息を引き取ってから始まった、週刊誌で語り継がれる美空ひばり伝説

1706_hutada2s.jpg
「UHQCD 美空ひばりベスト~ジャズをうたう」
 1989年6月24日、午前0時28分。  美空ひばりは息を引き取った。52歳だった。その夜のことは鮮明に覚えている。筆者は新宿の小料理屋で宴会をしていた。6月4日に起きた中国天安門事件の取材に行っていた各誌のカメラマンを慰労する会だった。カメラマン・記者ら8人ほどが天安門騒動の取材合戦の裏話で盛り上がっていた。午前2時過ぎだった。当時の連絡手段だった各記者のポケベルが間髪をあけず鳴った。「美空ひばりが亡くなった」と編集部からの連絡に全員、酔いは覚め、外に飛び出した。和気あいあいだった宴会から一転、お互いがライバルに変わる。ひばりが入院していた御茶ノ水の順天堂大学病院か、遺体が運び込まれる目黒青葉台のひばり宅か、どちらに行くのが良いか咄嗟の判断に委ねられる。 「こんな夜中に病院行ってもなにも撮れないだろう。自宅なら運ばれてくる棺が撮れる」が無難な判断。だが、著者は1人のカメラマンを病院に向かわせた。棺とはすれ違いだったが、病院内で右往左往する髪を振り乱した岸本加世子を撮った。一方の青葉台。我々が着いたのは4時頃だった。なんとすでに門の前で立っている人がすでにいた。着流しの男性。報道陣ではない。男はひばりさんが常連だった高級ゲイバーのママ。さすがに夜の商売人は早い。やがて棺が到着。夜が明けるに従い続々と著名人が家に入っていった。集まる報道陣の中には酔っていて足元がおぼつかない人もいた。芸能人が亡くなった日にこれほどの人が集まったケースは後にも先にもひばりしかいない。後日行われた青山斎場にはファンも含め4万2千人の弔問客がきた。  筆者が週刊誌の世界に入った時、ひばりはすでに歌謡界の大スターで、手の届かない別格の人だった。とても筆者の出番などないはずが、出番は偶然やってきた。87年、ひばりが福岡の病院に入院していたときだった。「慢性肝炎」が公式発表だったが、長い入院に重体説が流れていた。別件で福岡にいたためにひばりが入院する済生会福岡総合病院の取材に回された。今はお見舞いでも病院に入るのにはチェックが厳しいが、昔は「お見舞い客」のような顔をして入れば、病室近くまで行けた。疑われないためには「花束でも持て」と言われたものの、なんなくひばりがいる特別個室の前まで行けた。廊下にあった長椅子に座り隣の病室を見舞いにきたような顔で出入りをチェックした。  そして「時々、病室を出て廊下を歩いていることもある」との情報から、出くわすタイミングを待った。直撃とはいえ、相手は病人。無茶はできない。せめて「隠し撮り」をと考えていた。当時、記者が持っていたのは、押すだけで取れる簡単カメラ。外が薄暗くなってきた夕方だった。扉が開き、付添い人らしき人が出てきた。バッグにカメラを隠し、シャッターを切った。その瞬間だった。フラッシュが光った。当時のカメラは暗くなると自動的にフラッシュが光る装置がついていた。普通に使えばこれほど便利なものはないが、隠し撮りには不都合。事前に装置を切っておけばよかったのだが、後の祭り。その人は立ち止まり、こちらに近づいてきた。やはり、付き添い人だった。事情を説明して謝罪、即座に病院から追い出された。大失敗を経験した初のひばり取材。これがきっかけでひばりの死後、本格的なひばり伝説の取材が始まった。 (敬称略) 二田一比古 1949年生まれ。女性誌・写真誌・男性誌など専属記者を歴任。芸能を中心に40年に渡る記者生活。現在もフリーの芸能ジャーナリストとしてテレビ、週刊誌、新聞で「現場主義」を貫き日々のニュースを追う。

漢、Zeebra、ANARCHY……ドラッグの密売体験も激白!ラッパー自伝の“リアル”とは?

――本誌にたびたび登場したラッパーのMC漢。新宿のアンダーグラウンドをラップしてきた彼の自伝は3万部も売れた。キワどい実体験が綴られた同書は確かに面白いが、いつも“オレ”のことを歌うラッパーたちは、なぜ自伝を出すのか? ラップ批評界の気鋭の論客・韻踏み夫が、この独自の活字世界を総括!
1707_cap_03_520.jpg
漢の自伝『ヒップホップ・ドリーム』には、自筆のリリックも収められている。その意味とは?
 2015年に発売されたラッパーの漢 a.k.a. GAMIの自伝『ヒップホップ・ドリーム』【1】は、3万部を売り上げ、大きな話題となった。人気テレビ番組『フリースタイルダンジョン』(テレビ朝日系)でのレギュラー出演、前所属事務所Libra Records社長のスタッフへの暴力やアーティストへのギャラ未払いなどを告発して起訴することを宣言したDOMMUNEの放送(14年)などで、著者が注目を集めていたことを考慮に入れても、ヒットの最大の要因は自伝が「超越的に素晴らしい本」(菊地成孔)だったからにほかならない。  すでに少なくないラッパーの本が出版されており、その多くが自伝である。ここではラッパーの自伝を読む楽しみを探ってみたいが、そのとき「リアルであれ(keep it real)」という言葉を避けて通れない。ラッパーは自分のことばかり歌う。自分がいかにリアルであるかを証明しなければ、生き残ることはできないのだ。ゆえに、ヒップホップは一人称の文化だとよく言われるが、それを私小説的だというのは間違っているだろう。確かに、ラッパーが書いた私小説は存在する。例えば、アルコール依存症となった自分を描いたECDの『失点イン・ザ・パーク』(太田出版/05年)と短編集『暮らしの手帖』(扶桑社/09年)がそうだ。また、DABOの著書『札と月』(トランスワールドジャパン/09年)は好評だったブログの書籍化だが、私小説的な短編「コンプレックス」を収録している。しかし、言ってしまえば、ラッパー本においては私小説よりも自伝のほうがはるかに面白い。それは、ラップ自体が私小説的ではなく、自伝的だからだ。  では、自伝とは何か。フランスの自伝文学研究をひらいた『自伝契約』(1975年)の著者フィリップ・ルジュンヌは、自伝においては作者と語り手と登場人物が同一であることを指摘している。テクスト内における語り手と登場人物、そしてテクストの外=社会で生活する作者が同一であるため、自伝はテクストの内に自閉することはなく、その内容のすべてを引き受ける作者の固有名詞を通して、社会とつながっている。これを“自伝契約”という。嘘で固めた自伝を書けば、その作者は信用を失うだろうし、反対に自伝の内容が信じ難くても作者が信用できる人物ならば、おそらく読者は本当のことだと思うだろう。私小説との大きな違いもここにある。私小説においては、テクストとその指示対象である事実の間に作者の固有名詞が媒介しないのであって、作者の責任は最終的には免じられている。対して自伝は、社会的な審査の目にさらされるのだ。ヒップホップ・ファンが、ラッパーとその作品がリアルであるか否かを問うときの判断基準も、ほぼこの“自伝契約”と同じ仕方であると言ってよい。リリックのすべての責任は、ラッパーが取らねばならない。それができない場合はディスられる。

ヘロイン密輸、乱闘……ラッパーの特殊な体験

1707_rap_230.jpg
【7】TwiGy『十六小節』(Pヴァイン/16年)【8】Kayzabro『HIPHOP LIFE』(三栄書房/10年)【9】ECD『いるべき場所』(メディア総合研究所/07年)【10】KOHH『A STORY BEHIND THE FILM OF “LIVING LEGEND” 2000-2015』(plz/16年)
 とはいえ、ラッパーの自伝を読む第一の楽しさは、著者の特殊な体験の数々を垣間見られる点にもある。体験のすさまじさでいえば、北海道のヒップホップ・シーンの立役者B.I.G. JOEの『監獄ラッパー』【2】だろう。運び屋として香港からヘロインを密輸しようとしたところ、シドニー空港で逮捕され、6年間をオーストラリアの刑務所で過ごした著者が、ポジティブに生き抜く姿を描いた自伝だ。  B.I.G. JOEは運び屋となった動機のひとつに、USヒップホップと違って2000年前後の日本語ラップにはまだストリートの生々しいリアルがなかったことを挙げるが、2000年代半ばになると、日本でもそうしたリアルなラップが増えてくる。その筆頭はANARCHYで、地元である京都の向島団地での経験を歌った1stアルバム『ROB THE WORLD』(06年)は、日本にも“ゲットー”と呼べる過酷な環境があること、そこから良質のヒップホップが生まれ得ることを証明し、大絶賛された。その後、2ndアルバムをまだ発売しない時期に出版されたのが、自伝『痛みの作文』【3】だ。ハードな経験の数々(乱闘で逮捕されたときに適用された決闘罪は、日本で3例目だった!)、貫いてきた“ロック”で“ヒップホップ”な生き様を、明るくタフに語り下ろした傑作のひとつだろう。  ANARCHYにとっての向島がそうだったように、ラッパーはフッド(地元)に根差している。ラッパーの自伝は、そのフッドの貴重な証言として読むこともできる。Kダブシャインの『渋谷のドン』【4】はその代表例である。渋谷で生まれ育った著者の、これもハードな生い立ちを描いた自伝だが、本文に加えて「渋谷クロニクル」(年表)、「渋谷考現学」(渋谷PARCOの柴田廣次と社会学者の宮台真司のコラム)などが収録されており、渋谷を描くことにも重点が置かれている。  ラッパーがフッドを歌うのも、ラップがラッパーの自己と不可分であり、自己はその育った環境と不可分だからである。そのことを教えてくれるのは、横浜の戸塚にある団地ドリームハイツをレペゼンするサイプレス上野の『ジャポニカヒップホップ練習帳』【5】である。フッドの盛衰の歴史やリアルな風景、そこで出会った仲間たちとの絆を語りながら、タイトルが示しているようにヒップホップを通じて学んだ人生にとって大切なことを記したという立場で、悪ふざけと悪ノリばかりだった彼が、それをラッパーとしての武器に変えていく過程が描かれる。  サ上は、次のように書いている。「ようは、『誰でもない俺』になるための道が、ヒップホップだと思うんだ」。あるいは、Kダブに「自分が自分であることを誇る」(97年の「ラストエンペラー」より)という非常に有名なパンチラインがある。ヒップホップは自分について歌う音楽であるが、日本人がラップをするとき、彼らはダブルバインドな状況に陥る。アメリカで生まれたヒップホップを、日本人がやるという負い目の意識を強いられる一方、「誰でもない俺」を誇らなければならない。そこで読むべきは、Kダブ、DJオアシスとともに伝説的なヒップホップ・グループ、キングギドラを結成していたZeebraの『ZEEBRA自伝 HIP HOP LOVE』【6】であり、最重要の自伝のひとつと言ってよい。祖父に実業家の横井英樹を持ち、比較的裕福な家庭に育つも、慶應義塾の付属中学(普通部)をドロップアウトし、先輩たちに混じって街に繰り出し遊んでいた早熟な著者が、日本語ラップ・シーンを背負うリーダーとなるまでを描いた一冊だ。その中で読まれる次のあまりに素朴な一節は、日本語ラップというジャンル自体がはらむ根源的なジレンマを示している。 「一時期、黒人になりたくて、なりたくて、しょうがなかった。もちろん無理なんだけどさ」  彼らは90年代当時の日本におけるヒップホップの受容のされ方に違和感を持ち、“リアル”なヒップホップ・シーンを作り上げようとしていた。日本人がラップをするというねじれそのものを、相対化したり自虐したりすることなく引き受けようとしたのだと言っていい。そうして作られたのが、今も続く“日本語ラップ”と呼ばれるジャンルだ(それまでは“J-RAP”と言われていた)。当時の様子は、キングギドラと同世代のカリスマ的ラッパーTwiGyの自伝『十六小節』【7】に詳しい。名古屋から身ひとつで上京した彼の自伝は、その異彩を放つラップ・スタイルの技術的な試行錯誤や工夫の過程を明かし(批評家の矢野利裕は「日本語ラップ技術史」と評した)、アメリカでの鮮烈な体験を記しつつ、極めて貴重な写真の数々とともに日本語ラップ黎明期の熱気を伝える証言となっている。

漢の自伝に見られる絶妙な仕掛けとは?

1707_cap_01_250.jpg
今年1月、成宮寛貴の友人A氏の関係者として真昼間の番組『バイキング』(フジテレビ系)に生出演した漢 a.k.a. GAMI。
 ほかにもラッパーの自伝に類する書籍としては、ジャパニーズ・ウェッサイ(米西海岸産のヒップホップ)の重鎮DS455のKayzabroによる『HIPHOP LIFE』【8】、ECDの音楽体験を綴った自伝『いるべき場所』【9】、撮影予定が頓挫した映画を本にして、アプリ〈plz〉で限定発売したKOHHの『A STORY BEHIND THE FILM OF “LIVING LEGEND”2000-2015』【10】などがある。しかし、それらの中でも疑いなく最高傑作だと言えるのは、やはり漢の『ヒップホップ・ドリーム』である。新宿をレペゼンするクルーMSCを率い、フリースタイル巧者としての側面も見せながら、生々しいストリートの光景を描いて日本語ラップ・シーンに衝撃を与えた漢の自伝から見えてくるのは、徹底したリアルの感触だ。  まずは、自伝を読んでみよう。喧嘩や売春、薬物売買が横行する新宿周辺のストリートの風景を見つつ、不良グループに属した中学時代からストリートのルールを学ぶようになる。高校時代にラップを始め、デビューしてシーンの注目を集めてから、前所属事務所への裁判を起こし、自主レーベル〈鎖グループ〉を設立する現在までが語られる。しかし、語られる事柄を見れば随一のエグさを誇っている本書の魅力は、ただその話の内容だけにあるのではない。著者が見てきたストリートの出来事を詳細に描きながらも、(自伝の多くが内面の告白や読者への啓蒙的な呼びかけに堕しがちなのと比して)心理などに深入りせずに思考や判断を説明するのみで、あとは取った行動の軌跡が語られていく。その様はあくまでクールで、ほとんどハードボイルド小説の文体だと言いたくなる(構成はライターの二木信)。さらに、この自伝の驚くべき点は、各章の初めに付された著者直筆のリリックと、その章で語られている内容がほぼ完全に一致していることである。リアルの証明となっているだけではない。漢という一人のラッパー像をリアルに浮かび上がらせる、絶妙の仕掛けとなっているのだ。  ルジュンヌは前掲書で“自伝空間”という概念を提示している。複数の作品がある。それらは一人の作者によって作られたものだ。作者とはここでは複数の作品の“共通因数”にすぎないが、私たちはそうした複数の作品を作った一人の作者がどのような人物なのか興味を持ち、インタビューを読みプロフィールを調べ、そして自伝を読む。そこで生まれる作者と作品群の相互作用が作り出すのが“自伝空間”である。これは、ヒップホップの楽しみともつながるものである。マンガ研究者の岩下朋世は「『リアル』になること キャラクターとしてのラッパー」(「ユリイカ」2016年6月号、青土社)で、リアルなラッパー像(自伝空間!)は、ラッパーが自己の人生物語の作者にして主人公であることによって、「2・5次元」に形作られるのだと論じ、だからラッパーに「キャラ萌え」(!)するのは自然なのだと言う。漢の自伝の各章の内容と自筆のリリックの関係は、素材/表現となっているだけでなく(両者を比較することで、漢の作詞術を垣間見ることもできるのだが)、二重に語られ相互に作用することで、一人の作者、漢 a.k.a. GAMI像を“リアル”に描き出すのである。  フランスの哲学者ポール・リクールは、“物語的自己同一性”という言葉を使い、人は自己を語りながら(語ることで)、自己を構成するのだと考えた(詳細は『他者のような自己自身』、90年)。ルジュンヌをさりげなく参照しながら、自己とは「人生の語り手で、作中人物なのである」と言うリクールの議論が、さらに岩下の論点ともほぼ重なるという事実は、ヒップホップと自伝と自己の密接な関係を明かしてもいよう。ラッパーは自分のことを歌い、語る。ラッパーの自伝を読みながら、ラップを聴くとき、私たちはリアルなラッパーの自己に出会えるのだ。 韻踏み夫(いん・ふみお) 1994年、福岡県生まれ。ラップ批評家。現在、早稲田大学文化構想学部の4年生。これまでに、「ユリイカ」「ミュージック・マガジン」などに寄稿した。

喜多川社長死亡説のネタ元と役員退社で揺れるジャニーズ

喜多川社長死亡説のネタ元と役員退社で揺れるジャニーズの画像1
KAT-TUN時代の田中聖。
5月24日には元所属タレントでKAT-TUNの元メンバー田中聖が大麻取締法違反容疑で逮捕(6月7日釈放)。その数日後には、福岡市博多区で昨年7月に約7億5000万円相当の金塊が盗まれた事件により逮捕された容疑者のフェイスブックに、NEWSのメンバー手越祐也が一緒に写った画像が載せられていることが発覚。さらには、写真週刊誌「FLASH」(光文社)において、手越のセフレによる告発が掲載されるなど、最近は何かとジャニーズ事務所のネガティブな話題が続いている。 「田中の逮捕については、KAT-TUNのメンバーたちが事件についてコメントする一方、元所属事務所としての正式なコメントはなく、沈黙。手越の件に至っては、発覚後、すぐさま御用メディアの女性週刊誌に、彼が22歳の時、両親に1億円の豪邸をプレゼントしてローンを7年で完済したという“美談”をリーク、火消しに奔走していましたね」と、あきれ顔で語るのはスポーツ紙のデスク。  田中といえば、ジャニーズ事務所在籍時から東京・西麻布で会員制のバーを経営するなど契約違反を繰り返す問題児ぶりを発揮し、13年9月に「度重なるルール違反行為があった」としてKAT-TUNを脱退、専属契約も解除されることとなった。  無論、すでに縁は切れているかもしれないが、「田中は12歳でジャニーズに入所。所属事務所がその人格形成に大きな影響を与えているのは間違いない。ジャニー喜多川社長も、メリー喜多川副社長も、普段から所属タレントのことを『家族』などと、キレイ事ばかり言っているのであれば、“元家族”もしっかりとフォローすべきではないか、という声も事務所内から聞こえてきます。メンバーのコメント発表はこうした事務所の体質への反発だったのかもしれません」(同)という。  とはいえ田中は、同じくジャニーズを離脱したKAT-TUNの元メンバー赤西仁のほか、夜遊び好きの現役ジャニーズタレントともつい最近まで親交があったようで、「田中容疑者が経営していたバーには複数の現役ジャニタレが出入りしていた。当然、警察当局も供述やスマホなどのデータなどから田中容疑者の交友関係を洗うはず」(週刊誌記者)とされており、今後の捜査が注目される。  さて、以前から、“元家族”には薄情なことこの上ないジャニーズ一家だが、水面下では内部分裂が加速しているようだ。別の大手芸能プロダクション幹部は声を潜めてこう明かす。 「『SMAP』の解散騒動以来、すっかり世間を敵に回してしまったジャニーズだけど、心労がたたったのか、最近になって大黒柱のジャニーさんの体調が芳しくない。一時は死亡説まで流れ、御大自ら否定した【1】ことも話題になった。こうした中、密かにスタッフや所属タレントたちが離脱のタイミングを計っているという話も聞こえてきます」  ジャニー喜多川氏といえば、「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」としてギネスに認定されている御仁だけあり、80歳を超えてからもなおKinKi Kidsの堂本光一や滝沢秀明の舞台演出を手がけ、現場でもその姿が頻繁に確認されていた。前出のプロダクション幹部は語る。 「6月初旬、ジャニーズJr.が応援サポーターを務めるイベントに出席した際、死亡説を完全否定しましたが、そもそもこの情報は滝沢本人の談話から流れたという話です。現在の舞台は、総合演出・ジャニー喜多川のクレジットがあるものの、堂本や滝沢を中心に演出されているのは周知の事実。そんな中、今年5月に行われた『滝沢歌舞伎』に関して、滝沢本人が『ジャニーさん、完全に演出を外れました』とごく一部の親しい関係者に漏らし、その噂が一気に回って、死亡説に繋がったとか」  昨年末のSMAP解散、トップの体調不安説、さらには度重なる現役、あるいはかつての所属タレントによるゴシップなど、盤石かと思われていた体制が崩壊しつつある。前出の記者が続ける。 「ジャニーズ内部も相当揺れているようで、昨年2月、役員のひとりが退社したそうです。表に出る業務ではなく、裏方担当の人だったそうですが、ジャニーズ設立期から事務所を支えてきた功労者で、メリー副社長の秘書的な役割を果たしてきました。ただ、なにか事務所とモメたわけではなく円満退社ということで、かなりの額の退職金が支払われたようです」  一部では事務所内のことは公言しないという口止め料込みで2億円とされているが、「当時から質素な生活を送っており、金の匂いとは無縁な人だった」(ジャニーズ関係者)という。   数々の不安要素が噴出するジャニーズだが、さらにそれと呼応するかのような不自然な動きはSMAP周辺にも見受けられるという。  今年9月の契約更新を3カ月前に控えた6月、所属事務所と元メンバーたちの話し合いで、木村拓哉を除くメンバー4人の離脱も取り沙汰されていたが、ここに来てかねてから独立を望んでいた中居正広が残留を希望していることが複数のメディアで報じられている。 「中居さんの心変わりの理由のひとつに、ジャニー社長の体調不安があるのは間違いない。ジャニー社長にもしものことがあれば、ジャニーズ事務所は自然と崩壊していくでしょう。メリー副社長も高齢だし、あのキツイ性格ではみんなついていけない。同じく副社長を務めるジュリーさん体制になれば、独立を企てるメンバーやスタッフもいるだろう。お世辞にも所属タレントの番頭格のマッチが若いメンバーたちから慕われているとも思えないしね。中居さんからしてみれば、今無理に独立するよりも、来るべきタイミングを待つ方が良いという判断でしょう」(前出・スポーツ紙デスク)  さらに、ジャニー社長の体調不安説は、芸能界全体のパワーバランスにも地殻変動を起こしているようだ。 「昨年末あたりから名古屋を拠点とする男性グループ『BOYS AND MEN』が勢いを増していたり、菅田将暉ら非ジャニーズのイケメン俳優が大挙出演した映画『帝一の國』がヒットしたり、明らかにジャニーズ事務所の業界内での影響力は落ちています。一昔前なら『ボイメン』や『帝一の國』はとっくに潰されているでしょう。『帝一の國』に関しては、木村拓哉が俳優生命をかけて臨んだ映画『無限の住人』と公開時期が丸かぶりで、実際に興行収入では差がついてしまった。若手イケメン俳優を多数抱えるスターダストに至っては、上層部が『来るべき日に備えて男性ユニットに力を入れる』と豪語しているほどですからね」(同)  2代目への世襲により存続を図ってきた多くの大手芸能プロだが、ジャニーズという業界の雄はどのような動きを見せるのだろうか? 芸能マスコミのみならず、芸能界全体の注目を集めている。 (編集部) 【1】ジャニー喜多川、死亡説を自ら否定 ジャニー喜多川社長の死亡説が業界をめぐり、その騒動が5月22日付の夕刊紙に掲載されたが、6月6日、所属タレントが出演するイベントに自ら訪れ、記者らに対し、これを否定。年齢的に不調な時期もあるそうだが、「生きていますよ」「殺さないでください」などと、健在をアピールした。

結婚から引退へ、メディアを翻弄し続けた稀代の歌姫…週刊誌報道に動じなかった山口百恵伝説

1706_hutadas.jpg
『GOLDEN☆BEST 山口百恵 日本の四季を歌う』
 すべてにおいて型破りのアイドルだった山口百恵。引退から結婚に至る経過もメディアの予想を超えていた。 「百恵の恋人を突き止めろ」は当時のメディアの至上命令だった。ドラマの共演でコンビを組み続ける三浦友和が漠然と「本命」と言われていたが、決定的な証拠がない。共演者同士の恋はやっかいなもの。ドラマの延長で食事するのは会社同僚が飲みに行くようなもので、恋人である証拠にはならない。  最終的には「女性セブン」が愛の巣から出てくるツーショットを撮った。この大スクープにより2人の仲は公然のものになった。だが、この時点で百恵が結婚、引退まで考えていたことは誰も予想できなかった。百恵は所属の「ホリプロ」の幹部にだけ報告、了承を得ていたという。後にホリプロの社長は「友和君との結婚報告は予想できたことだったが、まさか引退まで決意していたとは思わなかった」と語っている。  百恵の決意は固く、結婚引退までの特別プロジェクトが始まった。79年10月。週刊誌の先手を打つように、百恵は大阪のコンサートで友和との結婚前提の交際を公表。翌年の3月に正式に婚約発表。80年10月5日までの約半年に渡って全国「さよならコンサート」が始まった。最後の舞台になった武道館で歌い終えた百恵は、真っ白なマイクを舞台中央に置いて舞台を去った。このシーンは名演出と言われ、語り草となっている。そのマイクは一時、小樽の石原裕次郎記念館に展示されていた。  11月19日。赤坂霊南坂教会で挙式。東京プリンスホテルで開かれた披露宴には1800人の招待客がお祝いに駆けつけた。ここで一連の特別プロジェクトによる百恵フィーバーは終わりだったが、週刊誌の取材はまだ続いていた。  百恵が新婚旅行先に選んだハワイにメディアも押し寄せることになったのだ。後にも先にも新婚旅行先にまでメディアが追いかけた例は百恵しかいない。  大半のメディアはハワイに先乗りしてホノルル空港で待つなか、百恵・友和と同じ飛行機に同乗する記者もいた。著者もその1人だった。当時の飛行機はファーストクラスとエコノミーしかなかった。他の記者はエコノミーだったが、著者は搭乗直前、空いていたファーストに変更したところ、なんと百恵と友和の通路を挟んで隣の席。すぐ声をかけられる距離。絶好のチャンスである一方、緊張感が襲ってきた。とりあえず2人の様子を見ながら、話しかけるチャンスを待った。外国人客が大半を占めるなか、私たちは目立った。通路側に座っていた友和が機先を制するように、「機内での写真や話しかけはやめて下さい」と即座に注意してきた。従うしかなかった。後は横目で様子を見ることと、話を盗み聞きすることしかできないが、友和も心得たもの。ほとんど聞き取ることはできない。それでも一睡もすることはできなかった。  そして、勝負の舞台はハワイに移された。  ハワイにはテレビ、新聞、週刊誌の大半が集合していた。情報交換しながらもそれぞれ虎視眈々と独自のスクープを狙っている。まずは空港に到着した2人を待ち受ける。百恵サイドはまたしても先手を打ってきた。メディアがハワイに来ることが予想できたことから、友和のマネージャーが同行してきていたのだ。メディアを集め開口一番、こう切り出した。「ハワイの取材は最終日に設けます。それまでの間、一社でも独自の取材をした場合、取材は中止にします」というお達し。うまい作戦である。先に取材させれば、その後は各社、独自に取材ができるが、最終日ならメディアは動きを封じられる。メディアは話し合い、何も取材できずに帰る可能性もあることから、全社、動くのは禁じることを決めた。2人の宿泊先、食事や遊び先などを調べることもできず、1週間近くハワイで足止め。観光客のようにハワイで過ごすしかなくなった。約束通り最終日に2人はビーチの近くで共同の取材を受けた。横並びの写真と談話が載った。こうして百恵取材も一段落を迎えた。百恵が芸能界にいたのはわずか7年。週刊誌は百恵に翻弄されたが、今も語り継がれている芸能界のレジェンドである。 (敬称略) 二田一比古 1949年生まれ。女性誌・写真誌・男性誌など専属記者を歴任。芸能を中心に40年に渡る記者生活。現在もフリーの芸能ジャーナリストとしてテレビ、週刊誌、新聞で「現場主義」を貫き日々のニュースを追う。

結婚から引退へ、メディアを翻弄し続けた稀代の歌姫…週刊誌報道に動じなかった山口百恵伝説

1706_hutadas.jpg
『GOLDEN☆BEST 山口百恵 日本の四季を歌う』
 すべてにおいて型破りのアイドルだった山口百恵。引退から結婚に至る経過もメディアの予想を超えていた。 「百恵の恋人を突き止めろ」は当時のメディアの至上命令だった。ドラマの共演でコンビを組み続ける三浦友和が漠然と「本命」と言われていたが、決定的な証拠がない。共演者同士の恋はやっかいなもの。ドラマの延長で食事するのは会社同僚が飲みに行くようなもので、恋人である証拠にはならない。  最終的には「女性セブン」が愛の巣から出てくるツーショットを撮った。この大スクープにより2人の仲は公然のものになった。だが、この時点で百恵が結婚、引退まで考えていたことは誰も予想できなかった。百恵は所属の「ホリプロ」の幹部にだけ報告、了承を得ていたという。後にホリプロの社長は「友和君との結婚報告は予想できたことだったが、まさか引退まで決意していたとは思わなかった」と語っている。  百恵の決意は固く、結婚引退までの特別プロジェクトが始まった。79年10月。週刊誌の先手を打つように、百恵は大阪のコンサートで友和との結婚前提の交際を公表。翌年の3月に正式に婚約発表。80年10月5日までの約半年に渡って全国「さよならコンサート」が始まった。最後の舞台になった武道館で歌い終えた百恵は、真っ白なマイクを舞台中央に置いて舞台を去った。このシーンは名演出と言われ、語り草となっている。そのマイクは一時、小樽の石原裕次郎記念館に展示されていた。  11月19日。赤坂霊南坂教会で挙式。東京プリンスホテルで開かれた披露宴には1800人の招待客がお祝いに駆けつけた。ここで一連の特別プロジェクトによる百恵フィーバーは終わりだったが、週刊誌の取材はまだ続いていた。  百恵が新婚旅行先に選んだハワイにメディアも押し寄せることになったのだ。後にも先にも新婚旅行先にまでメディアが追いかけた例は百恵しかいない。  大半のメディアはハワイに先乗りしてホノルル空港で待つなか、百恵・友和と同じ飛行機に同乗する記者もいた。著者もその1人だった。当時の飛行機はファーストクラスとエコノミーしかなかった。他の記者はエコノミーだったが、著者は搭乗直前、空いていたファーストに変更したところ、なんと百恵と友和の通路を挟んで隣の席。すぐ声をかけられる距離。絶好のチャンスである一方、緊張感が襲ってきた。とりあえず2人の様子を見ながら、話しかけるチャンスを待った。外国人客が大半を占めるなか、私たちは目立った。通路側に座っていた友和が機先を制するように、「機内での写真や話しかけはやめて下さい」と即座に注意してきた。従うしかなかった。後は横目で様子を見ることと、話を盗み聞きすることしかできないが、友和も心得たもの。ほとんど聞き取ることはできない。それでも一睡もすることはできなかった。  そして、勝負の舞台はハワイに移された。  ハワイにはテレビ、新聞、週刊誌の大半が集合していた。情報交換しながらもそれぞれ虎視眈々と独自のスクープを狙っている。まずは空港に到着した2人を待ち受ける。百恵サイドはまたしても先手を打ってきた。メディアがハワイに来ることが予想できたことから、友和のマネージャーが同行してきていたのだ。メディアを集め開口一番、こう切り出した。「ハワイの取材は最終日に設けます。それまでの間、一社でも独自の取材をした場合、取材は中止にします」というお達し。うまい作戦である。先に取材させれば、その後は各社、独自に取材ができるが、最終日ならメディアは動きを封じられる。メディアは話し合い、何も取材できずに帰る可能性もあることから、全社、動くのは禁じることを決めた。2人の宿泊先、食事や遊び先などを調べることもできず、1週間近くハワイで足止め。観光客のようにハワイで過ごすしかなくなった。約束通り最終日に2人はビーチの近くで共同の取材を受けた。横並びの写真と談話が載った。こうして百恵取材も一段落を迎えた。百恵が芸能界にいたのはわずか7年。週刊誌は百恵に翻弄されたが、今も語り継がれている芸能界のレジェンドである。 (敬称略) 二田一比古 1949年生まれ。女性誌・写真誌・男性誌など専属記者を歴任。芸能を中心に40年に渡る記者生活。現在もフリーの芸能ジャーナリストとしてテレビ、週刊誌、新聞で「現場主義」を貫き日々のニュースを追う。

【小田嶋隆】世田谷区――実家に置いてきた娘に合わす顔がないある女の話

東京都23区――。この言葉を聞いた時、ある人はただの日常を、またある人は一種の羨望を感じるかもしれない。北区赤羽出身者はどうだろう? 稀代のコラムニストが送る、お後がよろしくない(かもしれない)、23区の小噺。
【小田嶋隆】世田谷区――実家に置いてきた娘に合わす顔がないある女の話の画像1
(絵/ジダオ)
「トロフィーワイフ」という言葉がある。功成り名遂げた男が、自らの人生の成功の証として手に入れる賞品のような妻、といったほどの意味だ。  駒沢競技場を望むオープンカフェで、談笑するマダムたちのいずれ劣らぬこれみよがしな美貌を眺めながら、静子は昔、なにかの本で読んだトロフィーワイフという言葉を思い浮かべている。万事にカネのかかった女たち。カネの出どころは本人ではない。アタマからつま先までを積算して合計すれば、100万円はくだらないはずのその彼女たちの服飾関連出費を鷹揚に支出しているのは、10歳以上は年齢が上の夫ということになっている。  日曜日の午後、駒沢公園前のカフェに集うマダムたちは、自分たちが買い取られた資産であり、自分の脚で歩く期間限定の不動産である旨を強く自覚している。だからこそ、個々のトロフィーワイフは、自身に投入された金額の多寡を、端数の10円の単位に至るまで頑強に記憶しているのだ。  その点、私は、身に着けているもののすべてを、一から十まで、自腹で買い揃えている。そういう意味で自分はトロフィーではない。 「どちらかといえば」  と、静子は考える。 「あたしはトラップなのかもしれない」  スマホが鳴る。通話の着信音ではない。LINEの通知を知らせる幽かな擦過音だ。その曇りガラスを引っ掻くような神経に触る音色を、彼女は、メッセージを伝える効果音に採用している。 「いま渋谷。あと30分でそっちに着くよ」  娘からLINEのメッセージが届くようになったのは、2カ月ほど前からのことだ。  それまで、静子は、彩美がスマホを持っていることさえ知らずに過ごしていた。今年の4月、福島の母親のもとにもう5年も預けっぱなしにしている彩美が、突然電話をかけてよこしたのは、中学に入学して、自分用のスマホを手に入れたからだった。 「おかあさん。あたし。わかる?」  彩美は屈託なく笑っている。まるで天使みたいに。5年も会っていないのに。小学2年生の夏休みに実家に置き去りにして、以来、ハガキ一枚、電話一本よこしていない母親を、このコは、まるで恨んでいないように見える。本当だろうか。 「ねえ。おかあさん。あたしのLINEに登録してよ」  以来、彩美は、週に1度か2度、近況を短い文章とスタンプで知らせてくるようになった。 「席替えがあったよ」 「隣の席のオトコ最悪。やくざものだよ」 「部活やめたよ。面白くないからね」 「ねえ、英語って必要? 誰に使うの?」 「カズが金髪にして呼び出しくらって金髪のボウズになって、で、3日で色がぬけた。超ウケる」  静子は、メッセージを受け取る度に、5文字以内の簡単な返事を書く。文字の入力が得意でないということもあるが、本当のところ、どんなふうに返事をして良いのやら、毎回見当がつかないのだ。 「あら」 「おやおや」 「素敵」 「なるほど」  静子は、内容にかかわらず、その都度適当な相槌を送る。そういえば、一緒に暮らしていた頃、健二に言われたことがあった。 「お前の返事には心がこもっていない」  もっとも、その時に健二が指摘したのは、静子の生返事のことだった。確かに、健二の話を聴く時、彼女はどうかすると 「ふん」  という、どことなくバカにしているように響く短い相槌を返していたものだった。 「その、ふん、ってのをやめろよ」  と言われた時、静子ははっきりした声で 「ふん!」  と言った。いつもの、鼻息ひとつの「ふん」とは少し違う気持ちをこめたつもりだったが、健二にはうまく伝わらなかった。 「おまえは本当に手に負えない女だな」  そう言って健二は真面目な顔で彼女を見た。  そうするのは、機嫌の良い時の健二の癖だった。その健二もいまはどこにいるのかわからない。  「まあ」 「!」 「そうね」 「知ってる」 「素敵ね」  静子は送信する。その静子の短い返信を、彩美はおおげさに面白がる。 「『素敵ね』ってリプ、ちょーウケる。最高だよね。昭和のリッチなマダムみたい。あたしも使わせてもらう。すっごい素敵だよ」  渋谷に着いたという彩美からの短信を受け取って10分ほどが経過した頃、静子は、突然、自分が、この場に似つかわしくない身なりをしていることに思い当たった。この店のあちこちに座っている小型犬を連れたマダムたちの、一点のスキの無いいでたちと比べて、自分の髪と服装の、なんとみすぼらしく映ることだろう。そう、彼女は思った。もちろん、普段ならそんなことは気にしない。私は私だ。自分の髪の色と大きなトートバッグと常に我が身と共にあるトップスとボトムスを、私は自前の経済力で買い整え、持って生まれたオリジナルの感覚でコーディネートしている。誰に対して何を恥じ入ることもないし、みじめに感じる必要もない。今、羽織っているワインレッドの革製のハーフコートは、もう4年も着ている韓国製のフェイクだが、モノ自体は悪くない。靴もピアスも特段の高級品ではないが、出自を恥じねばならないような安物でもない。 「でも」  静子は考える。 「彩美はどう思うだろう。あのコは、私の服装の真価を正しく評価できるだろうか。もしかして、彼女は、この店のトロフィーワイフたちが身に着けている、日曜日の午後の番組のスタジオで見かけるみたいなきらびやかなファッションに圧倒されてしまうかもしれない。そして、自分の母親の、いかにも風采の上がらない立ち姿と、容姿の衰えと髪の色の輝きの無さに、ショックを受けるかもしれない。そう思うと、彼女は、この店に座っていること自体に、次第に強い圧迫を感じはじめる。どうしよう。あと20分もすればあのコがやって来る。あのコは、あのエントランスのあのドアから、この店のこの席に座っている私を見つけて、立ち止まることだろう。午後の日差しを顔の前面いっぱいに浴びて、小じわの目立つ寝不足の肌と、生え際に伸び始めてきている白髪が浮き上がって見える私の姿を5年ぶりに直視して、あのコは、走り出して逃げてしまわないだろうか」  静子は、立ち上がっている。そして、まだ口をつけていない紅茶に一瞥を与えることもせず、彼女は、伝票を取り上げると小走りにレジに向かう。 「急いで」  1000円札をギャルソンに渡し、釣りを受け取ると、彼女は、店を出て、そのまま駅とは反対方向に歩きはじめる。しばらくすると、彼女は、ほとんど全速力で等々力方面に走りはじめている。  彩美には、いずれ機会を見て話をしないといけない。自分がどうして腹を痛めた娘を折り合いの良くない実家の母親に押し付けて、東京で暮らしているのかについて、13歳の娘にきちんとわかるように筋道立てて説明せねばならないだろう。  でも、その時にどんな言葉で説明するのであれ、今はその時ではない。私は、まだ準備ができていない。私はまだ自分が失敗した母親である事態に直面できていない。それどころか、私は自分が失踪した男の内縁の妻であった事実から自由になっていないし、自分が誰かのトラップであり、誰のトロフィーでもなく、もしかしたら自分自身であるのかどうかさえあやふやであることを、きちんと自分に説明できていない。  2時間後、東急大井町線の上野毛駅から静子は溝の口方面の電車に乗った。どこに行くあてがあるわけではない。また引っ越しをしなければならないとなんとなく思っている。  その前にスマホを解約せねばならない。 小田嶋隆(おだじま・たかし) 1956年、東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。営業マンを経てテクニカルライターに。コラムニストとして30年、今でも多数の媒体に寄稿している。近著に『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社)、『もっと地雷を踏む勇気~わが炎上の日々』(技術評論社)など。

今の芸能人たちには無い!記者を秒殺するスターのオーラ!【週刊誌を圧倒した俳優たち】三船敏郎編

1705_hutada04s.jpg
『サムライ 評伝 三船敏郎』(文春文庫)
 映画が庶民の娯楽だった時代。スクリーンからスターが続々と誕生した。スターとは星。文字通り手の届かない存在としてスクリーンでしか会えない。庶民は私生活など知る由もなければ、メディアも映画の話以外、報じることもなかった。スターに近づけるのは映画記者たちに限られていた。女性スキャンダルなどあってなかったようなもの。触れること事態、タブーのように見られていた。そんな中、スキャンダルで長年に渡りメディアを賑わせたのが三船敏郎(享年77歳)だった。  日本映画がハリウッド映画の足元にも及ばなかった時代に、「世界の三船」と呼ばれ日本映画の顔だった。『用心棒』『七人の侍』など後世に残る映画に主演。黒澤明監督作品には欠かすことのできない存在でもあった。単独取材どころか、撮影所で三船の姿を見ても遠くから見ているファンのように見るだけで、近づき難いオーラがあった。スキャンダルらしい話もなかった三船に突如、浮上したのが当時女優として三船と共演していた喜多川美佳との熱愛だった。三船は妻と息子と暮らしていた目黒の家を出て、世田谷で喜多川と同居生活に入った。「三船が別居して愛人と生活」のゴシップにメディアも色めき立った。  三船は「妻とは離婚前提での別居」と公言しており、堂々と愛人との生活を送っていた。後は離婚成立を待つだけだった。その間に 娘も誕生している。その娘が高橋ジョージとの離婚裁判で世間の耳目を集めた三船美佳である。彼女は、父親の名字と母親の芸名を取り「三船美佳」という芸名にした。  生まれて間もない娘と暮らす三船。本妻との間にいたのは息子が2人だっただけに、初めての娘を可愛がっていた様子が近所の人からの話からも伝わってきていた。  駆け出しの記者だった筆者は連日のように三船が愛人と暮らす家に取材に出かけた。離婚の進展と現在の暮らしぶりを聞く程度だったが、足がすくむようだった。  スターが全身から放つオーラは私生活でも変わらない。初めて「これがスターのオーラ」と認識した人である。  オーラだけではない。声をかけようものなら、全身で威圧する迫力がある。言葉を発するわけでもなく、質問を遮断してしまう。  今の若手タレントに直撃しても、タレント側が慌てふためくケースが多く、その時点で記者の勝ちだが、三船は対面した瞬間に記者を制圧するような圧を感じた。まさに秒殺されるようだった。三船が初めてビールのCMに出た際の一言「男は黙ってサッポロビール」そのままである。質問できずに退散する記者たちは少なくなかった。  一転、矛先は本宅で離婚を拒否し続ける夫人に向かった。定点的に行くと相手の行動が読めるもの。晴れた日の昼過ぎ、夫人は庭先の縁台で庭を眺めるのが日課だった。狙いすませてその時間に行く。あえて玄関の呼び鈴を押さず、塀越しに声をかけた。夫人の取材は夫に比べるとラク。世間話から入り「離婚報道」の核心に入ると毅然とした態度で、「離婚する気はありません」という返事しか返ってこない。愛人や子供の存在まで知りながら離婚届けに判を押さない夫人。それは女の意地だった。「三船敏郎夫人」という肩書きは大きなブランド。そう簡単に渡してなるものかという意志だったと解釈している。ちなみに、離婚は成立しないまま三船は世を去っている。その三船ブランドは愛人・喜多川美佳と娘・美佳によって引き継がれている。 二田一比古 1949年生まれ。女性誌・写真誌・男性誌など専属記者を歴任。芸能を中心に40年に渡る記者生活。現在もフリーの芸能ジャーナリストとしてテレビ、週刊誌、新聞で「現場主義」を貫き日々のニュースを追う。

佐々木希と渡部建の結婚に希望を見いだしている独身中年男性は、身のほどをわきまえるべきである。【佐々木】は希の風が吹く

佐々木希と渡部建の結婚に希望を見いだしている独身中年男性は、身のほどをわきまえるべきである。【佐々木】は希の風が吹くの画像1
 4月9日、『行列のできる法律相談所』(日本テレビ系)において、アンジャッシュ・渡部建(44)と女優・佐々木希(29)の結婚が発表された。この報を受けて「40歳過ぎても若くてカワイイ娘と結婚できるんだ!」と希望を見いだしている独身中年男性は、身のほどをわきまえるべきである。そんなことができるのは、一部の限られた人間なのだから。 「世界はね、パチンコみたいなものです。たくさんの玉が放られるなか、真ん中のポケットに入ってルーレットを回せる玉はごく一部。その中でさらに大当たりを引く玉は、より限られてしまいます。ほとんどの玉は流されるだけ。でも、そうやってパチンコという遊戯は、世界は、成り立っているんです」  これは、私が高校を卒業する時、担任の教師が生徒たちに送った言葉である。これから“何者かになろう”と期待と希望を胸に飛び立とうとする若者に冷や水を浴びせるような教えだが、友達もいない地獄のような高校生活を送ってきた私にとって、妙に染みいる言葉であった。そもそも高校生相手にパチンコで人生を例えるのはいかがなものか? ということもあるが、例えに出しておきながら、担任はあまりパチンコをやったことがないのだろう。ちょこちょこ単語が間違っているような気がする。ともあれ、それ以来私は「身の程をわきまえる」ことをモットーに生きてきた。だからこそ、今回の渡部建と佐々木希の結婚も冷静に受け止められたのだと思っている。  まあ、そうでなくてもこの2人の結婚、なんというか“完璧なオーラ”を放っていないだろうか。男女共に突っ込みどころがないキャラ、離婚しそうな気配は微塵もない。なんの嫌みもなく「幸せな結婚生活を送るんだろうな」と思える圧倒的な説得力がある。そのせいか、否定的な意見はあまり見かけない。なんなら、佐々木希の友人である木下優樹菜の「芸人さんの嫁さんに仲間入りだね!笑 何年もいじり倒されるわー!! 嫁のパンツくれ! とか。」というインスタの祝福コメントが非難されるという、「もう誰でもいいから貶めたい」といったおかしな空気になっているほどだ。  言っておくが、知人の嫁が佐々木希であったなら、一般人であっても「パンツくれ!」とは言うだろう。むしろ言わないほうが失礼なくらいだ。もっと言えば、佐々木希じゃなくても、普通に嫁がかわいければ「パンツくれ!」は言うはずである、男なら。そんなに世の中、綺麗ごとばかりではないという事を女性の皆さんにはわかっておいていただきたい。  そんな“完璧なオーラ”を放っている2人だが、こと佐々木希の今後の方向性に関しては、少々厳しめな意見がでているようだ。要は、引退? ママタレへ転向? 女優を続けるの? という話である。  女優ということにおいて「代表作がない」といった声が聞こえるが、今では女優として確固たる地位がある宮沢りえでさえ、人気絶頂期に貴乃花との婚約を発表した際「代表作がない」と揶揄されたほどである。現時点で代表作がないことなどなんの問題にもなりはしない。個人的には「代表作って必要?」とすら思っている。あんなものがあるから、いつまでたっても我々は、鈴木保奈美は「カンチ、セックスしよう!」と性に対してオープンな人であり、安達祐実は「同情するなら金をくれ!」と無心する人であり、前田敦子は「AKBのことは嫌いにならないでください!」と泣き叫ぶ人であるという色眼鏡を通して彼女たちを見てしまうのである。前田敦子に至っては代表作ではないが、名刺代わりのインパクトは得でもあるし、損でもあるということだ。  現時点で「佐々木希」と検索をかければ、かなりの数の映画やドラマの出演作品があがってくる。これで「女優」と名乗って何が悪い。前述の担任教師なら、きっとこう言うだろう。「たくさんの女優が芸能界に放られるなか、映画やドラマに出演できるのはごく一部。その中でさらに代表作を持てる人はより限られてしまいます。ほとんどの女優は流されるだけ。でも、そうやって芸能界は成り立っているんです」  この言葉が佐々木希に届くかどうかはわからない。それでも、商業誌である「サイゾー」に載せることで、パチンコ台には放たれるわけだ。たとえ外れ玉になろうとも……というオチで終わろうかと思ったが、担当編集に「誰が外れ玉だ!」と注意されそうな気がするので、この例えは失敗だったかもしれない。そもそも、パチンコやったことないし。 西国分寺哀(にしこくぶんじ・あい) 以前から「佐々木希と佐藤かよは、角度によっては似ている」を提唱している40代独身男性。なんなら佐藤かよのほうがタイプだったりする。

「親にジョッキで殴られた」あなたの隣にも、被虐待児はいる――。

――虐待を受けた「わたしたち」に残ったものとは? よじれてしまった家族への想いを胸に、果たして、そこに再生の道はあるのだろうか。元・被虐待児=サバイバーである筆者が、自身の体験やサバイバーたちへの取材を元に「児童虐待のリアル」を内側からレポートする。
1705_honamiill_1jpg.jpg

自分はまともに育つことができたのだろうか?

「親にビールジョッキで殴られて2回流血」 「親父と面と向かって話そうとすると、身体が震える」 「ある程度の年齢になるまで、自分の家がおかしいということに気づかなかった」  数年前から、こんな書き込みの絶えないサイトがある。『あるある祭り』という掲示板に設置されたスレッド『ガチで親に虐待されてた奴にしかわからないこと』だ。投稿者は文字通り、家族から身体的・精神的な暴力やネグレクト(育児放棄)を受けてきた被虐待者たち。2013年の開設以降、2700件を超える「切ない実体験」で埋めつくされている。  未成年向けの掲示板かと思いきや、オトナたちの参加も目立つ。20代半ばの男性や子持ちの主婦、中年と思しきユーザーまでもが投稿し、共感を示す「あるあるボタン」のクリック数に「この悲しみは自分だけではなかった」と安堵しているのだ。  彼らは、虐待を生き延びた人。カウンセリングの世界などでは「サバイバー」とも呼ばれることもある。わたしもその中の一人だ。「サバイバー」というと、無人島で昆虫でもかじっていそうな響きだが、ある意味、危険な生物(親や家族)と同じ空間でどうにかこうにか生き延びてきたのだから、やはりこれ以上ぴったりの言葉はないだろう。  さて、わたしは今まで「同志」に会いたい一心で、他のサバイバーたちにも取材を重ねてきた。そこでわかったのは、彼ら彼女らは成人した今もなお、虐待の後遺症と闘っているということだ。 「大声を出されると体がすくんでしまう」「真夜中になると、ふとした瞬間に“あの時”の恐怖が蘇り、涙が止まらない」「自分はまともに育ったのか不安」「いくつになっても親の存在がしんどい」など挙げればキリがない。  東京の大学に通っていたフクちゃん(仮名・当時21歳)は「小学生のときに母親からよく包丁を向けられていたので、今も怖くて包丁に触れないんです。肉や野菜を切るのはもっぱらハサミですね」と、日常生活の悩みを打ち明けた。中にはうつ病やパニック障害、解離性障害などで心を病んでしまい、精神科の薬が手離せないケースも珍しくない。  もしかしたら、あなたのそばにもいるかもしれない。人知れずひっそりと闘っている「サイレント・サバイバー」が。 「え、身近では聞いたことないけど!?」  そうおっしゃるのもごもっとも。サバイバーたちは、親しい友人や恋人にさえ、虐待の過去をカミングアウトすることがほとんどないからだ。暴力のない「普通の家の子」には理解されないと諦めているし、同情されるのもいたたまれない。だからこそ同じ境遇の「仲間」が集い、なおかつ匿名で本音を吐き出せるインターネットに、彼らは引き寄せられていくのだろう。

決して統計にカウントされない被虐待児たち

 では実際、虐待を受けたことのある人は、日本にどのぐらいいるのだろうか?  平成27年度の間に、全国208カ所の児童相談所が「児童虐待相談」として対応した件数は、過去最多の10万3286件。これは同年の18歳未満の人口で計算すると、200人に1人の割合となる。  しかし、これはあくまで児童相談所が把握している案件。つまり氷山の一角だ。  都内にある「子ども家庭支援センター」施設長の女性が、現場の肌感覚について話す。支援センター(自治体によって名称は異なる)は全国にあり、児童相談所の「前段階」として虐待予防や相談窓口の役割を担っている。 「センターでは、普段から親御さんたちと気軽に話せるような態勢をとっています。日々の業務中に、お母さんから『今、子どもをぶっちゃったんです!』と泣きながら電話がかかってくることはしょっちゅうですね。その場合は、すぐに虐待として対応するのですが、精神的虐待やネグレクトを含めると、児童相談所と連携されないケースは全体の3分の2ほどあります」  さらに、親が自らの行為を隠蔽し、周囲の大人にも発見されなかった子どもたちを含めると、膨大な数に上るだろう。  わたしを含め、出会ってきたサバイバーたちがそうだった。我が家の場合、ある時期から「顔は目立つから」と服で隠れる部分への殴打が増え、母親の機嫌を逆なでしないよう、声を出さずに泣く術を習得した。一方で、親の監視がない「家の外」はまさにパラダイスだったから、幼稚園や学校では常に「明るく元気な子」。先生や友人の親御さんたちは、まさかそんな子が家でボコボコにされているなんて夢にも思わなかったであろう。 “見つけてもらえなかった”子どもたちは、やがてオトナになり、今もどこかで孤独に闘っている。  この連載では、取材に協力してくれたサバイバーやわたし自身の体験をもとに、「内側から見た虐待」をレポートしてみたい。と同時に、虐待を克服するための道も探っていきたいと思う。サバイバーの中には、辛かった過去や親との関係に、自分なりの「落とし前」をつけて幸せをつかみ取った人も存在するからだ。  次回、まず始めに「誰も気づかなかった虐待」=わたし自身のケースを紹介しよう。父は会社員で母は専業主婦という、一見どこにでもある普通の家庭だった。 (文/帆南ふうこ) 帆南ふうこ(ほなみ・ふうこ) 1980年生まれ、ライター。4歳ごろから高校生まで実母から身体的・精神的な暴力を受けて育つ。13年間にも及ぶ反抗期を経た後、結婚を機に母親と和解。ここ数年は元・被虐待児である「サバイバー」たちのオフ会を開いたり、取材を通じてサバイバー仲間との親交を深めている。趣味はお酒と田舎暮らし。

「親にジョッキで殴られた」あなたの隣にも、被虐待児はいる――。

――虐待を受けた「わたしたち」に残ったものとは? よじれてしまった家族への想いを胸に、果たして、そこに再生の道はあるのだろうか。元・被虐待児=サバイバーである筆者が、自身の体験やサバイバーたちへの取材を元に「児童虐待のリアル」を内側からレポートする。
1705_honamiill_1jpg.jpg

自分はまともに育つことができたのだろうか?

「親にビールジョッキで殴られて2回流血」 「親父と面と向かって話そうとすると、身体が震える」 「ある程度の年齢になるまで、自分の家がおかしいということに気づかなかった」  数年前から、こんな書き込みの絶えないサイトがある。『あるある祭り』という掲示板に設置されたスレッド『ガチで親に虐待されてた奴にしかわからないこと』だ。投稿者は文字通り、家族から身体的・精神的な暴力やネグレクト(育児放棄)を受けてきた被虐待者たち。2013年の開設以降、2700件を超える「切ない実体験」で埋めつくされている。  未成年向けの掲示板かと思いきや、オトナたちの参加も目立つ。20代半ばの男性や子持ちの主婦、中年と思しきユーザーまでもが投稿し、共感を示す「あるあるボタン」のクリック数に「この悲しみは自分だけではなかった」と安堵しているのだ。  彼らは、虐待を生き延びた人。カウンセリングの世界などでは「サバイバー」とも呼ばれることもある。わたしもその中の一人だ。「サバイバー」というと、無人島で昆虫でもかじっていそうな響きだが、ある意味、危険な生物(親や家族)と同じ空間でどうにかこうにか生き延びてきたのだから、やはりこれ以上ぴったりの言葉はないだろう。  さて、わたしは今まで「同志」に会いたい一心で、他のサバイバーたちにも取材を重ねてきた。そこでわかったのは、彼ら彼女らは成人した今もなお、虐待の後遺症と闘っているということだ。 「大声を出されると体がすくんでしまう」「真夜中になると、ふとした瞬間に“あの時”の恐怖が蘇り、涙が止まらない」「自分はまともに育ったのか不安」「いくつになっても親の存在がしんどい」など挙げればキリがない。  東京の大学に通っていたフクちゃん(仮名・当時21歳)は「小学生のときに母親からよく包丁を向けられていたので、今も怖くて包丁に触れないんです。肉や野菜を切るのはもっぱらハサミですね」と、日常生活の悩みを打ち明けた。中にはうつ病やパニック障害、解離性障害などで心を病んでしまい、精神科の薬が手離せないケースも珍しくない。  もしかしたら、あなたのそばにもいるかもしれない。人知れずひっそりと闘っている「サイレント・サバイバー」が。 「え、身近では聞いたことないけど!?」  そうおっしゃるのもごもっとも。サバイバーたちは、親しい友人や恋人にさえ、虐待の過去をカミングアウトすることがほとんどないからだ。暴力のない「普通の家の子」には理解されないと諦めているし、同情されるのもいたたまれない。だからこそ同じ境遇の「仲間」が集い、なおかつ匿名で本音を吐き出せるインターネットに、彼らは引き寄せられていくのだろう。

決して統計にカウントされない被虐待児たち

 では実際、虐待を受けたことのある人は、日本にどのぐらいいるのだろうか?  平成27年度の間に、全国208カ所の児童相談所が「児童虐待相談」として対応した件数は、過去最多の10万3286件。これは同年の18歳未満の人口で計算すると、200人に1人の割合となる。  しかし、これはあくまで児童相談所が把握している案件。つまり氷山の一角だ。  都内にある「子ども家庭支援センター」施設長の女性が、現場の肌感覚について話す。支援センター(自治体によって名称は異なる)は全国にあり、児童相談所の「前段階」として虐待予防や相談窓口の役割を担っている。 「センターでは、普段から親御さんたちと気軽に話せるような態勢をとっています。日々の業務中に、お母さんから『今、子どもをぶっちゃったんです!』と泣きながら電話がかかってくることはしょっちゅうですね。その場合は、すぐに虐待として対応するのですが、精神的虐待やネグレクトを含めると、児童相談所と連携されないケースは全体の3分の2ほどあります」  さらに、親が自らの行為を隠蔽し、周囲の大人にも発見されなかった子どもたちを含めると、膨大な数に上るだろう。  わたしを含め、出会ってきたサバイバーたちがそうだった。我が家の場合、ある時期から「顔は目立つから」と服で隠れる部分への殴打が増え、母親の機嫌を逆なでしないよう、声を出さずに泣く術を習得した。一方で、親の監視がない「家の外」はまさにパラダイスだったから、幼稚園や学校では常に「明るく元気な子」。先生や友人の親御さんたちは、まさかそんな子が家でボコボコにされているなんて夢にも思わなかったであろう。 “見つけてもらえなかった”子どもたちは、やがてオトナになり、今もどこかで孤独に闘っている。  この連載では、取材に協力してくれたサバイバーやわたし自身の体験をもとに、「内側から見た虐待」をレポートしてみたい。と同時に、虐待を克服するための道も探っていきたいと思う。サバイバーの中には、辛かった過去や親との関係に、自分なりの「落とし前」をつけて幸せをつかみ取った人も存在するからだ。  次回、まず始めに「誰も気づかなかった虐待」=わたし自身のケースを紹介しよう。父は会社員で母は専業主婦という、一見どこにでもある普通の家庭だった。 (文/帆南ふうこ) 帆南ふうこ(ほなみ・ふうこ) 1980年生まれ、ライター。4歳ごろから高校生まで実母から身体的・精神的な暴力を受けて育つ。13年間にも及ぶ反抗期を経た後、結婚を機に母親と和解。ここ数年は元・被虐待児である「サバイバー」たちのオフ会を開いたり、取材を通じてサバイバー仲間との親交を深めている。趣味はお酒と田舎暮らし。