TPPの是非は経済効果だけでは決められない 国家に対して農業が果たす役割

【サイゾーpremium】より ──国家とは、権力とは、そして暴力とはなんなのか......気鋭の哲学者・萱野稔人が、知的実践の手法を用いて、世の中の出来事を解説する──。 第33回テーマ「経済効果で図れないTPPの是非」
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[今月の副読本] 『経済学に何ができるか』 猪木武徳/中公新書(12年)/861円 経済学は、人間社会の何を、どこまで説明できるのか? 多くの価値観が混在する現代社会において、「経済学の可能性を考える」という視座を与える一冊。2010年4月より朝日新聞で始まった連載がもとになっている。

 TPPをめぐる議論が激しくなってきました。3月15日に安倍首相がTPPの交渉に参加することを正式に表明したからです。TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)とは、太平洋をかこむ国々が輸入品にかかる関税などをなくすことで、モノやお金が自由にゆきかう経済圏をつくろう、という取り組みのことです。現在の交渉参加国は、アメリカやオーストラリア、カナダ、メキシコ、シンガポール、ブルネイ、ベトナムなど11カ国です。安倍首相の交渉参加表明は、この11カ国に日本も加わろうということですが、今後このTPPがどのようなかたちで発効することになるのか、そして日本ははたしてTPP加盟国になるのかどうかは、まだまったくわかりません。というのも、まず、現在の交渉参加国のあいだでそもそもどのような議論がなされているのかが、これから交渉に加わろうとする日本には明らかにされていないからです。さらに、TPPに参加すべきか否かをめぐって国内の意見が大きく割れているからです。与党の自民党のなかですら賛否が激しくぶつかりあっているほどです。読者のなかにも、参加したほうがいいのかしないほうがいいのか、考えあぐねている人は少なくないでしょう。  TPPに参加すべきだと考える人たちは、それによって経済が活性化し、日本の経済成長につながると主張しています。たしかに自由貿易圏をめざすTPPに参加すれば、いまより海外への輸出がしやすくなります。また海外から日本への投資も増えるので、それによっても雇用が新たにうみだされるでしょう。さらには、農産物を含めた安い生産品が日本に入ってくるので、消費者は安く商品を買うことができるようになりますし、生産する側も外国製品との競争に負けないために生産性を向上させたり、新しい商品を開発したりするよう努力するでしょう。  とはいえ、こうした経済効果はじつはTPPのひじょうに限定された側面にすぎません。安倍首相の交渉参加表明と同じ日に政府が発表した試算をみてみましょう。それによると、TPPへの参加によって日本のGDP(国内総生産)は10年後に年間3・2兆円増えます(TPP交渉に参加している11カ国のあいだで関税がなくなったと仮定した試算)。現在の日本のGDPは500兆円弱なので、TPPに参加しても10年後に0・66%しかGDPは増えない、ということです。TPP参加によって日本に経済成長がもたらされるといっても、実際にはそれはわずかでしかないんですね。たとえ海外製品との競争が激化することで日本の産業構造の転換やイノベーションがすすむかもしれないとしても、推進派がいうほど実りあるものにはならないのです。  なぜこうなるのかといえば、日本が国際競争力をもっている産業の関税はすでにとても低くなっているからです。たとえばアメリカの乗用車輸入の関税は2・5%です。たとえTPPによってこの関税が撤廃されたとしても、それほど大きな影響はありませんよね。日本を除いた11カ国のなかでアメリカが占めるGDPの割合はだいたい85%ぐらいです(輸入額の割合だと70%ぐらい)。つまり、日本がTPPに参加しても、そこでの輸出の大部分はアメリカへの輸出が占めるということです。ですので、TPPによって乗用車の関税が撤廃されても、それによって日本の自動車輸出が大きく伸びるというわけではないのです。むしろ為替で1ドル80円になったり100円になったりするほうが、輸出にとっては影響が大きいのです。  このことは何を意味するでしょうか。それは、TPPに参加すべきかどうかという問題は数字であらわれる経済効果ではなかなか判断できない、ということです。これはTPPによってもたらされるマイナスの効果についてもいえます。先の政府の試算によると、日本がTPPに参加すると、日本の農業生産額は数年後に3兆円ほど減ります。このマイナス3兆円という数字も、日本のGDPからすれば0・6%程度で大した額ではありません。要するに、経済成長するかしないか、数字のうえで経済効果がどれぐらいあるか、という問題はTPP参加の是非を考えるうえでそれほど本質的な問題ではないのです。  ただし、農業生産額3兆円減という数字は日本の農業にとっては決して取るに足らない数字ではありません。というのも、日本の農業生産額は全体でも11兆円ほどしかないからです。農業はもともと日本のGDPの2%強しか占めていないんですね。11兆円ほどしかないところに3兆円も減ってしまえば、日本の農業は壊滅的な打撃を受けることになるでしょう。たとえばTPP加盟によって砂糖はすべて外国産に置き換わってしまうと考えられています。  したがって問題は、10年後の3・2兆円の経済効果とひきかえに農業が壊滅してしまうことをどのように評価するか、ということになります。この場合、生産性がもともと低かった農業分野は淘汰されても仕方ないだろう、と考えることはもちろん可能です。しかし、農業は農産物を生産するだけでなく、それをつうじて環境保全や国土整備という役割をも担ってきました。ちょうど林業が衰退すれば、山が荒廃し、山の保水力が落ちて、土砂が流出したり洪水が起こりやすくなったりするように、です。そうした農業の役割は数字上の生産性や国際競争力ということだけでは決して評価できません。  次のような意見もあります。日本の農業は国際競争力が低いのだから、日本は工業製品などの生産に特化して、食料は輸入したほうが効率がいい、という意見です。これもしばしばTPP参加の是非をめぐってだされる意見です。とはいえ、この意見もまた重要な点を見逃してしまっています。農産物の国際市場がどのようになりたっているのか、という点です。  農産物のなかでもとくに基本となるのは、コメや麦、トウモロコシや大豆といった穀物ですが、それら穀物の国際市場には、各国で国内需要が満たされたあとの残りしか供給されません。どの国も自国民への食料供給を最優先するからです。だから各国は、不作などで穀物の生産量が落ちると、輸出税を課したり輸出を禁止したりして、穀物が国外市場に流出しないようにするのです。逆に、豊作などで穀物が国内需要よりも多く生産されて余ってしまうと、輸出補助金などをだしてその価格を下げて、余った穀物を国際市場で安く処分できるようにするわけです。  したがって、もし日本が食料の供給を輸入に頼ってしまうなら、世界的な不作などがあったとき、そもそも他国に農産物を売ってもらえないということだってありえるのです。食料の貿易においては輸出国が圧倒的に有利なんですね。事実、GATT(関税および貿易に関する一般協定)のウルグアイ・ラウンド(1986~94)では、農産物の輸入数量制限は撤廃されましたが、日本が主張した輸出数量制限の廃止は認められませんでした。それぞれの国は、輸入量は制限できないが、輸出量は制限できる、というふうになったんですね。農産物の国際市場では、あらかじめ不作のさいの供給保証をしてもらえばすむ、なんて能天気なことは通用しないのです。  この非対称性をどこまで解消できるかがTPP交渉における鍵となります。TPP交渉でおそらく日本は農産物輸入の関税の撤廃か大幅引き下げをせまられるでしょう。そのときに輸出制限の廃止や輸出補助金の廃止をルール化できなければ、日本はたいしたことのないGDPの増加とひきかえに食糧安全保障を大きく損ねることにならざるをえません。先に、TPP参加の是非は数字上の経済効果ではわからない、といったのはまさにこのためです。TPPに参加するということは、多国間のあいだで経済上のルールをつくるということです。しかしそのルールは、数字上の経済効果ではあらわしきれない水準のものなのです。 かやの・としひと 1970年、愛知県生まれ。03年、パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。哲学博士。津田塾大学准教授。主な著書に『国家とはなにか』(以文社)、『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、『権力の読みかた』(青土社)など。近著に『最新日本言論知図』(東京書籍)、『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)など。 「サイゾーpremium」では他にもタブー知らずの識者陣による連載が満載です!】佐々木俊尚のITインサイド・レポート「支配企業になったグーグルの現在」町山智浩の映画がわかる アメリカがわかる「エイズが「死の病」でなくなるまでの知られざる戦い」町田康の続・関東戎夷焼煮袋「肉欲に取り憑かれたSMの老人たちをかき分け、お好み焼きミックスで魂の回復を図る」
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活字の過剰供給と電子書籍化によってついに書物から”アウラ”が消滅!? 書籍の価値が減りゆく理由

【プレミアサイゾーより】 ──国家とは、権力とは、そして暴力とはなんなのか......気鋭の哲学者・萱野稔人が、知的実践の手法を用いて、世の中の出来事を解説する──。 第25回テーマ「出版デフレで欠如した書籍の物神性」
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[今月の副読本] 『複製技術時代の芸術』 ヴァルター・ベンヤミン/晶文社(99年)/1995円 複製技術は芸術になにをもたらしたのか? そこで得たものと失われたものとは? 複製技術というテクノロジーの発展から、芸術のあり方を再考した、ドイツを代表する思想家の論考集。他、「写真小史」など4編を収録。

 近年いろいろなところで「本が売れなくなった」という声を聞くようになりました。少し前には新書ブームがあり、一時的に出版市場が盛り上がったようにも見えましたが、それもいまや沈静化しています。私も出版の世界で活動している人間ですので、本が売れなくなったという事態は決して他人事ではありません。  その事態は数字によってはっきりと示されています。日本の出版市場は1996年に過去最高の2兆6563億円を記録して以降、縮小の一途をたどっています。2009年には21年ぶりに2兆円台を割り込みました。この2兆円台の割り込みはニュースでも報じられたので、知っている人もいるかもしれません。2010年はさらに落ち込んで1兆8748億円になりました。1996年と比べると3割近くも減少しています。これでは多くの出版関係者が「本が売れない」とボヤくのも仕方のないことですね。  興味深いのは、このように出版市場が縮小の一途をたどっている一方で、新しく刊行される書籍の点数は増えているということです。1996年には6万3054点だった新刊書籍刊行点数は、2010年には7万4714点になりました(2009年はもっと多くて7万8555点でした)。つまり、かつてより多くの本が出版されるようになっているにもかかわらず、それぞれの本の販売部数はそれに反比例してどんどん減っているのです。  これは出版社にとっては、一点ごとの書籍の販売部数が減っているので、できるだけたくさんの書籍を刊行することで全体として利益を維持しなくてはならない、という状況を意味します。これはキツイですね。仕事はどんどん忙しくなる反面、だした本はたいして売れることなく、すぐに書店から姿を消していってしまうわけですから。私の周りにも、つくる本のノルマが増えて悲鳴をあげている編集者がたくさんいます。そうなると、いい本をじっくり時間をかけてつくるなんてことはもうできません。  では、なぜ本が売れなくなってしまったのでしょうか。しばしばその理由として「若者の活字離れ」が指摘されます。しかしその指摘はまったく正しくありません。というのも、若者は活字から離れているどころか、逆にかつてなく活字に触れているからです。メールやSNS、インターネットのサイトやブログなど、彼らは携帯電話やパソコンをつうじてつねに活字を読み書きしています。年長世代だって、仕事や私用で、多い人では一日に何十通ものメールをやり取りしますよね。メールの登場によって、私たちは人類史上最高といっていいほど手紙(メール)のやり取りをするようになりました。それだけ現代の私たちは活字を読み書きしているということです。本が売れないというとすぐに「活字離れ」が叫ばれますが、実際にはまったく逆の事態が進行しているのです。  むしろ、ネットやメールなどをつうじて活字があふれすぎてしまったために、わざわざ書物によって活字に触れたり、知識を得たりする必要性が低下してしまったぐらいです。ニュースについても同じですね。いまやネットでだいたいのニュースを読むことができるようになったために、わざわざ新聞を買ってニュースを手に入れる必要性が低下してしまいました。実はここに、書籍や新聞の販売部数が低下した大きな要因があります。書物が活字に触れるための特権的な媒体ではなくなってしまったんですね。「活字離れ」ではなく「活字の過剰」こそが、本が売れないことの背景にあるのです。  この「過剰」は書籍そのものの過剰にもつながっています。先ほど、出版市場は縮小しているのに書籍の刊行点数は増加していると述べました。これは読者の側からすれば、次から次へと新しい本がだされるので追いつけない、という状況を意味します。書籍を一つの消費財としてみたときに特徴的なのは、消費する(つまり読む)のに時間がかかる、ということです。次から次へと本がだされても、一日は24時間しかないし、現代人はますます忙しくなっていますので、読みきれません。ブランド物のバッグとかアクセサリーなら、次から次へと商品がだされても、お金さえあれば使い捨てのように消費して、それに応えることができるでしょう。しかし、消費に時間がかかる書籍のような消費財は、たくさん供給されたからといって、その分市場が開拓されて消費が拡大するわけではないのです。  供給が過剰になればどうなるでしょうか。当然、値が崩れます。つまりデフレですね。少し前の新書ブームとは、まさに出版市場における価格破壊でした。それまでは1500円したような書物が新書になって700円程度で買えるようになったわけですから。事実、全体でみても書籍の平均単価は年々低下しています。簡単にいえば利益がでにくくなっているわけですね。新書ブームが起こったとき出版界はわきたちましたが、実際にはそれは出版市場のさらなる低迷へのレクイエムだったのです。  ちなみに、供給過剰が価格低下を引き起こすというのは、日本経済を悩ませているいまのデフレ現象とまったく同じ構造です。もちろんデフレの背景は複雑です。が、出版市場における価格低下はデフレのメカニズムを理解するための一つのヒントを与えてくれています。供給過剰がデフレの大きな要因の一つである以上、規制緩和などによって生産性を上昇させてもデフレがいっこうに解消しないのは当然といえば当然です。実際、出版業界でも、あまりに簡単に書籍が編集され出版されるようになったという生産性の上昇が、価格低下を引き起こしました。  問題は、ここまで活字が過剰になり、書籍も過剰になると、書物そのものの性格が変わってしまうということです。ネットなどをつうじた活字の過剰によって、書物はもはや知の特権的な媒体ではなくなりました。また、書籍の過剰によって、書物は「ありがたいもの」ではまったくなくなり、逆に「場所をとるだけのもの」「処理に困るもの」になりつつあります。かつては、百科事典や文学全集を居間や書斎に並べることが教養をあらわすインテリアとして(たとえ実用していなくても)重宝された時代がありました。また、気に入った本の装丁をわざわざ自分で革製にかえる人や、「本だけは捨てられない」と巨大な書庫を自宅に設ける人もたくさんいました。書物は知の象徴として物神的な価値をもっていたのです。しかしいまではその物神性ははがれ落ち、邪魔なものとなり、書物もまた他の消費財と同じように大量生産・大量廃棄されるものになったのです。  かつてヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術』のなかで、映画や写真など、複製できる芸術の登場によって芸術作品から「アウラ(オーラ)」が消えていくだろうと論じました。それを援用するなら、現代は書物から最後の「アウラ」がなくなりつつある時代だといえるかもしれません。書物はもともと複製技術(活版印刷技術)によって生まれたので、絵画などの他の芸術作品と比べると、「いまここにしかない」という「アウラ」は弱かったかもしれません。とはいえ、それでも書物も作品である以上、そこには知の象徴としての「アウラ」がありました。それが書物の物神性へと結実していたのです。しかし、ここまで活字が過剰となり、書籍が過剰に出版されるようになると、書物はただのデータを運ぶ器の一つでしかなくなります。複製技術の究極は、すべてがデジタルデータになることです。デジタルデータであればいくら複製しても劣化しませんから。その意味で、電子書籍化の流れは、賛否両論あるにせよ、「アウラ」を消滅した書物にとって歴史的な運命なのかもしれません。 かやの・としひと 1970年、愛知県生まれ。03年、パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。哲学博士。津田塾大学准教授。主な著書に『国家とはなにか』(以文社)、『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、『権力の読みかた』(青土社)など。近著に『最新日本言論知図』(東京書籍)、『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)など。 【「サイゾーpremium」では他にもタブーを恐れぬ識者の連載が満載!】佐々木俊尚の「ITインサイド・レポート」/「LINE」爆発的普及の裏にあるガラケー文化の巧みな利用法宇野常寛の批評のブルーオーシャン/『ヘルタースケルター』と「あの頃」の消費社会町山智浩の「映画がわかる アメリカがわかる」/食事はマクドナルドに!?落ちゆく“裸の”女王様
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同語反復に過ぎないポストモダン議論などしょうもない! 国家に基づいたお金が流通する本当の理由

【プレミアサイゾーより】 ──国家とは、権力とは、そして暴力とはなんなのか......気鋭の哲学者・萱野稔人が、知的実践の手法を用いて、世の中の出来事を解説する──。 第24回テーマ「ポストモダンが見誤る市場経済」
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[今月の副読本] 『資本論 (一)』 カール・マルクス/岩波文庫(69年)/882円 言わずと知れた、マルクス経済学の根底をなす不朽の古典。初版は1867年に刊行。資本主義における市場経済や経済法則を分析し、その矛盾を顕にしながら社会主義の到来と必然を問う、当時としては画期的な論考だった。

 個人的な話からで恐縮ですが、私が大学に進学したのは1989年のことです。そのころの人文思想界ではポストモダンが全盛期で、少しでも哲学や思想に興味がある学生はほとんどと言っていいほどポストモダン思想(として紹介されていたもの)に感化されていました。愛知県の某地方都市でさして文化度の高くない高校生活を送っていた私は、ポストモダンなどというものが思想界を席巻していることを大学に入るまでまったく知らず、したがって当時スターとしてあがめられていたデリダやドゥルーズといった哲学者たちの名前も知らなかったので、大学で先輩や同級生がポストモダンの用語や思想家の名前を使っていろいろと議論しているのを見て驚いたものです。  ただ、その当時日本でなされていたポストモダン論議の大部分は、いまから振り返るとひじょうにしょうもないもので、当時よく話題にのぼっていた本や論文をいま読むと、あまりの無内容さと独りよがりな物言いに「よくこんなものにみんな熱中していたな」と恥ずかしくなってしまいます(もちろんだからといってドゥルーズやフーコーの議論が無内容だということではありません、あくまでも日本の思想界での話です)。あの時代、輝いてみえたポストモダン思想も、実際のところは、大学の研究者も含め、多くの人が「外部」だとか「力」とかいったポストモダン用語に振り回されて、本当は自分たちでもよくわかっていないことを印象論のレベルで論じていただけでした。ですので、当時のポストモダンの議論が現代の思想論壇やアカデミズムに有意味な影響をほとんど与えていないのも当然のことでしょう。とはいえ、それでもなお当時のポストモダン議論に影響を受けつづけ、当時のままの語彙や物言いで思想を論じている人間がまだまだいるのも事実で、そういった人間をみると、バカにつける薬はないというか、端的にうんざりします。  そうした当時のポストモダン議論の一つに貨幣をめぐる議論があります。たしかに貨幣は謎に満ちています。一万円札という紙幣は、いうなれば「壱万円」と印刷された紙切れにすぎないのに、なぜそれだけの価値があるものとして人びとのあいだで流通するのでしょうか。これは真に考えるに値する問題です。ポストモダン思想でもしばしば取り上げられました。ただし、そこでの「解決」はほとんど解決といえるようなものではありませんでした。  ポストモダン的な貨幣論では、往々にしてマルクスの『資本論』における価値形態論が引き合いにだされ、それが記号論的に読み替えられることで、「貨幣が貨幣としての価値をもつのは、みんながそれを貨幣として使っているからである(みんながそれを受け取ってくれるから、私たちは紙幣を価値あるものとして受け取るのである)」というような結論が導きだされます。岩井克人さんの『貨幣論』などがそうした議論の典型例ですが、しかし、これではそもそも問題に対する理論とはいえませんよね。なぜなら、本来考えるべきなのは「なぜみんながそれを価値ある貨幣として受け取ってくれるのか」という問題であり、貨幣が価値をもつ根拠を「みんなが使っているから」という点に求めるのは単なるトートロジー(同語反復)にしかならないからです。こんなことはちょっと冷静になって考えてみればわかることなのですが、当時は多くの人がこうした理論ならざる理論に惹き込まれていたのです。それが「ポストモダン」時代の知的状況でした(ちなみに、マルクスの価値形態論を記号論的に読み替えるという手法は当時のポストモダン議論のなかではよく使われたのですが、これも「貨幣と言語は構造的に類似している(たとえば貨幣と商品の関係は言語と事物の関係に等しい)」というような、まったくでたらめな断定にもとづくものです)。  では、なぜ紙幣は価値をもつものとして人びとのあいだで流通することができるのでしょうか。岩井さんは『貨幣論』の結論部分でそれを「無が有になる神秘」だと述べていますが、実際にはそれは「神秘」でもなんでもなく、そこにはちゃんとした根拠があります。その根拠を、中央銀行が設立されてきた過程をつうじて考察したのが前回の連載でした。  おさらいを兼ねて簡単に確認しましょう。もともと現在のような貨幣(紙幣)が生まれたのは、中央銀行のもととなったイングランド銀行が、それまで通貨として使用されていた金や銀を人びとから預かって、その代わりに利子のつく預かり証(捺印手形)を発行したことによってでした。その捺印手形が紙幣の原型となったのです。かつて紙幣は「兌換紙幣」として中央銀行が保有する金と交換可能だったのはそのためです。他方でイングランド銀行は、人びとから預かった金や銀をイングランド政府に貸し付けて、そのイングランド政府が税収からおこなう利払い分を、捺印手形の利払いに充てました。つまり、イングランド銀行の捺印手形を人びとが受けとってくれ、それを決済手段としてもちいる(すなわち紙幣が流通する)ことを支えたのは、イングランド政府の徴税力だったのです。徴税力とは単に政府の権力の大きさや国民からの支持だけを意味するのではありません。税を支払う人びと(国民)の経済力も、その政府がどれぐらいの税額を徴収できるかを決定します。要するに、徴税力とはその国の「国力」全体をあらわすものなんですね。これこそが貨幣の価値の裏づけとなる。だからこそ、政府の統治が機能していなかったり、財政政策がうまくいっていなかったり、経済力がない国の貨幣は、その価値が低下してしまうのです。  結局、貨幣が価値をもつのは、人びとがそれをさしたる根拠もなく貨幣として使っているからではなく、政府による徴税をつうじて国力とむすびついているからなんですね。「貨幣に価値があるのはみんながそれを貨幣として使っているからにすぎない」と述べることは、「当たり前だと思われているものでも実は確たる根拠などない」というポストモダン思想によくあるロジックであり、そんなことをいわれると聞いたほうはドキッとして「たしかにそうかもしれない」と思わず信じてしまうのかもしれません。しかし、それは単に理論の弱さからくるレトリックにすぎないのです。  問題は、こうしたポストモダン的な貨幣論が、貨幣の存立における国家の役割を見逃してしまい、貨幣が市場のメカニズムだけでなりたつと思い込んでしまっていることです。この点でいうと、ポストモダン貨幣論は、国家は市場からでていくべきだと主張する市場原理主義や、中央銀行が貨幣供給量を増やせば経済は活性化すると考える金融緩和論とひじょうに近い発想に立っています。どちらも市場経済は国家から自立的になりたつと考えるわけですから。しかし、市場経済は税という非市場的なお金の流れによって支えられなくてはけっしてなりたちません。2008年の金融危機の際、あれほど「政府は市場に口出しするな」と叫んでいた投資銀行に、税による莫大な公的資金が注入されました。税による支援がなければ市場経済そのものが機能不全に陥りかねなかったからです。たしかに、現在では紙幣と金との兌換は廃止されており、紙幣は何の実体的な価値ともむすびついていないヴァーチャルなものになっているように見えるかもしれません。しかし、だからこそよけいに貨幣の価値は政府の財政力とダイレクトにむすびついていることが理解されるべきなのです。国家は単に犯罪を取り締まり、市場での交換のもととなる所有権を保護することによって、外在的に市場とかかわっているのではありません。徴税をつうじて内在的に市場を構成しているのです。 かやの・としひと 1970年、愛知県生まれ。03年、パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。哲学博士。津田塾大学准教授。主な著書に『国家とはなにか』(以文社)、『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、『権力の読みかた』(青土社)など。近著に『最新日本言論知図』(東京書籍)、『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)など。
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「サイゾーpremium」とは? 雑誌「サイゾー」のほぼ全記事が、
月額525円読み放題! (バックナンバー含む) 【「サイゾーpremium」では他にも話題の識者による連載が満載!】【マル激 TALK ON DEMAND】国策として邁進されてきた原発の非代替性【宇野常寛の批評のブルーオーシャン】第4回AKB48選抜総選挙を考える【佐々木俊尚の「ITインサイド・レポート」】自力で手法を編み出してこなかった ネット広告業界がスマホで不振にあえぐ

女性を交換するために作られた近親相姦というタブー

──国家とは、権力とは、そして暴力とはなんなのか......気鋭の哲学者・萱野稔人が、知的実践の手法を用いて、世の中の出来事を解説する──。 第15回テーマ「近親相姦の禁忌が生む社会関係」
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[今月の副読本] 『暴力はどこからきたか 人間性の起源を探る』 山極寿一著/NHKブックス(07年)/1019円 6500万年前に誕生したという霊長類。その中で我々人類は、霊長類の進化として、争いの原因、和解の方法を身に付けてきた。哺乳類とは明らかに異なる霊長類の行動から、人類の社会性起源に迫る意欲作。

 これまで2回にわたって「人を殺してはいけない」という道徳と死刑との関係について考えてきました。「人を殺してはいけない」という道徳はあらゆる社会に見いだされる普遍的な道徳ですが、もしこれと同じくらい普遍的な道徳がほかにもあるとしたら、それは何だと皆さんなら答えるでしょうか。  2008年4月9日の朝日新聞(web版)にはこんな記事がありました。少し引用しましょう。 「オーストラリアで61歳の父と39歳の娘が恋愛関係となり、2人の間には生後9カ月の女の子まで誕生。2人は豪民放テレビ番組に出演し、『私たちは成人として同意して関係を持った』などと理解を求めたが、視聴者らからは『不謹慎だ』『生まれた子どもは将来何と思うだろうか』といった非難が噴出している。  2人は南オーストラリア州に住むジョン・ディーブスさん(61)とジェニファーさん(39)。ジェニファーさんが幼児の時にジョンさんは最初の妻と離婚。父娘は00年に30年ぶりに再会したが、お互い親子とは気づかなかったという。ジェニファーさんは『クラブで出会うような男性として意識し、深い関係となった』。2人は3月、州裁判所から性交渉禁止と3年間の保護観察処分の命令を受けた」  オーストラリアはほかの先進国と同じように自由恋愛が認められている社会です。にもかかわらず、なぜこのカップルに対して視聴者から非難が噴出したのでしょうか。それは、夫婦間を除く近親者の間で性交や結婚を禁止するという強固な道徳規範がそこにはあるからです。その禁止を「インセスト・タブー」といいます。このタブーは、家族という制度があるところ、文化や歴史を超えて、あらゆる社会に見いだされるものであり、「人を殺してはいけない」という道徳に匹敵するほどの普遍性を持った道徳規範です。  では、なぜインセスト・タブーなどという道徳規範がこんなにも広く存在するのでしょうか。フランスの人類学者、クロード・レヴィ=ストロースはインセスト・タブーを、集団間で女性の交換を実現するための制度だと考えました。要するに、家族の中に、家族内の誰とも性交渉をしてはいけない娘をつくって、その娘をほかの家族との間で交換する、ということですね。これが結婚制度の原型となりました。結婚はもともといくつもの親族間で娘を交換する制度として始まったのです。20世紀に入るまで、恋愛結婚などというものがほとんど存在しなかったのは、そのためです。  とはいえ、そもそもなぜ娘を親族間で交換する必要があったのでしょうか。それは親族間で新たな姻族関係を結び、より大きな共同体のもとでの協力関係をつくるためです。かつての貴族同士の結婚が政略によってなされていたことを考えるとわかりやすいかもしれません。結婚はこの点で非常に共同体的なものです。家族という共同体の発展のために、そしてその家族がほかの家族とより大きな共同体的な関係に入るために、なされるわけですから。  これに対して恋愛は個人主義的です。今でも少なからぬ人が恋愛と結婚は別だと考えていたり、恋愛では考慮しなくてもよかった家族の意向が結婚では重視されたりするのは、両者のそもそもの性格の違いがあるからです(その両者が一致してきたのが20世紀でした)。  もともとの結婚では家族間で協力関係をつくるために娘を差し出すわけですから、その娘は相手側の家族(の若旦那)が所有するに足る貴重なものでなくてはなりません。だからこそインセスト・タブーが強い道徳規範として確立したのです。若い娘の性の管理に社会が大きな関心を持つのもこのためです。インセスト・タブーとは、本来なら男たちの奪い合いの対象となりうる娘の性を、親族間の協力関係を築くための交渉材料として用いる制度なのです。  では、そもそもなぜ家族というものが存在するのでしょうか。インセスト・タブーが家族の間で女性を交換するための制度だとするなら、その女性を交換する家族とはなんなのでしょうか。
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■プレミアサイゾーとは? 雑誌サイゾーのほぼ全記事が、月額525円で読み放題!(バックナンバー含む) 【プレミアでは人気連載も読み放題!】 ・【連載】哲学者・萱野稔人の"超"現代哲学講座 ・【連載】神保哲生×宮台真司 「マル激 TALK ON DEMAND」 ・【連載】荻上チキの新世代リノベーション作戦会議

死刑肯定論や犯罪の正当化も根は同じ!? 道徳的判断を貫く「ふさわしさ」

──国家とは、権力とは、そして暴力とはなんなのか......気鋭の哲学者・萱野稔人が、知的実践の手法を用いて、世の中の出来事を解説する──。 第14回テーマ「近代刑法学の祖から見た死刑と道徳」
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[今月の副読本]
『犯罪と刑罰』 ベッカリーア著/岩波文庫(59年)/693円 フランス革命から遡ること25年前に上梓され、封建的刑罰制度の中で執行される、死刑と拷問の廃止を訴えた初の書物として名高い。その後、フランス革命を経て、近代刑法の礎を築くきっかけとなった。

 前回は、道徳はどこまで普遍的なものなのか、という問題を取り上げました。そこで考察の対象となったのは「人を殺してはいけない」という道徳と死刑との関係です。2009年の内閣府の世論調査では85.6%の人が死刑制度を容認していたことからわかるように、多くの人は「人を殺してはいけない」と確信しながらも、処罰のためには凶悪犯を殺すのもやむをえないと考えています。つまり、どのような場合であれ(たとえ凶悪犯を処罰するためであれ)人を殺してはいけない、とは考えていないんですね。「人を殺してはいけない」という道徳には例外がある、ということです。 「例外がある」とは、言い換えるなら「どんな場合でも守られるべき普遍的な道徳ではない」ということです。「人を殺してはいけない」という道徳は、あらゆる社会に見いだされ、かつ私たちが考えうる最も究極的な道徳です。にもかかわらずそれが普遍的なものではないということは、道徳そのものが実は普遍的なものではない、ということにもなってきます。果たして、道徳とは普遍的なものなのでしょうか、それとも時と場合によって左右される相対的なものにすぎないのでしょうか。  死刑を多くの人が容認しているという事実から「道徳は普遍的なものではない」と結論付けるのは、実はそれほど難しいことではありません。問題はその先です。道徳は普遍的なものではないということなら、私たちはなぜそれにもかかわらず道徳的な「正しさ」を追究することをやめないのでしょうか。私たちは日常的にさまざまな事柄を「善い・悪い」と道徳的に判断していますが、それは行き当たりばったりの脈絡のないものにすぎないのでしょうか。確かに、多くの人が「人を殺してはいけない」と考える一方で、凶悪犯を前に「奴を殺せ」と考えるのは、一貫していないかもしれません。しかし、そのどちらもが道徳的な判断として出されている以上、両者の一貫性のなさの背後には、それぞれの判断を成り立たせる、より根本的な道徳意識があるはずです。これは、道徳の源泉はどこにあるのかという本質的な問題にかかわっています。これを考えるために、再びカントの道徳論を取り上げましょう。  前回もお話ししたように、カントは、道徳は普遍的でなければならないと考えました。つまり、時と場合によって左右されるようなものであってはならない、と。例えば「悲しむ人がいるから、人を殺してはいけない」という命法は、決して道徳ではありません。なぜなら、この命法に対しては「悲しむ人がいなければ、人を殺してもいいのか」という反論が成り立ってしまうからです。「人を殺してはいけない。なぜなら、自分がされたくないことを人にしてはならないからだ」という命法も同じです。ここからは「自分は殺されてもいいと思う人は、人を殺してもいいのか」という反論が必然的に生まれてしまいます。
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本当に、人を殺してはいけないのか? 死刑が揺るがす道徳の普遍性

──国家とは、権力とは、そして暴力とはなんなのか......気鋭の哲学者・萱野稔人が、知的実践の手法を用いて、世の中の出来事を解説する──。
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第13回テーマ「殺人の正当化と定言命法の普遍」 [今月の副読本] 『実践理性批判』 カント著/岩波文庫(79年)/903円 絶対的な道徳というものは存在しうるのか? また、人は自らの意思により、それに従うことはできるのか? 『純粋理性批判』『判断力批判』と併せた三批判書により、批判哲学の祖を築いた哲人による倫理学の名著。

 道徳の中で最も普遍的で根本的なものとはなんでしょうか。多くの人はおそらく、人を殺してはいけないという道徳だ、と答えるでしょう。  実際、「人を殺してはいけない」という道徳はあらゆる社会に見いだされるものであり、また、「嘘をついてはいけない」とか「盗みをしてはいけない」といった道徳よりも、はるかに多くの人によって守られています。もちろん殺人事件は常に世界のいたるところで起こっている以上、「人を殺してはいけない」という道徳は完全に守られているわけではありません。しかしそれでも、殺人事件が起こればほとんどの人は条件反射的に「よくないこと」と考えるほど、「人を殺してはいけない」という道徳は確固たるものとして人々の間に根付いています。  しかしその一方で、「正しい」とされる殺人も時として存在します。たとえば死刑です。  死刑制度については内閣府が5年ごとに世論調査を行っており、2009年の調査では死刑制度容認派が85.6%に上りました。これは内閣府が1956年に調査を始めて以来、最高の数字です(かつては5年ごとの調査ではありませんでした)。もちろんこの数字の中には、積極的な死刑支持派だけでなく、「死刑制度存続もやむなし」と考える消極的容認派もいるでしょう。また、しばしば批判がなされるように、内閣府の質問の仕方によっては、この数字がある程度低くなる可能性もあるでしょう。とはいえ、それでも85.6%という数字は圧倒的です。少なくとも世論調査された人々の大多数が、凶悪犯罪をなした人間に対しては、処罰のために殺すこともやむを得ないと考えているわけですから。  おそらく読者の中には「死刑は殺人ではない」と考える人もいるかもしれません。確かに死刑はほかの殺人とは異なっています。というのも、死刑は法に従って合法的になされるものだからです。しかし、だからといって、ある人間がほかの人間によって死に追いやられること自体は変わりありません。間違ってほしくないのは、死刑は、たとえそこにどれほど「正しい」理由があったとしても、それによって殺人でなくなるわけではない、ということです。
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石油エネルギー依存からの脱却で、アメリカの世界覇権も終焉へ!? 資本主義の歴史が証明する未来とは?

──国家とは、権力とは、そして暴力とはなんなのか......気鋭の哲学者・萱野稔人が、知的実践の手法を用いて、世の中の出来事を解説する──。
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第12回テーマ「アメリカ・ヘゲモニーと資本主義」 今月の副読本 『長い20世紀──資本、権力、そして現代の系譜』 「アメリカ・ヘゲモニーと資本主義」ジョヴァンニ・アリギ著/作品社(09年)/5460円 「アメリカが覇権を握る経済システムの始めと終わり」20世紀をこう表した世界システム論の代表論者による分析論。アメリカ・ヘゲモニーが終焉を迎える今、新たな覇権は誰が握るのか、その視座を探る──。  前回は、日本の電力供給システムの問題点についてお話ししました。その中で見直されるべき点として取り上げたのは、垂直統合型といわれる電力供給の仕組みです。つまり、電力会社が発電と送電を一括して担うという仕組みですね。発電という生産の部分と、送電という流通の部分をひとつの会社が「垂直」に「統合」して電力を供給するので、「垂直統合型」と呼ばれます。  今回考えていきたいのは、この垂直統合型のシステムとアメリカのヘゲモニー(覇権)との関係です。もともと垂直統合型の生産システムが確立したのは、アメリカのフォード社による自動車の生産においてでした。フォード社は、自動車という大型の耐久消費財を効率良く生産し販売するために、設計から資材調達、組み立て、流通、販売まで、「垂直」に「統合」して自社で行うシステムを考案しました。こうした方式が耐久消費財を生産するスタンダードなシステムとして世界中に広がったのが20世紀です。第二次世界大戦後の世界的な高度成長は、この垂直統合型の生産方式の広がりによってもたらされました。日本はこの生産方式をより洗練させ効率化することで、世界第2位の経済大国にまでのし上がったのです。その典型がトヨタ自動車です。  イタリアの経済史家、ジョヴァンニ・アリギは名著『長い20世紀──資本、権力、そして現代の系譜』の中で、20世紀におけるアメリカの世界的なヘゲモニーを支えたのは、この垂直統合型の生産方式だと述べています。要するに、アメリカはこの生産方式によっていち早く生産力をアップさせ、それによって世界最強の軍事力を手にし、世界の覇権国になったということです。  もちろん軍事力だけでは、世界の覇権国になることはできません。これまでもこのコラムで述べてきたように、世界的覇権国になるためには、世界の政治的・経済的な枠組みを決定するためのルール策定能力が不可欠です。アメリカが民主主義と自由貿易のルールを普遍的なものとして世界に貫徹しようとするのは、そのためです。  2003年にアメリカはイラクを軍事攻撃し、イラク戦争が勃発しました。その背景には、フセインが00年に石油輸出代金の決済をユーロで行うと宣言し、石油の国際取引はドルで行うというドル基軸通貨制に挑戦してきたということがありました。ドル基軸通貨制は、現代の世界経済における最も基本的な枠組みのひとつです。その基本的な枠組みの防衛とイラク戦争は、決して無関係ではありません。またアメリカは、日本と違って中東産の原油に対する依存度が非常に低いにもかかわらず、中東で何かあればすぐに政治介入しようとするのも同じ理由からです。つまり、これまで国際石油市場はドルを基軸とし、ニューヨーク・マーカンタイル取引所の石油先物市場での価格をベンチマークとして成立してきたので、その国際石油市場に悪影響をもたらすような政治的攪乱要因をアメリカは産油国から取り除こうとするわけです。アメリカのヘゲモニーは、こうした世界資本主義の枠組みを決定し、それを世界最強の軍事力と政治力によって維持することで成り立ってきました。
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政府の説明責任が問われる時代! ウィキリークスは国家主権を揺るがすのか!?

国家とは、権力とは、そして暴力とはなんなのか......気鋭の哲学者・萱野稔人が、知的実践の手法を用いて、世の中の出来事を解説する──。 第9回テーマ「ネットの台頭で崩壊する情報の独占」
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今月の副読本 『技術への問い』 マルティン・ハイデッガー著/平凡社(09年)/2940円  ドイツの哲学者・ハイデッガーによる、公演や論文をまとめた論集。技術が先鋭化の一途をたどる近現代において、時代の根本にあるもの、そしてその正体を見極めるべく、"技術の本質"に哲学的に迫った一冊。

 2010年はインターネットを通じた情報漏洩事件が立て続けに起こった年でした。日本でも、10月に国際テロに関する警視庁公安部の捜査資料がインターネットに流出したり、11月には、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件の映像が、海上保安官の手によって動画共有サイトに公開され、流出しました。世界中にインパクトを与えたのは、なんといっても、ウィキリークスが10月下旬に40万点にも上るイラク戦争関連のアメリカ軍資料を、11月下旬には25万点に上るアメリカ外交公電を暴露したことでしょう。この暴露に対して、クリントン国務長官はただちに「暴露は米国の外交上の利益に対する攻撃というだけではなく、国際社会、同盟国、パートナーに対する攻撃でもある」とウィキリークスを非難しました(11月29日の記者会見)。イタリアのフラティニ外相に至っては、これを「世界の外交における『9・11』のようだ」とまで評しました。  ここで考えたいのは、インターネットを通じたこうした機密情報の漏洩が、政治の枠組みをどのように変容させるのか、ということです。ネットを通じた情報の暴露や漏洩は、ある意味でITが高度に整備された情報社会では不可避なことです。現代では、ほとんどの情報の保存や伝達はデジタル化によってなされており、それは情報がクリックひとつで複製され、多くの人に伝播されてしまうリスクをもたらしました。  20世紀ドイツの哲学者、マルティン・ハイデッガーが『技術への問い』の中で述べているように、こうした技術の進展に人間が抗うことはできません。そもそも技術、テクノロジーというのは、人間が自らの意思でコントロールできるものではなく、逆に人間がその進展によって、ものの知覚の仕方から、考え方、社会関係のあり方に至るまで規定されてしまうものなのです。したがって、政治の枠組みも、情報のデジタル化とネットワーク化によってなんらかの変容を被らざるを得ません。その変容の中身が今回、ここで取り上げたい問題です。  まず言えることは、各政府は今後、情報の公表を前提として行動せざるを得なくなるだろう、ということです。ウィキリークスのようなサイトが登場したことで、政府の情報は常に暴露や漏洩のリスクに晒されていることが広く認識されました。このリスクはもちろん、管理体制の強化によってある程度は小さくすることができます。しかし、今述べたように、そのリスクは高度情報化社会においては不可避的なものである以上、情報の暴露や漏洩は常にあり得るという態度で行動するのが、各政府にとっての賢明で合理的な選択とならざるを得ません。  では、政府が情報の公表を前提として行動することで何が変わるのでしょうか。それは、政府のアカウンタビリティ(説明責任)がより求められるようになる、という変化です。たとえば今回ウィキリークスによって暴露されたアメリカ外交公電の中には、イタリアのベルルスコーニ首相について「無能で空っぽ。現代欧州のリーダーとしての影響力なし」といった人物評や、イスラエルのネタニヤフ首相について「約束を決して守らない」といった人物評が含まれていました。どちらもアメリカの同盟国の国家元首をコケにしているわけですから、アメリカにとっては完全に面目丸つぶれです。しかし、情報の公表が前提とされるなら、こうした人物評が外交公電で流れることはなくなり、そのときは、たとえ漏洩しても説明責任が果たせるような情報に基づいて外交政策が立案されるようになるでしょう。このことは、情報の中身が単なる人物評ではなく、密約のようなトップシークレットである場合を考えると、ものすごい変化だというべきです。表には決して出せない裏の取引で外交が進められる余地が小さくなっていくわけですから。情報の公表が前提とされると、外交でも内政でも、裏の事情で物事が遂行されにくくなっていくのです。  もちろん、だからといって政治の世界から機密が完全になくなったり、裏のやり取りが消滅したりするわけではありません。どんな世界にも秘密や裏の事情というのはあります。重要なのは、たとえ政治の世界から機密や裏のやり取りがなくならないとしても、それらもまた、表に出たときに説明責任が果たされるような形で処理されていく、ということです。ウラがオモテ化していくわけですね。
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エジプト反政府デモが世界の経済システムを揺るがす!? 民主化をめぐるアメリカの誤算とは

国家とは、権力とは、そして暴力とはなんなのか......気鋭の哲学者・萱野稔人が、知的実践の手法を用いて、世の中の出来事を解説する──。
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第8回テーマ 「アメリカの覇権、その正当性」 [今月の副読本] 『千のプラトー 資本主義と分裂症』上巻 ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ著/河出文庫(10年)/1260円 複雑に入り組んだ資本主義のダイナミズムをさまざまな手法で読み解いた著者らによる代表作のひとつ。抽象機械や戦争機械など、新たな概念を持ち込んだ、現代人のための倫理指針としても名高い一冊。

 2011年になって中東地域が一気に揺らぎ始めました。まずはチュニジアで大規模な反政府デモが勃発し、23年も続いたベンアリ政権が崩壊しました。次にエジプトでも反政府デモが全土に広がり、30年にわたって強権支配を続けてきたムバラク大統領は、次期大統領選には出馬しないことを表明しました(2月1日現在)。こうした反政府デモの動きは中東各地に飛び火し、この地域の長期独裁政権を次々と揺るがしています。例えばイエメンでも、南北イエメン統合後約20年にわたって大統領の地位に就いていたサレハ大統領が、任期が終わる13年で退陣することを表明しました(2月2日)。ヨルダンでも2月1日に、アブドラ国王が抗議デモを受けてリファイ首相を更迭しています。  もしかしたらこれら一連の動きは、1989~91年に東欧の社会主義国が民主化した動きに匹敵するくらい、大きな歴史的転換をもたらすかもしれません。ただし民主化といっても、今回は、民意を受けたイスラム原理主義がこの地域で広く台頭してしまう可能性もなくはありません。かなり流動的な状況にあるわけですね。  では、何がこうした流動的な状況を中東地域にもたらしたのでしょうか。もちろんそこには、政権の腐敗や失業率の上昇など、さまざまな要因があります。が、もう少し大きな歴史構造的視点から見ると、03年のイラク戦争がひとつの遠因になっていることがわかります。  どういうことでしょうか。それを理解するために、まずはイラク戦争の原因について考えましょう。  なぜブッシュ政権のアメリカがイラクを攻撃したのか、という問題については、いろいろな原因を考えることができます。当初、アメリカはイラクが大量破壊兵器を密かに保有していると主張し、自国の安全保障のためにイラクを攻撃しようとしました。しかし、国連による全面査察が行われても、アメリカが主張するような大量破壊兵器は何も出てこず、結局アメリカは理由が曖昧なままイラク戦争に踏み切りました。イラク戦争後のアメリカによる占領統治においても、大量破壊兵器は見つかっていません。  このような経緯から、アメリカがイラクを攻撃したのは、イラクの石油利権を牛耳りたかったからだ、という説が多くの人から聞かれるようになりました。しかしこの説はそれほど正しくありません。というのも、70年代に産油国では資源ナショナリズムが勃興し、イラクを含めた中東産油国の油田資産はほとんど国有化されてしまったので、たとえアメリカのような覇権国であっても、戦争によって中東地域の石油利権を牛耳るなどということは、そもそも不可能だからです。事実、イラクでは03年4月のフセイン政権崩壊以降、新たな石油開発はほとんどなされず、09年になってようやく、外国の石油資本が油田開発権を獲得するための国際入札が行われました。そして、この入札によってイラク政府が外資と結んだ石油開発契約12件のうち、アメリカ資本は2件しかかかわっていないのです(アメリカ資本がオペレーター企業になれたのは、そのうちの1件だけです)。さらにいえば、アメリカの全石油消費量のうち、中東地域からの輸入原油の比率は1割台しかありません。約9割の日本とはまったく対照的です。中東産の原油に対するアメリカの依存度は驚くほど低いのです。アメリカにとって、イラクの石油利権を軍事力によって無理やり牛耳らなくてはならない必要性はどこにもなく、またそれができる可能性もないのです。  イラク戦争と石油ということでいうならば、むしろ00年にフセインが、今後は石油輸出代金の決済をドルではなくユーロで行うと宣言したことのほうが重要です。なぜなら、それはドル基軸通貨体制の根幹に挑戦するものだったからです。
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どうしてサンデルはヒットした!? 萱野稔人が読み解く『これからの「正義」の話をしよう』

国家とは、権力とは、そして暴力とはなんなのか......気鋭の哲学者・萱野稔人が、知的実践の手法を用いて、世の中の出来事を解説する──。 第7回テーマ 「哲学のベストセラー、分配の正義」
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[今月の副読本] 『これからの「正義」の話をしよう』 マイケル・サンデル著/早川書房(10年)/2415円 1人殺せば5人助かる状況で、その1人を殺すべきか。前世代の過ちは後世代が償うべきか。正解のない正義をめぐる哲学の問題から格差社会、倫理概念を問うハーバード大学史上最多履修数を誇る名講義を活字化。

 2010年の哲学界で起こった最大のニュースといえば、なんといってもマイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』が大ベストセラーになったことでしょう。10年末の時点で60万部を突破し、哲学書としては驚異的な売り上げです。といっても、決してわかりやすい本というわけではありません(値段もそこそこします)。具体的な事例から政治哲学における本質的な問題を論じていくサンデルの語り口はとても明快で魅力的ではありますが、やはりそれでも難解な本であることには変わりありません。そんな難しい本がここまで売れたというのは、哲学界にとってはちょっとした事件でしょう。もちろんハーバード大学でのサンデルの講義がNHK教育テレビで『ハーバード白熱教室』として放映されたことが、この本の売り上げにとっては大きなパブリシティになりました。しかし、そのテレビ放送だけでここまで売り上げが伸びたのかといえば、決してそうではないでしょう。  ではなぜ、サンデルの本はここまで読まれることになったのでしょうか? 今回はそれを考えてみたいと思います。  ポイントは「正義」というタイトルです。おそらく、300ページを優に超えるこの本のボリュームと内容を考えるなら、本を購入したすべての人が最後まで読破し、内容を理解したというわけではないでしょう。であれば、まず考えるべきは、なぜ今「正義」などという、少々古くさくてきまじめな言葉を冠した哲学書に多くの人が惹かれたのか、ということになります。  これに関して興味深いのは、サンデルがこの本の中でまるまる一章を割いて「アファーマティブ・アクション」について論じていることです。アファーマティブ・アクションというのは「積極的差別是正措置」などと訳される言葉で、例えばアメリカでは、これまで差別され社会的に不利な状況に置かれてきたマイノリティ(アフリカ系アメリカ人やメキシコ系アメリカ人)に対して、大学入学における定員割り振りなどで特別に優遇措置を取る、ということを指しています。しかし、こうした是正措置に対しては、マジョリティである白人アメリカ人から「逆差別だ」という批判がしばしばなされます。入学定員の割り振りで人種的な特別措置を取ることによって、同じような成績でも白人学生は不合格になり、マイノリティの学生は合格になることがあるからです。実際、アメリカでは、アファーマティブ・アクションに対して、万人の平等な保護を保障した合衆国憲法に違反するのではないかという訴訟がいくつもなされています。ただしサンデルはこれを、憲法の問題としてでなく、倫理の問題として論じるのです。  このことがよく示しているように、同書の中でサンデルが論じている「正義」とは、主に「分配の正義」にかかわっています。今の例でいえば、大学の入学定員という「社会的資源」をどのように分配すれば正義にかなったものとなるのか、ということですね。ほかにもサンデルは、マイケル・ジョーダンのような高額所得者にどこまで課税し、所得を再分配すべきか、などの問題も論じています。もちろんこうした分配の問題は決して今になって出てきた問題ではありません。しかし、その分配の正義を改めて考察しなくてはならない、という問題意識がサンデルの正義論を特徴付けているのです。  したがって、なぜ人々はサンデルの本にここまで惹きつけられたのか、という問いは次のように言い換えられます。つまり、なぜ人々は分配の正義を改めて考察しなくてはならないと思うようになったのか、と。