今クールのドラマの中から、注目の作品を1本ピックアップし、毎週追っていく新コーナー。 『ど根性ガエル』の第6話の放送日は、8月15日だった。日本人にとっては特別な夏の日付である。そして『ど根性ガエル』でも、少しだけ特別な事件が起こる。主人公、ひろし(松山ケンイチ)たちが住む町で、先の大戦で落とされた不発弾が発見されるのだった。こうしてこの作品は、戦後70年という節目の夏に放送されるドラマ作品として、戦争を描くことになる。 これは別段唐突なことではなく、『ど根性ガエル』のプロデューサー・河野英裕と脚本家・岡田恵和は、2013年1月クールのドラマ『泣くな、はらちゃん』で虚構の世界を生きる登場人物に現実の世界の悲惨さや鮮烈さを伝える場面において、かつての戦争や東日本大震災の映像を流したこともある。この手法には視聴者からの賛否両論が集まり、DVD化の際にも修正が加わったそうだが、『ど根性ガエル』にもそういった作り手としての矜持は息づいているし、より洗練された形で現代社会をドラマの中に組み込んだといえるだろう。 ドラマに限らず、テレビというメディアで作られる作品は、常に今と向き合うことを強いられる。本来は、そういったものだ。これほどまでに記録メディアが発達し、インターネットの普及によってワンクリックで動画が見られる時代である。すでに存在する数多くの素晴らしい映画作品を見るよりも、いま放送されているテレビドラマを見るという行動を選んだ視聴者に対して、テレビは今を語らなくてはならない。少なくとも『ど根性ガエル』の作り手は、そういった信念を持ってこの作品を作っているのだろう。 ピョン吉(声:満島ひかり)は、不発弾というのはなんなのかを知らない。作品の主要登場人物の中で唯一、リアルタイムで戦争を知っている人物である、ヒロイン・京子ちゃんのおばあちゃん(白石加代子)から爆弾や戦争の話を聞いたピョン吉は、こんな言葉を口にする。 「死んじまうじゃねえか、そんなやつが落ちてきたら。おそろしい野郎だな。おいら許せねえよ」 ここで重要なのは、ピョン吉が批判しているのは爆弾を落とした軍隊でもなく、あるいは戦争に突き進んだ国家でもなく、あくまでも爆弾そのものに対して「おそろしい野郎」と言っている点だ。ピョン吉は人間ではない。人間とは違う世界で生きている。だから爆弾を落とした、もしくは爆弾を作った人間を責めるのではなく、爆弾そのものを自らが共感すべき対象として批判することができるのだ。 そしてまたピョン吉は、この町で70年間も眠り続けた不発弾に対して、こんな気持ちを表明する。 「爆発するの、嫌だったんじゃねえのかな、あいつ。だって爆発したら、何もなくなっちまうじゃねえか。あいつは嫌だったんだよ。爆発してさ、人を殺しちまうのがさ。だから根性出して、黙って眠り続けたんだよ」 戦後70年がたち、今この日本では、戦争に関する意見の表明がやかましい。セミの鳴き声よりも大きな声で、「お前はどっちの立場なのだ?」と繰り返し叫ばれ続けている。だけど、そういったアジテーションなんかよりもずっと素直に、ピョン吉の言葉は心に響く。 ピョン吉の意見は、幼稚で子どもじみているかもしれない。だが少なくとも、不発弾の思いをこれほど率直に代弁することは、ピョン吉にしかできない。それは、考え続けること、あるいは想像力を駆使し続けることの大切さを伝えている。僕たちの住むこの世界には、たくさんの存在があり、それぞれの思いがある。『ど根性ガエル』はフィクションという舞台において、そういったゆるやかな、あるいは豊かな考え方があり得るという尊さを、無視することなく伝えようとしているのだ。 日常と非日常は常に地続きだ。『ど根性ガエル』という作品がそうであるように、僕たちが生きる世界もそのようにして目の前にある。今回の第6話において、不発弾処理のために人がいなくなったいつもの日常の場面、京子ちゃんの団地であり、ゴリラパンの工場であり、中学校であり、宝すしは、そこに人がいないというワンカットで不気味さを伝えている。それは決して大仰なメッセージではないが、視聴者の心に何かを残す場面だろう。 この連載で何度も言及しているように、『ど根性ガエル』は日常の素晴らしさを伝えるドラマ作品である。だけどそれは、決して能天気に非戦を訴えているというわけではない。どんな出来事が起きたとしても、人間はその状況で楽しむことができるはずだという、不断の実践の可能性をこの作品は示唆している。 不発弾処理により避難区域が設定され、主要登場人物がひろしの家に集まる場面で、つい楽しくはしゃいでしまうひろしの母ちゃん(薬師丸ひろ子)は「ちょっと不謹慎でしたかね、こういうの」と、自分自身に対して疑問を投げかける。それを聞いた京子ちゃんのおばあちゃんは、こう言ってくれる。 「楽しいことに変えちゃうのは、素敵なことよ」 人は、案外しぶとい。それこそが「ど根性」という言葉に象徴される、私たちの目指すべき生き方のひとつなのではないか。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa『ど根性ガエル』日本テレビ
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てれびのスキマが見た【日本テレビ】と【フジテレビ】──「平成テレビの完成形」と「元祖テレビの王様」の現在地
<第1回、第2回はこちらから> 「テレビは終わった」 などと語られる時、その「テレビ」は「フジテレビ」的なものを指すことが多いのではないでしょうか。なぜなら80年代以降、フジテレビこそがテレビの主役であり、象徴であり続けたからです。本当にテレビは、フジテレビは終わってしまったのでしょうか? 視聴率はわずか1%でも、30~40万人が見ているといわれています。インターネットをはじめ、あらゆるエンタテインメント業界で、その人数を集めるのは至難の業です。しかし、テレビにおいては、わずか視聴率1%でそれだけの人が見ている計算になるのです。その影響力は、今もとてつもなく大きいことは間違いありません。 「テレビ裏ガイド」連載100回記念企画の最終回は、フジテレビと日本テレビについて見ていきたいと思います。 82年から12年間にわたり民放の中で「視聴率三冠王」に君臨したフジテレビ。だが今、フジテレビはテレビ凋落の象徴のように見られている。実際、視聴率では日本テレビに大きく水をあけられているどころか、2位の座も明け渡してしまった。 そもそも、視聴率をこんなにも一般的に注目されるものにしたのはフジテレビ自身だった。「視聴率三冠王」を名乗り、自分たちの威光を大々的にプロモーションしたからだ。それまで、三冠王なんて概念はなかったし(もちろん数値上は存在していたが)、一部の看板枠(土曜夜8時など)の視聴率の動向が注目されることはあったが、個別の番組の視聴率なんて一般の視聴者は気にしていなかった。いわば、現在のフジテレビの首を絞めているのは過去のフジテレビなのだ。 今年の『27時間テレビ』は「テレビの時代はもう終わり?…でも俺、本気出しちゃいます」というコピーで「本気」をテーマに行われた。ナインティナインが総合司会を務め、同局の看板番組のひとつである『めちゃ×2イケてるッ!』がベース。場面場面を見れば、見どころのあるシーンは多々あったものの、正直言って、全体を通してみると、その「本気」が空回りしていたり、肩透かしにあった部分のほうが目立っていた。 そのエンディングが行われている時間帯に、日本テレビでは『世界の果てまでイッテQ!』の看板企画のひとつ、イモトアヤコを中心とした「登山部」による「マッキンリー登頂プロジェクト」が放送されていた。もともとの苛酷さに加え、登山は自分たちの力ではどうしようもない天候という障害もある。どんなに「本気」であろうと、ゴールが約束されていない残酷な旅だ。そんな過酷な状況でも、『イッテQ』ではあくまでも「笑い」をベースにした編集で、その偉業を伝えていた。まさに、日テレ式のドキュメントバラエティの最高峰と呼ぶにふさわしいものだった。 フジテレビ全盛だった80年代後半、日テレは民放3位に低迷していた。その突破口を開いたのが『進め!電波少年』や『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』といった日テレ式のドキュメントバラエティだった。そして94~03年の10年間、「視聴率四冠王」の座に君臨、その後も、現在に至るまで日テレは王者であり続けているのだ。 ゴールデンでは愚直にファミリー向けの番組づくりを徹底して行い、『ザ!鉄腕!DASH!!』『イッテQ』『世界まる見え!テレビ特捜部』『踊る!さんま御殿!!』『笑ってコラえて!』『ぐるぐるナインティナイン』『世界一受けたい授業』……と、各曜日に看板番組と呼べる番組を抱えている。さらに深夜帯には『ガキの使いやあらへんで!!』はもとより、『月曜から夜ふかし』『ナカイの窓』『マツコとマツコ』『有吉反省会』など多様な番組をそろえ、お昼も『ヒルナンデス!』『スクール革命!』と、いまや盤石の構えだ。まさに、現在の日本テレビは、平成のテレビ界の完成形のひとつと言っても過言ではない。 そのライバルであるはずのフジテレビは現在、確かに迷走しているように見える。けれど、この状況は、実は70年代後半の頃とそっくりだ。当時、フジテレビは「振り向けば12チャンネル」などと言われ、低迷していた。それを80年代に入って『THE MANZAI』や『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも!』の成功で覆していったのだ。 『ヨルタモリ』や『久保みねヒャダこじらせナイト』の演出・プロデューサー木月洋介や、『アウト×デラックス』のディレクター鈴木善貴など、若く優秀な人材も活躍し始めている。たとえば『ヨルタモリ』では、無意味なテロップや過剰な煽りなどを徹底的に排している。その上で、スタジオコントである合間のVTRは、かなりマニアック。どの番組の真似でもない、昨今のテレビのつくり方とはまったく違うアプローチだ。『アウト×デラックス』では、これまで「テレビ的」ではないとされていた人たちに光を当て、多くの新たな人材を発掘している。80~90年代のフジテレビはファミリー層を大胆に切り捨て、時代の最先端にいる若者をターゲットの中心に据えた上で、自分たちが時代を先取りし、牽引していた。それまでの大衆のための「テレビ」観とはまったく違う価値観で、新しい「テレビ」観をつくっていったのだ。そのあたりに、再浮上のヒントがあるのではないだろうか? かつてフジテレビは、どん底からはい上がり、栄華を極めた。ならば再びフジテレビが、そしてテレビが復活を遂げることは、決して絵空事ではないのだ。 (文=てれびのスキマ <http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/>) ◆「テレビ裏ガイド」過去記事はこちらから
てれびのスキマが見た【TBS】と【テレビ朝日】──「今のテレビではできないこと」と、どう向き合うか
<第1回はこちらから> 「今のテレビではできない」 これは、よく聞くフレーズです。確かに、コンプライアンス重視の昨今の風潮もあり、簡単にはできないこともあると思います。けれど、「今のテレビではできない」と言いつつ、「過去の名番組」というエクスキューズをつけるだけで、現在の基準では絶対にダメとされる映像も、普通に「懐かし映像」として流れている場面は多々あります。本当に「今のテレビではできない」のならば、その映像すら流してはいけないはずです。そのことからも、「今のテレビではできない」の大半は自粛であり、萎縮、もっと嫌な言い方をすればただの言い訳だといえるでしょう。 「テレビ裏ガイド」連載100回記念の第2回は、「今のテレビではできない」に果敢に立ち向かっているTBSとテレビ朝日を取り上げたいと思います。 *** 「今のテレビではできない」を「そんなはずはない」と言い続けるように、尖った番組を作り続けているのがTBSの藤井健太郎だ。日曜夜8時に悪意の限りを尽くして笑いを生み続けた『クイズ☆タレント名鑑』から、『テベ・コンヒーロ』『キスマイフェイク』、そして現在の『水曜日のダウンタウン』に至るまで、コンプライアンス重視の今のテレビの限界ギリギリを渡り歩いている(実際、番組中謝罪に至った問題も起こしてしまってもいるが)。 例えば今、「素人」へのドッキリは、テレビでは簡単にはできない。リスクが高すぎるからだ。しかし、『水曜日のダウンタウン』では、「本物そっくりの拳銃で脅す」という一昔前でも素人にはやらないような大型ドッキリを仕掛けた。これは「大阪人でも本物そっくりの拳銃でバーンとやられたらさすがに『やられたー』とは言わない」説というバカバカしい説を検証するために行われたのだが、なんと数カ月前に街頭インタビューを実施し、その人のノリの良さや「テレビに出たいか」を確認。その中から選ばれた人に、忘れた頃を見計らってドッキリを仕掛けたのだ。 あるいは、『クイズ☆タレント名鑑』時代のこと。石川県で落とし穴に転落した夫婦が亡くなるという痛ましい事故が起こった。こういう場合、落とし穴で笑いを取るという企画は放送できなくなるのが通例だ。しかし、『タレント名鑑』では、これを「プロ仕様の落とし穴」と丁寧すぎる解説を加えることで笑わせつつ、放送に踏み切った。そのまま放送すれば、クレームが来ることは必至。だから放送しない、という結論にしてしまうのは、作り手として怠慢だ。工夫すればできることはあるはずなのだ。 「今のテレビでは見られない」ような衝撃映像を次々と見せているのは、やはりTBSの『クレイジージャーニー』だ。マンホールの中で覚せい剤らしきものを打つ男、牛の血を限界まで飲み干し、結果それを吐いてしまう民族、無数のペニスを展示している博物館、拳銃を密造している現場、街中で脱糞する少年……。テレビで見たことのない映像が、次々に流れてくる。「テレビでは、もう新しいものは見られない」などとよく言われるが、そんなのはウソだということをまざまざと見せつけてくれるのだ。 TBSはこの『クレイジージャーニー』をはじめとして、現在『有田チルドレン』『世界のどっかにホウチ民』『有吉ジャポン』……と、24時台のバラエティ番組が充実している。その充実っぷりは、一時期、23時台を席巻したテレビ朝日の勢いに似ている。 90年代後半から2000年代にかけて『ナイナイナ』『「ぷっ」すま』『パパパパPUFFY』『ぷらちなロンドンブーツ』『内村プロデュース』『くりぃむナントカ』、そして『アメトーーク!』『マツコ&有吉の怒り新党』などを生み出してきた「ネオバラエティ」枠の勢いだ。 正直いって、かつての勢いは今のテレ朝にはない。その多くが深夜からゴールデンに昇格したことで番組の深度を失い、失速していってしまったからだ。だが、そんな中で、かつて深夜バラエティで元気だった頃のエッセンスを色濃く感じさせる番組が『しくじり先生 俺みたいになるな!!』だ。やはりこの番組も、もともとは深夜に放送されていた番組。それが今年4月からゴールデンに昇格した。 ゴールデンに移動したことで番組の形が変わってしまうことが懸念されたが、今のところそれは杞憂に終わり、数々の名作回を作っている(ただし、2~3時間スペシャルの乱発で、視聴者にとっては視聴習慣が付きづらい状況になってしまっているのはもったいない)。毎回、数十分という長時間にわたって、一人の先生役が授業を行うという形式。視聴者に飽きさせない画変わりが重要視される「今のテレビ」では成功しない、とされていたスタイルだ。特に、ゴールデンでは敬遠される。 しかし、一から「教科書」を作り、それを元に、本当の授業と同じように講義をするというドキュメント性が相まって、毎回熱のこもった放送となっている。 「今のテレビではできない」なんてことはない。工夫をすれば、逆に「テレビでしかできない」ことに変わる。それができた時、「今のテレビではできない」が壮大なフリになって、強烈なインパクトを残すことができるはずなのだ。 (文=てれびのスキマ <http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/>) ◆「テレビ裏ガイド」過去記事はこちらから
てれびのスキマが見た【NHK】と【テレビ東京】──テレビ局にとっての“らしさ”とは?
2012年6月から始まったこの連載「テレビ裏ガイド」。「面白いテレビ番組を真正面から面白いと紹介する」というコンセプトで毎月2~3本のペースで更新し続け、今回でなんと100回目を迎えます! 面白いテレビ番組だけを取り上げているので、よく直接お会いした人から訊かれることがあります。「ネタは尽きないですか?」と。けれど、3年あまり連載してきて、一度もネタで困ったことはありません。もちろん、自分の書き手としての能力的な問題で、この面白さをどう文章で伝えられるのかと、書くのに困ってしまうことは多々ありますが、取り上げる候補が何も思い浮かばないということはこれまで皆無でした。それだけ「テレビは今も面白い!」と、胸を張って言うことができます。 昨今はテレビがつまらなくなったなどといわれますが、僕の実感はまったく異なります。むしろ、2014年以降のテレビは、ここ十数年の間で最も面白いと言っても過言ではありません。 そこで、100回記念企画として、今回から3回に分けて、民放キー局5局とNHKの各局についての現状を私感たっぷりに語っていきたいと思います。 *** 現在最も元気なのは、NHKとテレビ東京だろう。ともにテレビ局としては、ある意味で異端だ。NHKは公共放送であり、スポンサーを獲得する必要がないため視聴率に縛られることはない。一方、テレビ東京は、キー局としては最後発であり、視聴率最下位は当たり前という状況だった。だから、最低限の視聴率獲得目標基準が各局よりもはるかに低いといわれている。過剰に視聴率にとらわれていない両局が好調なのは、皮肉な話であるのと同時に、そこに何かヒントが隠されているのではないか。 ここでキーワードになるのは、「らしさ」だ。いわゆる「NHKらしさ」「テレ東らしさ」である。例えば、テレ東の人気番組『Youは何しに日本へ?』。 この番組は、空港を訪れた外国人(=You)にタイトル通り「Youは何しに日本へ?」と尋ね、その答えが面白い人に密着するという番組である。低予算ゆえ、大物芸能人をそろえることができないという弱点を補うため、テレ東は「素人」参加番組を数多く手がけてきた。また、タイアップがつきやすいという理由もあってか、旅番組も多い。そんな得意分野を組み合わせた、実に「テレ東らしさ」全開の番組だ。この番組の成功で、『家、ついて行ってイイですか?』や『逆向き列車』など派生番組も生まれ、素人密着ドキュメントバラエティとでも呼べる新たなジャンルを確立したといえるだろう。 テレ東の現在の好調の理由を端的に言い表すならば、それは「できないことはやりません」精神だ。これは、同局の看板プロデューサーである佐久間宣行(『ゴッドタン』『ウレロ』シリーズなど)の著書のタイトルだが、できないことを無理にやっても仕方ない。逆に、できることとは何かを考え抜き、工夫して、できることを増やし、それを確実に実行していくということだ。テレ東の予算では、幅広い層が満足するような番組を作るのは難しいかもしれない。だったら、特定の層に向けて作る。そうすれば、視聴層がハッキリしているため、視聴率争いで負けていても、スポンサーはつきやすい。「固定客」ともいえる、熱烈なファンも生みやすいのだ。ド深夜番組のいち企画だった「キス我慢選手権」が2度も映画化された『ゴッドタン』は、その最たるものだろう。 NHKもまた、「NHKらしさ」が色濃く反映される局だ。だが、時にその「NHKらしさ」が足かせになってしまうこともあった。たとえば、昨年3月の中田宏衆院議員による「コント番組批判」だ。あるコント番組を名指しし、「ドタバタ暴れて人の頭を叩いて笑いを取るようなものではなく、地域性や日本の歴史文化をひもとき、若い人が関心を持てるような番組にしてほしい」などと、「NHKらしさ」を盾に批判したのだ。 これに笑いで対抗したのが、現在もシリーズを重ねている『LIFE!~人生に捧げるコント~』だ。座長である内村光良自らがNHKの古株ディレクター・三津谷寛治に扮し、「非常に低俗な雰囲気、これはまずいですね。NHKなんで」「NHKには『日本各地の地域性や、さまざまな歴史や文化をひもとくような番組』を放送する義務がある」「いくら怒ったからといって、人の頭をバコバコ叩くのはやめていただきたい。NHKなんで」などと、明らかに中田議員の発言を下敷きにした注文をしていくというコントを演じたのだ。 現在民放では、定期的に放送されるコント番組はほとんどなくなった。時間的、予算的コストに、視聴率が合わないからだ。しかし、NHKは違う。民放のように、毎分の視聴率にとらわれる必要はない。逆に、民放のように多くの芸人がひな壇に座るバラエティ番組や多くのタレントを使ったゲームのような企画は、NHKの雰囲気には合わない。だが、お笑いを“作品”のように作るコントなら、NHK的な価値観を保持しつつ、思いっきりふざけられるのだ。一見NHKらしくない『LIFE!』のようなコント番組こそ、実は「NHKらしい」お笑い番組の形なのだ。 一方、『ブラタモリ』は、一見して「NHKらしさ」全開の番組である。毎回テーマとなる土地をタモリが歩きながら、その地形などから歴史の痕跡を探るという極めてターゲットの狭い地味な教養番組。しかし、それを行うのがタモリだという一点で、一気にポップになっている。 『ブラタモリ』には、独特な演出が隠されている。それは、タモリのパートナーであるアナウンサーに「勉強するな」という指示がされているのだ。なぜなら、そのほうがタモリが自由にしゃべれるからだ。実際、『ブラタモリ』では、専門家が出す問題を即座にタモリが答え、アナウンサーがまったく理解できないまま置いてけぼりになっている場面がよく見られる。そんな時、タモリは生き生きと解説し始めるのだ。 進行を任されたアナウンサーが、事前の勉強をしない。それは、NHKの番組ではこれまで考えられなかったことだ。しかし、それがタモリの魅力を最大限生かすための演出なのだ。一見NHKらしい『ブラタモリ』は、実はNHKらしからぬ演出によって支えられているのだ。 テレ東は「テレ東らしさ」を追求することで、唯一無二の存在感を発揮している。『LIFE!』は「NHKらしさ」にとらわれなかったことが、結果的に「NHKらしさ」を生んだ。また『ブラタモリ』は「NHKらしい」番組を作っていく中で、「NHKらしさ」から脱却した演出で成功している。 「らしさ」は、決して自分たちを束縛するものではない。より自由になるための道具なのだ。 (文=てれびのスキマ <http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/>) ◆「テレビ裏ガイド」過去記事はこちらから
登場人物はなぜ、誰もが魅力的なのか?『ど根性ガエル』第5話
今クールのドラマの中から、注目の作品を1本ピックアップし、毎週追っていく新コーナー。 『ど根性ガエル』の第5話のテーマは「ないものねだり」である。いつものように始まる朝食の場面。主人公のひろし(松山ケンイチ)は家の外で遊ぶ子どもたちの声を聞き、今が夏休みであることに気付く。当時を思い出してひろしは、毎日のようにクワガタを採りに行っていたあのころ、クワガタが採れなくても楽しかった日々を思い出している。クワガタを採る、という行為そのものが「ないものねだり」の象徴にもなっているが、その懐かしい日々をうらやむひろしの心もまた「ないものねだり」だといえるだろう。 そして今日もひろしを含め、暇な大人たちが集まってくる。いつものように、よし子先生(白羽ゆり)へのプロポーズに失敗する梅さん(光石研)。ヒロイン、京子ちゃんのおばあちゃん(白石加代子)は、こんな言葉をぽつりとつぶやく。 「自分が手に入らないものを欲しがるようにできてるのよ、人間は。それを片思いって言うのね。人間はみな、何かに片思いをしてるの。それが、生きてるってこと」 その代表的な存在だといえるのが、ひろしだ。今回の第5話では会社の設立記念日ということで、ゴリラパンの一日社長になる。だが、そこでのひろしの行動は常に受け身だ。自分から何かをやろうとか、始めようとか、そういった展開にはならない。大口の注文を受けるというエピソードは確かにあるのだが、それにしたって会社にかかってきた電話をたまたま取ったというだけであり、しかもそのことによって取引先からだまされることになるのだが、それを解決するのはひろし自身ではなく、ゴリライモ(新井浩文)である。 一般的にドラマというものは、主人公の変化や成長を描くものだとされている。だが『ど根性ガエル』のひろしは、決してそういった主人公ではない。常に迷っている。自分が何を欲しがっているのかがわからないため、成長のしようがない。それではなぜ、ひろしは『ど根性ガエル』という物語の中心にいるのか? それは、自分以外の登場人物の隠された魅力を伝えるためだ。ひろしは自分で何か行動を起こすわけではないが、ないものねだりの代表的存在であるということは自他ともに認めている。それが、他者に影響を与えるのだ。 例えば、警察官の五郎(勝地涼)にとってのないものねだりは、社会的なルールを破ることである。横断歩道ではない道を渡ってはいけない。だが、ひろしの存在を想起することにより、道の向こうを歩いている老婆がスイカを落としてしまった際、自ら定めた規範を破って道を渡る。 あるいはゴリライモが一日社長という会社の行事を作ったのは、いつも社長でいることに疲れるからだ、という本心を自ら吐露する。京子ちゃん(前田敦子)もまた、自分が何を欲しがっているのかがわからない、と本音を語る。これは、ひろしが自らのないものねだりっぷりをアピールし、そうやって生きているということからの影響である。ひろしという人物の存在が、ほかの登場人物の隠された本音を発露させる。その結果、人物には多面性が生まれ、だからこそひろし以外のキャラクターは魅力的なものとなっていく。 京子ちゃんのおばあちゃんは、ないものねだりのことを「片思い」という言葉で表現するが、往々にして「片思い」とは心の奥にしまっているものだ。あまり大声で人に言うものではない。だが、ひろしはそうではなく、自分がないものねだりであることも、あるいは、例えば具体的には京子ちゃんと結婚したいという片思いの気持ちも、そのまま口にする。その姿に影響を受けることによって、ほかの人物の本心が露になっていくのだ。 それは『ど根性ガエル』という作品が持つ、本質的な構造だといえるだろう。『ど根性ガエル』はしばしば映画『男はつらいよ』に例えて語られるが、それはひろしのキャラクター造形が寅さんと似ているという目に見える理由だけではなく、主人公が成長や変化をしないことによってほかの登場人物が成長や変化をしていく、という物語としての構造が似ているからだ。 『ど根性ガエル』の登場人物に限らず、人はさまざまな理由や事情で自分の本音を隠して生きるものだ。しかし、ひろしの存在によって、隠していた自分の本音を自覚する。それが伝えるのは、結局、人は誰だって魅力的である、という当たり前の真理だ。第5話の終盤で、ピョン吉(声:満島ひかり)は叫ぶ。 「生きてるだけでいいだろってことだい! ひろし、根性で生きようぜ! 生きてるだけで楽しいだろ? 答え探してんのが楽しいだろ!」 主人公の変化や成長でドラマとしてのカタルシスを生むのではなく、『ど根性ガエル』は今を生きている人々、それは作品の登場人物だけではなく視聴者である我々に対してもだが、今を生きている人々の本質的な魅力を見つめる。『ど根性ガエル』という作品は、我々の暮らしと離れて独立しているのではない。むしろ我々の暮らしに寄り添い、我々はちゃんと魅力的な存在なのだ、ということを伝えてくれる作品なのだ。 ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa『ど根性ガエル』日本テレビ
ひろしはなぜ“いい話”になるのを嫌がるのか?『ど根性ガエル』第4話
『ど根性ガエル』の第4話のストーリーの主軸となるのは、花火大会だ。ヒロイン・京子ちゃん(前田敦子)に一緒に行こうと声をかけてフラれる主人公のひろし(松山ケンイチ)、というお約束の展開もあるが、この花火大会はひろしにとって意味がある。子どもの頃、まだ記憶もないうちに父を亡くしたひろし。いつも頭にかけているサングラスは、父の形見らしい。幼いひろしにそのサングラスを渡した母ちゃん(薬師丸ひろ子)は、こう声をかける。 「ずっとつけてな、これを。いいかい。今日は花火大会だ。空の上から、父ちゃん見てんだよ」 ひろしがつけているサングラスは、亡き父から見つけてもらうためのものだったということがここで明かされる。とても“いい話”だ。さらにいうと、親の死というのはひろしに限ったことではなく、主要な登場人物である京子ちゃん、ゴリライモ(新井浩文)、五郎(勝地涼)もそれぞれ親を亡くしている。だからこの第4話は、全員にとって“いい話”になっていい。感動して、誰もが涙するような“いい話”にすることはたやすいだろう。 だがひろしは、ストーリーがそういった“いい話”になることを拒絶する。京子ちゃん、ゴリライモ、五郎が集まってひろしの父の話をしんみりとしているときにも乱入して、その空気を壊す。ひろしがピョン吉に言うには、こうらしい。 「どうせ、五郎のやつが俺の父ちゃんの話でもしたんだろ? 苦手なんだよ、そういう“いい話”の人、みたいになるのはよ」 これはひろしのキャラクターでもあるが、同時に『ど根性ガエル』の全体を通じるテーマ、あるいはルールでもある。『ど根性ガエル』は、“いい話”になることを決して好まない。むやみに感動的になるのを避けているフシさえある。なぜかといえば『ど根性ガエル』が描くのは、伝えたいのは、特別な感動的な場面ではなく、むしろ日常そのものだからだ。 花火大会が雨で中止になったときの母ちゃんの言葉が、それを示している。 「雨なら雨で、あーあ、って空を見上げるだろ? それでいいんだよ。花火も、なーんにもない空でも、上向くのは大事なことなんだよ」 感動的な場面で感動的な言葉が出てくるというのは、当たり前だ。ドラマである以上、そういった力学が働く。だが、『ど根性ガエル』は、そこに対して抗う。『ど根性ガエル』は、日常の素晴らしさを伝える。それはつまり、望まない出来事が起きたときでも視点を変えて見れば新たな発見が生まれる、という人間の底力、いわばど根性の力を、描くということでもある。 たとえ花火が上がらなくても、空はある。そこに何を見いだすかは人それぞれだ。それは“いい話”ではなかったとしても、誰にとっても普遍的な真実である。特別な出来事が起こらなかったとしても、あるいはいま起きていることが望ましくはなかったとしても、人は豊かに生きることができる。母ちゃんの言葉は、それを示しているのだ。 第4話のキーマンとなるのは、かつてゴリライモの手先として憎らしい存在であった、モグラ(柄本時生)である。いってしまえば、サブキャラ中のサブキャラだ。だが彼は、中学のときに転校し、自らを土に埋まるモグラではなく空を飛び回るトンビとして名乗った。今は結婚し、3人の子どもに恵まれ、そして花火職人として町にやって来る。 『ど根性ガエル』は日常の素晴らしさを描く作品として、きっちりと彼の人生を想起させるような描き方をしている。サブキャラだからといって、便利な使い方をするわけではない。彼の人生もまた『ど根性ガエル』の一部なのであり、ちゃんと彼の居場所を用意する。 かつてモグラだったトンビは、雨がやんだとき、親方に頼んで花火を上げる。その花火を見て、町中の誰もが笑顔になる。サブキャラだからといって、何もできないわけではない。むしろ、サブキャラである彼が自分の行動によって人々を幸せにするからこそ、視聴者の心に何かが残る。自分がどんな人間であろうと、どんな環境にいようと、今いる場所でできることをやると決めさえすれば、世界はもうちょっとだけ素敵なものになったりするのだ。 『ど根性ガエル』の第4話は、花火大会という特殊なシチュエーションを用意しながらも、決して特別な“いい話”ではない。日常に当たり前のようにあるべき出来事や、言葉ばかりで構成されている。派手なストーリーではない。号泣するような出来事は起こらない。だが、日常の素晴らしさをうっかり忘れがちな今という時代に、この作品はある。テレビという日常において、日常の素晴らしさを描く。それが、『ど根性ガエル』という作品なのだ。 ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは@aizawaaa『ど根性ガエル』(日本テレビ)
ひろしはなぜ、主人公としてめんどくさいのか?『ど根性ガエル』第3話
多くのテレビドラマにおいて、というかすべてのジャンルのフィクションにおいて、主人公とは視聴者と視線を同一にする。あるいは、少なくとも視聴者から共感を呼ぶような形で描かれる。例外はあるが、それが基本的なルールだ。しかし『ど根性ガエル』の主人公・ひろし(松山ケンイチ)は、そうではない。視聴者が時にイライラしてしまうほどだらしなく、頼りなく、期待通りに成長してくれない。 たとえば第3話。前回、あれだけ大見得を切って終世のライバル・ゴリライモ(新井浩文)が経営するパン屋に就職すると言ったひろしだが、初の出勤日を迎えても母ちゃん(薬師丸ひろ子)から起こされて「え、仕事? あぁ、そうかぁ」とすっかり忘れている始末であり、働いて何か欲しいものでもないのかと水を向けられても「あったら、もっと前に働いてるだろ」と開き直る。いいからとっとと働けよ、30過ぎて何やってるんだ、と腹を立てる視聴者も少なくないだろう。 ひろしは、主人公として実にめんどくさい。視聴者が望むような成長や変化をしてくれない。なぜか。それは彼が、これまでの過去と現状に十分満足しているからである。母ちゃんから夢を訊かれたひろしは、こう答える。 「このまんま平穏無事に暮らしていくこと。母ちゃんとピョン吉と、いつまでもよ」 そうである以上、ひろしは主人公ではあるが、取り立てて成長や変化を願っているわけではない。だがしかし、30歳だ。それに何より、お前は主人公ではないのか。そういった視聴者のいら立ちを、ヒロインである京子ちゃん(前田敦子)は、ひろしの母ちゃんとの会話の中でこう指摘する。 「子どもの頃から変わってないはずなんですけどね。でも大人になると、駄目なとこが目立っちゃうのかな」 そう、ひろしは変わっていない。子どものままでいただけだ。変わってしまったのは周りの環境である。このことに対してのひろしの、心の奥底にあるであろういら立ちが『ど根性ガエル』というドラマを特殊なものにしている。 第3話では、ここに至るまでのゴリライモの成長と変化が明かされる。かつては親の商売であるパン屋という商売をバカにしていたが、今は改心して、恩返しのために日本一のパン屋を作ろうとしている。仕事も挨拶もちゃんとしていて、従業員思いでもあり、すっかり大人だ。ひろしが変わらずにいる間に、ゴリライモはいつの間にか成長と進化を遂げていたのだ。 通常のドラマであれば、このゴリライモの成長と変化をきっかけとして、主人公が変わることを決意する。実際、ひろしはその夜、自宅で粘土を使い、パンを作る練習をする。この際、ピョン吉(声:満島ひかり)が力を貸そうかと提案するのだが、ひろしはそれは反則だと言い、自分の力だけで変わろうとしているのだ。そして練習のかいあって、翌日の仕事はうまくいき、評価もされる。 いい感じじゃないか。これでこそ、ドラマというやつだ。しかし『ど根性ガエル』が特殊なのは、ここにカタルシスを置かないという点にある。同僚に褒められたひろしは、喜ぶ顔ひとつ見せずに「俺は、なんのために頑張ってんだ?」と自問するのだった。実に、めんどくさい主人公である。 これは冒頭にも書いた通り、ひろしがこれまでの過去と現状に十分満足しているからというのもあるが、もうひとつの個性として、一般的な常識をそのまま受け入れずに自分で導いた答えしか信用しないというキャラクターにも依る。つまりひろしは、子どもなのだ。大人ならこうするべき、という考え方が通用しない。 ピョン吉がこっそりセッティングした就職祝いの席でも、ひろしはいら立ちを隠さない。寄せ書きに書かれた「頑張れ」「おめでとう」という文字を見て心底嫌そうな顔をする。「そんなに素晴らしいかね、働くってのは」と身もフタもないことを言い、ピョン吉ともケンカになる。ここにはひろしのピョン吉に対する、勝手に大人になりやがって、という怒りもあるだろう。 ひろしは子どもである。年齢を重ねたら働くべきだとか、労働は無条件で価値のあるものである、といった一般常識を信じない。ゴリライモの言葉には心を打たれたとしても、それはゴリライモ自身が導いた答えであり、ひろしの答えではない。 そしてひろしは、自分の職場にピョン吉を連れていくという選択をする。『ど根性ガエル』第3話におけるこの流れは、一般的なテレビドラマとはまるっきり逆だ。普通であれば、ピョン吉から離れて独りで頑張るひろし、という展開がカタルシスを呼ぶわけだが、『ど根性ガエル』はそれが逆転している。それはひろしが「このまんま平穏無事に暮らしていくこと。母ちゃんとピョン吉といつまでもよ」と語った以上、ほかのドラマとは逆転していたとしても『ど根性ガエル』にとっては必然でもある。ひろしはめんどくさい主人公なのであり、だからこそ彼が導き出す答えは、特殊なものとなる。 だが、『ど根性ガエル』という作品に全体として流れる切なさは、まさにこの部分にある。ピョン吉の死と別れは第1話から想起されていて、ひろしの「このまんま平穏無事に暮らしていくこと」という願いはおそらくかなうことはない。そしてそのことを、いまだひろしは知らないのだ。ピョン吉は働いているひろしを励まして「楽しいんだよ。母ちゃん、オイラ楽しい」と涙を流す。その涙の本当の意味を、我々視聴者は知っている。だからこそ『ど根性ガエル』は作り物の感動ではなく、リアルに胸に迫るものとして、見る者の心を打つのだ。 ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa『ど根性ガエル』(日本テレビ)
ドラマの登場人物が“自立”するとはどういうことか?『ど根性ガエル』第2話
今クールのドラマの中から、注目の作品を1本ピックアップし、毎週追っていく新コーナー。 ドラマ『ど根性ガエル』の第2話は、主人公・ひろし(松山ケンイチ)の朝食の場面から始まる。前回威勢のいいことを言っていたにもかかわらず、相変わらずの無気力ぶりを発揮し、ダラダラと無駄飯を食べようとするひろしに、母ちゃん(薬師丸ひろ子)は説教。朝食を食べさせてもらえないことに怒ったひろしは、家を出てしまう。 ひろし、30歳である。さすがに母親が朝食を食べさせてくれないからといって、家出するような年齢じゃないだろう。もうちょっとしっかりしたらどうなんだ。視聴者のそんな声を代弁するように、道ですれ違ったヒロイン・京子ちゃん(前田敦子)はひろしを叱る。 「あんたの年で『家出』って言わないでしょうが」 「(それは『家出』ではなく)自立」 この場面はひろしのダメさを笑うシーンでもあるが、同時にこの第2話のテーマの核心も突いている。『ど根性ガエル』の第2話とは、主人公・ひろしが“自立”を決意する物語だ。 それでは、“自立”とはなんだろうか? 少なくともドラマという物語においては、他者や環境による要請からではなく、あくまでも自らの意思で行動を決めるというのが“自立”だ。最終的に、この第2話でひろしは終世のライバルであるゴリライモが経営するパン屋で働くことを決意するのだが、そこまでの描き方を非常に丁寧にやってくれるのが『ど根性ガエル』である。 先述した京子ちゃんとの会話の中で、ひろしは「働いたら結婚してくれんのか!?」と問いかける。ひろしの目的は、京子ちゃんとの結婚だ。そしてこういった条件がそろっている以上、ひろしを早く働かせたくなるのが制作者の心情だろう。この会話をきっかけとして、早々にひろしがゴリライモ(新井浩文)のパン屋で働くことを決める、という展開も十分あり得たはずだ。 だが、『ど根性ガエル』はそうしない。もし、ここでひろしが働くことを決めてしまえば、その動機はひろし自身のものではない。京子ちゃんとの結婚のために働く、というのは、あくまでも他者からの要請である。それでは、ひろしは“自立”することができないのだ。ひろしの行動や決意は、ひろし自身が見つけたものでなければ、本当の“自立”にはならない。 そこでひろしは、ゴリライモの移動販売車を拝借して、旅に出る。ここで旅の目的は、特に明かされない。最終的には、朝食の場面を伏線として、「うまい米を食べたかったから」という理由が明らかになるのだが、その目的はむしろ後付けに近い。ひろし自身、自分の行動や決意がどんなものになるのかがわかっていないのだから、ただ彼は車を走らせる。着いたのは、福島県の田んぼであった。 そこでひろしは農家を営む老夫婦と出会い、農作業の手伝いをすることになる。米という「日常」の象徴に、手間ひまがかかっていることに、ひそかに感銘を受けるひろし。またこの場面で農家の老夫婦からは、米だけでなくパンだってそうじゃないか、というサジェスチョンを受ける。ここでひろしは「日常」の意味に気付くのだ。直接は描かれていないが、この老夫婦によるパンについての語りがあるからこそ、最終的にひろしがライバルのゴリライモの下で働くことを決意するという展開が自然なものとなる。こうして、ひろしは“自立”する。それは、こんなセリフで表現されている。 「根性出すってことは、かっこ悪いことをちゃんとやるってことなのかもな」 かっこ悪いことというのは、つまり「日常」にほかならない。「日常」をちゃんと生きるということが、ひろし自身が見つけた動機であり、その動機を自分自身で見つけたからこそ、ひろしはこのとき“自立”したのだといえる。 そして『ど根性ガエル』は、その大原則として「日常」の意味を描く作品である。主人公のひろしだけではない。ひろしが旅に出たために、主要登場人物のほぼ全員が、ゴリライモの工場に泊まり込むことになる。面倒なことだ。しかし、京子ちゃんのおばあちゃん(白石加代子)は、この状況に際して「なんだか楽しそう」と口にする。そして彼らは、寿司屋の梅さん(光石研)が握った寿司をみんなで食べるのだが、その光景は確かに楽しそうなのだ。 我々が住む「日常」は楽しいことばかりではない。面倒なこと、しんどい場面だってたくさんある。それでも「なんだか楽しそう」と口にできるのが、人間のしぶとさだ。言ってみれば、それがすなわちど根性というものでもあるだろう。常識やルールに縛られたり、誰かの幸せをうらやむのではなく、今ここにある「日常」を楽しめるということ。『ど根性ガエル』は、軽いタッチでその真理を描く。むしろ軽いタッチだからこそ、その真理は視聴者の胸に素直に届くのだ。 また、この第2話では、そういった真理の対比として、ゴリライモが配置されている点も素晴らしい。ゴリライモはひろしをバカにしながらもうらやんで「お前(ひろし)に勝つのが好きなんだよ、俺は」や「なんで俺はあいつ(ひろし)に勝てねえのかなあ」と口にする。経営者として成功を収めているゴリライモだが、ひろしという他者に勝つということを大目標としている以上、彼もまたある意味で“自立”できてはいないのだった。 第3話では、ゴリライモが懸命に働く理由が明らかになるようだ。彼がどのようにして、ひろしという呪縛から逃れて“自立”することができるのか。ただの悪役でなく、愛すべき男だからこそ、興味は尽きない。またひとつ、『ど根性ガエル』を見逃せない理由が増えてしまった。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa『ど根性ガエル』日本テレビ
『ど根性ガエル』原作モノの連続ドラマが、第1話で描くべきこととは
今クールのドラマの中から、注目の作品を1本ピックアップし、毎週追っていく新コーナー。 言うまでもないことだが、テレビドラマには2種類ある。すでに小説やマンガなどで原作が存在しているものと、そうではないオリジナル作品だ。昨今のテレビドラマでは前者が優勢であり、2015年7月クール作品でも『花咲舞が黙ってない』『デスノート』『婚活刑事』(日本テレビ系)や『エイジハラスメント』(テレビ朝日系)などなど、原作のドラマ化作品は数多い。 そして、日本テレビの土曜夜9時枠でスタートした『ど根性ガエル』もその一つだ。オリジナル作品ではなく、原作をドラマ化するメリットはいくつか存在する。すでに作品としての面白さがある程度保証されていることや、それゆえに企画が通りやすいということ、あるいは放送前からの話題性というメリットも大きいだろう。だがその分、デメリットもあり、特に原作のファンが多い場合は、そのドラマの内容次第では多くの否定的意見が寄せられることになる。 それでは、本作『ど根性ガエル』はテレビドラマ化に当たって、原作をうまく料理することに成功しているのかどうか? 結論からいえば、完全に成功している。プロデューサーの河野英裕と脚本家の岡田恵和は、2013年の『泣くな、はらちゃん』(日本テレビ系)でファンタジーの世界から人間ドラマを描いた名コンビ。さらに、主演の松山ケンイチとは09年の『銭ゲバ』(同)で、1970年に描かれたジョージ秋山作品を見事に現代ドラマへと昇華させた。そして『ど根性ガエル』はこの系譜にありながら、さらにドラマとしての進化を遂げた作品になるだろう。 その理由は、7月11日に放送された第1話ですでに明らかになっている。そもそも、原作モノの連続ドラマがその第1話で描くべきことは何か? 最も重要なのは、以下の2点だといえる。 (1)原作のどの部分をドラマの根底に置くのか? (2)原作をドラマ化するに当たって変化している点はどこか? 原作をドラマ化するということは、当然ジャンルを越えることになる。小説やマンガで描かれたことをそのまま実写のドラマにするというのは不可能であるし、またそれではドラマにする意味がない。原作がいかに面白いものだったとしても、テレビドラマならではのプラスαがなければ、わざわざドラマにしなくてもいいのだから。 そこで必要となるのが、上記の(1)と(2)だ。これは第1話から最終話まで通底するものではあるが、第1話においてそれが視聴者に示される必要がある。それが示されることによって、視聴者は次回へ、あるいは最終話へ向けて、見たいという欲望をかき立てられるのだ。 『ど根性ガエル』では、第1話の冒頭で(1)が示される。橋の上で釣りをしている主人公・ひろし。原作とは違って、すでに30歳である。そこで、風にあおられた子どもの帽子が川に落ちてしまう。ピョン吉の勝手な行動により、川の中に飛び込むことになるひろしは、溺れながらも帽子を手に取り、子どもに返してあげるのだった。 この短いシークエンスで、『ど根性ガエル』における(1)はすでに示されている。このドラマ作品はつまり、原作の「バディもの」の要素を根底に置いている作品だ。ひろしは、自分の意志では川に落ちない。だが、川に落ちてもピョン吉は自分の力では帽子を拾うことができない。どちらが欠けても成立しないひろしとピョン吉の「バディもの」であることがここで視聴者に示されている。 だから、この『ど根性ガエル』の主人公は、あくまでもひろし一人ではなく、ひろしとピョン吉の二人(正確には一人と一匹)である。「バディもの」の通例として、おそらくこれからはお互いに助け合いながらそれぞれが成長していく姿が描かれるはずだ。このようにして、このドラマはこういうお話だというのを真っ先に描くというのが、テレビドラマの作法である。ただ単純に、原作をなぞるような場面を描くのではない。あくまでも、テレビドラマとしての作り手の矜持がここにはある。 さらに『ど根性ガエル』は、(2)をも第1話で示す。原作はあくまでも変わらない日常生活を切り取ったギャグマンガなのだが、それをそのままテレビドラマにするわけではない。これは実写のテレビドラマだ。そこには物語が必要となる。だから、原作にはなかった要素を入れなくてはならない。 それが、ピョン吉との別れの想起だ。第1話の中盤で、ピョン吉がすでにシャツから剥がれかけていることが明らかになる。視聴者以外、ひろしの母親だけがそれを知っているという設定にすることでドラマを重層化・多面化しながら、このドラマでは最終的にピョン吉との別れが描かれることを想起させる。これは最終回が決まっているテレビドラマならではの要素であり、かつ、それは絶対に描かれなくてはならない。永遠に続く平和な日常は、マンガではあり得るかもしれないが、テレビドラマではそうはいかないからだ。 ひろしの母親は、こんなセリフを口にする。 「今日あるものがね、明日もあさっても、そのままずーっと先も、変わらずにあると思ったら大間違いなんだよ!」 このセリフこそが『ど根性ガエル』のテーマであり、この作品が視聴者に伝えるべきことだ。このドラマは、単純にファンタジーを描く作品ではない。『銭ゲバ』や『泣くな、はらちゃん』がそうであったように、ファンタジーの世界に視点を起きながら、我々の生きる世界を描く作品になるだろう。 エンディングでは、すでにひろしのシャツにはピョン吉がいない。それは、最終回までにどう描かれていくのか? ドラマ『ど根性ガエル』は真っすぐな「バディもの」であり、それでいて別れがすぐそばにある作品である。原作をただドラマにしてみました、という作品ではない。少なくともこの第1話は、一つとして非の打ちどころがない、完璧な始まりを成し遂げているといっていいだろう。 (文=相沢直) ●あいざわ・すなお 1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。 Twitterアカウントは @aizawaaa『ど根性ガエル』日本テレビ
“ルーガちゃん”小出由華結婚の裏で……ウゴウゴくんの気になる現在
『ウゴウゴルーガ』(フジテレビ系)のルーガちゃん役で知られる女優の小出由華の結婚が話題となっている。相手はブラッド・ピット似のイケメンデンマーク人であるという。小出は、2012年よりデンマークに留学していた。 『ウゴウゴルーガ』は90年代初頭に人気を博した子ども向け番組。ウゴウゴくんとルーガちゃんの子役以外は、オールCGのスタジオセットとキャラクターで構成され、シュールくん、トマトちゃん、ミカンせいじん、プリプリはかせなど多くの名物キャラクターを生み出した。 また、岡崎京子、小山田圭吾、ピエール瀧、スチャダラパー、オリジナル・ラブの田島貴男など、サブカルチャー系のアーティストが多く出演していたことでも知られる。 視聴者に強烈な印象を残しながらも『ウゴウゴルーガ』の放送期間は1992年10月から94年の3月までのわずか1年半しかない。「番組を始めるときは正直、1年持てばいいかなと思っていた。全力で走り切ろうと思っていた。とにかく新しいものをやるんだという思いだけだった」と、2007年発売の『ウゴウゴルーガおきらくごくらく15年!不完全復刻DVD-BOX』(メディアファクトリー)のライナーノーツでスタッフが回想している通り、時代を駆け抜けた番組だった。 ルーガちゃん結婚で気になるのが、相方だったウゴウゴくんの現在だろう。写真集やDVD発売のほか、ドラマや舞台出演などマルチな活動を行っていたルーガちゃんに対し、ウゴウゴくんはその後の活躍を見ない。それもそのはず、彼は番組終了後に芸能界を引退している。 前出のDVD-BOX発売を受け、放送された特番では、当時22歳のウゴウゴくんは「自分探しの旅をしている」と紹介されていた。高校卒業後、放送制作の専門学校へ進学するも、業界の道に進むことはなかったようだ。「今は特にやりたいことがない」と述べているウゴウゴくんは、いわゆるニートであった。特番の最後では、「一歩を踏みだそうと思う」と宣言していたが……。 ウゴウゴくんとルーガちゃんは、同学年のタメ年。現在、30歳となった彼が何をしているのか気になるところだ。小出由華オフィシャルブログより









