LGBT差別記事1本につき648円。「みんなの意見」の形成を狙ったクラウドソーシングでの執筆求人

「『LGBTが嫌い』『LGBT擁護が苦手』な人向けの共感してもらえる記事の執筆依頼」  これはクラウドソーシングのプラットフォーム「ランサーズ」で募集されていたライティング仕事のタイトルだ。  現在は削除済みのこのライティング仕事には、1本648円で、下記のような依頼概要が記されていた。 * * * 「いま流行りのLGBTが苦手」 「彼ら・彼女らの人権はもちろん尊重されるべきだが、LGBTが嫌いなひとの意見も同等に尊重されるべき」 「LGBTぜんたいが嫌いとは思わないが、一部の主張が強いひとがきらい」 このような悩みを持たれている方が世の中にはたくさんいます。この悩みに寄り添い同じ悩みを持った人はたくさんいることを知ってもらい安心してもらう。そのための記事の執筆作業です。 ■対象の方 ・執筆記事の当事者の方 ・当事者ではないけれども周りに当事者の方がいて共感できる方 ・当事者ではないけれども、当事者に最大限寄り添った記事を書きたいと考えられている方 そのような方に記事を書いていただきたいと考えています。 ■必須で書いてもらいたい内容 ・人物像(年代、性別、所在地) ※人物像を記載いただくことにより、より読者の方に共感いただけるようになります。 ※もちろん、個人を特定できない範囲で問題ございません。 率直にいうと、決してほかの依頼と比較して報酬が高い業務とは言えないと思います。しかし、いま既にLGBTの方が嫌いでしかし主張できず、また、それらを周りの友人などに相談できず苦しんでおり、記事があることが救われる方達がたくさんいます。 そのような方を助けるためにも、力を貸してください。 ■注意点 当該記事は、LGBTをむやみに批判する記事を募集する記事ではありません。 * * *  クラウドソーシングといえば、今年9月に「クラウドワークス」で、政治系、特に保守色の強い記事の作成を募集する依頼が出ていたことが話題になっていた。  「共産党の議員に票を入れる人は反日」「日本にリベラルは存在しない。いるのは反日だけ」などの見出しが使われていた政治系ライティングの依頼は、利用規約および仕事依頼ガイドラインに反しているとして、クラウドワークスによって掲載を中断されている。詳細については、Buzz Feed Japanの記事を参照して欲しい(「嫌韓」「反日」の記事を書けば800円。政治系ブログ作成の求人が掲載中止に)。  なお「クラウドワークス」には過去に、「女尊男卑の風潮に独自の意見で論理的にモノ申してください」という題で、「女尊男卑の風潮(つまり、女性が優遇されてワガママばかり言って、男性が不利になっていく流れ)に対して、独自の意見を論理的に言語化する。フェミニズムに対するアンチの主張を行う」ことを目的としたライティング仕事も募集されていたが、「ランサーズ」で冒頭の仕事を募集していた依頼主も「『フェミニストが嫌い』『男女平等の主張が苦手』な人向けの共感してもらえる記事の執筆依頼」を出していた。やはり保守色の強い人びとは、フェミニズムや性的マイノリティに対するバッシングを行っているようだ。  こうした依頼で書かれた原稿はおそらく、キュレーションメディアや2chまとめサイト、ツイッターなどに放流され、「大きな流れ」として認知されるようになるのだろう。「これが、みんなが思っていることなんだ」「LGBTのことを取りあげるメディアはなんかおかしい」「世の中は女尊男卑になっていて、フェミニズムなんて間違っている」などとして。  クラウドワークスに掲載されていた募集記事は、その意図が明らかであり、依頼主の政治的主張も明示されていた。ある種の潔さがある。一方、冒頭で紹介したランサーズの「LGBTが嫌いな人への共感を寄せる記事」の執筆依頼は、クラウドワークスでのボシュ記事に比べると手口が巧妙だ。  依頼概要にある以下の一文。これは、読者にとってはお馴染みの話法かもしれない。 「彼ら・彼女らの人権はもちろん尊重されるべきだが、LGBTが嫌いなひとの意見も同等に尊重されるべき」  「人権は尊重されるべきだが」という一言を免罪符として使った後に、差別的な発言が展開される。この話法はインターネット上だけでなく、様々な場面でみられる話法だ。「~だが」に続く言葉が、その人の中心的な主張であり、たいていそこで「人権は尊重されるべき」と矛盾する、差別的な発言が行われる。おそらくその「人権」に、話題になっているマイノリティは含まれていないのだろう。  このランサーズでの依頼では、「~だが」のあとに、「LGBTが嫌いなひとの意見も同等に尊重されるべき」と続けられている。  「好き嫌い」は非常に厄介だ。ときに「確かに、誰かを嫌うのはその人の自由だし、それを表明できないのは表現の自由を侵害してる。だから、LGBTを嫌いと言ってもいい」と受け取られかねないからだ。  だが「差別」の問題を「好き嫌い」の問題にすり替えてはいけない。この依頼は、「好き/嫌い」という言葉を使用することによって、「あくまで個人の好き嫌いの問題であって、差別の意図はないのだ」と主張する体をなしているだけで(ご丁寧に、注意点として「当該記事は、LGBTをむやみに批判する記事を募集する記事ではありません」ともある)、実際には、偏見と差別の助長を促している。  繰り返すが、これは人権の問題であって、「好き嫌い」で済ませていいものではない。  性的マイノリティへの偏見や差別の問題はここ数年で社会にも徐々に共有されつつある。しかし、「LGBT」という語は広まっても、どこまで本気で受け止められているかは怪しいところだし、問題がすべて解決したとは到底言えないのが現状だ。現に、性的マイノリティであることを理由に、様々な権利が制限されているのが日本社会である。  こうした中で、「LGBTが嫌い」という共感を促すことを意図した記事が放流されるとどうなるだろう。この記事に共感した人びとが合流すれば、流れはどんどん大きくなる。そうした人たちはきっと、「人権は尊重されるべきだよね」と断りながら、LGBTを嫌うことを堂々と表明するようになり、偏見を助長させていく。強化された偏見は、より差別を深刻化させ、現時点でも制限されている様々な権利がいっそう失われていくことにもなりかねない。  権利が踏みにじられている人びとの状況を放置してまで、「嫌い」であることを表明して共感を促し、「みんなこう思ってる」として、偏見と差別を強化することは望ましいことではない。結局、差別は解消されないし、彼らは「人権」とは何なのかすらも考えない。そして「人権」のことを考えずにすむ人たちは、そうした声に埋もれた、マイノリティの声に耳を傾けることなく、いずれその声に気付くことすらなくなってしまう。  依頼主は概要の中にこんな一言を書いていた。 「周りの友人などに相談できず苦しんでおり、記事があることが救われる方達がたくさんいます」(原文ママ)  媒体の種類を問わず、メディアにはLGBTへの偏見や差別を垂れ流す記事や番組が多数制作されている。周りの友人などに相談できず、本当に苦しんでいるのは誰だろう。 (wezzy編集部)

水原希子のインスタ投稿写真に「下品」「汚い」…ほかのグラドルたちのセクシーグラビア写真と決定的な違い

 水原希子(26)がInstagramにUPした複数の写真がまた物議を醸している。ラインナップは極小面積のショーツで局部だけを覆っていることはわかるがお尻が丸見えのカットや、ノーブラショットも多くTシャツから胸の突起がわかるもの、ツンとした乳首が見える影の写真などなどだ。彼女のファンはセクシーだと賞賛を寄せるが、他方、アンチ水原希子勢は相変わらず「下品」「汚い」「臭そう」の罵詈雑言をネットに書き込んでいる。  そもそもこれら一連の写真は、「週刊プレイボーイ」(集英社)42号に掲載されたものの一部。同号は水原希子を表紙に起用し、41ページもの撮りおろしカラーグラビアを掲載、両A面の特大ポスターを付録につけている。すべてロサンゼルスで撮影した作品で、前半はビルの屋上でドレッシーなメイクを施した水原が、お尻の見える超ミニスカートやワンピース型水着にブーツを合わせたファッションで様々なポーズをとっている。後半はノーメイクに近い状態での室内でのベッドシーンや手ブラ、屋外や車内での水着姿などで構成されている。  いずれもプロのスタッフによって制作されたものであるはずだが、「下品」で「汚い」のだろうか? また、こうした作品をモデルが個人のインスタにUPすることが「下品」なのだろうか?  同じような“炎上”――つまり下品だ何だとネット上(おもに2ちゃんねるの一部スレッド、そしてそれらを恣意的にまとめたたくさんの同じ内容のwebサイト)に批判意見が表示される状態をさす――案件は、以前からよくあった。  たとえば今年8月に、トイレの便器に座っている写真をインスタにUPした際も、まったく同じように「下品」「汚い」の“炎上”状態になった。しかしそのトイレでの写真も、水原希子が出演する映画『奥田民生になりたいボーイ、出会う男すべて狂わせるガール』の企画でリリースされた『Sweet特別編集 天海あかりstyle book』(宝島社)内に収録されている一枚である。  確かに乳首が浮き出ていたり、お尻がだいぶ見えていたり、排泄をイメージさせたり、という写真は過激なのかもしれない。けれど多くのグラビアアイドルが撮影してきた内容と大差ない。Tバックなりマイクロビキニなり、極小水着でお尻が丸見えになっているカットは、ファンサービスとして提供されるし、本来ならばそうした撮影現場でニップレスをつけていることが普通にもかかわらず乳首がハミ出ている(ように見える)一枚を見つければそれを消費する側は大喜びしてきた。  ちなみに女優の吉岡里帆(24)が明かしたところによると、「グラビア撮影用の水着って、本当に冗談じゃないくらい痛い」そうである(「She is」対談より)。  なぜ痛いのかというと、「スタイリストさんが素敵だって思った布でつくっていて、ゴムとかが入っていない」からで、吉岡は「市販の水着はちゃんと伸びるし守ってくれるけど、私が着ていたグラビア用の水着は、人に見てもらうための水着だったから、ゴムが入っていないどころか、革紐や伸びない布でできることもあって。皮膚に食い込むくらいぐっと縛るから、次の日も跡が残っているんですよ。食い込ませることでお肉がちょっと盛り上がって、それが色気になるという」と現場事情を明かしている。市販の水着を着用してのグラビア撮影もあるにはあるだろうが、<撮影用の水着>と<人前で泳いでも大丈夫な普通の水着>は別モノだということだ。  話を水原に戻すと、なぜ水原希子に限って、露出度の高いグラビア写真にこうも嫌悪の声が向けられるのかという疑問が浮上する。そこに「嫌韓」要素も含まれることは間違いないが、のみならず、彼女が「男が見たい女の子」に徹しないから、というのも大きな要因ではないだろうか。  水原の場合、グラビアで「不特定多数の男子のための女の子」を演じていないし、「誰でも受け入れてくれそうな感じ」はまったくない。彼女の意思がそこに映っている。すなわち、「私が選ぶ」ということが。恥ずかしそうに目を伏せるような表情や仕草もなく、トークバラエティ番組では「(乳首が)トゥンッてしてても全然平気」と笑う。これは、水着グラビアの読者層、グラビアアイドルを求める層にとっては、欲しいイメージではないのだ。  だからこそ水原希子に勇気付けられ、奮い立つ女子は少なくない。とはいえ女だって色々いるわけで決して一枚岩ではないのだから(当たり前すぎる)、女性向けネット掲示板ガールズちゃんねるには同じように「汚い」「見せるな」「変な女」といった調子の罵詈雑言が大量に書き込まれている。また、水原のこうした態度を受容せず、「色気ない」「こんな写真を投稿するなんて下品極まりない」「きこちゃん、最近体売ってるように感じるよー」と批判的なコメントを寄せる女性ファンもいる。水原希子の肉体は彼女のものでしかないのだから、たとえ彼女がヘアヌード作品を売ったとしても「体を売った」こととはイコールにならないと思うのだが、その捉え方は様々だということだ。  いずれにしろ、良くも悪くも水原希子の注目度がいっそう高まっていることは間違いない。彼女にはインフルエンサーとしてこれからも臆することなく保守的な日本の女性観に一石を投じてほしいと思う。 (犬咲マコト)

上白石萌音&萌歌、石田ゆり子&ひかり、有村架純&藍里……芸能人姉妹のシビアな“格差問題”

 嵐・松本潤主演の映画『ナラタージュ』で、RADWIMPS・野田洋次郎作詞曲の主題歌を担当している謎のシンガー・adieu。「17歳の現役女子高生」などと情報が小出しにされているが、間もなくその正体が発表されるという。 「歌唱を担当しているのは、女優・上白石萌音の妹で、女優の上白石萌歌です。姉の萌音は劇場アニメ『君の名は。』のヒロイン役で知名度を上げ、舞台挨拶では野田との即興演奏を披露したことがニュースになったものの、現在、芸能活動は伸び悩みを見せている。そこで萌歌の歌手活動を本格化させようとしたところ、トントン拍子で『ナラタージュ』主題歌が決定し、野田も姉以上に妹を気に入ってしまったそうです」(レコード会社関係者)  萌音と萌歌は同じ東宝芸能の所属だが、今後は姉妹の“格差”が懸念されているようだ。 「もともと萌音には、同事務所の長澤まさみも担当するベテランマネジャーがついていましたが、今後を見据えて、萌歌も担当することになるそうです。今後、格差が露骨に出てしまうシーンも多々あると予想されますが、姉妹仲はいいだけに、萌音がそれを乗り越えられるかどうか」(同)  上白石姉妹以外にも、芸能界で活躍する姉妹は少なくない。女優・石田ゆり子とひかり姉妹は、姉・ゆり子が設立した個人事務所に揃って所属する変わり種だという。 「長年所属した事務所から揃って独立した際には、将来を不安視されていたものですが、ゆり子は『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)に出演したことで再ブレーク。今クールの『民衆の敵~世の中、おかしくないですか!?~』(フジテレビ系)出演が決定しており、新たなファンをつかんでいます。そんなゆり子と比べると、ひかりはいまひとつパッとしないように見えますが、今年は深夜ドラマ『屋根裏の恋人』(フジテレビ系)で14年ぶりにした連続ドラマ主演を果たしました。それも、ゆり子人気に便乗したキャスティングかもしれないと予想できますが、姉妹揃っての再ブレークに期待したいところです」(芸能プロ関係者)  数いる芸能人姉妹でも、圧倒的な格差を指摘されているのが、有村架純と藍里姉妹だ。 「姉の藍里は、名前や身分を隠して活動していたものの、一部出版社の入れ知恵から、突然『有村架純の姉』という看板を大々的に使うように。その後、大手プロに移籍すべく水面下で動きを見せていたものの、架純の所属事務所が藍里をよく思っていないことから、ほかの芸能プロが尻込みし、結局ずっと出版社が面倒を見ていますよ。確かに姉妹の仲はとてもいいそうですが、それを売りにすることもできず、藍里にとっては厳しい状況が続きそうです」(出版関係者)  姉妹揃って芸能界で成功することは、単純にブレークするよりも遥かに困難な道と言えそうだ。

世紀末の悪女? 自己実現のため戦うヒロイン? ゲイのアイコン?~オスカー・ワイルドの『サロメ』

他の男はみんないやらしい。でもあなたは美しかった!(オスカー・ワイルド『サロメ』1028–1029行)  上の引用はオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』のヒロインの台詞です。聖書を元にしたこの作品は、若きユダヤの王女サロメの激しくも残酷な恋を描くものです。サロメがヴェールを脱いで裸になる「7つのヴェールの踊り」があまりにも有名ですが、実はこのお芝居は人によってほとんど解釈が正反対になり、フェミニスト的なのか性差別的なのかについてずいぶん議論が行われている、なかなか難しい作品です。今回の連載ではこの『サロメ』について書きたいと思います。 ※この記事の『サロメ』からの引用は全てOscar Wilde, The Importance of Being Earnest and Other Plays, ed. by Peter Raby (Oxford University Press, 1998)に収録されているSalomeの拙訳です。 全裸目当てで見ると悩んでしまう、難しい芝居  『サロメ』は1891年にまずフランス語で書かれ、1894年に英語で出版されました。  舞台はユダヤの太守ヘロデの宮廷で行われる宴の一夜です。サロメはもともとヘロデのきょうだいとその妻ヘロディアスの娘ですが、ヘロデがヘロディアスと略奪婚したため、今ではヘロデの義理の娘になっています。  若く美しいサロメは宮廷にとらわれている預言者ヨカナーンに一目惚れしますが、ヨカナーンは神の言葉に夢中でサロメのことなんか鼻も引っかけません。ふられたサロメは、絶対にヨカナーンの唇にキスすると誓います。そんなサロメのところに、ヘロデから宴席で踊ればなんでも望みのものをとらせるという申し出があります。サロメはダンスと引き換えにヨカナーンの首を要求し、運ばれてきた生首にキスして誓いを果たします。それを見たヘロデはサロメを殺させます。  『サロメ』というと7つのヴェールの踊り……ということで、1枚ずつヴェールを脱いで全裸になる場面ばかりが注目されるのですが、実は肝心のダンスについてのト書きは「サロメが7つのヴェールの踊りを踊る」(831行)という単純なもので、別に服を脱げとか全裸になれという指定はありません。アクロバットとかベリーダンスが想定されていたのではないかなどとも言われていますが、はっきりしたことはわかりません(Bentley, p. 31)。言ってみれば演出家や振付家に任されているわけで、自由度が高いとも言えます。 改ページ 見る人の数だけあるサロメ像  しかしながらこのお芝居は短いわりには複雑で、全裸目当てで見ると悩んでしまうようなところがあります。以前この連載でとりあげたクレオパトラも観客によって見方が変わる女性像でしたが、サロメもイギリス・アイルランド演劇史上もっとも多様な解釈が可能なヒロインのひとりです。世紀末の女性嫌悪的ファンタジーに満ちた悪女と考える分析もあれば、家父長制に対して反逆する「新しい女」と見なす批評家もおり、さらにこの作品は同性愛に関する戯曲だと考える人もいます。おそらくどの解釈で上演するのも可能です。  19世紀末の芸術では、男を破滅させる魅力的なファム・ファタルが大流行していました。ファム・ファタルはマゾヒスティックな性的ファンタジーを満足させるキャラクターですが、一方で男性の女性に対する恐怖と嫌悪を体現する女性像でもあります。『倒錯の偶像』で世紀末のミソジニーを舌鋒鋭く批判したブラム・ダイクストラは、ワイルドのサロメは「愚かな背信と飽くことのない肉体的欲求」(p. 610)に突き動かされた「激しくあくどい反女性的象徴主義」(p. 614)の結晶であり、世紀転換期の凶悪な女性嫌悪の最たる例だと論じています。このような読みに従う場合、『サロメ』はヒロインが偉大な預言者を破滅させた後、ヘロデに殺されることで家父長制的な秩序が回復される非常に性差別的な芝居ということになります。  一方、サロメをフェミニスト的なヒロインととらえる見方は、この正反対といってもいいものです。たとえばジェーン・マーカスは、サロメを世紀末に社会の決まりに反逆したいわゆる「新しい女」(ニュー・ウーマン)だと考えました。つまり、サロメは主体的な性的欲望をもって家父長制に刃向かい、ダンスという男性に強いられた見世物を精一杯自己表現に変えようとするフェミニスト的なヒロインだということです。  また同性愛者として弾圧を受けることになったオスカー・ワイルドの一種の分身だという解釈も根強く存在します。私はあまりにも著者の個人的な背景に作品を引きつける批評は良くないと思っているのですが、『サロメ』についてはどうしてもワイルド自身の人生や美学を考えざるを得ないところがあります。ワイルドはのちに『獄中記』で、自分は「芸術において最も客観的な形式として知られている演劇を個人的な表現の方法にした」(p. 95)と述べていますが、『サロメ』はワイルドの最も個人的な戯曲で、ヒロインには著者本人のセクシュアリティが投影されていると考えられています(ショーウォーター、p. 270; ミレット, p. 278)。  今年の夏にロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが上演した『サロメ』は、まさにこうしたワイルドのセクシュアリティと作品を結びつけるもので、イギリスで男性同性愛が合法化された50周年記念の演目として作られ、サロメはある種のゲイ・アイコンになりました。ヒロインを演じるのは若い男優マシュー・テニスンで、台詞回しや身のこなしは男の子か女の子かわからないような曖昧さをこめたものになっています。サロメはセクシーな悪女ではなく、純粋で傷つきやすく、セクシュアリティに関する悩みを抱えた子どもで、大人たちがはやしたてる中で男性器を露わにして踊る場面は痛々しいものです。演出家のオーウェン・ホースリーはプログラムのインタビューで、この芝居が「とても直接的に十代の観客に語りかける」ものだと述べており、『サロメ』は大人向けの残虐でセクシーな戯曲だという固定観念に挑戦しています。 サロメは美の求道者?  こうした説の中で、上演台本として考えた時、私が一番魅力的で説得力があると考えるのは、最後にあげたサロメをワイルドのある種の分身と見なす解釈です。『サロメ』は芸術に関する芝居であり、ヒロインは絶対に手に入らない男性の愛を求めている美の求道者なのではないでしょうか。  この作品に登場する預言者ヨカナーンは美しく、サロメはその音楽のような声、白い肌、黒い髪、赤い唇などを口をきわめて褒めちぎります(287 – 352行)。しかしながらヨカナーンは自身の美しさに全く気付いていませんし、サロメのことを見もしません。サロメは「私のことを見てくれたら、私を愛してくれただろうに」(1049–1050行)と言っていますが、ヨカナーンは神の声は聞くことができても、現世の美しさを感じることについてはからきしダメです。また、どうやら人を見る目はあまりないようで、ヘロディアスの娘だというだけの理由で、処女で男を嫌っているサロメを堕落した女呼ばわりします(291行)。ヨカナーンは自分が持つ美を無駄遣いし、人の美を認識することもできません。一方でサロメはヨカナーンの美を認識するばかりでなく、ダンスで自分自身美を創造します。サロメは徹底して美を追い求めているのです。  しかしながら、サロメがヨカナーンに恋するのは、ヨカナーンが圧倒的な美を持つ一方で、サロメの美にたやすく心を動かされない人物だからでもあります。  記事冒頭の引用で述べたように、サロメは男が嫌いです。この背景には、サロメが継父ヘロデから性的虐待を受けているということがあります。サロメの最初の台詞はヘロデからの性的嫌がらせを告発するもので、「お母さんの夫があんな目で私を見るなんておかしい。もう意味わかんない。ううん、本当はよーくわかってるんだけど」(125–127行)というものです。この「意味わかんない」という発言は、ヘロデの視線の意図が読めないという意味ではなく、わかりすぎるほどわかっているが、あまりにもおぞましいので認めたくないという心境を示すものです。  若いシリア人ナラボスもサロメに恋しており、まだ幼いサロメは宮廷のさまざまな男たちから性的な目で見られているようです。そんな中で見つけたヨカナーンは「月のように貞淑」(266行目)で、おそらくサロメが今まで出会った中でも数少ない、自分を嫌らしい目で見ない男です。ヨカナーンはつらい家庭環境に耐えている十代の子どもが憧れるにはうってつけの、新鮮で孤高の雰囲気をたたえた高嶺の花のような人物です。絶対に手に入りそうもない近づきがたさが余計、恋心を燃え上がらせます。 改ページ 作者の分身としてのサロメ  周りの環境によって性的主体性を奪われ、美しいが自分の手には決して入らない男性を渇望しているというサロメの境遇は、美に最高の価値を置く唯美主義者であり、男性と恋愛関係にあったワイルドの境遇に直接重ねられるものです。  ワイルドは唯美主義の旗手として、道徳や社会規範よりも美を重視する芸術的な信念を持っていました。一方、ワイルドが生きていた19世紀末のイギリスでは男性同性愛は犯罪で、表沙汰になれば社会的に抹殺される可能性もありました。実際、ワイルドは『サロメ』を書いた数年後に同性愛の罪で投獄されることになります。以前の連載で少し触れたように、ワイルドにとって男性の美しさは芸術的にも、人生においてもきわめて重要なテーマだったと考えられ、セクシュアリティと芸術家としての美学が強く結びついています。しかしながら、ヴィクトリア朝末期に男性美の追究を実践することは、危険な行為でもあったのです。  サロメはこうしたワイルドの不安と強い美学的信念がいりまじったヒロインと言えると思います。道徳も規範も捨てて美を追い求め、自ら美を創り出すこともするサロメは唯美主義の芸術家です。一方でサロメがヘロデに殺される結末からは、美を求める者を社会が認めず、冷たい仕打ちをすることが示されています。このような美を求めてやまないが報われない芸術家というモチーフは短編「ナイチンゲールと薔薇」など、ワイルドの他の作品にも見られるものです。そしてワイルドは結局、サロメやナイチンゲールのように、美を求めた末、投獄され亡くなるという結末を迎えました。  いささかロマンティックにすぎる解釈だとは思いますが、『サロメ』はワイルドの芸術家としての自覚についての物語だと思います。美と社会の関係を描いた政治的な作品である一方、個人的な不安と信念の披瀝でもあります。そして、おそらく美を求める者は、たとえ社会から冷たくされるとわかっていても、美を求めずにはいられないものなのです。 参考文献 エレイン・ショーウォーター『性のアナーキー――世紀末のジェンダーと文化』富山太佳夫他訳(みすず書房、2000)。 ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像――世紀末幻想としての女性悪』富士川義之他訳(パピルス、1994)。 ケイト・ミレット『性の政治学』藤枝澪子他訳(ドメス出版、1985)。 Toni Bentley, Sisters of Salome (University of Nebraska Press, 2005). Jane Marcus, “Salome: The Jewish Princess Was a New Woman”, Bulletin of the New York Public Library, 78 (1974): 95 – 113. Royal Shakespeare Company, Oscar Wilde: Salomé (2017). Oscar Wilde, The Importance of Being Earnest and Other Plays, ed. by Peter Raby (Oxford University Press, 1998). Oscar Wilde, De Profundis, in The Soul of Man, and Prison Writings, ed. by Isobel Murray (Oxford University Press, 1999), 38 – 158.

世紀末の悪女? 自己実現のため戦うヒロイン? ゲイのアイコン?~オスカー・ワイルドの『サロメ』

他の男はみんないやらしい。でもあなたは美しかった!(オスカー・ワイルド『サロメ』1028–1029行)  上の引用はオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』のヒロインの台詞です。聖書を元にしたこの作品は、若きユダヤの王女サロメの激しくも残酷な恋を描くものです。サロメがヴェールを脱いで裸になる「7つのヴェールの踊り」があまりにも有名ですが、実はこのお芝居は人によってほとんど解釈が正反対になり、フェミニスト的なのか性差別的なのかについてずいぶん議論が行われている、なかなか難しい作品です。今回の連載ではこの『サロメ』について書きたいと思います。 ※この記事の『サロメ』からの引用は全てOscar Wilde, The Importance of Being Earnest and Other Plays, ed. by Peter Raby (Oxford University Press, 1998)に収録されているSalomeの拙訳です。 全裸目当てで見ると悩んでしまう、難しい芝居  『サロメ』は1891年にまずフランス語で書かれ、1894年に英語で出版されました。  舞台はユダヤの太守ヘロデの宮廷で行われる宴の一夜です。サロメはもともとヘロデのきょうだいとその妻ヘロディアスの娘ですが、ヘロデがヘロディアスと略奪婚したため、今ではヘロデの義理の娘になっています。  若く美しいサロメは宮廷にとらわれている預言者ヨカナーンに一目惚れしますが、ヨカナーンは神の言葉に夢中でサロメのことなんか鼻も引っかけません。ふられたサロメは、絶対にヨカナーンの唇にキスすると誓います。そんなサロメのところに、ヘロデから宴席で踊ればなんでも望みのものをとらせるという申し出があります。サロメはダンスと引き換えにヨカナーンの首を要求し、運ばれてきた生首にキスして誓いを果たします。それを見たヘロデはサロメを殺させます。  『サロメ』というと7つのヴェールの踊り……ということで、1枚ずつヴェールを脱いで全裸になる場面ばかりが注目されるのですが、実は肝心のダンスについてのト書きは「サロメが7つのヴェールの踊りを踊る」(831行)という単純なもので、別に服を脱げとか全裸になれという指定はありません。アクロバットとかベリーダンスが想定されていたのではないかなどとも言われていますが、はっきりしたことはわかりません(Bentley, p. 31)。言ってみれば演出家や振付家に任されているわけで、自由度が高いとも言えます。 改ページ 見る人の数だけあるサロメ像  しかしながらこのお芝居は短いわりには複雑で、全裸目当てで見ると悩んでしまうようなところがあります。以前この連載でとりあげたクレオパトラも観客によって見方が変わる女性像でしたが、サロメもイギリス・アイルランド演劇史上もっとも多様な解釈が可能なヒロインのひとりです。世紀末の女性嫌悪的ファンタジーに満ちた悪女と考える分析もあれば、家父長制に対して反逆する「新しい女」と見なす批評家もおり、さらにこの作品は同性愛に関する戯曲だと考える人もいます。おそらくどの解釈で上演するのも可能です。  19世紀末の芸術では、男を破滅させる魅力的なファム・ファタルが大流行していました。ファム・ファタルはマゾヒスティックな性的ファンタジーを満足させるキャラクターですが、一方で男性の女性に対する恐怖と嫌悪を体現する女性像でもあります。『倒錯の偶像』で世紀末のミソジニーを舌鋒鋭く批判したブラム・ダイクストラは、ワイルドのサロメは「愚かな背信と飽くことのない肉体的欲求」(p. 610)に突き動かされた「激しくあくどい反女性的象徴主義」(p. 614)の結晶であり、世紀転換期の凶悪な女性嫌悪の最たる例だと論じています。このような読みに従う場合、『サロメ』はヒロインが偉大な預言者を破滅させた後、ヘロデに殺されることで家父長制的な秩序が回復される非常に性差別的な芝居ということになります。  一方、サロメをフェミニスト的なヒロインととらえる見方は、この正反対といってもいいものです。たとえばジェーン・マーカスは、サロメを世紀末に社会の決まりに反逆したいわゆる「新しい女」(ニュー・ウーマン)だと考えました。つまり、サロメは主体的な性的欲望をもって家父長制に刃向かい、ダンスという男性に強いられた見世物を精一杯自己表現に変えようとするフェミニスト的なヒロインだということです。  また同性愛者として弾圧を受けることになったオスカー・ワイルドの一種の分身だという解釈も根強く存在します。私はあまりにも著者の個人的な背景に作品を引きつける批評は良くないと思っているのですが、『サロメ』についてはどうしてもワイルド自身の人生や美学を考えざるを得ないところがあります。ワイルドはのちに『獄中記』で、自分は「芸術において最も客観的な形式として知られている演劇を個人的な表現の方法にした」(p. 95)と述べていますが、『サロメ』はワイルドの最も個人的な戯曲で、ヒロインには著者本人のセクシュアリティが投影されていると考えられています(ショーウォーター、p. 270; ミレット, p. 278)。  今年の夏にロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが上演した『サロメ』は、まさにこうしたワイルドのセクシュアリティと作品を結びつけるもので、イギリスで男性同性愛が合法化された50周年記念の演目として作られ、サロメはある種のゲイ・アイコンになりました。ヒロインを演じるのは若い男優マシュー・テニスンで、台詞回しや身のこなしは男の子か女の子かわからないような曖昧さをこめたものになっています。サロメはセクシーな悪女ではなく、純粋で傷つきやすく、セクシュアリティに関する悩みを抱えた子どもで、大人たちがはやしたてる中で男性器を露わにして踊る場面は痛々しいものです。演出家のオーウェン・ホースリーはプログラムのインタビューで、この芝居が「とても直接的に十代の観客に語りかける」ものだと述べており、『サロメ』は大人向けの残虐でセクシーな戯曲だという固定観念に挑戦しています。 サロメは美の求道者?  こうした説の中で、上演台本として考えた時、私が一番魅力的で説得力があると考えるのは、最後にあげたサロメをワイルドのある種の分身と見なす解釈です。『サロメ』は芸術に関する芝居であり、ヒロインは絶対に手に入らない男性の愛を求めている美の求道者なのではないでしょうか。  この作品に登場する預言者ヨカナーンは美しく、サロメはその音楽のような声、白い肌、黒い髪、赤い唇などを口をきわめて褒めちぎります(287 – 352行)。しかしながらヨカナーンは自身の美しさに全く気付いていませんし、サロメのことを見もしません。サロメは「私のことを見てくれたら、私を愛してくれただろうに」(1049–1050行)と言っていますが、ヨカナーンは神の声は聞くことができても、現世の美しさを感じることについてはからきしダメです。また、どうやら人を見る目はあまりないようで、ヘロディアスの娘だというだけの理由で、処女で男を嫌っているサロメを堕落した女呼ばわりします(291行)。ヨカナーンは自分が持つ美を無駄遣いし、人の美を認識することもできません。一方でサロメはヨカナーンの美を認識するばかりでなく、ダンスで自分自身美を創造します。サロメは徹底して美を追い求めているのです。  しかしながら、サロメがヨカナーンに恋するのは、ヨカナーンが圧倒的な美を持つ一方で、サロメの美にたやすく心を動かされない人物だからでもあります。  記事冒頭の引用で述べたように、サロメは男が嫌いです。この背景には、サロメが継父ヘロデから性的虐待を受けているということがあります。サロメの最初の台詞はヘロデからの性的嫌がらせを告発するもので、「お母さんの夫があんな目で私を見るなんておかしい。もう意味わかんない。ううん、本当はよーくわかってるんだけど」(125–127行)というものです。この「意味わかんない」という発言は、ヘロデの視線の意図が読めないという意味ではなく、わかりすぎるほどわかっているが、あまりにもおぞましいので認めたくないという心境を示すものです。  若いシリア人ナラボスもサロメに恋しており、まだ幼いサロメは宮廷のさまざまな男たちから性的な目で見られているようです。そんな中で見つけたヨカナーンは「月のように貞淑」(266行目)で、おそらくサロメが今まで出会った中でも数少ない、自分を嫌らしい目で見ない男です。ヨカナーンはつらい家庭環境に耐えている十代の子どもが憧れるにはうってつけの、新鮮で孤高の雰囲気をたたえた高嶺の花のような人物です。絶対に手に入りそうもない近づきがたさが余計、恋心を燃え上がらせます。 改ページ 作者の分身としてのサロメ  周りの環境によって性的主体性を奪われ、美しいが自分の手には決して入らない男性を渇望しているというサロメの境遇は、美に最高の価値を置く唯美主義者であり、男性と恋愛関係にあったワイルドの境遇に直接重ねられるものです。  ワイルドは唯美主義の旗手として、道徳や社会規範よりも美を重視する芸術的な信念を持っていました。一方、ワイルドが生きていた19世紀末のイギリスでは男性同性愛は犯罪で、表沙汰になれば社会的に抹殺される可能性もありました。実際、ワイルドは『サロメ』を書いた数年後に同性愛の罪で投獄されることになります。以前の連載で少し触れたように、ワイルドにとって男性の美しさは芸術的にも、人生においてもきわめて重要なテーマだったと考えられ、セクシュアリティと芸術家としての美学が強く結びついています。しかしながら、ヴィクトリア朝末期に男性美の追究を実践することは、危険な行為でもあったのです。  サロメはこうしたワイルドの不安と強い美学的信念がいりまじったヒロインと言えると思います。道徳も規範も捨てて美を追い求め、自ら美を創り出すこともするサロメは唯美主義の芸術家です。一方でサロメがヘロデに殺される結末からは、美を求める者を社会が認めず、冷たい仕打ちをすることが示されています。このような美を求めてやまないが報われない芸術家というモチーフは短編「ナイチンゲールと薔薇」など、ワイルドの他の作品にも見られるものです。そしてワイルドは結局、サロメやナイチンゲールのように、美を求めた末、投獄され亡くなるという結末を迎えました。  いささかロマンティックにすぎる解釈だとは思いますが、『サロメ』はワイルドの芸術家としての自覚についての物語だと思います。美と社会の関係を描いた政治的な作品である一方、個人的な不安と信念の披瀝でもあります。そして、おそらく美を求める者は、たとえ社会から冷たくされるとわかっていても、美を求めずにはいられないものなのです。 参考文献 エレイン・ショーウォーター『性のアナーキー――世紀末のジェンダーと文化』富山太佳夫他訳(みすず書房、2000)。 ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像――世紀末幻想としての女性悪』富士川義之他訳(パピルス、1994)。 ケイト・ミレット『性の政治学』藤枝澪子他訳(ドメス出版、1985)。 Toni Bentley, Sisters of Salome (University of Nebraska Press, 2005). Jane Marcus, “Salome: The Jewish Princess Was a New Woman”, Bulletin of the New York Public Library, 78 (1974): 95 – 113. Royal Shakespeare Company, Oscar Wilde: Salomé (2017). Oscar Wilde, The Importance of Being Earnest and Other Plays, ed. by Peter Raby (Oxford University Press, 1998). Oscar Wilde, De Profundis, in The Soul of Man, and Prison Writings, ed. by Isobel Murray (Oxford University Press, 1999), 38 – 158.

セントフォース牧野結美が引退、リベンジポルノも不倫の代償で「自業自得」なのか?

 フリーアナウンサーの牧野結美(27)が所属していた芸能事務所セント・フォースの退社と、「アナウンサー活動の休憩」を発表した。本人が9月30日放送のラジオ番組『ちょこっとやってまーす!』(MBSラジオ)冒頭で、「皆さんには言ってなかったんですが、今日、牧野結美はこの番組を卒業します」と公表。結婚(寿退社)ではなく彼氏もいないと話し、4月から気象キャスターとして出演していた報道番組『TOKYO MX NEWS』(東京MXテレビ)を秋の番組改編で降板したことが直接のきっかけだという。これを「人生の転機」と受け止め、「違う道を探そう。辞めよう」と決意したそうだ。このラジオがアナウンサーとして最後の仕事だったそうで、今後はしばらく休養をとってから一般企業への就職も選択肢に入れていると話した。  ただの転職として見れば、まったく大事ではない。しかし彼女が思うようにアナウンサーの仕事を出来なくなった事情が、誰かの悪意によって追い詰められた結果だとすればあまりに気の毒だ。  彼女は2012~2015年2月まで静岡朝日テレビの局アナとして活動、可愛すぎる地方アナとして注目を浴びて2015年3月からセント・フォース所属のフリーアナウンサーとなり上京。同年3月30日から毎週月曜~金曜早朝の情報番組『めざましテレビ アクア』(フジテレビ系)のメインキャスターに鳴り物入りで抜擢されたが、わずか一年で“卒業”している。わざわざ安定した局アナの仕事を蹴り、おそらくは野心を持って上京したにもかかわらず、たった一年のみのレギュラー。その後は『めざましテレビ』でキャスターではなくリポーター業を不定期で行っていた。  このメインキャスター降板には、同年夏のスキャンダルが影響していると見られている。週刊誌上に、ある不倫関係の男女のベッド写真を含むツーショットが複数、カラーで掲載されたのだ。男女とも顔面にはモザイクがかかっているものの、記事では「日本を代表するテレビ局のキャスターをつとめる」「学生時代に芸能活動を行い、大学ではミスキャンパスにも輝いていた」などのヒントが与えられ、一般ネットユーザーによって瞬く間に<この写真の女性は誰なのか>検証された。歯並びや唇の形、服装の一致などから、その女性を彼女だと断定する声は日に日に大きくなっていった。  もちろん件の写真にうつる人物が誰なのかは、モザイクがかかっている以上、断定できない。そのうえで、そこに映っている女性が、相手男性と不倫関係なのにツーショット写真やキス写真を撮る脇の甘さがあったことは否めない。しかしベッド写真は密室での行為を第三者視点で撮影したようなカットが多く、彼女が知らないうちに相手、また第三者によって盗撮されていた可能性もある。盗撮被害、またはすでに関係を清算していたはずの元彼氏による復讐目的の画像流出、いわばリベンジポルノ被害だったとも考えられる。そのベッド写真をいつまでも嘲笑のネタにされて、平然としていられるほど神経の太い人間は多くはない。  こういった写真が世の中に出回るのは、写真を撮ることに了承した女性側の自業自得だったり、あるいは“不倫”という彼氏の配偶者などから恨みを買うことも大いにあり得る恋愛をした罰だと見られがちである。さらに目立つ職業の女性だったら出る杭は打たれるとばかりに、熾烈なバッシングを受ける。志半ばで「やりたい仕事」の道を閉ざされることも、自己責任であり脇が甘かったせいだ、となる。あまりにも代償が大きすぎる。一方で、不倫ごときが報じられても「なかったこと」になり、流出によってイメージが激変してしまうような写真があっても決して出回ることがなかったり、あるいはネット上にそうした写真があったとしてもテレビなどマスメディアでは「そんなものはどこにもない」という共通認識のもとで元気に活躍し続けられるタレントもいる。そのタレントを守るためにあらゆる策が講じられるのだ。社会はそんなに公正ではないので、仕方がないことなのかもしれない。 (犬咲マコト)

セントフォース牧野結美が引退、リベンジポルノも不倫の代償で「自業自得」なのか?

 フリーアナウンサーの牧野結美(27)が所属していた芸能事務所セント・フォースの退社と、「アナウンサー活動の休憩」を発表した。本人が9月30日放送のラジオ番組『ちょこっとやってまーす!』(MBSラジオ)冒頭で、「皆さんには言ってなかったんですが、今日、牧野結美はこの番組を卒業します」と公表。結婚(寿退社)ではなく彼氏もいないと話し、4月から気象キャスターとして出演していた報道番組『TOKYO MX NEWS』(東京MXテレビ)を秋の番組改編で降板したことが直接のきっかけだという。これを「人生の転機」と受け止め、「違う道を探そう。辞めよう」と決意したそうだ。このラジオがアナウンサーとして最後の仕事だったそうで、今後はしばらく休養をとってから一般企業への就職も選択肢に入れていると話した。  ただの転職として見れば、まったく大事ではない。しかし彼女が思うようにアナウンサーの仕事を出来なくなった事情が、誰かの悪意によって追い詰められた結果だとすればあまりに気の毒だ。  彼女は2012~2015年2月まで静岡朝日テレビの局アナとして活動、可愛すぎる地方アナとして注目を浴びて2015年3月からセント・フォース所属のフリーアナウンサーとなり上京。同年3月30日から毎週月曜~金曜早朝の情報番組『めざましテレビ アクア』(フジテレビ系)のメインキャスターに鳴り物入りで抜擢されたが、わずか一年で“卒業”している。わざわざ安定した局アナの仕事を蹴り、おそらくは野心を持って上京したにもかかわらず、たった一年のみのレギュラー。その後は『めざましテレビ』でキャスターではなくリポーター業を不定期で行っていた。  このメインキャスター降板には、同年夏のスキャンダルが影響していると見られている。週刊誌上に、ある不倫関係の男女のベッド写真を含むツーショットが複数、カラーで掲載されたのだ。男女とも顔面にはモザイクがかかっているものの、記事では「日本を代表するテレビ局のキャスターをつとめる」「学生時代に芸能活動を行い、大学ではミスキャンパスにも輝いていた」などのヒントが与えられ、一般ネットユーザーによって瞬く間に<この写真の女性は誰なのか>検証された。歯並びや唇の形、服装の一致などから、その女性を彼女だと断定する声は日に日に大きくなっていった。  もちろん件の写真にうつる人物が誰なのかは、モザイクがかかっている以上、断定できない。そのうえで、そこに映っている女性が、相手男性と不倫関係なのにツーショット写真やキス写真を撮る脇の甘さがあったことは否めない。しかしベッド写真は密室での行為を第三者視点で撮影したようなカットが多く、彼女が知らないうちに相手、また第三者によって盗撮されていた可能性もある。盗撮被害、またはすでに関係を清算していたはずの元彼氏による復讐目的の画像流出、いわばリベンジポルノ被害だったとも考えられる。そのベッド写真をいつまでも嘲笑のネタにされて、平然としていられるほど神経の太い人間は多くはない。  こういった写真が世の中に出回るのは、写真を撮ることに了承した女性側の自業自得だったり、あるいは“不倫”という彼氏の配偶者などから恨みを買うことも大いにあり得る恋愛をした罰だと見られがちである。さらに目立つ職業の女性だったら出る杭は打たれるとばかりに、熾烈なバッシングを受ける。志半ばで「やりたい仕事」の道を閉ざされることも、自己責任であり脇が甘かったせいだ、となる。あまりにも代償が大きすぎる。一方で、不倫ごときが報じられても「なかったこと」になり、流出によってイメージが激変してしまうような写真があっても決して出回ることがなかったり、あるいはネット上にそうした写真があったとしてもテレビなどマスメディアでは「そんなものはどこにもない」という共通認識のもとで元気に活躍し続けられるタレントもいる。そのタレントを守るためにあらゆる策が講じられるのだ。社会はそんなに公正ではないので、仕方がないことなのかもしれない。 (犬咲マコト)

JYJ・ユチョンとジェジュンを間違えて表紙掲載!! ファンが「週女」に「全誌回収しろ」と激怒

 10月10日発売の「週刊女性」(主婦と生活社)が犯した“致命的なミス”が原因で、一部JYJファンが大荒れしている。同誌ではJYJ・ユチョンが、婚約者とともに国内で羽根を伸ばしていたことを伝えているが、表紙にユチョンではなくジェジュンの写真を掲載。ネット上では「全誌回収しろ!」という、強烈なクレームも多数書き込まれているようだ。  同誌発売とほぼ同時に、ファンはSNSなどで「週女」に対するバッシングを展開。「強く抗議しました」など、編集部へ直接電話報告をするケースも相次いでおり、同誌ウェブサイトには、即座に謝罪文が掲載された。 「『週女』は今年6月にも、Hey!Say!JUMP・中島裕翔の肩書を、表紙で『セクゾ』と謳ってしまった“前科”がある。おそらく表紙の制作に関しては、情報漏えいの恐れもあるため、編集長を始めごく少数の人間しかチェックしていないのでは。決して手を抜いているわけではないものの、こうした事故が続くようであれば、今後は改善しなければならないでしょうね」(雑誌編集者)  また、JYJ各メンバーの関係性が、「今回のミスに対するファンの怒りを増幅させているのでは」という指摘も。 「スキャンダルで騒がれることが多いユチョン、ジュンスに対して、ジェジュンは常日頃から真面目にアーティスト活動を行っています。ジェジュンは、ほかの2人が起こすスキャンダルで割りを食っている部分が否めず、ファンは以前から苦々しい思いをしていたんです。今回のユチョンの記事も、内容は完全にプライベートなものだけに、ジェジュンファンからすれば、『なぜユチョンに間違われなければいけないんだ』と、当然面白くない。あえてジャニーズでたとえるなら、NEWS・手越祐也のスキャンダル記事に、増田貴久の写真を掲載してしまうほどに、罪深いミスといえるでしょう」(K-POPに詳しいライター)  単なるミスとはいえ、ファンの怒りもまた当然。ただ、「週女」側に何らかの悪意があったわけではなさそうなだけに、今後ファンに遺恨が残ってしまわないことを祈りたい。

JYJ・ユチョンとジェジュンを間違えて表紙掲載!! ファンが「週女」に「全誌回収しろ」と激怒

 10月10日発売の「週刊女性」(主婦と生活社)が犯した“致命的なミス”が原因で、一部JYJファンが大荒れしている。同誌ではJYJ・ユチョンが、婚約者とともに国内で羽根を伸ばしていたことを伝えているが、表紙にユチョンではなくジェジュンの写真を掲載。ネット上では「全誌回収しろ!」という、強烈なクレームも多数書き込まれているようだ。  同誌発売とほぼ同時に、ファンはSNSなどで「週女」に対するバッシングを展開。「強く抗議しました」など、編集部へ直接電話報告をするケースも相次いでおり、同誌ウェブサイトには、即座に謝罪文が掲載された。 「『週女』は今年6月にも、Hey!Say!JUMP・中島裕翔の肩書を、表紙で『セクゾ』と謳ってしまった“前科”がある。おそらく表紙の制作に関しては、情報漏えいの恐れもあるため、編集長を始めごく少数の人間しかチェックしていないのでは。決して手を抜いているわけではないものの、こうした事故が続くようであれば、今後は改善しなければならないでしょうね」(雑誌編集者)  また、JYJ各メンバーの関係性が、「今回のミスに対するファンの怒りを増幅させているのでは」という指摘も。 「スキャンダルで騒がれることが多いユチョン、ジュンスに対して、ジェジュンは常日頃から真面目にアーティスト活動を行っています。ジェジュンは、ほかの2人が起こすスキャンダルで割りを食っている部分が否めず、ファンは以前から苦々しい思いをしていたんです。今回のユチョンの記事も、内容は完全にプライベートなものだけに、ジェジュンファンからすれば、『なぜユチョンに間違われなければいけないんだ』と、当然面白くない。あえてジャニーズでたとえるなら、NEWS・手越祐也のスキャンダル記事に、増田貴久の写真を掲載してしまうほどに、罪深いミスといえるでしょう」(K-POPに詳しいライター)  単なるミスとはいえ、ファンの怒りもまた当然。ただ、「週女」側に何らかの悪意があったわけではなさそうなだけに、今後ファンに遺恨が残ってしまわないことを祈りたい。

「30歳までに結婚したかった」鹿児島出身女子が、1年で離婚後も東京に留まるワケ/上京女子・ケース6

29歳から30歳になる。それはある種の女性にとってかなり「ビビる」時だ。 ただひとつ年を重ねるだけなのに、ものすごく大人になるような。仕事でもプライベートでも「大目に見てもらう」こともできなくなってしまうのでは、そんな恐怖がある。30歳までに何かしておかなければいけないんじゃないか? 仕事でも恋愛でも成果を出しておかないと! 私もそんな風に、出所のわからない焦りに惑わされていたひとりだった。しかし、実際に30歳を過ぎた今、大した変化はない。むしろ、楽になった実感さえあるのだけれど。 今回話を聞いた有紀も、「30歳までに何とかしないと」と焦りを感じていたひとりだった。 「30歳までに結婚したかった」鹿児島出身女子が、1年で離婚後も東京に留まるワケ/上京女子・ケース6の画像2 今日の上京女子・有紀(33) 今日の上京女子/ 稲垣有紀(仮名)33歳 マンションのフロント係 「私話すのが下手だから……私なんかでちゃんとした取材になるのかなあ」と戸惑いながらも取材に応じてくれた有紀は、柔らかい雰囲気の女らしい人だ。現在は得意の語学を活かして、入居者の4割近くが外国人だという都内の高級タワーマンションのフロント係として勤務している。 「ニュージーランドの大学を卒業して、英語が好きだから今の仕事を選んだんだ。毎日笑顔で挨拶して、入居者の方たちと雑談したり、時には感謝されたり。今の仕事はすごく楽しいし自分に合っていると思う」 しかし、29歳の頃は仕事で悩んで体調を崩し、休職中だったという。 改ページ 鹿児島から上京。29歳。仕事は辛い。30歳までに結婚したい ニュージーランドの大学に在学中から、子供が好きで、語学や教えることも好きだという理由から、「児童英語の先生になりたい」と考えていた有紀。オーストラリアに2カ月間留学し、児童英語の資格を取得。大学卒業後は故郷の鹿児島に帰り、すぐに児童英語の先生として働き始めた。 「子供は可愛いし、仕事自体は楽しかったんだけど……。社会保険にも入れない、ちょっとブラックな会社だったんだよね。だから、このままここにいたらだめだなって思って」 そう思った有紀は転職活動を開始、ニュージーランド滞在時にはインターンで販売業を経験していたことから、今度は「英語+販売」の仕事をしようと思いついた。 「英語を活かせる販売業っていうと、やっぱり成田空港かなと思って、成田の免税店で働くことにしたんだよね。最初は東京で一人暮らしをすることに親も反対してたんだけど、社員寮もあるし、しっかりした会社だったから、最終的には許してもらえて」 仕事のために上京した有紀。当時24歳だった。仕事は忙しく刺激的で、時間は飛ぶように過ぎたが、28歳になったある日、過労で倒れてしまう。 「忙しい仕事だったっていうのもあるけど、人間関係にもつまずいていて、病院に行ったらドクターストップがかかっちゃって」 休職を余儀なくされた。これまでの忙しかった日々が嘘のように、何もすることのない日が始まった。 「当時彼氏もいなかったし、いきなり暇を持て余しちゃって。私これからどうしよう……って焦りはじめたんだよね。仕事ばっかりしてたら、一生ひとりなんじゃないかって」 そんな時、気晴らしに出向いた女友達との飲み会で、後の夫と出会うきっかけを掴むことになる。 「飲み会で女友達に『誰か気になる人いないの?』って聞かれた時に、ぱっとひとりだけ頭に浮かんだ人がいたんだよね。会ったこともない人だったんだけど、かっこいいなあって思ってて」 有紀が気になっていた男性は、有紀の友達の友達で、Facebookで時々見かけるだけの存在だった。有紀の友達は気を利かせてその場で彼に連絡、翌週には二人でデートする約束を取り付け、実際に会った二人はすぐに意気投合、半年後に同棲が始まった。 「休業していた仕事は退職してたし、30歳までには結婚したいって想いがあったから、すぐに籍を入れたんだよね。今思えば何をそんなに焦ってたのかって感じだけど」 アルバイトはしていたものの無職になった有紀。30歳という節目を迎え、「何者かにならないと」という焦りが、結婚へと急がせたという。 改ページ 「30歳までに結婚したかった」鹿児島出身女子が、1年で離婚後も東京に留まるワケ/上京女子・ケース6の画像3 結婚生活の破たん。それでも東京に留まる理由 しかし、結婚生活は、たった一年で終わりを迎えてしまう。 原因は、多くの離婚と同様にひとつではないが、そのひとつに彼の借金問題があった。有紀に内緒で抱えていた借金は280万。彼はSEの仕事をしていて高給取りだったので、すぐに返せる額ではあり、実際に半年もかからずに完済していた。けれど、『入籍前に大事なことを伝えられていなかった』というしこりはいつまでも残った。そういった信頼関係を揺るがす出来事の積み重ねにより、結婚生活は終わりを告げたのだった。 結婚生活が終わりを告げた後、一時は鹿児島に帰ることも考えたというが、最終的には2つの理由から東京に留まることを決めた。 ひとつ目の理由は趣味のダンス。有紀は東京に来てから、ハウスというダンスにハマっていて、週3日はダンスサークルに顔を出していた。ダンスを続けたい、それが東京に留まる大きな理由だった。 2つ目は、「まだまだ東京で見たいことがある」という好奇心だ。有紀は東京メトロが発行しているフリーペーパー『レッツエンジョイ東京』の発行を毎月楽しみにしている。 「フリーペーパーを見ながら、来月はこのイベントに行こう、あれを食べようって考えるのが好きなの(笑)。いつ地元に戻るかわからないから、今できることを精一杯楽しみたいんだよね。楽しみ尽くした後には、もしかしたら地元に帰りたいって思うかもしれないけど、それは今じゃない。今私の居場所は、鹿児島でも東京の家でもなく、『外』なんだって思う。とにかく、いろんな場所に行くのが好き」 先月里帰りしたという有紀。有紀の地元は1時間に電車が1本か2本しかこないような田舎だ。地元には2週間という長期に渡り帰省を予定していたため、出発前にマンションの横隣りと前の人たちに挨拶をしにいった。 「『2週間、家を空けるので何かあったらお願いします』って言いに行ったらさ、お隣の人が『じゃあ、何かあったら連絡しますね』って向こうから連絡先を教えてくれて」 一般的に「東京の人は冷たく、近所付き合いもあまりしない」というイメージはあるが、それは、もしかすると「東京の人はあまり近所付き合いしたがらないだろう」とお互い先読みして敬遠してしまっているだけなのかもしれない。 「お隣さんとは、それをきっかけに世間話とかするようになって、仲良くなっちゃった。東京の人が冷たいとは私は思わないな」 「人が好き」で「接客が好き」な有紀だからこそ、どこに行っても「人が好きな人」に出会えるのだろう。