忽那汐里の“お忍び”インスタ画像で三軒茶屋に激震が走る? 剛力彩芽は女性騎手・藤田菜七子のブレークで再起を掴むか

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忽那汐里インスタグラム(@shioli_kutsuna_official)より。
 5日、女優の忽那汐里が自身のインスタグラムに、「SANCHA KISSATEN」と画像中央に文字を入れ、お忍びで三軒茶屋にある喫茶店に訪れた際の画像を投稿。これを見たファンからは「三茶のどこ? 今から行きます!」「まだ店にいる?」など、興奮の声が上がった。 「忽那といえば、かつては同じ事務所に所属する武井咲、剛力彩芽と共に“オスカー平成3人娘”としてゴリ押しされていたのですが、“10代でデビューした場合、25歳まで恋愛禁止”という事務所のルールを破り、13年に松田翔太との熱愛デートが発覚してしまい、失速。14年の後半頃には不自然な活動休止期間があり、ネット上では『極秘出産?』『引退』などといったウワサも流れました。しかし、去年から再び、精力的に女優業を開始すると、映画『黒衣の刺客』『海難1890』など、立て続けに、大作映画に出演。さらに、先月27日から公開された映画『女が眠る時』では、国際的な映画監督であるウェイン・ワン、主演のビートたけしらに囲まれ、堂々たる演技を披露。忽那はオーストラリア出身で英語も堪能ということもあり、ネット上では『オスカー初の海外へのゴリ押し要員』との声も上がるなど、国際派女優としての活躍を期待されているだけに、“三茶画像”が投稿された際には、生の忽那に会えるのでないかとファンが興奮したようです」(芸能関係者)  忽那が復活を遂げた一方、“オスカー平成3人娘”の中でも特に過剰なゴリ押しで、一時期はその姿を見ない日はないほど、さまざまなメディアに登場していた剛力が、最近では露出が減り、ネット上では「干された?」という声すらチラホラと出始めてしまっている。 「女優業・モデル業・歌手業と、マルチな才能を発揮し、ファンからも過労死を心配されてしまうほどの激務にさらされていた剛力ですが、あまりのゴリ押しぶりに世間は辟易し、ドラマの視聴率やCDの売り上げが芳しくなくなったことで、次第に露出は減っていきました。今年に入ってからは、地方発のWEBドラマ主演が2本続いたことから、ネット上では『もはや話題性のあるドラマや映画からはオファーがこなくなっているのでは?』と指摘する声も上がっています。そんな中、JRAから16年ぶりに誕生した女性騎手・藤田菜七子がにわかに注目を集め始めると、ネット上では『剛力に似てない?』『剛力を野暮ったくした感じ』などといった声が上がるように。藤田は、3日に地方競馬でデビューし、5日には中央競馬でもデビューを果たしたのですが、それと共に、競馬ファンのみならず、一般的な認知度も高まりつつあります。剛力ファンからは、藤田人気に便乗して、『JRAのCMオファーがくるかも?』といった期待の声が上がっているようです」(同)  デビュー戦ですでに数億円の経済効果をもたらしたといわれ、将来的には数十億、数百億円の経済効果も期待されている藤田人気だが、剛力もその恩恵にあずかり、再起を掴むことができるのだろうか。

爆笑問題・太田光が高市早苗に放った「お前の顔のほうが電波停止」発言は何も悪くない! 今回は妻・光代も応援

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TBSラジオ『JUNK 爆笑問題カーボーイ』公式サイトより
【本と雑誌のニュースサイトリテラより】 「お前の顔のほうが“電波停止”だよコノヤロー。お前の顔写せねえよバカヤロー。高市、コノヤロー! モザイクかけるぞ!」  爆笑問題の太田光が、そう高市早苗総務相を猛烈に批判したのは、3月8日深夜放送のTBSラジオ『爆笑問題カーボーイ』でのこと。言うまでもなく「電波停止」というのは、先日高市総務相が放送局に対して“電波を停止することもありうる”と恫喝発言をしたことを指しているが、放送後、メディアが太田のこの発言を取り上げると、またぞろネットでは太田に対する批判が続出した。 「酷いヘイトスピーチですね」「これは完全にアウトだろ。主義主張ではなく『顔』を言った時点で許される範囲を超えている」「ただの誹謗中傷」「刑法の侮辱罪にはなるわな」「てめぇのくそ不細工な顔は放送禁止コードだろ死ねよ」「この勘違い野郎は目障りでしかありませんね。太田死ね!って感じでしょうか!」  ちょうど一年ほど前、やはりラジオで「安倍っていうバカ野郎」と安倍首相を痛罵したときと同様、ネトウヨに絡まれて炎上したわけである。  だが、太田といえばこのところ、例の「安倍はバカ」発言の直後に首相主催「桜を見る会」に所属事務所代表を務める妻・光代氏と一緒に出席、腰砕けぶりをさらけ出したかと思えば、昨夏の安保法案を巡る反対デモに対しても「そのやり方は通用しないんじゃないかなと」などと発言。さらに、安保法制可決後には「僕は9条護憲派ですけど、憲法改正はうんと遠のいたと思ってるんです」というズレた持論を展開するなど、かなり“日和った”印象が強かった。  それが一転、今回は「高市!お前の顔が“電波停止”だコノヤロー」「モザイクかけるぞ!」という苛烈な批判を繰り出したのだ──。高市総務相の「電波停止」発言に対して、一貫して言論弾圧を進行させるものだと批判している本サイトですら言うのをはばかるぐらいのキビシイ非難だが、しかし、この太田の発言は、本質的には何一つ問題はない。ましてや、ネトウヨが攻撃するような「ヘイトスピーチ」「侮辱罪」にはまったく当てはまらないと言える。  そもそも、太田の発言は、高市総務相の容姿を貶したものではない。この発言は、番組の序盤、爆笑問題の二人が、ある種の“胡散臭さ”に定評があった往年のバラエティ特番「川口浩探検隊」シリーズの思い出について語り合っていたなかで、田中が「いいよねえ、ああいう番組」と言うと、太田が「今大変だろうなあ、あんなことやったら」と返して「電波停止されちゃうよ?」とボケたあとに続けられたもの。最初から高市総務相の容姿を悪しざまに言うのが目的ではなく“テレビ放送から自由がなくなった”という文脈で出てきたセリフだ。  太田の「お前のほうが“電波停止”だよ高市、モザイクかけるぞ!」という言葉は、ボケであると同時に、放送局に停波をチラつかせて自由な放送・報道をさせなくしようとする高市総務相発言に対する風刺、政治的な批判なわけで、この程度の発言が刑事上の罪に問われることも、民法上の不法行為にあたることもあり得ない。それは判例を見ても明らかだろう。  実際、月刊誌「噂の真相」(休刊)がかつて、森喜朗元首相の大学時代の売春検挙歴をスクープして「サメの脳ミソ」「ノミの心臓」と書いたことがあったが、これに対する森側が原告となって提訴した名誉毀損裁判で、東京地裁は、以下のように述べて森側の主張を退けた。 〈原告は政治家で、しかも内閣総理大臣である。その資質、能力、品格が政治的・社会的に厳しい批判に、時には揶揄にさらされることは避け難い立場にある。こうした立場を前提に本件雑誌を読む一般の読者も、風刺的表現として理解するにすぎないであろう。「サメの脳ミソ」などの表現をもって、直ちに原告の社会的評価を低下させるとするのは相当ではない。この程度の表現は受忍すべきだ。〉  ようするに、総理大臣など日本の政治に直結する立場にいる人物に対しては、「厳しい批判」や「揶揄」も「受忍すべき」という判断を明確に示しているのだ。  当然、今回の「高市の顔のほうが“電波停止”だろ」という発言に関しても、高市氏は電波等を管轄する総務省の長という重要閣僚であり、そして、太田は文脈上あきらかに「電波停止」という政治発言に対する批判をしているわけで、論評・風刺の範囲内と言える。何一つ問題がないどころか、高市「電波停止」発言の直接の被害者となりうるタレントたちがこの件について完全に口をつぐむなか、ストレートにこれを批判した太田は賞賛されてしかるべきだろう。  だいたい、太田は番組のなかで、たとえば仮に「不細工」だとか「厚化粧は見れたもんじゃない」などとは一言も発していない。むしろ、太田の発言は“政治的に公平中立を求めるなどというが、それなら民主主義国家の政治家とは思えない偏向しまくりのあなたがテレビに出るときにはモザイクをかけるべきでは?”というアイロニーと解釈するのが文脈上自然だ。逆に「顔を貶すヘイトスピーチだ!」などとわめいているネトウヨのほうこそ、高市氏について、極めて容姿差別的な観点を持っているように思うが、どうだろうか。  まあ、それはともかくとしても、安倍首相をはじめ、政権与党の政治家たちがたびたびテレビ番組に出演して討論したり持論を述べたりする一方で、報道番組で少しでも政治権力の政策などを批判すると「偏向だ!」と攻撃される昨今。その流れは爆笑問題が主戦場にするバラエティやお笑い番組にも波及しており、太田は昨年にもNHKの正月お笑い番組で“政治家ネタ”が事前にボツにされたことをラジオ番組で暴露、「テレビ局の自粛というのはあります」と発言していた。  この件はNHKからの圧力ではないかと話題になり、籾井勝人会長が直接否定する事態となったが、騒動後、なぜか爆笑問題は「言論統制なんてない」「ルール違反は俺ら」などと前言を翻してしまった。爆笑問題は、2006年に所属事務所へ右翼団体幹部が抗議に訪れて以降、太田の過激な“政治的発言”はかなり控えめになっていたが、その背景には、所属事務所代表である妻・光代氏による“芸風よりも事務所の存亡を優先”との意向が強く働いていると言われていた。  ところが、である。今回の「高市、お前の顔のほうが“電波停止”だよコノヤロー」発言では、意外なことに光代氏は、太田を叱責したり、代わりに謝罪するどころか、むしろ全面的に応援しているようなのだ。光代氏は今月10日、ツイッターで、太田を非難する一般ユーザーからの〈旦那さんの高市大臣に対する発言は問題ですよ。旦那というか社員の発言管理してください〉というツイートに対して、このように返答している。 〈わたしね、高市大臣を存じ上げておりません。見たことないから大臣さま。 ゴメンなさい。知らないの。〉 〈大臣って偉い方なの?大臣って?分からないわ。頭の良い方なら分かるんだけど(^ ^)〉  つまり、ネトウヨからの「太田の高市批判は問題!」なるいちゃもんをヒラリとかわしながら、暗に“「電波停止」などとほざく大臣はバカではないか”と批判しているのだ。この発言はネトウヨたちに火をつけ、案の定、〈旦那と揃ってヘイトスピーチとか夫婦揃って程度低くて草生える〉〈知らないなら文句言うなよカス〉〈お宅ら夫婦は朝鮮人?なんか大臣に恨みでもあるんですか?〉と、自身も集中砲火を浴びたが、しかし、光代氏は引き下がらず、続けてこうツイートしたのだ。 〈疲れたから。眠ります。偉い人なんて会いたくもないわ!〉 〈頑張っている人と会っていたいわ(^ ^)〉  これまで太田の政治的発言で、光代氏が関係各所に頭を下げてきたことをうかがわせるツイートだが、今回に限って言えば、「電波停止」というテレビ業界を死滅させるトンデモ発言に対して、爆笑問題と共闘していくという強い決意の表れなのかもしれない。  だとすれば、光代氏からの“GOサイン”が出た太田のこれからに俄然注目せざるを得ないが、いずれにせよ、「お前の顔が“電波停止”だコノヤロー」程度の皮肉が問題視される風潮は、確実に安倍政権による言論統制が行き渡りつつあることの証左だ。  何度でも繰り返すが、メディアに要求されるのは、公権力に対する徹底的な批判精神であり、それは、社会の歪さを笑いに転化させて表現するコメディアンの仕事でもある。権力者を笑いのネタにさえできなくなる時代の重たい空気を打破するためにも、爆笑問題と光代氏にはこの圧力に負けるな!と言っておきたい。 (小杉みすず)

窃盗、詐欺、未成年飲酒も?元ジャニーズJr.が陥った転落人生

【アガるニュースをお届け!デイリーニュースオンラインより】
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 老舗芸能雑誌『Myojo』(集英社・2月号)が発表した「恋人にしたいJr.大賞」で、岩橋玄樹(19)が3年連続で1位を獲得した。『Prince』メンバーとしての活動に加え、俳優デビューとなった2013年放送のドラマ『幽かな彼女』(フジテレビ系)にも香取慎吾(39)との共演相手に抜擢されるなど、早くから注目されていた存在ではあった。今年は舞台『ジャニーズ銀座』にも出演しており、飛躍の1年となりそうな岩橋玄樹。だが、先日はこんな“失態”を目撃されていた。
続きは【デイリーニュースオンライン】で読む
      
   
					

デヴィッド・ボウイ、妻への遺産は56億円

デヴィッド・ボウイの妻イマン・アブドゥルマジドは5000万ドル(約56億円)の遺産を受け取ることになるようだ。1月にがんで他界したボウイと24年間の結婚生活を送っていたイマンは、マンハッタンにあるマンションなどを含めたほとんどの物件を相続することになるという。また、2人の15歳の娘アレクサンドリアは25歳になった時に、そして前妻アンジー・ボウイとの息子であるダンカン・ジョーンズは間もなく、それぞれ2500万ドル(約28億円)ずつを相続するという。ほかにもボウイの長年のスタッフなどにも遺産の一部が相続されるという。 そんなボウイについて、元コラボレーターのイヴォ・ヴァン・ホーヴェはマイホームパパであるというボウイが生きるために必死に戦っていたと以前に明かしていた。「彼が本当に死にたくないんだなということを心から感じたよ。死なないための戦いではなく、生きるための戦いだったんだ」「そして彼にとって生きるということは本当の家族思いの人間であることだったんだよ。彼は家に帰って、娘と妻、家族といることが大好きだったんだ」

デヴィッド・ボウイ、妻への遺産は56億円

デヴィッド・ボウイの妻イマン・アブドゥルマジドは5000万ドル(約56億円)の遺産を受け取ることになるようだ。1月にがんで他界したボウイと24年間の結婚生活を送っていたイマンは、マンハッタンにあるマンションなどを含めたほとんどの物件を相続することになるという。また、2人の15歳の娘アレクサンドリアは25歳になった時に、そして前妻アンジー・ボウイとの息子であるダンカン・ジョーンズは間もなく、それぞれ2500万ドル(約28億円)ずつを相続するという。ほかにもボウイの長年のスタッフなどにも遺産の一部が相続されるという。 そんなボウイについて、元コラボレーターのイヴォ・ヴァン・ホーヴェはマイホームパパであるというボウイが生きるために必死に戦っていたと以前に明かしていた。「彼が本当に死にたくないんだなということを心から感じたよ。死なないための戦いではなく、生きるための戦いだったんだ」「そして彼にとって生きるということは本当の家族思いの人間であることだったんだよ。彼は家に帰って、娘と妻、家族といることが大好きだったんだ」

ニコラス・ケイジが『グランド・ジョー』で演じる、アメリカ南部の狂気

【リアルサウンドより】  目を血走らせ、異常なハイテンションの暴力的な演技をさせれば右に出る者がなく、また、下がった眉毛と子犬のような潤んだ瞳で母性本能をもくすぐる、相反する極端な二つの魅力を持つ稀有な俳優が、ニコラス・ケイジだ。  彼の代表作に、『リービング・ラスベガス』がある。ラスベガスで好きな酒を飲みまくって死んでいこうとする、仕事も家庭も失ったアルコール依存症の男の物語だ。ニコラス・ケイジの酩酊演技は、凄まじいリアリティと説得力を持ち、快楽と苦しみの狭間で破滅していく男の弱さと美しさを表現した。その儚い姿は、舞台となる虚飾に彩られたラスベガスという街に重なっていく。『リービング・ラスベガス』によって、アカデミー主演男優賞をはじめ、その年の主要な演技賞を軒並み獲得し、一躍、演技派俳優として名を馳せたニコラス・ケイジは、その後、意外にも多くのアクション映画や商業的な大作映画にも次々出演し、ハリウッドの顔になっていく。この過程で、彼の狂気の演技はコミカライズされていき、笑って楽しめる「狂気俳優」ニコラス・ケイジ像をも作り出した。  今回考察する『グランド・ジョー』は、『リービング・ラスベガス』を髣髴とさせる、ニコラス・ケイジがシリアスな狂気演技に回帰する作品のように見える。舞台となるのは、ラスベガスのようにきらびやかなイメージとは真逆の、秘境とも揶揄されるアメリカ深南部の貧困層の世界である。

告発されるアメリカ南部の「現実」

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(c)Joe Ransom, LLC

 ミシシッピ川を舞台にした、マーク・トウェインの「トム・ソーヤーの冒険」が描いたような、川や沼地、森林に恵まれた自然豊かな土地が広がっているというのが、アメリカ南部の代表的なイメージだ。また、コカ・コーラやペプシコーラ、ルートビアなど、アメリカの有名な清涼飲料水の多くが南部発祥であるという事実は、それらを必要とした南部が、高い気温でじめじめとした気候であることを物語っている。  ノースリーブの上着を着て、じめじめとした南部の農村で森林の伐採業に従事し、現場で労働者を指導監督している、『グランド・ジョー』の主人公、ジョーは、いわゆる典型的な「レッドネック」と呼ばれる南部の肉体労働者である。本作におけるジョー自身や周囲の人々の生活の描写で驚かされるのは、南部貧困層が直面している困窮の深刻さだ。職場の男たちは、酒場や売春宿でストレスを発散しながら、なんとか日々をやり過ごしていく。小林多喜二の「蟹工船」で描かれたような雰囲気で、これがアメリカの現在の風景なのかと思わされる。もちろん、近年の政策によって悪化した、経済的な格差拡大が影響しているだろう。ここでは、南部の懐古的な美しい風景を切り取っている余裕はない。  実際に森林を伐採していくシーンでは、彼らが木そのものを切り倒すのではなく、木に切れ込みを入れて、背中に担いだポリタンクに入った、農薬などを混ぜ込んだ液体を切り口に染み込ませているだけだということが分かってくる。何故、木に毒を盛るのかというと、材木会社が伐採できるように、故意に木を枯らす必要があるというのだ。  毒で木を枯らしていくという違法的な伐採は、アメリカ南部・フロリダ州で行われていたことが2012年に発覚している。本作で描写されたように、マチェーテ(主にメキシコ以南で使われる農林業用の刀)で木を傷つけ、毒を注ぎ込み枯らしていくという、伐採従事者による違法伐採の手口の告白を、経済誌が取り上げスキャンダルになっているのだ。本作は、そのような南部の現状の告発にもなっている。ジョーら労働者は、企業に利用されていることを知りながら、ただ生きるために、マチェーテを振るい続けるのである。

擬似的な親子関係が映し出す「南部」のイメージ

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 ある日、アルコール依存症の年老いた父親を持つ少年が、ジョーの職場を訪れ、仕事をさせて欲しいと頼み込んでくる。飲んだくれの親父が全く働かず、病気の母や妹を助けるために金が必要なのだ。少年は真面目に働き、せっせと木に毒を盛り続ける。ジョーは少年の仕事振りを認め、父親と一緒にここで働けばいいと提案するが、これが間違っていた。少年の父親は、本作がこれによって映画史に刻まれてもおかしくない程の、ろくでなしだった。酒のためなら家族を殴り、犯罪すら厭わないが、真面目に働くことだけは絶対にしないのである。現場をフラフラと歩いているだけで何もせず、それを咎められると怒りだしてトラブルを起こし、ティーネイジャーの息子の信用すら失わせるという信じ難いほどの非人間性を発揮し、観客を驚かせる。だが、父親のひどさはとどまるところを知らず、さらにエスカレートしていくのだった。  もちろん、ここまでひどい家庭環境は珍しいかもしれないが、貧しい家庭の子供達が十分な教育を受けられず、さらに社会の格差が固定化されていくという状況は、アメリカや日本を含め、多くの国々の社会的な課題となっている。ジョーは、そんな父親を持つ少年にシンパシーを抱き、彼らの間には、擬似的な親子関係が結ばれてゆく。アルコール依存症の老人と、ジョー、そして少年は、親子三代の擬似的な家族のようにも見える。
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 南北戦争時、南軍は北部人を「ヤンキー」、北軍は南部人を「レッドネック」と呼び、互いに罵倒し合った。「レッドネック」は、南部の日差しを浴びて首周りが赤くなった白人の貧しい労働者を指す。奴隷制を擁護したという立場から、南軍は戦争後も多くの批難を浴び、映画を含め、多くの創作物でも批判され続けてきた。南部では奴隷解放後も、人種差別が続き、ベストセラーにもなった書籍を映画化した『ヘルプ 心がつなぐストーリー』では、南部でもとくに保守的なミシシッピ州において、60年代になっても、露骨な白人、黒人間の、違法な隔離的差別があったことを告発している。また、1940年の映画『スワンプ・ウォーター』では、無実の罪を負った男が、ジョージア州の町の人々による人間狩りから逃れ、広大な湿原地帯で原始生活をするという、驚愕の物語であった。南部は文化が遅れた「未開の地」として、北部の州の人々から、ときに恐れられ、また嘲りの対象にもなってきた。  本作で描かれる、どうしても変わることができないろくでなしの老人は、北部の人々のイメージする、新しい時代に対応できず役に立たない「古い南部」そのものの姿の象徴であるように見える。対してニコラス・ケイジが演じるジョーは、基本的には善人として好意的に描かれる。彼は働き者であり情にも厚く、地域の老人などの面倒さえみる。たが反面、無闇にケンカをし道路交通法違反を繰り返し、何度も逮捕されている。そして、むしゃくしゃすると売春宿を利用する。過去、無実の罪で投獄されたという経験が、彼を自暴自棄な行動に駆り立てるのである。優しい素朴さと粗暴さを併せ持つジョーというキャラクターは、より現実的な「現在の南部」の実相を表しているといえるだろう。

ニコラス・ケイジが演じる、ジョーの「狂気」の理由

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 ポール・ニューマン主演の『暴力脱獄』という、南部を舞台にした映画がある。主人公・ルークは、軍人として数々の武勲を立ててきた国家の英雄でありながら、何故か街のパーキングメーターを故意に破壊し、投獄される。些細な罪だが、彼は刑務所の中でも、刑務官や先輩の囚人たちに媚びへつらうことなく、何度も何度も脱獄を試みる。ストーリーのなかでは、彼の不可解な行動の理由ははっきりと示されないが、作品内では直接描かれない、彼の戦争体験がその心理に影響しているだろうことは読み取れる。ルークの反抗的行動の意味は、おそらく、戦争という名目で自分に殺人をさせた国家、社会への反発である。刑務所長が支配する南部の刑務所という場所が、アメリカ政府と、利用され管理される国民を暗示しているのだ。  そのような構図は、本作におけるジョーの、何度も警察に逮捕されようとする自暴自棄な行動ともリンクしているように感じられる。ジョーを狂わせるものは、南北戦争後、世代を超えて背負わされてきた十字架であり、搾取され続けることを宿命づけられた、出口のない圧迫感であろう。階級や貧富の差によってがんじがらめになっている保守的な風土と、それを受け入れてしまう人々や自分への苛立ちが、ジョーの狂気の源泉なのである。それは、本作のニコラス・ケイジの狂気の演技に漂う、『リービング・ラスベガス』にも通じる悲劇的な印象を与える理由でもあるだろう。
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 確かに南部が、思想や経済的な面で、不当に傷つけられ、北部の企業などから搾取され続けてきたということは事実だろう。そのツケを、貧困者や弱者ばかりが支払い続けるというのも酷な話である。だが、その暴力性は、さらに南部の女性たちや子供たちなど、さらなる弱者に向けられていくことも、本作は描いている。この暴力の連鎖は、全ての人々がそれぞれの立場で断ち切る努力をするべきであろう。そして本作のジョーは、自分の中の毒を用いて木を枯らすように、暴力の連鎖、貧困の連鎖、悪徳の連鎖を断ち切ろうとする。それは、自分自身の贖罪でもある。  本作の脚本を読んだニコラス・ケイジは、すぐに出演のオファーを受けたという。南部の作家ラリー・ブラウンによって書かれた、原作に宿る優れた文学性は、ニコラスの演技者としての欲望に火をつけただろうことは、想像に難くない。本作の冒頭は、少年の父親の横顔を写したカットから始まる。その対となる最後のシーンは、同じような構図の、少年の横顔である。その類似は、南部の将来の不安を感じさせる。しかし、そこから移動するカメラが、正反対の意味を持つ情景を写すことで、新しい南部への希望を暗示する。その映画的な演出によって、本作は映画化作品としての存在理由を確かにしているといえるだろう。 ■小野寺系(k.onodera) 映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト
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■リリース情報 『グランド・ジョー』DVD 3月18日(金)リリース(TSUTAYA先行レンタル)) 監督:デヴィッド・ゴードン・グリーン 出演:ニコラス・ケイジ 、タイ・シェリダン、ゲイリー・プールター、ロニー・ジーン・ブレヴィンズ 発売元:カルチュア・パブリッシャーズ セル販売元:TCエンタテインメント (c)Joe Ransom, LLC 作品リンク

ニコラス・ケイジが『グランド・ジョー』で演じる、アメリカ南部の狂気

【リアルサウンドより】  目を血走らせ、異常なハイテンションの暴力的な演技をさせれば右に出る者がなく、また、下がった眉毛と子犬のような潤んだ瞳で母性本能をもくすぐる、相反する極端な二つの魅力を持つ稀有な俳優が、ニコラス・ケイジだ。  彼の代表作に、『リービング・ラスベガス』がある。ラスベガスで好きな酒を飲みまくって死んでいこうとする、仕事も家庭も失ったアルコール依存症の男の物語だ。ニコラス・ケイジの酩酊演技は、凄まじいリアリティと説得力を持ち、快楽と苦しみの狭間で破滅していく男の弱さと美しさを表現した。その儚い姿は、舞台となる虚飾に彩られたラスベガスという街に重なっていく。『リービング・ラスベガス』によって、アカデミー主演男優賞をはじめ、その年の主要な演技賞を軒並み獲得し、一躍、演技派俳優として名を馳せたニコラス・ケイジは、その後、意外にも多くのアクション映画や商業的な大作映画にも次々出演し、ハリウッドの顔になっていく。この過程で、彼の狂気の演技はコミカライズされていき、笑って楽しめる「狂気俳優」ニコラス・ケイジ像をも作り出した。  今回考察する『グランド・ジョー』は、『リービング・ラスベガス』を髣髴とさせる、ニコラス・ケイジがシリアスな狂気演技に回帰する作品のように見える。舞台となるのは、ラスベガスのようにきらびやかなイメージとは真逆の、秘境とも揶揄されるアメリカ深南部の貧困層の世界である。

告発されるアメリカ南部の「現実」

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 ミシシッピ川を舞台にした、マーク・トウェインの「トム・ソーヤーの冒険」が描いたような、川や沼地、森林に恵まれた自然豊かな土地が広がっているというのが、アメリカ南部の代表的なイメージだ。また、コカ・コーラやペプシコーラ、ルートビアなど、アメリカの有名な清涼飲料水の多くが南部発祥であるという事実は、それらを必要とした南部が、高い気温でじめじめとした気候であることを物語っている。  ノースリーブの上着を着て、じめじめとした南部の農村で森林の伐採業に従事し、現場で労働者を指導監督している、『グランド・ジョー』の主人公、ジョーは、いわゆる典型的な「レッドネック」と呼ばれる南部の肉体労働者である。本作におけるジョー自身や周囲の人々の生活の描写で驚かされるのは、南部貧困層が直面している困窮の深刻さだ。職場の男たちは、酒場や売春宿でストレスを発散しながら、なんとか日々をやり過ごしていく。小林多喜二の「蟹工船」で描かれたような雰囲気で、これがアメリカの現在の風景なのかと思わされる。もちろん、近年の政策によって悪化した、経済的な格差拡大が影響しているだろう。ここでは、南部の懐古的な美しい風景を切り取っている余裕はない。  実際に森林を伐採していくシーンでは、彼らが木そのものを切り倒すのではなく、木に切れ込みを入れて、背中に担いだポリタンクに入った、農薬などを混ぜ込んだ液体を切り口に染み込ませているだけだということが分かってくる。何故、木に毒を盛るのかというと、材木会社が伐採できるように、故意に木を枯らす必要があるというのだ。  毒で木を枯らしていくという違法的な伐採は、アメリカ南部・フロリダ州で行われていたことが2012年に発覚している。本作で描写されたように、マチェーテ(主にメキシコ以南で使われる農林業用の刀)で木を傷つけ、毒を注ぎ込み枯らしていくという、伐採従事者による違法伐採の手口の告白を、経済誌が取り上げスキャンダルになっているのだ。本作は、そのような南部の現状の告発にもなっている。ジョーら労働者は、企業に利用されていることを知りながら、ただ生きるために、マチェーテを振るい続けるのである。

擬似的な親子関係が映し出す「南部」のイメージ

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 ある日、アルコール依存症の年老いた父親を持つ少年が、ジョーの職場を訪れ、仕事をさせて欲しいと頼み込んでくる。飲んだくれの親父が全く働かず、病気の母や妹を助けるために金が必要なのだ。少年は真面目に働き、せっせと木に毒を盛り続ける。ジョーは少年の仕事振りを認め、父親と一緒にここで働けばいいと提案するが、これが間違っていた。少年の父親は、本作がこれによって映画史に刻まれてもおかしくない程の、ろくでなしだった。酒のためなら家族を殴り、犯罪すら厭わないが、真面目に働くことだけは絶対にしないのである。現場をフラフラと歩いているだけで何もせず、それを咎められると怒りだしてトラブルを起こし、ティーネイジャーの息子の信用すら失わせるという信じ難いほどの非人間性を発揮し、観客を驚かせる。だが、父親のひどさはとどまるところを知らず、さらにエスカレートしていくのだった。  もちろん、ここまでひどい家庭環境は珍しいかもしれないが、貧しい家庭の子供達が十分な教育を受けられず、さらに社会の格差が固定化されていくという状況は、アメリカや日本を含め、多くの国々の社会的な課題となっている。ジョーは、そんな父親を持つ少年にシンパシーを抱き、彼らの間には、擬似的な親子関係が結ばれてゆく。アルコール依存症の老人と、ジョー、そして少年は、親子三代の擬似的な家族のようにも見える。
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 南北戦争時、南軍は北部人を「ヤンキー」、北軍は南部人を「レッドネック」と呼び、互いに罵倒し合った。「レッドネック」は、南部の日差しを浴びて首周りが赤くなった白人の貧しい労働者を指す。奴隷制を擁護したという立場から、南軍は戦争後も多くの批難を浴び、映画を含め、多くの創作物でも批判され続けてきた。南部では奴隷解放後も、人種差別が続き、ベストセラーにもなった書籍を映画化した『ヘルプ 心がつなぐストーリー』では、南部でもとくに保守的なミシシッピ州において、60年代になっても、露骨な白人、黒人間の、違法な隔離的差別があったことを告発している。また、1940年の映画『スワンプ・ウォーター』では、無実の罪を負った男が、ジョージア州の町の人々による人間狩りから逃れ、広大な湿原地帯で原始生活をするという、驚愕の物語であった。南部は文化が遅れた「未開の地」として、北部の州の人々から、ときに恐れられ、また嘲りの対象にもなってきた。  本作で描かれる、どうしても変わることができないろくでなしの老人は、北部の人々のイメージする、新しい時代に対応できず役に立たない「古い南部」そのものの姿の象徴であるように見える。対してニコラス・ケイジが演じるジョーは、基本的には善人として好意的に描かれる。彼は働き者であり情にも厚く、地域の老人などの面倒さえみる。たが反面、無闇にケンカをし道路交通法違反を繰り返し、何度も逮捕されている。そして、むしゃくしゃすると売春宿を利用する。過去、無実の罪で投獄されたという経験が、彼を自暴自棄な行動に駆り立てるのである。優しい素朴さと粗暴さを併せ持つジョーというキャラクターは、より現実的な「現在の南部」の実相を表しているといえるだろう。

ニコラス・ケイジが演じる、ジョーの「狂気」の理由

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 ポール・ニューマン主演の『暴力脱獄』という、南部を舞台にした映画がある。主人公・ルークは、軍人として数々の武勲を立ててきた国家の英雄でありながら、何故か街のパーキングメーターを故意に破壊し、投獄される。些細な罪だが、彼は刑務所の中でも、刑務官や先輩の囚人たちに媚びへつらうことなく、何度も何度も脱獄を試みる。ストーリーのなかでは、彼の不可解な行動の理由ははっきりと示されないが、作品内では直接描かれない、彼の戦争体験がその心理に影響しているだろうことは読み取れる。ルークの反抗的行動の意味は、おそらく、戦争という名目で自分に殺人をさせた国家、社会への反発である。刑務所長が支配する南部の刑務所という場所が、アメリカ政府と、利用され管理される国民を暗示しているのだ。  そのような構図は、本作におけるジョーの、何度も警察に逮捕されようとする自暴自棄な行動ともリンクしているように感じられる。ジョーを狂わせるものは、南北戦争後、世代を超えて背負わされてきた十字架であり、搾取され続けることを宿命づけられた、出口のない圧迫感であろう。階級や貧富の差によってがんじがらめになっている保守的な風土と、それを受け入れてしまう人々や自分への苛立ちが、ジョーの狂気の源泉なのである。それは、本作のニコラス・ケイジの狂気の演技に漂う、『リービング・ラスベガス』にも通じる悲劇的な印象を与える理由でもあるだろう。
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 確かに南部が、思想や経済的な面で、不当に傷つけられ、北部の企業などから搾取され続けてきたということは事実だろう。そのツケを、貧困者や弱者ばかりが支払い続けるというのも酷な話である。だが、その暴力性は、さらに南部の女性たちや子供たちなど、さらなる弱者に向けられていくことも、本作は描いている。この暴力の連鎖は、全ての人々がそれぞれの立場で断ち切る努力をするべきであろう。そして本作のジョーは、自分の中の毒を用いて木を枯らすように、暴力の連鎖、貧困の連鎖、悪徳の連鎖を断ち切ろうとする。それは、自分自身の贖罪でもある。  本作の脚本を読んだニコラス・ケイジは、すぐに出演のオファーを受けたという。南部の作家ラリー・ブラウンによって書かれた、原作に宿る優れた文学性は、ニコラスの演技者としての欲望に火をつけただろうことは、想像に難くない。本作の冒頭は、少年の父親の横顔を写したカットから始まる。その対となる最後のシーンは、同じような構図の、少年の横顔である。その類似は、南部の将来の不安を感じさせる。しかし、そこから移動するカメラが、正反対の意味を持つ情景を写すことで、新しい南部への希望を暗示する。その映画的な演出によって、本作は映画化作品としての存在理由を確かにしているといえるだろう。 ■小野寺系(k.onodera) 映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト
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■リリース情報 『グランド・ジョー』DVD 3月18日(金)リリース(TSUTAYA先行レンタル)) 監督:デヴィッド・ゴードン・グリーン 出演:ニコラス・ケイジ 、タイ・シェリダン、ゲイリー・プールター、ロニー・ジーン・ブレヴィンズ 発売元:カルチュア・パブリッシャーズ セル販売元:TCエンタテインメント (c)Joe Ransom, LLC 作品リンク

野球賭博よりヤバいのはテニス!? 八百長にシャラポワ薬物

 テニス界の“妖精”と呼ばれるマリア・シャラポワが、1月後半に行われたテニス・全豪オープン期間中のドーピング検査で「禁止薬物検出」を発表し、当面の公式戦出場停止処分を受けた事件は世界に衝撃を与えた。  シャラポワが陽性反応となった禁止薬物「メルドニウム」は不整脈治療などに用いられるそうだが、スポーツに関しては競技力向上などが認められるため、今年から世界反ドーピング機関(WADA)により禁止薬物に指定されていた。ロシアでは以前からスポーツ選手が使用した例があり、中には五輪の金メダリストもいるのだとか。シャラポワは会見で、自身の関係者ふくめ「禁止薬物だと知らなかった」と語ったが、多くの世話役全員がメルドニウムを知らなかったという発言に疑問を呈する声もある。  テニスのみならず、世界中のスポーツ関係者から疑いの眼差しを向けられることとなってしまったロシア。ドーピングは使用者の力を一気に向上させることで競技の公平性を失わせるだけでなく、ホルモン異常などをふくむ後の肉体的、精神的問題を引き起こす危険性があるため、世界的に厳しく取り締まるのは当然。  絶大な人気をほこるシャラポワがからんだ今回の事件。今年1月に持ち上がった“疑惑”と合わせ、テニス界の打撃は計り知れないものがあるだろう。  その疑惑とは、テニス界の“八百長”疑惑問題である。発端は、イギリスBBCとインターネットのニュースサイト「バズフィード」が報じた「過去10年、世界ランク50位以内に入ったことがある16人の選手が、意図的に負けた疑いがある」というもの。日本では今、プロ野球・読売巨人軍の「野球賭博」が話題をさらい、野球界の腐敗が叫ばれているが、テニスにかけられた疑惑はそれをはるかに超える深刻さだ。  巨人の場合は、選手が野球の試合を対象に禁止される賭博に手を染めたことが責められているが、テニスの場合、公式戦で選手と八百長をもちかける人物との間に金銭授受が発生し「わざと負ける」というようなもの。真剣勝負であるはずの試合結果が「コントロール」されるという点で、野球賭博問題とは本質が異なり、より問題視されるべき事象といえる。  日本のプロ野球との相違点として、テニスは現在、すでに多くの国で公式な「賭け」の対象となっている。テニス界自体も試合でのギャンブルを否定しているわけではなく、かつては合法のブックメーカーが会場内にあったり、現在でもオンラインギャンブルの会社が大会スポンサーに入っていたりもする。そんな中だからこそ八百長も起こりやすいのかもしれないが、一部の人間に試合の流れをコントロールされ、ギャンブルの公平性が失われてしまうのはやはり見逃せない問題だ。 「選手が八百長を断ればいい」という意見がごもっともではあるが、テニスの八百長に関し証言した元選手によれば、プロ選手約1万4000人のうち45%はテニスから得ている収入がゼロとのこと。その中でトーナメントを勝ち上がるよりも高額の報酬を渡すという「八百長斡旋」の話を聞いてしまうのだとか。1大会の優勝賞金よりも提示額が大きい場合もあるというのだから驚きだ。それが、上位選手も何人かが八百長に加担した要因か。  テニス界もそんな現状を知りつつ、トーナメント1、2回戦どまりの選手への競技報酬を増額しない意図もあって、八百長撲滅には消極的だとその元選手は語った。テニス界にとってはもはや“必要悪”とでもいうのだろうか。  錦織圭の登場で、日本人視聴者にとって非常に身近になったプロテニス。そんな中でこのような「爆弾」が2つも一気に投下されるとは残念だ。巨額が動くプロスポーツ界には、こういった「間違ったギャンブル」がどうしてもついて回るということなのか。

“ビリギャル”石川恋の“特大”横乳の破壊力が凄すぎると話題に! 吉田羊の有村架純“緊縛”画像には「羨ましい!」の声

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「石川恋オフィシャルブログ」より。
 4日、モデルの石川恋が自身のブログに、「LOVE LETTERSのポスターの前で同じポーズ」と、先月29日に発売された1st写真集『LOVE LETTERS』(集英社)の表紙画像を特大に引き伸ばしたポスターの前で、同じポーズで撮った画像を投稿。これにはファンから「そのポスター欲しい!」「おっぱいも特大になってるね!」など、興奮の声が上がった。 「去年公開された映画『映画 ビリギャル』の原作本の表紙を飾ったことで、一気に知名度を上げた石川ですが、初となる今回の写真集の表紙では、何も着ていない状態で膝を抱えて座っている姿を披露。その豊満な横乳には、『破壊力満点!』『柔らかそう!』など、興奮の声が上がっているようです。また、写真集発売に伴い、各週刊誌や漫画誌の表紙を飾ったのですが、4日に発売された『ヤングアニマル』(白泉社)には、“お風呂ポスター”の付録がついていることから、『恋ちゃんに裸を見られているみたいで興奮する』『ポスターと一緒に湯船に浸かっている』など、ファンからは反響が大きいようです」(芸能関係者) “ビリギャル”効果で飛躍したのは石川だけではない。映画に主演した有村架純、そして有村の母親役を演じた吉田羊も、映画の大ヒットによって恩恵を受けた。 「『映画 ビリギャル』は、映画関係者の予想を大きく上回る、興行収入25億円超えの大ヒットを記録し話題となったのですが、映画賞レースでも主演の有村、助演の吉田、伊藤淳史が奮闘。4日に行われた『第39回日本アカデミー賞』では、それぞれが優秀賞を受賞し、有村は新人俳優賞も受賞。特に、有村と吉田の母娘役に関しては『本当の母娘みたい』と、評価が高いのですが、プライベートでも母娘のように仲が良いようで、最優秀助演女優賞発表の直前、吉田がインタビューを受けた際には、有村のことが可愛すぎて、有村の両腕を紐で縛り、『逮捕した』時の画像が公開され、会場からは笑いが、ネット上では『羊さんに縛ってもらえるなんて羨ましい!』『架純ちゃんの従順な感じが可愛すぎる』など、興奮の声が上がっていたようです」(同)  吉田は、去年のクリスマスイブ、自身のブログに「人智を超えていると思うの。この子の可愛さ。」と、有村とのツーショット画像付きで投稿したのだが、ネット上では「40歳過ぎてその美貌を保つ吉田羊も、十分に人智を超えていると思う」と指摘する声が上がっていた。

フジ番組審議会で林真理子が月9『いつ恋』めぐり暴言! 介護職という設定に「あの容姿ならもっとラクな仕事ある」

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フジテレビ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』番組サイトより
【本と雑誌のニュースサイトリテラより】  有村架純、高良健吾主演のフジテレビ月9ドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』。現在、平均視聴率は9%台と振るわず、くわえて有村が介護職、高良が引っ越し業と、それぞれ厳しい労働環境のなかで苦しい生活を強いられていることもあって、「暗すぎる月9」と呼ばれている。  そんななか、この『いつ恋』が議題となった2月のフジテレビ番組審議会で、さる“有識者”からこんな声があがった。 「ちょっと職場が過酷すぎて、いくらなんでも看護師の職場、あれだったら訴えられるんじゃないかというくらい。ブラック企業そのままのあの引っ越し屋さんも変」  こう発言したのは、フジの番組審議委員である作家の林真理子。しかも驚くべきことに、林はつづけて、こんな言葉で苦言を呈したのだ。 「これだけ二人とも素晴らしい容姿をしていたら、ガールズバーへ行くとか、ショップの販売をするとか、いくらでも楽な労働があるだろうと思ってしまう」  有村や高良レベルの美人・イケメンなら、介護や運送業に就かずに水商売とか販売とか、“楽な仕事”をやればいいのに──。職業差別や仕事への貴賤意識が滲み出すぎていて、正直ドン引きを禁じ得ない発言である。  まず、林の指摘と同様に、介護施設で契約社員として働く主人公の劣悪な労働環境の描き方に対しては、公益社団法人日本介護福祉士会が「影響の大きさも考えて頂きたい」という意見書をフジに提出。だが、視聴者のあいだからは「これが介護現場の実態」という声も大きい。ドラマでは規則外勤務を平気で強いられたり、契約社員が使い捨てられたり、時給がまったく上がらないなどの描写が出てくるが、いずれも実際の介護施設で日常的に頻発している問題。「職場が過酷すぎて」と林は言うが、これが日本の現実なのだ。  しかも、きちんとドラマを視聴していたならわかると思うが、有村演じる主人公は介護の仕事に使命感や責任感、充実感をもっている。「楽な仕事はたくさんあるのに」という意見こそ、世間に蔓延る介護職に対する偏見そのものではないか。  さらに、ここで林が同時に露呈している“かわいいなら水商売で楽に稼げるのに”というのは、悪質なオヤジ意識だ。容姿端麗なら男に寄生し、人並み以下なら過酷な労働も致し方ないとでも林は考えているのだろうが、それは男社会の論理、女を容姿で分断する思考でしかない。そもそも林は女が女に抱くミソジニーを描かせたら右に出る者はいない作家だが、その女・女間のミソジニー自体も男社会が生み出し、温存させつづけている価値観だ。つまり、いつまで経っても林は男性側の意識から離れられずにいるから、このような暴言が吐けるのだろう。  だが、皮肉にも、林のこうした男社会的な価値観によっていかに女性が生きづらさを抱えているかという点をも、『いつ恋』は描いている。主人公は1話目から、美人ゆえに資産家から結婚を申し込まれ、貧窮した養父に一方的に結婚させられそうになるし、田舎から東京に上京してきた別の女子は、めぐまれた容姿と若さは対価を得られる価値であることを知る一方、危うい目に遭ったりする。つまり林の“かわいいなら介護などせず水商売で楽に稼げるのに”というような差別観を、『いつ恋』はすでに批判的なかたちで物語のなかに組み込んでいるのだ。  さらに脚本を手がける坂元裕二は、過酷すぎる労働環境や働けども賃金が上がらない状況のみならず、現状のおかしさを訴えても「対案を出せ」「すべては自己責任」だと問題を押し付ける社会の歪みをも描いている。この社会を覆っている生きづらさ、それを克明に描かずしていま現在の恋愛は描けない……『いつ恋』からはそんな坂元の覚悟が感じられるが、そうした創作における現実との誠実な向き合い方が、作家であるのに林にはどうやら伝わらないらしい。  こうした番組意図も理解できない人物が番組審議会のメンバーであり、平然と差別意識を開陳させて疑義を呈する……。議論のレベルの低さには閉口してしまうが、しかし、番組審議会には、もっと深刻な問題がある。それは権力に迎合する場になっているという問題だ。  テレビ朝日の放送番組審議会では、委員長を見城徹・幻冬舎社長が務めているが、見城氏といえば安倍首相とは公邸で“組閣ごっこ”写真を一緒に撮るほどの昵懇の仲で、早河洋・テレ朝会長と安倍首相をつなげたのも見城氏だ。昨年の『報道ステーション』をめぐる古賀茂明氏の更迭問題にしても、見城氏のパイプによって安倍首相と関係を深めた早河会長が『報ステ』の政権・原発批判路線からの転換を迫っていたなかで起こった問題だった。しかも見城氏は、昨年2月、この番組審議会の席で“『報ステ』は政権擁護もするべき”との発言を行ったと「週刊ポスト」(小学館)は報道している。  そもそも放送番組審議会とは、放送法第6条で「放送番組の適正を図る」ため、放送事業者に設置を義務づけられているものだ。権力の介入を許さない放送法の理念から考えれば、放送番組審議会こそ“政治的公平”が求められ、本来なら放送が権力の言いなりになっていないかどうか、放送番組審議会が厳しく内容をチェックするべき場である。とくに放送法を政権が曲解して、政治的介入を進める現在は、放送番組審議会が自由な報道・番組づくりを行えているかを局や制作者に問わなければならない。しかし現状はまったく違い、権力におもねる人物が委員長という座におさまり、フジでも熱烈な安倍首相応援団の一員である八木秀次・麗澤大学教授が委員を務めている。  あからさまな権力側の人間を重用し、本来あるべき機能も果たさず、権力擁護や差別発言が飛び交う。しかもキー局5社は、この番組審議会の模様を自局の自己検証番組内で少し放送するだけで、HPにのせる議事録では都合の悪い発言をカットし、発言者の明記も行っていない(NHKも発言者は明記せず)。こんな体たらくでは、テレビはもっと悪化していく一方だと思わざるを得ないが……。 (水井多賀子)