
さすが漢字を発明した国。「死人院」という表現には、感心させられる
満員の電車やバスの車内に老人が乗ってくると、すぐに座席を譲る。中国人ほど高齢者を大切にする国はないと思っていた。しかし経済発展によって、その美徳は失われつつあるのかもしれない。
上海市郊外、楊浦区の住宅街に隣接して老人ホームが建設されることとなり、住民たちによる反対運動が起きている。8月3日付「新民網」には、マンションの敷地内に掲げられた「死人院は出て行け」という過激な横断幕の写真が掲載された。まるで、斎場や火葬場が建てられるかのような過剰な反応ぶりだ。

老人ホームになる予定の建物。工事は止まったままだ
くだんの老人ホームが建つ土地の使用権を持つのは、国有企業の「上海儀電集団」。建物はもともと学生寮として貸し出されていたが、2013年に契約が終了した後は、同集団傘下の「上海滄鑫投資管理諮詢有限公司」が管理。老人ホームを新設するに当たり、場所探しに苦心していたため、ここをリノベーションして利用することに決めたという、いわば政府お墨付きのプロジェクトなのだ。投資金額は3,000万元(約5億8,000万円)で、ベッド数は291床となる計画。ところが反対運動を受け、工事はストップしている。

マンションの窓には、至るところにビラが。団体行動が不得手な中国人だが、こういうときの団結力は強い
報道によると、住民が反対する理由は2つだ。まず、老人ホームには霊安室や終末期ケアのための病室が設けられるはずで、環境や住民の心理に影響を及ぼすという主張。住民のひとりが関係当局に宛てた抗議文は、「(亡くなることで)空室になるのがわかったり、遺族の哀哭が聞こえてきたり、病室で汚染された空気を吸い込むことにより、数百人の(マンションの)住民に死神の触手が及ぶかもしれない」と、これまた過激だ。

マンション入り口には、不動産価格の推移を掲示。住民たちは、不動産価値が下がることを恐れている
2つ目は、このマンションの不動産としての価値の低下だ。マンション入り口には、ご丁寧に不動産価格の推移を示すグラフが掲示されている。それによると、上海市や楊浦区の平均を下回っているといい、老人ホームの建設計画がその理由だと主張しているのだ。
現場に足を運ぶと、たまたまテレビ局が取材に訪れており、住民が集まっていた。見ると、50~60代が多い。50代半ばの男性は「とにかくマンションから近すぎる。老人ホームとなる建物のすぐに下には、子どもの遊具だってあるんだ」と憤っていた。

現場にはテレビ局の取材クルーが訪れていた。集まっているのは、高齢者予備軍
彼らには、自分たち自身も将来、老人ホームのお世話になる可能性があるという想像力が働かないのだろう。中国で50代より上は、特にきょうだいの多い世代。親の面倒を見るのに、負担を分散することができた。ところが、自分たちの子どもは一人っ子。一人の子どもが2人の親の面倒を見るのは負担が大きく、老人ホームを選択する家庭は今後間違いなく増えるはずなのだが。
中国では長年の一人っ子政策により、人口構造がいびつになっている。高齢化が急速に進んでいるが、とりわけ上海はスピードが速い。上海市統計局の発表によると、14年時点で65歳以上は270万人を超え、全人口の18.8%を占める(上海戸籍保有者に限る)。この人口構造のひずみが、老人ホームの需要を拡大させている。しかし、今回の反対運動が長期化するようであれば、ほかのプロジェクトにも波及するだろう。中国の高齢化対策は、人々の価値観や道徳心の変化により、難しい局面を迎えようとしている。
(取材・文=大橋史彦)