お笑いの世界では、東京と大阪の間に深い溝がある。大阪には関西固有のお笑い文化というものがあり、ナニワ芸人たちが独自の世界を築いてきた。そんな風土で育った関西の芸人が東京に出てくるときには、大なり小なり芸風を変えることを余儀なくされる。いわば、東京と大阪では周波数が違う。チューニングを間違えると、東京に足場を築くことができない。 お笑い東海道の難所である箱根の山を越えるとき、関西芸人は肩の力を抜いて「全国ネットのテレビで勝負をする」という覚悟を決めなければならない。 関西のテレビ業界は「大いなる内輪」である。テレビを見ている視聴者もテレビに出ている芸人やタレントも、同じ文化と価値観を共有しているから、タブーを気にせずのびのびと話ができる。 えげつない話や下世話な話が平気で飛び交う街の飲み会の延長線上に、トーク番組がある。毒も下品も下世話も温かく包み込んでくれる。それが関西のテレビだ。 でも、東京のテレビではそうはいかない。全国ネットのテレビはみんなのもの。さまざまな年齢と文化背景の視聴者が、テレビという交差点で交わる。そこでは、芸人は多数派に通じる笑いを提供しなければいけない。 「東京がナンボのもんじゃい!」 「東京モンには負けへんで!」 今どきこんな薄っぺらい考えの関西人はいないのかもしれないが、例えばこれに近い心構えで上京してくる関西芸人がいたとしたら、多くの場合、彼らは手痛いしっぺ返しを受けることになる。東京への過剰な対抗意識は、東京への劣等感の裏返しでしかないからだ。 そんな状況の中で最近、1人の宣教師がスルリと箱根の門をくぐった。「吉本新喜劇を東京に布教したい」という名目で、ちゃっかり東京行きの切符をつかんだ男。彼こそが今をときめくミスター座長、小籔千豊である。 小籔は『人志松本のすべらない話』(フジテレビ系)への出演をきっかけに、全国ネットへ進出。現在では、レギュラー番組を複数抱える売れっ子となっている。芸人としての彼の売りは、フリートーク、MC、いじり、例えなど、すべてを器用にこなす圧倒的な話術。しゃべりの基礎体力の高さが、彼の大きなアドバンテージになっている。 だが、それだけではない。彼の最大の魅力は、独自のひねくれたクールな視点だ。「ひねくれ」と「クール」は普通なら両立しないもの。ひねくれている人は冷静になれないし、クールな人はひねくれたりしない。ひねくれた精神を持ちながら、それをクールに表現できるのが小籔のすごさだ。 例えば、「一般人なのにプロの芸人のまねごとをして調子に乗ってはしゃいでいるやつがいた」という話をするとき、小籔は彼のことを「だんじりの上に乗って踊ってるやつ」と表現する。その例えを何度も繰り返して、冷ややかな目線で彼の言動を描写していく。淡々とした語り口で、偏見と独断を織り交ぜながら話を進めて、じわじわと笑いを誘う。独断を論理で補強して、激情を静かに語る。こんなトークができる芸人は、ほかにいない。 そこには、嫌われることを覚悟しながらも己を解き放つ捨て身の力強さ、時には相手を傷つけることもいとわない芯の強さがある。それができるのは、彼が大阪で伝統ある吉本新喜劇の座長を務めているからだろう。 座長という確固たるポジションを得ている小籔は、東京で安全策を採る必要がない。だからこそ、万人に伝わるかどうか分からない自分の芸風を、堂々と貫き通すことができる。それが、全国区の視聴者には新鮮な驚きと感動をもたらしたのだ。 ……とこれだけ語ってみても、小籔という芸人の笑いの本質を語り尽くしたとは思えない。語っても語っても、まだ裏がある、と思わせる底知れなさも彼の魅力である。 肉が食べられないベジタリアンとしても知られる小籔。実は彼自身がつかみどころのない「食えない男」でもある。小籔が本当に布教したいのは、吉本新喜劇ではなく、関西流の「えげつなさ」そのものなのかもしれない。 (文=お笑い評論家・ラリー遠田)「プリン」(ネギヤキ)
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キンタロー。ブレイクのワケ 世間が抱く「AKBへの違和感」を体現した“真正面のものまね”

キンタロー。オフィシャルブログ「キンタロー。の人生はキンキンキラキラや~」
ダウンタウン浜田雅功が成し遂げた、「ツッコミの地位向上」という大偉業

『クイック・ジャパン 104』(太田出版)
1月3日、ダウンタウンの浜田雅功と、彼の息子でミュージシャンのハマ・オカモトがラジオ番組で初めての親子共演を果たした。ロックバンド・OKAMOTO’Sのベーシストで浜田の実子であるハマ・オカモトが、自身がパーソナリティーを務める『RADIPEDIA』(J-WAVE)のゲストとして父親である浜田を招いたことから“世紀の親子対談”が実現。実の親子らしい親しみにあふれたトークが展開された。それぞれが普段見せていない一面を明かした貴重な番組として、お笑いファン、音楽ファンの間でも大反響を巻き起こした。
昨年、結成30周年を迎えたダウンタウン。そのツッコミ担当である浜田の芸人としての功績については、今さら語るまでもないだろう。89年に東京進出して以来、ダウンタウンの一員として、あるいは司会者として、テレビの第一線をひた走り、数々の伝説を築いてきた。
ただ、そんな彼は、雑誌などのインタビュー取材でも自分についてあまり露骨に語りたがらない。自分のことはごく控えめに語るのみで、どちらかといえば相方である松本人志がいかに面白くて偉大な芸人であるかということを熱心に語り、それを生かすのが自分の仕事である、と繰り返すばかり。ただ、ここ数十年のお笑いの歴史をひも解いてみれば、ボケのスペシャリストとしての松本とは別に、浜田には浜田なりの歴史的意義というものがあったといえる。
浜田雅功の歴史的な意義――。それは、「ツッコミ」という概念を世の中に広めて、ツッコミの地位を向上させたことだ。もちろん、ダウンタウンの登場以前にも、漫才における「ボケ」と「ツッコミ」というものは存在していた。ただ、それがお笑いの専門用語から日常的な用語に変わり、その積極的な意味まで認められるようになったのは、間違いなく浜田の存在があってこそだろう。
例えば、80年頃の漫才ブームの時代に活躍した当時の若手漫才師の中では、ボケ主導型のコンビが多かった。ビートたけし、島田紳助、島田洋七など、才能を発揮してその後もテレビで長く活躍したのは、いずれもボケ担当のほうだった。彼らの相方でツッコミを担当した芸人たちは、ボケの話にただうなずくばかり。当時の人気番組『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)では、そんな地味で目立たないツッコミ担当の者たちを集めた「うなずきトリオ」というユニットまで結成されたほどだ。
ボケは残るが、ツッコミは消える。ダウンタウンの登場以前、ツッコミは日陰の存在だった。どうしても消えたくなかった浜田は、生き残りを賭けてツッコミの腕を磨いた。そして、東京に進出してからは、ツッコミという役割を背負ったままバラエティ番組で戦う、という決意をした。共演する大物芸能人たちを向こうに回して、彼らをボケ扱いして積極的にツッコミを放っていったのだ。これは革命的なことだった。
もちろん、共演者をイジるというのは浜田以前にもビートたけし、明石家さんま、島田紳助らもやっていたことである。ただ、彼らが主に行っていたのは、イジりそのもので笑いを生む、ボケ寄りのイジりだった。
浜田はあくまでもツッコミという役割にとどまったままで、共演者を果敢に攻め立てた。そして、それまでほかの芸人が手を出せなかったような領域にも、ズケズケと踏み込んでいった。『ダウンタウンDX』(日本テレビ系)では菅原文太、中尾彬、江守徹といった大物俳優にもツッコミを放ち、『HEY!HEY!HEY!』(フジテレビ系)では堂々と若手ミュージシャンの頭をはたいた。それは、死ぬ気で売るケンカだった。
浜田はタブーを破り、彼らをツッコミのターゲットとして矢面に立たせて、番組を盛り上げることに成功した。こうしてテレビの中でツッコミにも存在意義があるということを示したのだ。一か八かの戦いを制して、実力が認められ、浜田は史上初のツッコミ型司会者となった。
これ以降、ツッコミの地位は飛躍的に高まり、世間でもツッコミというものが評価されるようになった。そして、その後はバリエーション豊かなツッコミ芸人が続々とテレビで人気を得るようになった。
浜田雅功は、ツッコミ一筋の笑いの王様。松本という笑いの神を戴く王国を司る、血気盛んなお笑い界の帝王だ。
(文=お笑い評論家・ラリー遠田)
COWCOW 板の上で鍛え上げられた“スベリ知らず”の「間合いと顔芸」

『COWCOW あたりまえ体操』よしもと
R&C
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COWCOW 板の上で鍛え上げられた“スベリ知らず”の「間合いと顔芸」

『COWCOW あたりまえ体操』よしもと
R&C
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「健康美人」「意志の強い女」はガセ!? “元祖トレンディ女優”鈴木保奈美は“お騒がせ女”だった?

『東京ラブストーリー DVD BOX 』
(フジテレビ)
芸能取材歴30年以上、タブー知らずのベテランジャーナリストが、縦横無尽に話題の芸能トピックの「裏側」を語り尽くす!
とんねるずの石橋貴明の妻で、女優の鈴木保奈美が、9月30日に放送されるTBS系の特別企画ドラマ『リセット~本当のしあわせの見つけ方~』で14年ぶりの民放ドラマ主演を果たすことが話題になっている。この間、保奈美に関する情報がほとんどなかったこともあり、彼女については「健康的な美人」「意志の強い女」などというようなポジティブなイメージを抱いている人がいるかもしれないが、そもそもは相当な“お騒がせ女”だった。
大手芸能プロである「ホリプロ」に所属していた保奈美は、フジテレビのトレンディドラマ『東京ラブストーリー』の主演に大抜擢されて一躍脚光を浴びたが、その一方で、今年5月にフジテレビ常務に昇格した、当時番組プロデューサーだった大多亮氏と“不倫”のウワサが立った。このウワサは根も葉もないものではなかったようで、売り出し中の女優に手を出されたことにホリプロが激怒。フジの上層部に抗議する一方、メディアに対しては、大多氏と共に必死に否定した。しかし、大多氏が公衆電話に保奈美とのプライベートのツーショット写真が挟まった手帳を忘れてしまうという大失態を犯したのだ。
その手帳が、どういう経路かわからないが、女性誌「微笑」(祥伝社/すでに休刊)編集部の手に渡り、不倫の事実は確定的になったが、手帳も写真も大多氏の私物ということもあり、同誌はその動かぬ証拠を表に出すことはなかった。
その直後から、保奈美は『東京ラブストーリー』で共演した俳優の江口洋介との熱愛が発覚。筆者をはじめ、大多氏との不倫を取材していたマスコミ関係者の間では、“不倫スキャンダル”を回避するために江口が身代わりになった、というのが一致した見解だった。というのも、江口は大多氏によって“トレンディ俳優”として売り出してもらったという恩義があり、恩人を守るために一肌脱いだのではないかと思えたのだ。
結局、保奈美は離婚する気がない大多氏をあきらめて、94年にF1解説者の川井一仁氏と結婚するが、いくら取材しても結婚生活の実態が見えてこない。“偽装結婚”のウワサも流れたほどだが、案の定、3年後に離婚。その後、保奈美は川井氏の友人だったとんねるずの石橋貴明と“電撃でちきゃった婚”を発表したが、周囲からは祝福されるどころか、大ひんしゅくを買ってしまった。
なぜなら、保奈美は翌年1月から放送されるNHK大河ドラマ『元禄繚乱』の収録中だったからだ。「女優としての自覚が足りない」と事務所の先輩の和田アキ子にもバッシングを受けて、大河終了後に芸能界から消えた。休業扱いではあったが、事実上の芸能界追放といっても過言ではない状況だったのだ。
石橋との間には3人の女子が生まれて、保奈美は育児に専念した。筆者は偶然、ハワイのマウイ島のホテルで、保奈美と石橋が子どもを連れているところを目撃したことがある。後輩タレントには偉そうにしている石橋が、保奈美の前では頭が上がらず、保奈美に言われるがまま子どもの面倒を一人でみていた。保奈美の尻に敷かれた石橋のだらしなさもさることながら、“女って、子どもを産むと強くなるんだ”とつくづく感じたものだ。
子育てがひと段落した保奈美は、石橋の事務所「アライバル」に所属。昨年の大河ドラマ『江』で女優復帰。そして、今年の秋にはNHKよりギャラが数段高い民放のドラマに14年ぶりに出演することになった。
ここ数年、レギュラー番組が増えない石橋が、家庭内でますます肩身が狭くなるのではと老婆心ながら危惧する次第だ。
(文=本多圭)
「もう一度、本当のお笑いブームを」島田洋七にオスカー移籍で巡ってきた“最後のチャンス”

『転起力。―人間「島田洋七」から
何を学ぶのか』
(創英社/三省堂書店)
芸能取材歴30年以上、タブー知らずのベテランジャーナリストが、縦横無尽に話題の芸能トピックの「裏側」を語り尽くす!
人気お笑いコンビの元「B&B」の島田洋七が、8月1日付で“美の総合商社”として、6,000人以上のタレントやモデルを抱えるオスカープロモーションに移籍した。洋七の盟友であるビートたけしは「洋七のしゃべりはオイラより面白い」と日ごろから絶賛していただけに、洋七のオスカー移籍によるテレビ界への復帰は、閉塞感漂うお笑い界に新たな刺激を与えてくれるのではないか、と筆者は期待している。
「B&B」はデビュー当初、吉本興業所属だったが、退社して上京。日本テレビ系の『お笑いスター誕生!!』に出演し、洋七のパワーとスピード感あふれる漫才は審査員を圧倒して、初代グランドチャンピオンとなった。その後、ビートたけしの「ツービート」らと80年代に漫才ブームを興して、一世を風靡。ツービートとはライバル関係のようにも見えたが、たけしが起こした「フライデー事件」をきっかけに、2人の関係は親密になった。事件後の謹慎中、マスコミの目を逃れて沖縄の石垣島に潜伏していたたけしのもとを、洋七が頻繁に訪ねて励ましたことから、2人の関係はお互い“戦友”と呼ぶほど親密なものになったのだ。
その後、漫才ブームが去った後に、筆者はたけしと親しかったこともあり、洋七との接点も増え、個人的にも付き合うようになった。3人で銀座のクラブをハシゴして、お姉ちゃんを口説いたこともあったが、仕事が減少した洋七は試行錯誤を重ねた末に、吉本に出戻った。
その頃だったろう。筆者は以前から、洋七から自費出版していた自叙伝『佐賀のがばいばあちゃん』をどこかの出版社に売り込んでくれないかと相談されていたため、徳間書店で出せるようにプロデュースした。すると『がばいばあちゃん』はジワジワと火がつき、まさかの大ベストセラー。シリーズ累計600万部を超えて、出版不況に苦しむ徳間書店を救った。笑い話になるが、あの時は洋七を助けるつもりで見返り抜きに徳間を紹介したが、なぜちゃんと徳間とプロデュース印税契約しなかったのかと悔やまれてしょうがない(笑)。
『がばいばあちゃん』はその後、映画やドラマ、それに舞台化もされた。ところが、このヒットが吉本との関係に亀裂を生じさせた。「ほかの芸人の手前もあるから、たとえ1円でもいいから、吉本に本の印税を入れてくれないか」という吉本の要望を洋七が拒絶したことで関係が悪化し、07年8月に契約終了という形で吉本を去った。その後、洋七のもとにはテレビ制作会社から仕事のオファーが来るものの、途中で「企画内容が変わった」とキャンセルが相次ぎ、テレビの仕事がない状態が5年以上続いていた。要するに、洋七は吉本に干されていたのだ。
そんな厳しい状況が続いている時に、筆者が「オスカーに移籍したら」と勧めた。洋七は、初めは冗談だと思ったらしいが、オスカーの古賀誠一社長が快く会ってくれるということで面談、移籍が決定した。オスカーはお笑い部門を設立したものの、お世辞にも軌道に乗っているとはいえない。大ベテランの洋七を、お笑い部門の牽引役にしたかったということもあるだろう。
一方の洋七も「お笑いについては、今の若手には絶対負けないという自信を持っている」と豪語し、「本当のお笑いブームを復活させる」と意気込む。たけしが太鼓判を押すように、洋七のしゃべりにかなうお笑いタレントは、そうそう見当たらない。その洋七に最後のチャンスを与えてくれたオスカーの古賀社長の懐の深さに、改めて感謝したい。
(文=本多圭)
「もう一度、本当のお笑いブームを」島田洋七にオスカー移籍で巡ってきた“最後のチャンス”

『転起力。―人間「島田洋七」から
何を学ぶのか』
(創英社/三省堂書店)
芸能取材歴30年以上、タブー知らずのベテランジャーナリストが、縦横無尽に話題の芸能トピックの「裏側」を語り尽くす!
人気お笑いコンビの元「B&B」の島田洋七が、8月1日付で“美の総合商社”として、6,000人以上のタレントやモデルを抱えるオスカープロモーションに移籍した。洋七の盟友であるビートたけしは「洋七のしゃべりはオイラより面白い」と日ごろから絶賛していただけに、洋七のオスカー移籍によるテレビ界への復帰は、閉塞感漂うお笑い界に新たな刺激を与えてくれるのではないか、と筆者は期待している。
「B&B」はデビュー当初、吉本興業所属だったが、退社して上京。日本テレビ系の『お笑いスター誕生!!』に出演し、洋七のパワーとスピード感あふれる漫才は審査員を圧倒して、初代グランドチャンピオンとなった。その後、ビートたけしの「ツービート」らと80年代に漫才ブームを興して、一世を風靡。ツービートとはライバル関係のようにも見えたが、たけしが起こした「フライデー事件」をきっかけに、2人の関係は親密になった。事件後の謹慎中、マスコミの目を逃れて沖縄の石垣島に潜伏していたたけしのもとを、洋七が頻繁に訪ねて励ましたことから、2人の関係はお互い“戦友”と呼ぶほど親密なものになったのだ。
その後、漫才ブームが去った後に、筆者はたけしと親しかったこともあり、洋七との接点も増え、個人的にも付き合うようになった。3人で銀座のクラブをハシゴして、お姉ちゃんを口説いたこともあったが、仕事が減少した洋七は試行錯誤を重ねた末に、吉本に出戻った。
その頃だったろう。筆者は以前から、洋七から自費出版していた自叙伝『佐賀のがばいばあちゃん』をどこかの出版社に売り込んでくれないかと相談されていたため、徳間書店で出せるようにプロデュースした。すると『がばいばあちゃん』はジワジワと火がつき、まさかの大ベストセラー。シリーズ累計600万部を超えて、出版不況に苦しむ徳間書店を救った。笑い話になるが、あの時は洋七を助けるつもりで見返り抜きに徳間を紹介したが、なぜちゃんと徳間とプロデュース印税契約しなかったのかと悔やまれてしょうがない(笑)。
『がばいばあちゃん』はその後、映画やドラマ、それに舞台化もされた。ところが、このヒットが吉本との関係に亀裂を生じさせた。「ほかの芸人の手前もあるから、たとえ1円でもいいから、吉本に本の印税を入れてくれないか」という吉本の要望を洋七が拒絶したことで関係が悪化し、07年8月に契約終了という形で吉本を去った。その後、洋七のもとにはテレビ制作会社から仕事のオファーが来るものの、途中で「企画内容が変わった」とキャンセルが相次ぎ、テレビの仕事がない状態が5年以上続いていた。要するに、洋七は吉本に干されていたのだ。
そんな厳しい状況が続いている時に、筆者が「オスカーに移籍したら」と勧めた。洋七は、初めは冗談だと思ったらしいが、オスカーの古賀誠一社長が快く会ってくれるということで面談、移籍が決定した。オスカーはお笑い部門を設立したものの、お世辞にも軌道に乗っているとはいえない。大ベテランの洋七を、お笑い部門の牽引役にしたかったということもあるだろう。
一方の洋七も「お笑いについては、今の若手には絶対負けないという自信を持っている」と豪語し、「本当のお笑いブームを復活させる」と意気込む。たけしが太鼓判を押すように、洋七のしゃべりにかなうお笑いタレントは、そうそう見当たらない。その洋七に最後のチャンスを与えてくれたオスカーの古賀社長の懐の深さに、改めて感謝したい。
(文=本多圭)
ジャズ歌手デビューの八代亜紀 地元・熊本での“隠し子&暴力団騒動”恐怖の顛末

『ゴールデン☆ベスト』
(テイチクエンタテインメント)
芸能取材歴30年以上、タブー知らずのベテランジャーナリストが、縦横無尽に話題の芸能トピックの「裏側」を語り尽くす!
かつて“演歌の女王”と呼ばれた八代亜紀が、ジャズ歌手として、10月10日にユニバーサル・ミュージックからアルバムを発表するという。その公開レコーディングが7月11日に行われたが、八代については、忘れたくても忘れられない思い出がある。
八代は熊本県の中学を卒業後、上京。演歌歌手としてデビューする前は、銀座のクラブ歌手だった。その頃、後に日本レコード大賞の賞レースで“五八戦争”といわれてしのぎを削ることになる五木ひろしも、銀座のクラブで弾き語りをやっていた。
八代は1971年にデビュー。その後、「なみだ恋」や「愛の終着駅」「舟唄」と次々にヒット曲を飛ばして、スターの座に上り詰めた。その頃に、親しい芸能関係者から「八代には上京する前、熊本県八代市のキャバレーで歌っていた時に、地元の人間との間にできた隠し子がいた」という信じられない情報を得て、裏取りのために単身、八代市に取材に向かった。そこで、八代が歌っていたというキャバレーの外観写真を撮っていると、いきなり暴力団風の数人の男に囲まれ、組事務所に連れていかれたことがあった。
全員が見事な入れ墨。まるで東映のやくざ映画を見ているようだったが、事は深刻だった。「八代の“隠し子”がいるかどうか取材に来た」と話したら、筆者は3人の暴力団に囲まれて、廃墟となった工場に連れて行かれた。ビビりまくる筆者に、暴力団の一人は「廃工場では他組織からの攻撃に備えて、組員が特訓している」と説明をした。完全な威圧行為だったが、そこでは何もなかった。
その後、車は一路、水俣市に向かった。車中では両サイドから拳銃のようなものを突きつけられて生きた心地がしなかった。しかし、筆者が知人のある暴力団幹部の名前を挙げると態度は急変。水俣に着くと、キャバレーに連れて行かれ、なぜか御馳走になった。正直、とっとと退散したかったが、解放されたのは朝方の5時頃。その後は、緊張で宿では眠れず、早く東京に戻ろうとしたが、強風で東京便は欠航。とりあえず、逃げるように大阪便に乗り、ホッとした。
結局、隠し子は確認できなかった。というより、確認しようがなかった。だが、別ルートの情報もあり、八代の親類には、複数の暴力団関係者がいたという事実は掴めた。八代は、そうした一族、そして八代という町にとっては、かけがえのないスターであり、それゆえに、自分たちが守らねばならないという意識が、筆者を脅した男たちにはあったのだろう。
筆者は40年近く芸能関係の取材をしてきたが、あんな怖い取材は二度としたくない。しかし、八代の演歌は大好きだ。その八代がジャズのアルバムを発売するという。しかも、自信があるのか、公開レコーディングをした。これにはどうも、ユニバーサルと八代が所属する日本コロムビアの思惑があると思ったら、案の定、“事務所幹部解任騒動”の渦中にいる小林幸子に代わって、八代をNHK『紅白歌合戦』に推すという動きがあるようだ。
小林も所属するコロムビアは、騒動の影響を考慮し、6月に発売が予定されていた新曲「絆坂」の発売無期延期を決定した。ところが、新曲を7月中には発売しないと、今年の紅白出場条件をクリアすることができないと判断した小林は、騒動後初の会見を開いて「紅白に出たい、新曲も出したい」と訴えた。しかし、解任した所属事務所の元社長に、次々にそれまでの発言のウソをばらされて、さらに業界から信用をなくしてしまったことで、新曲発売は暗礁に乗り上げ、紅白は絶望的になっている。そこで、コロムビアとユニバーサルが白羽の矢を立てたのは、最近は三浦春馬とCMで共演するなど、タレント的な活動も目立つ八代だった。01年以来、紅白出場がない八代に、ジャズを歌わせるという企画性で紅白出場を狙っているのだ。
確かに、ヒットや新曲もない、衣装の奇抜性だけで紅白に立たせるくらいなら、八代にジャズを歌わせたほうが音楽番組としては筋が通る。NHK側はどんな判断を下すのか見ものだが、ジャズも歌っていた実力者・ちあきなおみが、芸能界から引退同然で消えた今、八代の復活に期待したい。
(文=本多圭)
ジャズ歌手デビューの八代亜紀 地元・熊本での“隠し子&暴力団騒動”恐怖の顛末

『ゴールデン☆ベスト』
(テイチクエンタテインメント)
芸能取材歴30年以上、タブー知らずのベテランジャーナリストが、縦横無尽に話題の芸能トピックの「裏側」を語り尽くす!
かつて“演歌の女王”と呼ばれた八代亜紀が、ジャズ歌手として、10月10日にユニバーサル・ミュージックからアルバムを発表するという。その公開レコーディングが7月11日に行われたが、八代については、忘れたくても忘れられない思い出がある。
八代は熊本県の中学を卒業後、上京。演歌歌手としてデビューする前は、銀座のクラブ歌手だった。その頃、後に日本レコード大賞の賞レースで“五八戦争”といわれてしのぎを削ることになる五木ひろしも、銀座のクラブで弾き語りをやっていた。
八代は1971年にデビュー。その後、「なみだ恋」や「愛の終着駅」「舟唄」と次々にヒット曲を飛ばして、スターの座に上り詰めた。その頃に、親しい芸能関係者から「八代には上京する前、熊本県八代市のキャバレーで歌っていた時に、地元の人間との間にできた隠し子がいた」という信じられない情報を得て、裏取りのために単身、八代市に取材に向かった。そこで、八代が歌っていたというキャバレーの外観写真を撮っていると、いきなり暴力団風の数人の男に囲まれ、組事務所に連れていかれたことがあった。
全員が見事な入れ墨。まるで東映のやくざ映画を見ているようだったが、事は深刻だった。「八代の“隠し子”がいるかどうか取材に来た」と話したら、筆者は3人の暴力団に囲まれて、廃墟となった工場に連れて行かれた。ビビりまくる筆者に、暴力団の一人は「廃工場では他組織からの攻撃に備えて、組員が特訓している」と説明をした。完全な威圧行為だったが、そこでは何もなかった。
その後、車は一路、水俣市に向かった。車中では両サイドから拳銃のようなものを突きつけられて生きた心地がしなかった。しかし、筆者が知人のある暴力団幹部の名前を挙げると態度は急変。水俣に着くと、キャバレーに連れて行かれ、なぜか御馳走になった。正直、とっとと退散したかったが、解放されたのは朝方の5時頃。その後は、緊張で宿では眠れず、早く東京に戻ろうとしたが、強風で東京便は欠航。とりあえず、逃げるように大阪便に乗り、ホッとした。
結局、隠し子は確認できなかった。というより、確認しようがなかった。だが、別ルートの情報もあり、八代の親類には、複数の暴力団関係者がいたという事実は掴めた。八代は、そうした一族、そして八代という町にとっては、かけがえのないスターであり、それゆえに、自分たちが守らねばならないという意識が、筆者を脅した男たちにはあったのだろう。
筆者は40年近く芸能関係の取材をしてきたが、あんな怖い取材は二度としたくない。しかし、八代の演歌は大好きだ。その八代がジャズのアルバムを発売するという。しかも、自信があるのか、公開レコーディングをした。これにはどうも、ユニバーサルと八代が所属する日本コロムビアの思惑があると思ったら、案の定、“事務所幹部解任騒動”の渦中にいる小林幸子に代わって、八代をNHK『紅白歌合戦』に推すという動きがあるようだ。
小林も所属するコロムビアは、騒動の影響を考慮し、6月に発売が予定されていた新曲「絆坂」の発売無期延期を決定した。ところが、新曲を7月中には発売しないと、今年の紅白出場条件をクリアすることができないと判断した小林は、騒動後初の会見を開いて「紅白に出たい、新曲も出したい」と訴えた。しかし、解任した所属事務所の元社長に、次々にそれまでの発言のウソをばらされて、さらに業界から信用をなくしてしまったことで、新曲発売は暗礁に乗り上げ、紅白は絶望的になっている。そこで、コロムビアとユニバーサルが白羽の矢を立てたのは、最近は三浦春馬とCMで共演するなど、タレント的な活動も目立つ八代だった。01年以来、紅白出場がない八代に、ジャズを歌わせるという企画性で紅白出場を狙っているのだ。
確かに、ヒットや新曲もない、衣装の奇抜性だけで紅白に立たせるくらいなら、八代にジャズを歌わせたほうが音楽番組としては筋が通る。NHK側はどんな判断を下すのか見ものだが、ジャズも歌っていた実力者・ちあきなおみが、芸能界から引退同然で消えた今、八代の復活に期待したい。
(文=本多圭)
