『東京タラレバ娘』ラブシーンに発狂者続出も、幼稚なセックス観に胸焼け/第二話レビュー

 第二話にして登場人物4人がラブシーンを演じるという急展開に、多くの視聴者が発狂している25日放送の『東京タラレバ娘』(日本テレビ系)。ストーリーは置いといて、平岡祐太のゆるいお腹に高まりました。  一組目は、倫子(吉高由里子)とKEY(坂口健太郎)。倫子は、ずっと頑張ってきた新ドラマの仕事を、突然降ろされてしまいます。それも、後任は枕営業と噂の笹崎まりか(筧美和子)。失礼ながら、ドンピシャすぎるキャスティングに痺れましたね。倫子は、枕の証拠を掴もうと監督と笹崎を尾行してみると、案の定ホテルに。「やっぱりか!」と思ったのもつかの間、カフェで早坂さん(鈴木亮平)やテレビ局スタッフとの打ち合わせだったんです。その上、話を盗み聞きしてみると、笹崎の女を使った営業うんぬんではなく、恋愛から遠ざかっている自分の実力不足だったことが判明。「仕事は頑張れば結果が出るって信じてた。でも気づけば世界は手にはいらないもので溢れてた」と、ひとり呑んべえでヤケ酒です。  そんな倫子のぼやきを、居合わせたKEYは何も言わずに聞き続けます。そして、寝てしまった倫子を、小雪(大島優子)に頼まれておんぶして家まで送ることに。家のソファで目を覚ました倫子は、そんな自分に嫌気がさし「何の結果も出せてないけど、これでも一生懸命生きてきたつもり。なのに仕事も恋愛も……もう、どうすればいいのよ」「アンタにはわからないだろうけど」と自暴自棄モード。  すると、KEYは「わかるよ。アンタによく似た性格の女知ってるから。だからイラッとする。ちゃんとしろよ」と一喝。それでも、「無理。女として終わってるから」と自虐する倫子に「じゃあ試してみる? 俺とヤッてみる?」「どうすんの?」と!!! 突然すぎる提案に戸惑う倫子をよそに、KEYからキス。そしてセックスしちゃいます。  二組目は香(榮倉奈々)と涼ちゃん(平岡祐太)。倫子と小雪とともに早坂さんから誘われた人気バンドのライブに行ってみると、昔「経済力ゼロの夢追い人を支える女にはなれない」と振った元彼・涼ちゃんがギターを務めるバンドだったのです。仕事で来ている早坂さんに連れられて楽屋へ行ってみると、「香……!!」「ここまで来れたのは全部香のお陰だよ。ありがとう香!」と無邪気な笑顔で抱きついてきます。香はまんまと舞い上がって運命を感じたのですが、涼ちゃんの彼女が現れ、意気消沈。「若い頃は平気で捨ててきたものが、今となっては絶対に手に入らない」「時間を巻き戻したい」「でも、もうあの頃には戻れない」と3人で飲んだくれます。  後日。彼女のいる涼ちゃんへの淡い期待を打ち消そうと、連絡先を消そうとした矢先。2人の思い出の場所にいる涼ちゃんから「香、会いたい」とテレビ電話がかかってきます。香は必死に「会う理由ないよ」「行かない」と拒むのですが、「会いたいって理由じゃないの?」「待ってるから」と。バンドマンってやっぱりクズなんですね。全員じゃないと思いますけど! その連絡から数時間後……香は行っちゃうんですね~。そして、涼ちゃんも待ってるんですよ~。売れっ子なのに余暇たっぷり☆ 香を抱きしめ「懐かしいな~香の匂いだ~」なんて言っちゃう始末。  その後、涼ちゃんは「見せたいものがある」と香を家に上げ、「約束したよな。何倍もデカイ東京タワー見せてやるって」と、昔、同棲していたアパートの窓からは極小だったそれを見せながら微笑むのです。悪魔です。もちろん香も約束を覚えていたにも関わらず、涙目で「覚えてない」と強がりつつも、そのままセックスしちゃうんですね。  倫子と香のラブシーンが交互に映し出され、「この先、どうなるかなんてわからない」「ここにあるのが愛なのかなんてわからない」「でも、私たちは進んで行くしかないんだ」という倫子のナレーションとともに、身体を重ね合う4人。そして、翌朝。倫子と香が「次の一手がわからない」と嘆いて終了しました。  倫子は、内面が憎すぎて恋愛感情は抱いていませんが、KEYの顔はタイプなんですね。実際“タイプの人気モデルに迫られてワンナイト”って、すごく夢のある話じゃないですか? 香に関しては、今や人気バンドのギタリストの涼ちゃんに彼女がいると知ってて会いに行ったわけで。なのに「進んで行くしかないんだ」と自らを奮い立たせ、「次の一手がわからない」と悩む2人の浅はかさに萎えました。割り切れないならヤらなければ良いのに。  ワンナイトするな、汚らわしい! なんて煙たいことを言いたいのではなく。30年も生きてきて、それなりに恋愛経験もあるのに、自分の性格を自覚できてないことに興ざめしたんです。自分で自分の首を締めている人の恋愛相談を、画面越しに見せられている気がして腹が立ちました。とても幼稚で、なんかダサイ。「仕事も恋愛も上手くいかないから」「相手が甘い言葉を囁いてきたから」なんて言い訳振りかざしてないで、ちゃんとしろよ! (ドラマウォッチ:ナチョス)

松田龍平のストーカー告白、ずるい濡れ場!「捨てられた女舐めんな」「今日だけのことだよ」/『カルテット』第二話レビュー

 先週の第一話に大量の謎と伏線を散りばめていた『カルテット』。まだ二話めではありますが、どうやって謎が明かされ伏線が回収されていくのか、ミゾミゾしながら視聴しました。あっという間に1時間経ったなぁというのが、見終わった直後の率直な印象です。 ▼大量の謎と伏線を散りばめた大人ドラマのはじまり/『カルテット』第一話レビュー  今回大きくクローズアップされたのは、別府司(松田龍平)のヘタレっぷり……いや、人となりです。有無を言わさぬ松田龍平回でした。  音楽一家に生まれ育った別府さん。祖父が世界的に有名な指揮者であることは第一話の段階でわかっていましたが、第二話では「華麗なる別府ファミリーの宴」と書かれたリサイタルのチラシが登場しました。一時停止して確認したところ、チラシで紹介されている別府ファミリーは3人、「別府健吾:Conductor(=指揮者)、別府圭:Violin(=ヴァイオリン)、別府響子:Piano(=ピアノ)」とありました。チラシに司の姿はありません。しかしチラシを持っていた同僚は、司にサインをせがんでいて、司にとってはストレスを感じるであろうシチュエーションでした。ちなみに司は32歳とのことで、高橋一生演じる家森愉高(35)より年下だったんですね。  そんな司には、親しくしている同僚・九条結衣(菊池亜希子)がいるのですが、仕事の後2人で行ったカラオケボックスで、九条は司に告げます。「私、多分、結婚する」。九条は34歳、婚活をしていたのです。結婚相手は上海の日本企業に勤務していて、彼についていくために会社を辞める、急だけれどとにかく結婚式だけやることになったから、司たち4人に演奏をお願いしたいと頼んできました。  別荘に帰った司が他の3人にその話をすると、3人は、九条は司に結婚を止めてほしいのだと指摘します。司は「飲み仲間、ラク、終電逃して九条さんちに泊まっても何もない」などとはぐらかし、明日のパンを買いに行くと話を中断させました。すずめ(満島ひかり)もアイスを買いたいと言いだし、司と一緒にコンビニに。途中、すずめは司に「真紀さん(松たか子)のこと好きですよねー」と質問し、司「何がですか」と逆質問、すずめ「質問に質問で返す時は正解らしいですよ」。司は「違いますよ」と否定しつつ今度はすずめに「家森(愉高)さんのこと好きでしょ」と質問、すずめ「何でですか」と逆質問。司は適当に聞いただけのようでしたが、すずめは「絶対に言わないでくださいね。家森さんのこと好きです」と認めました。司も、真紀のことが「好きです」と認め、2人はお互い秘密にすることを約束します。この時すずめ、 “私と別府さんだけの秘密”と2回繰り返していました。うーん何だろう、コンビニについてからも、すずめは明らかに司を意識している感じ……に見えたのですが、考えすぎでしょうか。  司は、九条が自分に好意を寄せているのを知りながら、そんな九条に“自分の片思い”のことを相談していたそうで、つまりは九条を利用していたのだという真紀の指摘もあっさり認めました。甘え、依存ともいえますね。奇しくもみすずは寝落ち、愉高は不在。司は真紀への恋愛感情を告白します。まず、司が真紀と会ったのは、カラオケボックスが初めてではありませんでした。  初対面は、司が大学生の頃(2006年)。学園祭に来ていた真紀が、誰もいない舞台で1人ヴァイオリンを弾いているところを、宇宙人のコスプレをした司が目撃していたのです。その後も司は真紀を見かけたのですが声は掛けられず(2回目、3回目)、もしまた会えたら運命だと思って声を掛けてみようと密かに考えていました。ところがその次に会ったのは司の勤める結婚式場、真紀が結婚する時でした(4回目)。偶然を運命に変えるチャンスを逃し続けた司は、あの日、真紀に会いにカラオケボックスに行きました。それが5回目であり、カルテットメンバー4人が“偶然”出会った日だったのです。  「あれは偶然じゃありません」「5回目以降はストーカーです」って司、認めます。認めながらも「真紀さんのことが好きです。ずっとあなたのことが好きです」と真紀に告白(ストーカー云々って会話が出た直後だったから『ずっとあなたが好きだった』っていうドラマを思い出してしまいました……)。司はさらに「あなたを捨てていなくなった男なんかより僕のほうがずっとあなたのこと……」と続けようとしますが(“なんか”はマズいだろ)、真紀はややドン引きしているっぽいし、口を開けば容赦ありません。特に失踪した夫の件に関して「いなくなるのって消えることじゃないですよ。いなくなるのっていないってことがずっと続くことです。いなくなる前よりぞっとそばにいるんです。今なら落ちるって思ったんですか? いない人より僕を」。「捨てられた女舐めんな!」と真紀はガラスを割るほど怒りを示し、しかし感情的にはなっていない印象です。真紀と司のやり取りの間、みすずの寝顔がちょくちょく写りました。狸寝入りしながらの盗み聞きって快感ですよね~。 セックスしたからって関係を変えたりはしない  で、さんざんな言われようだった司ですが、まだまだ九条に甘えます。本命は真紀でも、九条が別の男と結婚してそいつのものになっちゃうのは惜しい、淋しい……のか? 再び一緒にカラオケ、今度はわざと酔って終電を逃し、九条に「何でそんなつまんない男と結婚するんですか?」「九条さんちに泊まる」と駄々をこねる司。片想いの真紀の夫、自分のことを好きだった九条の婚約者、いちいち相手の男をディスってばっかりですね~(みっともないじゃないですか~。でも、カッコつけて何も言えないよりはいいのか)。結果、本当に絶賛引っ越し準備中(上海行きとか実家戻しって段ボール1個1個に書いてあります)の九条宅に上がり込み、自ら積極的に、今まで持たなかった九条との肉体関係を持ちました。さらに「結婚しましょう」と九条にプロポーズ。勢いで言うんじゃないよ……。  当然のごとく九条の反応は冷静でつれないものですが、2人はまだうす暗い空の広がるアパートの屋上で、「サッポロ一番」を食べます。1人前をマグカップで分け合っている感じで、ひとつのブランケットにくるまったうえ、赤いマフラーも一緒に巻くというカップル風味のシチュエーション。でも、九条の台詞は、説得力のあるものでした。 「あっちにさあ、かわいいカフェあるんだけど、遠くて。で、毎回すぐ、そっち(近く)にあるチェーンのほうに入っちゃうの。まあ、それはそれでおいしいんだよ。こういうタイミングでさあ、そうなる男の子の気持ちだってわかるし。好きだったかなあって思われるのはまあシャクだけど気持ちはイイよ」 「別府くんのことがずっと好きだったしね。だから寝たわけだし。それぐらいには私だってずるいし。いいんだけど。結婚とか、ないよ。そういうのはもうないかなぁって思った時があったんだよ。そういうのは今日だけのことだよ」 「まあ私もずるいし別府くんもずるい。私も別府君もちょっとずつずるかった。でも寒い朝ベランダでサッポロ一番食べたらおいしかった。それが私と君のクライマックスでいいいんじゃない」  司は「はい」と頷かざるを得ませんでした。  そして迎えた九条の結婚式(菊池亜希子の指、細っ!)、教会で、新郎新婦入場の演奏を行うカルテット4人です。九条の結婚相手を演じているのは中島歩。映画『グッドストライプス』で菊池亜希子とダブル主演を務めた俳優です。新郎新婦退場のBGMは司のソロ。曲は『アベマリア』から入って『White Love』に。これが、九条に対する司なりの感謝、けじめってところでしょうか。アラサー世代が思春期前後に流行したSPEEDのヒット曲『White Love』を、2人の定番曲として頻繁に使用した点は、SPEEDの大ファンだった筆者にとって懐かしいやら切ないやら……でした。  結婚式での演奏を終えた4人はカラオケに入り(30代男女はよくカラオケを利用するのだ)、司はもう一つの思い出の曲X Japanの「紅」を入れて、3人にYOSHIKIをイメージして首に装着するコルセットを配っていくんですが、司に装着してもらったすずめはドキッとしている感ありますね。マイクを持つ司以外の3人でエーックスジャンプ! 司も突っ込んだけど、これ「紅」でやるやつじゃないですから。 すずめの「片想い」とは  真紀の失踪した夫の母、巻境子(もたいまさこ)の依頼で別荘潜入中、という事情を持つすずめは、別荘内の会話を録音したボイスレコーダーを持ち境子との定例密会。「捨てられた女舐めんな!」には「本当のことを言っているように聞こえました」と意見していて、境子による“真紀の夫殺害説”には半信半疑(というか信じていない)のすずめですが、境子はまたまた真紀の写真を見せます。夫が失踪した翌日、真紀はパーティーに出席して満面の笑みを見せているのだ、と。その写真での真紀は、男女5人のセンターで笑顔、それも口を開けてピース! 明るくて快活な雰囲気は現在の真紀と別人のようです。以前は明るい性格の女性だったのか、でもそれならストーカーの司が今の彼女に違和感を覚えてもいいはずで、友人の前でだけ無理して明るく装っていたと考えることもできますが、ともかくすずめはこの写真に驚くのでした。  すずめが別荘に戻るとほかの3人は留守、ダイニングテーブルには、真紀のスマホが置き忘れられているという好奇心をくすぐる状況。すずめは意を決して、境子に貰った真紀の個人情報を元に、真紀のスマホの暗証番号解除を試みます(その場でやるより、自室でやったほうがいいんじゃ……。でもやっている途中に真紀が戻ってきたらヤバいか)。ちなみに、真紀の生年月日は1980年8月10日、夫幹生の生年月日は1973年11月30日。真紀は36歳、夫さんは44歳ってことですね。肝心の真紀のスマホの暗証番号は、結婚記念日2014年2月21日の「0221」でした! が、そのタイミングで真紀、帰宅。すずめ、ギリギリセーフでスマホ盗み見発覚を逃れました(多分)。  真紀はすずめに「この間(司が真紀に告白した時)ってやっぱり起きてました?」と聞き、「すずめちゃんて、別府さんのこと好きなんですか?」と質問。すずめ「何でですか?」と逆質問。前半のコンビニシーンでも同じようなやりとりがありましたが、「質問に質問で返すのは“正解”」と司に言っていたすずめの真意は? 「勘違いですよ」とはぐらかすものの、表情が、何というか……凍っています。演技力に長けた満島さんですから、この表情は敢えて、なのか。  鋭い観察力と洞察力を自認している真紀は、すずめの恋愛対象だけでなく、「たまに線香くさいよね」と匂いにも敏感に反応しており、実はすずめと境子の接触に勘付いている様子も見せます。会話劇で焦らすかと思いきや、二話からハイスピードの展開を見せる『カルテット』、最終回までに何転するのか見当もつきません。  本編途中で流れる番宣で「嘘つきは大人のはじまり」とか「全員、片想い 全員、嘘つき」ってキャッチフレーズが入っていていますが、“全員、片想い”って“愉高→みすず→司→真紀”になるんでしょうか。“全員、片想い”なら、今後、真紀は司以外のことを好きになるんでしょうか。それとも最後まで「夫を好きな真紀」として描かれる? 登場人物全員、隠し事が多すぎて本音を悟られないように言葉を並べているように見えるので、今はまだ何もわかりませんね。  また、第二話は出番少なめの愉高でしたが、ライブレストラン「ノクターン」の目が笑っていないアルバイト店員・有朱とLINEしたり、第一話同様、闇金ウシジマくん風味な謎の男・半田温志に追われていました(相変わらず、どうやって切り抜けたのかは不明ですが、ちゃんと別荘に帰り、結婚式の演奏にも参加しています)。東京のカラオケボックスでの4人の出会い、今のところ、すずめ、司は、目的があって“偶然じゃなく”真紀と出会ったことがわかっていますが、愉高は果たして……? 演者の高橋一生は、子どもの頃から芸能活同をしているキャリアの長い俳優ですが、ここに来て一気に注目されていますね! 過去には、『耳をすませば』の天沢聖司(声)、ミュージカル『レ・ミゼラブル』の浮浪児・ガブローシュ(山本耕史、浅利陽介、加藤清史郎も演じたことあります)とか、映画『リリイ・シュシュのすべて』の池田先輩(病んでる系の中学生が多い中、まともな男子中学生でした)とか、ドラマ『名前をなくした女神』のDV夫(メガネが光っていました! 妻役は尾野真千子……プライベートでも恋愛・同棲していましたね)などに出演しています。  来週の第三話は、強烈個性の女・すずめに焦点が当たる回。ということは第四話が愉高回? 全員ひとまわりしてからのストーリーもまっっったく読めない『カルテット』、引き続き、見ていきたいと思います。

江角マキコ、不倫疑惑の男性と“子連れデート”のウワサ! 近隣住民が“異様な光景”を目撃?

 突然の芸能界引退発表で、渦中の人となった江角マキコ。1月24日発売の「女性自身」(光文社)は、そのきっかけと目される、江角と50代前後の男性・A氏の“不倫疑惑”を報じたが、江角の代理人はこれを完全否定した。 「このA氏は会社役員で、昨年9月に『週刊新潮』(新潮社)で報じられた通り、投資詐欺事件で逮捕されています。その被害者として、江角の名前も取り沙汰されており、江角の代理人は、不倫密会の疑惑を『返金に関する協議』と回答しています」(週刊誌記者)  A氏はさまざまな肩書を持っており、多くの高級車を所有するセレブなのだという。 「『自身』は2014年末、江角家とA氏家が連れ立って、北海道へ家族旅行をしていたと報じています。江角自身は、この件について、もう一家族を加えた計三家族での旅行だったと回答していますが、どちらにせよ、A氏も妻子持ちの身であり、現在も離婚はしていないはず。つまり江角とT氏には“W不倫疑惑”まで浮上しているんです。現在各マスコミは、この“W不倫疑惑”を詳報すべく、A氏についての取材を進めています」(同)  さらに「自身」では、江角と子どもたち、そしてA氏とみられる男性が、4人で食事会をしていた可能性についても指摘しているが、昨年末には江角宅周辺で、ある“異様な光景”も目撃されていたようだ。 「江角さんは、男性とご自身の長女さんと3人で、堂々と自宅の近くを歩いていました。一緒にレストランに入っていくところを見かけたこともあります。当然その男性は、江角さんの旦那さんだと思っていましたが、外見が、週刊誌に出ていたA氏と似ていることに気づいたんです。当時は家族ぐるみの付き合いだったのかもしれませんが、返金の交渉相手と子ども連れで外を出歩いたり、食事をしていたなんて、にわかには信じられませんよね」(近隣の一般人)  不倫関係こそ全否定しているものの、江角の子どもとも面識があるとされるA氏。江角の夫・平野眞氏は、「自身」の取材に対して、両者がよからぬ関係にあることを否定していないが、この奇妙な状況は、もはや単なる“不倫疑惑”だけでは収まらないかもしれない。

江角マキコ芸能界引退で不倫追及を避けるも、夫は不倫確信「離婚」に言及で泥沼か

 強く、凛としたイメージの人だった。かつては同性からの支持も厚く「カッコいい女」と称賛を浴び、憧れの対象として名前が上がることも多い女優だったのに……。1月24日発売の「女性自身」(光文社)に女優・江角マキコ(50)の不倫を疑う記事が掲載された。この記事には江角の不倫疑惑だけでなく、「芸能活動については引退させていただく所存です」との引退声明文ともいえるファックスまで掲載されているのだから驚きだ。そして23日、江角はマスコミ各社にも引退宣言のファックスを送信した。いったいいま江角になにが起きているというのだろう。  1998年4月に放送がスタート、すぐに高い視聴率をキープし社会現象を巻き起こした大ヒットドラマ『ショムニ』(フジテレビ系)。その主演を務めたことで、江角は女優として確固たるポジションを築き上げた。同ドラマはその後第2、第3シリーズ、さらにはスペシャル版も制作されて、同局の人気シリーズとなった。江角はこのドラマの演出を務めていた現フジテレビのゼネラルディレクターである平野眞氏(51)と2003年に結婚。現在は11歳の長女、7歳の長男の二児の母となっている。女優のほかに、バラエティ番組にも積極的に出演、その歯に衣着せぬ物言いで幅広い世代からの人気を得るようになった江角だが、2014年8月に子供同士が同じ学校に通っていたタレント・長嶋一茂の自宅外壁に「バカ息子」と自分のマネージャーに落書きをさせたとの報道や、江角のせいでママ友トラブルが勃発している、との報道が相次ぎ、これをきっかけにして現在芸能活動は休業状態となっている。  入れ替わりの激しい芸能界であるからして、筆者も正直、江角マキコという人の存在はすでに忘れつつあったのだが……今回の不倫疑惑報道と引退宣言にはかなり驚いた。週刊誌に疑惑記事を掲載され、即引退。元俳優の成宮寛貴の薬物使用疑惑からの突然の引退騒動もそうだったが、すぐさま芸能界を去るのは、「一般人に戻るのだから、これ以上の追及は止めてほしい」という意志の表れだろう。  しかし「女性自身」の詳細を見ると、江角が引退したからといって、騒動が収束するわけではないのでは……と思わされる。夫・平野氏側は、15年1月から妻と別居状態にあること、その原因は江角の不倫を問いただし夫婦喧嘩となったことであり、「離婚しようと思ったことは、もちろん何度もありますよ」「子供たちのためにも、(江角は)一刻も早く目を覚ましてほしい」と吐露している。一方の江角は不倫を否定し、別居は事実だが夫の仕事のためであり、離婚の予定はない、としているが、夫側の言葉を見る限り、夫婦に波風が立っていることは紛れもない事実だろう。  今回、江角と不倫関係にあるのではないかとされているのは、投資コンサルタントを生業としているA氏という男性だ。実はこのA氏、昨年8月にファンドへの出資名目で金をだまし取ったとして、詐欺と金融商品取引法違反の疑いで逮捕歴がある。事件の概要は、A氏をはじめとする投資コンサルタント会社の社長ら5人が、資産運用と偽り多くの投資家から現金を集めていたものの、実際には取引システムは存在していなかったというもの。それでも約5年の間で63人から113億円を集め、GACKTや布袋寅泰、そして江角も「金を騙し取られた被害者」として名前が上がっていた。  なんとも解せない話である。本来ならば江角にとってA氏は自分の大切なお金を騙し取った憎むべき人物のはずだ。それなのに、江角は4年ほど前に知人を通して紹介されたこのA氏と恋仲になり、少なくとも2年以上は不倫関係にあるのだという。江角同様、A氏も結婚しており妻子があるので、この報道が事実ならばダブル不倫になる。同誌では、昨年12月中旬の午前中に江角が愛車を運転してA氏をとあるマンションまで迎えに行き、ふたりで別の高級マンションへ。そこでふたりは6時間もの間こもりっきりだったという。江角側はこの“密会”を、「投資金の返金に関する協議交渉」「2人で会っていたものではない」「返金交渉のためこの日に限らず頻繁に会っている」と説明し、「不倫関係などでは断じてございません」としている。  しかし同誌は「江角さんは彼のことを信じ切ってしまって」という江角の知人の証言を掲載。この知人いわく、江角はA氏と知り合って“強い女”から“か弱い乙女”のように豹変してしまい、A氏が逮捕された際も「彼はそんな人じゃないの」と庇っていたという。A氏は2014年の一茂邸落書き事件のときに「やったかどうかはどうでもいい。とにかく君を守るから」と江角を慰め、江角はこの言葉でさらにA氏への想いを強くしたのだと、この知人は語っている。  江角のように公の場でもプライベートでも常に気丈に強く振る舞う女性が、不意に男性から「守る」などの極甘なワードを囁かれる……それをきっかけに自分でも制御不可能となるほどにその人物にのめりこんでしまう、というのはよく聞く話で、想像が容易なストーリーだ。これまで「強くあろう」「人に頼っちゃいけない」とピンと張りつめていた心の中の糸が、「守るよ」の一言でふにゃふにゃとほどけてしまうのだろうが、張りつめていた糸ほど、一度ほどけてしまうと怖い。「この人の前でだけ、素の私に戻れるんだ」と思い込んでしまい、もはや周囲が何を言おうと耳に入らなくなってしまうのだろう。ありがちな話であるだけに、真実なのか疑わしいが、彼女の不貞を他でもない夫・平野氏が雑誌に告白していることから、いずれ離婚裁判に発展でもすれば法廷で夫の弁護側から不倫の証拠が次々と出されかねない。  江角は芸能界引退の理由を「子供たちのために今、私にしかできないことを選択し専念する時期だと考えました」としている。また、「子供の進学の関係で海外と往復することが増えており」ともあるので、子供たちの海外留学を検討しているのかもしれない。付き添うかたちで彼女自身も海外移住を選択する可能性もある。不倫を疑う夫からも、わずらわしいマスコミからも遠く離れて、異国の地へ行けたら楽だろう。多くのバラエティ番組で大上段からの“正論”を振りかざしてきた江角のタレント生命がこのような淀んだ幕引きになるとは、ただただがっかりだ。 (エリザベス松本)

江角マキコ、不倫疑惑からの引退宣言に「卑怯な逃げ方」! フジ社員の夫に同情の声も

 活動休止状態だった江角マキコが1月23日、突如芸能界から引退する意向だと発表した。翌24日発売の「女性自身」(光文社)のスクープ記事にも、同様のコメントが掲載されており、現在、関係各所が騒然としているという。  同誌記事では、江角の引退とともに、A氏という男性との“不倫疑惑”も詳報。この男性は、昨年「週刊新潮」(新潮社)で報じられた「芸能人投資詐欺事件」で逮捕された過去があり、江角自身も億単位の出資を行っていたという。江角の代理人は、両者の“密会”は不倫ではなく、返金のための協議だとしているが、江角の夫であるフジテレビ社員・平野眞氏は「自身」の取材に、妻とA氏に対する疑念を語っている。 「こうした背景から、いくら不倫を徹底否定したところで、江角サイドの旗色は悪いのではないでしょうか。実際に江角の引退宣言FAXを読んだ多くのネットユーザーが、『少なからず、江角にやましいところがあるのでは』などと指摘しています」(スポーツ紙記者)  平野氏といえば、江角の代表作『ショムニ』(フジテレビ系)を手掛けたドラマスタッフであり、江角とはいわば“職場婚”の間柄。直近では2014年、「週刊文春」(文藝春秋)が江角の“長嶋一茂宅落書き疑惑”を報じた際、平野氏の名前も取り上げていた。 「江角はこの時、落書きの犯人をマネジャーだとして、自身は一切関与していないと主張していました。そして報道で事件が明るみになった後に、平野氏は関係各所に、迷惑をかけてしまったと謝罪行脚の日々を送っていると伝えられたんです。そんな旦那さんを尻目に、A氏と不倫に走っていたとすれば、江角の印象は悪くなるばかりでしょう」(同)  この時、江角はブログで「元マネージャーから私に対し、このような事態をおこして迷惑をかけたとして謝罪の連絡がありました。(中略)現在も心療内科で治療中の元マネージャーや私の子供たちへの配慮もあり、詳しいご説明を差し控えさせていただくと共に、ご説明が遅れたことを重ねてお詫び申し上げます」と釈明していたが、まるで責任転嫁のような物言いだけに、ネット上では批判が噴出。結果的にこの騒動が、江角を活動休止状態に追い込んだといえるだろう。 「そして今回の不倫疑惑ですが、平野氏や子どもたちのためにも、自らの口でしっかりと説明する必要があるにもかかわらず、代理人を通して突然『引退宣言』とあって、マスコミ関係者の間では『卑怯な逃げ方』と批判されています。たとえ今後、表に出てくる機会があったとしても、雑誌の独占インタビューなど、自身に有利なやり方を用いるのでは」(テレビ局関係者)  業界関係者も疑問符だらけの不倫疑惑スクープと引退宣言。その真実は、どこまで公になるのだろうか。

鬼畜な女流監督・真咲南朋が撮るガチレズカップル「ビビアンズ」に夢中!/女性向けAV

最近、寒すぎじゃないですか!? アラレは雪国育ちなのですが、気づけば東京に住み始めて7年も経っていました。そりゃ、体も東京仕様になって寒さにも弱くなるわ、と妙に納得。気候のせいか、アラレは絶賛風邪気味ですが、みなさまは風邪をひかないように暖かくしてお過ごしくださいね。 今回で連載10回目となる『月曜からオナニー』ですが、今回は女性だけですべてが完結するAVをご紹介いたします。それは、レズビアンメーカー・ビビアンが制作する作品です。中でも、アラレが心の底から応援したい「ビビアンズ」のAVを取り上げたいと思います。 ビビアンズとは? 「ビビアンズ」とは、ビアンカップルの月島ななこと椎名そらが結成した、AVメーカー・ビビアンの専属ユニットです。アラレは、女性2人のユニットと聞くとどうしても叶姉妹が頭に浮かびます。長らく本当の姉妹だと思っていたのに、実は戸籍上の姉妹ではないと知ってショックを受けた経験があるため、「ビビアンズ」も単なる商業ユニットで、カップルというのは嘘かも? と疑いましたが、こちらは本物のビアンカップル。現在も同棲中で、交際歴は4年になるそうです。 月島ななこは過去にAV女優として活躍しており、2013年に一度引退しました。しかし、「2人の思い出に一緒にレズ作品に出演したい」という思いから、パートナーの椎名そらと共に再度AVデビュー。2016年の『AV OPEN』にて「ビビアンズ」の作品が入賞するなど、今大注目のユニットです! そんな「ビビアンズ」の魅力を詳しくご紹介していきたいと思います。 過酷な試練を全力で乗り越える「ビビアンズ」 2016年には「ビビアンズ」として4本の作品がリリースされました。すべてドキュメンタリーとなっておりまして、はっきり言って、途中からAVを見ている感覚がなくります。まるで「人間密着ドキュメンタリー」を見ているような気分で、葉加瀬太郎の、あの曲を使えば『情熱大陸』(TBS系)の出来上がり。 「ビビアンズ」のAVを手がけている真咲南朋監督は、なかなかの変態かつ鬼畜で、2人の愛が本物か確かめるべく、さまざまな試練を与えていきます。1作目こそ、微笑ましい2人のラブラブセックスがメインだったのですが、早速2作目から鬼畜監督っぷりが炸裂。2人は愛するパートナーの目の前で、別の女性とセックスをさせられてしまいます。 露骨に嫌そうな顔をして「ムカつく、ムカつく」と連呼する椎名そら。「こんな女に負ける気がしない。悪いけど」とめちゃくちゃ不機嫌な顔で精一杯の強がりを見せる月島ななこ。本気で愛し合っているからこそ、辛いですよね……。見るのも見られるのもどっちも辛い! 観ているだけで、胸が張り裂けそうでした。 しかし。パートナーを寝取られて、お互いに執着心や嫉妬心が強くなった後の2人のセックスは本当にラブラブ! 愛がビシビシと伝わってきます。2作目だけではなく、「ビビアンズ」作品すべてに言えることですが、与えられた試練を不器用ながらに全力で乗り超える2人のひたむきな姿勢と強い絆、そして深い愛に涙なくして観ることができません。AVを観て泣くなんて想像もしていませんでしたが、本当に泣けるんです。ビアンの方はもちろんですが、ノンケの方が観ても必ず満足できる作品であることを保証します。 「ビビアンズ」作品を手がけるのも女性! 元AV女優の真咲南朋監督 まだまだ絶対数が少ない女性AV監督。アラレも数名しか存じ上げませんが、まず最初に浮かぶのは、この真咲南朋監督です。真咲監督は、安藤なつ妃/楓モモ名義でAV女優として活躍しておりましたが、2008年からはAV監督として活躍されております。真咲監督にレズとM男責め作品を撮らせたら、右に出る者はいないのではないでしょうか。 他の監督は、撮影のアングルやプレイ内容など視覚からエロさを伝えるように制作していることが多いように感じます。しかし、真咲監督は、視覚的なエロさだけではなく、そこに「感情」をプラスした映像を作り出そうとされている点が、非常に女性らしい作風なのではないかと思っています。 例えば、真咲監督のM男責め作品は、S女がM男をボロボロになるまで責めるわけではありません。どんなことをされても耐えるM男を見て、いじめている側の女性に湧き上がる「可哀相」とか「愛おしい」といった感情が物語のミソとなっています。過激な内容が多い監督ではありますが、女流監督ならではの面白さがありますので、ぜひ真咲監督の作品もご覧になってみてください。 おわりに 2016年に発表された「ビビアンズ」作品はすべてドキュメンタリーでしたが、来月発売される、第5弾作品は初の本格的なドラマ作品とのこと。今までと違った2人の一面を見ることができそうで、とても楽しみです。何度も「ノルマを達成できなかったら解散!」という企画を乗り越えてきた「ビビアンズ」ですが、今後も絶対、解散して欲しくない! いちファンとして、これからも影ながら応援し続けます。

やっぱりモテなきゃダメですか? 2人の非モテが読む二村ヒトシ『すべてはモテるためである』

杉田俊介さんと、まくねがおさんが、「男らしさ」についてあれこれと思索する対談連載「男らしくない男たちの当事者研究」。過去2回に渡り、近年起きている「男性論ルネッサンス」の検証として、田中俊之『〈40男〉はなぜ嫌われるか』(イースト新書)、坂爪真吾『男子の貞操』(ちくま新書)を取り上げてきました。今回は、二村ヒトシさんの『すべてはモテるためである』(文庫ぎんが堂)。二村さんの足跡を辿りながら、「モテ」について考えていきます。 知性主義的モテ本『すべてはモテるためである』 杉田 この連載では、いま起きている「男性論ルネッサンス」を検証するため、田中俊之『〈40男〉はなぜ嫌われるか』、坂爪真吾『男子の貞操』を取り上げてきました。今回は二村ヒトシさんの『すべてはモテるためである』です。本書は1998年に刊行され、その後2002年に『モテるための哲学』とタイトルを変更して幻冬舎社から文庫が出ています。そして、2012年に大幅加筆された『すべてはモテるためである』が出版され大きな話題になりました。いかにも「モテ本」的なそのタイトルに反して、男性たちの性的な「こじらせ」についてのとても誠実な分析になっていますね。二村さんはアダルトビデオの監督としても有名です。 まく この本は、マニュアル本として書かれていますね。それも安易な方法論を示さない、自分の頭で考えるためのマニュアル本。特徴的なのは「あなたがモテないのは、あなたがキモチワルイからだ」と、まずは徹底的に、読者に自己否定させるアプローチを取るところだと思います。これは、モテる男になるためのマニュアル本だと思って手に取った読者を想定した書き方だと思いますね。 杉田 なるほど。 まく そしてこの本は、モテずに気持ち悪がられている人に向けて、懇切丁寧に、順序立て、整理立てて、モテについてどう考えていけば良いのかを提示していきます。適宜、モテに悩む男性読者に向けたメッセージが入っていく。文体としては軽いのですが、放たれるメッセージは重いし鋭い。そんな本だな、と思いましたね。 杉田 自意識過剰になって考え方が堂々巡りしているとキモチワルイ男になってしまってモテなくなる。しかし二村さんが言うのは、考えずに行動しろ、ということではない。逆です。ちゃんと考えるべきことを自分の頭で考えろ、と。最近は「反知性主義」という言葉が流行っていますが、これはいわば「知性主義的」なモテ本だと感じました。 まく そうですね。考えることの大切さを訴えつつ、でも考えすぎ、臆病になりすぎて行動できないようにもなるな、というメッセージがありますね。「相手に応じて変わっていこう」と訴えるところが、僕には非常に印象的でした。 杉田 コンプレックスを否定していないのがいいですね。治そうとするにせよ、受け入れるにせよ、自分のコンプレックスとちゃんと付き合え。そうすれば、「心の穴」(弱さ)こそ君の魅力や長所になる、と。 モテるようになった二村さんが苦しかった理由 まく あわせて『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』(文庫ぎんが堂)も読みました。二村さんは2012年に文庫版『すべてはモテるためである』を出版した後、『恋とセックスで幸せになる方法』(2011年、イースト・プレス)の文庫版『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を2014年に作り上げています。 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』に掲載されている信田さよ子さんとの特別対談で、信田さんは二村さんの深層心理にある女性観に対して鋭い指摘と痛烈な批判を行っています(P.280-281)。そうした中で、二村さんもまた、自分の真の弱さと向き合わざるを得なくなるんですよね。また、あとがき(実質的はライター・丸山桜奈さんとの対談)では、二村さんの中に「女性に悪いところや弱いところがあることを許せない」自分がいること、そして「それは二村さんが自分の中に悪いところや弱いところがあることを受容していないから」だと丸山さんに指摘されます(P.290-291)。この二冊の本の執筆過程が、まさしく当事者研究なんだよな、と思いました。 杉田 モテるようになったのに、かえって心が苦しくなった、とも言っていましたよね? まく 『すべてはモテるためである』(2012年版)の第5章「モテてみた後で考えたこと」に、そのように書かれています。2002年に『モテるための哲学』を出した頃から二村さんはモテはじめたそうです。最初は非常に楽しかったが、途中から【モテているのに、心が苦しい】という状態になった。お付き合いしている相手が苦しんでいることがよく分かるから。そうして次第に、二村さんは【加害者意識】がつのりはじめた、と。 杉田 はい。加害者意識と言っていますね。 まく それで、二村さんがお付き合いしてきた女性たちに対する、いわば罪滅ぼしのようなつもりで書き上げた『恋とセックスで幸せになる方法』が、中村うさぎさんに「二村さん自身が全然出てこない」と批判されています。その後、文庫版『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を編集する過程で、二村さんは自身の女性嫌悪や男性嫌悪(≒自己嫌悪)にも気づいていくわけですね。 罪滅ぼしのつもりで当初は書いていたが、実は自分を守るために書いていた。自分の弱さを見つめられず、目を背けていた部分があった。二村さんがモテて心が苦しくなったのも、そこから来ていたのだ、と。『すべてはモテるためである』『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を通して読むと、二村さんのプロセスがよく分かって、とても面白かったです。 「肉食系のこじらせ男性」と「非モテ系のこじらせ男性」 杉田 ところで、実はですね……二村さんの本はとても素晴らしい本だと思うんですけど……僕はあまり、のめり込んで読めなかったんですね。うまくいえないけど、自分の中に妙な警戒感もあって……それをなんといえばいいか……。 まく ふんふん。 杉田 二村さんは「肉食系のこじらせ男性」で、僕は「非モテ系のこじらせ男性」だと思うんですね。似ているところもありつつ、基本的にはあまり似ていない。似ていないはずなのに、言っていることが何となく似通ってくる。それはどうしてなのか。もやもやっとした、直感的な警戒感があります。この本に関しては、少し僕には語り難いもの、語ることをためらわせるものがあって、それが何なのか自分でもよくわかっていないんですね。その正体は何なんでしょうね? まく うーん、何なんでしょう。 杉田 二村さんの本は、確かにいわゆる肉食系のモテ本とは違います。そのことへの率直な驚きもある。けれども、ぐるっと回って、やっぱりタイトル通りでもあるんですよね。「すべてはモテるためである」。 肉食系でも草食系でもなく、いわばウツボカズラ的なモテ本というか。読者の自己嫌悪も、変わりたいという気持ちも、そこにのみこまれていく。ここに共感するのは(少なくとも僕としては)ちょっと危ういぞというか……正直にいえば、そういう気持ちがあります。この「モテと非モテのアリジゴク」から降りる自由、精神と肉体が解き放たれる自由も同時にあってほしい。まくさんには、そういう息苦しさはありませんでしたか? まく 僕には、そういう息苦しさは感じませんでしたね。二村さんは「肉食系のこじらせ男性」だと思うし、僕も「非モテ系のこじらせ男性」だと自認しています。「言っていることが何となく似通ってくる」という感想は僕も持ちました。二村さんの本には杉田さんの『非モテの品格』(集英社)と共通することが書かれていると感じていて、僕はどちらの本もとても面白く読みました。 例えば、自己開示やユーモアについてのくだりは、書き方は違っても同じようなことが書かれていると思ったんですね。「相手に自己開示して、それで相手に笑われると、自分の気分が良くなるんだ」という部分は『非モテの品格』のユーモア論に近いものがあると感じて面白く読んだりしました。 杉田 なるほど。 まく 他にも、できるだけ人に優しくあろうとするスタンスとか、「目の前の他者を愛そう、そのまま受け容れよう(尊重しよう)とすることこそが、自分を尊重することにつながるんだ」というスタンスとか。僕は、二村さんと杉田さんの本を響き合わせながら、自然と読んでいましたね。 杉田 なるほど。うーん。だとすると、僕の中のこの抵抗感は何なんですかね……。 たとえば二村さんにとっては、こういう本を書くこと自体が、二村さん自身の新たな「モテ」の触媒になっていませんか? 僕の書くものはむしろ「君の人生の問題に独りで対峙してくれ、僕は自分で苦しみ、自分で幸福になるから」という突き放しがあると思うんですね。これって、単なるルサンチマンなんですかね(笑)。 まく いやー、どうなんでしょうかね(笑)。 杉田 自分でもよくわかんなくって。 やっぱり「モテなきゃダメ」? まく 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』まで読むと、書くこと自体が二村さん自身の「モテ」の触媒になっているとは言えない……。いや、表面的には「モテ」の触媒になっているように見えるかもしれないけど、二村さんも根底的には非常に孤独に闘っているんだな、という印象を持ったりしましたねえ。 杉田 そうですか。 まく しかしどうなんだろうな、独りで対峙する勇気をもらえるような本かどうか、か……。例えば僕は先日、二村さんが監督、出演をしているAVを見てみたんです。二村さんがセックスしている姿を見て、二村さんが一方では非常に孤独に見え、しかし精一杯闘っている、という印象を受けたりしました。そこに、勇気をもらえた感じもあったんですね。僕もうまく言えないんですけど……。 杉田 ほう……。 まく ちなみに、そのAVを見て僕はとても興奮したし、女優さんもとっても美しく見えましたが。なんだか、不思議なAV視聴体験でしたねえ。 杉田 そうですか。僕は彼が出演したり監督したりしている作品は観たことがないですね。観てみると印象もまた違うのかな。 しかし、素朴過ぎるかもしれませんが、やっぱりモテなきゃダメなんですかね? それが「すべて」なんでしょうか? 二村さんの考え方の中から「たとえモテず、愛されずとも、優しく幸福に生きていく」というような問いが出てくるのかな? そういう問いにも居場所がありますか。 まく そうですねえ。まず、僕が勝手に『すべてはモテるためである』を読み替えながら読んでいた、という点はあると思います。『すべてはモテるためである』は、確かにモテる/モテないをめぐっての議論、恋愛関係、恋人関係、性愛関係をめぐっての議論として提示されているとは思います。でも、おそらくそれ以外の関係、日々のあらゆる誰かとのやりとりでの関係でも、適用可能な議論ではないかと思ったんです。誰かと互いを尊重しあって生きていく技法として。 杉田 なるほど。そうか。 まく ただこれは、明らかに僕が広げて読み込みすぎだと思います。そういう意味で、ぜひ『非モテの品格』をセットで読んでみて欲しいと感じます。……僕が言うのも変ですが(笑)。 杉田 なるほどね。僕はかなり何かを投影してしまっているのかもしれないなあ。というか、まくさんの目からみて、僕が感じている二村さんへのもやもやした感じの正体って、なんだと思います? 率直なところ。 まく いやー、なんでしょうか……。 杉田 身も蓋もないけど、二村さんがモテる人間で、僕がそうではないからですかね?(笑) まく いや、こういってはなんですが、僕も恋愛・性愛面ではモテたことがないわけで……。でも、僕はあんまり二村さんへのもやもやを感じたりはしないんですね。なんなんでしょうね……。お互いの非モテ意識に、やや違いがあるってことですかね? 杉田 そうですね。我々の違いが結構重要かもしれないですね。「非モテ意識」や「男らしくなさ」にも様々なタイプがあるのでしょう。この辺は今後の課題になるのかな。しかし、うーん……。 (この後、10分ほどの沈黙) 自分の中の「モモレンジャー」 まく ……少し話を変えますね。本の中で、自分の【居場所】を見つけよう、【心のふるさと】を見つけよう、というメッセージがありました。「他の人に、その【居場所】のことをエラソーに一方的に長々と話さないこと、そうしてしまうのは自分に自信がないからだ」「本当の【居場所】は、ひとりでいても寂しくない場所で、それをひけらかさなくても良いところだ」というくだりを読むたびに、「自分にはまだ見つかっていないな」「あー、自分はまだダメだなあ」と思いますねえ。自分の好きなことを、他の人へついつい、ひけらかして語りたくなってしまいますからね。 杉田 面白かった点、他にはどうですか? まく そうですねえ、あとは、「心の中のゴレンジャー」論ですね。 杉田 ああ、あれは僕もよかったと思いましたね。 まく 平野啓一郎さんの「分人主義」論(『私とは何か―「個人」から「分人」へ 』(講談社現代新書)や『空白を満たしなさい』(講談社)を参照のこと)のようなものですが、それを当事者研究的に導いていく文章が、とても良くて。 日常の出来事と重ねあわせながら読んで、とても面白かったです。「あ、あのときのキザだった僕って、アオレンジャーだったのかも」とか、「だらしなかった、あのときの僕は食いしん坊のキレンジャーっぽいな」って。そうやって意識化して、それらの自分をありのまま尊重していけたなら、より豊かな自分になれるんじゃないかなって思いましたね。自分をひとつとして捉えず、複数であると捉える感覚は、当事者性を考えていく上で、とても大切ですよねえ。 杉田 あなたの中にも必ずモモレンジャーがいる、つまり女性らしさがある、というわけですよね。 まく それです、それです。モモレンジャー、心の中の女についても凄く話したかったんです。実は僕、他のレンジャーは心の中にいる自分として当てはめられそうだったんですが、モモレンジャーだけは、なかなか想像できなかったんですよ……。 杉田 僕は自分の中の女性性をちょっと想像しましたね。 まく 自分がモモレンジャーのことだけは思いつかない事実がとても興味深かったです。僕は、僕の中の女を、いないようにいないようにしているのかもしれないな、と。僕の母親は過保護だったので、日頃、過保護に扱われたい自分と、しかしそうはされたくない自分と、闘っている面があるんですね。「もらいたがっている」自分がいて、でもそんな自分がイヤで、日常の中で自分を打ち消そうとしているんです。それが影響して、自分の中の女をいないようにしているのかもしれないな、と。 杉田 そうか、母的なものか。 まく この議論でいう二村さんにとってのモモレンジャーは、二村さんの母親です。そしてその母親から来る二村さんの深層心理の女性観に信田さよ子さんは痛烈な批判を浴びせていました。ですので「心の中のモモレンジャー」論自体にも、何か再検討すべき点があるのかもしれません。 杉田 それも課題だなあ。江藤淳じゃないけど、母なるものの呪縛ね。異性に対しても無意識のうちに母親の影を求めてしまうという。素朴だけど、これ厄介ですね。単純にマザコンとか、母に去勢された、という話でも割り切れない気がする。 「超自我としての、厳しい女性性」 まく まったくですねえ。先ほど杉田さんは、自分の中の女性性を想像できたって言ってましたけど、どんな感じなんですか? 杉田 ……さっきはあっさり言っちゃったけど、いざ考えてみると、言葉にしがたいっすね。なんていうかな……優しくされたいとか、抱きしめられたいとか、守ってほしいとか、そういう感じかなあ。でもそれって、ジェンダー役割的な意味での「女らしさ」でしかないですよね。 まく あー、なるほど。 杉田 だから、そういう「女らしさ」が自分の中にある、って口にすると、女性からは「それは男がイメージする女らしさであって、現実の女性そのものではない」と批判されるだろうな、って思って。 まく うーん、そうですねえ……。 杉田 そういう「男が何を言っても叩いてくる」という「女性性」のイメージも自分の中に別人格としてある気がして。ある種の超自我みたいな感じでインストールされている感じもします。ややこしい。 まく すごく興味深いです。杉田さんにとっての「女性性」、ここまで聴くと、凄く複雑で、でもリアルな感じがします。そういう「女性性」を自分の中に感じている男性は、他にもいるんじゃないかなあ。 杉田 「超自我としての、厳しい女性性」は結構大事なテーマかもしれない。「男だからしっかりしろ」という命令と、「男が何をしようが所詮は女の手のひらの上」という無力さをダブルバインド的に同時に求められているような。それは母の呪縛とも違いますね。この辺は精神分析が色々論じているかもしれないけど、よくわかりません。 まく ふーむ、そうですか。杉田さんにとっての心の中の「女性性」を掘り下げると、そういう論点に行き着く、と。面白いなあ。 「感情を感じきる」とラクになれるってどういうこと? まく 二村さんの本を題材に、色々と話してきましたが、性に関しての話題は、語り合うことの難しさがありつつも、当事者研究的に非常に重要だな、とあらためて感じました。杉田さんはいかがですか? 杉田 そうですね。自分の性愛や欲望に対峙することは、どうしてももやもやがつきまといますね。そしてそれは案外、大事なことなのかもしれない。優柔不断なまま、もやもやしたまま知的であろうとすることは。それは反知性主義とは逆の態度でありうる気がする。 まく ふむ。 杉田 たとえば『すべてはモテるためである』の文庫版の対談相手の國分功一郎さんは「非モテ」にはっきりとダメ出しをしていますね。もやもやした感情はダメなんだ、と。思いっきり羨むのでもなく、はっきり断念するのでもない、そういうのがダメなんだと。 まく そうでしたね……。 杉田 モテたいと思うなら、モテたいと思いっきり願え。感情を感じきれ。國分さんの言うことはすごく分かるんだけど、でも僕は、単に不徹底な情念ではなくて、どんなに考えてもどうしても残る人間の内なるもやもや、ダメさや弱さを大事にしたいし、そこから何が生まれてくるか、そのゆくえが気になる。僕の文章も蛇行しまくりだし。人間にとっては、優柔不断なもやもやというエレメントが大事な局面もあるのではないか。 まく うーん、もやもやについてなんですけど……。僕は二村さんの本を最近再読した後、「感情は、考えるのではなくて感じきる」というのを、自分も日々でやろうとしているんです。うまくできて、そのおかげで、それまでは考えすぎて動けなかった自分がスッキリ動けたことも、一回だけあって。そのときは良かったんですが……。 ただ、なかなかうまくいかないんですよね。うまく感じきれないときが多すぎる。ついつい考えちゃう。もしくは、何か別のこと(本とか、ネットとか)に逃げてしまって「感情を感じきる」をしないように逃げてしまう。二村さんの本を読んでから、「モヤモヤしている自分は、感情を感じきれないせいじゃないか」「うまく感じきれない自分は、ダメだなあ……」なんて、もやもやしてるんです(笑)。自分のもやもやを、どう扱ったら良いかわからなくてもやもやしている(笑)。こういう自分が自意識過剰すぎてダメだなって思いつつ。……返答に困るかもしれないですけど、こういう僕に対して、杉田さんはどんなことを思いますか? 杉田 どうなんだろう。わかんない。感情を感じきるって、どうすればいいんですかね。もやもやした気分って、考え(思考)と感情(身体)がすっきり区別できない状態という気がするから……。もやもやした気分に忠実になって、しかし自縄自縛にもならず、自己嫌悪もため込まず、どこまで行けるのか、ということなのか。というか、僕はずっともやもやしている人間なので、すっきりしたアドバイスもできず……。 まく 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』では、「感情を感じきること」について、こう書いていますね。「苦しい感情が湧いた時は、よけいな考えをめぐらせたり、自分を責めたり相手を責めたり、卑屈になったり自己正当化したりせず、ただ自分の感情を【感じきって】みてください。原因や、未来・過去のことなどを考えず、ただ起こり、ただ悲しんでみてください。(中略)自分の感情の炎に、水もかけず、かといって新しい燃料をくべず、湧きあがってくるものがおさまるまで感じきるのです。その方が早くラクになれるはずです」(p.152)と。 杉田 「感情を感じきること」って、瞑想みたいな感じなんですかね。 まく うーん、いや、どうなんでしょう。 杉田 違うか。「早くラクになれる」って、どういうことなんだろう。 まく 本を読んでみると……、一晩中びいびい泣く、枕やクッションを叩いて怒りまくる、自分だけしか見ないノートに気持ちを書く、とかが「感情を感じきること」の例として挙げられていますねえ。 杉田 ああ、そうか。ちょっとイメージしていたのと違った。読んだはずなのに忘れていた。怒りや悲しみをそのままにしておくほうが、燃料が早く自然に尽きてラクになれると。するとやはり、二村流でいけば「もやもやしている」状態をそのままにしておくしかないのでは……放っておくと、もやもやが自然におさまってくると。 まく うーん……。 杉田 いや、怒りや悲しみのような具体的な感情と、もやもやのような曖昧な気分は、別物なのかな? 哲学なんかでは、具体的な対象のある「感情」と対象の無い曖昧な「気分」(不安や疲労など)が区別されたりしますけど。もやもやした気分は、感情じゃないから、放置して燃え尽きることがないのかしら。もやもやには「感情は考えずに感じきる」とは別の対処法が必要とか? まく なるほど。僕にとっては、怒りや悲しみのような具体的な「感情」と、もやもやのような曖昧な「気分」は、別な感じがします。僕の場合は、端的に「自分の感情がわからない」、そして、「自分の感情を感じきることが怖い」という感情(気分?)があるのかもなあ。いずれにせよ、「感情」と「気分」という区別を考えることは、僕にとって大切な気がする。 杉田 そろそろ時間ですね。……今回はなんだかとくに中途半端なまま、僕らの対話も終ってしまいましたが、引き続き、次回以降ももやもやした気持ちを抱えたまま考え続けていくことになりそうですね。 まく そうですねえ。

やっぱりモテなきゃダメですか? 2人の非モテが読む二村ヒトシ『すべてはモテるためである』

杉田俊介さんと、まくねがおさんが、「男らしさ」についてあれこれと思索する対談連載「男らしくない男たちの当事者研究」。過去2回に渡り、近年起きている「男性論ルネッサンス」の検証として、田中俊之『〈40男〉はなぜ嫌われるか』(イースト新書)、坂爪真吾『男子の貞操』(ちくま新書)を取り上げてきました。今回は、二村ヒトシさんの『すべてはモテるためである』(文庫ぎんが堂)。二村さんの足跡を辿りながら、「モテ」について考えていきます。 知性主義的モテ本『すべてはモテるためである』 杉田 この連載では、いま起きている「男性論ルネッサンス」を検証するため、田中俊之『〈40男〉はなぜ嫌われるか』、坂爪真吾『男子の貞操』を取り上げてきました。今回は二村ヒトシさんの『すべてはモテるためである』です。本書は1998年に刊行され、その後2002年に『モテるための哲学』とタイトルを変更して幻冬舎社から文庫が出ています。そして、2012年に大幅加筆された『すべてはモテるためである』が出版され大きな話題になりました。いかにも「モテ本」的なそのタイトルに反して、男性たちの性的な「こじらせ」についてのとても誠実な分析になっていますね。二村さんはアダルトビデオの監督としても有名です。 まく この本は、マニュアル本として書かれていますね。それも安易な方法論を示さない、自分の頭で考えるためのマニュアル本。特徴的なのは「あなたがモテないのは、あなたがキモチワルイからだ」と、まずは徹底的に、読者に自己否定させるアプローチを取るところだと思います。これは、モテる男になるためのマニュアル本だと思って手に取った読者を想定した書き方だと思いますね。 杉田 なるほど。 まく そしてこの本は、モテずに気持ち悪がられている人に向けて、懇切丁寧に、順序立て、整理立てて、モテについてどう考えていけば良いのかを提示していきます。適宜、モテに悩む男性読者に向けたメッセージが入っていく。文体としては軽いのですが、放たれるメッセージは重いし鋭い。そんな本だな、と思いましたね。 杉田 自意識過剰になって考え方が堂々巡りしているとキモチワルイ男になってしまってモテなくなる。しかし二村さんが言うのは、考えずに行動しろ、ということではない。逆です。ちゃんと考えるべきことを自分の頭で考えろ、と。最近は「反知性主義」という言葉が流行っていますが、これはいわば「知性主義的」なモテ本だと感じました。 まく そうですね。考えることの大切さを訴えつつ、でも考えすぎ、臆病になりすぎて行動できないようにもなるな、というメッセージがありますね。「相手に応じて変わっていこう」と訴えるところが、僕には非常に印象的でした。 杉田 コンプレックスを否定していないのがいいですね。治そうとするにせよ、受け入れるにせよ、自分のコンプレックスとちゃんと付き合え。そうすれば、「心の穴」(弱さ)こそ君の魅力や長所になる、と。 モテるようになった二村さんが苦しかった理由 まく あわせて『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』(文庫ぎんが堂)も読みました。二村さんは2012年に文庫版『すべてはモテるためである』を出版した後、『恋とセックスで幸せになる方法』(2011年、イースト・プレス)の文庫版『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を2014年に作り上げています。 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』に掲載されている信田さよ子さんとの特別対談で、信田さんは二村さんの深層心理にある女性観に対して鋭い指摘と痛烈な批判を行っています(P.280-281)。そうした中で、二村さんもまた、自分の真の弱さと向き合わざるを得なくなるんですよね。また、あとがき(実質的はライター・丸山桜奈さんとの対談)では、二村さんの中に「女性に悪いところや弱いところがあることを許せない」自分がいること、そして「それは二村さんが自分の中に悪いところや弱いところがあることを受容していないから」だと丸山さんに指摘されます(P.290-291)。この二冊の本の執筆過程が、まさしく当事者研究なんだよな、と思いました。 杉田 モテるようになったのに、かえって心が苦しくなった、とも言っていましたよね? まく 『すべてはモテるためである』(2012年版)の第5章「モテてみた後で考えたこと」に、そのように書かれています。2002年に『モテるための哲学』を出した頃から二村さんはモテはじめたそうです。最初は非常に楽しかったが、途中から【モテているのに、心が苦しい】という状態になった。お付き合いしている相手が苦しんでいることがよく分かるから。そうして次第に、二村さんは【加害者意識】がつのりはじめた、と。 杉田 はい。加害者意識と言っていますね。 まく それで、二村さんがお付き合いしてきた女性たちに対する、いわば罪滅ぼしのようなつもりで書き上げた『恋とセックスで幸せになる方法』が、中村うさぎさんに「二村さん自身が全然出てこない」と批判されています。その後、文庫版『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を編集する過程で、二村さんは自身の女性嫌悪や男性嫌悪(≒自己嫌悪)にも気づいていくわけですね。 罪滅ぼしのつもりで当初は書いていたが、実は自分を守るために書いていた。自分の弱さを見つめられず、目を背けていた部分があった。二村さんがモテて心が苦しくなったのも、そこから来ていたのだ、と。『すべてはモテるためである』『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を通して読むと、二村さんのプロセスがよく分かって、とても面白かったです。 「肉食系のこじらせ男性」と「非モテ系のこじらせ男性」 杉田 ところで、実はですね……二村さんの本はとても素晴らしい本だと思うんですけど……僕はあまり、のめり込んで読めなかったんですね。うまくいえないけど、自分の中に妙な警戒感もあって……それをなんといえばいいか……。 まく ふんふん。 杉田 二村さんは「肉食系のこじらせ男性」で、僕は「非モテ系のこじらせ男性」だと思うんですね。似ているところもありつつ、基本的にはあまり似ていない。似ていないはずなのに、言っていることが何となく似通ってくる。それはどうしてなのか。もやもやっとした、直感的な警戒感があります。この本に関しては、少し僕には語り難いもの、語ることをためらわせるものがあって、それが何なのか自分でもよくわかっていないんですね。その正体は何なんでしょうね? まく うーん、何なんでしょう。 杉田 二村さんの本は、確かにいわゆる肉食系のモテ本とは違います。そのことへの率直な驚きもある。けれども、ぐるっと回って、やっぱりタイトル通りでもあるんですよね。「すべてはモテるためである」。 肉食系でも草食系でもなく、いわばウツボカズラ的なモテ本というか。読者の自己嫌悪も、変わりたいという気持ちも、そこにのみこまれていく。ここに共感するのは(少なくとも僕としては)ちょっと危ういぞというか……正直にいえば、そういう気持ちがあります。この「モテと非モテのアリジゴク」から降りる自由、精神と肉体が解き放たれる自由も同時にあってほしい。まくさんには、そういう息苦しさはありませんでしたか? まく 僕には、そういう息苦しさは感じませんでしたね。二村さんは「肉食系のこじらせ男性」だと思うし、僕も「非モテ系のこじらせ男性」だと自認しています。「言っていることが何となく似通ってくる」という感想は僕も持ちました。二村さんの本には杉田さんの『非モテの品格』(集英社)と共通することが書かれていると感じていて、僕はどちらの本もとても面白く読みました。 例えば、自己開示やユーモアについてのくだりは、書き方は違っても同じようなことが書かれていると思ったんですね。「相手に自己開示して、それで相手に笑われると、自分の気分が良くなるんだ」という部分は『非モテの品格』のユーモア論に近いものがあると感じて面白く読んだりしました。 杉田 なるほど。 まく 他にも、できるだけ人に優しくあろうとするスタンスとか、「目の前の他者を愛そう、そのまま受け容れよう(尊重しよう)とすることこそが、自分を尊重することにつながるんだ」というスタンスとか。僕は、二村さんと杉田さんの本を響き合わせながら、自然と読んでいましたね。 杉田 なるほど。うーん。だとすると、僕の中のこの抵抗感は何なんですかね……。 たとえば二村さんにとっては、こういう本を書くこと自体が、二村さん自身の新たな「モテ」の触媒になっていませんか? 僕の書くものはむしろ「君の人生の問題に独りで対峙してくれ、僕は自分で苦しみ、自分で幸福になるから」という突き放しがあると思うんですね。これって、単なるルサンチマンなんですかね(笑)。 まく いやー、どうなんでしょうかね(笑)。 杉田 自分でもよくわかんなくって。 やっぱり「モテなきゃダメ」? まく 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』まで読むと、書くこと自体が二村さん自身の「モテ」の触媒になっているとは言えない……。いや、表面的には「モテ」の触媒になっているように見えるかもしれないけど、二村さんも根底的には非常に孤独に闘っているんだな、という印象を持ったりしましたねえ。 杉田 そうですか。 まく しかしどうなんだろうな、独りで対峙する勇気をもらえるような本かどうか、か……。例えば僕は先日、二村さんが監督、出演をしているAVを見てみたんです。二村さんがセックスしている姿を見て、二村さんが一方では非常に孤独に見え、しかし精一杯闘っている、という印象を受けたりしました。そこに、勇気をもらえた感じもあったんですね。僕もうまく言えないんですけど……。 杉田 ほう……。 まく ちなみに、そのAVを見て僕はとても興奮したし、女優さんもとっても美しく見えましたが。なんだか、不思議なAV視聴体験でしたねえ。 杉田 そうですか。僕は彼が出演したり監督したりしている作品は観たことがないですね。観てみると印象もまた違うのかな。 しかし、素朴過ぎるかもしれませんが、やっぱりモテなきゃダメなんですかね? それが「すべて」なんでしょうか? 二村さんの考え方の中から「たとえモテず、愛されずとも、優しく幸福に生きていく」というような問いが出てくるのかな? そういう問いにも居場所がありますか。 まく そうですねえ。まず、僕が勝手に『すべてはモテるためである』を読み替えながら読んでいた、という点はあると思います。『すべてはモテるためである』は、確かにモテる/モテないをめぐっての議論、恋愛関係、恋人関係、性愛関係をめぐっての議論として提示されているとは思います。でも、おそらくそれ以外の関係、日々のあらゆる誰かとのやりとりでの関係でも、適用可能な議論ではないかと思ったんです。誰かと互いを尊重しあって生きていく技法として。 杉田 なるほど。そうか。 まく ただこれは、明らかに僕が広げて読み込みすぎだと思います。そういう意味で、ぜひ『非モテの品格』をセットで読んでみて欲しいと感じます。……僕が言うのも変ですが(笑)。 杉田 なるほどね。僕はかなり何かを投影してしまっているのかもしれないなあ。というか、まくさんの目からみて、僕が感じている二村さんへのもやもやした感じの正体って、なんだと思います? 率直なところ。 まく いやー、なんでしょうか……。 杉田 身も蓋もないけど、二村さんがモテる人間で、僕がそうではないからですかね?(笑) まく いや、こういってはなんですが、僕も恋愛・性愛面ではモテたことがないわけで……。でも、僕はあんまり二村さんへのもやもやを感じたりはしないんですね。なんなんでしょうね……。お互いの非モテ意識に、やや違いがあるってことですかね? 杉田 そうですね。我々の違いが結構重要かもしれないですね。「非モテ意識」や「男らしくなさ」にも様々なタイプがあるのでしょう。この辺は今後の課題になるのかな。しかし、うーん……。 (この後、10分ほどの沈黙) 自分の中の「モモレンジャー」 まく ……少し話を変えますね。本の中で、自分の【居場所】を見つけよう、【心のふるさと】を見つけよう、というメッセージがありました。「他の人に、その【居場所】のことをエラソーに一方的に長々と話さないこと、そうしてしまうのは自分に自信がないからだ」「本当の【居場所】は、ひとりでいても寂しくない場所で、それをひけらかさなくても良いところだ」というくだりを読むたびに、「自分にはまだ見つかっていないな」「あー、自分はまだダメだなあ」と思いますねえ。自分の好きなことを、他の人へついつい、ひけらかして語りたくなってしまいますからね。 杉田 面白かった点、他にはどうですか? まく そうですねえ、あとは、「心の中のゴレンジャー」論ですね。 杉田 ああ、あれは僕もよかったと思いましたね。 まく 平野啓一郎さんの「分人主義」論(『私とは何か―「個人」から「分人」へ 』(講談社現代新書)や『空白を満たしなさい』(講談社)を参照のこと)のようなものですが、それを当事者研究的に導いていく文章が、とても良くて。 日常の出来事と重ねあわせながら読んで、とても面白かったです。「あ、あのときのキザだった僕って、アオレンジャーだったのかも」とか、「だらしなかった、あのときの僕は食いしん坊のキレンジャーっぽいな」って。そうやって意識化して、それらの自分をありのまま尊重していけたなら、より豊かな自分になれるんじゃないかなって思いましたね。自分をひとつとして捉えず、複数であると捉える感覚は、当事者性を考えていく上で、とても大切ですよねえ。 杉田 あなたの中にも必ずモモレンジャーがいる、つまり女性らしさがある、というわけですよね。 まく それです、それです。モモレンジャー、心の中の女についても凄く話したかったんです。実は僕、他のレンジャーは心の中にいる自分として当てはめられそうだったんですが、モモレンジャーだけは、なかなか想像できなかったんですよ……。 杉田 僕は自分の中の女性性をちょっと想像しましたね。 まく 自分がモモレンジャーのことだけは思いつかない事実がとても興味深かったです。僕は、僕の中の女を、いないようにいないようにしているのかもしれないな、と。僕の母親は過保護だったので、日頃、過保護に扱われたい自分と、しかしそうはされたくない自分と、闘っている面があるんですね。「もらいたがっている」自分がいて、でもそんな自分がイヤで、日常の中で自分を打ち消そうとしているんです。それが影響して、自分の中の女をいないようにしているのかもしれないな、と。 杉田 そうか、母的なものか。 まく この議論でいう二村さんにとってのモモレンジャーは、二村さんの母親です。そしてその母親から来る二村さんの深層心理の女性観に信田さよ子さんは痛烈な批判を浴びせていました。ですので「心の中のモモレンジャー」論自体にも、何か再検討すべき点があるのかもしれません。 杉田 それも課題だなあ。江藤淳じゃないけど、母なるものの呪縛ね。異性に対しても無意識のうちに母親の影を求めてしまうという。素朴だけど、これ厄介ですね。単純にマザコンとか、母に去勢された、という話でも割り切れない気がする。 「超自我としての、厳しい女性性」 まく まったくですねえ。先ほど杉田さんは、自分の中の女性性を想像できたって言ってましたけど、どんな感じなんですか? 杉田 ……さっきはあっさり言っちゃったけど、いざ考えてみると、言葉にしがたいっすね。なんていうかな……優しくされたいとか、抱きしめられたいとか、守ってほしいとか、そういう感じかなあ。でもそれって、ジェンダー役割的な意味での「女らしさ」でしかないですよね。 まく あー、なるほど。 杉田 だから、そういう「女らしさ」が自分の中にある、って口にすると、女性からは「それは男がイメージする女らしさであって、現実の女性そのものではない」と批判されるだろうな、って思って。 まく うーん、そうですねえ……。 杉田 そういう「男が何を言っても叩いてくる」という「女性性」のイメージも自分の中に別人格としてある気がして。ある種の超自我みたいな感じでインストールされている感じもします。ややこしい。 まく すごく興味深いです。杉田さんにとっての「女性性」、ここまで聴くと、凄く複雑で、でもリアルな感じがします。そういう「女性性」を自分の中に感じている男性は、他にもいるんじゃないかなあ。 杉田 「超自我としての、厳しい女性性」は結構大事なテーマかもしれない。「男だからしっかりしろ」という命令と、「男が何をしようが所詮は女の手のひらの上」という無力さをダブルバインド的に同時に求められているような。それは母の呪縛とも違いますね。この辺は精神分析が色々論じているかもしれないけど、よくわかりません。 まく ふーむ、そうですか。杉田さんにとっての心の中の「女性性」を掘り下げると、そういう論点に行き着く、と。面白いなあ。 「感情を感じきる」とラクになれるってどういうこと? まく 二村さんの本を題材に、色々と話してきましたが、性に関しての話題は、語り合うことの難しさがありつつも、当事者研究的に非常に重要だな、とあらためて感じました。杉田さんはいかがですか? 杉田 そうですね。自分の性愛や欲望に対峙することは、どうしてももやもやがつきまといますね。そしてそれは案外、大事なことなのかもしれない。優柔不断なまま、もやもやしたまま知的であろうとすることは。それは反知性主義とは逆の態度でありうる気がする。 まく ふむ。 杉田 たとえば『すべてはモテるためである』の文庫版の対談相手の國分功一郎さんは「非モテ」にはっきりとダメ出しをしていますね。もやもやした感情はダメなんだ、と。思いっきり羨むのでもなく、はっきり断念するのでもない、そういうのがダメなんだと。 まく そうでしたね……。 杉田 モテたいと思うなら、モテたいと思いっきり願え。感情を感じきれ。國分さんの言うことはすごく分かるんだけど、でも僕は、単に不徹底な情念ではなくて、どんなに考えてもどうしても残る人間の内なるもやもや、ダメさや弱さを大事にしたいし、そこから何が生まれてくるか、そのゆくえが気になる。僕の文章も蛇行しまくりだし。人間にとっては、優柔不断なもやもやというエレメントが大事な局面もあるのではないか。 まく うーん、もやもやについてなんですけど……。僕は二村さんの本を最近再読した後、「感情は、考えるのではなくて感じきる」というのを、自分も日々でやろうとしているんです。うまくできて、そのおかげで、それまでは考えすぎて動けなかった自分がスッキリ動けたことも、一回だけあって。そのときは良かったんですが……。 ただ、なかなかうまくいかないんですよね。うまく感じきれないときが多すぎる。ついつい考えちゃう。もしくは、何か別のこと(本とか、ネットとか)に逃げてしまって「感情を感じきる」をしないように逃げてしまう。二村さんの本を読んでから、「モヤモヤしている自分は、感情を感じきれないせいじゃないか」「うまく感じきれない自分は、ダメだなあ……」なんて、もやもやしてるんです(笑)。自分のもやもやを、どう扱ったら良いかわからなくてもやもやしている(笑)。こういう自分が自意識過剰すぎてダメだなって思いつつ。……返答に困るかもしれないですけど、こういう僕に対して、杉田さんはどんなことを思いますか? 杉田 どうなんだろう。わかんない。感情を感じきるって、どうすればいいんですかね。もやもやした気分って、考え(思考)と感情(身体)がすっきり区別できない状態という気がするから……。もやもやした気分に忠実になって、しかし自縄自縛にもならず、自己嫌悪もため込まず、どこまで行けるのか、ということなのか。というか、僕はずっともやもやしている人間なので、すっきりしたアドバイスもできず……。 まく 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』では、「感情を感じきること」について、こう書いていますね。「苦しい感情が湧いた時は、よけいな考えをめぐらせたり、自分を責めたり相手を責めたり、卑屈になったり自己正当化したりせず、ただ自分の感情を【感じきって】みてください。原因や、未来・過去のことなどを考えず、ただ起こり、ただ悲しんでみてください。(中略)自分の感情の炎に、水もかけず、かといって新しい燃料をくべず、湧きあがってくるものがおさまるまで感じきるのです。その方が早くラクになれるはずです」(p.152)と。 杉田 「感情を感じきること」って、瞑想みたいな感じなんですかね。 まく うーん、いや、どうなんでしょう。 杉田 違うか。「早くラクになれる」って、どういうことなんだろう。 まく 本を読んでみると……、一晩中びいびい泣く、枕やクッションを叩いて怒りまくる、自分だけしか見ないノートに気持ちを書く、とかが「感情を感じきること」の例として挙げられていますねえ。 杉田 ああ、そうか。ちょっとイメージしていたのと違った。読んだはずなのに忘れていた。怒りや悲しみをそのままにしておくほうが、燃料が早く自然に尽きてラクになれると。するとやはり、二村流でいけば「もやもやしている」状態をそのままにしておくしかないのでは……放っておくと、もやもやが自然におさまってくると。 まく うーん……。 杉田 いや、怒りや悲しみのような具体的な感情と、もやもやのような曖昧な気分は、別物なのかな? 哲学なんかでは、具体的な対象のある「感情」と対象の無い曖昧な「気分」(不安や疲労など)が区別されたりしますけど。もやもやした気分は、感情じゃないから、放置して燃え尽きることがないのかしら。もやもやには「感情は考えずに感じきる」とは別の対処法が必要とか? まく なるほど。僕にとっては、怒りや悲しみのような具体的な「感情」と、もやもやのような曖昧な「気分」は、別な感じがします。僕の場合は、端的に「自分の感情がわからない」、そして、「自分の感情を感じきることが怖い」という感情(気分?)があるのかもなあ。いずれにせよ、「感情」と「気分」という区別を考えることは、僕にとって大切な気がする。 杉田 そろそろ時間ですね。……今回はなんだかとくに中途半端なまま、僕らの対話も終ってしまいましたが、引き続き、次回以降ももやもやした気持ちを抱えたまま考え続けていくことになりそうですね。 まく そうですねえ。

日本のテレビと決別した窪塚洋介がハリウッド映画界で引っ張りだこになっている

 1月17日に映画『沈黙-サイレンス-』のジャパンプレミアが都内で行われ、監督のマーティン・スコセッシや共演者と共に登壇した俳優の窪塚洋介が、圧巻のスピーチを披露した。  窪塚は念願だったスコセッシ作品に出演できた感激を表し、ジャパンプレミア当日を「役者人生の最良の日」と表現。さらに周囲に向けて、スコセッシが同作の制作のために長年にわたり何度も日本に足を運んだことや、原作者の遠藤周作を含め多くの日本人に敬意を払っていることを熱弁。さらに窪塚に対するスコセッシの態度についても「どこの馬の骨とも知れない俺に、毎日どれほど敬意を払ってくれたか」と力強く感謝を述べた。撮影中は厳しい環境で演技をしなければならないことも多かったようだが、それを窪塚は「幸せな時間だった」と語っている。  この窪塚のスピーチにはスコセッシも感謝の言葉を述べたそうで、ネット上でも「やっぱり窪塚兄さん熱い男だわ」「どこまでカッコいいんだよこの人は!」「窪塚のスピーチに映画見る前から感動」「一言一言が胸に響く! すげぇわこの人」と絶賛の声が続出している。中には「テレビに出ないのがもったいない」とい残念がる声もあるが、窪塚は確かにテレビ出演をしないと明言している。  テレビドラマは2003年放送の『池袋ウエストゲートパーク スペシャル話「スープ」』(TBS系)を最後に出演しておらず、テレビ自体2004年の『告白、窪塚洋介〜そして旅は続く〜』(同)以降、一切登場しない。そのことについて、映画『沈黙-サイレンス-』公開に先駆けたシネマトゥデイのインタビューで窪塚はテレビ自体への不信感を募らせた時期に「ある現場でよりその不信感が強くなる出来事があって、俺の居場所はここじゃないなって思ったんです」「20代前半のどこかのタイミングで、もういいかなって思ったんです。今後もやるつもりはないですね」と明かしている。また、プロインタビュアーの吉田豪が1月5日放送のラジオ番組『たまむすび』(TBSラジオ)に出演し、窪塚洋介にインタビューした際の裏話を語ったのだが、それはより具体的だった。  いわく、あるドラマの有名ディレクターが撮影中にモニターをろくに見ず、競馬新聞を読んでいた現場を見ていたのがきっかけだという。助監督に「OKですか?」と聞かれ、ろくに把握していないものにOKを出すという姿にショックを受け、そこにいたらダメになると感じてテレビから遠ざかったようだ。窪塚の演技力はテレビドラマの世界でも評価が高くファンは多かったが、ずるずる栄光にしがみつかず、キッパリと決別。もちろん2004年といえば、自宅マンションの9階から飛び降りるという大事件の年でもあった。これによりテレビ側も彼と距離を置いた、という側面はあっただろう。奇跡的な回復を遂げた後、環境イベント「アースデイ東京」で大麻は有益だと訴え、ワイドショーで取り上げられたことも、問題視された。  そんなタブーとも思える話題について、窪塚は自らジョークにしていたと吉田は語っている。例えば、ハリウッドに進出してもニューヨークに移住などをしない窪塚に「浮かれないタイプ」かと吉田が質問した際には、窪塚が「以前浮かれてて高いところから落っこちたから」と鋭い落下ギャグを披露したとか。  さらに窪塚は自身が忘れっぽいことを語ったのちに、「べつにクスリをやってるとかじゃないです」とドラッグジョークを飛ばしたという。こういったギャグを自分から入れてくるおおらかさを吉田は「シャレっ気が凄い」「とにかく超カッコいい」「(インタビューが)終わった後に『かっけー!』って言いたくなる」と褒めた。大勢の芸能人、そして奇人変人をインタビューしてきた吉田豪にここまで感激させるのは、やはり窪塚の魅力がなせるわざだろう。  テレビから離れレゲエ歌手卍-LINEとしてのライブ活動を中心に据えている窪塚だが、『沈黙-サイレンス-』での好演が主要スタッフたちから認められ、すでにハリウッド作品第二弾スローン・ウーレン監督『Rita Hayworth with a Hand Grenade(仮訳邦題:リタ・ヘイワースと手榴弾)』の出演も決定。さらに第三弾としてハリウッド作品での主演も決定しているという。本格的に海外での役者人生がリスタートしそうだ。 (ボンゾ)

袴田吉彦のアパ不倫と塩谷瞬の鬼畜セックスを暴露したグラドル、セミヌード披露で売り出し加速

 先日、俳優の袴田吉彦とかつて不倫関係にあったことを「週刊新潮」(新潮社)に暴露した30歳のグラビアアイドルが、翌週の同誌では塩谷瞬とも性的関係を持っていたと告白した。いわく、「彼には噛み癖があって、腕やふくらはぎに歯型が残ったことも」「でも私は瞬と恋愛しているつもり」だったが、結局「私の誕生日は聞くことさえしなかった」「いつも家に呼ぶだけで」都合の良い女扱いされていたことに不満を持ち関係を断ったという。  袴田と彼女が関係を持ったのは2015年のことだが、塩谷といたしたのはもっと以前、2010年のことだという。塩谷が富永愛・園山真希絵との“二股交際”で糾弾されるよりも前の話である。そんな昔のことを今さら……何のために? それは、彼女自身の売名のためだった。  20日発売の「フライデー」(講談社)に、<袴田吉彦の「アパ不倫」美女がセミヌードに挑戦>なる3ページのグラビアが載っている。「新潮」では伏せられていたこのグラドルの名前は青山真麻。聞いたことのない名だが、主に“撮影会”などの仕事を多くやっているようである。乳首の透けて見えるキャミソールをまとい、何もつけていない下半身(毛もない)をさらす彼女。インタビューでは「都内の会社で事務員をしているOLの青山真麻さん(31)」「(グラドルとしての)活動はこれから」と書かれているが、彼女のTwitterアカウントでははっきり芸能事務所所属のアイドルであると明示しているのになぜ……? 「フライデー」読者はTwitterを使わないだろう、という判断なのだろうか。  おそらく何年も前から計算してハニートラップを仕掛けたわけではないだろうが、たまたま有名人と性的関係を持ったことがあるため、それを生かして売り出そうという計画だろう。これで彼女はいわゆる加藤紗里コースに乗れるのだろうか。だが、すでに視聴者どころか制作側さえ食傷気味の枠であり、仮にコースに乗れたとして未来は明るくないように思える。どちらかといえば、AVデビューのための伏線を張っていると見るほうが自然であるが、その世界も見目麗しい人気者がひしめいており甘くはない。袴田吉彦と塩谷瞬のネームバリューだけで何カ月食いつなげるだろうか。