偏向報道に騙されるな! 外交問題で重視すべき実益(前編)

1012_renovation.jpg
■今回の提言 「一枚岩でない相手国の情報を知り、賢い対中外交を」 ゲスト/高原基彰[社会学者] ──社会の現状を打破すべく、若手論客たちが自身の専門領域から日本を変える提言をぶっ放す! という本連載、今回は東アジア研究を専門とする社会学者の高原基彰さん。尖閣諸島問題を発端に、政局から民衆レベルまで日中関係をめぐって緊張が走るこの状況をどのようにとらえ、隣国とどうかかわっていくべきなのでしょうか? 萩上 今回は、東アジア、特に中国の外交問題をどう受け止めるべきかという、これまでと比べても論争的なテーマを扱います。お相手は、韓国・中国などに滞在しながら、社会学者の立場から東アジア研究をされてきた高原基彰さん。現在、尖閣諸島での船長拿捕事件をきっかけに、日中関係が一気に緊迫化しています。それぞれの政府の外交姿勢に対して、互いの国内では「弱腰だ」という政府批判の突き上げを含んだ反日デモ、反中デモが起こるなど、国民感情が悪化しているという状況です。  また、劉暁波氏へのノーベル平和賞授与、経済成長、いまだ解決されないチベット問題など、中国の政治体制が注目される機会が高まっている。こうした中、日本国内の世論形成、および政策提言のレベルでは、どんな着地点を探っていけばいいのかを議論したいと思います。まず率直に、現在の日中関係の推移に、どのような感想を持たれていますか? 高原 事件の重大性を考えれば、日本国内で中国のイメージが悪くなるのは当然で、そのこと自体は良いとも悪いとも思わないです。むしろ、対中感情の悪化が指摘されている中で、日本人はまだ冷静だなと思いましたよ。自国企業の社員を人質に取られるなど、もしこれが韓国だったら、はるかに大規模な反中デモが起こってもおかしくない。欧米のどこかだった場合でも、もっと大騒ぎになっていたんじゃないでしょうか。 萩上 日本では実際には、秋葉原や六本木で数千人規模のデモが開かれたり、福岡で中国人観光客の乗ったバスを街宣車が取り囲んだことがニュースになったりはしましたが、「大きな暴発」まではしなかった。中国側では、今でも各地で数千人規模のデモが起き、日本に関連しそうな店舗や物などが取り壊されています。 高原 そう。中国側には今回のデモも、相当誇張された形で解釈されています。例えば渋谷で起きた小規模な反中デモで、たまたま通りがかった中国人女性に対して、デモ隊の誰かが「わーっ! 中国人!」とか言ったという動画から、一足飛びに「日本は感情的で危険で、また軍国主義が復活しそう」みたいなことになる。日本といえば軍国主義のイメージがまだまだ強い。それは我々の実感からすれば明らかに間違いだけど、なかなかわかってもらえない。そして中国のデモが日本側に報じられる時、同じような誤解が起こっていないでしょうか? そういうことを、お互い自己チェックしないと。 ■対中・対韓感情の悪化をどうとらえるか 萩上 もちろん、ネット上の感情表出として表れる反中言説といったものをもって、社会全体の「右傾化」と見なすのは早計です。例えば反中であれば「論点パッケージ」として「右寄り」として位置づけられるのか、親中であれば「左寄り」になるのかといえば、そう単純でもない。親米に対して親中を訴えるような「リベラル」も、例えばアジア基軸通貨を掲げられるかといえば難しく、基本的には抽象論の域を出ない。東アジア共同体的な発想も、日本が経済的にも国際プレゼンス的にも中国やインドに抜かれていき、「リーダーシップ」の発揮も困難と見えると、まともに口にされなくなってきた。  ただ一方で、数年前までなら、排外的なプラカードを掲げて道路を行進したり、施設を取り囲んだりというアクションがこれほど頻繁に起こる風景は目立たなかったわけですよね。具体的要望のない社会運動が政治に与える影響よりは、極端化して「誰得(誰が得するんだ)状態」になった運動体などの暴走が、具体的な個人への攻撃といったヘイトクライム(憎悪犯罪)につながる可能性が懸念される。蕨市での「カルデロン一家叩き出せデモ」や秋葉原での「ソフマップ突撃事件」を見る限り、小さな運動体が政治に与える影響は薄くても、個人や一企業などに対する負の圧力としては十分に有効です。  そうした行動は当然、さらなる憎悪、反日的なアクションの口実になるだけで、不幸しか生まない。中国が反日教育やメディア規制で日本イメージを固めていく一方で、メディアやネットを通じた「自由な」情報取得によって、極端なセレクティブメモリを強化し、対立がむやみに過激化していくスパイラルを見ると、ただ情報をフラットに共有して「互いを知り」さえすれば済むという話ではないことを痛感します。 高原 近隣諸国の間にトラブルがあるのは当然ですし、国民の中に不満層がいるのも当然です。おっしゃる通り、日本国内の「論点パッケージ」で「右だから、左だから悪い」と言い合っていても仕方のない時代になっているということでしょう。冷戦後の日本ではたまたまこれまで漠然とした戦争責任や歴史認識以外に喫緊の話題がなかっただけで、こうして領土などの具体的な問題が出てきたら、いろいろな動きが大衆レベルでも出始めたという話だと思います。  デモ自体も同じで、中国でも冷静な人がネットに書き込む皮肉なんですが、デモが破壊した日本料理店は中国人が経営してたり、不買運動してる日本製品は大半が実は中国製だったりする。それが果たして「愛国」なんだろうかと。あえて言いますが、中国ですら、そういう点を批判している人がちゃんといるんです。お互いの低劣な部分だけ見て、怒りの応酬を繰り返しても、何の意味もない。  中国側の事情として、教育内容が反日的になりがちなのは、国の成り立ちを考えればある程度は仕方のないことです。あらゆる学校教育がそうであるように、全員がそれをそのまま信じ込んでいるわけでもありません。むしろそれを逆手に取り、自国のマスコミや政府に対する異議申し立てを行う際の免罪符として「反日」が使われている側面のほうが重要だと思います。最近はそれが一巡してしまって、例えば著名な若手作家の韓寒なんかは、今回の反日デモに冷淡な反応をしました。もちろん情報規制や政治体制は西側先進国とまったく違うままですが、世論の多様化はすごいスピードで進んでいる。 萩上 今ある敵対意識は、時間がたてば中和されてくるのでしょうか?

なぜ「ニート」は話題になったのか!? 社会問題は結果を求めよ!(前編)

1011_renovation.jpg
■今回の提言 「社会学者は言説分析から、 行政へコミットを目指せ!」 ゲスト/井出 草平[社会学者] ──社会の現状を打破すべく、若手論客たちが自身の専門領域から、日本を変える提言をぶっ放す! という本連載、今回は社会学者の井出草平さん。もはや社会に定着しきった「ニート」「ひきこもり」という言葉が生まれた背景から、若者論のこれまでの流れ、そして社会学は今この状況下で何ができるのか? 自戒を込めて考えます。 荻上 今回お招きしたのは、07年に『ひきこもりの社会学』(世界思想社)を上梓された社会学者の井出草平さんです。90年代末から00年代頭にかけて、「(社会的)ひきこもり」や「ニート」という概念が浮上し、それまで想定されてこなかった社会問題が若年層を中心に広がっていることが「発見」されました。これらの概念は、基本的には「社会から逸脱してしまった彼らを、いかに包摂していくか」という目的のために唱えられたものですが、メディアで拡散されていく過程で、多くの論争を引き起こし、時には「甘えだ」「叩き直せ」といった若者叩きの文脈で、政策論議にとってはノイズとしか言いようのないバッシングにもさらされました。  ひきこもりについての丹念な実態調査と的確な問題設定によって、若手の中でも一線を画した研究活動をされている井出さんですが、厚生労働省や大阪府で、具体的な政策提言のアウトプットを出していくミッションに携わっておられます。ひきこもりという社会問題を解決するため、時に精神医学や経済学など、他領域の知見を用いつつ、「可能なる処方せん」を実効的に共有しようとする姿は頼もしい限りです。今回は、ひきこもりやニートが社会問題化されていった動きをモデルケースとして検証しながら、社会問題の解決のために社会科学者が果たすべき役割についてお話しできればと思います。 井出 引きこもりの社会問題化は今から10年ほど前に起こりました。社会問題化の中心にあったのは斎藤環さんが98年に書いた『社会的ひきこもり』(PHP新書)という本でした。昨年度までに国で予算化されたひきこもり対策予算は、厚生労働省保健局管轄のひきこもり地域支援センターという事業のみです。ひきこもりという問題が日本に存在することを周知させるのには成功しましたが、対策予算を出すことには成功したとは言いがたい。その理由は、ひきこもりという概念が当初から、予算化を狙って作られた概念ではなかったことが大きいのではないかと思います。斎藤さんの長年にわたる取組みと、社会的な関心が偶然にも一致したわけです。  一方、ニート問題の場合ですと、完全に行政の俎上に上るよう意図的に社会問題化されていったという点が重要ですね。04年に『ニート──フリーターでもなく失業者でもなく』(幻冬舎)を出した労働経済学者の玄田有史さんらをはじめ、社会学畑の小杉礼子さんや宮本みち子さんといった人たちによる、これまでは労働組合とか共産主義のイデオロギー的なものに結びつきやすかった雇用や職業問題の枠組みを、政府の施策として取り組み可能なものに変えていこうという目的意識があった。それでニートというカタカナ語で、さも海外の普遍的な問題を輸入したかのように若年失業者・無業者の問題をパッケージングして、政策課題に乗るようにしたという面があります。そうした玄田さんらの議論の恣意性に対して、06年に教育学者の本田由紀さんらが『「ニート」って言うな!』(光文社新書)を出して、玄田さんらの「ニート」の問題化がことさら若者をモンスター視する擬似問題化だと喝破することで議論が進んできたという経緯がありました。  こうした対立図式での論争は、言論の世界では明快でわかりやすかったし、話題にもなったと思うんですけど、現実の政治面では、行政の側でニートという言葉にかけた若年就労問題の予算が現在までつき続けているという点で、玄田さんたちの圧勝ですよね。 荻上 メディアに広がる通説の誤りは正しても正してもきりがないが、決して看過はできないものなので、丁寧に応答する必要はあります。ただ振り返り見ると、そうした応答の多くは、カウンターパンチとして輝くものの、新しい議論の土壌、政策的な枠組みを提示しきれないものも少なくない。これは主に自戒ですが、僕を含め、メディア上で神話化しつつある通説や流言に対する中和的介入を行う論客が00年代には目立ったと思いますが、今後はますます、消極的介入にとどまらない、説明的な提案と土台作りの実行フェーズにどれだけコミットできるかが問われていると痛感します。 井出 そうですね。『「ニート」って言うな!』に関しては2つ思うところがあって、ひとつはやはり、「結局どうすればいいか」が書かれていないという点。もうひとつは、本田さんたちが世の中にニートが増えているという見方への反駁の根拠として掲げている、就職希望をそもそも表明していない「非希望型」の若年無業者たちの数は一定だという主張をしたこと。その指摘は正しいけれども、玄田―小杉が問題としていたのはそこではなかった。むしろ就職希望を表明しながら求職活動をしていない、もしくはできない「非求職型」の増加だったんですよね。ニートは実態として増えているのにも関わらず、本田さんたちの本などによって、増えていないという指摘が「正しいもの」として流通してしまった。

データと専門知を駆使してもっとマシな政治を始めよう!【前編】

1010_renovation.jpg
■今回の提言 「評論家の思いつき言説を中和し、政局談義を政策論争へ置き換えよ」 ゲスト/菅原 琢[政治学者] ──社会の現状を打破すべく、若手論客たちが自身の専門領域から、日本を変える提言をぶっ放す! という本連載、今回は、政治報道が騒がしい今こそ気になる、政治とメディアと世論をめぐるお話です。 荻上 今回ご登場いただくのは、政治学者の菅原琢さんです。菅原さんは、昨年末に上梓された『世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか』(光文社新書)にて、これまでメディアで語られてきた「世論の物語化」がいかに恣意的で実態と乖離してきたかを、実証的なデータの蓄積を元に明らかにされています。例えば2007年参院選での自民惨敗に対し、「小泉構造改革の行き過ぎに対する反動」というような解釈を行うのは誤りで、実態は「小泉構造改革への逆行への反発」という真逆の解釈が妥当である、という具合ですね。  もともと政治の場面では、各政治勢力やメディアが、世論調査や投票行動の結果を自分たちの主張に沿う形で物語化するという、解釈ゲームやプロパガンダが頻繁に見受けられるものです。先の参院選でいえば、「菅直人首相の消費税発言に、国民がノーを突きつけた」といった解釈が支配的になり、菅直人自ら「私の消費税発言でご迷惑をおかけした」と謝罪までした。僕自身は「現況における増税」には反対ですが、この解釈が「実態としては正しい」かはまた別で、メディア上で特定の解釈のみが、検証なしに拡大していくことには危険性を感じる。「サイゾー」8月号本連載での吉田徹さんとの対談を引き継げば、これこそ「ストーリーテリング」の自走した政治談義そのものです。そうしたメディアの政治言説に対して、計量的手法を用いて流言を中和していく意義について今日は語れればと思っています。   菅原 せっかくなので、まずは消費税の話を例に取り上げましょう。今荻上さんがおっしゃったように、マスメディアでは「首相の消費税率引き上げに関する発言が国民の反発を食らって民主党は大敗した」というように言われています。しかし、毎日ネットで内閣支持率調査等をしているマクロミルネットリサーチ総合研究所(萩原雅之所長)からデータを借りて分析したところ、菅首相が「自民党の言う10%でいいじゃないか」と言った6月17日を境に「民主党に投票する予定」という人の割合が下がったり、選挙結果に結びつくような動きはほとんどなかった。この分析は「週刊エコノミスト」9月21日号に論を寄せました。もともと「消費税発言への反発説」は、論理的にもおかしいところがある。民主党は自民党が掲げていた消費税率の案を採用すると言っているのに、それへの反発で自民党が勝ったということになるのですから。  我々学者は、「ここまでしか解釈できません」という抑制も含め、なるべく先入観を排して、さまざまな仮説を考慮に入れながら消去法的に一番適切で妥当な結論を探求していくわけですが、メディアのアプローチは、自分たちが持っている答えに即す事象を見つけ出そうとする面が非常に強い。新聞などでの世論調査の取り方にしても、例えば菅発言の前の週と後の週で比較する場合、後の週では消費税に関する質問項目を急に設けたりしているわけですね。 荻上 世論データを集計しようという企画段階で、すでにバイアスがかかっているわけですからね。 菅原 ええ。一方で、多くの政治学者は、メディアが何を言おうと自分の研究には関係ない、あるいは、何を言っても聞いてもらえないだろうと、こういう事態をタイムリーに追及していっていない。でも実際、メディアの偏った分析が独り歩きするようになると、民主主義は非効率的な、歪んだ機能を持つようになります。例えば、消費税に関する情報ばかりでほかの参考となる情報が届かなければ、有権者は限定的な判断材料で投票を選択しなければならなくなる。政治家も誤ったストーリーを元に行動してしまいます。「消費税を持ち出したから負けた」という通説が立って既定路線になってしまうことで、本来ありえたはずの政策の選択肢を大きく狭めてしまうという弊害がある。消費税率アップについても今やおおむね有権者は容認する傾向が強いのに、それを政治の側がわざわざ禁じ手にしてしまうわけですから、こんな茶番はないわけです。 荻上 我々が何を欲望しているのか(したのか)をフィードバックさせるためには、適切な解釈装置が働かなければなりませんが、メディアによる誤ったバイアスがかかったままだと、大衆も政治家も「本当の欲望」を見誤り、誰も望まなかった方向へと舵を切ってしまいかねない。 菅原 そうすると、後世から振り返ったとき、「あの時代の政治は何をやっていたんだ」という評価を下されることにもなりかねない。政治学者という、政治について俯瞰的に確認し、新奇なことを探求している立場にある者として、自分が生きていた時代の政治がそう見られるのは嫌だという気持ちはありますね。消費税そのものの経済政策としての妥当性については何かを言える立場にありませんが、政治の意思決定の仕組みが持っている非効率な作用については、我々は十分に言い得ることがあると思っているんです。

“エセ経済学者”に踊らされないために必要なことってなんだろう?【前編】

1005_renovation.jpg
──若手専門家による、半熟社会をアップデートする戦略提言 ■今回の提言 「専門家よ。書を手に、街へ出よ!」 ゲスト/安田洋祐 [経済学者、政策研究大学院大学助教授] ──政治経済から社会のインフラ、インターネットの使われ方まで、あちこちガタの来てる日本社会。そんな状況を打破すべく、これから躍進が期待される若手論客たちが、自身の専門領域から日本を変える提言をぶっ放す新連載がスタート。第一回は、ゲーム理論を使って日本のシステム更新をはかる安田洋祐さんから、同胞たる専門家たちへの提言です。 荻上 さまざまなシステム不全を起こしている現代社会に切り込むべく始まったゲスト対談連載「新世代リノベーション作戦会議──若手専門家による、半熟社会をアップデートする戦略提言」、ホストの荻上です。第1回のお相手は、経済学者の安田洋祐さん。誰もが認める経済学界のサラブレッドにして、日本におけるメカニズムデザイン理論・ゲーム理論研究の先駆者です。  安田さんの専門であるゲーム理論は、ミクロ経済学、広くとらえれば社会科学の中でも特に重要なセオリーといえるもの。「囚人のジレンマ」で知られるように、まず市場なり社会状況なりをシンプルな「ゲーム」に見立てます。そして、それぞれのインセンティブ(誘引)に基づいて行動するプレイヤーたちが、「ゲーム」のルール(制約)の中で戦略的な行動を取るさまを分析する。1950年代冷戦体制下の軍略分析、たとえば核抑止議論などで注目されていたのが有名ですが、この数十年での発達も目覚ましいと伺っています。  社会科学の目的はいろいろですが、人間集合の行動原理を明らかにした上で、より多数の人が満足できるような社会への最適な道筋を考察する、という理念が薄ぼんやりとあるようには思います。社会科学といっても幅が広すぎなので、怪しいのもたくさんありますけど(笑)、中でもインセンティブ体系に注目し、その設計にもアプローチできるゲーム理論は、数ある理論の中でも非常に「使える」ツールです。 安田 あらゆるものを数値や合理性に還元して進める経済学者の議論は、一般的には「冷たい」とも言われがちですが、その分、ほかの社会科学に比べ、論点や現状をクールダウンして整理するのに長けています。理由はいくつかありますが、ひとつは立脚すべきデータがはっきり取れるため。そしてもうひとつは、対象を素朴に観察して解釈しようとするのではなく、数字という汎用性の高い表現に落としこむ作業を挟むためです。ゲーム理論も、こうした利点を備えた優れたアプローチですね。 荻上 数値データを共有してから議論をするので、実証性も高く、解釈対象もはっきりしているので論点がクリアになるんですね。僕も著書などで携わっている、「いじめ」に関する議論を例に取ってみます。  多くのいじめ論は、いじめっ子やいじめられっ子の資質、たとえばソーシャルスキルの有無であるとか道徳性の欠如などに注目してしまいます。しかしゲーム理論的な見方をすれば、そこにいるプレイヤーに何かしらの「いじめをしたくなるインセンティブ」が存在していることを見いだせる。そして、その「ゲーム」のあり方を変えてあげることで「いじめを直す」という発想ができるようになる。導かれる具体的な方法としては、ペナルティを用意するとか、学校選択制などによりゲームから降りやすくすることで、プレイヤーの振る舞いを変えてあげるなどですね。  いじめをめぐる議論は象徴的ですが、社会科学が取り扱うテーマの多くは、議論への参入障壁が著しく低い一方で、炎上係数がとにかく高い。語り手の内面やイデオロギー、信仰などが密接にかかわるため、とてもホットになりやすい。そうした議論に対して、ゲーム理論的な思考は、議論そのものをクールダウンさせると同時に、具体的にどの方法が効果的なのかという議論へとスムーズに移らせることができる。 安田 そうですね。客観性と論理性は、ゲーム理論の大きな武器だと思います。ゲーム理論は、数学者フォン・ノイマンと経済学者モルゲンシュテルンの共同研究によって20世紀半ばに生まれた、かなり新しい学問分野です。"ゲーム"理論と聞くと、「ゲーム=遊戯=子供の遊び」というような連想で、何やら大人が真剣に分析する学問対象に思えないかもしれませんが、彼らのアプローチは非常に画期的でした。それは、「複数の参加者(プレイヤー)が独自に戦略を決定し、その戦略の組み合わせに応じた得点(「利得」)が各プレイヤーにもたらされる」というゲームの基本構造が、ジャンケンやチェスなど、僕たちがイメージするいわゆる"ゲーム"を超えて、さまざまな社会・経済現象に対応している、というものです。