワイトシチュー素麺のうまさには感激した。 趣味の一つとして、普段の食事のバリエーションとして海軍料理が、多くの人に愛されていけばよいなと思う。 (取材・文=昼間たかし) 『海軍さんの料理帖 明治~昭和まで歴史で辿る日本海軍レシピ46品』 http://hobbyjapan.co.jp/books/book/b307946.html スタジオゴンドワナ http://gondwana.biz/『海軍さんの料理帖 明治~昭和まで歴史で辿る日本海軍レシピ46品』(ホビージャパン)
14年間タイの刑務所で服役した男の獄中記『求刑死刑 タイ・重罪犯専用刑務所から生還した男』
『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ系)、『クレイジージャーニー』(TBS系)、『陸海空 こんな時間に地球征服するなんて』(テレビ朝日系)など、いまや海外を巡るバラエティ番組は百花繚乱。日本では見ることのできない驚きの文化や景色が、視聴者の目をくぎづけにしている。だが、そんな番組では取り上げられない風景を描くのが、『求刑死刑 タイ・重罪犯専用刑務所から生還した男』(彩図社)だ。著者の竹澤恒男氏は、日本に覚せい剤を密輸しようとしてタイの空港で逮捕され、14年にわたって現地の刑務所に服役していた人物。彼の体験談から浮かび上がってくるのは、日本とはまったく異なるタイの刑務所事情だった。 2002年、竹澤はタイのドンムアン空港の出国ゲートで、覚せい剤「ヤーバー」1,250錠を所持していたところを逮捕された。そのまま麻薬取締局で取り調べを受けるも、通訳の日本語能力がお粗末すぎ、ろくな会話にならない……。さらに驚くのが、日本では考えられないずさんな裁判。国選弁護人と打ち合わせをして、いざ裁判が開始されると思いきや、なんと弁護士にドタキャンされてしまった! 困り果てた竹澤を見かねて、偶然傍聴席に居合わせた女性弁護士が片言の日本語を通じて弁護をするも、薬物事件に関する知識はゼロ。その結果、検察側は竹澤に対して死刑を求刑。1審の判決は通常よりもはるかに重い終身刑、2審、3審の判決は懲役30年を言い渡された。こうして、タイの地で犯罪者となった竹澤は、殺人、強盗、強姦、薬物犯などが収容される重罪犯専用刑務所「バンクワン刑務所」に移送された。 刑務所といえば、刑務官の厳しい監視のもとに、囚人たちが規則正しい生活を送る――というイメージを持つ人がほとんどだろう。しかし、バンクワン刑務所では、そんな日本人の常識はことごとく覆されてしまう。 定員の倍近い6,200人が収容されるバンクワン刑務所では、規律が緩みきっていた。現金の所持が黙認され、囚人が売店を経営して、日用品、食商品、そしてタバコも販売されている。酒の販売はなかったが、囚人たちはブドウやパンを使って密造酒づくりに精を出していた。また、携帯電話やドラッグなども密売人の手によって売買されており、サッカー、タイボクシング、サイコロなど、あらゆる種類の賭博が行われていた。 そんなバンクワン刑務所では、トラブルは尽きない。金の貸し借りをめぐって囚人同士による乱闘や刃傷沙汰が発生することも日常茶飯事。ためらいなく賄賂を受け取る刑務官は、囚人を棒でリンチし、撲殺することもある。もちろん、死因は「病死」として処理される……。 刑務所生活が驚きの連続なら、そこに収監された囚人たちも常軌を逸していた。麻薬犯罪で捕まったレディーボーイや、国王への不敬罪を犯した者、さらには何人もの子どもたちを強姦した仏教の僧侶といった、いかにもタイらしい犯罪者だけでなく、ロシアの武器商人、イラン、ナイジェリアなどの麻薬密売人。その中に、竹澤ら何人かの日本人も含まれていた。 暴力が渦巻くバンクワン刑務所で、竹澤はタバコのバラ売りや差し入れ品の転売といった商売を行いながら長い年月を過ごした。自炊の許された刑務所内で日本食を振る舞ったり、ラジオや本などの息抜きはあったものの、金や所持品の盗難、借金のトラブル、そしてジャンキーからあわや殺されかけるといった危険な日々について、竹澤は「史上最悪の場所」「悪夢といっていいような時間を過ごした」とつづっている。ようやくこの「悪夢」から逃れたのは、逮捕から14年後。国王による特赦の恩恵にあずかった竹澤は、日本へ強制送還された。 東南アジアでは、ドラッグが身近に手に入るが、営利目的の密輸は、ほぼすべての国で死刑が求刑される。竹澤は、当時を振り返り「私のようになりたくなければ、絶対に手を出してはいけない」と記す。バンクワン刑務所の恐ろしさを知れば、どんな人間でも絶対に麻薬密輸に手を染めることはないだろう。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])『求刑死刑 タイ・重罪犯専用刑務所から生還した男』(彩図社)
言うことを聞かない母の頬を何度も平手打ち……50代独身男が経験した、ひとり介護生活の限界『母さん、ごめん。』
東京都だけでも58万人。全国に広げると、634万人を数える要介護者数。今後、高齢化が加速すれば、この数字はますます伸びていくだろう。さまざまなメディアが報道しているように、今、介護現場には深刻な危機が訪れている。 科学ジャーナリストの松浦晋也氏(以下、敬称略)は、2014年から2年半にわたって、認知症となった母親の自宅介護を経験した。それまで介護とは無縁だった彼は、悪戦苦闘しながらその記録を『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』(日経BP社)として上梓した。 松浦の経験を通して介護の実態を見つめると、そこには厳しい現実があった。 2014年7月、80歳になる母親は「預金通帳がない」と騒ぎ始めた。決まった場所に置いてあるにもかかわらず、たびたび同じことが繰り返される。ほかにも家事を面倒くさがるようになり、コンロにかけたヤカンを空焚きするといった危険な状況が、しばしば起こるようになった。だが、松浦はそんな母親の行動を認知症と受け止めず、単なる「うっかり」だと思い込む。母親が「認知症患者」になったことを認められなかったのだ。そして、ここから始まる彼の介護生活は「失敗」の連続だった。 手探りで病院を調べ、ようやく評判の総合病院を探し出したものの、診療の予約は数カ月先まで埋まっていた。やむなく待つことを選んだが、松浦は、いち早く病院で確定診断を受けて介護生活の準備を始めるべきだったと振り返る。診断を待つ間にも、認知症はどんどんと進展していくのだ。 母親の認知症は、家事ばかりでなく、通信販売で不必要なものを買い漁り、失禁してしまったりと進んでいき、松浦の両肩に、容赦なくその重みは降りかかるようになる。認知症によって性格が怒りっぽくなった母と余裕がなくなった松浦は、そのストレスに耐えきれず、激しい言い争いに発展することも。「子どもには育つ喜びがある。介護にはない。日々少しずつ症状は進行し、ますます手がかかるようになっていくという寒い現実があるだけである」(本書より)。不眠症に陥った松浦は感情的になり、幻覚を見るほどに追い込まれていった。 だが、そんな松浦に救いの手が差し伸べられる。突如、介護生活に放り込まれた松浦は「自分で母を支えるしかない」と、公的介護保険制度を利用することをまったく考えていなかったが、周囲のアドバイスによって介護申請手続きを行うと、母は「要介護1」の認定を受け、ケアサポートが受けられるようになったのだ。15年5月、松浦はようやく孤独な介護から解放され、ケアマネージャーの協力のもとに、二人三脚での介護をスタートさせた。 そんな介護の経験から、松浦は、介護者本人が「可能な限り楽をする」ということの重要性に気づいた。「体験してはじめてわかったことではあるが、認知症老人の介護は、自分ががんばればなんとかなるような甘いものではなかった。介護をやり遂げるには、『公的介護制度をいかに上手に使い倒すか』という戦略性が必須だった」「『私が犠牲になってがんばればいい』では、介護する側もされる側も不幸になる。介護される側と同等、場合によってはそれ以上に介護する側をケアする必要がある」。失敗を経験したからこそ、松浦の気づきは説得力を持って読者に迫ってくる。 ヘルパーやデイサービスの利用など、なんとか介護の体制を整えたものの、残念ながら平和な時間は長く続かなかった。母の病状は進行し、失禁の量は増え、満腹中枢が刺激されないことから過食状態になる。台所を引っかき回し、食べられるものをガツガツと際限なく食べてしまうのだ。母は、排泄や入浴、衣服の着脱などにもほぼ全面的な介護が必要な状態という「要介護3」に引き上げられた。過大なストレスにさらされた松浦は、やがて「死ねばいいのに」という言葉が無意識に口をつくようになる。そして、介護生活から2年、追い込まれた松浦は、ついに母に対して手を上げてしまった。 何度も頬を平手打ちする松浦が正気を取り戻したのは、母親の口から流れる血を見た時だ。だが、母は「なんで私、口の中切ってるの。どうしたのかしら」とつぶやいた。母親の認知症は、暴力の記憶すらもとどめておくことができないほどに進行していたのだ。ケアマネージャーと相談し、母親はショートステイ施設へと送られた。ケアマネージャーは「私から見ても、ここしばらくの松浦さんは、もう限界だなと思っていました。よくここまで頑張られたと思います」と松浦を慰めた。 そして、運良くグループホームへの入居が決まった母親は、家を出て施設に入ることとなる。 『母さん、ごめん。』というタイトルとは裏腹に、負担のかかる介護を、松浦は献身的にこなした。そんな生活を通じて彼が手にしたのは、介護は「『子どもが、家族が、がんばればできる』というものでは絶対にない」という確信だった。家族だけでなく、行政の制度やヘルパー、デイサービス、ショートステイなどの施設がなければ、松浦もまた介護に押しつぶされ、最悪な結果が待っていたかもしれない。本書あとがきに記されている「今後の少子高齢化をよりよいものにするために、私たちは個人や家族ではなく、『社会全体で高齢者を介護する』ことを意識して実現していく必要がある」という言葉を、介護未経験の読者もまた、心に刻みつけておくべきだろう。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』(日経BP社)
母親の浪費癖、ラブホテル生活、野宿の果てに……17歳少年による「川口祖父母殺人事件」の悲劇
孫が祖父母を殺害する事件は、決して珍しいものではない。ここ数年だけでも、2015年に山梨県河口湖町で高校3年生の孫が80代の祖父母を、16年には兵庫県赤穂市で19歳の孫が介護をしていた祖父母を殺害。今年7月にも、神戸市北区で26歳の孫が「誰でもいいから攻撃してやろう、刺してやろうと思った」と、祖父母ら3人を刺殺している。 しかし、14年に埼玉県川口市で当時17歳の少年が金欲しさに祖父母を殺害した事件は、数ある祖父母殺しの中でも極めて特殊なケースだ。毎日新聞記者・山寺香が記した『誰もボクを見ていない』(ポプラ社)を一読すれば、“いったい、本当の加害者は誰か?”という疑問に突き当たるだろう。 事件の犯人となった優希(仮名)は、幼少時こそ、両親と3人で暮らしていたものの、4歳になる頃に一家の借金は膨れ上がり、父方の祖母を頼って関東近郊の地方都市に夜逃げ。母の幸子(仮名)は家計が苦しくても働かないどころか、父親が家賃として渡した金を大家に支払わず、パチンコなどに浪費した。 しかし、浪費癖があっても、いつも一緒にいてくれる幸子は、優希にとってまだ「いい母親」であった。 優希の小学校入学を機に、一家はさいたま市内のアパートに転居し、幸子は水商売で働き始める。優希の人生が狂い始めるのはこの頃からだ。父親は愛人の元に入りびたり、アパートにはほとんど帰らない。優希が2年生になると、幸子はホストクラブに通い詰め、働かなくなる。両親のいない家で、優希はコンビニ弁当を食べながら孤独を募らせるばかりでなく、幸子が友達を連れて帰宅したり、ホストや元ホストが居候したりと、生活はメチャクチャに。不規則な日々の中、次第に優希は朝起きることができなくなり、4年生になると学校に行かなくなった。その頃、正式に両親は離婚。優希は、母親側に残ることを選んだ。 その後の彼の暮らしは、「異常」という言葉がふさわしい。母子は店の客で、「金づる」と呼んでいた中年男性と暮らすこととなるが、すぐに幸子はインターネット掲示板で知り合った名古屋のホスト・亮の元へ身を寄せ、1カ月にわたって家出する。この時の「捨てられた」と感じた絶望的な経験は、優希の心に深い傷を残した。ようやく戻ってきた幸子は、優希を連れて名古屋へと向かい、亮の元に転がり込む。その後、亮も一緒にさいたま市に戻るが、2人とも仕事をせず、優希が持っていたゲームを売ったり、亮の親戚に金を借りるなどして生活費を工面した。それも尽きると「金づる」をだまして、数十万円の金を得るなど、その場しのぎの毎日だった。 その後、各地を転々とした彼らがようやく落ち着いたのは、ラブホテルだった。彼らは、なんと2年間にわたって、ここで生活を営んでいる。優希は学校に通わず、幸子とともにゲームセンターや漫画喫茶でチェックインの時間となる20時まで時間を潰し、日雇いの仕事から帰ってくる亮を待った。その部屋で亮と幸子は、優希の存在に構わずセックスをした。セックスを見せつけるだけでは飽き足らなくなった亮は、優希の顔をつかみ、フェラチオを強要。幸子は、ただ笑ってその様子を見ているだけだった。そして、日雇いで食いつないでいた亮の収入がなくなり、親戚への金の無心もできなくなると、ラブホテルの敷地にテントを張って野宿をするという、どん底の暮らしが優希を待っていた。 その頃、幸子は、亮との子を妊娠した。生まれた女児は結衣(仮名)と名づけられたものの、出生届も提出されず、戸籍のない子どもとなる。一家は、親しくなった家族の金を持ち逃げして、横浜市へ逃走。初めはホテル暮らしをしていたものの、ほどなくして金も尽き、横浜スタジアム周辺や児童公園で野宿をするようになった。結衣の面倒はすべて優希が見ていた。しかし亮は、野宿のストレスから、次第に優希に対して暴力を振るうようになる。当時、優希は「死ねたら楽だろうな」と何度も考えたという。 どん底の生活に陥った優希たちに、希望の光が差すのがこの頃。生活困窮者向けの相談窓口に足を運ぶと、生活保護を受給することができるようになった。普通なら中学2年になる優希と、まだ幼い結衣のことを心配した児童相談所は一時保護を勧めるも、幸子は「家族一緒でないとダメ」と拒否。しかし、野宿生活を脱し、簡易宿泊所で生活しながら、優希はフリースクールに通うことができるようになった。 これでようやく安定するかのように見えた生活も、わずか半年間でついえる。生活保護費を得ても、ホテルやゲームセンター、パチンコなどで浪費する幸子は、行政から保護費の使い方について指導を受けるのを嫌い、簡易宿泊所を出て元の生活に戻る。幸子の川口市の実家、亮が住み込みで働いた横浜市鶴見区の新聞配達店、埼玉県内の建設会社や塗装会社の寮などを転々とした。そんな生活に愛想を尽かし、亮は消えた。 その後、今度は優希が同じ塗装会社で働き、そのまま会社の寮に住むことができるようになった。亮は、数カ月分の給料を前借りし、会社の先輩にも借金をしていたが、それでもなお、幸子は遊ぶ金を工面するため、優希に指示して給料を前借りさせた。幸子から捨てられることにおびえていた優希には、その言葉に従う選択肢しかなかったのだ。しかし、借金が膨らんだ一家は、ここからもまた姿を消した。 行き場を失った母子は、幸子の実父母への借金の申し入れも断られる。「ばあちゃんたち殺しでもすれば(金が)手に入るよね」と漏らす幸子に、優希は冗談だと思い、「そうだね」とあいまいに返事をしたが、それに対して、幸子は「本当にできるの?」「結局できないの?」とたたみかけた。翌日、2人は殺害方法を話し合い、優希は祖父母宅を訪ねた。初めは金を借りることで済ませようとした優希だが、これまで何度も借金を引き受けてきた祖父母は、その申し出を拒否。そして、優希は祖母の首を延長コードで絞め、キッチンにあった包丁を使って殺害、祖父も後ろから刺殺すると、現金8万円、キャッシュカード、カメラなどを盗んで家を出た。その後、母と妹と合流すると、ホテルにチェックイン。祖父母を殺して得た金も、幸子によって、わずか3日あまりで使い尽くされた。事件から1カ月後、優希は逮捕された。 裁判で、優希は懲役15年の刑が確定した。もちろん、この事件の加害者は優希だが、本書を通じて彼が過ごしてきた短い人生をたどっていくと、彼もまた被害者のひとりという気がしてならない。彼は17年、山寺に送った手記の中で「本当は罪なんて犯したくない。でも、もうこれしかなかったんだ」とつづっている。一方、強盗の容疑で懲役4年6カ月の刑に服している幸子は、もうすぐ刑期を終えて出所することになる。 幸子の浪費癖さえなかったら、児童相談所が一時保護をしていれば、この環境から逃げ出せていれば、彼は「殺人犯」ではなく、真面目で内気な「普通の子」だったはずだ。しかし、運命はそれを許さなかった。 皮肉にも、刑務所に入った今、彼はようやく勉強に打ち込むことができるようになった。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])『誰もボクを見ていない: なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか』(ポプラ社)
母親の浪費癖、ラブホテル生活、野宿の果てに……17歳少年による「川口祖父母殺人事件」の悲劇
孫が祖父母を殺害する事件は、決して珍しいものではない。ここ数年だけでも、2015年に山梨県河口湖町で高校3年生の孫が80代の祖父母を、16年には兵庫県赤穂市で19歳の孫が介護をしていた祖父母を殺害。今年7月にも、神戸市北区で26歳の孫が「誰でもいいから攻撃してやろう、刺してやろうと思った」と、祖父母ら3人を刺殺している。 しかし、14年に埼玉県川口市で当時17歳の少年が金欲しさに祖父母を殺害した事件は、数ある祖父母殺しの中でも極めて特殊なケースだ。毎日新聞記者・山寺香が記した『誰もボクを見ていない』(ポプラ社)を一読すれば、“いったい、本当の加害者は誰か?”という疑問に突き当たるだろう。 事件の犯人となった優希(仮名)は、幼少時こそ、両親と3人で暮らしていたものの、4歳になる頃に一家の借金は膨れ上がり、父方の祖母を頼って関東近郊の地方都市に夜逃げ。母の幸子(仮名)は家計が苦しくても働かないどころか、父親が家賃として渡した金を大家に支払わず、パチンコなどに浪費した。 しかし、浪費癖があっても、いつも一緒にいてくれる幸子は、優希にとってまだ「いい母親」であった。 優希の小学校入学を機に、一家はさいたま市内のアパートに転居し、幸子は水商売で働き始める。優希の人生が狂い始めるのはこの頃からだ。父親は愛人の元に入りびたり、アパートにはほとんど帰らない。優希が2年生になると、幸子はホストクラブに通い詰め、働かなくなる。両親のいない家で、優希はコンビニ弁当を食べながら孤独を募らせるばかりでなく、幸子が友達を連れて帰宅したり、ホストや元ホストが居候したりと、生活はメチャクチャに。不規則な日々の中、次第に優希は朝起きることができなくなり、4年生になると学校に行かなくなった。その頃、正式に両親は離婚。優希は、母親側に残ることを選んだ。 その後の彼の暮らしは、「異常」という言葉がふさわしい。母子は店の客で、「金づる」と呼んでいた中年男性と暮らすこととなるが、すぐに幸子はインターネット掲示板で知り合った名古屋のホスト・亮の元へ身を寄せ、1カ月にわたって家出する。この時の「捨てられた」と感じた絶望的な経験は、優希の心に深い傷を残した。ようやく戻ってきた幸子は、優希を連れて名古屋へと向かい、亮の元に転がり込む。その後、亮も一緒にさいたま市に戻るが、2人とも仕事をせず、優希が持っていたゲームを売ったり、亮の親戚に金を借りるなどして生活費を工面した。それも尽きると「金づる」をだまして、数十万円の金を得るなど、その場しのぎの毎日だった。 その後、各地を転々とした彼らがようやく落ち着いたのは、ラブホテルだった。彼らは、なんと2年間にわたって、ここで生活を営んでいる。優希は学校に通わず、幸子とともにゲームセンターや漫画喫茶でチェックインの時間となる20時まで時間を潰し、日雇いの仕事から帰ってくる亮を待った。その部屋で亮と幸子は、優希の存在に構わずセックスをした。セックスを見せつけるだけでは飽き足らなくなった亮は、優希の顔をつかみ、フェラチオを強要。幸子は、ただ笑ってその様子を見ているだけだった。そして、日雇いで食いつないでいた亮の収入がなくなり、親戚への金の無心もできなくなると、ラブホテルの敷地にテントを張って野宿をするという、どん底の暮らしが優希を待っていた。 その頃、幸子は、亮との子を妊娠した。生まれた女児は結衣(仮名)と名づけられたものの、出生届も提出されず、戸籍のない子どもとなる。一家は、親しくなった家族の金を持ち逃げして、横浜市へ逃走。初めはホテル暮らしをしていたものの、ほどなくして金も尽き、横浜スタジアム周辺や児童公園で野宿をするようになった。結衣の面倒はすべて優希が見ていた。しかし亮は、野宿のストレスから、次第に優希に対して暴力を振るうようになる。当時、優希は「死ねたら楽だろうな」と何度も考えたという。 どん底の生活に陥った優希たちに、希望の光が差すのがこの頃。生活困窮者向けの相談窓口に足を運ぶと、生活保護を受給することができるようになった。普通なら中学2年になる優希と、まだ幼い結衣のことを心配した児童相談所は一時保護を勧めるも、幸子は「家族一緒でないとダメ」と拒否。しかし、野宿生活を脱し、簡易宿泊所で生活しながら、優希はフリースクールに通うことができるようになった。 これでようやく安定するかのように見えた生活も、わずか半年間でついえる。生活保護費を得ても、ホテルやゲームセンター、パチンコなどで浪費する幸子は、行政から保護費の使い方について指導を受けるのを嫌い、簡易宿泊所を出て元の生活に戻る。幸子の川口市の実家、亮が住み込みで働いた横浜市鶴見区の新聞配達店、埼玉県内の建設会社や塗装会社の寮などを転々とした。そんな生活に愛想を尽かし、亮は消えた。 その後、今度は優希が同じ塗装会社で働き、そのまま会社の寮に住むことができるようになった。亮は、数カ月分の給料を前借りし、会社の先輩にも借金をしていたが、それでもなお、幸子は遊ぶ金を工面するため、優希に指示して給料を前借りさせた。幸子から捨てられることにおびえていた優希には、その言葉に従う選択肢しかなかったのだ。しかし、借金が膨らんだ一家は、ここからもまた姿を消した。 行き場を失った母子は、幸子の実父母への借金の申し入れも断られる。「ばあちゃんたち殺しでもすれば(金が)手に入るよね」と漏らす幸子に、優希は冗談だと思い、「そうだね」とあいまいに返事をしたが、それに対して、幸子は「本当にできるの?」「結局できないの?」とたたみかけた。翌日、2人は殺害方法を話し合い、優希は祖父母宅を訪ねた。初めは金を借りることで済ませようとした優希だが、これまで何度も借金を引き受けてきた祖父母は、その申し出を拒否。そして、優希は祖母の首を延長コードで絞め、キッチンにあった包丁を使って殺害、祖父も後ろから刺殺すると、現金8万円、キャッシュカード、カメラなどを盗んで家を出た。その後、母と妹と合流すると、ホテルにチェックイン。祖父母を殺して得た金も、幸子によって、わずか3日あまりで使い尽くされた。事件から1カ月後、優希は逮捕された。 裁判で、優希は懲役15年の刑が確定した。もちろん、この事件の加害者は優希だが、本書を通じて彼が過ごしてきた短い人生をたどっていくと、彼もまた被害者のひとりという気がしてならない。彼は17年、山寺に送った手記の中で「本当は罪なんて犯したくない。でも、もうこれしかなかったんだ」とつづっている。一方、強盗の容疑で懲役4年6カ月の刑に服している幸子は、もうすぐ刑期を終えて出所することになる。 幸子の浪費癖さえなかったら、児童相談所が一時保護をしていれば、この環境から逃げ出せていれば、彼は「殺人犯」ではなく、真面目で内気な「普通の子」だったはずだ。しかし、運命はそれを許さなかった。 皮肉にも、刑務所に入った今、彼はようやく勉強に打ち込むことができるようになった。 (文=萩原雄太[かもめマシーン])『誰もボクを見ていない: なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか』(ポプラ社)







